泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

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「加計問題」で中村時広知事が国会に提出したあの怪文書は、余りにもわざとらしい出鱈目が多すぎて知事も側近も完全に騙されていますね。
その上、朝日新聞と共に国会混乱に加担し陰でほくそ笑んでいるね。

イメージ 7 見出しと本文の書体が違うのならば判りますが、本文であちこちフォント(書体)を変えることは先ず有りません。それがこの怪文書では肝心なところでフォントが変わっており追加記入されているのは一目瞭然ですね。

中村時広愛媛県知事

県庁内で提出者が修正した文書を見て、知事や側近が騙されているのか?
 ・なぜ日付が入っていない?
 ・これが公文書なら一寸お粗末ね。

 オイ、愛媛県!・・アタマ大丈夫か???


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        ↑   ↑    ↑   ↑
       (赤)=明朝体  (黄色)=ゴシック体
(黄色)部分はフォントが違うので、後に修正、補足記入されていると判断されて当然だ。


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●加戸守行(前)知事の談「新文書は連絡・報告用のメモで、伝聞の伝聞」 (2018・5・23)

愛媛県から新たに文書が出たが、これもメモです。イメージ 6
県庁職員は何でもメモして記録をとる。まじめといえばまじめ。
 ただ、公文書でなく、連絡、報告用のメモだ。要するに加計学園側が今治市に話したことを県が今治市から聞いて、メモにしている。漫画みたいな話で、伝言ゲームだ。
(平成27年2月25日に安倍晋三首相と学園の加計孝太郎理事長が面談したことは)首相も否定した。

首相は理事長と会う時間はないと思う。
首相官邸で会えば首相日程に出る。官邸以外ならホテルで密会だが、それはないだろう。
だから、2月25日に会ったという話は学園側の作り話か、想像をつなげてああいう話になったのではないか。信憑性は疑わしい。


愛媛県の中村時広知事は県内の自民党主流派と衝突している状態だ。(文書の公開には)そういうこともバックグラウンドにあったのかもしれない。

ただ「伝聞の伝聞」の話を「参院」に提出してどうするのか。
聞いた話をメモにして外に出すなんて、常識ではありえない。

メモはあらゆるものをきちょうめんにとるから、当たらずといえども遠からずのものだ。今度の場合は、首相に会ったら好反応だったと聞いたら、県にとってビッグニュースだから、それは書き立てる。
あくまで私の推理だが、首相がきっぱり否定したのだから学園側の作り話だったと思う。

岡山理科大獣医学部は首相の忖度のかけらもなく、国家戦略特区を突破してできた。私学の獣医師らが日本獣医師会の意向を受けて、県をたたいてきたにもかかわらずだ。
それにしても、獣医師会に一切メスを入れないというのは、不思議な国会だ。
決定的な「悪」は、既得権益を死守するために獣医学部の新設をつぶしてきた「獣医師会」なのだが・・・。(談)



● 加戸前知事の主張まとめ。

・これは公文書ではなく連絡用のメモだ。

・加計学園→今治市→愛媛県と経由した伝言ゲーム

安倍総理が学校理事長と会う時間はないはず

・信憑性は疑わしい

・加計学園の作り話ではないか?(交渉を有利に進めるため?)

それか何かの間違い

・中村時広知事は自民党主流派と衝突している

新文書で復讐する動機は十分にある

・「伝聞の伝聞」のメモを「国会に提出」したなど言語道断だ

・既得権益にしがみつき、新設を認めない獣医師会はダメだ。




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昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・


昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンが鳴るなどほとんど無く、時々真夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。

ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。

昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことはありました。

【第54話・松山での空襲】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。


いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
           戦災前の松山市・清水小学校 上=南西方向から見た正門 下=東南方向から見た全景


警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)


 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先きに運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心に使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の遥か向うの、三津浜方面だろうか。
  あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

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   清水国民学校(松山市・清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・
 

 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で、自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高等商業学校北側の帰り道を、砂埃を上げて走る上級生を追って
懸命に走って行く。


松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。


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      松山高等商業学校の正門(東門)(松山大学の前身)


防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。


 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕をブンブン回しながら身振りで指示している。


 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。


 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

城北練兵場に並べてある、整備兵訓練用の戦闘機のすぐ横の周辺である。


((●●s城北練兵場●
 通学路から松山・城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・
 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。


 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


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     松山・城北練兵場で、B29が4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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               ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており、飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。


 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。

 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。


 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判らない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く判別することが出来ない、全方向からの爆音なのだ。


 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり
「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。


 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていた気になるあの爆撃煙を、西方に見てみた。


 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている


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6kmほどの三津浜付近から、丸善石油の黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は
「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は「夜には炎に染まって真っ赤に見えていたが、一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが、最早「でっち上げ」としか言いようがない内容の記事であった。

『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』



一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」
松山市における大悲劇の幕開けである。



あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。


 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知あるまで通学は見合わせ・・家庭待機」と云う通達が為された。
 5月の下旬であったか、疎開先の内子町へ「清水小学校の1~2年生は、琢町々内の天理協会で補修授業が再開された」との情報が届いておりました。





保存

第54話● 松山での空襲のこと・・ 8歳 昭和20年


 昭和19年、小学1年生の時でしたが大東亜戦争の戦局もニューギニア、ソロモン諸島あたりから米軍に反撃され始めた頃ですので国内では平穏そのものでした。
 しかし、昭和20年になってからは、松山にも米機の来襲が本格的な激しさを増しつつあったのです。

 松山への爆撃こそ無かったが、北九州、宇部、広島、呉など工業地帯や軍事施設攻撃への通過点でもあったからです。
 米軍爆撃機が内陸に侵入してくるコースは、紀伊水道、豊後水道が空襲銀座と云われていたほど、頻繁でしたので、敵機の接近ごとに警戒警報、空襲警報の発令は日常茶飯事となっていたのです。

 或る日、空襲警報が鳴って間もなく、西の方から百数十機の中型爆撃機B25、B24が飛来してきたことがある。
 飛行機の型の見分け方は、ポスター等に影絵模様で公表されていたから、爆撃機はボーイング、ダグラス、マクダネルなど、戦闘機はカーチス、グラマン、ロッキード等があり、敵機の型式把握は市民には小学生にまで常識になっていた。


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  北九州方面の爆撃行の帰途か、西方から飛来し豊後水道を南下した


 飛行機の爆音(エンジン音)がし始めて、すぐに防空壕へ避難したが、次々と近づく余りにも多い飛行機の爆音に、その振幅で異様なウナリのような音に変っている。
 窓ガラスからもビビビビ・・・・・と振動音が出ている。


 「一体、何分続くのじゃろう・・・?」と息を殺して、通過するのを待つのみだ。
 ただ、爆音がするだけだったので、子供心に防空壕から何度も空を見上げた。
 目の前が出入り口の、首を出せばすぐ空が見える・・・浅い小さな防空壕だ。


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       防空壕から恐る恐る敵機を見上げていたのです

 ウンカのように、ぶんぶん次から次へ飛んでくるとはこのことだろう。
 城山上空で機体を傾けながら、右旋回している様子が手に取るように解かる。
 低空で悠々と飛んでゆく様は、撃てるものなら撃ってみろ・・・と言わんばかりの堂々たる飛行だ。
 制空権は完全にアメリカの様相で「日本軍機は、一体どうしたんじゃ?」と子供ながらにも思っていた。
 結局、下からの反撃は何もなし。 歯がゆい思いで見上げるだけだ。     
 これらの爆撃機は順に松山上空で、南へ向きを変えて通過しただけであったが、あのような大編隊は映画でも見たことがない。
 米軍機が内陸部に進入するには、豊後水道が飛行コースであったので、おそらく北九州方面工業地帯を爆撃した帰途であったのだろうと思う。

(この日だったのかも知れない)

 防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。

 4月末には,満州にあった第11師団が本土防衛の任務をもって四国に集結,高知市一帯に配備されたが,もはやアメリカ軍の敵ではなく,5月5日には,100機を越えるB-29(?)が松山上空を飛行した(『松山市年表』291頁)が,松山市民は,前日の激しい空襲の残像と相まって,100機以上というこれまで目にしたこともない巨大な重爆撃機の大群が大空に舞う姿を仰ぎ,世紀末的な状況を身を以て経験することとなった。

 


 松山上空を日本の戦闘機が訓練飛行していても、いざ空襲警報が発せられると、何処へともなく姿を消してしまうのが常であった。
 今さっきまで飛行していた友軍機は、一体何処へ行ってしまったのだろう?と不思議に思ったものだ。
 尻尾を巻いて逃げる負け犬のように、子供の僕らにも感じられたものだが、相手に立ち向かって、空中戦でもやって欲しいと願いながら、敵機を見上げていたが、松山では空中戦など全く無かった。
 それほど勇ましい筈の日本軍は、主力は最前線優先で、国内は迫撃能力に貧していたのでしょう。
 
地方都市の松山には、訓練用の旧式飛行機しか配属されていなかったのだろうと思った。
 内陸部への爆撃機侵入銀座の豊後水道で、迎え撃つという軍事力も、又その知恵さえも日本軍部には無かったのだろうか?・・・今考えても疑問でたまらない。



 でも松山で、下から高射砲で撃ったのは数回見たことはある。
 一点の雲も無い日本晴れの日に、偵察機か爆撃機が飛来したとき、防空壕内でドーンドーンという鈍い音を聞いた。
 爆弾が落ちた音と違い、上空から聞こえたようなので、防空壕からおそるおそる首を出して空を見上げた。
 琢町から見ると、城山の上に白い雲のような点が一つ浮いている・・・それが徐々に膨らみ・・・周囲に白い煙の筋が飛び散ってゆく・・・一瞬、落下傘か・・・とも思えた。


 「危ないから、覗いたらいけん!」と浦子が注意をするが、僕は浦子の目を盗んでは、気になる空を見上げていた。
 白い煙は3ケも4ケも浮いていた。砲弾の破片が飛び散ったあとに、白い煙の糸が四方八方に広がってゆく。
 今で言う昼間の花火が、相当な高空で弾けたような眺めだ。


 白い煙とその糸状の煙は西風になびいて、いかにもクラゲが空に浮いているように見えたものだが、敵機を狙って撃っているような射撃ではなく、敵機からは大きく逸れていたのが子供にも確認できた。
 まさに「気休めの自己満足」状況の射撃に見えた。


 (調べてみると昭和20年3月18日だったようだ)の或る晴れたり曇ったりといった天候の日の事であった。
 空襲警報の後、防空壕の中から、やはり気になる空を眺めていた。
 この頃は空襲警報の後、直ぐに敵機の爆音がしてくるのが常であった。


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 複数の戦闘機の爆音がしてきた。
 城山越しに南から、雲間を縫うようにしてグラマン(米、艦載機)10数機が2列編隊で飛来してきたのが見える。
 爆音のウナリが急に変化して、方向を変え始めたのが判る。
 その豆粒のような機体は、上空で左に旋回しながら急降下してきた。
 雲の後ろに太陽があったので、ちょっと眩しかったが、旋回のたびに黒い機体がキラキラ光っていた。
 急降下と同時に編隊を崩し、それぞれがあちこちで機銃掃射をしながら、ぶんぶん飛び回っている。

 浦子の目を盗んでは、防空壕から首を出して見ていたんだろうと思う。
 壕の中に居ても、急降下と上昇を繰り返しているのが、爆音を聞いているだけで解かる。
 今で言う、車がアクセルを吹かしたり緩めたりするような、プロペラの爆音の唸りが断続的に響いてくる。
 黒い機体のグラマンは、主に松山城付近で見え隠れしていたので、堀の内の連隊を中心に機銃を浴びせていたようで、入れ代わり立ち代り執拗な攻撃をかけていた。


 
 3月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。
 ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。



 そんな日だったと思うが、町内の天理教会の前で、機銃掃射の跡が残っているとかの話を聞いたので、警報解除の後に見に行ってみた。
 浦子は「危ないから行ったら駄目!・・・」と言ったが、こっそり見に行った。
 見物の人垣の中、地道道路の石ころが弾けとんだ跡があって、他に何もなかった。
 これが銃弾の跡?・・・という風に感じただけのものだった。






第36話● 松山 城北練兵場のこと・・   7歳 昭和19年


 昭和18年までの城北練兵場は、東は護国神社正面の道路を越えて、更に東に広がり、西は北豫中学校(松山北高校)と松山高等商業学校(松山大学)の東側道路まであり、南側は伊予鉄城北線と接していた。
 城北線と接している部分には、西から東まで大きな櫨の木が植えられ、毎年鈴なりの実を付けていたので、ヒヨドリ等が実をつつきに群れていました。

 練兵場はこの広さで一面の草っ原、それもよく踏み固められて牧場の風情であり、子供らの格好の遊び場所でもあった。
 平日は主に北豫中学校生徒等がグライダーの飛行訓練や、軍事教練の服装(背嚢を背負いゲートルを巻いて木銃を持って)をして、軍服姿の指導官のもと、野原に腹ばいになって訓練をしているのをいつもよく見ていた。


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       ↑ このタイプのグライダーを使用していた

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          松山・護国神社前での突撃演習

 中学生の中に3~4名、小柄な小学生のような学生が混じっていたのが目立ったものだ。

 他にグライダーの教練も、主に北豫中学校の生徒だったと思うが、グライダーの後尾を杭に結び、グライダーの前で二本のロープを20人ほどで引っ張り、その反動で飛び上がるのである。

 ある時、通称赤とんぼと言われていたオレンジ色二枚翼の練習機が、何処からともなく 飛来し練兵場に着陸したことがあった。
 護国神社の前あたりに停止したので、それを見ていた子供たちがいちもくさんに、駆け寄って行ったが、行く途中で機首を西の方へ向け飛び去っていったこともあった。

 城北線の鉄砲町停留所は練兵場南西の端に在った。
 その周辺の練兵場は、こんもりと茂った欅の大木の林があったが、その横に演習用のトーチカ(土塁を盛った陣地)が造られていた。

 トーチカはどちらかと言えば、防空壕のようでもあったが、こんもりと土まんじゅうの様に盛り土され、あちこちに入り口があり、射撃口がある。
 中は迷路のような通路と部屋があり、子供には適当な遊び場所だった。
 当時の練兵場は市民の広場、子供たちの野原というイメージの場所であった。

 然しこの練兵場も、戦争が進展するにつれ、昭和19年になると徐々に変貌していった。
 まず、練兵場西北隅(松山高商東側)に飛行機格納庫が一戸建ち、更に東へ一戸づつ 増えてゆき、護国神社の手前辺りまで、合計四棟の格納庫が並んだ。
 それと相前後して、練兵場の西側および南側には、旧式ではあったが戦闘機や双発爆撃機が10機ほど並べられた。

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 昭和19年夏頃から、飛行機格納庫が建設されていった(松山城北練兵場)

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      1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山市。
      城北練兵場の格納庫4棟跡がはっきり見える。


【今では考えられない景色ですが、空襲があるやも・・との気配が近付く時期に、学校の横、市電線路の横、住宅横のこの広場に、平然と戦闘機、爆撃機を並べている日本軍部の節操の無さ・・・。それにも増して、住民が苦情を申し出る時代でもなかったのです。】

 当時でも、飛行中の飛行機しか見る機会がなかったので、目前で見られる本物の飛行機だけに、いつも気にしてよく見に行ったものです。
 いま考えてみると、整備兵の訓連用教材ではなかったのかと思える。 

 整備兵がトラックでやってきて、エンジンをかけてプロペラは回すが、ここには滑走路は無かったし飛行場の広さでもなかった。
 飛行場はやはり吉田浜(今の松山空港)だったが、訓練用の飛行機が標的にもなるし、置き場所の都合でここへ移動したのだろう。


 時々、頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、濃緑色の整備兵つなぎ服で身を包んだ整備兵一箇連隊が、清水町の方から4列縦隊で、道路をドス声で合唱しながら行進して来て、整備訓練を受けていた。

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松山市清水町方面から(写真は違うが雰囲気はこのまま)
頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、
濃緑色の整備兵つなぎ服で
身を包んだ整備兵一箇連隊が、
軍歌を合唱しながら行く・・

 エンジン始動の場面を数回見たが、当時はスターターなど無くプロペラの先に紐のついた革袋を掛け、二、三名がそれを引っ張ってその反動でプロペラを回していた。
 エンジンがバタバタという初動音を出しながら、周辺に青い煙がたなびいて、プロペラはゆっくりと廻りながら、正常回転に唸りを変えて行くのだ・・・。




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国史画帖『大和桜』㉗ 駄馬を奪って、佐々木高綱は鎌倉に馳せ参ず・・

佐々木高綱は近江の源氏方の侍であったが、源 頼朝が法皇の令旨を受け、従弟の木曽義仲を討つべく兵を挙げたるを聞き、源家の一大事と急遽馬に鞭打ち、鎌倉へ下向の途中、あまりに駆け続けたるため遂に馬は斃れ、夕闇迫る街道筋で途方に暮れていた。

すると一匹の馬を引き来る馬子に会い、天の助けと喜んだ高綱はいきなり「恩賞は何れ凱旋の暁に取らす、拝借致すぞ」と云うや、手綱を奪い取り乗らんとしたが、馬子は必死となり渡そうともせず。

高綱は「源家の一大事、勘弁せよ」と云いざま斬り殺し、一鞭打って鎌倉目指して駆け付けた。
 
頼朝に見参致せば頼朝大いに喜び、「先陣の門出、望みの恩賞取らすぞ」の言葉に高綱は「恐れ入りますがかくかくの次第、馬は駄馬、君が秘蔵の池月(頼朝の愛馬)を拝領仕り、宇治川先陣致したし」と願い出て遂に池月を頂き、天晴れな先陣を果たしたが、片時も哀れな馬子の事を忘れる暇とても無く、凱旋後馬子との約束を果たすべく住居を探し出し、そこの老婆に「高綱の高名は、汝の息子と馬のお陰だ」と深く謝し過分の恩賞を与え、ねんごろにその霊を慰めた。
 

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          佐々木高綱、奪馬下於東国之図


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    高綱「恩賞は何れ凱旋の暁に取らす、拝借致すぞ」と云うや・・・





●忘れかけの内子町風景・・⑥ 内子町を構成する村落の歴史・・

 ここに昭和24年に愛媛県喜多郡教育事務所がまとめた「私たちの郷土」という小学校上級生用、副教材が残っております。
終戦直後の打ちひしがれた状況下の、各町村落の産業や勢力、歴史が記されたものですが、小学生用としては少々程度が高く、自習用資料として使われただけと記憶しています。

その中に、昔は無数に存在した各村落が、交通手段の発達とともに、今では集約合併されて、現在の内子町を構成している各村落とその歴史が記載されております。

(内子町、五城村、立川村、大瀬村、満穂村が合併)
1955→内子町 
                            ↑
(五十崎町、天神村、御祓村が合併)
1954ーー→(2005合併)

上浮穴郡小田町)---------ーー----(2005合併)


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         昭和24年・愛媛県喜多郡の実勢図

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● 現在の「内子町」を形成する各村落の歴史・・・


【内子町】
戦国時代の頃、今の五城村に曽根城を築いた曽根高昌の孫、高安が開拓した所で、当時は五城の宏麗な城下より遥かに田舎であったらしいが、旧藩時代は既に「内の子」と称して郡内における屈指の都会として県下でも聞こえた商業地となっていた。
松山から上り下りする旅人も武士も、内子を通過しなければならず、格好な宿場であった。
明治23年町制を敷き今日に至った。昔から大洲半紙の産地として名高く、繭糸業の興隆とともに県下有数の養蚕地の名を欲しいままにしたこともある。
(明治時代の木蝋による蝋燭の一大出荷地については触れていない)
 
【五城村】
五城村は昔、五百木村(いおきむら)と云っていたらしい。
今から約400年前、天文の頃に曽根高昌が周防の国から伊予の国に移り、ここに城を築いたと云われる。
その後、城の廻りを城廻村と称するようになり、城廻村と五百木村の両村があり、大瀬村をはじめ近辺に勢威を揮ったが、豊臣氏に下り、後に大洲藩の所領となったことは他と同じである。
明治21年自治制で両村を合併して五城村が生まれた。
昭和5年、村前(むらさき)の一部を合併して現在に至っている。
 
【大瀬村】
元寇の役で名高い松山道後の河野氏が領していたと云われるが、当時は景山、日表、木菱、窪、白石の五城があった。
戦国時代に入り、五城の曽我氏の領土となったが、豊臣秀吉の平定により大洲藩の所有となり加藤氏の下にあっては広瀬郷と称して藩内屈指の勢威を示した。
当時、大洲城主は代々川狩地として来遊したし、庄屋屋敷は成留屋橋南の尾中山を中心とする一帯の平地全部といわれるから勢力が嶺われる。
なお曽根氏が永禄11年大三島の祭神を分神して、三島神社を建立したことは名高く、奈良県人河野清平の発見した梅津鉱山も有名である
 
【立川村】(たつかわ)
徳川時代に於いては曽根郷又は伊賀崎郷と称し、大字立山は元五百木村に、大字川中は元伊予郡中山村に属していたが、明治19年頃合併して立川村となり、明治23年町村制施行で正式に立川村が誕生した。
大正2年満穂村大字袋口の一部を合併、現在3区の行政区割をもつ。
喜多郡の東北端に位置し伊予郡中山町に隣接、東南は五城村、西北は鎌倉山を境に満穂村にも接している。
最近煙草の産出多く同村の主要産物となりつつある。
 
【満穂村】
五城村より山峡を縫って東西4km、南北10kmにまたがる満穂村は林産物の産出に頼る一山村である。
五城村に築かれた曽根城の曽根氏の支配下にあったが、加藤氏に封録されてからは明治まで平穏裡に時が流れた。
明治23年町村制の施行によって、論田、河内、袋口の三村を合併して満穂村と改称し、明治41年10月、更に伊予郡下瀬村の一部を編入して現在に至った。人口2,500人、面積30平方キロに及ぶが大部分は山林である。
 
【五十崎町】(いかざき)
喜多郡のほぼ中央に位置し、五十崎駅があり郡内の一要地で、北は内子町、東は小田川を隔てて天神村に、南は大川村に、西は神南山を隔てて新谷村、菅田村に続く。
本町はその昔、矢野郷に又曽根郷に属したことがあり、藩政時代は新谷藩の所領として明治を迎えた。
維新前は古田村と称したことがあり、その中に五十崎初藩があって長老職を置かれ町制を執行したことがある。
明治23年町村制施行で古田村及び大久喜村を合併して五十崎村と称し、次いで大正9年町制を布いた。銅鉱石の大久喜鉱山は有名である。
 
【天神村】
五十崎町と肱川を挟んで接する天神村は、製紙の特産地として有名である。
藩政時代新谷藩の所領に属し、明治23年町村制施行と共に当時の平岡村、宿間村福岡村が合併して天神村と改称された。
昭和4年12月行政区画変更で旧村前村字池窪、字亀井の2部落を更に合併、現在に至った。
人口4,200人、水田1,360反を持ち3,250石を産している。
特殊産業製紙は、現在やや下火になったとは言え年産2万貫を擁し、三叉、こうぞを原料として優秀な日本紙は広く販路を持っている。
 
【御祓村】(みそぎ)
昔は川辺郷の一部に属し只海村と北表村に分かれていた。
遠く足利時代末期の戦国時代には、地方の豪族季羽氏が丸山に居城していたが、天正年間の長曽我部元親の来寇に敗れ、豊臣秀吉が天下を掌握してからは大洲加藤氏の所領となり、その後新居藩が分封されるに及んで新谷藩の領地となって明治を迎えた。
明治維新後は一時天神村と合併して、戸長役場が天神村に置かれたことがあるが、明治23年分離して御祓村が出来上がり、明治42年さらに河辺村大字山鳥坂、字オヤブ、ダラリを合併した。



● 内子町周辺町村の歴史・・

【大洲町】
肱川の清流が町の中央を貫流し、伊予富士山の秀峰、妙法寺の瓦、桜花の城山と幾多の景勝を持つ大洲は、観光都市として真剣な活動を続けている。
旧城下町で、戦国年間喜多郡下に号した宇都宮氏が長曽我部氏の来寇に潰して後、米子藩から移封された加藤氏の所領となって善政布かれ治蹟大いに上がった。
今もなお当時をしのぶ地名が多々ある、加藤左近将監貞泰に仕えた儒者中江藤樹は有名で、城山に彼の座像が建てられ、大洲高校には至徳院として彼を欽慕する若き俊秀に日夜影響を与えている。
又、幕末時代に活躍した矢野玄道、三瀬諸淵、如法寺の盤瑞禅師も忘れ得ぬ人であろう。
 
【新谷村】(にいや)
元和9年(1623)大洲城主加藤左近将監貞泰幕府に讃い、二男織部正直泰を一万石に分封した歴史は有名である。
この村が創始された年代ははっきりしないが、空海が惣持寺に留錫し善守寺村と言われた時もあるというから、随分古い歴史を持っている。
一万石に封ぜられた直泰の陣屋は寛永19年(1642)に竣工し、以来新谷殿と呼ばれて中々威勢が有った。
明治4年7月、藩が廃止され新谷県となったが明治23年新谷村となり、大正11年には喜多山村と合併して現在に至っている。
 
【柳沢村】
柳沢村は喜多郡の西北端矢落川の上流全域にまたがる農村である。
随分古くから開拓されたものらしく、藤原氏が栄華を極めた藤原時代に、既に入植した史料が有り、天正年間には戸数300と言われるから1,000人くらいの人口を持っていたらしい。
地味は肥沃で民情厚く現在は農林業が盛んである。
徳川時代には大洲藩に属していたが後藤縄部落は新谷藩に編入され、明治23年の町村制実施で柳沢村と田処村と分かれたが、明治42年合併して現在の柳沢村が生まれた。
 
【肱川村】
現在の肱川村は昭和18年に旧大谷村、宇和川村、河辺村と上浮穴郡浮文村の大字川上、北平を合併して生まれたものであり、大谷、宇和川、河辺共に藩政時代は大洲藩に属していた。
宇和川は明治23年1月旧宇和川、名荷谷、中居谷の各村を合わせて宇和川村と改称、河辺村は明治42年山鳥坂村、奥南村を合わせて河辺村となったが、大字中津、川崎は大洲藩に加藤家の一族分家し分属していた。
大谷村は旧村名を四分市村と称していたこともあったが、寛政9年現在の名に改められ合併に至るまで続いた。
 
【大川村】
大川村は大字成能、森山、蔵川の3部落からなり、藩政時代は成能村は五十崎郷、森山村は川辺郷、蔵川は川辺郷に属し、成能村は黒田氏、森山村は岡氏、蔵川村は中野氏がそれぞれ庄屋として大洲藩のもとに統治してきた。
明治3年廃藩置県で大洲県に属し、神山県に合併、6年には愛媛県に含まれた。
明治23年に町村制施行で大成村となり、大正10年に大成村と蔵川村とが合併して大川村が出来上がり、肱川村の大貸部落を合併して現在に至った。
 
【菅田村】
平安朝時代、既に菅田、宇津、大竹の三部落が文献に見え、戦国時代長曽我部氏来寇の時には菅田に大野、城戸氏、宇津に大野氏、大竹には矢野氏が各々居城を持っていた。
その後大洲藩の封冊を受け多少の変遷はあったが、その子孫が代々庄屋として治めてきた。
即ち菅田の有友氏、宇津の大野氏、大竹の有友氏等である。
明治18年三村を合併し菅田村外二ケ村と呼び、同23年町村制施行と共に菅田村として発足、初代村長に有友真男(大竹庄屋)を選任した。
 
 【平野村】
 大洲を目の前に持ちながら、藩政時代は伊達10万石宇和島藩に属していたので喜多郡の大勢と豁然と区別されていた。更に明治以来西宇和郡に編入されていて、明治32年初めて喜多郡に編入された。
 23年の町村制施行で平地村と野田村が合併して平野村が生まれ、喜多郡の西南端に位置し、夜昼峠を隔てて千丈に通じ、南久米村と境し日土村と出石山の険を境に相会えている。林産物、農産物の産出が多い。

 【南久米村】
 大洲町に隣接し大洲、宇和島線の県道が村の中央を貫通する南久米村は、大洲藩加藤氏の所領であったことは変わりなく、大洲藩の最大生産地として農耕大いに振るったものである。
 明治23年町村制施行により正式に南久米村が生まれ、大正14年8月1日に大字柚木を大洲町に編入したため有名な寺も共に大洲町の一勝景に加えられた。
 初代村長は久保田住長氏で大字北只、松尾、梅川、長谷、久保、正信稲積、野佐来、黒木に分かれる。
 昭和18年の風水害で、田畑108町歩を埋没或いは流打したのはおしい。

 【三善村】
 長浜町より肱川を遡ること3里、神南山の南麓に北は粟津村、東は柳沢村、南は新谷村、大洲町、西は南久米村、上須戒村に何れも山脈をもって相接するのが三善村である。
藩政時代は新谷藩の所領であったが、明治と共に廃藩置県となり、9年同所に春賀村外二ケ村の戸長役場が置かれ、18年春賀の佐々木重左氏宅役場が移された。
 明治23年町村制施行で、春賀など3ケ村を合併して三善村と改称され現在に至った。

 【粟津村】
 加藤候大洲5万石の領地として藩政時代は平穏な二百有余年を送ったが、明治4年の廃藩置県の改正によって、在来の庄屋は何れも里正として依然統治の責任にあったが、23年地方自治制の施行により八多喜村、米津村、旧平郷平松郷の内、手成村を合併して粟津村となった。
 明治18年にはこれに戒川村(白滝村大字戒川)が合併されていたが23年に再び除かれたもの。
 初代村長は篠崎哲と云い治蹟大いに挙がったといわれる。

 【上須戒村】
(かみすがい)
 戦国時代天文年間
(1532~55)の頃、土豪伺居氏が台頭し三代安芸守行之の頃には武威四隣を圧し一王国を形成したが、元和年間大洲城に加藤貞泰が入城してから
伺居氏は代々庄屋となって支配してきた。
 やがて新谷藩が置かれるやこの所属となり、明治維新まで250年静穏な時が流れた。
 地味が大いに米作に適したことから、水田の開発に力が注がれ貞享元年には470石も産出したといわれる。
 明治18年行政区制が改められ本村と豊茂村が合併し、23年政所作治郎氏が初代村長となった。

 【白滝村】
 白滝村は旧柴村と滝川村との合併により誕生した村であって、大正11年当時の柴村村長仙波定恵、滝川村村長清水守功の両氏の時代に双方から数名の合併委員が協議、意見の一致を見て成立したもので、初代村長には野田尾藤吉氏
(大洲出身)が新任した。
 藩政時代の史実は詳かにしないが、大洲藩加藤候の領地として二百余年を封建の束縛下に送ってきた。
 同村の所轄「白滝」は紅葉の名所として余りにも有名で、紅葉に酒を暖める風流において県下随一の名所と称しても過言ではない。

 【大和村】
 養老2年
(718)金山出石寺の開基が最も古く、約600年前までは上土谷、下土谷、下須戒、大越村等に分かれていた。
 加藤氏が封ぜられる前の大洲城主宇都宮氏の分かれ、笠間蔵人尉清綱は笠間城を築き、下須戒には大蔭城主矢野常陸守正秀が居城していたが、何れも長曽我部氏の攻略で、夏草を血に染めて滅亡していったのは悼ましい。
 大越村は上老松の名に因み
、上老松村と大越村に分かれ明治維新後、下土谷村は穂積となり、明治23年穂積、下須戒、上老松が合併して相生村となり、大正11年相生村、豊茂村が合併して大和村となった。

 【出海村】
(いずみ)
 喜多郡の最西端に位置し瀬戸内海に臨む出海村にも長曽我部氏来寇の悲劇がある。
 建久年間、兵頭権守頼重なる人物が城主となり、再来代々所領して来たが、天正年間兵頭宇右衛門正家の代に長曽我部氏のため亡ぼされた。
 藩政時代には同じく大洲藩の領土であり、明治元年里長が廃せられた庄屋の代わりに統治、明治12年に櫛生村外一ケ村で
櫛生村に役場が置かれたが、23年の町村制実施で櫛生村と分立して出海村が生まれ設楽繁氏が初代村長となった。

 【櫛生村】(くしゅう)
 瀬戸内海に臨み出海村に接する櫛生村は典型的な半農半漁村であり、同村の沿革には見るべき史実は見当たらず、藩政時代に於いても忘れられた僻村の一つであった。
 明治23年町村自治制の施行により
櫛生村の誕生となり現在に至った。
 農産物として米230石、麦800石、雑穀200石、甘蔗20万貫を産し、林産物として木材、しいたけ、水産物において年間約4万貫の水揚げが村経済を保つ唯一の産業であろう。

 【長浜町】
 喜多郡唯一の港である長浜町は、肱川から年々吐出される土砂のため次第に現在の地勢となった。
 だから昔は港もずっと引っ込んでいたのである。
 元和3年
(1617)加藤左近太夫貞泰が山陰の米子から大洲藩へ移封されて来るや、現在の小学校あたりに藩邸が置かれ、舟奉行をして諸事を司さどらせた。
 当時は家屋も舟も共に僅かであったが、何分海陸交通の重要地点であり、次第に移住者も増え現在の賑やかな長浜になった。
 明治23年吉島と上老松の二牛を合して生まれたものである。

 【喜多灘村】
 瀬戸内海に臨み伊予郡に接する喜多灘村は喜多郡の北西に位置する半農半漁村であり、僅か2千人を越える小村である。
 藩政時代も史実に残る何物もなく、明治23年の町村自治制施行によって村政を敷き得たが、松山に近いとの地理的条件が、同村を財政不振から救う唯一の現状である。
 農産物米500石、麦510石、雑穀50石、甘蔗9万貫、喜多郡最小の農村であり、今後の発展は地勢に左右されない漁業にあろう。


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【喜多郡の歴史概説】


日本には旧石器時代は人間は住んでいなかったであろうと考えられている。
それは旧石器時代の遺物が出土しないからである。
新石器時代になると、縄文式文化人は日本列島に住んでいたことは、土器やその他の出土によって明らかである。
新石器時代の後期、弥生式文化人は農耕を行い村落も営んでいたのである。
当、愛媛県喜多郡においてはどうであったか。 喜多盆地を中心としてその周辺の洪積層上の地点に土器石器が出土し、古墳も存在し、銅鏡も鉄器も出土する。
これらの点により考えれば、土器の中に縄文式土器も発見されているが、層位といって弥生式土器の下位の層より出土することが確定していないので、縄文式文化人がこの土地に居住したと証明は出来ない。
しかし、常識的には縄文式文化人も弥生式文化人の以前に居住してバトンタッチしたと観てよいと思う、又古墳から銅鏡や鉄器も副葬品として発掘しているので、日本列島の状態と何ら変わるところはない。
喜多盆地は土器石器の種類も多く、管玉等の玉類も出土し、種々の立派なものが沢山に出土する。
出土地としては、新谷村都谷、和田、伏折、大洲町徳の森、花瀬山、南久米村北只、菅田村染瀬、泉徳寺、下村嶋宮の首等であるが、喜多郡は何れの土地を歩いても一つや二つの石器土器は足元にころがり、この点弥生式文化人は郡内に広く分布していたのである。
しかし原則として沖積層上には存在せずして沖積土壌上に存在するのである。
次に上げなければならないのは巨石文化である。
喜多盆地周辺には人工的に巨大な石をもって造営した遺跡が有る。
これまた他に見られないほど沢山にある。それらは西欧諸国にあるドルメンやメンヒルと同じ発生を有するものか否か研究を要する。又ストンサークル群もある。何れも通風採光が充分で風光見晴らしの良い場所にある。この巨石文化遺跡は郡内各所にあるかも知れない。
古墳は上の時代より新しい時を示すものであるが、これも喜多盆地の周辺に散在している。

ここで問題に成るのは少彦名命の伝説である。
少彦名命は出雲経営を終わって常世の国に渡るとあるから、喜多盆地経営が最後であったかも知れない。
所詮、出雲の氏族が喜多盆地に小国家建設をしたのではあるまいかと言うのは、出雲系統の神社が、伊予全体で268社あるが、その中喜多郡に属するものが約60社あるからである。
 
次は少しずつではあるが段々に文書によって残る歴史時代となる。
清和天皇の貞観8(866)118日、宇和郡を分かちて宇和、喜多二郡となすとある。
この時から郡司をおいて独立したものとなった。
又和名抄によると喜多郡に矢野郷、久米郷、新谷郷が見えている。
天歴4年(950)東大寺封戸荘園の租庸を検し、寺用を登記す。
この中に温泉郡50戸、風早郡50戸、喜多郡100戸、新居庄田93町を裁すとある。
かくして平安の時代を風雲急を告げ、元歴2年(1185)平家田内則良は大洲比志城を攻めたが四郎主に破られ讃州に逃げ帰った。
元弘3年(1333)には土居得能の一族が喜多郡根来城(大洲城?)に宇都宮氏を攻めた。
永禄12年(1569)6月宇津宮豊綱は吉川元春、小早川隆景に降るなど、次いで大洲城主は天正15年(1588)10月入城(7年)の戸田勝隆、文禄4年入城(9年)の藤堂高虎、慶長13年入城(8年)の脇坂安治、以上三氏の大洲在住時代は戦国の後で物情騒然たるものがあった。
次いで江戸時代となり、元和3年(1617)加藤氏入城して三百余年の時代は過ぎたが、その間に中江藤樹の聖人出で、王陽明学の川田雄琴、平田流の国学者矢野玄道等の偉人出で、節婦、孝子、善行者は数限りなくこの郷土より現れた。
かくて封建制度下に苦しんだ人民は、明治維新により解放されたかに見えて、昭和の無血大革命へと歩み続けたのであった。


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

●忘れかけの内子町風景・・⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め・・)


その昔、何気なしに写していた、他愛ない風景写真が今では貴重な写真となってしまいました。
 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。

ほんの40年、50年前・・今では残っていない、懐かしい風景が沢山写っているはずです。


【西からの眺め・・】
▲1959昭和34年西より
 旧内子線より内子の展望と旧56号線(地道)・・・昭和34年(1959
 元日の朝帰省、「故郷はいつもの表情で、優しく迎えてくれる」と感じながら、列車からシャッターを押しました。 木立は直近から三島神社、電話局の松と八幡神社、天神山。高圧線鉄塔は鳥越に変電所が有った。
沖田には、稲の天日干し
「稲架掛け(はさかけ)」が残っていました。

▲b0bf
      廿日市から見た内子町遠望・・・昭和12年頃(1937)

2014-12-10 001
     廿日市から見た内子町遠望・・・昭和40年(1965)
・    旧内子線の向こうには、変電所と工事中の新国道56号線。

Screenshot_2014 11内子町左3
廿日市から見た内子町遠望・・内子IC口 (2014年)


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  願成寺裏山付近から見た雪の内子町・・・平成2年(1990
   直下は駄場付近

201駄場
     願成寺裏山付近から見た内子町・・・昭和5年(1930
・   直下は駄場の家並みと「へんろ道」。中央部を横切る堰堤は内子線。
 左端は内子駅、駅前の日本通運と乾繭倉庫、中央は内子座、校舎は内子女学校。

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       植松付近から見た内子町・・・昭和61年(1986)
      新内子線の向こうに旧内子線と鉄橋が見える


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      平成6年(1994) 西方から見た内子の空撮
   satuei左から縦に、JR新内子線、旧内子線跡、旧国道56号線、新56号線。

(((o内子nal
朝焼けの内子町 (2015年頃)
左に八日市、右に知清橋

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   新内子線を眼下に内子の展望・・・平成21年(2009) 
  中央の道路が旧内子線跡であり、最接近部分になる。
内子のシンボルだった天神様の檜・杉の大木が、すべて伐採されましたね。
まさか、四国で古木を枯らして安く買い上げる古木業者のニュースがあったが、その被害に遭ったのでは?・・・と心が痛みます。


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 新内子線を眼下に内子の展望・・・平成26年(2014) 

▲2014-12-10 005
   神南山から内子町を写したもののようだ・・・昭和48年(1973)

((▲1962・37 西から
                植松の稜線より見た内子町・・・昭和37年(1962


((▲植松より1962.37西より
 植松より見た内子町・・・昭和37年(1962) 正面は高森山(309m)

イメージ 7
       内子駅から見た内子町・・・2013

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        喜多山・麓付近から見た内子町・・2012年

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   内子駅から見た新設の駅前ロータリー・・・昭和50年(1975)
   80m先を旧内子線が横切る(後に道路)

イメージ 26
       内子駅の駅前ロータリー・・・平成25年(2013)

e-railway●内子駅
内子駅でのスナップが「時刻表」表紙を飾った・・1981

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     願成寺から見た三島神社方面・・・昭和38年(1963)
    三島神社の右に操業中の瓦工場煙突が見える。

100m先
(道路右)に見えるのは
天文17年(1548年)27代目大僧正・真寂上人のこの地での死を悼み、願成寺の東方に遺骨を納め一基の宝塔を建てて供養している大僧正真寂上人の祠。(8月1日を供養日としている)


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       内子駅から見た内子町・・・2014

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       内子駅の向こうに竜王城址の遠望 ・・2013年

Screenshot_2020-04-27 D内子駅駄場池002(3)
内子駅上空から駄場池を望む(左は願成寺)・・2014年

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          内子町・廿日市の駄場池・・2007年

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         内子町・廿日市の駄場池・・2013年

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         内子町・廿日市の駄場池・・2012年

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   禅昌寺辺りから沖田と知清方面の展望・・・昭和25年頃(1950)

イメージ 22
       役場から東方を望む・・・平成24年(2012)
      左に禅昌寺、右遥かに松山自動車道が見える。

イメージ 34
内子駅付近から町内を望む・・2012年


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天神山から参道越しに内子・八日市の町並みを見る・・昭和37年(1962
坂町を登りきった「枡型」の辺り。

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天神山から参道越しに内子・八日市の町並みを見る・・(2015年)



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      内 子 橋 (56号線工事中)  昭和43年(1968)

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城 廻 橋(五城) 昭和33年 


【東からの眺め・・】
イメージ 10
        内子町全景・・・昭和3年(1928
   左の松林は旧電話局裏のもの、中央の木立は八幡神社。
   煙突は新町の銭湯・千鳥湯か?

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    知清から小田川と内子町を展望・・・昭和35年(1960)
   内子小学校は見えるが、前面の内子高校が見えない
(焼失時)
   正面の山は秋葉山

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     高森山山麓から見た内子町・・・平成25年(2013)

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    知清河原より西方を望む・・・昭和37年(1962

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 直下の大岡製作所方面から内子町を望む・・・昭和39年(1964) 
     左に内子橋、その川下に知清橋が見える。

イメージ 25
内子橋の向こうで、新国道56線の掘削作業が進む・・昭和43年(1968
直下は小田川、向こうが中山川まさかり淵付近。

(((a003d8d5
内子橋からまさかり淵を眺める(内子の子らが水浴する場所でした)2015
砂礫が堆積している奥が、深い淵(約2m)になっていた。

まさかり淵3
「まさかり淵」から川下の知清橋を望む

まさかり淵2
「からり」から「まさかり淵」を眺める(内子の子らが水浴する場所でした)

まさかり淵1
「からり」から「まさかり淵」を眺める(内子の子らが水浴する場所でした)
正面が萬古岩・・深いところは深さ2mほどあった。

((空内子からりまさかり淵(8)
川下から「まさかり淵」を見下ろす  2014年

イメージ 14
   高速道路から内子町・廿日市方面の展望・・・2012


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からり橋より小田川を隔てて見た内子町と神南山・・(2015)


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

保存保存保存保存保存保存

●忘れかけの内子町風景・・④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め・・)


その昔、何気なしに写していた、他愛ない風景写真が今では貴重な写真となってしまいました。
 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。

ほんの40年、50年前・・今では残っていない、懐かしい風景が沢山写っているはずです。


【北からの眺め・・】
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     内子町と内子高校の展望・・・昭和31年(1956
  校舎の向こうに内子座の屋根が見える。その向こうは東洋館 
 左の松の大木は電話局裏のもの。隣に内子警察署右下の屋根は小学校

イメージ 13
   天神山より内子・廿日市方面を見る・・昭和37年(1962
眼下に旧内子線・内子駅、内子高校、小学校の講堂、酒六酒造や駅前の
乾繭倉庫、中央部の森は三島神社。後方は神南山
710m)の全容。
 内子駅にはSLが牽引していた貨車が止まっている。
国道56号線やJR新内子線は未整備の時代でした。

Screenshot_2020-04-27 郷の谷2_002
旧内子駅上空から旧内子線を望む  2014年
(横切るのは郷の谷川)
Screenshot_2020-04-27 郷の谷川から天神山002(4)
郷の谷川上空から、上の逆方向「旧内子駅方面」を見る  2014年

イメージ 2
天神山より内子駅の展望・・・(1975頃) 
駅前の緑の屋根は乾繭倉庫

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天神山より雪の内子・廿日市方面を見る・・昭和41年(1966

((山本神社権現2014
権現さま(山本神社)より南の展望(2014)(長屋根は酒六酒造)

((14権現神社
権現さまの祠(山本神社)(2014)

内子1955?
小学校裏山より内子・廿日市方面を見る・・昭和43年頃(1968
新国道工事の始まった頃

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天神山より内子高校と鳥越方面の展望(昭和37年1962)

イメージ 4
天神山より内子高校と廿日市方面の展望・・・昭和45年(1970
新しい国道56号線が整備されている。

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天神山より内子高校と廿日市方面の展望・・・昭和55年(1980
新しい国道56号線が整備され、新内子線の高架も完成している。
新内子線は昭和61年(1986)開通。

左に内子町役場、内子高校の本館も鉄筋4階建てで完成。


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内子町役場より前面の沖田と国道56号線を見る。平成10年(1998)
横切るのは郷の谷川。

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天神山より内子町中央部を見る・・・昭和37年(1962
伊予銀行から八幡神社の森までの範囲。知清橋から肱川町、芳我病院、
下芳我邸、本町劇場、製糸工場や中町の鎌居醤油、林ブリキ店が
確認できる。  正面の山は平岡の大登山。

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天神山より内子町中央部を見る・・・大正15年(1926
知清橋が木橋の頃

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天神山より内子町中央部を見る・・・明治時代
鎌居醤油、下芳我邸が確認できて、沖田周辺に蝋の晒し場がある。

Screenshot_2020-04-27 2014 知清・竜宮(6)
知清から竜宮までの一望  2014年
竜宮には屏風の様な絶壁が構えている・・抉れた部分の下が旧(平岡街道)

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高昌寺より内子・八日市方向を望む・・・平成24年(2012

イメージ 20
高昌寺より内子・八日市方向を望む・・・平成23年(2011


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中山上空より内子町を見る。右に神南山
中山、立川付近から、愛媛ゴルフ場、内子、五十崎平岡、宿間と傍観できる

03_五十崎方面?内子
宿間方面の遠望

((110五十崎
五十崎と豊秋橋

((kannanzankara020
神南山より眼下に平岡を望む(2019)
下に香林寺、天神小学校、五十崎中学校、遥か遠景中央部は石鎚山

Screenshot_2020-04-27 DJI鳥越_002(14)
鳥越上空より五十崎・平岡方面を望む 2014年


【南からの眺め】
イメージ 8
       内子・八日市町並みより高昌寺を眺める・・・平成2年(1990)

(((uchiko01
内子・知清上空から町内の展望  2014年頃
上部に高昌寺、内子中学校、左に内子高校、右に内子橋、中山川。

イメージ 21
      竜王城址より内子町の展望・・・昭和55年 (1980)
           左の鉄筋建築は旧内子町役場

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竜王城址より内子町の展望・・・昭和39年 (1964)
左・古天神 中・権現様 右・新天神 後方・秋葉山

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   竜王城址より内子・廿日市方面の展望・・・昭和25年頃(1950)
           願成寺辺りと右は駄場池堤防。↑

イメージ 24
    内子・鳥越から廿日市方面の展望・・・昭和50年頃(1975)
   (左)旧国道、と(右)国道56号線開通。中央上部に願成寺

Screenshot_2020-04-27 鳥越内子_002(13)
鳥越から内子方面の展望・・・(2014年)

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  沖田の農耕。後方の建物は鳥越の旧斎場。・・・昭和30年(1955)

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     竜王城址より内子町の展望・・・昭和48年 (1973)
     手前に小田川と知清橋、左から郷の谷川が流入している。奥は秋葉山と鎌倉山

イメージ 9
        内子町空撮・・・平成12年(2000) 
ゴルフ場は愛媛ゴルフC.内子コース。 内子五十崎インターは工事中。
内子は、標高の低い丘に囲まれたフライパンの様な地形で、古代は湖沼だった所が龍宮淵(右下)の部分が決壊し、湿地帯として残ったような場所です。

イメージ 12
          愛媛ゴルフクラブ.内子コース
 
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                竜王城址より内子町の展望・・・2013年  奥の山は鎌倉山(678m)

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竜王城址より内子町の展望・・・2019年 

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       竜王城址より内子町廿日市の展望・・・2013年 
 左、山裾の道路は旧内子線跡のもの。 後方の山は秋葉山(700m)
 秋葉山は小学校上級生の恰好の遠足コースでした。

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神南山から内子、五十崎の一望 (2019) 右奥に石鎚山


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

保存保存

●忘れかけの内子町風景・・③ 知清河原と龍宮淵


その昔、何気なしに写していた、他愛ない風景写真が今では貴重な写真となってしまいました。
 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。

ほんの40年、50年前・・今では残っていない、懐かしい風景が沢山写っているはずです。



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 知清河原から川下の知清橋と神南山(710m)の遠望・・昭和37年(1962)

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知清河原の桜並木から見た知清橋(橋の右手は澱粉工場)・・昭和37年(1962)

Screenshot_2020-04-17 Google Maps(4)
知清河原の桜並木から見た知清橋・・・令和元年(2019)

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         内子・知清河原の桜並木・・2014

イメージ 4
           内子・知清河原の桜並木

60年ほど前でしょうか・・・
私らが子供の頃、内子の雛祭りは旧暦に合わせて4月3日に行われていました。 ちょうど桜満開の時期になります。

4月3日は「雛送り」と称して、内子町内の近所の男女子供たちが誘い合わせて知清河原へお重箱のご馳走を持ち寄り、お雛様を飾って過ごした1ケ月の終わりとして、グループごとにお重箱のお開きをするのでした。
広い河原一面に、子供たちの宴会の輪が出来ていたものです。

水ぬるむ川へ入り石をめくってドンコやカジカ
(ゴリ)を獲ったり、砂利で囲んで池を作ったり、子供たちは楽しい半日を、知清河原で過ごしたのです。


((1961知清
知清河原での川泳ぎ(1961)1953年頃までは上流のまさかり淵でした

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     内子・知清橋(上流からの眺め)・・昭和3年(1928)

Screenshot_2020-04-17 Google Maps(6)
内子・知清橋(上流からの眺め)・・(2019)

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        内子・知清橋(上流側から写す)・・昭和37年(1962)

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      花見時、内子・知清橋(下流側から写す)・・昭和37年(1962)

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内子町・知清橋・・・昭和6年(1931)

■内子 1962.37-東より
■内子・知清河原から天神山を見る  昭和37年 1962

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 知清河原から対岸の内子町内、北方を展望。 遠景は鎌倉山 (1962)

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知清河原から上流の小田川・中山川合流付近の展望(1962年)
左岸は藤山製材所、中山川に架かる橋は内子橋

(((内子橋大正
知清河原から上流の小田川・中山川合流付近の展望 大正14年(1925年)
中山川に架かる橋は内子橋

Screenshot_2020-04-27 2014 11内子からりまさかり淵(8)
中央に内子橋
とまさかり淵(2014年)

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小田川・中山川合流付近で、瀬を上るハヤか鮎を投網でねらう太公望・・
(1962)

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水清き知清河原  (1962)

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水清き知清河原・・右上にハヤが5~6疋。 (1962)

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水清き知清河原  (1962)

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龍宮淵のかかりから、知清方面を見る・・・昭和15年頃

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知清橋から約1km下流に「龍宮淵」があり、水は淀み水深は深くなる。

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龍宮淵 (1962)

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龍宮淵から内子・廿日市方面を見る (1962)

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龍宮淵から内子・廿日市方面の展望 (1962年)

Screenshot_2020-04-17 Google Maps(2)
龍宮淵から内子・廿日市方面の展望 (2019年)

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下流から見た、龍宮淵の淀み (1962)

●2014-16
内子町知清から平岡へ抜ける「平岡街道」が川下に沿って通じているが、
左側にはオーバーハングした高さ100mの崖があり、この辺は
通行者にとっては落石要注意場所だった・・今の街道はトンネル。(1962)
Screenshot_2020-04-27 2014 知清・竜宮(6)
知清から竜宮一望(2014年)

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龍宮淵の淀み (1962年)

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龍宮淵と右岸の「かばん岩」、遥か下流に五十崎の「豊秋橋」遠望
(1962年)


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五十崎の「豊秋橋」から見た、上流の「龍宮淵」方面 (2006頃)
山の裂け目を小田川が穿ったような場所である。

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五十崎の「豊秋橋」 (2011年)

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5月5日例年の行事・・五十崎「豊秋河原」の凧喧嘩(凧合戦) 
凧糸にカガリと言う刃物を付けて、空中で糸を絡ませて切り合い勝負する。
昭和30年頃まで、この河原で「牛市」も開催され、
農作業用牛馬の売買も行われていました。

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平岡街道より見た、龍宮淵の淀みと対岸の「かばん岩」(1962)
(この辺は、足元も絶壁なら、頭上も絶壁)

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龍宮淵と対岸の「かばん岩」を下流から見る 
(1962)


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

保存

●忘れかけの内子町風景・・② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近

 明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲へ通じていたそうです。

その昔、何気なしに写していた他愛ない風景写真が、今では貴重な写真となってしまいました。
 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 
ほんの40年、50年前・・今では残っていない、懐かしい風景が沢山写っている筈ですよ。

雨に煙る郷の谷眺望 1959-34年
  雨に煙る郷の谷眺望  昭和34年(1959)
 天理教会裏の踏切から郷の谷を見下ろす光景前方に高森山


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      七夕飾りの内子・郷の谷の家並 昭和37年(1962)

Screenshot_2020-04-17 Google Maps
同じ場所(2014年)

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        七夕飾りの郷の谷の家並 昭和37年(1962)
             (ひさしとたけし)

(ひさし
虫取り網を持って友を待つ(たけしくん)1962

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     内子郷の谷、駄菓子屋の小母ちゃん  昭和33年(1958)
 空き地から天理教会が見えていた(田中表具店前で)道路は地道でした・・

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      七夕飾りの内子・郷の谷の家並 昭和37年(1962)

・郷の谷橋から西
          郷の谷橋付近から西を見た風景・・・2017年


イメージ 36
    建物横の露地(せだわ)・・・缶蹴り中のたっちゃん(昭和33年)


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近所の赤ちゃんの子守をする、たっちゃん。
後方の店が「森並商店」(駄菓子店) 
昭和34年(1959)



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        内子・郷の谷の家並  昭和34年(1959)


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  内子町・郷の谷の家並(お正月で店は閉店中) 昭和33年(1958)
      (左からひさし、いさむ、じゅん、たっちゃん)
  

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 天理教会で・・内子保育園開設 昭和23年5月(1948年)後列中央榊原園長
           (昭和17~8年生れの子供達)

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    郷の谷橋のたもとに吾野食品店があった   昭和33年(1958)


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        昭和34年(1959)正月に降った雪。
        吾野食品店・豆腐店と郷の谷橋の向こうの藤岡さん


       ↓        ↓        ↓
イメージ 30
       吾野食品店、豆腐店の在ったところ・・・現在


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         雪の郷の谷遠望・・・平成2年(1990)


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 駄場付近と郷の谷遠望   昭和5年(1930)
          左に内子座 右に東洋館が見える。


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      内子・郷の谷橋より川上を望む 昭和34年(1959)
     300m先に旧内子線の土手が見える

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    郷の谷川沿いから見た旧内子線鉄橋  昭和37年(1962)
   毎年5月下旬になると、蛍が飛び交い蛍狩りをしたものです。
   昭和35年頃までは、この川渕にイチジクの大木が2本有った。

・郷の谷から鉄橋0
郷の谷橋付近から旧鉄橋方面を見た風景(川がほぼ直線に)・・2017年

郷の川上
旧内子線鉄橋は低くなって道路になった


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  郷の谷橋から川下、栄橋を見た風景(昔の家は全て新築された)・・2017年
  中間にコンクリートの橋が架かっていた。

(郷の谷上
栄橋から川上の、郷の谷橋を見た風景

郷の谷橋から中町
 郷の谷橋から中町を見た風景(昔の家は全て新築された)・・2017年
 新天神山も巨木は伐採された。


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        近藤精米所辺りから前面を見た風景。 (2017年)
        左に郷の谷橋が見え、この正面辺りにコンクリート橋



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     旧内子線鉄橋下の様子・郷の谷川  昭和37年(1962)

内子 1962.37-10 016
旧内子線鉄橋下の水辺  昭和37年(1962)

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            内子線のC-12型機関車

((s38鉄橋
内子駅を発車した列車が郷の谷川鉄橋を渡る (昭和38年1963)

((s45・3・31SL最終
昭和45年3月31日 内子駅をSL最終列車が発車した・・

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     ここを坊ちゃん列車が走った時・・平成元年(1989)
・    鉄橋の向こうに新内子線の高架が見えている・・

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     内子を、坊ちゃん列車が走った時・・平成元年(1989)
 石炭を焚いて松山市内を走らせる許可が出ないため、内子線を走らせたらしい。

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            内子駅    昭和61年(1986)

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  内子駅    昭和32年(1957)

JR● 内子駅
 内子駅プラットホ-ム    昭和24年(1949)

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  旧内子線、終着内子駅の様子・・・旧内子線終了時 昭和61年(1986)

JR●内子駅7
内子駅終着点 (1963) 

JR内子●1983
内子駅終着点 (1983) 

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         内子駅構内のC-12231 (2006頃)


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     旧内子線、終着内子駅の様子・・・ 昭和60年(1985)

イメージ 26
    内子駅で出征兵士を見送る風景・・・ 昭和18年頃(1943)
・   後方に内子小学校が見える・・・

JR14c駄場踏切
駄場踏切より郷の谷方面を望む(右は天理教会)1990

JR015c駄場踏切
植松方面踏切より駄場踏切を望む 1990

JR内子●3013
新・旧内子線の最接近地点付近(廿日市)1990

イメージ 21
     鳥越の登り坂を行く内子線・・・昭和9年(1934)

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   鳥越の登り坂を登り切ったら五十崎駅  昭和35年(1960)

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        五十崎駅(いかざき)  昭和35年(1960)


   喜多山トンネル  
イメージ 32

 イメージ 33              
  喜多山トンネル(廃線後)

                     
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  五郎駅・・・内子線から予讃線に乗り換え風景  昭和34年(1959)
          (白髪の紳士は峰先生)


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           五郎駅・・・平成25年(2013)

イメージ 34
         五郎駅の内子線列車 昭和33年(1958)


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       旧内子線鉄橋下の郷の谷川  昭和37年(1962)

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    旧内子線鉄橋下より郷の谷方面を望む 昭和37年(1962)屋波の奥に3階建東洋館

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     植松方面より旧内子線鉄橋を望む  昭和37年(1962)
家並の中に「内子座」の屋根。右の土手下に鉄橋下へ通じる畦道が・・

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    旧内子線付近から郷の谷方面を望む  昭和37年(1962)

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  旧内子線の土手付近から、郷の谷方面を望む  昭和37年(1962)
  中央部の木立は恵比須神社(左)と三嶋神社の森、右の屋敷は天理教会。

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    恵比須神社付近から郷の谷方面を望む  昭和37年(1962)
   家並の中に「内子座」の屋根が見える。 山上の森は新天神様

    ↓上の写真の3軒が使っていた井戸の件です。

イメージ 50
昔の家は、全て新築に成り、用地も低かったので約1.5m嵩上げされまして、3m向こうの、みきさん宅の柵の内側に有った井戸は埋められたそうです。
辛うじて森並と近藤さんとが使っていた井戸は、屋根付きで残っていますが、ここも1.5mの嵩上げで、昔の四角い井戸枠ではありません。
昔はこの周辺は背の高い棕櫚の木や低木の庭木が沢山植えられていました。

イメージ 49
エアコン室外機の有るあたりに、みきさん宅の井戸が有った。
みきさん宅の木製柵は、この写真のように張られていた。
近藤さんの向こうの家は、本町から入ってくる道路
ですので、更に1m高くなっている。(2017年)

イメージ 14
  郷の谷から見た、廿日市の「恵比須神社」(左上の林と祠)昭和35年
    (最近は樹木も伐採され、祠が残っているのみでした)
4a内子町廿日市●恵美須神社2009
廿日市の「恵比須神社」(2014)
昭和26~7年までは、11月末の「亥の子餅」の日に「恵比寿さん」として、町内商店街の大売り出しの市が立ち、近隣山村から老若男女が日用品や農耕用具、種苗の買い出しで町内を闊歩され、もらった抽選券をこの恵比寿神社で、大行列で景品と交換してもらうなど、初冬の風物詩でした。
「恵比寿の市の、職るよな行き来、笑顔ゆかしき伊予言葉」
と、内子小唄にも唄われている。
●『内子小唄』 
 蛭子省二作詞(内子中・用務員)長尾武治作曲(内子高・教諭)
                     (昭和24年頃)

① 春の内子は高昌寺詣で、知清河原の雛送り
 姿かわいや 一ノ瀬かじか、自慢の味が忘らりょか
 内子良いとこ、そうだよ内子

② 夏の内子は天神山よ、竜王城址の深みどり
 天下泰平と太鼓はひびく、日本一の宮相撲
 内子良いとこ、そうだよ内子

③ 秋の内子は八幡様よ、銀杏色づきゃ大祭り
 紙や木蝋で栄えた町が、今じゃ製材 竹細工
 内子良いとこ、そうだよ内子

④ 冬の内子は高森山よ、神南山の遠景色
 恵比須の市の織るよな行き来、笑顔ゆかしき伊予言葉
 内子良いとこ、そうだよ内子


イメージ 18
郷の谷から、垣根越しに西方を見た町内風景 昭和33年(1958)
(左から吾野さん、松長さん、西尾さん宅

イメージ 55
内子町本町の七夕風景  (昭和27年頃・1952年)


イメージ 22
郷の谷橋の下流50m、本町1丁目の郷の谷川を渡る「栄橋」
左の三階建ては東洋館・・昭和6年(1931)

イメージ 27
郷の谷橋の下流50m、本町1丁目の郷の谷川を渡る「栄橋」 平成20年(2008)

イメージ 54
「栄橋」より本町方向を眺めた風景。 平成29年(2017年)


イメージ 15
     植松の古天神様の参道でいさむ  昭和37年(1962)


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html


保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

●忘れかけの内子町風景・・① 内子小学校、中学校、高校と新天神さま

 その昔、何気なしに写していた、他愛ない風景写真が今では貴重な写真となってしまいました。
 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 
ほんの40年、50年前・・今では残っていない、懐かしい風景が沢山写っている筈です。


((▲1962・37 西から
       植松の山麓から旧内子線内子駅方面を望む(昭和37年1962)
左端に内子小学校屋根と校庭のプラタナスの茂み、中央部に鉄筋新築された内子高校、駅前の乾繭倉庫と煙突も見える。


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         昭和37年頃(1962)の内子小学校
左後方の権現神社から山頂にかけては赤松林だっが、今は松枯れで皆無だ。


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     昭和37年頃の内子小学校 (後方の山上の大木が新天神様)

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       昭和20年5月に内子小学校へ疎開転校してきた。

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     昭和30年(1955)の内子小学校 (内子高校からの眺め)


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            昭和12年新築時の内子小学校

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  昔、本館前に在った「二宮金次郎像」は現在、校門の外側に鎮座している。

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            昭和12年新築時の内子小学校

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          昭和12年新築時の内子小学校講堂

(((内子尋常高等小学校-640x
現在の内子高校の場所に在った内子尋常高等小学校 (大正10年頃)

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内子尋常高等小学校 (昭和8年頃)

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                現在の内子小学校 (2008年)

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 昭和37年頃、知清河原から見た「新天神山」右手前から参道が伸びている。
右の洋館は旧内子町役場、右奥の山は鎌倉山

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知清河原から見た「新天神山」2019


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    昭和37年(1962)新天神様への参道と町並み保存地区の家々
         坂町を登りきった「枡型」の辺り。

((((af内子八日市
新天神様への参道と八日市町並み  2015年

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        昭和30年(1955)当時の内子中学校正門

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  新天神様参道付近より見た、昭和37年(1962)当時の内子中学校。

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    新天神様参道付近より見た、昭和37年当時の内子中学校。
   校門前の「上芳我邸」も見える。

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      内子中学校・本館の後ろの校庭  昭和32年(1957)


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          現在の内子中学校 (右奥は高昌寺)


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     山上の新天神さま(後方の小高い、昔の監視所跡付近より写す)
              前方の沖田は総てが耕作地。1962年

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新天神社より南東方向を見下ろし町内中心部を見る。
肱川町芳我医院を経て知清橋が見える。下芳我邸、本町劇場、
  製糸工場や中町の鎌居醤油、林ブリキ店が確認できる。    
右の樹木は本町4、八幡神社の銀杏の木・・・1962年

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昭和31年(1956)の内子高等学校(校舎後方に内子座の屋根と東洋館が見える)(左の松の大木は電話局裏のもので、洋館は内子警察署)(直下は小学校屋根)

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内子町立学堂(左)と内子実科女学校々舎(後に高校)(昭和15年頃)

(((16年内子女学校
内子実科女学校(後に高校)の南側は駅に通じる道路だった(昭和16年)

(((1951内子高
昭和26年(1951)の内子高等学校

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       昭和31年頃(1956)の内子高等学校正門

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        昭和45年頃(1970)の内子高等学校正門


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       平成2年(1990)の内子高等学校 (正門付近)

● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html


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第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

 昨年、愛媛県喜多郡内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう父の「軍事郵便はがきの束」と、応召した時に受けた「軍隊手帳」が出て参りました。

 私が想像するに、この軍事郵便はがき類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(享年53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。

便りの内容は、軍事郵便の常で必要以上の事は決して書けない・・・という他愛の無い内容ですが、
父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思っています。

第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33047396.html・・にあるように、満州東寧に赴任したのが昭和16年8月27日でした。

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 昭和17年(1942)3 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事、安心しております。
芳子の容態は如何ですか、以前より大分良いとの事、安心しております。
泰弘も松山へ来ているとの事ですね。電車等には充分気をつけて下さい。
先日写真を送っておきましたが届きましたか。
まあ心配はせぬように願います。身体に気をつけて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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・       恐らくこの写真が送られて来たのだと思います。
(戦時中はシェパードのことを、「軍用犬」と呼んでいたように記憶しています)

泰弘も松山へ来ているとの事ですね・・・については↓●第25話 鯉の血・・参照http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8721542.html


 昭和17年(1942)617 
松山市琢町64   福島浦子様内  福島 泰弘殿(5才)
   【絵葉書在中】
満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 
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     ●封書の中身は荒井一壽」筆の軍隊漫画絵葉書6枚ほどでした。

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 昭和17年(1942)827日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、内地も暑いことと思いますが、私も大変元気ですからご安心下さい。
当地も最近は大分涼しくなり、内地の秋の様です。
先日ご送付下さった同窓生の人々の処へは、私の方よりも礼状を差出しておきました。
子供達の服を・・・との事ですが、買うようでしたら俊光のをも買って送っておいて下さい。
時候柄ですから、子供達に気を付けて下さい。 お母さんによろしく。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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泰山の召集を聞き付けた松山市、北豫中学校(現・北高校)卒業の同窓生有志が「御餞別」を実家の方へ届けてくれたのでしょう・・・その名簿を浦子が戦地へ送り、本人の手帳に挟んでありました。

【同窓生名簿】                       

松山市志津川町      岡本 長一    

松山市河野町     山本 末見   

・松山市昭和町68     香川 一雄     

・松山市道後湯之町     三好 退二  

・松山市江戸町(南味酒町) 石川 兼      

・温泉郡小野村字平井    森本 利徳   

・温泉郡南吉井村字北野田  隅田 寿男     

・松山市道後湯之町南町   池内 修(西岡 

・松山市府中町       樋口 恒徳     

・松山市桑原町       石丸 英隆   

・温泉郡浅海村       高橋 泰夫


 昭和179月末 松山市琢町64  福島 浦子 様
其の後、変わりありませんか。私も大変元気です。
内地も祭り前で大分涼しくなってきた事でしょう。
当地も冬服で丁度良い頃となりました。
便りは出しますが大街道へも宜しく云って下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 

 昭和171127日 松山市琢町64  福島 浦子 様
寒くなって来ましたが子供達や皆元気ですか。
私も相変わらず元気ですから、安心して下さい。
子供達に風邪を引かさぬ様にお願い致します。
当分の間、便りを致しませんが、元気ですから心配せぬ様にして下さい。
寒くなりますから身体に気を付けて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊(鈴木隊)今井隊  福島 泰山

「当分の間、便りを致しませんが・・・」とあるのは、この時、満州岩6418部隊は今井隊長のもと南方戦線へ転戦すると発表され、12月2日出発となったのです。

【参考】第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・

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  12月2日より陸路、海路を経て12月22日にラバウルへ到着しております。

以下の便りには「ニューギニア」方面へ転戦したとは書いていませんが、私が浦子から地図を前にして聞いたのは「父ちゃんは牡丹江から、ニューギニアの戦地に移動したんと・・・」と教えてくれたので、12月2日到着早々に(ニューギニア方面)という便りが来ていたようです。
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 昭和18年(1943)131日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後大変永らくご無沙汰しましたが、
子供達や皆、変わりはありませんか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
先日、送金しておきましたが届きましたか。
何か子供達のものでも買ってやって下さい。
内子の方も元気ですか。大街道の光月堂へもよろしく。
八木の人に度々便りを頂きましたが、よろしく云って下さい。
寒い頃ですから身体に気を付けて下さい。
お母さんや門屋へもよろしく。 では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和183月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、ご無沙汰致しますが、皆変わりはありませんか。
子供達も相変わらず元気ですか。
私も元気ですから安心して下さい。
内地も大分暖かくなってきた事と思います。
芳子の一周年も来ることと思いますが、丁寧に祈ってやって下さい。
時候柄ですから身体を大切にして下さい。 内子へもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和1852日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事で安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
俊光もまた内子の皆も元気なとの事で安心して居ります。
内子から慰問袋を送って貰いましたから、礼を云っておいて下さい。
大街道や近所の門屋さんにもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

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 昭和18年(1943)610 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後ご無沙汰ばかり致しますが、子供達や皆は元気ですか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
内地も大変暑くなり始めたことと思いますが、
子供達の病気に充分気を付けて下さい。
先日内子から便りが有りました。 皆身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

 
 昭和1877日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日便り受け取りました。 
子供達や内の者も皆元気との事、安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
内子からも便りがありました。皆元気との事、安心して居ります。
大街道の光月堂も元気ですか。 よろしく、では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和188月 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、其の後、皆元気ですか。
内地も大変暑いことでしょう。 私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
内子の俊光も元気との事、安心しております。
時候柄ですから子供達の身体にも気を付けて下さい。 では又。 

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山


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 昭和18年(1943)9月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後お変わりありませんか。
私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
子供達やお母さんも元気ですか。
少々送金して置きましたから、受け取って下さい。
時候柄ですから身体を大切に。  返事下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和181016日 松山市琢町64  福島 浦子 様 
本日、便り受け取りました。皆元気との事、安心しております。
送った煙草、着いたとの事ですが、あれは呑んで下さい。
半分は内子へ送って喫って貰って下さい。
「カビ」がねても(かびても)困ります。
下宿で居る学生さんにものましてあげて下さい。
皆、身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

(この便りから「私も相変わらず元気です・・」の言葉が抜け落ちています。 マラリアの発熱で配給の煙草が不味くて吸えなくなった・・・ものと考えられます)



 
昭和18年11月中旬? 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山




 この頃、父・泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。 

 泰山は昭和18年(1943)11月26日
にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。 

【参照】↓

第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・


第33
話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図


第33
話の⑨・・父泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・



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