泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ●太平洋戦争の残影を見る

ソロモン諸島での日本兵写真・・この中に貴方のお祖父さんは居りませんか・・?


ソロモン諸島?と思われる・・つまり写真の背景の椰子の密林や海浜砂浜の様子から想像すると、ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ニューギニア島など周辺の島でのスナップと推察できます。


背景の厚い雲とヤシの木のジャングル・・・浜辺の兵士には眩しい日差しの中、前線基地でのくつろぎの風景です。

それに兵士の雰囲気から日本軍に勢いがあり余裕のあった昭和17年~18年(1942~3)に写されたものと思われます。

写真の裏面には名字だけではありますが、兵士の配置により名前が入れられておりますので、名字を当てはめてみました。

 

此度、この写真が初めて公開されることと成りましたのは、米国テキサス州に在住のジョン・ダレスキーさん(Mr.John Duresky)から昨日メール送信されて来たからです。

彼がアリゾナ州フェニックスの中古品市場で、財布に入っていた写真を見付け写真だけを写したのだそうです。

財布に入るほどの「手札型(L版)」写真だったのでしょう。


ジョン・ダレスキーさんは昨年秋に私のブログ記事・・・

「病院船 ぶえのすあいれす丸 の轟沈絵図」 ↓

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965782.html 

をご覧になってコメントを頂いて以来メールの交換をし、彼の友人の父親が戦時中に米軍捕虜として奉天収容所に収容された件で調査のお手伝いを致した経緯があります。

彼は日本の企業で勤務した経験もあり1973年から4年間、大阪に住まわれていたのです。



お知り合いの名字があれば・・教えてあげてね・・

((((Soldiers 1
▲ 安田、上島、西村、菊地少尉、鈴木、井櫻、日高、葉木
尾端、長本、曽川、高坂、石田 ▼

((((Soldiers 3
       写真裏面・・読みづらい13名の名字が裏面に記載されている
       この13人の内の誰かが残した「形見の文字」なのです。


2020・55 21:20                      (Google翻訳)

泰弘さん、おはようございます、

 

6年前、私はアリゾナ州フェニックスで銃とスポーツ用品の古物市にいました。

販売中の古い財布を見つけました。

財布の中には「裏面に兵士の名前が書かれた写真」がありました。その写真を私のカメラで撮りました。


背後のヤシの木から判断すると、太平洋の島にいる兵士のグループのように見えます。

若い男性が浜辺で幸せな友人のグループのように見えて、私が日本で仕事をしたことを非常に誇りに思っていたので、この写真を見てこれがここに在るのは悲しいことです。

 

この写真は財布を見つけたアメリカ人兵士が持ち帰った戦地からのお土産だったのでしょう。

お土産という言葉を使って申し訳ありませんが、残念なことに、戦いの中で見つけたものを持ち帰る、戦争でそれを行うのは残念なことです。

 

((John beside saguaro

 

私は自分のカメラで写した写真しか持っていません。財布は購入しなかったのです。

 

あなたは名前を読むことができますか、そしてあなたが男性の家族を写真で見つける方法があるかもしれません。

 

これが理にかなっているといいのですが。

第二次世界大戦で父親、息子、兄弟を亡くした家族を助けることができるかどうかを確認しようとしているのです。

ジョン

((((Soldiers 2
ソロモン諸島付近での前線基地で・・上部はフラッシュ・ハレーションの補正





 ㉚【長崎の原爆被災

長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945(昭和20年)89日午前1102分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された核兵器なのです。
アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾のコードネームを「ファットマン(Fat Man)」と名付けていました。
ファットマンの投下より、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約74千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

 「今度の新型爆弾は直接やられてなくても、爆破された跡を歩いただけでもやられてしまうらしい」という噂が立ちます、その時には既にそのようなことを知らない周辺の市民たちが、親戚縁者の消息を求めて、大勢の救援隊と共に強い放射能の残る焼け跡を歩き回っていました。
 彼らもまた放射能被爆によって命を落とすことになってしまったのです。


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 母の亡骸の横にたたずむ女学生 (合掌)

 右の女学生は龍(りゅう)智江子さん(87歳・福岡県大川市)で当時15歳だった。自宅があったのは、長崎市浜口町(現・川口町)で爆心地から約300mという至近距離だった。 別の場所への学徒動員中で、そこで被爆した龍さんは、翌10日、父庄太郎さんと自宅に戻ったが、周辺は焼土と化していて、あちこちに転がる遺体を越えて歩いた。自宅跡には、焼けた亡きがらが横たわっていた。遺体の腹に、母サダさんの着物の布地がわずかに残っており、母に贈った髪留めが付近にあった。
 「その場に立つと悲しいとかじゃないんですよね。涙も出ない。動転しとったんでしょうね。どうして生きていこうかって」


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           長崎・倒壊を免れた山王神社鳥居

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     長崎・山王神社鳥居 (奥に柱の残った鳥居が見える)

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  長崎・焦土の菩薩像・念仏を唱えた誰かが前掛けを贈ったのでしょう
        右に(山王神社の鳥居の残骸が残っている)

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               長崎・山王神社


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     長崎・爆心地から南に230メートル地点の惨状 (合掌)
           (6遺体以上が確認できる)

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     長崎・爆心南1km離れた三菱の工場近くで、驚き慄く老女の姿。

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 8月10日現在、原爆によって瀕死の重傷(焼けど)を負って打ちひしがれた市民

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          長崎・陥没骨折を治療される老女

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市内南部から見た原爆投下直後の光景


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 湾内 香焼島(こうやぎ)から撮影された長崎原爆投下直後のキノコ雲


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             長崎に投下された原爆
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昭和20年8月9日 長崎の被爆

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昭和20年8月9日 長崎の被爆

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                  長崎市被爆前の姿

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               長崎市被爆後の姿


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長崎・閃光により板壁に焼きついた人影と梯子

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長崎・崩壊した浦上天主堂と馬の骨格

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長崎・崩壊した浦上天主堂

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長崎・崩壊した浦上天主堂

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長崎・崩壊し跡形もない浦上天主堂周辺

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長崎・浦上天主堂.

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長崎・崩壊した浦上天主堂

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長崎・崩壊した浦上天主堂

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長崎・被爆前の浦上天主堂  (1914年)

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長崎・造船所廃墟

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長崎・爆心地から南に600メートルの地点

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被爆後の長崎市・城山国民学校南棟


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被爆直後の長崎市内


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長崎・三菱工業青年学校付近から長崎医科大学附属医院を望む


㉝【幕末~明治の長崎と1945長崎】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37179815.html

● 【太平洋戦争の残影を見る】 ↓  ↓

  大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html 
  大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html 
大阪ミナミの爆撃廃墟  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html 
⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html
⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html 
  坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36530106.html 
⑱坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36546313.html 
  真珠湾攻撃による日米開戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36557875.html
⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36578883.html 
㉑真珠湾攻撃によるダメージ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36591114.html
㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36673242.html
㉖戦艦「大和」と「武蔵」  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36699641.html 
㉗戦艦「武蔵」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36713029.html
㉘戦艦「大和」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36728399.html 
㉙広島の原爆被災     https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37206985.html 





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㉙【広島の原爆被災


 広島市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)86日午前815分、アメリカ軍が広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。  これは、人類史上初の都市に対する核攻撃で、この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 ~ 166千人が被爆から24か月以内に死亡したとされる。
 原爆投下後の市内立入被爆者も含め56万人が被爆したと言われている。


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爆発2分後に広島に炸裂する原子雲7㎞離れた旧安佐郡古市町(広島市北部)より

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      広島原子雲・広島県海田町(広島市東部)から撮影

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           被爆の広島市(エノラゲイより)

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          広島市の原子雲(エノラゲイより)


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         原爆投下による巨大なキノコ雲(瀬戸内上空にてエノラゲイより)

((((広島予告ビラ5819
投下数日前に散布された「原子爆弾投下予告ビラ」

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             広島市上空より  被爆前

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             広島市上空より  被爆後

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        広島爆心地周辺 被爆前      広島爆心地周辺 被爆後

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           ココが爆心地・・・手前が元安橋


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        広島へ原爆投下したENOLAGAY_エノラゲイ号

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               エノラゲイ号搭乗員

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       爆心地から250mの銀行玄関の階段に焼付いた人影

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             広島市、原爆の閃光により、道路に残った欄干の影

((1945広島の爆発で気化した人の核の影
核爆発で気化した人の核の影と橋の欄干(1945)

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 稲荷町付近から西方向を望む・・上部中央に原爆ドームと相生橋・元安橋

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       吉島付近から北方向、爆心地付近と相生橋の遠望

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        広島市・原爆ドームとその向こうの元安橋

((広島1946
被爆1年後の原爆ドーム(1946)


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           広島、爆心地南部・市役所周辺

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             被爆直後の広島市街


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             被爆直後の広島市街

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              爆心地付近の広島の惨状


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 被爆直後の広島市内

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完全に焦土と化した広島市街


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 被爆直後の広島市内

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 被爆直後の広島市内

((広島3日後7793
 被爆直後の広島市内(数日後に市電は動いたようだ)

((広島3日後5339
 被爆直後の広島市内

((広島3日後2278
被爆直後の広島市内

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              被爆直後の広島市内

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             被爆後の広島市内

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          広島市・被災した市街と市内電車

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            被爆後・・日本銀行広島支店

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              被爆後の広島市内


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        広島市・相生橋西詰掛りの線路がずれている


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       広島市・被爆直後の治療・擁護を受ける被爆者

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       爆心から900m離れた所で火傷を負った被爆者


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広島市・政府関係調査班の模様

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            広島市・被爆直後の原爆ドーム


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          広島市・被爆直後の原爆ドーム



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          広島市・被爆直後の原爆ドーム

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           広島市・被爆直後の原爆ドーム

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          健在時の広島物産陳列館  (1920年頃)

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          広島市・相生橋から原爆ドーム

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         広島物産陳列館遠望  (1920年頃)


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          広島市・政府関係調査班の模様


●【参考】㉞【幕末~明治の広島・岩国・下関https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37192708.html

●【太平洋戦争の残影を見る】

  大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html 
  大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html 
大阪ミナミの爆撃廃墟  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html 
⑬神風特攻隊・・10  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36471371.ht 
⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html
⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html 
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太平洋戦争の残影 ㉘戦艦「大和」の最期・・

攻勢を強めるアメリカは、マッカーサー元帥率いる南太平洋方面軍を、フィリピンのレイテ島に上陸させた。 そんな中、大本営はレイテ島奪還に向けて日本の海軍史上最も大規模な作戦「捷(しょう)一号作戦」を発令した。

作戦の概要は小沢空母機動部隊が囮となって米艦隊を引き付ける間に、「大和」を含む戦艦部隊をレイテ湾へ突入させ、「大和」が誇る世界最大の46cm砲によって上陸中のアメリカ輸送船団を殲滅させるというものだったが、昭和19年(19441022日、栗田艦隊は「大和」「武蔵」を率いてレイテ湾へ出撃し、小沢の機動部隊は首尾よくアメリカ艦隊を引き付けることに成功はしたが、ここで「大和」の栗田長官は突撃を中止し、Uターンをしてしまう。

不思議にも、栗田長官は「大和」他をして、レイテ湾内にひしめく米船団に大打撃を挙げられる筈の、この作戦を遂行することが出来なかったのです。

 
昭和20年(194545日、「大和」に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地はアメリカ軍が上陸を始めていた沖縄でした。
連合艦隊司令長官・豊田副武は「天一号作戦」を発動する。それはアメリカ艦隊がひしめく沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦させ、自らを沿岸に座礁し、砲台となることも辞さないという「水上特攻作戦」だった。   
航空隊の援護も無いこの作戦は、沖縄に辿り着けるか判らない無謀なものだった。
  
昭和20年47840分、「大和」は米軍の航空機の編隊を視認しました。1234分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。米側の最初の急降下爆撃により「大和」は爆弾2発を受ける。
そして13時37分、魚雷3本が左舷中央部に敵中。更に2本が左舷に命中し次第に船体が傾いていった。220分、傾斜が20度となり、復元不可能となる。

そして、14時23分、傾斜が35度に達した時、「大和」は左舷から転覆し始めた。
艦体が海に没した直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生したのです。
海中から爆発と噴煙が立ち昇り、その高さは一千米に達したのです。

戦艦「大和」の最期の姿でした。
華やかな戦果を一つとして、挙げることの出来ない、悲運の戦艦でした。


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   柱島泊地に於ける戦艦「大和」  


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戦艦「大和」Yamato, named after the ancient Japanese Yamato Province…

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戦艦「大和」(主砲が2連式の時?)


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泊地での「大和」


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昭和19年10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和、榛名、金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。


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シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


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シブヤン海でアメリカ艦載機による攻撃を受ける戦艦『大和』 昭和19年10月24日


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シブヤン海で米海軍の艦載機の攻撃を受ける日本海軍の戦艦大和-1944年10月24日


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       日米両海軍が火花を散らした大激戦「シブヤン海戦」


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        そして「天一号作戦」へ向けて沖縄へ

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     坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日

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      坊ノ岬沖、「天1号作戦」での「大和」  昭和20年4月7日


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          グラマンの攻撃を受ける「大和」

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傾斜した「大和」を守るべく、防空戦を続ける「冬月」の砲が火を吹いたところ

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 相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した「大和」 左舷を護衛するのは雪風.


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           戰艦「大和 」と護衛艦とも9艦で・・・


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           空襲の中、回避行動を取る「大和」

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           敵機の攻撃に曝される「大和」

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         懸命に回避行動を取るも・・「大和」

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          米艦載機からの攻撃で瀕死の「大和」


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「大和」が横転し、大爆発を起こした瞬間。


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艦体が海に没した直後、(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した

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艦体が海に没した直後、火薬庫に引火・誘爆、凄まじい大爆発が発生した


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 直後、火薬庫に引火(前後部砲塔弾薬に誘爆)凄まじい大爆発が発生した。


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           鹿児島県、坊ノ岬沖にて轟沈。

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         昭和20年4月6日、7日、軍艦大和行動図


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        ➀                 ②   

  ➀
 はこの作戦時の戦艦「大和」の戦闘詳報です。
(後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する)
  ② 「大和」の詳細な作戦行動が記されている。  「大和」は461520分に沖縄に向けて、帰る見込みのない最期の航海に出撃したのです。
出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜」。 


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                           ③                  ④

  によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。  
  ④ は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの



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         ⑤               ⑥

 「参考事例(戦訓)」には、
戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別とし て、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をも、みすみす無駄死にさせてしまう、と書かれている。
 また、「大和」を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれている。


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           敗れて目覚める・・・


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         コルセアによる「大和」への攻撃・・


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 Paintingof Japanese battleship Yamato under American…


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IJNbattleship Yamato under attack -- Okinawa, her final battle!

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 IJN Yamato under US air attack the afternoon of April7.1945


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 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


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●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
イメージ 19

(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。

 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。

栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。

そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
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         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。


【太平洋戦争の残影を見る】 ↓ ①~㉘

  大阪城周辺と陸軍造兵工廠 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36279478.html 

  大阪駅周辺の爆撃廃墟 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36295578.html 

大阪ミナミの爆撃廃墟  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36305796.html 

④神風特攻隊・・1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html

⑤神風特攻隊・・2  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36339854.html

⑥神風特攻隊・・3  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36356342.html

⑦神風特攻隊・・4  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36373109.html

⑧神風特攻隊・・5  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36389248.html

⑨神風特攻隊・・6  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36406435.html

⑩神風特攻隊・・7  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36423117.html

⑪神風特攻隊・・8  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36439341.html

⑫神風特攻隊・・9  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36454544.html

⑬神風特攻隊・・10  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36471371.html 

⑭松山海軍航空基地 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html

⑮坂野壽男・・満州での8月15日① https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36500298.html

⑯坂野壽男・・満州での8月15日② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36515363.html 

⑰坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36530106.html 

  坂野寿男・・敗戦・満州脱出行②  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36546313.html 

  真珠湾攻撃による日米開戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36557875.html

⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36578883.html 

㉑真珠湾攻撃によるダメージ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36591114.html

㉒マレー沖海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36628346.html

㉓珊瑚海海戦   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36643454.html

㉔ミッドウェー海戦  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36655630.html

㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36673242.html

㉖戦艦「大和」と「武蔵」  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36699641.html 

㉗戦艦「武蔵」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36713029.html

㉘戦艦「大和」の最期・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36728399.html 

   

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「武蔵」の最期・・

昭和19年(19441024日、フィリピン・レイテ島争奪をめぐって、日米両軍が全力を挙げて空前の大海戦が展開された。
 「武蔵」は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の記録によると「武蔵」には、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25が命中したという。
だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約時間も沈まなかった。
 

「大和」と「武蔵」には異なる点も多かったのだ。
まずは建造された場所が違う。「大和」は広島県・呉にあった「呉海軍工廠」で建造された。つまり、国が自ら製造した。一方、「武蔵」は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されている。

  三菱重工業の長崎造船所は、多くの軍艦を建造する一方で、日本と欧米を結ぶ客船も造っていた。 

  そのため、艦船の内装の設計にも定評があったという。「大和」を製造した呉海軍工廠は、司令官が乗り込む施設の調度品を長崎造船所に依頼したという話もあるぐらいだ。
「大和」よりも「武蔵」のほうが内装の質が上だったということだろう。
 
 「武蔵」が沈み難かった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている。
だが、それだけではないようだ。「武蔵」の防御力や浸水に対する設計が優れていた証拠でもある。
 
 「武蔵」の壮絶な最期を「大和」の艦上から目撃した宇垣纏中将は、この時の様子をこう書き残している。
1530分、艦隊は反転す。本反転において麾下の片腕たる「武蔵」の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終わり、左舷に傾斜十度くらい、御紋章は表しいるも艦首突っ込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり』 (「戦藻録」著・宇垣纏、原書房刊)
宇垣中将の記述は、『艦首から砲塔がある前の部分が海水に沈みかけていて、事実「武蔵」は艦首から滑るように沈んでいった。』
午後735分、日本海軍が建造した最後の戦艦でもある「武蔵」は1040人の乗組員と共に、フィリピン・シブヤン海にその巨体を没したのである。  
 (乗員2,399人中・・・生存430人)
 


 しかし、これで悲劇は終わらなかった。「武蔵」の生存者の1376名が辿った道は悲惨なもので、ある者はフィリピンの陸戦隊に編入させられ、その戦いで大半が命を落とし、ある者は日本へ帰っても拘禁状態で幽閉され、武蔵沈没の口封じの為に沖縄や硫黄島の戦場へと送られ、またある者は特攻艇に・・・という事など、戦後生き残った人々は結局、沈没時の生存者の半分に満たなかったのであった。


 満身創痍「武蔵」の防御力に驚愕した米軍は、のちに沖縄沖へ向う「大和」を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させて撃沈している。「大和」の最期も壮絶なものだった。
 「大和」と「武蔵」、共に猛攻撃を受けて沈んだが、特に「武蔵」のそれは世界の海戦史上で類がないものだった。



イメージ 20
         [End of IJN Musashi] - On October 24th 1944,

イメージ 1
[Musashi] was the second of the Yamato-class battleships; she shared the honor with the lead ship, as the largest battleship ever constructed in naval history.

イメージ 2
10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の「長門」の前方が「武蔵」で、そこから奥に向かって「大和」「榛名」「金剛」と「高雄型重巡洋艦4隻」

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   サマール沖で米空母艦隊を砲撃する武蔵 昭和19年10月24日

イメージ 4
   10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける武蔵。

イメージ 5
  猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が艦橋の高さを遥かに超えている。

イメージ 10
   被弾しながらも前進する武蔵。後方に「陽炎」型駆逐艦が見える。


イメージ 6
  黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、妙高型重巡洋艦。
  右側に高雄型重巡洋艦金剛型戦艦が確認できる。


イメージ 21
       Yamato-class battleship, IJN Musashi
【艦尾に水上機を4機搭載しているのが確認できる
0式3座水上偵察機


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シブヤン海で米海軍艦載機の攻撃を受ける戦艦武蔵・・昭和19年10月24日


イメージ 7
   爆撃を受ける戦艦「武蔵」。このあとシブヤン海に巨体を沈めた。
   昭和19年10月24日

イメージ 11
  シブヤン海で雷撃を受ける「武蔵」。右舷から水中に噴き出す泡・・


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(Sibuyan Sea, 24 October 1944)武蔵●艦首の沈み込みがハッキリと・・

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攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る。(駆逐艦「磯風」の撮影)


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            戦艦「武蔵」の最期の姿

イメージ 14
      艦首から静かに海中へ、引き込まれていった・・・

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         レイテ沖海戦での日米艦隊の航路図。

上記、細密図➔・・https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6%E5%9B%B3A2.pdf  



 戦艦「武蔵」の最期・・そして「大和」のUターンを語る。
   ・・・(『月刊正論』 201410月号より抜粋)・・・


イメージ 15

●深井俊之助 (元帝国海軍少佐・戦艦「大和」副砲長)
●聞き手:井上和彦 (ジャーナリスト)の対談・・・

  http://ironna.jp/article/1062?p=5

(「大和」でレイテ沖へ)

深井 19年3月1日に「大和」の副砲長になり、もう内地にいても油が足りないから南方の前進根拠地に行けと言われて、リンガ泊地に行きました。
リンガ泊地はシンガポールから南に100マイルぐらいの島で、まことにいい具合に、海には小さい島がいっぱいあって、潜水艦なんかが夜襲できない場所でした。  
ちょうど連合艦隊が入れるぐらい大きくて、出入り口が二つほどある。そこに警戒艦が監視していれば、中の船は大丈夫。そこならボルネオの油田やセレベスの油田などが近いから、いつでも油を補給できる。そのリンガ泊地におった時に、レイテ沖海戦の命令が出たんです。
 
井上 まずは、戦艦「武蔵」が沈められたシブヤン海戦がありますね。深井さんは「武蔵」の沈没を目の当たりにされたのですね。
 
深井 その時には、私はもう「大和」に乗っていて、フィリピンのレイテ沖に突入する作戦の途上でした。あれは、昭和19年10月22日ですか、その1週間ぐらい前にリンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイで突入部隊が油を積み、レイテに向かったんです。
 ブルネイを出て、一晩過ごした23日朝、明るくなる頃には攻撃があるからと全員が戦闘配置につき、重巡洋艦「愛宕」を敵艦に見立てて砲戦訓練をやっていた。その時、急に「愛宕」と「摩耶」と「高雄」、3隻の1万トン級の巡洋艦が2隻の敵潜水艦に沈められたんです。それで彼らを置き去りにして、シブヤン海に入りました。
その攻撃がどこから来たかというと、そのときルソン島沖、太平洋への通路であるサンベルナルジノ海峡の出口、レイテ沖に、三つの敵航空母艦群が4隻ずつ、計12隻おりました。ほかにもう一つ、補給基地に帰っていく空母群4隻があって、三八任務部隊というこの4つの空母群から、栗田健男長官が指揮する我々栗田艦隊に攻撃が来たんです。
 
朝8時頃に、敵の飛行機が我々の頭上を飛んで・・・触接というのですが、こちらの進路や速度を報告したんです。それを受けて敵空母から飛行機隊が飛び立ち、昼前の11時過ぎに第一派の攻撃が来ました。
それから1時間か2時間おきに5回来ました。だいたい1回の攻撃は80機ぐらい。この80機が二つに分かれて、お目当ての「大和」と「武蔵」に攻撃を仕掛けてきました。
 
  他の艦艇への攻撃は、帰りがけの駄賃で爆弾を落とすぐらいで、ほとんど全部が「大和」と「武蔵」に来た。『男たちの大和』なんていう映画を見ましたけど、実際はあんな生やさしいものじゃない。本当に、口では表現できないほど凄まじい戦いでした。
こっちに爆弾が落ちたかと思うと、こっちにも落ちる。それで、爆弾の破片が飛んできて機銃手がやられたりして甲板に血が流れてくる。それはもうひどいものだった。
 
  1回目の空襲で「武蔵」に魚雷一本と爆弾が数発当たった。それでも「武蔵」はあまり被害を受けずに一緒に走ってました。
2回目、3回目と続けるうちに、今度は「武蔵」に集中していくようになって、最初は、「大和」と「武蔵」に五分五分に行われていた爆撃が、いつぞや「大和」に3、「武蔵」に7ぐらいの割合で行 われるようになりました。そのうちに3度ぐらいの空襲で「武蔵」は魚雷が7本も8本も当たって、爆弾も10発ぐらい命中し、もう普通に速度が出なくなった。そうして「武蔵」が落伍してしまったんです。
 
  それで空襲が終わり、途中で栗田艦隊はいっぺん、4時頃に引き返してる。こんなに被害を受けているのに、日本の航空部隊は何をしてるんだと、航空隊の成果が上がるまで水上部隊はしばらく突入を待つから、成果が上がったら電報しろという主旨の電報を航空隊に打って、東に進んでいた栗田艦隊が西に進み出した。 逃げたわけです。
 
井上 そうだったのですか。ところで「武蔵」が集中攻撃を受けて沈んだのは、何か理由があったんでしょうか。
 
深井  「大和」の艦長は船の操艦が上手かったんです。爆弾や魚雷を、巧みに舵を取ってよける、そういう操艦が上手だった。ところが、「武蔵」の艦長は、大艦巨砲主義の権化ともいえる海軍砲術学校の校長で、長いこと陸上で教官をやっておられたから操艦に慣れていなかった。だから爆弾が落ちてきても上手く避けられなかったんでしょう。
それに「武蔵」は新しくできた艦で、乗員がまだよく訓練されてない。ところが「大和」のほうは古いから、乗員も訓練されている。その差で「武蔵」は被害を受け、「大和」は生き残ったんです。
 
  栗田艦隊は、落伍した「武蔵」を残して東に向かったんですが、さっき申し上げたように、航空隊の効果が出るまで待つということで、西に向かって引きくり返してきた。
その時、「武蔵」がもう沈みかけていました。
「大和」「武蔵」というのは、舳先がスッと上がってるんです。甲板よりちょっと坂になって上がっており、その上がった先に菊の御紋章がついている。
御紋章から白波が立つでしょう。あの白波が御紋章の下からザーッと出て、後ろの甲板はもう水に浸かっていた。それでも「武蔵」は走っていました。
 
 僕らはその状態を見て、これはもう駄目だと思ってました。
「武蔵」は、命令により台湾、中国間の群島にある馬公の海軍基地へ向けて航路を取っていたのですが、力尽きて、ついにシブヤン海に沈んだのです。
 
(サマール沖での砲撃)

井上 その後の栗田艦隊の作戦行動について、お話しいだけますでしょうか。
 
深井  我々が西に向かって走り続けていた午後4時頃、敵の飛行機がピタリと来なくなったんです。
何が何だかわかりませんでした。味方の航空部隊から空母を沈めたという電報もない。実は24日14時、三ついたアメリカの航空母艦群と水上第七艦隊は、囮になった小沢艦隊を発見し、栗田艦隊への攻撃をやめて小沢艦隊へ行ってしまったのです。
 
  その結果、小沢艦隊は1隻を残して全部沈められましたが、囮艦隊としてはまことに立派な仕事をした。小沢治三郎長官は立派な方で、我々は尊敬していました。
小沢艦隊があったから、我々がレイテの近くまで行けたんですよ。そうでなければ、サンベルナルジノ海峡の出口に待っていた敵にやられていたでしょう。
 
イメージ 19

(反転時の大和艦橋)

井上 最後に、今も議論が続く「謎のUターン」のお話しをお願いいします。
 
深井  突撃命令が出たので、「大和」も「長門」も戦艦部隊はどんどん攻めてゆきました。
そして水雷戦隊の駆逐艦も三十数ノットで逃げる敵艦を追いかけてゆき、もう魚雷が撃てるという5、6000メートルくらいまで近づいていったのです。一方、「大和」は被害を受けて22ノットぐらいしか出せませんでした。
 
  こうして艦隊はバラバラになってしまったので、9時11分、追撃をやめて逐次集まれという命令がかかった。それからまとまってレイテ沖に向かったんです。
レイテ湾は山の陰で見えないけど、「あのへんがかすんで見える」「何か船がいるような気がするな」なんて言いながら南へ、南へと2時間ほど走った。もう1時間半走ったら「大和」の主砲弾がレイテ沖の敵の軍艦なり、商船なりに当たるぞという所まで来たところで、「大和」が5、60機の空襲を受けたのです。
その弾をよけるのに、艦隊があっち向いたり、こっち向いたりして、爆撃が終わった時には、「大和」は北を向いていました。
 
 その時、13時10分、栗田長官が「レイテ突入をやめ、北上し敵機動部隊を求め決戦」という命令を出された。僕らは対空戦闘が終わってもどんどん北へ行くので、おかしいなと思って、艦橋へ降りていってどうしたんだと聞いたら、みんな黙っている。
 艦橋には栗田長官と、「大和」「長門」を指揮する第一戦隊司令官の宇垣纏さん、そして大和艦長の3人がおられるんですけど、もう3人とも変な顔なんですよ。
 
栗田長官は黙って前を向いたまま。宇垣中将は参謀なんかに向かって、「南に行くんじゃないか!」と皆に聞こえるよう大声で言っておられる。参謀はこっちのほうに隠れて聞かないようにしている。
「大和」の艦長は、司令官が2人も乗っているからどうしようもない。黙って座っているだけ。
栗田長官は90マイル先の機動部隊を攻めに行くといい、宇垣長官は30マイル先のアメリカ(レイテ)を潰しに行くという。2人の意見が分かれて、それまでにだいぶやり合ったらしい。
 
僕らは、ここまで来てあと1時間半行けば、敵の艦隊も商船も、上陸したマッカーサーの陸軍だって、みんな潰してやれると思っていた。目の前に敵がいるのにレイテに向かわず、90マイルも北にある敵艦隊に戦いを挑むなんて考えられませんでした。
 
「大和」が速力22ノットで30マイルも走れば、レイテ湾に着く。俺達は、命令通りレイテ湾に突入してアメリカ軍を潰さなければ、日本とボルネオの油田地帯とを結ぶ交通路が遮断され、いくら船が残っていても役に立た なくなる。飛行機も飛べなくなる、だから、ここは絶対に譲れない。
そう考えた私は、後ろで作戦参謀が集まっている所に怒鳴り込んで、大ゲンカしたんです。普通なら、軍法会議にかけられてすぐ停職になるが、そんなことはもう頭にありませんでした。
 
  しかし、いくら地団駄踏んでも、参謀が長官に「南へ行きましょう」と言って方針を変えない限り、「大和」は北に向かって走り続ける。悔しくてしょうがないが、海ですから降りて歩くわけにもいかない。本当に情けない思いをしながら、昨日受けたような爆撃を何遍も受けながらブルネイの基地に戻ってきた。それが 謎の反転の真実なんです。
 
井上 その反転の理由は、一体何だったのでしょうか?
 
深井  その間に怪電報があったのです。「敵機動部隊見ユ、地点ヤキ1カ 0945」というものです。これは栗田艦隊司令部にだけあって、他のどの艦も受信した記録がない。「大和」と司令部は通信所が全然違うから「大和」にもない。発信者も分からない。「ヤキ1カ」というのは飛行機用の符号なので、飛行機が打った電報だと分かっているが、栗田さんは戦後、これはマニラの南西方面艦隊司令部にいる同期生が打ってくれた電報だと言っています。その電報のヤキ1カ、「大和」の北方地点の敵に向かって反転したんだというのが参謀の言い分です。
 
  僕があんまりしつこいから、作戦参謀がその電報を持ってきて、「この敵を叩きに行くんだ、これだ!」と示した。後から考えると、消去法でいくと、どうも作戦参謀の作文に違いないという結論に僕は達したのです。
作戦参謀は、とかく噂のある、死にたくない人でした。以降の日程を考えても、次の日には爆撃を受けないようなシブヤン海の端まで行っている。それで逃げられる、と考えていたのだろうかとまで私は疑って仕舞います。ただし証拠はありません。
 
井上 栗田長官ご自身は、どうお考えだったのでしょうか。
 
深井  あの人は下から押し上げられて偉くなった人で、そんなに器量が大きな人ではない。だから作戦は参謀任せ。参謀が言うならそれでよかろうということではないでしょうか。ミッドウェー海戦で、護送していた輸送船部隊を置いて、沖縄に逃げ帰った経歴もあるから、僕らも信用していません。
それでも戦後、あれは俺の一存だったと、全部責任を負われた。しかし実際はそうじゃないと思います。
 
井上 もし、栗田艦隊がレイテに突入していたら、どうなったと思われますか。
 
深井  レイテ湾には40隻くらい敵の輸送船がいた。空船にせよ何にせよ、輸送船がどんどん沈められたらレイテ湾は使えなくなったでしょう。
旅順閉塞みたいなもので、船で増援部隊、増援物資を送れなくなり、そうなれば6万の米兵が干上がってしまう。そして次の作戦までに3カ月や4カ月はかかってしまう。
また、「大和」と 「長門」が艦砲射撃すれば、陸軍の守備隊も少しは盛り返して、飛行場を取り返すだろうと想像できた。希望的観測をすればそんなところです。
その3カ月か4カ月の間で、有利な条件で講和ができれば、連合艦隊がつぶれてもいいじゃないか。国の為にやることだからしようがない、そういう気持ちでした。

 
● 深井俊之助氏(ふかい・しゅんのすけ) 大正3(1914)年生れ、東京都出身。 昭和5年海軍兵学校入校。以降履歴【昭和9年卒業、「八雲」】 【10年「比叡」】 【11年少尉、中尉任官】 【14年南支方面作戦、大尉任官、「夕暮」】 【15年仏印作戦】 【16年「初雪」、マレー沖海戦】 【17年エンドウ沖海戦、バタビヤ沖海戦、サボ島沖海戦、ガダルカナル作戦、第3次ソロモン海戦、「金剛」】 【19年「大和」副砲長、少佐任官、シブヤン沖海戦、サマール沖海戦、レイテ沖海戦】 【20年、第3航空艦隊参謀、終戦。「八雲」、マニラ在留邦人救出輸送任務。10月予備役】 戦後は不動産建設業を営む。(「」内は乗組艦名)
 
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         元「大和」副砲長 深井俊之助少佐。

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太平洋戦争の残影 ㉖戦艦「大和」と「武蔵」

真珠湾攻撃、マレー沖海戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が、「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」のような戦艦から、航空機へと移ったことを自ら証明することになります。 
開発当時は「不沈艦」と称された最先端の戦艦だったが、第二次大戦では戦艦同士の砲撃戦から、洋上の基地としての空母と航空機を主体とした戦いに移っており、戦艦の価値は大きく低下、自慢の46cm主砲が活躍する機会は殆んどなかったのです。
 
昭和16年(194112月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(19426月のミッドウェー 海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)619日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年1023日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が「大和」が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。

すでに日本の敗色が濃厚となっていた昭和19年(1944)のレイテ沖海戦で、「武蔵」が集中攻撃を受けて沈没。一方「大和」は被害を受けながら帰還修復が為された。

連合艦隊が壊滅状態に陥ると、昭和20年(19454月、「大和」は沈没前提の特攻作戦として米軍の沖縄上陸阻止に向けて出動、多数の敵機の標的となり、鹿児島南西海上で47日に沈没した。

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           柱島泊地に於ける戦艦「大和」
  

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             戦 艦 「大 和」


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  トラック島泊地における戦艦 左『大和』 右『武蔵』 (昭和18年)


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              戦艦『大和』


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全力予行運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月20日 宿毛標柱間)

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全力公試運転中の戦艦『大和』(昭和16年10月30日宿毛沖標柱間)


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戦艦『大和』


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  最終艤装中の戦艦『大和 』(昭和16年9月20日 呉海軍工廠にて)


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停泊中の戦艦「長門」の向こうに「大和」の姿が見える(昭和19年)ブルネイ泊地

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中島九七式三号艦上攻撃機 (97艦攻)直下に儀式用テントを張った「大和」


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                戦艦「大和」

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左から武蔵手前最上、右大和手前鳥海  (昭和19年10月21日 ブルネイ湾)

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             戦艦『武蔵』 前方正面


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昭和天皇行幸の記念写真。対空機銃銃座前(1943年6月24日)戦艦「武蔵」
          ・・・前列中央が【昭和天皇】・・・

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    徳山~呉間で公試中の戦艦『武蔵』艦橋付近(昭和17年7月)


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 戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望

(((武蔵にトリプルガン配置
戦艦「武蔵」のトリプル砲と水兵

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         戦艦『武蔵』の艦橋より艦首を眺望す


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               戦艦『武蔵』

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      レイテ湾の戦艦『武蔵』 ( 1944年10月22日)



【次回は】・・・

太平洋戦争の残影 ㉗戦艦「大和」と「武蔵」の最期・・につづく





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太平洋戦争の残影 ㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲

 日米開戦後には、真珠湾攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、1220日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開していた。
 その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻を撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は64千トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
 
 さらに昭和17年(1942)224には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行い、これに成功するなど一連の西海岸本土への先制攻撃を行った。日本軍による一連の米本土への先制攻撃は、これまで本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本軍の本土上陸は避けられないと判断していた。

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         カリフォルニア サンタバーバラ奇襲

日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として、昭和17年(1942224日未明に「伊号第17潜水艦」(イ-17)によりカリフォルニア州ロサンぜルス西方近郊、サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、アメリカ軍からの反撃を受けぬままに同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の先制攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えた。

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      1942年、アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行ったイー10


独立以来、アメリカ本土での侵略経験がない米国民の戦意高揚を目的に、早い時期における日本の首都東京空襲戦略を企画した。  昭和17年(1942)の年明けから戦術化された東京空襲戦略は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社によって開発・製造された航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機である「B-25」を空母ホーネットに搭載、日本本土の哨戒線間際の900キロ地点から空母から発進させ、東京を夜間空襲し、約2,000キロ離れた中国大陸東部へ着陸させる計画であった。

 攻撃指揮をとるジェームズ・ハロルド・ドゥリットル中佐をはじめ隊員たちは、わずか1カ月の猛訓練の後の1942年4月2日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。
 
 空母からの索敵によると、北緯36度4分東経153度10分地点で日本の哨戒艇を発見した。 それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」(日東漁業、90トン)に発見されたことを意味した。 底引網漁船の「第二十三日東丸」は、軽巡のナッシュビルと、F4Fワイルドキャットの機銃掃射を受け、07:23に撃沈されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』の無線を使う時間は有った。


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    ⇧「第二十三日東丸」

06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった



   炎上する「第二十三日東丸」➔



 4月18日夜間攻撃予定だった米軍の計画は、同日朝、米・機動部隊が太平洋沿岸で日本の哨戒艇に発見されたため、急きょ計画を変更、攻撃時間を10時間早め、東京から1,200キロ、着陸地点中国大陸までの航続限界地点からB-25を発進させた。

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爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐➔


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        空母「ホーネット」上のB-25 出撃体制

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       空母「ホーネット」上のB-25 離陸体制完了


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           空母「ホーネット」より出撃

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       空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25


日本本土、18日の東京では、早朝から大規模な防空訓練が行われていた。
 その最中の午後0時10分、「B-25」は焼夷弾を
投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない市民が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。

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ドーリットル進行ルート、茨城県から東京侵入し12:15頃から空襲を行った


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            横須賀軍港に対する空襲

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横須賀を爆撃した(2247機)が撮影した空中写真のほかに、田園地帯を爆撃する不可解な写真。

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  16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃。

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            爆撃被害後の子供たち


勝利に次ぐ勝利という戦果を上げていた日本の軍部は、空母が爆撃機を搭載して日本本土を攻撃してくるとの思考を持ち合わせていなかったため、哨戒艇から、米機動部隊発見の報を受けていながら、空襲があるとしても翌朝と判断していた。まさに迫撃態勢、空中戦も無く列島横断中に1機の撃墜も出来ぬまま放置され、空母「ホーネット」を探索追尾攻撃さえ出来ず、偵察資料不足の米軍の奇襲攻撃を成功に導いたのです。

 茨城、千葉上空で戦闘機による迫撃態勢を取っておれば、敵16機全機の撃墜は可能だったと思われます。
 正に迎え撃つべき司令部の無能ぶりを見せ付けたのでした。

ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。日本側の被害は死者87名、重傷者151名、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった。

 爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュートで脱出した。
この結果、15機のB-25が全損となった(11機は落下傘脱出、4機着水)。
8番機はソ連のウラジオストック不時着、乗員は抑留された。爆撃機隊のうち、乗員戦死が1名と行方不明が2名、日本側捕虜となったのが8名(後日3名処刑、1名病死)。

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 1942年、捕虜となったB-25搭乗員を連行する憲兵下士官。(上海方面)

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➀         昭和17年4月19日付『朝日新聞』朝刊

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② 19日付『読売新聞』2「国土防衛に士気極めて旺盛」「焼夷弾微力な2キロ」


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③           昭和17年4月19日付『読売新聞』



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④          昭和17年4月19日付『東京日日新聞』

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⑤           昭和17年4月19日付『東京日日新聞』


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⑥       昭和17年4月22日付『東京日日新聞』夕刊

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⑦          昭和17年4月26日付『読売新聞』

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⑧         昭和17年4月28日付『東京日日新聞』






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太平洋戦争の残影 ㉔ミッドウェー海戦

開戦半年後、昭和17年(1942)65(アメリカ標準時では64日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦により、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失した。
ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を失う大きなターニングポイントとなってしまった。

 
国力で圧倒的に劣る日本が守勢に回ってもいずれジリ貧になる。
短期決戦に持ち込むため、早期に敵の弱点を叩くことで、相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断がなされた結果だ。
 
以後のハワイ攻略を見据えた作戦計画が立案され、その前提としてミッドウェー攻略作戦に踏み切ったのだ。
ミッドウェー島を占領しても維持は極めて困難でも、占領後にはただちに他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたようだ。
  結果は、約2倍の投入兵力でありながら取り返しのつかない損害を被ることとなった。

 
敗因は多岐に渡っております。 その主な原因としては・・・
 
 ●諜報能力の差・・
 日本軍の暗号は、米軍でかなりの精度で解析されていたとされる。
 本作戦概要は、最初は断片的であったものの、海戦前の5月頃には全体像などを明白に掴まれている。
 また、日本軍側でも情報管理に綻びが出始めており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていた(「今度はミッドウェーですね」と挨拶された)という証言もある。
 

 ●不十分な索敵・・
 索敵立案を担当した吉岡忠一は敵が作戦中現れると考えておらず、艦上攻撃機を索敵に回すのが惜しかった、全く状況判断が甘かったと戦後反省している。
(索敵計画に携わった数名も二段索敵にするべきだったと反省している)

 甘い敵情の判断は戦闘指導に大きな影響を与えた。
 

 ●兵装換装・・
 上記のこともあって、兵装を雷装から爆装に
(決戦用から対地用へ)換装している。換装にはかなりの時間を要する。

 そこに敵が現れる結果となったため、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能であった。
 米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できたという「運命の5分間」説は根強いが、実際にはその時点で攻撃隊は、飛行甲板に並んですらいなかったので、誤りであるとされる。
 

 ●ダメージ・コントロールの欠如・・
 日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されておらず、火災に備えた訓練も行われていなかった。

 そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手の付けようがなく、米軍勢力圏内での曳航に失敗し、自沈処理に至った。
 

 ●楽観的気運・・
 真珠湾以来の完勝は自信を過信に変えた。珊瑚海での戦いも練度の低い五航戦でも勝てたのだから自分たちには問題ないと信じていた。

 これにより珊瑚海での検証さえも十分になされなかったとされる。
 また、搭乗員だけでなく司令部も甘い判断が目立ち、第一航空艦隊に敵に備えるように言っておきながら、情勢の緊迫を察知しながら、東京からの甘い状況判断の放送を全部隊に流したままで、自己判断を知らせないままだった。
 
 その他にも、●司令部での意見の不一致、●レーダー装備の有無、●哨戒網の問題・・など色々な説がある。

 それにしても開戦6ケ月後に、
航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失したのは、今後の作戦の練直しの止むなきを得ず、司令部の大失策であろう。


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            ミッドウェー諸島攻撃

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            これがミッドウェー環礁

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         ミッドウェー諸島と米海軍航空隊基地

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               ミッドウエー海戦図

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         1942年6月5日~7日(ミッドウエー海戦)


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     南雲機動部隊によって炎上するミッドウェー島空襲

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     この機に乗じてダッチハーバー爆撃敢行(アリューシャン)


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             ミッドウェー海戦

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              ミッドウェー海戦

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         空襲を受ける米空母「ヨークタウン」

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      煙を上げる米空母「ヨークタウン」と「ハムマン」

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イ168による雷撃、ヨークタウン』と『ハムマン』それぞれに1発ずつ命中

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 現地時間6月7日、伊‐168の魚雷を受け沈没寸前の空母「ヨークタウン」

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      伊168の雷撃により轟沈する駆逐艦「ハムマン」



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       アメリカ機の攻撃を回避中の空母「赤城」

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          ドーントレスによる急降下爆撃


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          留目の被弾を受けた空母「赤城」
九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった。

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            空母「赤城」(1941年)


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 ミッドウェーで沈没前の空母『加賀』・・大火災をおこした直後のもの

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機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、戦争における主導権を失った。

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               空母「加賀」

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         米軍機の爆撃を回避する空母「飛龍」


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        急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」

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               空母「飛龍」

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       脱出後に救助された空母「飛龍」の機関科兵

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           回避行動をとる空母「蒼龍」

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              空母「蒼龍」

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          炎上傾斜する重巡洋艦「三隈」

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      酸素魚雷の誘爆により大破した重巡洋艦「三隈」


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             重巡洋艦「三隈」


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          朝日新聞  (1942年6月11日)





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太平洋戦争の残影 ㉓珊瑚海海戦

  真珠湾攻撃後、昭和17年(1942)4月10日。
  海軍軍令部は、 長期不敗の態勢確立を目指す第二段作戦 の開始を発令。
  その先駆けとして、 ポートモレスビー 攻略作戦(暗号名 MO作戦 ) を発動させた。
  東部ニューギニアの要衝 ポートモレスビーを海路から攻略し、 珊瑚海を制圧して、 豪州北部方面からの連合軍の反攻を阻止する拠点にしようとするものであった。

  5月初旬。ポートモレスビー攻略部隊は、
 ラバウルから・・・同作戦の航空支援任務を帯びた、 原忠一少将指揮下の第五航空戦隊 (空母二隻基幹) は、 寄港地のトラック島から・・・相前後して出撃した。

  然し、 暗号解読によって日本側の企図を察知した米海軍は、是を阻止すべく、 第十七機動部隊 (空母二隻基幹) を、 ニューギニア南東海域・・・ 珊瑚海 に差し向けて来た。

  そして・・・昭和17年(1942)5月7日。
  日 ・ 米両機動部隊の間に、 世界戦史上最初の空母決戦である珊瑚海海戦 が生起する事となったのである。
 
  ポートモレスビー攻略部隊がラバウルを出港した5月4日。
  日本軍が攻略したばかりのツラギ島が米艦載機群の空襲に遭い、 駆逐艦一隻 ・ 小艦艇数隻 (掃海艇 ・ 駆潜艇等) 喪失の被害を出しました。
  米機動部隊が珊瑚海に進出して来ている事が判明したのです。

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  5月6日。
  日本機動部隊は、 敵空母撃滅を期して同海域に進入。
  世界戦史上最初の空母決戦である 珊瑚海海戦 の幕が開かれます。
 
  5月7日早朝。
  日本機動部隊の索敵機の一機が、 敵空母発見を打電。
  報告を信じ、 機動部隊は、 直ちに攻撃隊を発進させます。
  然し、 実は油槽艦を空母と見間違えたものでした。
  (本物の) 敵空母発見の報がもたらされたのは、 その数十分後の事でした。
  先の (誤認に基く) 報告がなかったら、 攻撃隊は本来の敵を目掛けて飛び立っていたに相違なく、 日本側としては、 誤認情報 に惑わされ、貴重な先制攻撃の機を失してしまった事は確かです。
  もっとも、 この時点では、 最初の報告が誤認に基くものである事は判明していませんが、 何れにしても、 機動部隊は攻撃隊の帰投を待つしか有りませんでした。
 
  ・・・攻撃隊は、 存在する筈のない空母を捜し回って時間を空費し、結局・・・油槽艦を護衛駆逐艦ともども沈めて帰途に着きましたが、 その間に、 ポートモレスビー攻略部隊の船団護衛に任じていた改造空母 「祥鳳」が、 敵艦載機群の集中攻撃を受け、撃沈されてしまいました。
  日 ・ 米両機動部隊は、 互いに、 敵主力を取り逃がし、決着は翌8日に持ち越される格好となりました。
 
  昭和171942)年5月8日早朝。
  日 ・ 米両機動部隊は、 殆んど同時に敵を発見し、それぞれ攻撃隊を発進させます。
  日本軍の攻撃は、 大型空母である 「レキシントン」の方により集中。
  魚雷二本 ・ 爆弾二発が命中し、 「レキシントン」は誘爆を起こし、総員退艦の後、 味方駆逐艦の雷撃によって処分されまた。

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   日本軍の攻撃を受け、炎上するアメリカ海軍空母「レキシントン」

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           炎上中の空母「レキシントン」

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   気化ガソリンに引火し大爆発を起こした、空母「レキシントン」

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             空母「ヨークタウン」


  「ヨークタウン」 は、 至近弾二発 ・ 直撃弾一発を受け、火災が発生しますが、 程なく鎮火。
  攻撃力を失い、 重油の帯を引きながら戦場を離脱していきました。
 
  日本側は、 空母「翔鶴」 が爆弾四発を受けて大破。艦載機発着不能の状態に陥りました。


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           爆撃を受ける空母「翔鶴」

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        米艦載機の攻撃をうけ炎上する空母「翔鶴」

  
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   空母『翔鶴』  
 


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           魚雷が命中した空母「祥鳳」

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        珊瑚海海戦で沈没した 空母「祥鳳」

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              空母「祥鳳」

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       回避運動中の空母『瑞鶴』と秋月型駆逐艦二隻

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  翔鶴型空母「瑞鶴」


  僚艦の 「瑞鶴」は、 折からのスコールに隠蔽されて攻撃を免れ、無傷でした。
  然し、 搭載機の損失が大きく、 新たな攻撃隊編成は困難な状態で、敵機動部隊追撃を断念せざるを得ませんでした。
 
  機動部隊が任を果たせなくなった事で、 海路からのポートモレスビー攻略は延期(後に中止) されました。
  開戦以来初めて、 日本軍の進撃にストップが掛けられたのです。
  然も、 第五航空戦隊は搭載機 ・ 搭乗員の大量喪失によって行動不如意の状態。
  傷付いた「翔鶴」のみ成らず、 無傷の「瑞鶴」までもが、次期作戦のミッドウェー攻略作戦に参加出来なくなってしまったのでした。
米海軍は、 局地戦闘で敗れても、 戦略的勝利を挙げた事になります。
 
  珊瑚海海戦 は、 様々な意味合いに於いて、 一ヶ月後の ミッドウェー海戦 の前哨戦として語られる場合が多いのですが、 日 ・米共に、 敵情誤認 ・ 誤判断を重ね、 戦機を失してしまった経験を実物教育として謙虚に受け止める限りに於いて、 索敵の重要性 等・・・数多くの貴重な戦訓を修得する機会でも有ったのです。







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太平洋戦争の残影 ㉒マレー沖海戦

 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃の同日、マレー半島にて日英開戦。
 日本軍はマレー半島のコタバルに上陸します。当時マレー半島はイギリスの植民地でした。
 9日、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を旗艦とするイギリス東洋艦隊主力Z部隊は日本船団を攻撃するため出撃します。日本軍の伊号第65潜水艦がZ部隊を発見。 日本第一航空部隊が索敵に出動しましたが、この日は天候が悪く補足できませんでした。
 10日、朝から再び第一航空部隊が索敵攻撃に出撃します。11時13分、元山空が駆逐艦「テネドス」を発見。次いで戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋艦「レパルス」を発見します。
 美幌空の96式陸攻8機、元山空の96式陸攻16機、鹿島空の最新鋭機一式陸攻26機が爆撃、雷撃を加え巡洋艦「レパルス」は午後2時20分轟沈、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は午後2時40分に轟沈しました。

 これまで「作戦行動中の戦艦を、航空機で沈めることはできない」というのが常識でしたが、それを覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の方向から、戦略的なものだけでなく精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えることとなりました。

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空爆を受ける戦艦「プリンスオブウェールズ」


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 「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」

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    マレー沖海戦・・・一式陸攻の攻撃    中村研一 画


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我が96式陸攻、英極東艦隊主力プリンスオブウエールス及びレパルスを強襲


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日本軍機の攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」(左手前)、「レパルス」(左奥)、駆逐艦「エレクトラ」(右手前)

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          燃焼するプリンスオブウェールズ

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「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦エクスプレス。


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             戦艦「プリンスオブウェールズ」

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          「読売新聞」 昭和16年12月11日






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太平洋戦争の残影 ㉑真珠湾攻撃によるダメージ③

【大東亜戦争開戦への動き】

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          真珠湾攻撃中    村上 松次郎 画


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        真珠湾で空襲を受ける、米海軍の戦艦群

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    猛火猛煙の戦艦「ウエスト・ヴァージニア」への消火作業


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         横転した艦船の向こうで攻撃は続く・・

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                真珠湾攻撃


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)


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       日本機の爆撃を脱がれた軽巡洋艦「フェニックス」

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     ドック内の戦艦「ペンシルヴェニア」も容赦なく・・


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雷撃により沈没した戦艦「ウェスト・ヴァージニア」に救助に向かうモーター・ランチ。後方は戦艦「テネシー」


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        猛煙を揚げて燃焼する、戦艦「アリゾナ」


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            被弾した戦艦「ネバダ」


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座礁した戦艦「ネバダ」艦橋下部と主砲塔が火災により黒焦げとなっている

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           引き揚げられた戦艦「ネヴァダ」


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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       真珠湾で炎上した駆逐艦「シャウ」USS Shaw


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              爆 弾 命 中

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         ハワイ真珠湾強襲    吉岡 堅二 筆

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             ホイラー飛行場の空爆


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             ヒッカム飛行場の空爆

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           硝煙を揚げるヒッカム飛行場?


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    日本軍の攻撃で炎上する海兵隊所属JO-2 エレクトラジュニア

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     巨大な胴体を真っ二つに破壊された、ボーイングB-17

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      日本機は参戦350機の内、29機が失われたらしい。


 ニイハウ島に不時着したが、焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦

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真珠湾の封殺をも考慮して、日本海軍は特殊潜航艇「甲標的」(甲標的甲型)を開発,量産し1941年12月の真珠湾攻撃で初めて実戦に使用した。甲標的は,直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する二人乗り潜航艇で,航続距離は短く,操縦性も悪かった。また、電池を使い切ってしまえば動けない。出撃した甲標的5隻の搭乗員10名のうち戦死した9名は軍神として崇められ,捕虜となった士官は黙殺された。


イメージ 20   カネオヘにて、真珠湾攻撃により犠牲となった米軍戦士たちの埋葬








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太平洋戦争の残影 ⑳真珠湾攻撃による戦艦「アリゾナ」の最期②

【大東亜戦争開戦への動き】

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          1941年10月、開戦直前の真珠湾

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      ⇧湾口    真珠湾と12月8日付の停泊艦艇

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             第一波攻撃機の空襲

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            第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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             第一波攻撃機の空襲


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

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戦艦「アリゾナ」Arizona

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魚雷攻撃で燃える、戦艦「アリゾナ」と「テネシー」「ウエストバージニア」

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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戦艦「アリゾナ」は黒煙に包まれ、左は戦艦「ウエストヴァージニア」West Virginia(半分沈没), 戦艦「テネシー」Tennessee


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真珠湾攻撃で爆沈されるアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える


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  1941年12月7日,真珠湾で前部弾薬庫が爆発した戦艦「アリゾナ」

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       午前8時10分、戦艦アリゾナの火薬庫が誘爆。


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            戦艦「アリゾナ」Arizona


イメージ 13戦艦アリゾナの最期

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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            戦艦「アリゾナ」Arizona

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              戦艦「アリゾナ」


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 沈没、着床した戦艦「アリゾナ」Arizona(BB-39)


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             往年の戦艦アリゾナ


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     慰霊施設「アリゾナ記念館」とその下の「アリゾナ本体」

乗組員1177名のうち1102名が死亡し、撃沈された戦艦「アリゾナ」及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設となっている。現在この施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されている。


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            ヒッカム飛行場への攻撃


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          燃焼から避難する、カタリナPBY飛行艇


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      米戦艦「カリフォルニア」USS California (BB-44)

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          猛煙の米戦艦「カリフォルニア」


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午前8時30分、離脱しようとした戦艦ネヴァダは第2波の攻撃によって沈没


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            引き揚げられた戦艦ネヴァダ


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        スクリューを見せて沈む戦艦オクラホマ

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           戦艦「オクラホマ」の引揚作業

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        転覆中の戦艦「オクラホマ」の引揚作業


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        転覆していた戦艦「オクラホマ」引揚げ作業


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ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」駆逐艦カッスンCASSIN(右)とダウンズ DOWNES(左)の2隻が破壊


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       ドック内で損傷した戦艦「ペンシルヴェニア」






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