泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: 忘れかけの「内子町」の風景


 私が思い起こしますと、終戦の3ヶ月前に松山の空襲の頻発を逃れて、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。

((img_12
当時の内子小学校

「あのおっさんダレぞ~?」「あの鼻ヒゲの爺さん、誰ぞ~?」
「あれは八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」などと、ボソボソ云っていると・・
『シィ~・・
重岡中将閣下さんじゃ・・』と周辺の上級生が、口に人差し指を当てて合図しながら小声で伝達してくるのだ。
 こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えてしまったようです。
 子供らでさえ「重岡中将閣下さん」と敬意を込めて呼称しているのですから、戦後とは言え町内の人々は、当然のように崇めていたのです。


((重岡_Nobujirō
(((





 「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
 同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。



 重岡照子さん(内子高校アルバムより)

 終戦直後のことですから、重岡信治郎中将がどのような方であるのか、先生からの説明は全く無かったのです。

 
【重岡中将閣下】=大将の次の位じゃないか! 只者じゃないぞ。 
 検索してみるか?・・・
ア・リ・マ・シ・タ・!


 愛媛の山奥の、小さな町の周辺の者が、恐れおののいていた筈です。

 【秋山真之】が明治43年(1910)に艦長を務めた巡洋艦「出雲」の艦長を、重岡中将が大正12年(1923)に拝命し、更に重岡中将は後に海軍潜水学校の校長に赴任するなど、潜水艦に関連しての帝国海軍の権威でもあったのです。

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帝国海軍巡洋艦「出雲」(9750t)

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大海深く海もぐり・・「重岡信次郎」(1879~1971)」海軍中将、明治38年(1905)日本に初めて潜水艇が採用されて以来24年間、潜水艇の建造から乗員の教育に至るまであらゆる潜水艦関係の要職を歴任した。
衆議院議員7回・重岡菫五郎の甥にあたる昭和46年(1971)1月に内子で亡くなった。93歳

伯父、重岡菫五郎(1862~1906)は明治時代の政治家衆議院議員に7回当選、明治39年(1906)6月に死去


重岡信治郎が「出雲」艦長時代に「帝国練習艦隊」として巡洋艦「出雲」「八雲」「浅間」の3艦で太平洋を横断、アメリカのサンディエゴ、メキシコのアカプルコ、カナダのバンクーバーを親善訪問しております。

((重岡中将
● その時の「記録記念誌」が残っておりました。
https://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/97446a3e4a64cc4000b89a1cd9830fb1より
((重岡035ad
大正13、14年「練習艦隊巡行記念」誌

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人に配布された記念誌のようです。
つまり出版されたわけではないので、ものすごく価値があるものですよ」との書店の評です。

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● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html



livedoorブログでは一度に掲載できないので、続きは近日掲載し
更に下記記事をも予定しております。

(次回に「重岡中将閣下若き日のアルバム」をアップしております)↓



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(前日までの10日間移動平均)18.14人×9日+本日21人÷10日=18.43人
((AM21-4^
コロナ感染者【移動平均】で傾向を掴め・・

グラフで見る限り東京は終息へ向けて下降中・・・




忘れかけの内子町風景・・ ⑳ 旧 内子線・空撮路線全図(1975年)

100年前の大正9年(1920)に内子線が開業してから、66年間を内子線として使用された盲腸路線ですが、
昭和61年(1986)に予讃本線の向井原~内子間、新谷 ~伊予大洲間の新路線開業により内子線が短絡ルートとして組み込まれました。

時と共に移り行く山野の景観、「旧内子線の空撮路線全図」

((s㊳2

それでは内子駅からのスタートと致します。
U1内子
                          ↑ 上部に(内子トンネル)入口工事中

U2

U3
                     右下が旧・五十崎駅


U2014内子
新旧【内子駅】と旧【五十崎駅】の現状です(2014年)

U4五十崎

U5トンネル
中央部が二本松トンネル(250m)右に2両編成客車が写り込んで

U6 (2)
黒内坊

U6-a
黒内坊

U6-ikazaki
黒内坊(2014)
((五十崎駅
黒内坊・・右上が新・五十崎駅 (2014)

U2014五十崎トンネル
五十崎トンネルの五十崎駅のある入口と内子側出口
右に旧・二本松トンネルの在った地点(2014)

U7
黒内坊

U8

U9

U10

U11喜多山
喜多山駅  ↑

U12新谷
     新谷駅       ↑帝京第五高校

U13

U14

U15

U16十夜ケ橋
        ↑ 十夜ケ橋

五郎駅周辺の新旧内子線接続の様子(2014年)

【以下・・予讃線・大洲へ】
O1
O2
O3

O4

O5
O6大洲
O7A

O7AA
JR大洲駅 (2014年)
O9大洲
大洲城・肱川と大洲市街

O9AA
大洲城(樹木が減った)・肱川と大洲市街 (2014年)


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● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
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 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

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東京のコロナ感染状況と傾向線(移動平均)   10月3日現在
(前日までの10日間)579.54人×9日本日161人÷10日=537.68人

((AM21-4^

8月22日の【移動平均】4347人/日を最高に順調な下げで537人/日まで下げた
1日平均200人に成ればホンマモンだぞ! 終息宣言・・・



 ⑲ 天上に48㌢砲弾を頂いた「忠魂碑」があった・・

 内子と五十崎の境界線のように竜王城址の丘陵が有ります。

 この丘陵は内子町内からは、ほぼ何処からでも眺められる小山です。

 その山の頂上に、周辺町村から出征した兵士の戦死者を祀った「忠魂碑」が建てられており、頭上に48cm砲弾を頂いたコンクリート造り、10数メーターもある白い塔で町内からいつも見え隠れしておりました。

((忠魂碑auto-821
町内から沖田を隔てて龍王城址の展望

 

 ただ、直下には小田川が流れ周辺は崖になっていて、その「忠魂碑」へ行くには、鳥越の斎場付近を通り、西の方から2kmほどの遠回り細道のため、お参りされる方は殆んど居なかったようです。


 小学校4年生、5年生の時、その『忠魂碑』周辺の清掃をするため、学校から引率されて2度行った事があります。
 昭和25年の頃ですが、訳も判らず「ちゅうこんひん」の草引きと清掃と言っていたと思います。
 山頂、龍王城址の約10mの坂を登った土塁上に忠魂碑がありました。 

 『忠魂碑』には正面に「忠魂」と記した銘石板が彫り込まれ、頂上には艦砲用の48cm砲弾が鎮座していました。 


●1972昭和47

●竜王mg_1

「忠魂碑」の正面に掲げられていた碑銘石盤(新しい忠魂碑の横に残されている)
(頂上の砲弾は残されていません)
【碑文】鈴木荘六 陸軍大将の揮毫です。

 正面下には鉄扉があり、中に英霊の写真が奉献できるように成っているようでした。
 普通一般の「忠魂碑」は御影石に碑文を彫り込んだだけのものですが、内子のそれは日本の何処にも無いような、大きくて立派なものでした。

 調べてみますと、昭和10年(1935年)3月に「日露戦役三十周年」を記念して、周辺町村合同で建立されたものでした。

 

 町の是として「古い町並みを守り続けている 内子町 」のことですから、この昭和10年に建立された『忠魂碑』は、戦没者の慰霊に先人が、遺族が手を合わせ祈念した大切なものとして、今でも大切に守られているものと考えていましたが、昭和47年(1972)12月に「建替え」られておりました。

 

【理由】は「霊安室」に雨漏りが激しくなった・・・とのこと。


 永久に祀られるべく造られた、コンクリートで固めた要塞の様な頑強な建造物が建造後、
たかが37年で雨漏りで使用不能
は有り得ないのですが・・・当地の「戦没者遺族会」中心に進行された様でした。

今で云う「結露」で霊安室が水浸しであったのだろうと考えられます。(当時は、結露の原理が一般的に知られていなかった・・・密閉度の高いマンションが普及した頃より問題化した)

平和が叫ばれるその時代に、「天上の砲弾」は相応しくないという負い目もあったのでしょう。 (砲弾は残されていません)


((eb00
旧・忠魂碑の建っていた台座は、簡易椅子の有る休憩所になっている(2010年)

●竜王g_4
 昭和47年に建立された現在の「慰霊塔」


●この「慰霊塔」内部の「英霊写真」サイトが有ります・・・

作者「まっしゃん」(大瀬本町の島崎さん)は2012年9月、八幡浜港に於いて不慮の事故に遭われ、亡くなられました。心からご冥福をお祈り申し上げます


((_竜王荘2007
「忠魂碑」の至近に町営の浴場施設「竜王荘」があった。(2007年)

((龍王gk1z2 (2)


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● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
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 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

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東京のコロナ感染状況と傾向線(移動平均)   8月19日現在
(前日までの10日間)3978.34人×9日本日5534人÷10日=4133.91人

((AM21-4^

コロナ感染者【移動平均】で傾向を掴め・・
7月から第5波となって、1日平均5000人になる勢いで急上昇中だ!
 

  忘れかけの内子町風景・・⑱ 内子線を「坊っちゃん列車」が走った時

 ●1988年5月に松竹映画「ダウンタウン・ヒーローズ」の撮影のために旧・内子線を利用して、1977年に復元した伊予鉄道1号機(坊っちゃん列車の蒸気機関車)を使用して走らせたのです。

 公開は198886日で、原作は早坂 暁、監督は山田洋次、出演は中村橋之助・薬師丸ひろ子・尾美としのり他。  
 舞台となったのは旧制松山高校(現・愛媛大学)で、汽車通学のエピソード場面を内子駅を拠点として五十崎駅周辺の山中で多く撮影されたようです。

 

 ●内子駅周辺で写されたものは、1989年10月に四国統一観光キャンペーン「しあわせランド四国」の一環として、旧内子駅付近で運転された時のものです。


 映画に登場したのは、1977年に米山工業が製造した伊予鉄のレプリカ蒸気機関車。
 米山工業は、松山市に本拠を置く機
械メーカーで、米山工業ってあの果樹園等で使われるモノレールのトップメーカーのようです。  現在、伊予鉄道がディーゼル動力のレプリカを走らせていますが、ここで使用されたのは本物の蒸気機関車でした。(プロトタイプは、ドイツのクラウス・マッファイ製)


((3up632.1
背景は五十崎駅を出てすぐの跨線橋の光景だ・・

((5upKeL._AC_
「ダウンタウンヒーローズ」ポスター

((1jra16
旧内子線・内子駅を本拠として準備された

((1up1602内子駅
旧内子線・内子駅での試乗会

((1jre00
内子駅で観客も試乗

((1jr954
内子駅出発の様子(右に新線の高架が見え、左に新駅)

((1up内子04
内子駅出発の様子

((2jr606
蒸気と煙を出して内子駅出発

((1jr1603
客車連結装置部分

((2up1989年元年10月8日
内子駅を出発し加速する列車

((2up13081611
旧内子線・郷の谷川鉄橋を渡る(前方に新線の高架が見える)

((1jr60c
旧内子線・郷の谷川鉄橋を渡る
((472内子・坊っちゃん列車

((2jr内子 1962.37-
郷の谷川と内子線鉄橋(同一アングル)昭和37年1962
河川改修前(S字カーブ)

((2up踏切
旧内子線・植松踏切付近よりの眺望(左に新線の高架が見える)

((2up踏切にて
旧内子線・植松踏切付近よりの眺望

((2UP1989-450
旧内子線・植松踏切付近よりの眺望

旧復元坊ちゃん列車
旧内子線・植松踏切付近よりの眺望

((jr_3496
松竹映画「ダウンタウン・ヒーローズ」のワンカット

((3jr6185
旧内子線・いよいよ五十崎駅が間近に・・・


((3jr4951
旧内子線・五十崎駅は見物人で大賑わい・・

((3jrikazaki2ー60年
旧内子線・五十崎駅の佇まい・・・1960年

((3jr5272
旧内子線・五十崎駅を発車・・・

((3jr5583
旧内子線・五十崎~喜多山間(▲同一アングル▼)

((3jr33
旧内子線・五十崎~喜多山間(▲同一アングル▼)1968年

((3jr5867
旧内子線・五十崎~喜多山間

((3up46 ダウンタウンヒーローズ
旧内子線・五十崎~喜多山間(黒内坊の辺りか?、▲同一アングル▼)
((3黒内坊付近
旧内子線・五十崎~喜多山間(▲同一アングル▼)1968年
((jr_3490

((jr_3492

((3up264c85

((3jrmm1

((jr_3495

((3jrmm4

((3jrm6

((3jr五十崎

((5up 「ダウンタウンヒーローズ」

((5

【参 考】
忘れかけの内子町風景・・⑰ 懐かしの旧・内子線沿線・・

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●忘れかけの内子町風景・・⑰ 懐かしの旧・内子線沿線 : 
https://y294maself.blog.fc2.com/blog-entry-719.html


【下記サイトより、画像参考にさせて戴きました】

蜂蜜の風

https://ameblo.jp/tmtm11126/entry-12482845503.html 

いそしずのライナーノート 

http://iso4z.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e3c2.html 

静の 日々是好日

http://iyokan8.blog55.fc2.com/?no=3943#comment 


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● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

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東京のコロナ感染状況と傾向線(移動平均)   7月25日現在
(前日までの10日間)1133.46人×9日本日1763人÷10日=1196.41人

((IM_11

コロナ感染者【移動平均】で傾向を掴め・・
第4波からの下降は停止、7月から第5波となって3波並みの急上昇中だ!




 

 ●忘れかけの内子町風景・・⑰ 懐かしの旧・内子線沿線


 【内子線に係わる経緯】
かつては予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸線と言われていました。現在は予讃線の向井原駅~伊予大洲間短絡ルート(建設時の名称は内山線の一部に組み込まれ特急列車が行き交う路線となっています。
  • 1920年(大正9年):愛媛鉄道により若宮連絡所(五郎 ~大洲間にあった分岐点で現在の伊予若宮信号場) ~ 内子間が開業。軌間762mmの軽便鉄道であった。
  • 1933年(昭和8年):国有化され愛媛線となる。
  • 1935年(昭和10年):1067mm軌間に改軌。五郎駅分岐となり内子線と改称。
  • 1958年(昭和33年):この日の始発から全列車がディーゼルカーに置き換えられ無煙化。
  • 1986年(昭和61年):予讃本線の向井原 - 内子間、新谷 ~伊予大洲間の開業により内子線が短絡ルートに組み込まれる。新谷駅に交換設備が設けられ、五十崎・内子両駅は移転、五郎 ~ 新谷間は廃止。CTC化。
  • 1987年(昭和62年):国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。日本貨物鉄道の第二種鉄道事業開業。
((1jrs45・3・31SL最終



((1jr1975内子c
天神山から見下ろした内子駅 1975年

((1jr1962-37年・岩田

((1jr内子1966ff89
天神山から見下ろした内子駅  昭和41年1966

U1内子●
工事中の新内子駅 ↑    ↑  旧内子線と内子駅  (1977年)

U2014内子
 
          新内子駅   ↑ と旧内子線跡     (2015年)

((1jr● s19内子駅
内子駅プラットホーム 昭和14年頃


((1jr70内子駅


((1jr1986内子線終了時 002
新駅の開設で閉鎖された内子駅  (1986・内子線終了時 )




((1jr1987内子駅12_69

((1JR内子駅「C12 231

((1jr 2014-09 大山正風氏
内子町の支援を受け旧内子駅より新内子駅前へSLを運搬し
C12231に完璧な塗装仕上げを施した大山正風氏
((1jr大山正風((1jr pdf



















  右:SLの塗装を全て除去した状態(2014年9月21日)
  左:サビ止め下地塗りを施した状態(2014年11月11日)

((1jr1Scr

((1jr内子駅
現・内子駅前に鎮座する内子線専属の勇姿・・SL C12231  2015年

((1jr1968uchiko 内子駅
内子駅終着点 1968年

((1jr1968内子駅開口部ガラ捨て
内子駅終着点・・開口部は石炭ガラ捨て用のピット 1968年

((1jr内子●1983
内子駅終着点  1983

((1jrs37内子駅
内子駅前  昭和32年
1957

((1jray内子駅
内子駅 昭和37年

((1jra内子駅
内子駅 昭和46年1971
((1jr内子駅56年
内子駅 昭和56年1981

((1jr57年内子駅
内子駅 昭和57年1982

((jr60・12月4
雪の内子駅 昭和60年12月 (1985)

((1jr内子駅1990頃
内子駅から前方に見える新線高架 1985年

((2jrs38鉄橋
内子駅を出て300mで郷の谷川の鉄橋を渡る  昭和38年1963

((2jr1962・37e
郷の谷川の内子線鉄橋下 昭和37年1962

((2jr内子 1962.37-
郷の谷川と内子線鉄橋  昭和37年1962

((1994.平成6西から1
新旧内子駅の空撮  平成6年1994  
  旧(五十崎駅 ↑

((3d7c040cf
((2jr1934鳥越b07ac
五十崎駅手前の鳥越坂を上る内子線軽便列車  昭和9年1934
((3jrikazaki3ー60年
五十崎駅  昭和35年1960


((3jr1989五十崎
五十崎駅 廃線後  平成元年1989

((3jrikazaki2ー60年
五十崎駅  昭和35年1960

((3jr五十崎89c
五十崎駅 廃線後  平成元年1989


((2mall
内子線 喜多山~五十崎間のC-12231  1960年

((3all
内子線 喜多山~五十崎間(黒内坊付近)のC-12231  1940年

((黒内坊91
ほぼ 同一地点   (2010年頃)

((s㊳2

((s㊳
内子線・大洲~五郎~内子の路線地形図(昭和38年版)  ↑印は二本松トンネル
(後半に軽便鉄道時代の大洲駅あり)

((4jr二本松5_misc
内子線・二本松トンネル(250m)を通過するC12231  昭和35年1960

((4jr内子線トンネル―1968(1)

内子線・二本松トンネル  昭和43年1968

((4jr二本松tcdd
二本松トンネル  昭和58年1983

((4jrd18352f
二本松トンネル(廃線後)  昭和63年1988

((4jr二本松1989
二本松トンネル(廃線後) 1989年

((4jr二本松①
内子線・二本松トンネル(喜多山側)  昭和43年1968

((4jr
内子線・二本松トンネル(喜多山側)  昭和43年1968

((5jr新谷~
内子線・新谷~五郎間(前方右)  昭和43年1968

((5jr新谷
内子線・十夜ケ橋付近・新谷~五郎間(前方右)  昭和43年1968

((5jr五郎駅320
 五郎駅の内子線列車 昭和33年(1958)

((5jr34年-11 五郎
五郎駅・・内子線から予讃線に乗り換え風景  昭和34年(1959)
         (白髪の紳士は峰先生)


((5up五郎の内子線
五郎駅の内子線ホーム  1983年

((5jr五郎駅2013
五郎駅(右が内子線ホーム)   2013年

((5jr89五郎
五郎駅 内子線ホーム   1989年

((5jrR五郎駅
五郎駅  1983年


((5jr-GORO1985
五郎駅  1985年


((5jr五郎駅
五郎駅・・・駅舎は撤去され今は無人駅  2018年

hiyo-若宮-s5
愛媛鉄道時代の大洲駅の位置  昭和5年(1930)


((内子地形図4
国鉄・大洲駅の位置  (昭和38年版)
hiyo-oozu-s4年
愛媛鉄道時代の大洲駅  昭和4年(1929)

h大洲s7年
愛媛鉄道時代の大洲駅  昭和7年(1932)


h大洲s33年49

 国鉄 大洲駅(北からの眺め)  昭和33年(1958)


【参考】
忘れかけの内子町風景・・⑱ 内子線を「坊っちゃん列車」が走った時
http://y294ma.livedoor.blog/archives/27958815.html

●忘れかけの内子町風景・・↓
① 内子小学校、中学校、高校と新天神さま
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html

② 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

③ 知清河原と龍宮淵
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html  

④ 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め・・)http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html

⑤ 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め・・)http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html



((大江2018-4-view

●大江健三郎に関わるエピソードから・・・

私の【大江健三郎に関わるエピソード】


昭和28年春(1953)、私は内子高校へ入学しました。1年1組となり、京大出身の宇都宮正弘先生(通称・ウーさん)が担任となったが、同じクラスに当時未だ無名だった大江健三郎の妹が偶々在籍していたのです。 

 

そういう事もあってか先生は、僕らが名前も顔も知らない三年先輩の大江健三郎を何かにつけて例えに出し「大江さんの兄貴、大江健三郎君は当校へ入学したんじゃが、あんな頭脳明晰な男は、今まで見たことが無いぞ、カミュや太宰治を読んでいて只者じゃない、思考力がずば抜けとった。 彼は一年間在学したんじゃが二年生から松山東校へ転校させたんじゃ、今は東大へ進学を目指しているので、いずれ大成すること間違いなしじゃ」

「当校に居ったのでは大江健三郎のあの才能は伸びんわ、下衆の中ではあれだけの卓越した才能の芽が摘み取られてしまう。 東大を目指すのなら松山東高校へ転校しろと言うてな転校させたんじゃよ」と並み外れた才能を見抜いていた大江の良き理解者でもあり、名立たる大学への合格率の良い松山東高校への転校を先生主導で勧めた様でした。

(低俗な一般人に同調できない気質と内気が禍いして、級友から陰湿な虐めを受けたらしく、二年生から松山東高校へ転校したそうな・・・)


(((●G_3342
       1年1組 宇都宮先生と大江健三郎の妹(前列左端)

 

入学後1ヶ月ほど経たホームルームの時間に担任の宇都宮先生は「この前言うとった【アルバイト届】を持ってきている人、提出してくれよー」との事で、私はこの3月から高校の月謝稼ぎのため、本町劇場の辻ビラ書きに行き始めたので提出した。 大江と同期の森野長一郎先輩がやっていたバイトを引き継いだのでした。 バイト先と勤務時間、作業内容を書いただけのものだが、担任教諭が情報把握はしておきたいとの主旨のようだ。

先生はざっと目を通しながら「福島君、本町劇場の木戸口の小母ちゃんはな、先生の姉御じゃからな、ビラ書きしに行って映画ばかり見とったらいけんぞ。 真面目にやらんと監視付きみたいなもんじゃからなぁ」とダメ押しの一言がきた。 

級友の目の前で、他の生徒への牽制の意味も含めて明からざまにしたのでしょうが、狭い町のこと、そういえば改札の小母ちゃんは宇都宮さんだったな、知らなんだなぁ・・・と納得した次第です。

(((内子高時代文芸部
内子高校文芸部 大江健三郎(左から2人目)が1年生の時

(内子高校 文芸誌に出典した大江の作品)

 

「赭い秋」      一年  大江 健三郎

哀しみ いかり なげき・・・ 傷心・・・。

野良犬の赤いはらわたが、よごれた空にぐるぐるひろがり

鶏ののどくびからどくどくと流れるにごりきった血・・・。

パックリ赤くひらいた落日・・・。

 

(大江自身の心情と夕焼けの情景を重ね合わせて描いた詩でしょうが、私のような凡人には理解不能なところがあります)

(((1951内子高
            当時の内子高校 1951年

((大江1957Rh
大江健三郎 東大時代 1957

((大江1957東大6
大江健三郎 東大時代 1957

((大江健三郎1958芥川賞
大江健三郎 「飼育」芥川賞受賞 1958

((大江1960頃
大江健三郎  1960

((大江1960ce8
大江健三郎 伊丹十三の妹と結婚 1960

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大江健三郎  1965

((大江1965wd
大江健三郎  1965

((大江1965ー942
((大江1971防大生が見た50年前の安保騒動
























1965年



((1994e9f1
1994・12・6(平成6年)ノーベル文学賞受賞

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大江健三郎   2013

((大江、003_1
大江健三郎  2013

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大江健三郎

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大江健三郎が学んだ当時の大瀬小学校

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内子町大瀬 大江健三郎の実家  1959年頃

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内子町大瀬 大江健三郎の実家  1981年頃

((大江416((大江2020小














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内子町大瀬 大江健三郎の実家  2014年頃

((大江2008d
内子町大瀬 大江健三郎の実家  2008年




晩年、神戸にお住いの高畑誠一翁は、昭和50年頃だったか大阪で行われた内子町出身者の「内子会」に老齢を押して参加されたことが有り、私もその時初めての拝顔でした。

 

  明治20(1887)年内子町で生まれる。生家は内子町本町2丁目かなり古い家系で、高畑誠一は14代目に当たる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。

旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て (旧制)神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。

((( 愛媛県立西條中学校 『 正門 』 (2) - ヤフオク
当時の 愛媛県立西條中学校  正門


神戸高商在学中は三井物産入社を志望していたが、尊敬する水島銕也校長の推薦ということで明治42(1909)3月に鈴木商店に入社。

(((鈴木商店




神戸の貿易商社 鈴木商店(後の日商)











大正元(1912)年、当時は世界の政治経済の中心であったロンドン支店勤務となる。

大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店の番頭金子直吉の指示で投機的な買付を指揮する。また本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。更に第一次大戦中には、連合国を相手に大活躍し、連合国向け食糧注文を受け、船もろとも売り渡す「一船売り」の離れ業をやってのけ、「高畑は、カイゼル(皇帝)のような男だ」とチャーチルに言わせたほど評判になった。

合成アンモニア製造特許を取得してクロード窒素工業(現・下関三井化学)の設立、ケニアのマガディソーダの販売権を獲得太陽曹達(現・太陽鉱工)の設立に繋げた。

昭和2(1927)年に鈴木商店の経営が破綻すると、昭和3(1928)年、高畑は永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業を日商と改め再出発を図り、「Small, slow but steady」(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)を社是に同社を総合商社に育て上げた。

昭和20(1945)年には日商(現、双日)の代表取締役会長に就任した。(~1963年)


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ロンドン赴任時代の 高畑誠一

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 西条中学校時代の高畑誠一

(((高畑誠一尚武会
神戸高等商業学校時代の高畑誠一

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ロンドン支店長時代の高畑誠一

(((高畑誠一鈴木商店
ロンドン訪問中の裕仁皇太子(昭和天皇)と案内役をした高畑誠一

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ロンドン訪問中の裕仁皇太子(昭和天皇)と案内役をした高畑誠一

(((高畑と皇太子1921・5月
  ↑西園寺八郎 ↑昭和天皇 ↑高畑誠一   ↑ 小栗孝三郎司令長官(同行艦隊)
        (皇太子時)

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英ロイド・ジョージ首相と裕仁皇太子(昭和天皇)

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【明治期の内子町】天神宮より見たる芳我、小泉、浅野の晒蝋(木蝋の晒し場)の景
晒し場が田圃の手前に広がる(高畑誠一の保持していたものらしい)

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内子町本町2丁目の「高畑家」は、昭和28年頃まで残っていたが、
以後 内子郵便局が建ち、現在は公園となっている。跡地の掲示板

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(((高畑誠一夫妻-thumb-245xauto-5666

高畑誠一34歳の時、二代目鈴木岩治郎の長女・ちよとパリ・リッツホテルにて結婚式を挙げた


        高畑誠一
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(((高畑_13 (2)

 







        














「ふるさと断章」   高畑 誠一 (日商会長、日本火災社長時代の筆)


老境に近づくと、とかく昔のことは忘れがちであるが、生まれ故郷の山また山に囲まれた内子の町の印象は深い。然し僕の如く中学に入る十二、三才までしか故郷におらず、高等小学三年で郷里を相当離れている西条中学校入学以来は、夏と冬の休みだけしか両親のもとに帰る機会を持たなかった者にとっては、生まれ故郷と共に物心ついた中学時代の丸五年を過ごした西条が第二の故郷とも云える。しかも就職後には海外生活が永いし、不便な故郷を訪れるのは時たまの墓参くらいである。

 

郷里内子は、ちょうど京の東山を見る様な「ふとん着て寝たる姿や、神南山」とでも駄句り得る、標高二千尺足らず(710m)南北に長く走る神南山と、南にそびえる高森山を朝夕に眺め、その山間を縫う伊予第一の大河肱川の清流を近くに控えた、風光明媚とはいかないが、当時は人口三千人内外、今は周辺の諸村を併合して二万余りの田舎町、河口の海岸にはほど遠い小邑に生をうけたが、付近の山林の材木や竹材などが土産物で、日鉱のドル箱、大久喜鉱山は隣村に在位して、今なお稼働中と思う。

日銀紙幣の原料三椏(みつまた)は郷土の特産品である。

昔は櫨の実を近在の村より買い集め、これを晒す木蝋と地方の養蚕による生糸と、製紙の家内工業が盛んで、父も木蝋や生糸の製造の豆工場を経営し木蝋を神戸の喜多組と云う問屋に売っていたのを記憶する。今は木蝋の事業は全消滅し、小規模の生糸業は残っていたが、これも時代の変遷で大企業に集中されて、今では大阪の岩田商事の資本系統である内山製糸株式会社に吸収統合され、その他材木集散の中継地として、また輸出竹細工などの小工場が僅かに気焔をあげている。

 

このように文化から離れている内子町ではあるが、日本一と称するものが二つある。

その一つは、旧暦八月十二日に開催される五穀神社の奉納素人相撲で観客二万を越し、大賑わいを呈する年中行事である。他の一つは町民が上と下との二組に分かれて肱川の両岸の河原に対陣し、数畳敷にもわたる紙の大凧を何十となく上げて、糸に金属のガンガリを付け、凧の空中合戦を演じて敵の凧を落とすという、他には見られない珍競技である。

 

また田舎町にも似ず上の学校へ行く人が割合多いのは、当時、安達玄杏国師と菊池石蔵という酒造家の二先駆者と云うか、篤志家が居て自費で地方の有望な青年を都会に送って勉強させたおかげである。日本ビールの高橋竜太郎翁とか、京大出の小野田セメント技師長専務の故菊池愛太郎氏、池貝鉄工所創設者蔵前出の故池田辰和氏、海軍兵学校出の潜航艇の最高権威者重岡信治郎中将等がある。特に重岡中将は尚武会を創設して地方の青年の育英に当たり、体育と学問を大いに奨励した人格者である。今でも覚えているが、郷里には田舎にしては珍しいハイカラ先生が近所に居て、英語を少々かじっていたから、僕は小学校に入学すると、すぐこの先生に付いて It is a dog に始まるナショナルリーダーを、また加藤という漢字の先生に論語を教えて貰ったもので、今から六十年以上も昔の話です。

 

夏休みには進学した先輩が帰ってきて、尚武会主催のベースボールやテニスをやったり、講演会をやる、僕もこれに参加する。

僕の小学校の時代には内子の町には中学校は無く、三里を隔てた大洲町にもその頃まで中学校は無いため、少々遠隔地ではあったが、山路七里を歩き郡中へ、それより豆汽車で三里もある旧久松藩城下の松山中学へ入学を志願して試験を受けに行った。然し心臓が悪いとの理由で、体格で跳ねられてしまって、学科試験を受けさせてもらえず、笈を負うて田舎を捨てて都会に出たものの出鼻をくじかれて非常に失望した。

幼少時代に、脈が正調を欠いていたのは、父が酒を飲んだ祟りだと思う。

同郷の先輩や友人は皆、この松山中学に学んでいるのに悔しくてたまらぬ。

当時、二年の先輩で後に三高の鬼ピッチャーとならした菊池秀次郎君も松中に在学していた。

一時は途方に暮れたが致し方がない。松中を断念する他なく、松山より遠くて不便であるが、海岸が非常に遠浅で有名であった西条町の中学の門をたたくことにして、わざわざ義兄を煩わせて同校の校医に松中での体格検査の事情を打ち明けて頼み込み、ようやく幼げな体格をパスさせてもらって、入学試験を受けた次第で、幸か不幸かこれが僕の幼年時代の大きな出来事であったというのは、西条中学と云うのは凡ての点で松中に比べて一籌を輪していたと思っていたため、これがかえって刺激となり人一倍勉強した。その甲斐が有ったのか中学三年の頃には、既に英語と数学では高等学校の入学試験に満点近くでパスし得る自信を持つところまで漕ぎつけていた。

夏休みには神戸まで来て海岸の遊歩地辺りを散歩する紅毛人等をつかまえて、英会話の押売りをしたり、米人宣教師の宅へ行くのを楽しみにした。

西条中学卒業は明治三十八年の日露開戦前後の秋である。

西条の町は四国第一の海抜六千尺の石鎚山の麓で、そのなだらかな裾野が海岸まで尾を引いており石鎚に発する加茂川の水も中途で地下の伏流となって郊外の所々に掘抜き井戸として清水がこんこんと湧出する。その末端海岸辺に西条や壬生川、新居浜の町を形成している。昔、僕の中学時代には商業港今治から小さな蒸気船で西条の沖に着き、艀に乗り換え、陸に近づき更に遠浅な浜辺を春先には潮干狩りなどを眺めながら、水中を手荷物を積んで乗る人力車で、数町もの距離を運ばれて上陸するという日本では他に類例のない珍景の港であった。

西条中学は堀に囲まれた松平藩の旧城跡に建てられているから、勉強や運動には最適の地であった。運動場の塀を超すと芋畑がある。ボールが塀を超すと拾いに行き芋を掘り焼いて食べたりしたこともある。

 

僕の西条時代には英語の先生が三人居た。一人は坂田幸三郎氏で、当時煙草王として知られた村井吉兵衛さんの女婿と成った人。一人は国民新聞に入り、その社長となった伊達源一郎氏、今一人は英語の上手な亀野景次先生で三人共に米国帰りのペラペラ。僕がこれらの洋行帰りの先輩に師事したのは今でも感謝している。

西条生活五年も終了を遂げようとする間際に、好事魔多し、急性肺炎にかかり、卒業試験が受けられなかったが、卒業免状はもらったので、一橋入学の意図を抱き上京の途次神戸に立寄ったところ、西条中学の二年先輩、国際連盟で男を挙げた外交官、今の法学博士伊藤述史君の切なる勧めもあったし、また病後のこともあったので神戸高商に入ることに変心したのである。

松中に入ろうとして体格で跳ねられ西条中学に行き、一橋入学を希望しながら途中の道草で神戸高商の入ると云うように、全然思いも依らぬ道程を辿るのも人の運命である。

 

神戸高商を卒業した為、神戸の鈴木商店に入り、若いのにロンドンに行く機会を得た。

着英早々にフラットのコースであるフェルウェル・ゴルフクラブでゴルフを始めると、幼年時代からの脈の結滞していた心臓が六ヶ月で治った。ウソのようだが本当である。爾来心臓に故障が無い。

ゴルフは僕の命の助けの親であるから、ゴルフのためなら何でもする。余り名誉ではないかも知れぬが、今では日本最古のゴルファーの一人である。

 



(((高畑-640xauto-825
最晩年の高畑誠一


● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html



 私が思い起こしますと、終戦の3ヶ月前に松山の空襲の頻発を逃れて、小学2年生の時、内子国民学校へ疎開転校して来て以来、入学式、卒業式の時には、必ず校長先生挨拶の次に、モーニング姿、又ある時は羽織袴姿の矍鑠(かくしゃく)として、鼻ヒゲが八の字の老人が、来賓として祝辞を披露されるのが常でした。

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当時の内子小学校

「あのおっさんダレぞ~?」「あの鼻ヒゲの爺さん、ダレぞ~?」
「あれは八幡さまの近所の爺さんじゃ・・」などと、ボソボソ云っていると・・
『シィ~・・
重岡中将閣下さんじゃ・・』と周辺の上級生が、口に人差し指を当てて合図しながら小声で伝達してくるのだ。
 こうして誰もが「重岡中将閣下」の名前を、自然に覚えてしまったようです。
 子供らでさえ「重岡中将閣下さん」と敬意を込めて呼称しているのですから、終戦後とは言え町内の人々は、当然のように崇めていたのです。



 「重岡中将閣下」は、内子町本町4丁目出身の「重岡信治郎氏」だったのです。
 同級生で内気でシャイな女の子、重岡照子ちゃんのお爺ちゃんだったのです。


 私が小学校時代に憶えていた上記の重岡中将閣下のエピソードを10年ほど前にアップしたのですが、その時に重岡中将閣下の写真を検索しても全く探し出すことが出来ませませんでした。


 その時、七転八倒の末、やっと海外のサイトから「帝国練習艦隊バンクーバー寄港記念」絵葉書を探し出すことができたのです。それも小学生時代に見た「八の字の髭と意地の強そうな眼力」の、重岡中将閣下の顔を憶えていたからこそ「この顔だ!」とヒットしたのです。

 それほど重岡中将の写真を探し出すだけでも一苦労したものです。


((重岡中将


 ところが最近、[0bject]さんのブログを拝見中に「海兵30期 重岡信治郎海軍中将のアルバム」に巡り合えたのです。

 転載を了解戴いたので、そのまま転載させてもらいました。(一部分に、私からの補足があります)


 参考・・[object]さんの弁・・「こちらのアルバムはヤフオクにて入手したものです。アルバム本体に重岡と書かれており、おそらく中将の旧蔵品で間違いないかと思います」


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海兵30期 重岡信治郎海軍中将のアルバム

http://kaigungunso.blog.fc2.com/blog-entry-100.htmlより 


ど〜も〜objectで〜す。
まぁ今回はほんとはミニコラムでいいかなって思ってたんですけど、
そのままでええかなって事でこうなりました。
ブツは題にあるように重岡信治郎海軍中将のアルバムです。
たまたま偶然手に入れたもので、家族親族写真が多くあんまり期待してなかったんですけど、
開けてみると結構いい写真があっていい物が買えたと思います。

それでは書いていこうと思います。

1-548



重岡信治郎海軍中将に関してはwikiにページがあるので詳しくはそちらをどうぞ→重岡信治郎

兵29期入学で、兵30期の卒業です。
兵29期には大湊直太郎中将、佐久間勉大尉、高橋三吉大将、藤田尚徳大将、八角三郎中将、米内光政大将などの錚々たる面々が並びます。
兵30期には今村信次郎中将、濱野英次郎中将、百武源吾大将などがいらっしゃいます。
それらの方々と共に学ばれたのが重岡信治郎中将です。
また、卒業成績がベッキなのに海軍中将に進級したすごい人物でもあります。

それでは写真を見ていきたいと思います。


1-sige

重岡中将です。秋山真之中将と同じ愛媛の生まれです。
このお髭がトレードマークというか髭を生やしている写真が多いですよね。

3-sige
海軍兵学校生徒の時のお写真です。
以前紹介した機関少尉候補生の礼衣と同じ様式の制服だった時代のです。

4-sige
こちらはご家族ご親族の子供達と撮影された写真です。

5-重岡
こちらも生徒時代も写真です。
明治期の写真のこういった色が大好きです。

6-重岡

こちらも生徒時代の写真です。夏前後によくやる服装をしています。
となりにいる方は陸軍の幹部候補生の方で、この方の中尉までの写真がアルバムにあるので親族の方だと思います。


7-重
7-重
きました!海兵生徒の集合写真です。
これがあるアルバムまほぼ当たりと言っても差し支えないレベルだと思います。
重岡中将は中段左から6人目にいらっしゃいます。
この写真には大曲真二郎中尉とみられる方が写っておりますので兵29期生徒の集合写真だと思いますが、他の方の判別は出来ていないので分かる方いらっしゃいましたらご教授下さい。

8-重
兵学校を卒業されて、少尉に任官後の礼装のお写真です。
まだ長剣が上手く持てていなくて初々しさを感じる一枚です。


9-重岡
こちらは中尉時代の写真です。親戚の子供達と写真を撮っています。
中尉なのにもう髭を生やしていて謎の貫禄があります。まだ30歳前なんですけど。

10-重岡
こちらは大尉時代のお写真です。
婚礼時の写真だと思われます。

11-重岡


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少佐時代の正装と通礼装のお写真二連発です。
正装の釦が10個なので古い時代の正装だとはっきり分かりますね。
佩用している勲章を見ると功五級金鵄勲章をされてますので
日露戦争で武勲をたてられたのでしょうか?

もしかしたらハンモックナンバーの上昇にもこれがあったのかもしれませんね。

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少佐の頃くらいと思われる写真です。
ご家族で撮影されたものです。

14_201706212337051de
こちらも少佐〜中佐くらいの時期に撮影されたと思われる写真です。

15重岡信治郎海軍中将のアルバム(3)
右側・・重岡信治郎

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左側・・重岡信治郎
重岡中将は大正3年2月20日から大正5年2月14日までの二年間フランス出張を命ぜられています。
こちらの写真はその頃のものだと思われます。
一枚目の左、二枚目の右側に写っている方は駐仏武官の丸山寿美太郎大佐だと思うのですが、まだはっきりはしていません。

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こちらは中佐時代の写真です。
重岡中将は大正6年12月1日から大正8年12月1日の2年間、第四水雷戦隊の参謀を勤めています。そしてそれ以前それ以降に参謀職に就いた事は無いのでまさにその時期の写真だと分かりますね。
襟章がないので大正6〜7年に撮影された写真だと思われます。

【重岡中将ご家族、親子5人と思われます】

【前列ご子息の面影そのままの大人顔を、昭和29年ころ内子町で何度かお見かけした記憶があります】


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どういった集まりの写真か分かりませんが、親族か近しい間の方々だとは思います。
下段の陸軍士官から年代が分かりそうですが、陸軍の軍服から詳しい年代を導く事が出来ませんのでどなたかよろしくお願いします。


以上が重岡中将の写真ですが、まだおまけがあります。

19 重岡信治郎海軍中将のアルバム(4)

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こちらの二枚の婚礼用の写真がアルバムに入っていました。
海軍大尉の正装と通礼装の写真です。
正装も先に見た重岡中将の少佐時代のと比べて釦が8個で新しい様式だと言う事が分かります。
調べてみると重岡中将の御令嬢は兵52期の馬野光中佐に嫁がれたということなので、
こちらの写真は馬野中佐と御令嬢の婚礼写真だと思われます。
ただ私が持っている馬野中佐の写真とはちょっと違う様にも見え、また重岡中将に娘さんが何人かいらっしゃる事も考えて別人の可能性もあるかと思います。
こちらの海軍士官の方の情報をお待ちしております。

以上、重岡信治郎中将のアルバムにあった写真でした。
たまにパッと出るこういったアルバムに面白い写真があるのでコレクションは止められないですね。
ただ欲を言うと米内光政の写真とかあると良かったなぁと思います。
贅沢すぎますか?僕もそう思います。
それでは今回はここまでです。お疲れさまでした。


アルバムの中に有った写真・・11点
重岡信治郎が海軍兵学校時代の友人との集会の様ですが、当時、海軍兵学校は江田島でしたので
松山中学の同期生(明治31年卒)に関連するメンバーと推測されます。
A.B.C・・と同一人物が写っております。
((松山中学1O9H

((松山中学2重岡アルバム

((松山中学3d

((松山中学4d0b

((松山中学5SDGv

25内子AE1Y6S

この野球チームは重岡中将の出身地愛媛県内子町の野球チームです。

胸に「UCHIKO」とあり、後方の山姿は松山の御幸寺山で場所は松山城北練兵場です。

松山や大阪で故郷を離れて働き、進学した青年の為に重岡等が発起人となって作られた

「内子尚武会」のチームだと思われます。


26内子大正67
内子町の「禅昌寺」玄関前です。(左から4人目、ご住職の林さま)
「日英 出征軍人慰問袋」「中豫新聞社主催 内子婦人会員箱詰の光景」とあり
日英同盟中の第一次大戦中(大正5年頃)のもので支那戦線へ発送と思える。
(左から2人目の小母ちゃんは後年、見覚えがある)


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23陸軍大尉を囲んで5O9H
陸軍大尉を囲んだ中学生 (この中に明治31年卒の重岡信治郎が居るのか?)
(居りますね~、後列左から2人目に・・松山中学校入学早々の頃か)
(1~3枚目にも、面影の有る同僚の顔が散見できるので同期会と見た)


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松山の持田町辺りに「ドイツ人のチッテちゃん」が居た、その母親の雰囲気(右端)


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28陸軍少尉
(陸軍少尉)





大正13年(1924)、重岡信治郎が巡洋艦「出雲」艦長時代に「帝国練習艦隊」として横須賀から「出雲」「八雲」「浅間」の3艦による太平洋を横断、アメリカのサンディエゴ、メキシコのアカプルコ、カナダのバンクーバーを親善訪問しております。

((重岡中将
● その時の「記録記念誌」が残っておりました。
((重岡035ad
大正13、14年「練習艦隊巡行記念」誌

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人に配布された記念誌のようです。
つまり出版されたわけではないので、ものすごく価値があるものですよ」

との書店の評です。


((重岡bb
海軍大佐七田今朝一  海軍大佐鹿江三郎  海軍大佐重岡信治郎
海軍中将百武三郎   海軍中将古川三郎
海軍機関大佐吉岡保貞  海軍軍医大佐石黒順二  海軍中佐日暮豊年

((重岡・練習艦隊8e3a
巡行前の記念写真・司令官と各艦長及び幕僚
前列中央・百武三郎司令長官の左が浅間艦長・七田今朝一大佐、
左端が八雲艦長・鹿江三郎大佐、
前列右端が出雲艦長の重岡信治郎大佐である。

((練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆
練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆「内省実行」

((重岡出雲a4e
軍艦「出雲」の准士官以上の記念写真
前列左から4人目が重岡信治郎艦長

((出雲士官候補生7cfa
軍艦「出雲」士官候補生の記念写真

((重岡出雲総員cc62
軍艦
「出雲」乗組み総員の記念写真(後方甲板)

((重岡出雲総員ac2.
軍艦「出雲」乗組み総員記念写真の一部

((八雲准士官434c
軍艦「八雲」准士官以上の記念写真

((八雲士官候補生d84
軍艦「八雲」士官候補生の記念写真

((八雲総員55f
軍艦「八雲」総員の記念写真

((浅間准士官d53
軍艦「浅間」准士官以上の記念写真

((浅間士官候補生d9a
軍艦「浅間」士官候補生の記念写真

((浅間総員606
軍艦「浅間」総員の記念写真

((浅間総員7f1
軍艦「浅間」総員の一部

((練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊
練習艦隊記念絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊

((登舷礼横須賀1
登 舷 礼 式 (横須賀軍港)

(乗組員全員を上甲板の両舷に整列させて、船外の相手に敬意を表すもの)   


((横須賀bcd


((横須賀出航
さらば!太平洋横断に向けて横須賀軍港を出発・・

((重岡横須賀出航131110
いよいよ航海の途にのぼる、左から巡洋艦出雲、八雲、浅間

((重岡サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」
米・サンディエゴ港に於ける寄港の三艦艇(
サンディエゴ要塞より)

((アカプルコ出雲94d
アカプルコ港(メキシコ)に停泊中の「出雲」と「八雲」

((アカプルコ特務士官5
なついたインコを土産にした特務士官(アカプルコにて)

((重岡バンクーバー訪問96c65
バンクーバー市長との記念撮影 場所は裁判所前の階段)

中央が百武三郎司令、その左がバンクーバー市長。

左端浅間艦長・七田(ひつだ)今朝一大佐、右端八雲艦長・鹿江(かのえ)三郎大佐、

後列左端出雲艦長・重岡信治郎大佐。



(次回は「重岡中将閣下若き日のアルバム」を予定しております)



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((IMG_320






 明治時代までの内子の街道筋は犬寄峠、中山を通り護国から八日市、坂町、本町中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 昔から内子の町は周辺の農家からの日用品や農業道具の調達のために、山間部の小さな町でありながら結構賑わっていたのです。

(((4-1958本町4
内子・本町4丁目 (昭和33年1958)(▼同一アングル▲)

(((4-2019植木
内子・本町4丁目(西から)(2019)

((昭和50夏祭り
夏祭りの日  (1975年)

S30内子本町4
本町4丁目 町村合併祝賀 (昭和30
1955)

(((4-下12983
内子・本町4丁目 下芳我邸(2015)

(((4-下cbf6671
内子・本町4丁目 下芳我邸 (2017)

(((4-下芳我5
内子・本町4丁目 下芳我邸(東から)(2017)

(((4下芳我本29
内子・本町4丁目 下芳我邸(東から)(2014)

(((4-1960本町4
内子・本町4丁目 本町を象が歩いた日(1960) 

(((4-1922魚市場中町
内子・中町にあった「内子魚市場」(1914)(▼同一アングル▲)

(((4中・魚市場19
上の中町「内子魚市場」のあった付近 (2019)

(((5-内子銀行1914
内子・本町5丁目・内子銀行の頃(1914)

(((5-1960本町5
内子・本町5丁目 伊予銀行前から西を望む (1960)


(((5-伊予銀内子1970
内子・本町5丁目・昭和40年頃改装された伊予銀行内子支店 (1995)

(((5-伊予銀行909
道路面から後退して改築された伊予銀行内子支店  (2017)

(((5平常旅館設楽1980
内子・肱川町に在った3階建て「平常旅館」(設楽家)
昭和30年ころから「ヤマサン」が別館として使用した。(1956頃) 

(((5在りし日の五要旅館
他に「泰平旅館」「ヤマサン旅館」「松の屋旅館」「平常旅館」があった。

(((5本町1930
内子・本町5丁目 松尾百貨商店  (1928)

(((5-1930本町5
内子・本町5丁目 松尾蓄音機店  (1932)

(((6二宮病院
内子・本町6丁目 開院頃の二宮医院  (1926)

(((6二宮医院2012
内子・本町6丁目 二宮医院  (2012)

(((町田医院跡2019
左に見える「二宮医院」を北に行くとすぐ「町田内科医院」があったが跡地の街灯に看板のみ残っている。他に「小川医院」「佐野小児科医院」「芳我医院」等が有った。(2019)

(((6町村合併記念マラソン二宮55
内子・本町6丁目 二宮医院前 (昭和30年1955)
町村合併記念駅伝競走

(((6内子町消防団58
内子・本町6丁目・消防団の訓練 (昭和33年1958)

(((7内子七夕28年
内子・本町7丁目の七夕   (昭和28年1953)

(((8本町81965
内子・本町8丁目(昭和40年1965)(▲同一アングル▼)

(((8-2019・8丁目3)
内子・本町8丁目   (2019)

(((8神山いなりや看板
内子・本町8丁目・・いなりや看板 (2019)
今日は内子へようおいでたなぁ・・
まぁ、いなりやへはいんなはれや~
うまいもんでも食べてゆっくりしておいきや・・
待っとるけんな・・

● 忘れかけの内子町風景 

 内子小学校、中学校と新天神さま・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966052.html 

 郷の谷の佇まいと旧内子線鉄橋付近・・
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966053.html

 知清河原と龍宮淵・・ 
http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966054.html 

 内子町俯瞰の移ろい(北から、南からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966055.html 

 内子町俯瞰の移ろい(西から、東からの眺め) http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966056.html 

 内子町を構成する村落の歴史・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966057.html

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 明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
 昔から内子の町は周辺の農家からの日用品や農業道具の調達のために、山間部の小さな町でありながら結構賑わっていたのです。



(((本町1・2017

(((郷の谷上
内子本町1丁目 栄橋から郷の谷川上流を見る  2019


(((本町1燈篭t02


(((恵比寿市1955

IMG_3278
栄町周辺   昭和34年(1959)
(この辺、恵比須神社から栄橋まで盛土され通称・新道と言われていた)

((1962郷の谷
内子・栄町から郷の谷付近を望む・・遠方に内子座の屋根 (昭和37年1962)

((1962恵比須d
郷の谷から恵比須神社(左上)が見えてい
ました(昭和35年1960年)

(((s30松の屋前
内子・本町2丁目の雨上がり・・地道の道路 (昭和30年1955)

(((本町2ー10
内子・本町2丁目   (2010)

(((2012松の屋前14
内子・本町2丁目   (2012)


(((2019 本町2松の
内子・本町2丁目   (2019)

(((2013本町松の屋
内子・本町2丁目「松の屋」前から西を見る。右折れ内子座へ (2013)

(((本町3-1989
内子・繁華なころの本町3丁目   (1989年)

(((2019本町3
内子・本町3丁目   (2019)

IMG_3280本町4
本町も地道から舗装道路工事へ・・昭和40年
(1965)

(((本町4・2019(3)
内子・本町3丁目   (2019)

(((本町4・1956
内子・本町の七夕かざり   (1956年)

(((七夕盆
内子・本町の七夕かざり   (1965年)

(((七夕2
お提灯ぶらぶら・・おかごへ参りましょ・・と歌ったような(2005頃)

(((笹祭り
内子・本町の七夕かざり   (2015年)

(((y1953まで郵便局
「化育小学校」として建設され、明治17年生まれの祖父も通学したとの事。
以後、内子郵便局、内子電々局、内子農協を経て現在「内子児童館」
(写真は昭和初期のもの)

IMG_3274
1960年頃まで、この「電々局」裏庭に
天然記念物級の松の巨木が2本あった。

(((y郵便化育1970
「内子農業協同組合」時代のもの (1970)

(((y郵便84_1
内子児童館 (1984年)

(((y旧・内子尋常小学校(内子児童館
内子児童館 (2017年)

((内子警察17
左は元「内子警察署」と「内子児童館」(2017)

(((uchiko_keisatsusho_image
「内子町ビジターセンター」は元「愛媛県警 内子警察署」
(昭和11年建造)
((624.v1592791206
「内子町ビジターセンター」

(((中町広より1979
内子町中町の風情 広町より西を見る(1979年)


(((中町町内寸描2014gles
内子町中町の風情 広町より西を見る(2014年)



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((IMG_320


 明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。

 古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。

((A0坂町1内子
八日市を南へ行くと桝形があり、直ぐ下り坂の坂町となる 2014


((A1坂町2枡形1979
坂町の家並み・坂町を登り切ったところ・桝形 1978年(▼同じアングル▲) 
ココから向こうが八日市。

((A1坂町AA
坂町の家並み・・坂町を登り切ったところ・・桝形を通って八日市へ 2017

((A2坂町2
坂町の家並みを南から・・坂町を登り切ったところ・・桝形  2019年

((A3坂町5
坂町の家並みを南から・・坂町を登り切ったところ・・桝形  2005

((A4坂町2017
坂町の家並みを南から・・  2011

((A5坂町24
坂町の家並みを南から・・  2017

((A5坂町2015
坂町の家並みを南から・・  2016

((B6坂町大森3
坂町の家並みを南から・・  2010

((B4坂町99
坂町の家並みを南から・・2014

((B3坂町森文
坂町の家並みを南から・・ 2010

((B3・2011坂町
坂町の家並みを南から・・  2019年

((U坂町90
北から見た坂町の家並み・・  2012

((U2坂町上75
北から見た坂町の家並み・・  2015

((U1坂712
北から見た坂町の家並み・・ 2014

((U坂町上から
北から見た坂町の家並み・・   2017

((U坂町2019
北から見た坂町の家並み・・右の白塀の中は金光教会  2019

((b7坂町金光教会
金光教会  2017

((U坂町779
北から見た坂町の家並み・・  2014

((U坂町947
北から見た坂町の家並み・・  2016(▲同じアングル▼)

((U坂町S
北から見た坂町の家並み・・  1980年

((U9-2013坂町
北から見た坂町の家並み・・  2013

((坂町森文
坂町の家並み・・  1980年

((U坂町
北から見た坂町の家並み・・  2014


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((IMG_320





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