泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

タグ:その他国際情勢

太平洋戦争の残影 ㉘戦艦「大和」の最期・・

攻勢を強めるアメリカは、マッカーサー元帥率いる南太平洋方面軍を、フィリピンのレイテ島に上陸させた。 そんな中、大本営はレイテ島奪還に向けて日本の海軍史上最も大規模な作戦「捷(しょう)一号作戦」を発令した。

作戦の概要は小沢空母機動部隊が囮となって米艦隊を引き付ける間に、「大和」を含む戦艦部隊をレイテ湾へ突入させ、「大和」が誇る世界最大の46cm砲によって上陸中のアメリカ輸送船団を殲滅させるというものだったが、昭和19年(19441022日、栗田艦隊は「大和」「武蔵」を率いてレイテ湾へ出撃し、小沢の機動部隊は首尾よくアメリカ艦隊を引き付けることに成功はしたが、ここで「大和」の栗田長官は突撃を中止し、Uターンをしてしまう。

不思議にも、栗田長官は「大和」他をして、レイテ湾内にひしめく米船団に大打撃を挙げられる筈の、この作戦を遂行することが出来なかったのです。

 
昭和20年(194545日、「大和」に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地はアメリカ軍が上陸を始めていた沖縄でした。
連合艦隊司令長官・豊田副武は「天一号作戦」を発動する。それはアメリカ艦隊がひしめく沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦させ、自らを沿岸に座礁し、砲台となることも辞さないという「水上特攻作戦」だった。   
航空隊の援護も無いこの作戦は、沖縄に辿り着けるか判らない無謀なものだった。
  
昭和20年47840分、「大和」は米軍の航空機の編隊を視認しました。1234分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。米側の最初の急降下爆撃により「大和」は爆弾2発を受ける。
そして13時37分、魚雷3本が左舷中央部に敵中。更に2本が左舷に命中し次第に船体が傾いていった。220分、傾斜が20度となり、復元不可能となる。

そして、14時23分、傾斜が35度に達した時、「大和」は左舷から転覆し始めた。
艦体が海に没した直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生したのです。
海中から爆発と噴煙が立ち昇り、その高さは一千米に達したのです。

戦艦「大和」の最期の姿でした。
華やかな戦果を一つとして、挙げることの出来ない、悲運の戦艦でした。


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   柱島泊地に於ける戦艦「大和」  


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戦艦「大和」Yamato, named after the ancient Japanese Yamato Province…

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戦艦「大和」(主砲が2連式の時?)


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泊地での「大和」


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昭和19年10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和、榛名、金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。


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シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


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シブヤン海でアメリカ艦載機による攻撃を受ける戦艦『大和』 昭和19年10月24日


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シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


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       日米両海軍が火花を散らした大激戦「シブヤン海戦」


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        そして「天一号作戦」へ向けて沖縄へ

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     坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日

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      坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日


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          グラマンの攻撃を受ける「大和」

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傾斜した「大和」を守るべく、防空戦を続ける「冬月」の砲が火を吹いたところ

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 相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した「大和」 左舷を護衛するのは雪風.


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           戰艦「大和 」と護衛艦とも9艦で・・・


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           空襲の中、回避行動を取る「大和」

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           敵機の攻撃に曝される「大和」

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         懸命に回避行動を取るも・・「大和」

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          米艦載機からの攻撃で瀕死の「大和」


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「大和」が横転し、大爆発を起こした瞬間。


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艦体が海に没した直後、(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した

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艦体が海に没した直後、火薬庫に引火・誘爆、凄まじい大爆発が発生した


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 直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した。


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           鹿児島県、坊ノ岬沖にて轟沈。

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         昭和20年4月6日、7日、軍艦大和行動図


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        ➀                 ②   

  ➀
 はこの作戦時の戦艦「大和」の戦闘詳報です。
(後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する)
  ② 「大和」の詳細な作戦行動が記されている。  「大和」は461520分に沖縄に向けて、帰る見込みのない最期の航海に出撃したのです。
出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜」。 


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                           ③                  ④

  によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。  
  ④ は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの



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         ⑤               ⑥

 「参考事例(戦訓)」には、
戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別とし て、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をも、みすみす無駄死にさせてしまう、と書かれている。
 また、「大和」を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれている。


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           敗れて目覚める・・・


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         コルセアによる「大和」への攻撃・・


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 Paintingof Japanese battleship Yamato under American…


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IJNbattleship Yamato under attack -- Okinawa, her final battle!

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 IJN Yamato under US air attack the afternoon of April7.1945


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 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


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●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
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(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。

 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。

栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。

そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
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         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。


【太平洋戦争の残影を見る】 ↓ ①~㉘

  大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html 

  大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html 

大阪ミナミの爆撃廃墟  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html 

④神風特攻隊・・1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html

⑤神風特攻隊・・2  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36339854.html

⑥神風特攻隊・・3  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36356342.html

⑦神風特攻隊・・4  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36373109.html

⑧神風特攻隊・・5  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36389248.html

⑨神風特攻隊・・6  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36406435.html

⑩神風特攻隊・・7  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36423117.html

⑪神風特攻隊・・8  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36439341.html

⑫神風特攻隊・・9  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36454544.html

⑬神風特攻隊・・10  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36471371.html 

⑭松山海軍航空基地 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html

⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html

⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html 

⑰坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36530106.html 

  坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36546313.html 

  真珠湾攻撃による日米開戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36557875.html

⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36578883.html 

㉑真珠湾攻撃によるダメージ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36591114.html

㉒マレー沖海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36628346.html

㉓珊瑚海海戦   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36643454.html

㉔ミッドウェー海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36655630.html

㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36673242.html

㉖戦艦「大和」と「武蔵」  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36699641.html 

㉗戦艦「武蔵」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36713029.html

㉘戦艦「大和」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36728399.html 

   

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「武蔵」の最期・・

昭和19年(19441024日、フィリピン・レイテ島争奪をめぐって、日米両軍が全力を挙げて空前の大海戦が展開された。
 「武蔵」は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の記録によると「武蔵」には、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25が命中したという。
だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約時間も沈まなかった。
 

「大和」と「武蔵」には異なる点も多かったのだ。
まずは建造された場所が違う。「大和」は広島県・呉にあった「呉海軍工廠」で建造された。つまり、国が自ら製造した。一方、「武蔵」は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されている。

  三菱重工業の長崎造船所は、多くの軍艦を建造する一方で、日本と欧米を結ぶ客船も造っていた。 

  そのため、艦船の内装の設計にも定評があったという。「大和」を製造した呉海軍工廠は、司令官が乗り込む施設の調度品を長崎造船所に依頼したという話もあるぐらいだ。
「大和」よりも「武蔵」のほうが内装の質が上だったということだろう。
 
 「武蔵」が沈み難かった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている。
だが、それだけではないようだ。「武蔵」の防御力や浸水に対する設計が優れていた証拠でもある。
 
 「武蔵」の壮絶な最期を「大和」の艦上から目撃した宇垣纏中将は、この時の様子をこう書き残している。
1530分、艦隊は反転す。本反転において麾下の片腕たる「武蔵」の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終わり、左舷に傾斜十度くらい、御紋章は表しいるも艦首突っ込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり』 (「戦藻録」著・宇垣纏、原書房刊)
宇垣中将の記述は、『艦首から砲塔がある前の部分が海水に沈みかけていて、事実「武蔵」は艦首から滑るように沈んでいった。』
午後735分、日本海軍が建造した最後の戦艦でもある「武蔵」は1040人の乗組員と共に、フィリピン・シブヤン海にその巨体を没したのである。  
 (乗員2,399人中・・・生存430人)
 


 しかし、これで悲劇は終わらなかった。「武蔵」の生存者の1376名が辿った道は悲惨なもので、ある者はフィリピンの陸戦隊に編入させられ、その戦いで大半が命を落とし、ある者は日本へ帰っても拘禁状態で幽閉され、武蔵沈没の口封じの為に沖縄や硫黄島の戦場へと送られ、またある者は特攻艇に・・・という事など、戦後生き残った人々は結局、沈没時の生存者の半分に満たなかったのであった。


 満身創痍「武蔵」の防御力に驚愕した米軍は、のちに沖縄沖へ向う「大和」を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させて撃沈している。「大和」の最期も壮絶なものだった。
 「大和」と「武蔵」、共に猛攻撃を受けて沈んだが、特に「武蔵」のそれは世界の海戦史上で類がないものだった。



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         [End of IJN Musashi] - On October 24th 1944,

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[Musashi] was the second of the Yamato-class battleships; she shared the honor with the lead ship, as the largest battleship ever constructed in naval history.

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10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の「長門」の前方が「武蔵」で、そこから奥に向かって「大和」「榛名」「金剛」と「高雄型重巡洋艦4隻」

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   サマール沖で米空母艦隊を砲撃する武蔵 昭和19年10月24日

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   10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける武蔵。

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  猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が艦橋の高さを遥かに超えている。

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   被弾しながらも前進する武蔵。後方に「陽炎」型駆逐艦が見える。


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  黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、妙高型重巡洋艦。
  右側に高雄型重巡洋艦金剛型戦艦が確認できる。


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       Yamato-class battleship, IJN Musashi
【艦尾に水上機を4機搭載しているのが確認できる
0式3座水上偵察機


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シブヤン海で米海軍艦載機の攻撃を受ける戦艦武蔵・・昭和19年10月24日


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   爆撃を受ける戦艦「武蔵」。このあとシブヤン海に巨体を沈めた。
   昭和19年10月24日

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  シブヤン海で雷撃を受ける「武蔵」。右舷から水中に噴き出す泡・・


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(Sibuyan Sea, 24 October 1944)武蔵●艦首の沈み込みがハッキリと・・

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攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る。(駆逐艦「磯風」の撮影)


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            戦艦「武蔵」の最期の姿

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      艦首から静かに海中へ、引き込まれていった・・・

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         レイテ沖海戦での日米艦隊の航路図。

上記、細密図➔・・https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6%E5%9B%B3A2.pdf  



 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


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●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
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(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。
 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。
栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。
そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
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         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。

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太平洋戦争の残影 ㉖戦艦「大和」と「武蔵」

真珠湾攻撃、マレー沖海戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が、「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」のような戦艦から、航空機へと移ったことを自ら証明することになります。 
開発当時は「不沈艦」と称された最先端の戦艦だったが、第二次大戦では戦艦同士の砲撃戦から、洋上の基地としての空母と航空機を主体とした戦いに移っており、戦艦の価値は大きく低下、自慢の46cm主砲が活躍する機会は殆んどなかったのです。
 
昭和16年(194112月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(19426月のミッドウェー 海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)619日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年1023日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が「大和」が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。

すでに日本の敗色が濃厚となっていた昭和19年(1944)のレイテ沖海戦で、「武蔵」が集中攻撃を受けて沈没。一方「大和」は被害を受けながら帰還修復が為された。

連合艦隊が壊滅状態に陥ると、昭和20年(19454月、「大和」は沈没前提の特攻作戦として米軍の沖縄上陸阻止に向けて出動、多数の敵機の標的となり、鹿児島南西海上で47日に沈没した。

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           柱島泊地に於ける戦艦「大和」
  

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             戦 艦 「大 和」


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  トラック島泊地における戦艦 左『大和』 右『武蔵』 (昭和18年)


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              戦艦『大和』


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全力予行運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月20日 宿毛標柱間)

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全力公試運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月30日宿毛沖標柱間)


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戦艦『大和』


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  最終艤装中の戦艦『大和 』(昭和16年9月20日 呉海軍工廠にて)


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停泊中の戦艦「長門」の向こうに「大和」の姿が見える(昭和19年)ブルネイ泊地

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中島九七式三号艦上攻撃機 (97艦攻)直下に儀式用テントを張った「大和」


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                戦艦「大和」

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左から武蔵手前最上、右大和手前鳥海  (昭和19年10月21日 ブルネイ湾)

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             戦艦『武蔵』 前方正面


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昭和天皇行幸の記念写真。対空機銃銃座前(1943年6月24日)戦艦「武蔵」
          ・・・前列中央が【昭和天皇】・・・

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    徳山~呉間で公試中の戦艦『武蔵』艦橋付近(昭和17年7月)


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 戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望

(((武蔵にトリプルガン配置
戦艦「武蔵」のトリプル砲と水兵

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         戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望す


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               戦艦『武蔵』

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      レイテ湾の戦艦『武蔵』 ( 1944年10月22日)



【次回は】・・・

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「大和」と「武蔵」の最期・・につづく





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太平洋戦争の残影 ㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲

 日米開戦後には、真珠湾攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、1220日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開していた。
 その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻を撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は64千トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
 
 さらに昭和17年(1942)224には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行い、これに成功するなど一連の西海岸本土への先制攻撃を行った。日本軍による一連の米本土への先制攻撃は、これまで本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本軍の本土上陸は避けられないと判断していた。

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         カリフォルニア サンタバーバラ奇襲

日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として、昭和17年(1942224日未明に「伊号第17潜水艦」(イ-17)によりカリフォルニア州ロサンぜルス西方近郊、サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、アメリカ軍からの反撃を受けぬままに同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の先制攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えた。

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      1942年、アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行ったイー10


独立以来、アメリカ本土での侵略経験がない米国民の戦意高揚を目的に、早い時期における日本の首都東京空襲戦略を企画した。  昭和17年(1942)の年明けから戦術化された東京空襲戦略は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社によって開発・製造された航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機である「B-25」を空母ホーネットに搭載、日本本土の哨戒線間際の900キロ地点から空母から発進させ、東京を夜間空襲し、約2,000キロ離れた中国大陸東部へ着陸させる計画であった。

 攻撃指揮をとるジェームズ・ハロルド・ドゥリットル中佐をはじめ隊員たちは、わずか1カ月の猛訓練の後の1942年4月2日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。
 
 空母からの索敵によると、北緯36度4分東経153度10分地点で日本の哨戒艇を発見した。 それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」(日東漁業、90トン)に発見されたことを意味した。 底引網漁船の「第二十三日東丸」は、軽巡のナッシュビルと、F4Fワイルドキャットの機銃掃射を受け、07:23に撃沈されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』の無線を使う時間は有った。


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    ⇧「第二十三日東丸」

06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった



   炎上する「第二十三日東丸」➔



 4月18日夜間攻撃予定だった米軍の計画は、同日朝、米・機動部隊が太平洋沿岸で日本の哨戒艇に発見されたため、急きょ計画を変更、攻撃時間を10時間早め、東京から1,200キロ、着陸地点中国大陸までの航続限界地点からB-25を発進させた。

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爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐➔


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        空母「ホーネット」上のB-25 出撃体制

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       空母「ホーネット」上のB-25 離陸体制完了


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           空母「ホーネット」より出撃

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       空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25


日本本土、18日の東京では、早朝から大規模な防空訓練が行われていた。
 その最中の午後0時10分、「B-25」は焼夷弾を
投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない市民が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。

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ドーリットル進行ルート、茨城県から東京侵入し12:15頃から空襲を行った


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            横須賀軍港に対する空襲

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横須賀を爆撃した(2247機)が撮影した空中写真のほかに、田園地帯を爆撃する不可解な写真。

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  16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃。

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            爆撃被害後の子供たち


勝利に次ぐ勝利という戦果を上げていた日本の軍部は、空母が爆撃機を搭載して日本本土を攻撃してくるとの思考を持ち合わせていなかったため、哨戒艇から、米機動部隊発見の報を受けていながら、空襲があるとしても翌朝と判断していた。まさに迫撃態勢、空中戦も無く列島横断中に1機の撃墜も出来ぬまま放置され、空母「ホーネット」を探索追尾攻撃さえ出来ず、偵察資料不足の米軍の奇襲攻撃を成功に導いたのです。

 茨城、千葉上空で戦闘機による迫撃態勢を取っておれば、敵16機全機の撃墜は可能だったと思われます。
 正に迎え撃つべき司令部の無能ぶりを見せ付けたのでした。

ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。日本側の被害は死者87名、重傷者151名、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった。

 爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュートで脱出した。
この結果、15機のB-25が全損となった(11機は落下傘脱出、4機着水)。
8番機はソ連のウラジオストック不時着、乗員は抑留された。爆撃機隊のうち、乗員戦死が1名と行方不明が2名、日本側捕虜となったのが8名(後日3名処刑、1名病死)。

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 1942年、捕虜となったB-25搭乗員を連行する憲兵下士官。(上海方面)

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➀         昭和17年4月19日付『朝日新聞』朝刊

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② 19日付『読売新聞』2「国土防衛に士気極めて旺盛」「焼夷弾微力な2キロ」


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③           昭和17年4月19日付『読売新聞』



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④          昭和17年4月19日付『東京日日新聞』

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⑤           昭和17年4月19日付『東京日日新聞』


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⑥       昭和17年4月22日付『東京日日新聞』夕刊

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⑦          昭和17年4月26日付『読売新聞』

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⑧         昭和17年4月28日付『東京日日新聞』






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太平洋戦争の残影 ㉔ミッドウェー海戦

開戦半年後、昭和17年(1942)65(アメリカ標準時では64日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦により、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失した。
ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を失う大きなターニングポイントとなってしまった。

 
国力で圧倒的に劣る日本が守勢に回ってもいずれジリ貧になる。
短期決戦に持ち込むため、早期に敵の弱点を叩くことで、相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断がなされた結果だ。
 
以後のハワイ攻略を見据えた作戦計画が立案され、その前提としてミッドウェー攻略作戦に踏み切ったのだ。
ミッドウェー島を占領しても維持は極めて困難でも、占領後にはただちに他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたようだ。
  結果は、約2倍の投入兵力でありながら取り返しのつかない損害を被ることとなった。

 
敗因は多岐に渡っております。 その主な原因としては・・・
 
 ●諜報能力の差・・
 日本軍の暗号は、米軍でかなりの精度で解析されていたとされる。
 本作戦概要は、最初は断片的であったものの、海戦前の5月頃には全体像などを明白に掴まれている。
 また、日本軍側でも情報管理に綻びが出始めており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていた(「今度はミッドウェーですね」と挨拶された)という証言もある。
 

 ●不十分な索敵・・
 索敵立案を担当した吉岡忠一は敵が作戦中現れると考えておらず、艦上攻撃機を索敵に回すのが惜しかった、全く状況判断が甘かったと戦後反省している。
(索敵計画に携わった数名も二段索敵にするべきだったと反省している)

 甘い敵情の判断は戦闘指導に大きな影響を与えた。
 

 ●兵装換装・・
 上記のこともあって、兵装を雷装から爆装に
(決戦用から対地用へ)換装している。換装にはかなりの時間を要する。

 そこに敵が現れる結果となったため、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能であった。
 米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できたという「運命の5分間」説は根強いが、実際にはその時点で攻撃隊は、飛行甲板に並んですらいなかったので、誤りであるとされる。
 

 ●ダメージ・コントロールの欠如・・
 日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されておらず、火災に備えた訓練も行われていなかった。

 そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手の付けようがなく、米軍勢力圏内での曳航に失敗し、自沈処理に至った。
 

 ●楽観的気運・・
 真珠湾以来の完勝は自信を過信に変えた。珊瑚海での戦いも練度の低い五航戦でも勝てたのだから自分たちには問題ないと信じていた。

 これにより珊瑚海での検証さえも十分になされなかったとされる。
 また、搭乗員だけでなく司令部も甘い判断が目立ち、第一航空艦隊に敵に備えるように言っておきながら、情勢の緊迫を察知しながら、東京からの甘い状況判断の放送を全部隊に流したままで、自己判断を知らせないままだった。
 
 その他にも、●司令部での意見の不一致、●レーダー装備の有無、●哨戒網の問題・・など色々な説がある。

 それにしても開戦6ケ月後に、
航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失したのは、今後の作戦の練直しの止むなきを得ず、司令部の大失策であろう。


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            ミッドウェー諸島攻撃

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            これがミッドウェー環礁

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         ミッドウェー諸島と米海軍航空隊基地

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               ミッドウエー海戦図

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         1942年6月5日~7日(ミッドウエー海戦)


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     南雲機動部隊によって炎上するミッドウェー島空襲

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     この機に乗じてダッチハーバー爆撃敢行(アリューシャン)


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             ミッドウェー海戦

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              ミッドウェー海戦

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         空襲を受ける米空母「ヨークタウン」

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      煙を上げる米空母「ヨークタウン」と「ハムマン」

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イ168による雷撃、ヨークタウン』と『ハムマン』それぞれに1発ずつ命中

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 現地時間6月7日、伊‐168の魚雷を受け沈没寸前の空母「ヨークタウン」

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      伊168の雷撃により轟沈する駆逐艦「ハムマン」



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       アメリカ機の攻撃を回避中の空母「赤城」

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          ドーントレスによる急降下爆撃


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          留目の被弾を受けた空母「赤城」
九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった。

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            空母「赤城」(1941年)


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 ミッドウェーで沈没前の空母『加賀』・・大火災をおこした直後のもの

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機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、戦争における主導権を失った。

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               空母「加賀」

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         米軍機の爆撃を回避する空母「飛龍」


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        急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」

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               空母「飛龍」

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       脱出後に救助された空母「飛龍」の機関科兵

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           回避行動をとる空母「蒼龍」

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              空母「蒼龍」

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          炎上傾斜する重巡洋艦「三隈」

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      酸素魚雷の誘爆により大破した重巡洋艦「三隈」


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             重巡洋艦「三隈」


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          朝日新聞  (1942年6月11日)





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太平洋戦争の残影 ㉓珊瑚海海戦

  真珠湾攻撃後、昭和17年(1942)4月10日。
  海軍軍令部は、 長期不敗の態勢確立を目指す第二段作戦 の開始を発令。
  その先駆けとして、 ポートモレスビー 攻略作戦(暗号名 MO作戦 ) を発動させた。
  東部ニューギニアの要衝 ポートモレスビーを海路から攻略し、 珊瑚海を制圧して、 豪州北部方面からの連合軍の反攻を阻止する拠点にしようとするものであった。

  5月初旬。ポートモレスビー攻略部隊は、
 ラバウルから・・・同作戦の航空支援任務を帯びた、 原忠一少将指揮下の第五航空戦隊 (空母二隻基幹) は、 寄港地のトラック島から・・・相前後して出撃した。

  然し、 暗号解読によって日本側の企図を察知した米海軍は、是を阻止すべく、 第十七機動部隊 (空母二隻基幹) を、 ニューギニア南東海域・・・ 珊瑚海 に差し向けて来た。

  そして・・・昭和17年(1942)5月7日。
  日 ・ 米両機動部隊の間に、 世界戦史上最初の空母決戦である珊瑚海海戦 が生起する事となったのである。
 
  ポートモレスビー攻略部隊がラバウルを出港した5月4日。
  日本軍が攻略したばかりのツラギ島が米艦載機群の空襲に遭い、 駆逐艦一隻 ・ 小艦艇数隻 (掃海艇 ・ 駆潜艇等) 喪失の被害を出しました。
  米機動部隊が珊瑚海に進出して来ている事が判明したのです。

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  5月6日。
  日本機動部隊は、 敵空母撃滅を期して同海域に進入。
  世界戦史上最初の空母決戦である 珊瑚海海戦 の幕が開かれます。
 
  5月7日早朝。
  日本機動部隊の索敵機の一機が、 敵空母発見を打電。
  報告を信じ、 機動部隊は、 直ちに攻撃隊を発進させます。
  然し、 実は油槽艦を空母と見間違えたものでした。
  (本物の) 敵空母発見の報がもたらされたのは、 その数十分後の事でした。
  先の (誤認に基く) 報告がなかったら、 攻撃隊は本来の敵を目掛けて飛び立っていたに相違なく、 日本側としては、 誤認情報 に惑わされ、貴重な先制攻撃の機を失してしまった事は確かです。
  もっとも、 この時点では、 最初の報告が誤認に基くものである事は判明していませんが、 何れにしても、 機動部隊は攻撃隊の帰投を待つしか有りませんでした。
 
  ・・・攻撃隊は、 存在する筈のない空母を捜し回って時間を空費し、結局・・・油槽艦を護衛駆逐艦ともども沈めて帰途に着きましたが、 その間に、 ポートモレスビー攻略部隊の船団護衛に任じていた改造空母 「祥鳳」が、 敵艦載機群の集中攻撃を受け、撃沈されてしまいました。
  日 ・ 米両機動部隊は、 互いに、 敵主力を取り逃がし、決着は翌8日に持ち越される格好となりました。
 
  昭和171942)年5月8日早朝。
  日 ・ 米両機動部隊は、 殆んど同時に敵を発見し、それぞれ攻撃隊を発進させます。
  日本軍の攻撃は、 大型空母である 「レキシントン」の方により集中。
  魚雷二本 ・ 爆弾二発が命中し、 「レキシントン」は誘爆を起こし、総員退艦の後、 味方駆逐艦の雷撃によって処分されまた。

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   日本軍の攻撃を受け、炎上するアメリカ海軍空母「レキシントン」

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           炎上中の空母「レキシントン」

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   気化ガソリンに引火し大爆発を起こした、空母「レキシントン」

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             空母「ヨークタウン」


  「ヨークタウン」 は、 至近弾二発 ・ 直撃弾一発を受け、火災が発生しますが、 程なく鎮火。
  攻撃力を失い、 重油の帯を引きながら戦場を離脱していきました。
 
  日本側は、 空母「翔鶴」 が爆弾四発を受けて大破。艦載機発着不能の状態に陥りました。


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           爆撃を受ける空母「翔鶴」

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        米艦載機の攻撃をうけ炎上する空母「翔鶴」

  
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   空母『翔鶴』  
 


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           魚雷が命中した空母「祥鳳」

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        珊瑚海海戦で沈没した 空母「祥鳳」

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              空母「祥鳳」

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       回避運動中の空母『瑞鶴』と秋月型駆逐艦二隻

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  翔鶴型空母「瑞鶴」


  僚艦の 「瑞鶴」は、 折からのスコールに隠蔽されて攻撃を免れ、無傷でした。
  然し、 搭載機の損失が大きく、 新たな攻撃隊編成は困難な状態で、敵機動部隊追撃を断念せざるを得ませんでした。
 
  機動部隊が任を果たせなくなった事で、 海路からのポートモレスビー攻略は延期(後に中止) されました。
  開戦以来初めて、 日本軍の進撃にストップが掛けられたのです。
  然も、 第五航空戦隊は搭載機 ・ 搭乗員の大量喪失によって行動不如意の状態。
  傷付いた「翔鶴」のみ成らず、 無傷の「瑞鶴」までもが、次期作戦のミッドウェー攻略作戦に参加出来なくなってしまったのでした。
米海軍は、 局地戦闘で敗れても、 戦略的勝利を挙げた事になります。
 
  珊瑚海海戦 は、 様々な意味合いに於いて、 一ヶ月後の ミッドウェー海戦 の前哨戦として語られる場合が多いのですが、 日 ・米共に、 敵情誤認 ・ 誤判断を重ね、 戦機を失してしまった経験を実物教育として謙虚に受け止める限りに於いて、 索敵の重要性 等・・・数多くの貴重な戦訓を修得する機会でも有ったのです。







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太平洋戦争の残影 ㉒マレー沖海戦

 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃の同日、マレー半島にて日英開戦。
 日本軍はマレー半島のコタバルに上陸します。当時マレー半島はイギリスの植民地でした。
 9日、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を旗艦とするイギリス東洋艦隊主力Z部隊は日本船団を攻撃するため出撃します。日本軍の伊号第65潜水艦がZ部隊を発見。 日本第一航空部隊が索敵に出動しましたが、この日は天候が悪く補足できませんでした。
 10日、朝から再び第一航空部隊が索敵攻撃に出撃します。11時13分、元山空が駆逐艦「テネドス」を発見。次いで戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋艦「レパルス」を発見します。
 美幌空の96式陸攻8機、元山空の96式陸攻16機、鹿島空の最新鋭機一式陸攻26機が爆撃、雷撃を加え巡洋艦「レパルス」は午後2時20分轟沈、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は午後2時40分に轟沈しました。

 これまで「作戦行動中の戦艦を、航空機で沈めることはできない」というのが常識でしたが、それを覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の方向から、戦略的なものだけでなく精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えることとなりました。

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空爆を受ける戦艦「プリンスオブウェールズ」


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 「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」

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    マレー沖海戦・・・一式陸攻の攻撃    中村研一 画


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我が96式陸攻、英極東艦隊主力プリンスオブウエールス及びレパルスを強襲


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日本軍機の攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」(左手前)、「レパルス」(左奥)、駆逐艦「エレクトラ」(右手前)

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          燃焼するプリンスオブウェールズ

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「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦エクスプレス。


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             戦艦「プリンスオブウェールズ」

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          「読売新聞」 昭和16年12月11日






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太平洋戦争の残影 ㉑真珠湾攻撃によるダメージ③

【大東亜戦争開戦への動き】

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          真珠湾攻撃中    村上 松次郎 画


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        真珠湾で空襲を受ける、米海軍の戦艦群

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    猛火猛煙の戦艦「ウエスト・ヴァージニア」への消火作業


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         横転した艦船の向こうで攻撃は続く・・

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                真珠湾攻撃


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)


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       日本機の爆撃を脱がれた軽巡洋艦「フェニックス」

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     ドック内の戦艦「ペンシルヴェニア」も容赦なく・・


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雷撃により沈没した戦艦「ウェスト・ヴァージニア」に救助に向かうモーター・ランチ。後方は戦艦「テネシー」


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        猛煙を揚げて燃焼する、戦艦「アリゾナ」


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            被弾した戦艦「ネバダ」


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座礁した戦艦「ネバダ」艦橋下部と主砲塔が火災により黒焦げとなっている

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           引き揚げられた戦艦「ネヴァダ」


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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              爆 弾 命 中

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         ハワイ真珠湾強襲    吉岡 堅二 筆

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             ホイラー飛行場の空爆


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             ヒッカム飛行場の空爆

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           硝煙を揚げるヒッカム飛行場?


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    日本軍の攻撃で炎上する海兵隊所属JO-2 エレクトラジュニア

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     巨大な胴体を真っ二つに破壊された、ボーイングB-17

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      日本機は参戦350機の内、29機が失われたらしい。


 ニイハウ島に不時着したが、焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦

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真珠湾の封殺をも考慮して、日本海軍は特殊潜航艇「甲標的」(甲標的甲型)を開発,量産し1941年12月の真珠湾攻撃で初めて実戦に使用した。甲標的は,直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する二人乗り潜航艇で,航続距離は短く,操縦性も悪かった。また、電池を使い切ってしまえば動けない。出撃した甲標的5隻の搭乗員10名のうち戦死した9名は軍神として崇められ,捕虜となった士官は黙殺された。


イメージ 20   カネオヘにて、真珠湾攻撃により犠牲となった米軍戦士たちの埋葬








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太平洋戦争の残影 ⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期②

【大東亜戦争開戦への動き】

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          1941年10月、開戦直前の真珠湾

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      ⇧湾口    真珠湾と12月8日付の停泊艦艇

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             第一波攻撃機の空襲

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            第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

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戦艦「アリゾナ」Arizona

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魚雷攻撃で燃える、戦艦「アリゾナ」と「テネシー」「ウエストバージニア」

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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戦艦「アリゾナ」は黒煙に包まれ、左は戦艦「ウエストヴァージニア」West Virginia(半分沈没), 戦艦「テネシー」Tennessee


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える


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  1941年12月7日,真珠湾で前部弾薬庫が爆発した戦艦「アリゾナ」

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       午前8時10分、戦艦アリゾナの火薬庫が誘爆。


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            戦艦「アリゾナ」Arizona


イメージ 13戦艦アリゾナの最期

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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              戦艦「アリゾナ」


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 沈没、着床した戦艦「アリゾナ」Arizona(BB-39)


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             往年の戦艦アリゾナ


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     慰霊施設「アリゾナ記念館」とその下の「アリゾナ本体」

乗組員1177名のうち1102名が死亡し、撃沈された戦艦「アリゾナ」及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設となっている。現在この施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されている。


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            ヒッカム飛行場への攻撃


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          燃焼から避難する、カタリナPBY飛行艇


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)

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          猛煙の米戦艦「カリフォルニア」


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午前8時30分、離脱しようとした戦艦ネヴァダは第2波の攻撃によって沈没


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            引き揚げられた戦艦ネヴァダ


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        スクリューを見せて沈む戦艦オクラホマ

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           戦艦「オクラホマ」の引揚作業

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        転覆中の戦艦「オクラホマ」の引揚作業


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        転覆していた戦艦「オクラホマ」引揚げ作業


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ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」駆逐艦カッスンCASSIN(右)とダウンズ DOWNES(左)の2隻が破壊


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       ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」






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太平洋戦争の残影 ⑲真珠湾攻撃による日米開戦①

【大東亜戦争開戦への動き】


昭和14193991日、山本五十六中将が吉田提督に代わり、連合艦隊司令長官となった。就任式は当時、瀬戸内海柱島に停泊していた戦艦「長門」艦上で行われた。
この同日、ドイツはポーランドに侵入し、それより1年余りにして日本はドイツ(ナチ)と同盟を締結した。
当時日本は、支那事変の真っ只中であった。

        
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1941年、ヨーロッパの戦況図


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            日独伊三国同盟の調印式


 それから一週間も経たないうちに、時の首相、近衛侯爵が閣議を開き「日本は今、アメリカに経済封鎖をされているので、豊富な資源を持つ南方に進出したいのだが、真珠湾にアメリカ太平洋艦隊が頑張っているので、それが出来ない」との意見を述べた。
 それに対し陸相の東条英機は「今こそ、アメリカに攻撃を加えるべきである」と進言した。


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     近衛文麿首相・松岡洋右外相・吉田善吾海相・東条英機陸相
 
 昭和161941124日、近衛首相が官邸で重要会議を開いてから間もなく、ワシントンのアメリカ海軍情報部は「ムラサキ」と名付けた暗号解読機で日本の暗号無電を解読することに成功した。
事態容易ならずと察知したアメリカの眼は、急に極東に向けられるようになり、ルーズベルト大統領は連日閣僚会議を開いた結果、アメリカ太平洋艦隊司令長官リチャードソン提督を更迭し、後任としてキンメル提督を起用し、日本軍の真珠湾攻撃に備えようとした。
当時、真珠湾には、まだ永久的なレーダー基地は無く、建設しようとしても観光局や天然物保護協会の反対で成す術がなかった。
その間、山本提督下の連合艦隊は、福留軍参謀の構想の下に瀬戸内海で魚雷攻撃に対する猛訓練を行っていた。


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   真珠湾のアメリカ艦隊の模型を作り、検証する日本海軍参謀本部


昭和1619412山本連合艦隊司令長官は第一航空隊所属の大西参謀を呼び寄せ、真珠湾攻撃に関する意見を聞くと、大西は空母「赤城」所属の名パイロット源田中佐がその方面の優れた作戦家であると進言し、源田中佐を中心に真珠湾攻撃の作戦を完成させていった。



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       ワシントンでの野村吉三郎大使・ハル国務長官


昭和161941424日、アメリカ駐在大使野村吉三郎がハル国務長官と、緊迫した両国の関係を打開するための重要会議を行った。

19416からはアメリカ海軍側は、傍受した日本側暗号を極秘にするようになった。大統領にさえ報告する事を中止した。
一方アメリカ情報部は、日本軍がインドシナを目標として南進を開始していることを知った。
昭和161941725日、野村駐米大使は部下に「戦争が切迫している」の一言を言った。
この頃、山本連合艦隊司令長官は、吉田海相に「日本がアメリカと戦うとなれば、グァム島、フィリピン、ハワイ、サンフランシスコを手に入れるばかりでなく、敵にワシントンで城下の盟をさせなければならないが、その覚悟は有るか?」と問うた。
やがてアメリカ政府は、日本との通商条約を破棄し、スターク海軍作戦部長はハワイを非常事態勢下に置いたが、日本と事を構えることになろうとは予想すらしていなかった。キンメル提督は事態の真相を明らかにしない米政府を糾弾した。

一方、日本の天皇は、あくまでも平和的に事態を収拾するよう政府に要望されたが、政府としては、一応10月末を期限として、万一外交的に解決出来なかったら開戦というメドを立てた。

ハワイでは、日本側のスパイ吉川猛夫少尉が、ハワイの軍事基地の探索と情報収集のため暗躍していた。
昭和16194110月、東条英機が陸相兼首相となり、政と軍の両権を掌握することとなった。

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   空母「赤城」26,900㌧     第一航空艦隊司令長官南雲忠一 
                                     

この月、旗艦「赤城」で行われた作戦会議で、精密なオアフ島と真珠湾の模型が提示され、やがて鹿児島湾で海軍航空隊の猛訓練が開始された。
昭和161941111日、ハワイに寄港した客船「大洋丸」に乗っていた喜多川総領事が、吉川少尉からその後の真珠湾に関する情報を受け取った。
1122日、山本長官は、連合艦隊を択捉島(エトロフ島)のヒトカップ湾に出動させた。


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一方、南雲司令長官下の第一航空艦隊は、ハワイに向けてすでに航行中であった。スパイの吉川少尉は、空母「エンタープライズ」がミッドウェイとウェーキ島に航空機を送るべく出港するのを目撃した。
アメリカ側の情報部は、日本軍の真珠湾攻撃は1230日に決行されると想定し、ハル国務長官もそれを認めた。
 
122日、南雲司令官は、山本司令官から『新高山登れ』と云う暗号電報を受け取った。
いよいよ真珠湾攻撃の時が来たのだ。


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     第5航空隊、空母「瑞鶴」甲板に於ける出撃前の訓示・・
      白服は飛行長・下田久夫中佐。


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         空母「瑞鶴」(ずいかく)29,800㌧


126日、ワシントンのアメリカ情報部では、日本大使館が本国からのメッセージを受け取るために待機していると云う情報をキャッチした。
やがて、ワシントンの日本大使館で野村大使は、日本からメッセージを携えて来た来栖特派大使とメッセージの検討を行い、128に、それをアメリカ政府に手交することを決め、その間、本国からの指示を受けることになった。
127日、東京ではグルー駐日アメリカ大使が、東郷外相を通じて、至急天皇に拝謁を申し出た。
大使は天皇に事態を訴えて緊迫した局面を打開する道はないかと考えたのだが、そうした余裕は既に失われていた。
 
128日未明、遂に南雲中将下の強力機動部隊は、毎時44kmの快速でオアフ島の北方に迫り、午前757分、淵田中佐を先頭とする戦隊が空から真珠湾へ突っ込んでいった。


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    海軍機を満載して航行する「蒼龍」(そうりゅう)19,500㌧


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           真珠湾へ攻撃機の侵入、攻撃図

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 1941年12月7日(現地)、日本の海軍機から撮影された攻撃当日の真珠湾


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            出 撃 体 制 完 了


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            発 進 準 備 完 了


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    空母「翔鶴」(しょうかく)から発艦する九七式艦上攻撃機。


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            眼下の真珠湾 到達・・・


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1941年12月8日、ハワイ真珠湾にて攻撃開始時のアメリカ戦艦群
(日本軍機から写す。  魚雷投入と魚雷航跡が数本見える)

((S 🅼🆄🆂🅴🆄🅼
1941年12月8日、ハワイ真珠湾にて攻撃開始時のアメリカ戦艦群
真上からの急降下爆撃・・日本軍機から写す。


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    矢印(⇩)の先に第一波の九七式艦攻が飛行する姿が見える
        
アメリカ戦艦群に魚雷攻撃を仕掛ける。


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      炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機


真珠湾奇襲は完全に成功し、やがて旗艦「赤城」から『トラ、トラ、トラ(真珠湾攻撃ニ成功セリ)』という無電が発せられた。
この頃、連合艦隊司令長官、山本五十六は瀬戸内海に停泊中の戦艦「長門」の作戦室に居た。


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             戦艦「長門」33,800㌧

                              柱島周辺に停泊中の戦艦「長門」


長官は終始沈着な面持ちを崩さなかった。やがて「真珠湾攻撃成功」のラジオニュースが聞こえて来た。それを聞き終わると長官は「我々の行動によって、眠れる獅子は目覚め、今や決然と立ち上がったに違いない・・・」


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⇧ 『国、大なりといえども、戦いを好むものは必ず亡ぶ。
天下安しといえども、戦いを忘るる者は必ず危うし』
山本五十六書


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      真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、
      その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

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         超低空から魚雷攻撃する九七式艦攻


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         真珠湾で空襲された米海軍の戦艦群


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          燃焼と爆発の戦艦「アリゾナ」


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            着底した戦艦「アリゾナ」


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             帰投する日本海軍機

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       昭和16年12月8日(1941)「東京日日新聞」号外 


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           昭和16年12月9日 夕刊

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昭和16年12月9日 夕刊

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太平洋戦争の残影 ⑱坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②

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 「おい、どうする」その夜、電灯もないローソクの薄暗い灯りの中で一人が話しかけて来ます。
  その晩は徹夜哨戒の当番がこの5人でした。 他の誰にも聞かれる心配はありません。
   「どうするったって、渾河の通りが一番多いって云うじゃないか、相手200人に5人ではねぇ」
「うん、そうだなぁ、一寸、数が多すぎるなぁ」 暫く沈黙が続きましたが
「俺、こんなもの持っているんだ」一人が携帯口糧の米の中から、一丁のピストルを取り出しました。
「先輩の士官から万一の時、使えと言ってそっと渡されたんだ」小型のコルト銃のようでした。
するともう一人が「それならば、俺も持っているよ」双方の軍足の米の中から出したのが2個の手榴弾でした。 私は、何だか今までの心細さがスッと消えてゆくような気がしました。
「然し、それを実際に使用するということになれば、よけい危険だな」 一人が口をはさむ。
「少々危険は有るけど、危険の度合いは奉天も同じだろ、万一の場合は、これを振りかざしたら蜘蛛の子を散らすように逃げるあいつ等さ、血みどろの闘いをするなんて気はさらさら無いよ。大丈夫だ、俺の経験から云えば、こちらが不退転の決意だぞと、相手に解からせればそれで良い」 森村伍長の言葉には説得力があった。
何れにしろ奉天で一日伸ばした日を送っている心の焦りから逃れる為には、危険を覚悟で決行するしかないのです。
 

私に覚悟が出来たのは、昼間のソ連兵の行動と主婦の必死の逃避行が、臆病な私に決断を迫った。
然し、この武器を最初から正面に押し出してゆくのは得策ではない。ソ連兵の歩哨も居ることだし「あるぞあるぞと見せかけて、万一の場合以外は決して外に出さない」と云うことで衆議一決しました。
私はこの武器が現実に使用されたら、この5人の命は捨てる時だなと覚悟しておりました。
その時ふとあの公館で「ひょっとすると、助かるかも知れない」など色気を出したのは、ちと早とちりだったなと、がっかりしたのを憶えています。

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         奉天城内、小西関辺門での人車の往来

翌日、寮で別れを告げるのが大変でした。
「俺たちを見捨てるのかよ! 兵隊さん!ここに居てくれ、頼むよ兵隊さん!」これには大弱りでした。
皆んなで、色々理由を付け、やっと納得させてホッとしましたが、どんな理由を言ったのか今となっては皆目見当が付きません。
でもあの当時、警察も軍隊も壊滅、混乱の極にあった奉天に在留の日本人が、その後どうなったかと、切ない想いが、未だに心に残っています。
 

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          奉天城内にて最も繁華なる四平街。
 

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             渾河堤防沿いの道
 
 
奉天市街地を抜けて、渾河の堤防を一直線に広い道路が2~3km続いていました。
その土提から1km程手前の路上に、沢山の群衆が見えます。 手に手に棍棒の様な物を持っています。
これが話に聞いていた暴徒の集団であることは間違いありません。
私は一瞬ドキリとしましたが、意外にも怖さで身体が震えるとか、足がガクガクすることが無かったのが何とも不思議でした。 別に糞度胸が付いた訳でも、やけくそになった訳でも無かったようです。 心の底ではハラハラの仕通しでしたから。
両者の間隔が次第に詰まって来ました。
「おい!どうする、200人は居るぞ!」
「うーん! 一寸多過ぎるな・・・」 およそ50m程に近づいた時、「助けてくれーッ!」と言う悲痛な叫びが右の舗道から聞こえて来ました。
正面の敵にばかり気を取られて気が付かなかったが、軍服姿の除隊兵がそこには倒れていたのです。
近づいてみると、私の足へしがみついて来ました。
「助けてくれ、たのむ! 一緒に連れてってくれ!」 まだ20歳そこそこの若い兵隊です。
頭を酷くやられたらしく左のこめかみと目から鮮血がしたたり落ちていました。
「これは立って歩くことも難しいぞ」 何故か直感的にそう思いました。 何とか助けてやりたいが、
「助けてくれ」と言われても、この5人がこれから生きるか、死ぬかの瀬戸際の今に立たされて居るのです。 この瀕死の重傷者を担いで、この包囲網を突破するのは全く不可能の事態です。
私は、まだ初々しい童顔の残る彼を見下ろしながら、彼の受けた暴力のやり場のない怒りに歯ぎしりしたのです。
せめて傷口に付ける薬でもと思っても、包帯はおろか口に含ませてやる一滴の水すら持ち合わせて居ないのです。

「な・・・あれが見えるだろ?」 彼の耳にささやく様に森村伍長が言うと、彼は微かに頷きました。
「あいつ等を追っ払ってから、助けにくるからな」 納得したのか私から手を放し、地面に顔を付け虚ろな眼を閉じました。 疲れも限界、昏睡したのだろうか・・・と思える程です。
この若い兵士の絶望的な運命に、5人は無言でしたが、反対に眼は怒りにギラギラ光っておりました。
 

「オイ! 道の真ん中を見ろ!」 森村伍長が言った。
「あそこが、一番手薄だ、あそこ目がけて、木刀振りかぶって突っ込め、弱みを見せたら負けだぞ!」
「俺は、手榴弾を投げる格好だけするから」
悪いとは思いながら、負傷した気の毒な除隊兵を労ってやる暇はありません。
私達は、声帯をいっぱいに広げて咆哮し、例の棍棒を大上段に振りかぶって、めくら滅法突っ込みました。
紫電一閃、鉄火散る・・・なんて格好の良いものでは決してなかった筈です。
欲張って軍足一杯に詰め込んだ腰の口糧米は、意外に重たくて、走るとこれが両の腰で前後左右に揺れ、腰はそれに引っ張られてバランスを崩す、まるで酔っ払いがツイストを踊っている様で、背中の毛布は風に煽られてパタパタする、第三者が見たら喜劇の三枚目そこのけの珍演技であったに違いないと思います。
私は多分、亭々廃止の打ち合いが始まって衆寡敵せず、急所の一撃で倒れ袋叩きに会う、そんな凄惨な場面を連想していたのですが、案に相違して群衆たちは道の両側へサッと避けて、我々5人は棍棒を振りかざしたまま渾河の堤の上の道まで一気に突っ走っておりました。


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     ⇧奉天新市街  ⇧奉天城内旧市街 ⇧市街の南部を渾河が流れる

 
振り返ると別に追いかけてくる様子もなく、輪になって何事か相談している様子でした。
「やれやれ、どうして追いかけて来ないのかな」 と一寸不思議な気もしないではなかったのですが、難関突破でホッとした途端・・・
「おい、やっぱり、歩哨が居るぞ」 この奉天からの広い道は渾河の堤防上の道に丁の字に突き当り、右折して50mほど西に渾河に懸かる橋があります。 その橋のたもとにソ連軍の歩哨が立っているのです。 先ほどの中央突破で、武器を手元に出していたかどうか、私には解からなかったが、何れにせよ身体検査をされたら万事休すです。
「俺に任せろ、多少ロシヤ語は知っているから・・・」 メンバーの一人がそう言いました。
お互いがその時持っていた煙草を出し合って、2~3箱を彼に託しました。
私達はうしろの方で、かたずを飲んで見守っておりました。
 
何を喋っているのかさっぱり解かりませんが、歩哨が笑顔を見せておりましたので、多分心証は悪くなかったのでしょう。
歩哨は彼から煙草を受け取ると、「通れ」という仕草をしました。
よせば良いのに、彼はそのあと何か二言、三言冗談を云ったようでした、兵隊は急に不機嫌になりプイと横を向いてしまいました。
私達はその兵隊の脇を会釈しながら、左に曲がって橋にかかりました。
橋の中程までは後ろから「ちょっと待て!」と、言われるのではないかと、ヒヤヒヤしながら進みましたが、そこで一寸振り返ると関係ないよとばかり横を向いて立哨していたので、やれやれと胸を撫でおろしたのです。
大陸の8月は、灼熱の太陽が朝からジリジリと照り付けていた筈ですが、想い出すのは冷汗三斗の思いだけです。


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              渾 河 堤 防

渾河の橋の下の草むらにも、あちらに一つ、こちらに一つ軍服姿の除隊兵の骸が転がっていました。
先ほど、手当もしてやれなかった負傷兵のことも思い出され、場合が場合だっただけに仕方なかったというものの、心が痛みました。
この人達も思いっきり戦って名誉の戦死、負傷なら魂も浮かばれたろうに、それが負け戦では「大日本帝国の為に・・」という大義名分も無意味になり、あたら若い命が犬死同然となって可哀相なことだと、暗然とした気持ちになりました。
それにしても、200人の中に5人、無鉄砲だと言えばその通りで、臆病で体力も無い私が他の4人に引きずられたとは言え、よくも大それたことが出来たものだ、人間の運、不運と言うのは紙一重の差だなぁ・・・と、あれから42年経た今日、つくづくそう思わない訳にはいきません。


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               渾河河川敷

渾河を渡ってから先の道のりは、まずまず平穏無事だったと言えるでしょう。
それでも部落、部落の入り口では、必ず獲物を狙う狼のように、棍棒の先端を赤く血潮で染めた集団が待機していました。
当初は30人くらい居ましたが、南下するに従ってその数は少なくなっていったのが思い出されます。
彼らの持つ棒先きの赤黒い血潮の色が、今でも目先にちらついて忘れることが出来ません。
 
今、この手記を書き乍ら、人の心というより私自身の心の変化のおかしさについて、考えているところです。
先ほど、どの様に読んで下さったのか、よれよれの格好と動作で敵中突破(むこうが避けてくれたようだ)した実績が、何か目に見えない力を私達に付けたとでもいうのでしょうか?
30人くらいの敵の集団では、怖いとも恐ろしいとも感じなくなっていたのです。
「ここは何という村か?」「鞍山まで何キロあるか?」の質問に、かえって相手がオドオド返答しているのを見て、一体どうなっているのだろうと我ながら驚いていたのを思い出します。


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         鞍山の風光・・生産の響 昭和製鋼所

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           鞍山製鉄所採鉱鉄山 大孤山。


鞍山に辿りついてびっくりしたのは、平時の急行列車なら30~40分、南に下った距離しかないこの街が、略奪、婦女暴行、殺人など、まるでこの世の地獄かと思えた奉天に較べたら、ソ連軍も進駐していない状態で、それはどこの出来事だと言わんばかりに、平和に静まり返っていることでした。
私が召集を受けて出発した時のままでした。 まるで戦地から母国へ帰り着いたかと錯覚するほどでした。
もっとも、この平和も長続きせずソ連軍の進駐、蒋介石の軍隊、ほどなく中共軍と蒋介石軍(国府軍)の鞍山を中心にした攻防戦などを経て、治安も次第に悪くなり、ソ連軍の使役、中共軍が蒋介石軍攻撃の時に担架部隊として強制参加させられるなど、引揚げの日まで鞍山市民の苦難の道が始まる訳ですが、これは次の機会に書くつもりをしています。
 
以上、詰まらぬことを長々と書きましたが、若し私が少しでも勇敢に見えましたら、それは文章が不味かったせいです。 平凡な一市民が戦争、敗戦という大渦の片隅に巻き込まれ、仕方なく岸淵から転げ落ちたらうまく木の枝に引っかかって、無事着地出来たに過ぎません。
英雄的なことも、感動的なことも何一つ無い内容で甚だ残念なのですが、ただ「運が良かった」の一言に尽きると思っております。
       
昭和62822
 






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⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①


〇〇先生、

毎年8月と言えば、日本にとって忌まわしい日がやって来るのを避けようがありませんが、たまたま19年前、会社の担当者にせがまれて、当時の社内誌に「満州での8月15日」として寄稿したのが書類整理中に出てきたので、〇〇先生にはどの様に受け取って下さるかと、恐る恐るお送りしたのですが、何度も読み返してくださった由、有難うございました。

 何しろ急かされて字数の制限まであったとはいえ、読み返してみると、之また悪文の見本のようで、お恥ずかしい次第です。それに想い出としても愉快な事でもないので、本当は忘れてしまいたいところですが、この「8月15日」という日がまた巡ってくると、もうあれから42年も経つのかと改めて歳月の流れの速さに驚くと同時に、こうして毎日無事に生きている自分の過去を振り返ると、やはり多少感情の揺れといったものを感じるのは止むを得ないことなんでしょうね。

 又、人間の一生には、その人なりの起伏があるのは仕方のないことだとすれば、私のこれまでの78年の生涯を通じて、一応外見的には最も劇的な一幕であったと言えるかも知れません。

 現在はいたずらに老醜を晒しているに過ぎませんが、いやそれであるから尚のこと運命の女神が「男の花道」を取り違えられた経緯を書き残しておくのが私の義務かな?・・・などと考えております。

 世の中の数多い戦記や体験談に比べたら、取るに足らぬ貧弱な経験ですが、自分にとっては生涯で恐らく二度とはないに違いない満州での終戦の周辺の事実を、いわば「戦争を知っている世代」から「戦争を知らない世代」へのメッセージの形で書いていると云うことをご承知の上で読んで下されば有り難いと思います。


昭和6281987              坂野 寿男

 

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            召集前の・・坂野寿男氏

⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①

【本文中、憶えていることが抜け落ちて・・と、その都度説明を加えているのが多過ぎの感じです・・・お詫び致します】

 

奉天城内(現在=瀋陽市)を無事に通過できたのは、今考えても殆んど奇跡に近いという気がします。
 又、あの頃には追加することは何もありません。
 ほんとに単純明快で、あれ以外の事は何も覚えておりません。
 ただ、あの状況下、どうして無事に満人の騒ぐ城内を通過できたか、不思議というより無いのですが、無理に理由を付ければ全員私服であったこと、5人の少人数というこの二つ以外には考えられません。
 
 これが彼等の嫌がらせや悪罵の対象にはなっても「あいつ等に構うより、この戦勝の喜びを祝おう。もう日本人が主人ではないのだ。我々が主人なのだ」という気分が強かったのではないかと考えられます。
 北門から奉天城内に入る前、米軍の飛行機が一機上空を舞って、しきりにビラを撒いておりました。
 駐支米軍司令官の名で「日軍降伏」という意味のチラシだったのです。
 前の文で、私はこの城内を「異様な雰囲気、割れんばかりの喚声」と表現しましたが、私の推量に間違いなければ、城内の満人たちもこのチラシによって勝利を今知ったばかり・・・というタイミングが私達に幸運をもたらしたと考えられます。

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         ⇧ 奉天市新市街        ⇧ 奉天城内旧市街


 それから私達を暖かく持て成してくれた公館を辞したのが、翌日であったか、その日の夕刻であったのか憶えておりません。

 あれほど恐怖心に襲われ、この家の玄関から一歩外へ出るのも怖いと思った筈なのに、さよならの時は記憶にないのです。 しかも、布団で寝たという記憶もないところをみると、暴徒が出払って静かになった時を狙ってさよならをしたのでしょう。
 それほど家路を急ぐ気持ちが私達に強かったのだと思います。
 然し、敗戦というそれまでの常識では考えることも出来なかった混乱の中で、簡単に鞍山へ帰れると思っていた私達にも大きな認識の甘さがありました。
 
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             奉天督軍の営門、東轅門

 私達は、それから仲間の一人の知人宅にも立ち寄りました。
 そこの主人が敗戦以来の数日の街の変貌してゆく有様をこと細かに語ってくれましたが、具体的なことは何一つ憶えておりません。 憶えているのは立ち寄った時の大変な喜びようと、辞去する時の如何にも同胞の協力を得られない淋しげな落胆の様子が、当時の奉天市民としての日本人一般の心細さの象徴として強く印象に残っています。
 
 同時にこれはただ事では済まないぞ、という胸を締め付けられるような切迫感を抱きつつ昭和製鋼所(本社・鞍山)の寮に向かって出発しました。

 その途中、その場所を思い出すことは困難ですが、何でも広い幹線道路から西に延びる商店街を10mほど歩いて左に入る路地の奥、5~6軒目東側の木造2階建ての家だったと記憶しています。

 「兵隊さん、よく来てくれた」大喜びで迎えられましたが「さあこれを持って」と渡されたのが、何と樫の木の棍棒一本づつでした。
 よく見ると私達が銃剣術練習の時使用した木銃で、然も銃身の方を切断した銃台の方だけ、何でも長尺のものは禁止されているとのこと。 この棒を護身用にして早速その日から、歩哨の任務に就かされました。

 正直「これは大変なことになった。殊によると鞍山へは帰れないかも知れぬ」と思いました。 と言って兵営を飛び出さなければ、ソ連の捕虜としてシベリアへ連れて行かれるのは確実だし、だからと言って奉天市民の為に命を捨てるには、何か割り切れないものが残る。

 戦争に負けた悲哀がひしひしと我と我が身を締め付けるのでした。


 その翌日だったと思います。 私達が最初入って来た路地の反対の方向に歩哨に行き、間もなく広い通りに出ました。 その通りには人で一杯でした。
 随分賑やかだなと思ってよく見ると白布や、綿糸の束、軍足の束、食糧品らしい紙袋、缶詰、メリケン粉の袋など、それぞれが手に抱えきれないくらい持った行列が延々と続いているのです。

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                 略  奪

 何事だろうと見ていると、傍にいた男が忌々しそうに「皆あれは、陸軍糧秣廠から略奪しているんだョ、もう二日二晩も続いているョ、然し有る処には有ったんだねェ」 私達は自分が身ぐるみ剝ぎ取られるような、何とも言えぬ嫌な気分で寮に戻りました。
 「兵隊さん、握り飯が出来たよ。さあ食べてくれ」私の記憶では、あの公館は別にして、米の飯を食べたのはこれが最後でした。
 5人でヒソヒソ話をしているのが聞こえたのでしょうか、ここの寮母が「なに? 鞍山へ帰るんだって! 飛んでもない。 ここ奉天から出られやァしませんよ」 奉天市内から外へ出る要所要所に50人から100人、多いところでは200人以上の暴徒が待ち伏せていて「今出たら殺される、もう沢山殺されているよ、それよりここに居て私達を護ってください。兵隊さん!頼むから行かないで・・・」

 「兵隊」と名がつけば、この弱々しく貧弱な身体でも、頼もしく見えるのだろうか?

 内心面映ゆさと心細さを感じながら、これはえらいことになった、少なからず絶望感が心の底をよぎりました。そして聞くニュースと言えば暗いものばかりで、曰く婦女暴行、略奪、殺人等々です。


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           雄大なる奉天城々壁「大西門」


 
 その翌日、私達は路地の商店街出口付近で立哨していました。
 携えている木銃の成れの果ての棍棒は、何となく頼りなくて困っておりました。
 ふと大通りの方へ眼をやると一人のソ連兵がのこのこ商店街の方へ歩いて来ます。
 近づくと酔眼朦朧として顔は真っ赤、あいつらは昼間から酒が飲めるのか・・・と思っていると、この路地から少し斜め前の扉の開いていた店にフラフラと入って行きました。
 「おや、どうするんだろう?」と見ていると、血相を変えて二階に駆け上がってきたのは白いエプロン姿の主婦でした。
 顔面蒼白、オロオロ声を発しているが、全く意味を成していません。
 恐怖に引きつった顔、後ろを振り返り、振り返り、手摺を越えて屋根に出ました。
 ソ連兵が手摺に近づくと、女性は屋根の端まで来て一瞬躊躇していたが、切羽詰まって飛び降りたのです。 ハッとしたのはむしろ私達の方でした。
 彼女は地面に顔を伏せてうずくまっていたが、はじかれる様に立とうとして、足が折れたか、くじけたらしく苦痛に歪んだ顔が今でも眼に浮かびます。
 私達が駆け寄ろうとするより早く、這いずるように向いの家の方へ駆けつけた人に助けられ姿を隠しました。
 赤鬼の様なソ連兵は、ズボンのバンドを占め直しながら不機嫌そうにブツブツ言いつつ立ち去った。
 これは私達にとって大変なショックでした。 「話」としてはこれまで幾度となく聞いた話の一断面にしか過ぎない現象ですが、それをこの眼で直接見たのです。 カーッと血が逆流して、耐えきれぬ憤怒が身体を震わせると同時に「敗戦」の二文字が浮かび上がり、どうにもやり場のない口惜しさに心が呻いたのです。
 女性が危難に遭遇した時「アレーッ」「キャーッ」とか「助けてーっ」などと、大声で叫ぶものとばかり思っていた私は、3~40歳のこの婦人の全く意味をなさないオロオロ声に、本当の危険に出会ったらあんな芝居がかった声など実際に出せるものではないと、その時初めて気付きました。
 
 これ迄、奉天市民の怯え、苦しみ、口惜しさの体験を数多く聞いてはいましたが、実感としては今一つピンとしたものが申訳けないこと乍らなかったのです。 この現実を目の前にして彼らの苦しみの実態が初めて我が物として現実味を帯びてきたのです。

 同時に我が街、鞍山でも我らの知人が同様の苦しみを味わっているに違いない。

 どうせ一度は、あの味もそっけもない木箱爆弾と抱き合い心中をするつもりだったのだ。

 木箱爆弾を使うとすれば、出来るものなら我が街鞍山でと、私ばかりか他の4人も期せずして同じ思いが生まれたようでした。

 

 


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