泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

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●井上角五郎の朝鮮視察

イメージ 2明治15年(1882)12月、福澤諭吉の指示によって朝鮮政府顧問アドバイザーとして派遣された牛場卓蔵高橋正信に井上も同行。朝鮮の一般庶民の意識改革の為、識字率を上げる必要を感じていた福澤は、井上らに「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠」と訓示した。


↑ 井上角五郎 (中部電力初代社長・井上五郎の父)



明治1911月京城から釜山に向けて出発した。 
出発準備は整っていたが直ぐに出発できない事情があったのだ。それは朝鮮では人が伝染病で死亡した時には、屍を山野の木の枝に載せたままで、数年を経過する風習がある。昨年コレラが流行した為に生々しい屍が、今もなお山野に累々としていて旅行に適していないからと秋冷の候を待たねばならなかった。

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1118日午前6時、いよいよ京城から出立した。我等の一行は予て召し使っていた李花春と李伯元と馭者の韓致那とを伴い衣服、用具、食糧に加えて、他に従者用、保護兵士用の荷物や馬丁や兵士等で総勢20人ばかりで南大門を出た。見送りの人がはなはだ多く約三里の果川県に着いて見送りの人と最後の宴を張った。

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               朝鮮の接待
 
京城を出て以来、旅中はさほどの困難は無かったが、その不便な事といえば尋常ではなかった。
第一に宿屋が少ないことである。馬はたいてい屋外に繋ぎ、馬の食料も得難いので豆、麦などを載せて行くのを常とした。各地共に寝室は6尺四方の部屋(約2畳)が二部屋あるのを上等として、ほとんど一部屋のみである。天井は低く入口は幅3尺(約90㎝)が一つで、窓も無く障子も無く藁ぶき屋根で壁も粗塗り汚くて、ここへ数人一緒に入って傍らに荷物を置くので寝るだけでも窮屈である。
第二に食事の不便は実に尋常でない。大体食事は飯一膳に漬物一皿に小魚がある。又はその上に汁一椀と醤油少々を添えるものだが、何にせよ全てに臭気が有って嗅ぎなれても中々喰う気になれない。仕方ないから飯だけは喰うのである。当地の飯は大豆や小豆を加えて炊くのを例としていて、これほど食事が悪いとは想像もしていなかった。
第三には、日常生活が実に不潔な事である。沐浴は一切出来ず、衣服も日々の垢で汚れ、至る処の宿屋に必ずシラミが居て身体にとりつき、たまたま新しい衣服に着換えても痒くてたまらない。
またビンガイという南京虫がいてこれが酷く刺す。室内はオンドルのため暖かいから厳冬でも死滅しない。殊に蠅は弱くて常時の食物に混じったり、足で踏みつぶしたり頭髪に取り付いたりして、その不潔な事、見るに堪えない。

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次に大小便所の備えが無いのは困った事で、家の傍か田畑の中で用を足すのであるが、朝鮮の風俗として人に見られるのも憚らない。且つ物見高い朝鮮人、余輩の如き外国人は珍しいので大小便する周囲に立ち並んで見物する事、甚だ不都合千万である。
以上のことは烈風と風雪を冒して、しかも粗悪な険悪な道路を毎日56里(24km)づつ旅しながら私等が釜山に到着するまで、どこでも同様であった。
 
然も身の周り常に危険を免れなかったにも拘わらず、至る処で地勢、気候、施政の状況、人民の生活状態、人情風俗、伝説等に至るまで詳細に記録し、特に経済状態と徴税の実際については精密に調査して後日国王に報告した。


常に朝鮮の徴税の方法は乱脈を極め、地方によって高低があり、地方官幣に登録されている人民の戸口は常に実際より少なく報告して、その幽霊人民の税は徒に地方官吏の私服を肥やすことになっていた。


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             両班・・地方官吏

裁判にも私情による歪曲が多く、刑罰は残酷を極め両班どもの他、富豪地主の専横が甚だしく、更にコレラの流行あり、盗賊の横行あり、南部では虎の害、未だに絶えず最近3年間に噛み殺された者が30人もあるという地方もあった。
53才になる宿の主人が私に語って曰く「諸物価は78倍の高値となり、戸数も増えもせず減りもせず、ただ一両年の凶作に加え今年のコレラの流行で空き家が増え、家族が死んでも葬ることが出来ない。政府の租税は以前と変わらないが、地方官吏が種々に口実を設けて徴収し、凡そ5割方増やされた。その理由はこの地より京城に貢米を運送する費用と云い、その途中で舟が難破したので再収するという。土民はその誅求に耐えられない。その上、今年京城で大溝を開設するので、就役税と称して各戸に1文銭7銭づつを課せられた」との事。


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               農家の庭先
 
私が旅した朝鮮の地方は、李氏朝鮮となってから常に圧政を受けたので、土地は荒廃し人民は怠惰となっているけれども、気候と地味とは我が九州、中国地方に似て灌漑、交通の利便を開拓し、農業の方法を改善するに至れば、処々に開拓すべき原野も甚だ多く、生産や現在の住民を2倍、3倍にすることも出来そうで、却って余裕を感ずることができる。私は我が国の食料問題、人口問題を考慮しても、必ず日本人の手で開拓出来るよう協力すべきと考えるものである。


●ホーマー・ハルバートの「朝鮮亡滅」より

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↑ ホーマー・ハルバート

 1886~91年に朝鮮で布教したアメリカ人宣教師の「朝鮮亡滅」より



 朝鮮人は本当に怒ると正気を失ってしまう。

 自分の生命すら見えないような状態になり、牙のある動物になってしまう。 口の周りに泡が溜まり、更に獣のような表情になる。
 悲しい事だが、この怒りの衝動で理性を忘れる悪弊は、男だけではない。女は立ち上がって酷い大声で喚くので、最後には喉から声が出なくなり、次には強烈に嘔吐する。正に半狂乱のざまだ。
 精神錯乱になった女を見る度に「どうして脳卒中で倒れなかったのだろうか?」と
私は思う


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 朝鮮人は子供の時から、自分の気持ちを制御する術を学ぶ事がないらしい。子供も親を見習って、自分の気に入らない事があると、狂人のように大暴れする。
 結局、欲望を達成するか、あるいは長時間の後、鎮静に戻るか、そのどちらかに落ち着く。
 後に火病という朝鮮にしか存在しない精神病が同じ症状だといわれている。


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16時間16時間前

教科書などでは「満州国」の表記が一般的だが、あれは何故かというと「洲」という文字が常用漢字じゃないからなんだ。だから同じ読みで形の似た「州」で代用してるってわけ。

「満洲時報」4月号
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溥君とあるのは愛新覚羅溥儀・溥傑の子孫らしい・・16歳とのこと

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3月8日
溥君総統、秘書長達はダライ・ラマ法王日本代表部に表敬訪問し、ルントック代表と意見交換した。(茶色が溥君総統か)


「満洲時報」3月号
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  「満洲時報」3月号(中国語)
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「満洲時報」2月号
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「満洲時報」1月号
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 日韓併合前の朝鮮で、諸外国人が見た朝鮮人の生活を見聞して書き残している内容です。 その鋭い観察力は現代を生きる朝鮮人を見ても、根本は相通ずるものが有るように感じてなりません。


●「韓国事情」 マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教
「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である。朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている」両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。

その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。
 なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、今だかつて無いからである。
 彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。

しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。

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                両 班
 


●「新井白石の朝鮮観」(江戸中期の儒学者・政治家16571725)

  上垣外憲一(1989年)
 日本を訪問してくる朝鮮通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀を唱えているが、朝鮮の文献を読んでみると、「敵情探索」を目的としており、これは恩義を忘れたものである。

大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、濊貊之俗、天性固然」(朝鮮人は狡猾で偽りが多く、利のあるときには信義を顧みない。濊や貊と呼ばれた野蛮人民族(朝鮮北東部にいた古代民族)天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
新井白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の知識人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。


●「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳)
(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き(165366年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた)

 朝鮮人の誠実、不誠実および性格について語っている。
 彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、騙したりする強い傾向があります。彼等を絶対信用してはなりません。

 


奴婢『ソウル城下に漢江は流れる・朝鮮風俗史夜話』(林鍾国)
その中の「人間家畜の奴婢制度」という章の一節。
 奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
 かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
 それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。
奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。
 外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。
 局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に、奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。


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●「新・韓国風土記 第1巻」ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。
更にそうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。
常民階級が徳目に背を向け したがって彼らは、ほんの僅かでも己の利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。
大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵ったり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。
そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。
 
 
●ノース・チャイナ・ヘラルド紙の記事 190555日号 
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。また、この半島ほどなんの理由もなく騙したり、騙されたりすることが広く行なわれている国もない。そして、今の朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。
その上、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れてしまい、これに気付かなくなっており、他人の欠点ばかりが見えているのだ。 (エッソン・サード記者)

 
●「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年(スエーデン人)
学者である両班は礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことには全て答えられなければならない訳ですが、ただ、わざと騙そうとするのではないが、その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたら全く驚くべき事です。
自分が正しい道理が殆んど無いにもかかわらず、悪びれる様子が全くないのだ。
もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は言動を守り抜くために必死の努力をするのです。
なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身が納得するまでは、決して投げ出したりはしません。

将来性がなく、中国人以上に酷い民族である。1000年前に眠った場所に留まり続けている。
 更に良くないのは、その眠りから覚めようとしない事だ。韓国人は独立が嫌なのだ。できれば他者に依存して責任回避をしたいのだ。
 彼らの望むことは、何の心配もなく平和に暮らす事だけだ。「独立」と言う言葉は、彼らにとって恐怖を意味し、不信や無法と同じである。


 

●「朝鮮の悲劇」 フレデリック.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳
韓国人は、遺伝としきたりによって、その殆んどは大げさな物言いをする人間か、厚顔無恥の嘘つきかである。それで日本人の非行についての彼らの供述は、検証なしにこれを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用)


「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 

【佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)】
 誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。

 なぜ「原コリアン」かというと、彼は卒直に自分の感情を表明する。
そして、自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる。 
次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまうのだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。


「韓国事情」 フランス人宣教師 シャルル・ダレ
1871 年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が半島を襲い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨めたらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。だがそんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。

韓国人は怯えながら生きる生活を続けていたので、感情の安定を失った民族になった。
 おそらく韓国人は世界一怒る事を好む民族だろう。怒る事が不安や焦燥感を解決するのだ。代償行為になるし、自尊心を守る手段にもなる。
 その自尊心も、虚飾によって作られた自尊心である。だから、ちょっと<触れただけで傷つき、怒りの感情が爆発する。

イメージ 9『最近朝鮮事情』とは、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。1906(明治39年/日露戦争直後)に清水書店から刊行された。20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚ない筆致で描かれており、当時を伝える貴重な資料となっている。
← 衆議院議員 荒川五郎



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 この朝鮮では、事業を含めて日本人が手伝うべき仕事が限りなく多いのみでなく、将来隣国としての関係は非常に大切で、特にこの半島ではまだまだ改善、開発できる事が多過ぎることを知らなくてはならない、朝鮮の実情を誰にも理解できるよう紹介するべく、政治、経済、産業、人文に至って、日露戦争終了後の明治38年(1905)に朝鮮を視察、繊細に見聞し観察した内容を「最近朝鮮事情」としてまとめたものです。

河川と耕地・・朝鮮の河川はまだ治水という概念がないらしい。
 全国一帯に河は多いが洪水に成れば流れに任すばかりで田畑も流失、少し手を入れて堤防でも造れば水流が定まって立派な農地ができ、安心して稲や麦が作れるところでもなす術も無く放置している。朝鮮では三豊一凶という言葉が有り3年に一度は田畑が洪水に流されるものだと諦めている。
 朝鮮100年の経営を思えば姑息な考えをせずに、まず堤防を造り河流を固定し、運輸の便利を十分にして農民が安心して作物を作れるようにするべきだ。

●山麓・・朝鮮の山という山は殆んど禿山で、朝鮮には山が無いと云っても過言ではない。
 朝鮮の山には虎が多かったから、人の安全を害するのみか入山することが出来ず、山裾から木を伐り払って薪にして被害を除いたのである。伐採しては炊飯の燃料に焚き、如何に禿げようが植林など考えず我先に薪用に切り取って顧みなかったから、現在の様に哀れな姿となったのだ。
 朝鮮人はまだその知識が無いに等しいが、大雨があると禿山では水源が保てず川水はすぐに氾濫して田畑を害することになるのが理解できないのだ。

●首府京城・・京城の城門は東西南北に4大門があり他に4小門があり、最も大きいのが大南門である。 どの府城でも石を築き揚げて高い郭壁を築き、外からよじ登ることは出来ない。
 城内は大方人家で充たされ市街となっているが、城外でも便利なところは大きな市街を作っている。南大門の外では京釜鉄道の大停車場が出来てから一層賑やかになった。
 京城は朝鮮の首府で漢城と云い北には北漢山、鷹峰が聳え、西北に仁王山、東に駱駝山が連なり、また南には南山の外を漢江の長流が巡っている。この四方の山にかけて高さ10尺(33m)から20尺の城壁を築きその周囲5里(約20km)ばかり、城内の広さは東西30余町、南北20町もあって戸数は4万5千戸、人口203千人、李朝500年代々の国王が住まわれた三王宮もこの城内に在る。京城の地勢は我が京都に似ていて市街を5区に分けている。
 街路はいたって平坦で、殊に景福宮の前から慶運宮のあった貞洞の辺や東大門から西大門に通ずる本街路と、南大門から鐘路に至る道路は道幅何れも10間~20間もあるが、その他の小路になると極めて狭く、市中に便所やゴミ捨て場の設備が無いから、糞尿だらけで非常に不潔、気持ち悪くなる処が非常に多い。
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                京城・鐘路通り

 市街には人力車も所々に客待ちしているが、米人の事業している電気鉄道も有り便利だ。本社は鐘路にあって明治32年(1899)の開業で、電車は東京より京城が早く開けた。
 京城には特に外国人のための居留地域と云うものは無くて、域内至る処でも自由に雑居できる。
 この雑居制は支那のやり方で、もともと朝鮮を属国扱いしておりその名残である。
 条約国は朝鮮に行使を置いて居るにも拘わらず、支那は行使も置かず欽差大臣というような名義だったのである。
 京城の井戸水は殆んど不良で塩気を含み飲料に適していなく、良質な井戸は23ケしか無いが現地の人々は殆んど頓着していない。
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              井戸と水汲み夫


●朝鮮の王宮・・朝鮮の王様は立派な美しい御殿が在り乍ら、それを放棄して手軽な新王宮にお住まいになり、大宮殿は庭など荒れ果て、瓦ぶきの屋根上にまで長い雑草が生え、御殿中には鳥の糞などで汚れ放題、それは酷い有様であるのはどう申したらよいだろうか。
 京城には景運宮、景福宮、昌徳宮と王宮が三つあるが、その正門、今は硬く閉ざされ警番の役人も居ない。その横の通用門らしいのを入ると門警の役人が名刺を取り次いで詰所に至り、帯剣いかめしくやってきて案内してくれた。
 景福宮の立派で宏大な建物も今は瓦がずれ落ちたところがあり、壁は落ち雨漏りなどでいやはや荒廃極まっている。
 国王御座の間を錦福軒と称えて周辺の壁面の装飾等も、荒廃の中にも昔の名残を見ることは出来るが、悲しい事に朝鮮には古社寺院保存法どころか古宮殿保存の技術伝承も無いらしい。
 宮殿は、どれも荒れていて見る影もない。
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 朝鮮歴代王の神位を祀った「宗廟」も保善のため日本の技術で改修された
      今でも外郭石垣に残る「昭和8年3月改築」の文字

●古都平壌・・朝鮮で最も古い城府であり、今も5千ばかりの家と3万ほどの人が居て京城に次ぐ大都会である。日清戦争には支那の葉士超らの軍が占拠していたのを、野津将軍ら広島師団が包囲して攻め落とした地である。
 平壌第一の名物は美人で、京城の宮中に勢力の有る官妓は殆んど平壌から出るので、官妓養成学校まで在るのは奇態ではないか。
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          大同江に臨む平壌妓生学校の麗観


●朝鮮の政治・・朝鮮政府の官制は唐や明の制を斟酌折衷したもので、専制政治としては、やや発達した組織で宮中も府中も二重組織となり宮中にあるのは中枢院と承政院とで、中枢院は諮詢の府で、承政院は国王の命を伝え行う部署である。組織はこうであるが王権は振るわず規律は乱れているのであるから、只表面の組織が良いのみで内面は全く秩序も無く、国を外国に開いてからは外務省に当たる外衙門(がいがもん)を置き、次いで内務省に当たる内務衙門も、空名となるありさまで何が何やら判らないのである。 法典でも六典条例や大典会通という成文律があって、これを誠実に実行したなら、世運の進歩に伴って文明の政治に進むことが出来るのに、国王の意のままに無規律の政治を行い、国王の一言が法典という有様で、この成文律は全く死文となっている。
 ことに王言、即ち法典と云ってもその実、奸細の徒が賄賂を以て国王の歓心を買うなどするので、真実は王言もその精神ではないのである。
 こういう実情だから根本的に政務の組織を改める他にないと言える。 ところが中央政府が腐敗するものだから、地方官はただ人民の膏血を絞る道具となり賄賂贅沢が大いに行われ、官職は公然と売買される有様で、その幣害を受ける人民こそ天に向かって号泣するほか訴える道も無く、哀れな有様に陥っているのだ。
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京城・幅をきかす両班の男性(1903年)

●朝鮮の教育・・日本での維新前の寺子屋教育を見たような有様だ。
 朝鮮では新式の教育が開けてないだけ骨折り甲斐がある。各居留地とも日本の師範学校卒業生を採用する方針をとっているし、日本の教育家が身を捧げて朝鮮子息の教育に務め、朝鮮を開発して日本の経営に資する努力が為されている。

●朝鮮の人々・・容貌は日本人と殆んど変わりがない。
 よく見ると、どことなくボンヤリした所があって、口を開け眼がどんよりして何かが足らぬ様な表情をしているが、日本語も早く覚え一通りの事務も出来るが、ただ面倒な勘定や難題に出くわすととても耐えられない様子だ。
 雨の日や寒い日は自分の仕事はせず、終日家の中で遊惰にふけり雑談して、人としての責任、勤労、時間の大切さなど全く観念が無い。
 だから傘などの雨具は殆んど用意が無く発達もしていない。
 朝鮮人を雨の日に働かそうとすれば、雨の関係を極めねばならない。雨が降っても田畑や道路が水没しないよう治水、河川の改修をして、彼らの柔惰さ、無気力さを改善してゆく必要がある。
 女性の顔は何処となく無頓着な性格に見えて、衛生だの病気に付いて無頓着千万だ。
 悪く言えば人間と云うより獣類に近いと云ってもよい。歩くときも目的を持って歩くのでなく、牛が道草を食いながら歩くに似て、牛に近いと云いたい。
 朝鮮人の不潔さはヒドイもので、てんで清潔とか衛生とかの考えが無いから、如何に不潔な家でも場所でも一向に平気で、濁った水でも小便や大便のある周辺の水でも、頓着せずにこれを飲む。実に味噌も糞も一緒の様相だ。 更に驚くべき信じがたきことは、小便で顔を洗うと肌がキメが細かくなると信じており、小便は腎虚や肺結核や解熱に有効だと云ってこれを用い、強壮剤だと云って健康な者でも飲んでいる。
 夏など穴の様な家の中は蒸し暑いので、大方は屋外に露宿しているが、その枕元には糞や小便が流れており、悪臭ぷんぷんとして鼻をついても彼等は何も感じないらしい。また小便壺は室内に置いてあって大人、子供関係なく客の前であろうが誰であっても平気で小便をし、便器に口を寄せて唾を吐きこむのが慣習のようだ。見るからにたまったもので無い。
 朝鮮人は概して勤勉貯蓄の思想が極めて乏しい。一見したところでは仕事をする者は居ないと思われるほど、長いキセルを持ってぶらりぶらりしている姿を至る所で見るのだ。


●朝鮮の家屋、家庭・・朝鮮で家を建てるのは至って造作も無いことであるから、一般に大工左官の職人を頼むことも無く、大抵は隣近所寄り合って建ててしまうので、低くて汚くて僅かに雨や風を凌ぐに足るくらいのものだ。その四方を土や石瓦で塞ぎ、且つ稲藁の屋根も低い有様は全く防寒的で、家と云うものは寒ささえ凌げばよいと思っているらしい。
 一般の家は荒壁のままで、天井も無くクモの巣だらけ、蠅だらけ、ビンデーという南京虫も沢山いて、他にも虫が這いまわっており、所かまわず唾や痰を吐き何ともひどい状態だ。
 家屋は雨風を凌ぐだけのものだから、家庭団欒を得られる仕組みが無く、親子が相親しみ夫婦相愛して団欒を感じ得る機会もない。「男女席を同じゅうせず」との儒学の教えであるが、一家の男女夫婦までも一緒に居ることが出来ないという程、窮屈には及ぶまいから、せめて夫婦愛携え、親子相い語り愛睦みて苦楽の中に家庭の営みが有るべきなのに、朝鮮では表面上その隔てが厳重であるから、一家全員で楽しむ家庭団欒の愉快は、到底得られよう筈がない。


●食物・・朝鮮の食物は日本風と支那風とを折衷したような料理で、ずいぶん凝ったものもある。
 朝鮮では辛味を加えることを好み、唐辛子、胡椒、生姜などが必ず添えられどんな料理にもかけて食べている。大いに閉口するのは何を煮るにもニラやニンニクを煮込むことで、その臭気と云えば耐えられるものではない。肉類は牛、豚、羊、鶏であるが、犬の肉を食し食用に犬を飼っている者まで居る。牛は肉ばかりではなくその頭を大釜で煮込んで、その汁に唐辛子をまぶしてすすったり、牛の臓腑を蒸して塩を付けて食べている。
 朝鮮では食中、食後に茶を飲む習慣は無いが、米のとぎ汁を沸かして飲む、又は砂糖湯を飲む習慣がある。
 朝鮮の食事が心地悪いのは釜の萬用である。飯を炊いたり汁を煮たりする釜で、垢で汚れた衣服も煮て洗うのだ。不潔の観念の無い現地人は平気でも、日本人にはたまったものでない。


●朝鮮の病葬・・朝鮮人の病気は家の造りや不潔と大食いから来るのが主で、最も多いのが胃腸病であるが、これは大食い大飲みする上に、唐辛子を沢山接取するからと言ってよい。
 夏など土間も同様の冷えた所に寝るから朝鮮熱と云う一種の風土病にかかる。大方の病気は平気で放置し、重病になると怪しい巫女や呪師に頼んで、鐘や太鼓で病人の枕元で大きな音を出しながら呪文を唱える。 それも夜通し喧しく騒がれるのだ。そして病死者が出ると隣近所、親戚友人が寄り集まって大声を上げて泣いて悲しむ、参加者は号泣するのが礼儀なのである。
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              葬 式 の 御 輿


 葬式も同じように声を上げて号泣し、神輿の様に棺を担いで、それに付いて行くのが会葬者の礼なので、声色を使って泣いているのが分かり、神輿を担いだお祭り騒ぎのようだ。
 死体を葬るのは黄海道や平安道では空地に土葬して土饅頭を作る風習で、京幾道、三南地方では山の麓などに祭壇を設け、そこへ死体を置き藁で周囲を包んで雨ざらしにして、白骨にしてから埋葬するのである。墓は土饅頭だけで墓標は全く無い。
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            墓参り・周辺の土饅頭が墓


●朝鮮の社会風俗・・朝鮮には上層部と下層部が有るのみでその中等社会が無い。下層部は家庭も教育も殆んど無いので、子供らは裸のままで放置の状態だから総じて感が鈍く、棒などでヒドく打たれてもさして痛そうにもしない。
 大人は衣類冠を飾り、そうして人から尊敬せられようとする事に関心を示しているが、仕事をしないで上司から棒で叩かれても、罵倒されても残念がりもしない。真面目に働くことを卑しむ風潮があり、徒食の輩を尊び、働く者は下等の者の様に考え、それ故に商売など実業を賤しむので商業が発展していない。
 一歩田舎へ入ると、殆んど一軒家は見ない、人の住むところ必ず十数軒以上の家が集まっており、それは政府の取締りが不行届きであるから、暴徒盗賊などから防御する必要があるからと言う。
 然し、その群がっている家々は不規則に建てられ、通り道など畦道のようで道の姿を成していない。京城から諸方へ通ずる道路を王道と称えているが、それでさえ牛馬が通行できる程度で修繕して使っているという形跡も無い。
 橋梁は極めて少なくて、たまには丸木橋が有るが大抵は飛び石くらいの事、雨が降れば旅人は水の減るまで渡るのを待たなければならない。


●市場・小売場・・主に都会や各地の大きな町の市場のみと言ってよい。
 朝鮮には「市日の他に商売ナシ」という諺が有るがその通りで、市日に買って用意しておかないと臨時事があっても、次の市日までどうすることも出来ない。その市日は1と6の日とか2と7の日の組合せで毎月6回が普通である。市日となると中々賑やかなもので、日本で云う縁日のような有様である。何百何千という人々が売買のみならず、物々交換するので、その喧騒振りはここに表現できない程だ。
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              京城、市日の光景 


●土地の取得売買・・朝鮮は万事が不規律、不整頓であるのは今更言うまでもなく、人の生死も届出ず人の人数も知れず、耕地の広さも判らず、土地台帳の備付もなく、地権も無いという極めて曖昧な有様であるし、無方針の政府と専横な貴族の支配を受けているので、世人は人民の土地所有権を疑うものがあるけれども、実際宅地を除く外は所有権はほぼ確立している。
 我々外国人が土地を取得し所有するには、条約上の権利地域があり、居留地付近の一里二町半以内はこれを所有する事が出来る。土地を買い入れたら直ぐそこの管理署に届け出て地券の発給を受けるのであるが、地券料を払うのは無益だと相互間の売買契約だけで済ますのが殆んどである。



 日清戦争でわが国が勝利し。清国の勢力を追い出して独立国の体裁を整えた以降のこの国のことを次のように述べている。

以前から朝鮮は支那の付属国と言うてもよい有様で、無論支那はその政策をとって居たので、朝鮮に於ける支那の勢力と云うものは実に非情なものであった。
日清戦争で全くその勢力が転倒し、迎恩門を倒して独立門を建てるという仕誼(しぎ)となり、朝鮮の内政も大改革が行われ、朝鮮の国は大韓帝国と云う豪義な国となり、国王様は大韓国皇帝陛下と御立派にならせられ、皇太子様が立てられる、大韓国大皇后様も定められると云う、えらい有様になった。
この大韓国は他の国とは違うて、その王室は決して国民とその休戚を共にすると云うことは無く、ただ貴族のみは王室と利害を共にして居るようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益も受けるが、その他はそうで無い。であるから、誰も彼も国王に取入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、したがってその間に立って次女や宦官、官妓、巫女(ふじょ)などが旨いことをやるのである。

 
 人が世に立とうと思うなら、安心されるべき手堅い勉強家となることを志す以外に無い、学校の教育もまた同様なのだ。島国の中に引きこもっていた時代なら遣り繰りも付こうが、今日世界の睨み合いの中に立ち、大陸の一部に手を付けて、困難な世を切り抜けようと思うには軽薄な考えではいかないものだ。朝鮮は見込みある大地であるが、無頼不信の徒は決して見込みある地ではない。
 人がたくさん事業を為すのは、着々として一事半業を積みあげ勉めてゆく他はない。
 朝鮮だって濡れ手に粟のような地では決して無い、やらなければならない事は無限にあるが仕事となるとその人次第である、その人の工夫勉強次第であることを知らなくてはならない。
・・と締めくくっている。




イザベラ・バード(1831~1904)が見た朝鮮・・

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 李氏朝鮮末期を旅したイギリス人女性の素直な叙述「日本奥地紀行」で有名なイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、日本以外にもアメリカ西部、マレー半島、チベット、オーストラリア、ペルシアなど様々な地を旅しては旅行記を残しています。
 
 イザベラ・バード1831年~1904年)
彼女は、1894年(明治27年)~1897年(明治30年)の間に、4回も李氏朝鮮を訪れている。


 
 バードは極東滞在中の1894(明治27年)から1897(明治30年)4年間で李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を4回も旅しています。
  この旅行記の中でバードは、朝鮮半島の自然の美しさや国土の豊かさを讃え、朝鮮王朝の王族たちの人柄に魅せられつつも、人々を貧困たらしめ怠惰に向かわせる官僚機構や政治制度を批判しています。
 朝鮮が貧しい全ての元凶は人々を搾取する統治制度にあり、適切な指導が行われれば朝鮮は豊かな国になるだろうと希望を抱いていますが、ひとり立ちするのは不可能であり、ロシアか日本、あるいはその両方の保護の元で改革を進めるべきであろうとしています。

●朝鮮の社会と民族性について・・
・朝鮮の国民を分けるとしたら、「盗む人」「盗まれる人」の2つしかない。
 「搾取する人」は役人 「搾取される人」はそれ以外の庶民である。
・一生懸命努力してほんの僅かな金でも蓄財したことが知られれば、役人が全てを搾取していく。
・故に、ぎりぎりに暮らしていけるだけの収入を得ればよいので、それ以上働こうとしないので生活の向上は無く、みんな貧しいままである。
・北方のロシア人統治の地域に入植した人々は、搾取されることがなかったので、一生懸命働き蓄財し、明るい表情であった。
・朝鮮人は本来が「なまけ者」であるのではなく、政治腐敗が労働意欲を棄損している。
・朝鮮では自国による自己改革はもはや不可能であり、他国による強制改革しか方法はなかった。

●日清戦争後李朝末期の日本のかかわり・・
・数世紀前の歴史から(豊臣秀吉の遠征の頃)朝鮮人はとことん日本人が嫌いであった。
・当時、日本は朝鮮を植民地化して統治しようとは考えていない。
・あまりの政治腐敗ぶりに、日本での政策を浸透させるのには困難を極めた。
・その為、微に入り細に入り指示することになり、一層反感を誘ったが、日本のやり方は悪くはなかった。

●生活の状況について・・
1894年当時に見たソウルは世界一汚い都市である。

1897年(日清戦争後の日本の主導)に訪れた時はソウルの街は見違えるように清潔になっていた。
・両班と言われる貴族階級は、役人か教師しか職業がなく、町でぶらぶら過す人々が多かった。

・商業を起業しても役人にたかられて、発展を阻害され大成出来ない。
・女性は最下層の人が外で働くことがあっても、殆んどの夫人は家の奥に蟄居させられていて、女性自身はそうされることは大事にされていると感じていた。
・だから屋外の世界、ソウルの街さえも見たことがない女性が多い。
・当然男尊女卑である。結婚は親が決めた人とし、嫁は朝から夜遅くまで働き、身なりに気をまわすことなどできなかった。
・女性で教育を受けることが出来るのは妓生のみであった。大事な賓客をもてなす妓生は客と同じレベルの話題についていけるように、国の運営する養成学校で歌舞などと併せて教育を受けた。

 

●風土について・・
・朝鮮の自然、山、川、草木、花など美しいと感じている。
・虎がたくさん居て人々は恐怖のため、暑くても窓を開けて寝ることは出来なかった。
・バードは遠慮のない好奇の目にさらされ、ゴキブリや虫が多くて宿とはいえない場所に寝泊まりし、埃っぽさ、汚れに辟易し、外国人というだけで阻害されながら旅をした。
・この間、4度も訪問し、最終的には朝鮮人との繋がり等で愛おしく感じるようになっていた。



. 釜山・ソウルの街並みについて・・
18942(明治27年・日清戦争時代)、イザベラ・バードは長崎から船で15時間かけて釜山に上陸しました。
当時の釜山は日本人が大勢貿易に携わる活気のある町で、朝鮮人はほとんど目立たない印象を受けたようです。
釜山の居留地はどの点から見ても日本である。5508人という在留日本人の増加に加え、日本人漁師8000人という水上生活者の人口があった。

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           黎明期の釜山港 (1915年頃)


 
●釜山・・日本人街から山腹に細い小道が3マイル(約5kmばかり続いている。この小道は、私が最後に見たときは無人だったが、官衙(官舎)もある小さな清国人居留地を通り、その終点に、城壁に囲まれた釜山の旧市街がある。
 高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉軍による植林によるものと記し「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」と書いている。


岸辺の岩場に坐っているのは、ペリカンかペンギンを思わせる白い物体の群れであるが、そのような姿が人間そっくりの足取りで釜山の新旧市街間を止めどなく行き交うところをみると、坐っている物体もどうやら人間らしく見える。その様な朝鮮人の姿はわたしの目には奇異に映った。
清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人より遥かに立派である。
 
その後バードは船で首都ソウルに向かいました。
第一印象では不潔で風格もなければ風景の特徴もないという印象を持ったようですが、その後の滞在が長引くにつれ、ソウルという町の自然の魅力や美しさに魅了されていったようです。
 
●ソウル・・「都会であり首都であるソウル城内は、そのお粗末さは実に形容し難く「描写するのは勘弁して戴きたいというほどキタナイ場所」であると記しています。
王室への儀礼上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は、主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。
路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間ならかろうじてすれ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞尿や汚物を受ける穴か溝で更に狭まっている。
酷い悪臭のするその穴や溝の横で好んで集まるのが、土ぼこりと垢にまみれた半裸の子供たちと疥癬虫(かいせんちゅう)持ちで霞み目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ廻ったりしている。


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              ソウル・南大門路


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             ソウル・南大門遠望

 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というかの水路である。
蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利や砂だった川床に、堆積した排泄物やゴミの間を、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。
水ならぬ濁り水を手桶に汲んだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。  
ソウルには芸術品が全く無く、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
他の都会なら当然有るべき魅力が、ソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。
結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでも有る、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここには無い。
 
私は昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、言葉にならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点では、他に比類がない。
中世風の行列、人で混雑した路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押し寄せる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みが感じられる。
然し人は始めからそのように「呑みこめる」ものではなかった。
 
ところが数度訪問する内に、私は推定人口25万のこの都市が世界有数の首都に値すること、ソウルの四季折々の風景、春に色づく山腹の美しさや、濃い緑に覆われた山が続くかと思えば突如切り立った峰が現れたりする変化に富んだ地形、優雅な田園地帯や美しい木立を讃え、周辺自然の美しさに恵まれた首都は稀なことを評価するに至った事を充分に悟ったのである。
一年かけて付き合った後、朝鮮の自然を美的に感じ取っていたようです。


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イサベラバードは今でいうバックパッカーで、へんぴな処へも足を運んで行ってしまう人です。
そして基本的には人付き合いよりは自然と戯れることが好きで、都市の不潔さや雑然はさておいて、自然の美しさや半自然の庭園などに心惹かれていったようです。
  イザベラバードの旅したコース➔


 
2.朝鮮人庶民の様子
バードはソウルから船に乗って漢江の上流を目指す旅に向かいます。
その自然や農村風景の美しさに感嘆しつつ、怠け者の船頭や好奇の目で見てくる民衆にイライラしながらも旅は続くのですが、農村や一般住民の暮らしは悪くはないが、必要以上の金銭や物資を「あえて持たない」ようにしていると指摘しています。


貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくはない。自分たちばかり朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めて来て、誰も彼もが満たせるだけの生活必需品はある。
負債はおそらく全員がかかえている。
借金という重荷を背負っていない朝鮮人は全くまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資が貧窮していて、堕胎であるように見えると当初はそう思っていた。
しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」と噂された者、たとえそれが真鍮の食器でやっと食事がとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目を付けられて搾取されたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのが落ち・・となるのである。
朝鮮の災いのもとの一つに、この両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。


両班は自からの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそり他の縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず、住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。


「両班は公認の盗人であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている

両班は慣例上、この階級に属する者は上行をするとき、大勢のお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。


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              ソウル市内の様子


非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の罪をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。


その為、一般の朝鮮人は命と家族を守るために、あえて働かず稼がず、必要最小限のものだけを持って細々と生活するしかないというわけです。
朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得が出来なくなるという、私利私欲のために改革に反対していた」とし、「大韓帝国独立後、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に、保護国として日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と書いている。
バードは朝鮮人の「怠惰さ」が生来のものなのか、あるいは制度がそうさせているのか考えますが、後に満州のロシア人支配地区でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりにし、きちんと制度が整えば朝鮮はきっと豊かになるに違いないし、漢江周辺の田畑も十分に開墾されていないため、経済発展の可能性は大いにあると考えています。
 
気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱とか盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪癖が強力な手段で阻止されたなら、おして地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民は日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸福になれる筈なのである。
 
その一方で、朝鮮人の大食漢ぶりも描写されています。当時の朝鮮人は、身分問わずメチャクチャ食うと描かれており、「貧しい者=食えない者」と結びつけがちな日本人と少し感覚が違うようにも思います。
他のところでもよく目撃したが、中台里でもわたしは朝鮮の人々の極端な大食ぶりを目の当たりにした。彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べるのです。


大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事の良さは質より量で決められ、14ポンド(1.8kg)のごはんを食べても困らないよう、胃にできる限りの容量と伸縮性を持たせるのが幼い頃からの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量の果物、木の実、菓子を食間にとるが、それでも次の食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度で臨む。
私は朝鮮人が一度の食事で3ポンド(1.3kg)はゆうにある肉を食べるのをみたことがある。「一食分」が大量なのに、1日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事も出来ないほど貧しい人と見なされ兼ねない。一度の食事で20個から25個のモモや小ぶりの瓜が皮もむかれずに無くなってしまうのはざらである。
 
. 朝鮮のシャーマニズム
バードは「朝鮮には宗教がない」と述べています。その代わり、「とても宗教とは呼べない」民間信仰が人々を支配しており、それは東北アジアのシャーマニズムを基礎に仏教の影響も受け、朝鮮で独自にローカライズされたものとしています。
朝鮮の民間信仰では、土地、空気、海には鬼神が棲んでいるとされる。鬼神は葉陰をなす木立、薄暗い渓谷、山の頂には例外なく宿っている。緑の山腹、田畑のあるのどかな谷間、小さな谷の草地、林のある高台、湖や川のほとり道端、東、西、南、北に鬼神は無数にいて、人間の運命をもてあそぶ。鬼神は屋根、天井、かまど、暖房床、梁にもかならずいる。煙突、物置、居間、台所にもいれば、棚やかめにもことごとく宿っている。朝鮮人は唯一持っているというべきこの信仰のおかげで四六時中、心が休まらず、限りない恐怖にさらされ、実のところ「怖がり通しで、この世の時間を過ごしている」と言えるほどである。

 朝鮮人は降りかかる災難の原因はすべて鬼神のせいだと思っており、鬼神の怒りが自分に向いたため病気や失敗、貧困などが起こったとみなす。そのため、鬼神をなだめ怒りを解くパンスやムダンというシャーマンが重要な存在となっていた。
シャーマンによる祭儀は絶大な効果があると信じられており、貧乏人でも着物を売ってでも金を工面して「悪霊払い」を受けようとします。
 
. 朝鮮の王族たち
バードは朝鮮滞在中、当時の王族たちと個人的に親しくなり、何度も宮殿を訪ねて親交を深めています。
当時の王妃は後に暗殺された閔妃です。


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【閔妃】
王妃はそのとき40歳を過ぎていたが、ほっそりとしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。話はじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、限りなく美しいものを帯びていた。私は王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才能に感服した。
           

イメージ 8【高宗皇帝】
同時に国王の高宗にも謁見しています。高宗は歴史的には、主体性がなく弱気で、外国に翻弄された挙句、国を滅ぼした無能な君主という評価がありますが、バードも「人は好いが君主としての技量に欠ける」と述べています。

 国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、薄い口ひげと皇帝ひげを蓄えていた。落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居住いや物腰に威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。
 国王は心やさしく温和である分、性格が弱く人の言いなりだった。
 3度にわたって謁見を繰り返し、「好人物だが意志薄弱で人の言いなりの国王」「キレ者で王を良いように操る王妃」「実権を閔妃から取り戻すべく、陰謀を企てる国王の父・大院君」を中心に繰り広げられる王族たちの戦いに国政の混乱の元を見ますが、国王夫妻とのふれあいはバードに好印象を与えたのです。
 

イメージ 9【純宗】
高宗と閔妃の息子は、後に純宗という名で李完用ら親日派に担がれて国王になる人物です。韓国併合後は王族として暮らしています。純宗は知的障害があった可能性が指摘されており、バードも謁見時にそのように感じています。

皇太子は肥満体で、あいにく強度の近視であるのに作法上眼鏡をかけることが許されず、そのときは私に限らずだれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。彼は一人息子で母親に溺愛されていた。王妃は皇太子の健康について常時気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々晒されていた。謁見中の大部分を母と息子は手を取り合って坐っていた。

高宗(朝鮮) - 李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主
     李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主





その3.1運動の寄せ書きがどうもインチキくさいね


太極旗に墨痕あらたかに書かれたものはすべて抗日独立運動の志士たちが書いたのだ・・読めないって不便、でも ”民族独立運動家33人の寄せ書き”


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[ソウルミーナ]
韓国、文化日報は 3.1運動100周年と題して 次のような記事を載せた。

”ソウルの街は熱狂的な独立万歳を連呼する群衆でいっぱいだった。 いつの間に作られたのか、紙で作った太極旗(テグッキ=韓国国旗)の波の隊列の前では、学生たちが先頭に立ち、ソウル市民と地方から上京した田舎の人々がこれに呼応した。” 

独立運動家であり国語学者の李熙昇(イ·ヒスン)先生は、1919年3月1日の万歳運動当時のソウル塔骨(タプゴル)公園の姿をこのように描いた。 今年は3·1運動と大韓民国臨時政府樹立100年になる年だ。 3·1運動は抗日独立運動史上最大規模の独立万歳デモ運動で、その後中国、上海に大韓民国臨時政府を樹立する契機になった。 また、3·1運動は第1次世界大戦勝利国家の植民地で起きた最初の反帝国主義民族運動である。
中国の5·4運動とインドの無抵抗運動などアジア各民族の解放運動にも影響を与えた世界史的事件だ。


このような内容と一緒に太極旗に寄せ書きされた写真が掲載されている。3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。

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これは、どこかの展示館にあるもので、毎年この季節になると大韓民国の独立が云々とか光復軍がどうしたなどと紹介されがちな寄せ書きだ。


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▲どこかの展示館に貼ってある様子


ところが、どうやらこれは3.1運動とは全く関係ないものだという主張が現れている。(関係ないわけじゃないけど)

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これは左上の部分を拡大したものだが、下記のように書かれているように読める。

大韓民国廿八年一月十日
蚌埠第二區隊區隊附文雄明榮轉紀念


大韓民国という名称は1920年の3.1運動で出来たとか、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府が亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した、というように知られている。(だから100周年でお祭り騒ぎをやっているでしょ)

んであれば大韓民国暦28年とは1948年ごろ(終戦後3年目)なのである。(つまり・・朝鮮南北戦争開戦2年前)


「蚌埠」いうのは現在の中国のこの辺です。

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蚌埠というのは中国の上海の内陸のあたりに比定される。どうやら戦後(第2次世界大戦後)に中国の内陸にまだ残っていた第二区隊の文雄明君の栄転記念だと分かる。

栄転というからには寄せ書きをした人たちは蚌埠第二區隊に所属していた人たちであり、終戦3年後の1948年頃の中国で書かれたものだとすれば、文君の栄転後の蚌埠第二區隊そこに残って何をしていたのだろうか? 

※武装解除後にバラバラに帰国した光復軍は1946年6月に正式に解体されている。


博物館の展示の説明書きにありがちな光復軍は、いったい何から「光復」しようとして現地に残っていたのだろうか?

1948年と言えば李承晩や金九はすでに韓国に帰国していた時期であり、しきりに内紛を繰り返していた頃だ。アメリカ軍政は韓国に愛想をつかし駐留する国連軍の規模を縮小を検討していた時期でもある。これが1~2年程度の誤差の範囲だとしてもその意味は似たり寄ったりでしかない。


しかもこの寄せ書きの中には光復の文字など一つも無いのだ。


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完全独立を為す努力 団結

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自主 自立 自愛 (自愛かい)


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熱心に勉強しよう(オマエラガナ)

このようであるが、この寄せ書きはの説明文によれば 3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。 
その内容は ”熱心に勉強しよう” なのである。

李承晩から朴正煕のころにハングル専用化が進められ、現在の韓国人の漢字の識字率は5%程度と言われる。古びた太極旗に墨書きで書かれた「漢字」を理解することができる現代韓国人は殆んど皆無だという。 

まさに ”熱心に勉強しよう”  というのは現在の彼らに向けられた言葉のようだ。



 
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うんうん 知ってたさぁ

 minaQせんせより転載・・↓




クロード・シャルル・ダレ(1829~1878・フランス人宣教師)の「朝鮮教会史」の記述より…

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 1876年の朝鮮開国に先立って、ソウルへ派遣された宣教師が収集・整理していた資料を基にして1874年に『朝鮮教会史』をまとめたもの。
 厳重な鎖国体制下の1872年、朝鮮にあえて入国しそこで生活した欧米人、パリ外国宣教会所属の第5代ダブリュイ司教以下、宣教師たちからの報告を素材としている点で、極めて資料的価値は高い。




 著書『朝鮮事情』は以下、当時の「李氏朝鮮の社会」を細かくしっかりと観察している。

●ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れないような曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱している。道路を作る技術がほとんど無いため、利用しにくい道は商取引の障害になっている。

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            ソウル・南大門の見える風景

●役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁を構うことなく行動する。

女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけで、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、全く進歩していない。

●朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多くて朝鮮人の特徴であろう。

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             街頭で商いをする女性たち

●朝鮮は187172年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者も現れたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国を固守し中国や日本からの食料買い入れを許す事無く、むしろ国民の半数もが死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。

●朝鮮では、人々が非常に高い声で話すので、人が集まると特に騒がしい。大声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる。
 社交界では、普通の声で話すのは、人の注意を引こうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が
大声で喧騒を好むのは、先天的である。
 彼らの間では、大騒ぎして初めて物事が正されるのである。

●朝鮮人は、男女とも生まれつき非常に熱情的であり動物的である。
然し真の愛情は、この国には全く存在しない。
 彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、
そこにはなんら真心が無い。

●彼らは、自分自身の欲望を満足させる為、手に届く対象には何にでもやたら飛びつき、
あの動物的な凌辱、欲望の獣的本能以外は知らないようだ。
 従って風紀の腐敗・乱れは想像を絶し「人々の過半数は、自分の真の両親が誰なのかを知らない」と大胆に断言さえ出来るのである。

この国では如何なる宗教的、道徳的拘束が有っても、欲望を抑制することは不可能なのである。
 風習と物質生活上の必要ゆえに、貧しい人々、即ち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられているこの国
では、今後どんな方法で、この不貞観念に対処出来るのだろうか?


 一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。
 時には男の同伴者がいる時でさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。


●売春が白昼あちこちで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。

 街道筋では、至るところの村の入口に、身分の低い娼婦が焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供している。
 大抵の男たちが足を留めて、彼女たちに歌を歌わせたり、一緒にふざけ合ったりする。
 仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで足止めする。


●朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。
 それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
 彼らは
、怒りっぽいのと同程度に、復讐心に満ちている。
 例えば、五十の陰謀のうち四十九までが、何人かの陰謀加担者によって事前に暴露されたりする。


異教徒(在来仏教)の間は、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合でも、教育の成果が出るまでには時間がかかるだろう。


●殆んど全ての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。
 大人が不断の怒りを笑って済ませるから、
子供たちは、殆んど躾や懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。


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             ソウル・鐘路での子供たち。


●これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。
 敵対する者たちへの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとっては何でもないのである。

●朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。
 彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、全く平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。
 そして、病気の時でも耐え忍ぶ。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。
 例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。


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                刑を受ける犯罪人

●しかし不思議なことに、軍隊に関しては非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。

●多分それは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。
 有能な将官さえいれば、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、私たちは確信している。

●適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。
 人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気を配らない。

●朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
 彼らは、
財産を保護し盗難・詐欺を防ぐ道徳的な法を殆んど知らず、ましてや遵守しようともしない。
 また、守銭奴は殆んど居ない。居るとしても、富裕な中人階級か商人のあいだに居るにすぎない。
 この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。

●一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余す事なく使ってしまう。
 金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすなど自己の気まぐれだけで生きている。


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              ソウル市街の喧騒ぶり


用事の無い数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機を狙っている。
 ここに無くても他所では出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ見つかっていない何か高価な資源が発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を思い付くかもしれない等と常に期待している。
 或る地域などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から逃れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことを繰返しながら住み易い場所を探しているが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。




明治9年(1876)「宮本小一外務大丞・朝鮮国京城に行く」

 
明治9年(1876)6月、日本政府は宮本小一外務大丞の朝鮮国京城(ソウル)への派遣を修信使に伝えた。日朝修好条規第十一款に基づき、条規付録ならびに通商章程を協議締結するためである。


 宮本小一は、後に「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」なるものを提出しているが、朝鮮国の衣食住や人々の風俗が興味深く描写されており、更に日記録である「朝鮮理事日記」と同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」文と共に、その中から風俗に係る部分をまとめたものである。

 
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       「軍艦・浅間」にて7月15日釜山・草梁着。

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      上陸した江華島鎮海門から対岸の通津府側を望む。

   以下、宮本小一の朝鮮見聞録である・・・

●医療を行う・・
 軍医が現地の人間に医療を施していることが知れると村民が次々と来る。余りの多さに煩らわしさを覚えるぐらいであった。ある村民の夫人が病に困っているとのことで診察を乞うたが、婦人に対しては朝鮮官吏が拒んで許さない。聞くところによれば、婦人の場合は医者が直接触れるのを忌み、壁を隔てて患者の手首に糸を結んで、脈を診て薬を与えるという。実に未開の奇異なる風習である。


●東莱府で・・会場である宴廳は建物は立派だが、壁画は剥がれ落ち、門は傾き庭は荒れ、すでに荒廃してから久しいようだった。あらかじめ掃除をして幔幕を張ってあったが、その粗末さを隠す苦心が思いやられた。
 テーブルに椅子席で、甚だ粗末な文台のような盆に食事が盛られていた。蜜、酢醤油、鶏卵、鶏肉、生魚、乾し魚、牛肉、豚肉、餅、菓子、瓜、林檎、スモモなど計13品だった。酒は焼酎である。陶器の多くは日本製である。
 その後、府使を浅間艦に招待して軍事調練を見せた。


●陸路、京城へ・・

日本側一行には、朝鮮側の迎接官や槍持ちや「令」の旗持ちと楽隊など総勢七十四人が同行する。
 乗り物は、宮本小一のみが「双駕馬」という2頭の馬に乗り,他の日本側随員も馬に跨って行く。
 この輿は正二品以上の身分のものしか使うことが許されないものであり、これをもって格別の優遇であると言う。しかし輿の塗りは剥げ落ち、装飾は毀損していた。行進中は時々楽隊が歌い演奏をした。


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         「双駕馬」で行く宮本一行の想像図。


 地方官が先行して、各家の戸を閉じさせて見物を禁じている。時おり官憲が、集まって見物している人々を鞭をもって追い払う。なんとも大変な喧騒である。
  道が狭い上に輿を支える側人が多くて混雑するので、京城からの帰路はこの輿を辞退した。それで朝鮮政府は「手輿」を用意した。これは人間が担ぐものであったが、輿の中は狭くてやっと体が入れられるぐらいのものであった。

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             「手輿」 (1900年頃)

●京城に至る道路事情・・
 この間の道は1等の官道のようであるが、それでも道幅は6尺(2m)前後に過ぎない。至るところが凸凹であり、荷車・馬車の往来が出来ない悪路である。
 また、橋は土橋が多くまれに石橋がある。板橋は見ない。小川の橋が壊れている場合は両側の土手をせり出してそこを人馬とも飛び越して通っている。
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     清の官吏一行が、清国旗と思われる旗を立てて朝鮮の道を行く


●井戸、泉水について・・
 浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2m)あまりで清水が噴出した。

 人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得ようとする者が無い。かえって日本人によって良井戸を掘って教えるのは、哀れみさえ覚えられる。
 全体に井戸、泉水が乏しい。井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれで事足りるとするようだ。
 我が水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。


●宿泊、休憩施設について・・
 朝鮮国には旅宿というものがなく、公務ある者の旅は各府衙門(官庁のこと)に泊まり、平民は旅先での適当な民家を宿としている。

日本のように庶民が行商や神宮参拝旅行をするということも皆無なのであろう。もっとも、朝鮮には景色を楽しむ名所が無い。更に「この度、入京してその実情を目撃したこの国の至るところ駅亭の設けて無く、旅人らは路次の民家に投宿し一飯で飢えを癒し、僅かに雨露をの逃れるのみ。その家屋は概ね豚小屋、牛舎のそのままなり」
 通津府の衙門
(官庁)にて休息をしたが府使が来て慰労してくれる。彼は汗が衣を濡らすのも忘れて動き回り、お膳を出して饗応した。それは東莱府使の宴饗よりも一層丁寧なものであった。

この衙門は小さいとは言え、綺麗に洒掃してあり、床には新しい敷物を張り、外には外燈を懸け、簾を垂らして宿泊の備えをしていた。


●糞と牛骨が散乱する王城市街「京城」

 京城は大河(漢江)の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭くて人家が密集している。およそ3万戸以上はあろうか。
 城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。
 門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20m余りである。
 市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に狭小なる藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なことは例え様がない。


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      南大門(崇禮門)城外側 明治21年(1888)


 汚水が道路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層の臭気が一面に漂っている。
 その他の道は、23間(45m余り)で、凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。

 人家が道に出っ張っていたり、引っ込んでいたりが並んでいて、頗る不整である。
 王宮は壮大である。しかし庭には雑草が生い茂っている。一切掃除をしたことがないようだ。
 
●建物について・・

 京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる)
 敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらいで皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも展望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらに生えていた。
 敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。

 室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
 「花紋席」と称する薄いむしろが敷いてある。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
 部屋は狭く、数人を収容して、机と椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
 紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
 寝室は壁に竈
(かまど)の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾(すだれ)を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。

 庭には、築山泉石の飾りは無い。邸内はわずかに柏の老樹が門のところにあるだけである。なんとも風雅の無い邸宅である。朝鮮全般いたる所でそのようなものであると言う。


●風呂場と便所について・・
 途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新設されていた。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが頗る爽快であった。

 また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言うが粗末な藁葺きで不潔であった。日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では稀なる風景だと言う。
 途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。

また部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。

 普通、朝鮮の民家には一切便所がないとも言う。
 その為か、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蝿が飛び交い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない程である。雨が降る日にだけは流されて臭気が治まる状況。
 ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、おびただしい蚊と蚤のため、遂に一睡も出来なかったと言う。

 
●護衛朝鮮兵の様子・・

 清水館には、朝鮮兵が2300人ぐらいで護衛をしている。
 事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵
(むしろ)を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしている感じではない。殆んどまるで犬や羊の扱いで、雨の日は甚だ困難であろう。

 更に、糞尿をそこらあたりにするので、臭気や不潔さはこの上ない。しばしば催促して掃除をさせた。

 日本人のために朝鮮の護衛兵の中から使いの者を選んでいる。これを「房守」と称す。
 時々、下士官が来て働きぶりを調べて指図している。その交代の時には、下士官が帳簿を持って室内にある調度品などを、紛失が無いか検査して交代するという規則になっていた。


●食事のこと・・

 食事は1日2回で、たいてい10種類から178種に至る。三尺四方ばかりの有脚盆に渦高く盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
 牛豚鶏魚の肉、草餅、吸物などをみな器や皿に盛る。しかし臭気がひどく箸を下す者が少ない。
 ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
 水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。それらが、1人に対して実に10人前分ほどもある驚くべき量であった。

 炎熱の時節でもあり、その異様な臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を置く者が少数居た。(宮本たちの食事はいわゆる宮廷料理と思われる)
 なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。


●味付けについて・・

 胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言ってよい。
 また、大体のものは胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。

 醤油は上品下品とあって、極上品は日本製になるが、値段が高すぎて容易に得ることは出来ないと言う。下等品は不味くて食せない。味醂はない。砂糖も無いので蜜を代用している。


●酒類について・・

 酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
 焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
 米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。


●膳台や食器について・・

 盆や膳類は漆が剥げ落ち、垢がついて全て不潔さを感じた。
 磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしどれも汚れたような不潔さを感じる。
 酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製もあり、朝鮮製のもある。

 彩画した皿や金銀の器は無いが、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製で蝙蝠の絵が画いてあった。
 また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。

 銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。

 牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
 日本人がこの国に来た時、まず食べ物に注意すればするほど、飢渇の患いを免れられないであろう。


●米穀・・米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。


●茶の湯・・ 茶(緑茶)は無い。
 干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。


●菓子について・・

 菓子は、小麦粉を練って胡麻をまぶしたものであり大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
 棗
(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
 餅に豆の粉をまぶしたものもある。稀に、日本製の片栗の菓子も見る。
 日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出してくれた。


●夏でも氷がある・・
 金浦(ソウル郊外)より東は夏でも氷がある。氷は冬に漢江で取り、これを氷室で多量貯蓄しているようだ。泥がまじっているのがあっても注意して飲食すれば害があることはない。
このたびの炎暑酷烈で耐え難い暑さも、氷水によって冷を得ることができた。


●官妓の舞・・
 王宮で朝鮮国王謁見の後に宴禮を受ける。賜饌の時に舞楽があった。数人が楽を奏す中に156歳の女子3人が舞う。太平楽、興民楽と言う。

頭に異様の冠を戴き、赤色の紗の大袖長裾の衣をまとい、手に割竹、数珠、太鼓を持ち、その容姿は絵画に見るところの天人の如し。
 この楽は久しく支那においては絶えたものであるが、朝鮮には残っており唐の時代から伝えて今日に至ると言う。その古風を失わざるをもって誇ると言う。

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                官妓の舞

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               官妓と楽人

●名勝に乏しく見物を嫌う・・
 山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。また、老松がまばらに立っている。禿山が多いからその風景の風情は乏しいものなっている。

 三角山(北漢山)と称する剣鋩の如き山あり。王城の鎮たり。有名な山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
 村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので市街から遥かに見渡すことが出来る。

 市街の一般民家は朝鮮政府の命令によって悉く門戸を閉じていた。十字路の所ははるか遠くに縄を張って一般の人の通りを禁じていた。故に王宮に参内する時に通ったときは、道路は粛然として庶民の姿を見ず、ただ建物の戸の隙間からじっと見る目が沢山あるのが分かる。
 このような状態であるから、我々一行が門外に外出しようとするなら、まず朝鮮官吏らが引きとめて、外出してくれるなと乞う。学校や貧民院や病院などを見学したいと言っても、見るに足らずと言って制止する。或いは、そのような施設は無いと言って一歩も外出させようとしない。

 「薬水」(奨忠洞)は、「ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるのでこの地に遊ばれたらよい」というので案内された。
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   迎恩門あり。支那より勅使の来るのを国王がここで迎える。


 市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
 皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして、他の場所に行こうとしたが、朝鮮の護衛兵がしきりに遮り拒むので止むなく館に戻った。

 これでも、朝鮮人の話題にこの薬水のことがしばしば出るところからも、これをもって京城の風景名所に乏しいことを推察できよう。 このように3度ほど日本人一行が門外に出、又海軍士官が連絡のために浅間艦から往来し、そのつど市街の人民は居家を閉ざしたり往来を止められるので、その面倒さは実に苦であったろうが、遂に朝鮮王の特命が出て、それらの制限を廃したと聞く。


樹木・風景について・・

 京城近傍の草木は寒地であることもあって、特別に珍しいものは無かった。
 檜、杉、梅が無く、竹や棕櫚も無い。しかし柏、合歓の木が所々に野生している。
 また各所に多く松を見る。この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。

背が低くて横に曲がったものが多い。直立して天を指して伸びているのは稀である。
 朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
 釜山、江華府、京城、夫々の山に草木が繁るのに不適のようである。周辺は禿山が多く遠望すれば黄赤色の地面が斑々としてその観は美ならず。
 家屋の建築には松材以外に無い。
 草木が少ないということは、樹木を愛玩して植林する人も居ないということである。
 京城に花屋というものがない。人が植えた花木というものも無い。

 柑橘類の木はいよいよ無い。蜜柑を朝鮮では殊更に珍なるものとし、毎年冬至の祭りに日本から求めて国王自らこれを食するのが行事という。故にこれを尊重し、かつて黒田全権大臣が朝鮮に来たときに、冬であったから大量の蜜柑を持っていったが、朝鮮側もこれを殊のほか嘉賞したり。
 朝鮮修信使が東京に来たときに初めて枇杷の実を食したが、これを甚だ賞した。
 修信使らは日本のことを賞するのに、「建築が盛んであり、草木が多い」と言う。これによっても朝鮮には草木が少ないことを知るべし。

 桜は釜山にある。対馬の人が植えたものなれば、朝鮮固有のものではない。京城近村で一本あったのを見たことがあると人の語るのを聞いた。しかし、開花の時でないから確認はできてない。


●田園地帯・・

 土地は痩せていないようである。丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が怠惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
 夏は雨が多いと言うが、本年は旱魃とのことで稲の水田がひび割れていた。畑には大豆が多く植えてある。黍
(きび)、稗(ひえ)、甜瓜(マクワウリ)、ささげ(豆の一種)、胡麻、綿花、西瓜、南瓜、トウモロコシ、タバコなどを作っている。干天のために多少の損傷を受けているようである。
 男は耕作をやり女は乾飯を運び、耕牛は所々につながれて、その光景たるや日本の田舎と同じである。ただ田畑の並びが日本に比べて不整列であった。


●市場と産物・・

 大海から直接船が来て魚介を運ぶことは無いようである。魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。もっとも朝鮮人は、牛豚類を重用して魚介を賞しないようで、魚類は多く見ない。
 野菜などは、通常の種類がある。しかし、浅間艦が一度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。都外はもちろん都内でも魚市の取引は、常に閑寂たるを知るべし。

 薪柴も乏しい。家屋の床下にかまどを設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。

ゆえに薪柴は貴重品である。
 石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。後に帰国してから山中に石炭を見たという。しかし掘る方法を知らないと言う。


●一般の民家・・

 その家屋は石と泥をもって建設し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓は小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。大方の家は「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
 そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が散乱して、ほとんど足を踏み入れることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいの迷路である。
 寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1~2の炊具を見る。
 ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕
(かめ)がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕(かめ)であろう。質は頗る堅牢である。


●庶民の姿・・

 村民は粗食に甘んじ閑寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風潮がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
 長煙管をもって煙をくゆらしながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。

●王と庶民の衣服について・・

 朝鮮王(高宗)の衣服は、美絹にして桃紅色の礼服である。胸に袞龍(こんりょう)の如き金襴がある。冠は紅黄色の唐冠に似たものである。
 重官は、松葉色に双鶴の刺繍模様ある礼服である。
 庶民の服は木綿白色である。富貴の者は「紬
(つむぎ)」を用いる。
 庶民の場合、男女の服装は大して変わらないように見える。
(かつて黒田全権大臣は釜山草梁において一般男女の区別がついてない。)
 染料はまだ無いようである。縞小紋の類は全くない。赤、紫、橙、黄など人の目を悦ばす色も見当たらない。
 婦人などで色のある服は時々見るが、支那か日本から輸入したものである。
 近来、日本から染料を輸入しているから、漸次これを用いるようになるだろう。

●雨具・日除け・・

 炎天下、日光を遮る傘の類がない。故に如何なる炎天であっても帽子なき者は天日を避ける術が無い。
 雨傘は粗末なものがあり、頭だけを覆う油紙の扇のようなものがある。雨が上がれば畳んで懐中に入れる。

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        町の露天商 (客は日傘を被っているらしい)


●家畜 馬、牛、豚など・・

 朝鮮の馬は日本の在来種よりはるかに小型であり、時として「大馬」と称せられる馬ですら日本のものの8~9割ぐらいの背丈しかなかった。
 馬具は日本古式と同じである。日本蒔絵の鞍を賞美する。

牛は肥大している。大方、野に放って随意に青草を食べさせているのでよく育っている。
 浅間艦が牛1頭を買い求めたが、韓銭何貫文で値7円に相当したと言う。朝鮮人が牛を繁殖すれば貿易の一助ともなろう。

 豚は、普通の種類である。鶏はチャボの種類である。 山羊、羊の類は見ない。
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                 朝鮮の馬・・

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                田園風景・・

●細工・工芸・・
 細簾は朝鮮人の工の最も精妙なる技術品である。竹を糸のように細く削って製し、黒漆を塗って雷紋のようなものを画く。極めて価値あるものである。
 団扇(うちわ)は全羅道で製す。団扇の骨は細く何百筋も入れている。色は、紅、黄、青の三種がある。紅色の品は光沢があり最も美しいものである。
 扇も多く産す。油紙で片面を作り裏は骨が見える物である。極めて大きいものもある。

扇の要に紐を通して奇物を下げてこれに工夫を凝らしている。
 筆は毛が硬いが良く出来ている。
 墨の形模様は雑で銀泥などの装飾も完全ではないが、墨質はとても良い。

 梳き櫛を多く作っている。朝鮮一の産物と言ってよい。


●朝鮮国の徽章・・

 時として、団扇の中央に二つ巴のような紋章を画きだす。
 これは、朝鮮国政府の徽章とも言うべきか。各衙門
(がもん=役所)の扉やその他官府に係る物品の多くはこの紋章を画いている。


●製紙・・

 紙は楮(こうぞ)を原料にて作る。日本のものより厚くて強靭である。薄く美白色に製する方法をまだ発明していないようである。その値段は日本に比べれば高い。ただし楮での紙があるのは日本と朝鮮ぐらいと思われる。

●いいかげんな性格の風習・・

 時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。そのことを気にする者はいない。公務などにおいても同様である。
 対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。皆これらは朝鮮の風習である。


●気候・風土病・・

 一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。(一行の京城滞在は730日~826日まで)
隊員に病人が多くなってきた。これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。

 帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。重症の下痢の患者が多い。

患者の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。(高熱を発して嘔吐を繰り返し心停止に至る。赤痢の症状に似る。氷水による飲食が原因とも考えられる。又、奥義制書記官が重体となり、帰国後長崎の病院に入院して一命を取り留めている。)
 この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
 浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
 今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。


「本間九介」という日本人が明治27年に朝鮮を旅行した旅行記「朝鮮雑記」の副題は「日本人が見た1894年の李氏朝鮮」である。

 日清戦争(1894年~1897年)のころの朝鮮と朝鮮人たちの様子です。

イメージ 11 そこに書かれた朝鮮人たちは貧しくて、汚くて、腐敗していて、卑怯で、怠惰な人々として描かれている。
 同じ時期、朝鮮を旅行した西洋人たちが残した文面とほぼ同一で、否定的な観察が多くみられる。
 西洋人の場合は朝鮮人の民族性ではなく、朝鮮と政治制度の問題を本質的な原因として見ているが、本間はそのような構造解析には及ばないが人々の生活を鋭く見抜いている。

 彼は旅行中に体験した事実を中心に、次のように紹介しています。

 
●1
・・「残飯を欲しがるという小見出しの記事では、宿主が食べ物の準備をして、本間が食べようとしたときに起きた騒動を紹介している。

 本間がスプーンを持った瞬間に、隣人が旅館に入ってきた。
 宿屋の主人が詰問した。隣人は、「私は日本人がどのようにして食べるのかを見ようとしたのである。怒るな」と言う。
 宿屋の主人は「お前がこのタイミングでやってきたのは、お客さんの食べ残しを食べようとしたからではないか。珍客が残した食べ物を、どうしてお前なんかに与えるものか」と叫ぶ。
 隣人は「疑うなら帰る」といって去る。
 本間は、隣人を人間扱いしない主人に怒ったが、じっくり考えてみると、実際に残飯を待っていたのは宿屋の主人ではないかという気がしたという。
 「
衣食足りて礼節を知る」という習俗が、この国に有るというのは考えられない

●2・・「官吏はすべて泥棒だ」という小見出しの文は、民を搾取する腐敗した官吏の話である。
 ある外国人が朝鮮人に言った言葉を引用した。
 「あなたの国の官吏は勝手に民の財産を奪う。公盗である。公的な人間が民を苦しめる。盗人よりも悪質である。なぜあんな泥棒を排除して国を正してゆくという考えを持たないのだろう」

 本間は、朝鮮人たちが官吏の虐政にあまりにも長い間慣れてしまって、何の問題意識すら感じなくなっていると評している。
 子々孫々、遺伝子からその運命を受け入れてしまっているのであろう。


●3・・本間は「朝鮮は腐った卵のようだ。孵化する力がない」とした。
「腐った卵から孵化するか。自らの力で殻を破って出てきて鳴けるだろうか」と問うている。改善する意識すら育っていない。

●4
・・本間が慶尚道の陜川である家に滞在したときに目撃した「官吏の横暴」だ。いきなり3~4人の官吏が現れ、家の主人を捕縛し、連れて行こうとした。
 村の人々が集まって、善処を訴えても見向きもしない。
 この家の奥さんが貫程度の小銭の包みを持ってきて捧げた。
 官吏は突然表情が柔らかくなり、主人を解放し、お金を貰って立ち去った。
 何の罪を犯したのかと尋ねると、事情は簡単だった。
 郡守が近くを通過したとき、この家の主人がキセルを口にくわえていたのが不敬罪として捕まえられたのだった。

●5
・・この国の中流以上の妻は、重病にかかっても、医師の診断を受けることができない。
 せいぜい手を出して脈拍をはかる程度である。
 この国の婦女子は重病にかかっても医師からきちんとした治療も受けられずに死ぬ運命だ。

●6・・この国の武芸は「弓術」だけだ。

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                朝鮮での弓戯


●7
・・朝鮮の山々は禿山だ。
 薪用に使い植林しないので、小さな干ばつでも水が枯れて農業が壊れる。
 収穫が困難になると、親は子供を金持ちや中国人に売って穀物を買っている。

●8
・・朝鮮での喧嘩は激しい口喧嘩から始まり、汚らしく胸ぐらや髪の毛をつかみ合って威嚇して終わる。 朝鮮には決闘文化がない。


●9
・・朝鮮は全てが汚い。
 魚や野菜はほとんど腐っていて、調理している場面を見ると、かなりの豪傑でもスプーンを持ち上げることができなくなる。

●10
・・何処の道も狭い。
 釜山からソウルまで、大路という道ですら、一人がやっと通れるほどである。
 新羅時代には一般人も牛車を利用するほど道路が整備されていたというのに、朝鮮はなぜこうなったのか?
 ソウルから北に行くと道が広くなるが、これは中国の使臣のためだろうか?


●11
・・ここの役人、すなわち武官は、武芸も知らず戦法も知らない。
彼らは兵士を率いて祖国を守るという考えすらない。



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 エルンスト・フォンヘッセ・バルテッグ (Ernst von hesse-Wartegg=1854~1918)は世界旅行中に日本・朝鮮へ立寄った。

 その過程で1894年に朝鮮旅行をした。

 朝鮮半島が最もキナ臭い東学農民運動、日清戦争そして甲午更張などが続いた時期だ。
 朝鮮半島の120年余り前の姿はどうだったのだろうか?
 このオーストリアの旅行家は、釜山、済物浦、ソウルについての生々しい描写を残している。

 貧しくて汚い。男は仕事をしない。賭けごとに熱心だ。仕事は女性がしている。その女性たちはあまりにも犠牲的で勤勉である。
 施政・官吏が腐敗しており、搾取だけしているので庶民は働く意欲が生まれない。人々の体格はよく、持って生まれた健康体質である。
 性質が良いので良い政府なら短期間で成長する。


●1・・バルテックはソウルのみすぼらしさに驚く。

 ソウル(漢陽・ハンヤン=当時の呼称)は途方もなく汚かったが伝染病の発生は少なかった。
「今まで私が見てきた都市の中でもソウルは確かに最も奇妙な都市だ。

 25万人ほどが居住する大都市で、5万軒余りの家が殆んど藁ぶき屋根の土作りの家であるところが、世界の何処にあるだろうか?

 欧州旅行者のための宿泊施設が一切無い、地球上で唯一の首都であり、王の居住地でもあるのだ。
 今まで私が見てきた都市の中でも、ソウルは確実に最も奇妙な都市だ。


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         光化門の見える京城風景 (1895年)

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     藁屋根群落のソウル市街全景   1895年(明治28年)
          右前方遥かに光化門と景福宮が見える

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         ソウル  南大門大通り  (1888年)

 最も重要な大通りに下水が流れ込んで、溝になっている不潔な都市が他にあるだろうか?
 ソウルは産業も、煙突も、ガラス窓も、階段もない都市、劇場や喫茶店、公園や庭園、床屋もない都市だ。
 家には家具やベッドもなく、便所は直接道路周辺にしている。
 宗教も街灯も上水道も馬車も報道もない。
 男女に関係なく、全住民が色も柄も無い白い服を着ていながら、他の場所よりも汚い糞尿都市が他にあるだろうか?こんな国が他にあるのか?」  
 その一方で、ソウルは決して健康に害になるところではなく伝染病の発生などは珍しい。その理由は一方では冬が非常に苛酷で、長い間の雪と氷そして寒さが伝染病の発生を防ぎ、他の一方では夏の夕立ちが汚物を洗い流して行ったからだろう。それでも残った汚物は犬が食べてしまう。
 犬は最も忠実で、家屋内を清掃する廃物清掃夫なのだ。

 彼は男の怠惰と女の勤勉さを複数回対照させる。

 「私は男が働いている姿を一度も見なかった。
 彼らは家の中や家の前にしゃがんで座り、小さな中国パイプを口にくわえてのんびりしたり、一団となって集まって遊んだり、寝たりしていた。


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             ソウルの町角で・・

 一方で、小さくて苦労のために痩せた女性は家事を引き受け、調理し、洗濯をしていた。 すべての労働は女性の仕事だ。
 まさにこの国は女性を尊重していない民族で、女性を尊重していない民族は文化水準が低いという事実が証明されている。
 朝鮮の女性た
ちは、荷台の動物以下の存在である。
 男性は女性という奴隷を持つために結婚するようだ」 


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           光化門前の河川で洗濯する女性

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              京城の市街風景

 
 なぜ朝鮮男性は仕事をせず怠惰なのか。
 著者の観察が鋭い。

 「男性は仕事をする必要を感じない。欲が少ないからである。家は自ら作り、生活の道具は単純である。妻が菜園を育て、タバコや少しの肉を買うためにお金が必要な場合、日雇いをしたり、妻を働きに出す。仕事をしたくない理由は、『生計維持費よりも多くのお金を稼ぐと、官吏に奪われるから』ということである」


 彼には朝鮮の首都・漢陽
(ソウル)は大層珍しかったようだ。

 大都市としての秩序が整っておらず、汚いのに伝染病が流行しない場所だった。旅行記の通りなら朝鮮は発達した文明国家から来た人々が仰天する様な場所だった。

「長期にわたる壊れた政治」が国民の生活レベルまでどん底にしたようだ。


●2・・王は神聖な存在なので特別な待遇を受けた。
 「朝鮮で王はどれほど神聖視されているかは他の指針でも見られる。 王の前では誰も眼鏡をかけることはできない。馬に乗った人は王宮が近づけば降りなければならない。王の肖像はコインや張り紙にできない。なぜなら王の肖像に国民が触れると王を冒とくすることになるからだ。従って朝鮮人にはヨーロッパのコインはまったく理解できない。
 鉄でできた物が王の体に触れてはならない。


 1800年、恭靖大王(定宗・チョンジョン)が悪性腫瘍で死んだのは手術用メスで腫瘍を切ることがこの礼法に外れたためだ。何年か前にある王子が自身の腕に手術を行えるようやむなく許諾した。

 但しその後、彼は自分の気の毒な主治医の命を救うために様々なことをしなければならなかった。礼法を破った罪で王が主治医を斬首刑に処することに決めたのだ。」
 王政になじむヨーロッパ人の目にも珍しいほど、朝鮮の王は特権を享受した。その特権を保持しながら庶民のため善政を行ったら良かったのだが、それが出来なかった。そしてこの様な特権の行使は各種の科学や技術の発展を妨げる行為となってしまった。

 鉄で作った物が王あるいは王子の体に触れてはいけないという礼法は手術を不可能にさせた。技術の進歩は、力がある者から利用し始めてこそ発展するようになるのが常である。

 上層部から詰まっているので科学的基盤の医術は全く発展できなかった。


●3・・官吏になるために漢字が書かれた本で勉強している。
「官吏職に関心を持つ若者たちは事情が違う。彼らは‘漢文’すなわち漢字を勉強し始める。このために独自の教科書があって、この本には漢字と朝鮮字が載っていて、字のそばに中国式発音と朝鮮式発音が大きな文字で書いてある。なので不思議に一音節や一単語を意味する同じ字が朝鮮と中国では互いに違うように発音される。字が全部使えるようになれば中国の古い判例が説明され、歴史的主題に関するエッセイや詩のようなものを書く宿題が与えられる。数学や地理学は付随的であり、国家試験を受けるのに他の学問は不要だ。まだ朝鮮人は古代ギリシャ人のように地球が平たい板だと信じている」



●4・・著者は日本から船に乗って釜山港に入ってくるときの感じをこう書いている。

 「朝鮮の殺伐とした岩礁海岸が正面から私たちを睨んでいる。
 見ていると、最悪の野蛮国家という評判を受けている半島国家に対する驚きと、日本と朝鮮の間にあった数世紀前の流血の戦いと、そして朝鮮の支配者がわずか10年余り前にカトリック信者を殺害した血の海を思い出した。
 海の真ん中にそびえる5つの石を指している船長の手振りが、私を思いから目覚めさせた。
 その横を通過しながら、私たちは遠くから日本人居住地の白い家を見て、すぐにそこに停泊した」


●5・・著者は農村ではなく釜山、ソウル、済物浦などの都市だけみたのであるが、その失業状態に驚愕する。

 「彼らが絶対しないことが一つある。まさに仕事である。おそらく死んでしまったこの国には仕事がないからだろう。仕事をする機会が多い港の朝鮮人は勤勉で忍耐がある。中国人のように忍耐力があって満州人のように力がある。女性が働く町はきれいである。女性は感動的な勤勉と感嘆に値する忍耐力でその義務を果たす」

●6・・日本人に対する好評価が対照的である。

「日本は済物浦に進駐し、すでに首都にも進駐した。それでも日本軍は朝鮮軍より振る舞いがよい。彼らはすべての商品を現金で購入し、礼儀正しく行動し、酒に酔ったりせず、規律がある。日本の将校たちは礼儀正しくて教養がある」 



 著者はこのような搾取型の官吏が朝鮮の没落と、ここに蔓延する悲惨さの最も主要な原因であると強調している。
 官吏の貪欲さにより、個人の利益獲得と所有に対する人々の欲求や労働意欲、そしてすべての産業の可能性を窒息させてしまったのである。
 恐らくソウルほど仕事をしない、出来ない都市は無いと言っています。


 「インド、中国、日本を旅行すると、商人たちが集まってきて物を売ろうとするが、ソウルでは商人たちが見当たらず、探して来てもらう必要がある。商品も貧弱きわまりない。売物を作っても買う人がいないからだろう。

 だから技術者は育たず、就労さえ出来ないのである」



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               炊事する家族

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               露店の飲食店

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   ⇧ 左側は李氏朝鮮、       右側は同時代の日本 ⇧


  ● 1895年からの日本国との関わり


 1895年(明治28年)に、日本が日清戦争に勝利し、日本と清国との間で結ばれた下関条約で、清の属国だった朝鮮は清国から独立ができました。
 
 戦争に勝った国とは、敗戦国との講和条約の最初の条文には、自国が最も欲することを書き込みます。
 日清戦争の戦勝国である日本が、下関条約(日清講和条約)の第一条にした文言とは、清国からの領土や賠償金ではありません。
 
 下関条約の第一条は、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言で、日本が最も求めたのは朝鮮の清国からの独立でした。

 欧米列強の脅威にさらされていた日本は、朝鮮には独立国家としての成立を願いました。
 しかし、一人歩きの出来ない朝鮮は、清国からの独立から、わずか10年後に日本からの保護国になりました。
 
 1905年(明治38年)11月17日、日本と韓国は「第二次日韓協約」を締結し、日本は韓国の外交を監理指揮するとされ、大韓帝国は日本の保護国になりました。
 
 韓国は、日韓併合を「日本による植民地支配」と主張しています。 
 植民地とは、統治国が支配地から搾取することで、日本は朝鮮を植民地にした事実はありません。
 国家破綻の危機に陥った「大韓帝国」を欧米列強への吸収を恐れて日本が善処したのです。大日本帝国に併合して、全て日本国民としたのです。
 
 日本は日韓併合前である1907年の第三次日韓協約締結から、韓国の内政も監督しています。

 1909年、李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、欧米列強に莫大な借金、土地資源の抵当で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が充満して、日本への併合を望む声が高まり各地で暴動が発生した。
 
 当時の日本による朝鮮半島への財政負担をみても、これは朝鮮からの搾取ではなく朝鮮への莫大な支出を負担した。
 
『第三次日韓協約』が締結された明治40年から日本が韓国を併合した明治43年迄のたった4年間に限って見ても、韓国政府の歳入に充当、計上された金額は約1400万円。
 仮に当時の1円が現在の2万円に相当するとして計算すると・・・
 当時の約1400万円は現在の金額にして・・概算21千億円となる。
 
 1909年1026日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが急加速した。
(この時期は、まだ「大韓帝国」としての独立国)
 
 1910年829日大韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し、総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、道路、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて35年間で日本国内並みに完全整備・近代化した)・・・(明治43年~昭和20年)

                                     


 絶海の真っ只中で、病院船「ぶえのすあいれす丸」撃沈直後の波のうねりに翻弄される傷病兵、看護婦、乗組員そしていかだや救命艇に浮遊物・・・
 
 ああ、この光景を父親・泰山も目の当りに見ていたのです。
 絶望に瀕していた中で、戦友や乗組員そして看護婦さんたちの協力を得ながら、互いに助け合ったのでしょう。

 
 中には敵機からの機銃掃射や漂流に力尽きて、大勢の方が海の藻屑となって、沈んでしまわれたことでしょう。
 見る者にとっては、無意識に手が合わされ、先人の無念と辛苦を労い、祈ってしまう絵画ですね。


●2・・ぶえのすあいれす丸沈没後のドキュメント・・

 病院船「ぶえのすあいれす丸」は昭和18年11月27日朝、米B24の急襲を受け被弾、40分ほどで轟沈した。
 本船から流れ出た重油で黒い海原に、無数の人間が投げ出されもがきながら助けを求めていた。
 沈没するまでに時間があったので、18隻の救命ボートが下ろされ、乗組み船員は懸命に救助作業を続けた。
 だが潮の流れは思いのほか速く、海中の人はどんどん流されて行く。
 重油を飲んで声が出なくなった看護婦さんが、ボートを目の前にして、差し上げた手をヒラヒラさせながら海中へ消えていった。
 定員50名程度の救命ボートはどれも、定員の3倍くらい乗せていて、人の重さで今にも沈みそうだった。
 これ以上、海中の人を拾い上げても、乗せるすきもない。
 船員達はそれを見ると、必要なこぎ手だけ残して、黙ってボートから飛び降り、海中に居る人の為に席を譲ってやり、自分は近くを流れている漂流用いかだに向かって泳いでいった。
 いかだは畳4枚分くらいの小さなもので、かいも舵もなく、食料も水もない。
 安定が悪く、45人も乗るとすぐに傾くので、いかだの廻りに取り付けられたロープに掴まって、ともかく救助船の来るのを待つしかなかった。
 遭難現場に救助船が現れるのは、それから1週間あとである。
 その間に敵機のお見舞いは3回もあり、ボートといかだを銃撃していった。
 その度に死傷者が増えていった。

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定員過剰の救命ボートから、傷病兵等に席を譲って、海中に飛び込もうとする
「ぶえのすあいれす丸」乗組員


 
 漂流して4日目から海がシケ始めた。
 それまではなんとかまとまって行動していたボートも、いかだも、ちりぢりになり、大海の木の葉となって、おきまりの漂流地獄をさまよわなければならなかった。
 
 大久保画伯が、以上のような「ぶえのすあいれす丸」の遭難の模様を聞いたのは、年が変わって(1944)昭和192月になってからであった。
 会社へ遭難報告に来たのは船長と二等航海士で、大久保は二人から話を聞かせてもらった。
 
 がっちりした体格の片山二等航海士は、4人の仲間といかだで漂流した時の様子を、身振りを交えて語ってくれた。
 「仲間の一人は足を負傷していて、出血が止まらない。もう一人は体力が消耗していたので、二人をいかだの上に乗せ、僕らはいかだのロープに掴まっていたのです。食うものは無し、喉はかわいてヒリヒリするし、時々敵の飛行機がやってくる・・・。ところが、敵は頭の上だけじゃなかったのですよ。もっと恐ろしい奴が、いかだの廻りに集まってきて・・・」
 大久保はスケッチブックにメモしていた鉛筆を握りなおした。

 ぶえのすあいれす丸の受難と乗組員の苦闘を題材にして、大久保は4点描いた。
 その内の1枚は、漂流中にサメに襲われ、必死に闘う片山二等航海士と乗組員の姿を記録していた。
 画面には水平線も空もない。
 キャンバス一面、青みどりの海の色で塗りこめられ、画面の中央に波に洗われた、小さないかだが漂っている・・・大胆な構図である。
 いかだの上には5人の男がおり、その周りに巨大なサメの群れが、旅人を襲う荒野のおおかみのように跳ね回っている。
 銃撃を受けて負傷した仲間の、血の匂いで集まった人食いザメだ。
 ぐらぐらするいかだから海中へ滑り落ちた仲間を、別の男が懸命にひっぱり上げている。
 サメと対峙して疲れ果てたのか、四つんばいになってあえいでいる男がいる。
 後の二人が折れたかいの柄で、周りをうろつくサメと闘っている。
 半ズボン1枚の裸で、いかだの上で仁王のように立っているのが片山航海士で、振り上げたかいの柄に渾身の力をこめ、海のギャングに一撃を喰らわそうとしている。
 絶望的な状況に置かれても、生き延びるための努力を決して諦めない、海の男の典型的な姿が描かれている。   (この解説は【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

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           不安定な筏の上で、鮫と闘う漂流中の片山二等航海士
 

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           いかだで漂流する乗組員を、救助する救命ボート
 

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父が、帰還した広島江波陸軍病院で、生還した戦友らと19年正月に写した写真です。  直後善通寺陸軍病院へ移送され・・昭和19年1月30日 マラリア病状急変して戦病死。

上の写真のみが➀により祖母のもとに送られてきて、初めて「泰山がラバウルから帰還している事を知った」祖母は、差出人の梅川利夫氏に「ラバウルに居た泰山に何が有ったのか?今、何処にいるのか?」を問い合わせたが「宛先人不在
②③」で返却されてきた。
梅川利夫氏は中央の人物と推察出来るが、恐らくマラリアの犠牲に成られたものと思われる。
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               広島陸軍病院江波分院. (昭和20年7月)


参考 ↓

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html



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病院船転向頃の

ぶえのすあいれす丸





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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
    (上田穀八郎・画)




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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
(香港にて実写)
http://www.sugibun.net/heiwatokusyu.htmより引用




●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

 {爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}・・つづき

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・中略・・・
 ボートには一隻に140人か150人くらい乗っていたと思うが、そのうち看護婦は11人いた。
・・・中略・・・

 11月27日・・・19時頃、爆音が聞こえた。
 友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリー(双発飛行艇)の音だ。


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←(コンソリデーテッド機・・・
私の記憶では、気だるい飛行音)





 いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。

 海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。
 夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。
 恐ろしく、悲しい、長い夜だった。
 こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。

 ・・・中略・・・

 午前8時ころか、また爆音が聞こえた。
 敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。
 「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。
 毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、あるいは救助船爆撃の目的か。
 多い日はニ、三回偵察に来た。

 ・・・中略・・・

 また爆音がして雲間からコンソリー機(双発飛行艇)が遭難ボート頭上を低く飛び、ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす
 悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。

 艦長以下全員海に飛び込む。
 それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、ボートにも五、六発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。

 大きな機体は頭上30メートルほど上にある。機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、笑っている顔まではっきりと見えるではないか。
 超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。

 私は救命胴衣を頭に載せ、船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
 コンソリー機は二回“旅回り”して再び向ってきた。
 今度こそ駄目だと目を閉じた。
 今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。
 恐怖で生きた心地もしない。

 私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。

 そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。
 嬉し涙が頬をつたって流れた。
 待ちに待ったスコールだった。
 「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。


 以上は従軍看護婦・原田初枝婦長の手記から引用しました↓
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28


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昭和18年12月20日の新聞記事・
     【悲運の犠牲174名、漂流の傷病者を銃撃、晴天白昼の蛮行】



●9月20日に[ プラム ]さんから「ぶえのすあいれす丸救助作業」に付いて、下記コメントを戴きました。

顔アイコン顔アイコン顔アイコン顔アイコン とても詳しい内容ですね。
 別の視点からですが・・・【私の祖父の同船救助作業の模様】です。
 
 「特設駆潜艇第三利丸」の船長として12月1日朝、ニューイングランド島南方沖合に別の輸送船の救助に向かっていたが、カビエンからステファン水道を通って島の南に出掛った辺りで、右航前方近距離に一隻の白塗りのボートを発見した。
 それが病院船の備え付けの救助艇である事は一目で解ったが、病院船遭難の電報はキャッチしておらず、この事件は知る由も無かった。
 
 艇員を収容して初めて解ったが、五日前にやられて生存者がボートで漂流中、被爆の際無線機が故障して通信不能となったので、船長は頑強な者を集め、決死隊を作り近くの島に向かって3日と15時間、必死に力漕ぎを続けたという。
 
 12月2日、カビエン基地で救助した30名のボート艇員を降し、食料、燃料、水などを補給の上、更に遭難現場へ急行した。
 夜明けと共に、遥か水平線に帆を上げたボート2~3隻を発見できた。
 南方の夜明けは早い、海面も全く静か、案の定次々にボートが見え始めたので、私の駆潜艇を中央に、二隻の海上トラックを左右に、扇型で手近なところから収容を開始した。
 八時過ぎ、見張員から報告「左方向に敵機の爆音」。
 デッキには今迄の収容患者でほぼいっぱい。
 近くの雲下に姿を隠し、爆音が去ってから救助を再開した。

2010/9/20(月) 午前 0:40 [ プラム ]

 イメージ 7    




救助船見ゆ
















●3月30日、河野修興さんより下記コメントを戴きました。

【軍医として乗船中だった父親からの話】

小生(昭和27年生まれ、内科医)の父、河野正実(平成14年8月没)は広島の部隊の陸軍軍医少尉として、ブエノスアイレス丸に搭乗していました。

 5日目までスコールがボートや筏のところに降雨しなかったために、飲み水が無かったそうです。
 筏は臍のあたりまで水につかった状態だったようです。
 マラリア患者が多く、高熱のため精神錯乱に陥り、ボートとボート、筏の間を泳ぎまわり、疲れ切って、いつの間にやら波間に消えていった傷病兵も多かったようです。
 撃沈後6日目に米機の機銃掃射を受けたそうですが、その時幸いにも恵みのスコールが降り、父の乗ったボートは助かったと言ってました。
 その翌日、日本軍艦艇に救助されたそうです。

 広島の戦友会には、元兵隊のお世話で招待され、いつも出席していました。

 父・河野正実は広島出身で、実家は古い神官で江戸末期から医師も兼ねていました。
 父も小生も医師であり神官でもあります。
 ブエノスアイレス丸沈没後、自宅静養後、南方へ出征、ハルマヘラ島で終戦を迎え、昭和21年夏に復員しました。

 昭和22年から、無医地区でもあった愛媛県の興居島、田の筋、八幡浜の真網代の3ヶ所で診療し、昭和37年から松山市三津浜で開業しました。
 小生は八幡浜生まれ、愛光学園出身の内科医です。

2011/3/30(水)午後2:55 [河野修興]

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河野修興先生はコメント時、広島大学病院医師としてご在籍でしたが、現在は広島都市学園大学々長をされております。↓
https://www.hcu.ac.jp/guide/gakucho.html




●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・




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 私の父親・泰山がラバウル従軍中にマラリアに感染し、病院船「ぶえのすあいれす丸」で内地へ帰途の2日目、B-24の空爆で撃沈され漂流の末に救助・・・昭和19年正月には広島江波陸軍病院へ帰還、数日後、善通寺陸軍病院(香川県)に収容されていたのです。


漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】↓ 

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

 
 ところが、私の2/18の下記記事・・・

第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html

・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。

 拝見してゆくうちに、作者大久保画伯の力量もさることながら、辛苦の末に帰還、ご協力された多くの船舶関連者の事を想い、先人の崇高な精神に、止め処なく泣けてきて手を合わせていました。

・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。

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        ↑ 船尾付近に被爆した「ぶえのすあいれす丸」


 大阪商船(大阪商船三井船舶)の嘱託画家・大久保一郎は「戦時輸送船の最期」という貴重な記録画の連作を残して、その絵が昭和57年、大阪市中之島の大阪ビル(通称大ビル)地下倉庫で発見されたのだが、その6年前(1976)に84歳でこの世を去っていた。
 亡くなる前に、大久保は次のようなことを文章に残している。
 「陸軍や海軍の御用船(軍部に徴用された商船のこと)になった社船が、敵に撃沈されますと、その生き残りの船員たちから、同社船の遭難の状況を克明に聞きとり、それを忠実に絵に描いたわけです。 かれこれ80枚くらい描きました」
 これらの絵は画家の想像で描いたものではなく、生き残った乗組員の体験と報告に基づいた、忠実な記録でした。
発見されたのは37枚だったが、実際は80枚余りもの作品を描いていたのだ。
では、残りの40枚以上の絵はどこへ消えてしまったのだろう。
 
戦時中の従軍画家となって軍部に協力し、国民の戦意を奮い立たせる目的で、勇壮な戦争画を描いた画家は大勢居ましたが、大久保の絵は「悲惨な海上輸送戦における、敗北の記録画」である。
 岡田社長の指示とは云え、憲兵隊や警察の目が厳しかった戦時中に、日本軍の負けいくさの真相を書き残すということは国賊もので、余程の覚悟か、特別の目的がなければむつかしいことだった。
 味方の輸送船や戦艦が敵に撃沈されても、軍の作戦上の秘密として、一切発表されない時代、輸送船の海の悲劇(戦争海難計2,394隻)など、多くの国民には何も知らされていなかった。
(この解説は【画集・戦時徴用船の最期】と【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

 
●1・・「ぶえのすあいれす丸」沈没時のドキュメント・・
 陸軍の徴用船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は戦時病院船として任務に就いていた。
 真っ白に塗った船体の横腹と、煙突に赤十字のマークがくっきりと書かれ、空からも判るように甲板にも、一辺の長さが36メートルもある赤十字マークが書かれていた。
 それは8千メートルの高空からでも識別できる大きさだった。
 病院船は赤十字国際条約によって、海上における中立国とみなされる。
 したがって交戦国は、その船の安全を保障し、攻撃してはならないことになっている。
 とはいっても、中には病院船を装いながら、元気な兵隊に白衣を着せて乗せたり、軍需物資をこっそり輸送させたりする指揮官もいたから、相手国としては監視を怠るわけにはゆかない。
 
 「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は、昭和181126日ラバウル及びココポで運送患者1,129名、便乗者63名を乗せてパラオに向かった。
 国際条約に違反するものは何も積んでいなかった。
 だから乗船負傷兵も乗組員も、赤十字マークを信頼し、安心して祖国への航路を急いでいたのである。
 1127日、朝から快晴で風もなく、波もたたず、海は青いペンキを塗ったように輝き、船べりに砕ける波だけが白かった。
 朝食後の甲板では、白衣の傷病兵たちが看護婦に付き添われて、散歩したり、船べりにもたれて歌を歌ったりしていた。
 
 乗組員の見張りを各所に配置し、厳重警戒航行中のところ、午前810分頃、南緯240分、東経14920分の地点に於いて、米空軍の爆撃機B241機雲間から現れた。
 高度は約1,200メートル、眼下の白い船の甲板に書かれた赤十字のマークは、もちろん見えすぎるくらいよく見える高度だ。

 敵機は爆弾を投下し始めた、。
 投下された爆弾の一発が後部左舷側に吊り出した端艇を貫通し、第4、第5番艙隔壁付近の舷外付近で、轟音と共に炸裂し、船体に大破裂口を生じた。
 この為、海水はシャフトトンネルを通じて、舵機室及び機関室に侵入し、乗組員は極力排水に務めたが、浸水は急速に進み危険状態になったため、同817分船長は病院船医長に乗艇用意を通告した。
 患者達は殆んど救命艇に移乗し避難したが、その後も左舷への傾斜が激しくなり、850分同船はついに船尾より沈没していった。
 戦場には国際条約も人道主義もない。あるのはただ暴力と野蛮な殺し合いだけである。


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         ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸

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    ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸      橋本睦郎 画

 
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↑ぶえのすあいれす丸はラバウル出航2日目、チンウォン島沖の×印に於いて轟沈す
 

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ぶえのすあいれす丸沈没時実写々真?  船首を上げて沈みゆく船と救命ボート

 

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        ↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事


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【ぶえのすあいれす丸撃沈事件  1943(昭和18)年11月27日 】


●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}

 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・

 ラバウルを出港して2日目の
昭和18年11月27日のことです。
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・中略・・・

 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。

 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。

・・・中略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・中略・・・

 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・   (つづく・・・)

【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より

(((buenos2
ケープタウン停泊中の「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)(1935年頃)

(((ブエノス
大阪商船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)


「ぶえのすあいれす丸」の航海記録 
http://www.combinedfleet.com/Buenos_t.htm より米側記録

1943817日:

ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。

1943
818日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。

1943
819日:ラバウルを出発。

1943
829日:マニラに到着。

1943
830日:マニラを出港します。

1943
95日:門司に到着。

1943
910日:宇品を出港。

1943
920日:ラバウルに到着。

19431011日:ラバウルを出発

1943
1021日:宇品に到着。

1943
1115日:宇品を出発して神戸へ。

1943
1122日:ニューブリテンのラバウルに到着。


19431126日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]

1943
1127日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 0830分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 0850分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]

1943
123日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]

19431215日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]




【参照】↓

●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html 

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

第33話の⑥・・父の部隊が満州からラバウルへ移動したルート・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/14820913.html

第33話の⑤・・ラバウルって、こんなとこだった・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11347692.html 

第33話の④・・南方戦線からのはがき・・ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11271003.html

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33226918.html

第33話の①・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8750541.html

第33話の②・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8758122.html



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⑨【150年前 幕末~明治の風俗】1.

 私らが生まれていない時代のこと、そしてここに写っているご先祖様は、皆さん仏様になっておられる事を考えると、これらの写真は、不思議な不思議な世界なのです。

 幕末~明治初年、外国人が日本の珍しい風物を写真に収めたり、当時の日本の写真家に頼んで写し、残された写真です。

 幕末から明治時代にかけての、日本のご先祖様の姿が沢山写されております。



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              建築作業中の大工

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                 大工の作業

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                 大工の作業


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               下 駄 屋

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              鮮魚店店頭にて

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              篭 売 り  (1890年頃)


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              篭 売 り  (1890年頃)


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               果物店・・大敬


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             桶屋の主人と丁稚

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                 漁 師

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                漁 師


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               荒 物 屋


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(1890年代) • 炭俵を運ぶ婦人


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              苦力・・運び屋


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               雑 貨 店

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              八 百 屋  (1890年代)


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            陶器・ 瀬戸物店  (1890年代)


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          髪結い ・・ 江戸時代末期の散髪屋


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          髪結い ・・ 江戸時代末期の散髪屋



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         1890年代  • きせる用・ 煙草刻み


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 髪 結 い   (1880年頃)


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             1890年代 • 三味線職人

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            甘酒売りの呼び込み

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甘酒売りと客


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               よ組・・町火消し

  イメージ 22  火消しの男意気


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                 野菜売り







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