泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ○日露戦争・・戦跡絵葉書

デニス・バズエフが描いた日露戦争の描写が残っておりました。
これらの絵のサイトを記録していましたが、探しましても判明せず補足説明が不十分で申し訳ない事です。判明した時点で正確な画面の補足説明を致したいと考えておりますのでご了解願います。

旅順周辺戦跡での戦闘を描いたものです

(((デニス・バズエフが描いた日露1
後方が旅順港なので日本軍の203高地攻略の突撃戦か

(((デニス・バズエフが描いた日露2
左から日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露3
日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露4
ロシア軍堡塁での決闘
(((デニス・バズエフが描いた日露5
日本軍の突撃と迎え撃つロシア軍

(((デニス・バズエフが描いた日露6
ロシア軍堡塁内部

(((デニス・バズエフが描いた日露7
ロシア軍堡塁へ攻め込む日本軍

(((デニス・バズエフが描いた日露8
遂に山頂敵陣に攻め込む

(((デニス・バズエフが描いた日露9
司祭に依る戦死者慰霊

(((1904年日本はロシアを攻撃米英は見物
【欧米の風刺画】米英にそそのかされ強いロシアに立ち向かう日本

((日Xt8hpK4wQ
日本軍装

((日カーキユニフォームc
日本軍装

((日冬服k
日本軍装(冬季)

((日露k8TNk


((ロWGZqiQ
ロシア海軍軍装

((ロコサックVzHQ
ロシア・コサック軍
((ロスタッフJrJPkg
ロシア軍スタッフ

((ロ夏kpXPaw
ロシア軍夏服
((ロ冬fcckbVM
ロシア軍冬服

(((明治
日本軍創設期の軍服

((b8068b0
軍人づくし・・明治34年2月発行
(発行者)浅草区 尾関トヨ



((IM_20





日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃 


((1_Izumo
装甲巡洋艦「出雲」


((37石炭粉末o037
石炭搭載甲板上の混雑 粉末飛散の光景

((33合戦準備to033
合戦準備せる出雲上甲板の光景

((8インチto042
八インチ弾丸の補充搭載

((44甲板剣道o044
后甲板に於ける将校の擊剱  [写真右奥]加藤参謀長

((35将校の弓技035

((38軍楽隊o038

(((040
出雲後部甲板に於ける遊戯「デッキビリヤード」[写真右端]上村長官

((46水雷防御to046
盛夏の晩景水雷防禦網を張りたる後、兵員遊泳の景

((41入浴moto041
中部甲板兵員入浴の光景


((48士官食堂o048
士官次室の食卓用意(左に3人の士官が仮眠)
(船内の食卓に皿やフォーク・ナイフが準備された様子)

((43上村司令官to043
明治三十七年八月 出雲后甲板に於いて催されたる上村司令長官の茶話会


((45洗濯oto045
前甲板に於ける兵員の衣服洗濯


((39せんたく((039
中部甲板に於ける兵員衣服洗濯の景



旅 順 口 閉 塞 作 戦
((1回閉塞o006
明治三十七年二月廿四日、旅順港口第一回閉塞の壮挙に「出雲」より選出の五勇士は
仁川丸に乗組み齊藤大尉指揮のもとに名挙の任務を果して帰艦せし際に撮影

[左から] 一等機関兵青木五郎、二等機関兵三島謙六、一等機関兵貝原六郎、
二等水兵安保助蔵、二等機関兵伊豆音松、


((2回閉塞船o007

明治三十七年三月廿七日、第二回閉塞隊出雲撰出の三勇士

[左から]、二等水兵杉本三蔵、一等機関兵木下初蔵、二等機関兵古賀繁雄


((8閉塞出発to008
仝日 閉塞隊員韓国海州湾に於いて弥彦丸に転乗ノ為
出雲退艦に際し奏楽しつつ総員で見送る

((7-s
右の旅順口付近に自沈した閉塞船、から福井丸弥彦丸、米山丸、報国丸
(gettyimages-898061784-2048x2048
旅順港の入り口で沈没させた日本の封鎖船






日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃


((1izumo
装甲巡洋艦「出雲」

((1出雲出航o047

巡洋艦「出雲」前甲板出港用意錨揚方の景


((10水雷艇蒼鷹ニ給炭o010

旗艦「出雲」より水雷艇蒼鷹に給炭の光景

(三十七年七月末、浦汐艦隊が東京湾附近に現れたる中、

第二艦隊は水雷艇隊を引卒し日向(宮崎)有明湾に仮泊中の時)


((11春日4月11日o011
明治三十七年四月十一日、軍艦「日進」及「春日」初めて根拠地に来着す
聯合艦隊は登舷礼式を行い其の安着を祝す(画像の劣化)

(((oto004
明治三十七年三月六日、出雲前甲板ノ結氷 

((12黄海海戦報告8・10t012
明治三十七年八月十二日、上村艦隊旅順方面に向かう途次、済洲島沖に於いて山田戦隊に会し参謀吉田少佐端舟に乗じ「出雲」に来たり情報を伝う、此の時、端舟指揮明石乗組福田少尉は出雲后甲板ニ於いて十日の黄海々戦の戦況を口演す

((13リ第2艦隊吾妻013
戦況を聞知して第二艦隊は針路を転じ進航せんとす(正面は「吾妻」)

(((Aoto002

明治三十七年三月六日、第二艦隊は果敢に浦汐艦隊を砲撃中の光景
(旗艦出雲より第二番艦吾妻を見たる光景)


((14リューリックウラジオ艦隊014
明治三十七年八月十四日午前五時、出雲左舷艦首遥かに浦汐艦隊三艦を望む

((15リ敵艦リューリックoto015

午前七時頃敵の殿艦リューリック少しく後れ、隊伍がやや乱れんとす


((16リューリック最後o016
午前九時頃リューリック運転困難となり「ロシヤ」「グロンボイ」これを抜けんとして、
隊伍全く乱れ我れこれに集弾して戦最も酣なる

((17リ戦闘中の3艦o017

戦闘中に戦闘旗を掲げたる上村艦隊「吾妻」「常盤」「磐手」を旗艦出雲より望む


((18リューリックグロンボイ18
「ロシア」と「グロンボイ」は僚艦リューリックの救われざるを悟り北へ逃避せんとす。
(被弾炎上に見えるのは画面劣化の可能性であろう)

((17装甲巡洋艦リューリク]
戦闘前のロシア巡洋艦「リューリック」

((19蔚山薬莢019

蔚山沖海戦の後、出雲六インチ砲の発射せし薬莢の一部、同日出雲に於ける発射総弾数二千二百五十発


((20リューリック捕虜020

出雲に救出収容せるリューリックの捕虜前甲板に於て休養す


((21リューリックの捕虜021

リューリックの捕虜出雲前甲板に於いて休養す、吾が兵士今は朋友として胸襟を披きこれと談笑す


((22蔚山沖被弾o022
蔚山沖海戦の際「出雲」の前檣に受けたる敵の弾痕の径二尺余り

((23上甲板ケーシング被弾023
上甲板「ケーシング」の敵弾痕は縦四尺三尺余り

(((A025
中甲板第三区左舷より入りたる敵弾「ケーシング」を貫き右舷外板に至りて止まる

((24被弾o024

中甲板第二区先任衛兵伍長室敵弾の炸裂破壊す、本艦に命中せる敵弾三十余個の内炸裂せる


((26水雷艇o026

敵弾伝馬舩を破壊して艦載水雷艇を貫く


((27水雷艇o027
最後部煙突及び水雷艇に命中せる敵弾痕

((28水雷艇028

蔚山沖海戦の翌日、佐世保軍港に於いて敵弾に破壊されたる艦載水雷艇修理の為揚陸の景


((30煙突修理030

大檣及煙突の修理(修理のため、複数名の乗組員が柱に登っている)



((29-6インチ砲029

六インチ砲揚陸の光景


((31磐手031

三須司令官旗艦「磐手」の受けたる敵弾右舷前部「ケースメート」を破壊し

其の附近甲板及び端舟を破壊し死傷者七十七名を出す


((32水雷艇陸揚げ032

敵弾に破壊されたる艦載水雷艇を「ポンツン」にて揚陸の光景






 

 日露戦争(1904~05年)時に日本国内に7万人以上が収容されたロシア将兵捕虜の生活や処遇が記録として残されております。
 捕虜とは言いながら彼等は丁重なもてなしと監視のもと、市内見物など比較的自由な時間を費やしていた事が見受けられます。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



ロ シ ア 兵 捕 虜 収 容 所
(((ロシア戦争捕虜高浜港




   松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)


  松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)

((●松山01
松山市の繁華街大街道を散策するロシア兵捕虜

(((ps002
旅順から松山市公会堂収容所に移送された捕虜のロシア将校

(((ps008
松山郊外の郡中(伊予市)の彩浜館で接待を受ける捕虜のロシア将校
(1904年9月25日)

(((ps005
京都・智積院収容所の庭で記念撮影するロシア将校。
智積院には日本海海戦でバルチック艦隊を率いた
ロジェストベンスキー提督等が収容された。

(((ps007
大阪の収容所敷地内のあずまやの前に立つ捕虜。天王寺周辺とみられる

(((ps003
収容所となった松山・正宗寺の中庭で記念撮影する捕虜

((●道後awps004
旅順から松山・勧善社収容所に移送された捕虜のロシア水兵

(((ps010
松山でロシア将校に返還中のサーベル(1905年10月)

((●道後ps001
松山・道後で日本人負傷兵の家族に囲まれる捕虜のロシア将校

((●道後ps009
松山で収容中に死亡した仲間の葬儀に参列する捕虜


赤 十 字 病 院
(((+日本看護婦history-006
赤十字病院の看護婦

(((plc4WJZ
当時の礼状に使われた看護婦の絵葉書

(((にほん3
パフスリーブ看護服の従軍看護婦

(((パフスリーブ
従軍看護婦

(((+日本軍病院
仁川の野戦病院内の日本負傷兵

(((+野戦病院129
仁川の野戦病院での看護婦の働き

「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



((ロシアと日本がポーツマス条約に調印
日本とロシアがポーツマス条約に調印 終戦  

日露戦役 勝利祝賀
(((祝東郷9618
1905年10月22日、東郷元帥の東京への凱旋を祝う

(((祝英雄的な提督トーゴを歓迎するための凱旋門と巨大な群集
英雄的な東郷元帥を歓迎するための凱旋門と祝う群集

(((祝戦勝日本軍パレード
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝1905年10月22日、平島東郷提督の東京への復帰
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝凱旋Tougou_and_KamimuraT
東郷元帥の凱旋を祝う群衆

(((祝1905年10月にトーゴが東京凱旋
銀座は祝勝の賑わい

(((祝銀座は、旗布と旗で飾られて
銀座は、旗布と旗で飾られて祝捷
(((祝横浜、日本海海戦勝利
日本海海戦の勝利を祝う横浜

(((東郷069b2
東郷平八郎元帥

(((祝ロシアの敗北
皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ・・東郷平八郎


(((R対馬の戦い。 ロシアの悪夢
日本海海戦によるロシア艦の被害


満州派遣軍の首脳たち
(((mansyuugunn

満州軍総司令部

前列左から井口省吾、児玉源太郎、大山巌、福島安正、松川敏胤、田中義一
二列目左端が田中国重

((第一軍司令部将校軍司令官の黒木為楨と参謀藤井
第一軍司令部将校
2列目左から四人目が軍司令官の黒木為楨
その右隣の帽子をかぶっていない人物が参謀長の藤井茂太

((((第一軍司令部と視察武官
第一軍司令部と視察武官

((((第1軍高官および軍の将校の召集陸軍本部
司令部前第一軍高官および軍の将校

((第二軍司令官、師団長軍司令官の奥保鞏、大山
第二軍司令官、師団長
2列目左から2人目が
立見、軍司令官の奥保鞏と大山。

((第三軍司令部将校と各師団長
第三軍司令部将校と各師団長
前列左から土屋第十一師団長、乃木、大山、大迫第七師団長、
飯田第一師団長、秋山好古
2列目
左から4人目が津野田

((第四軍司令部右から3人目が野津、4人目が上原
第四軍司令部。






「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


1904年2月9日       仁川沖海戦

(((1ロシア仁川沖


(((1Variagr仁川沖海戦で炎上するロシア艦右がヴァリャーグ_1904

(((ロシア艦1413


(((停泊中のヴァリャーグVaryag_1904



((を救出した仏の巡洋艦「パスカル」

(((引き揚げられたヴァリャーグVaryag1905
仁川沖海戦の後、ロシア戦艦「ヴァリャーグ」の残骸

(((自爆するコレーエツ1

(((自爆するコレーエツ


((((日本海軍兵


(((戦艦「ミカサ」に乗船した日本海兵隊
戦艦「三笠」甲板で訓練中の日本軍海兵


((自信過剰な戦前のロシアの漫画


1904年8月   遼陽会戦   1905年3月  奉天会戦

(((大山巌将軍と兵士history-002

((((日本の歩兵

((正面に向かう米と茶の軍隊の正午の和み


(((日本軍進軍754


((((ロシアから捕獲された砲

((((日本兵は、捕獲されたロシアの野砲を最前線に送
((((第1軍_戦利品

((((奉天の戦い(1905)

((奉天戦大山巌将軍-003

((((R炎の奉天をロシア軍が放棄逃亡す
炎の迫る奉天をロシア軍が放棄逃亡す

(((大山奉天入城05
大山巌将軍の奉天入城

((((奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団
奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団

((日本の兵士
奉天会戦後に点呼をとる日本軍第一師団

(((遼陽の戦いの後、勝利した大山
遼陽の戦いの後、勝利した大山将軍

((中国救援隊に任務中の日本人歩兵
救援隊に任務中の日本軍歩兵

((中国救援隊に勤務する日本軍砲兵隊-SC-
救援隊に任務する日本軍砲兵隊

(((明治軍装
救援隊に任務する日本軍


((IMG_320a1

コロナ感染者【移動平均】で傾向を掴め・・
東京は今も正念場!・・・第2波真っ只中、1日当り240人ペースの天井圏です・・



「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


((((第3軍 Fenghuang Hill.

鳳凰山の東南方高地に於ける第3軍司令官(乃木)一行の偵察


((((堡塁の占領

ロシア堡塁の占領




(((Rロシアが敗れた後、ポートアーサーの外の砦でロシアの兵士から

ロシアが降伏後、旅順郊外の砦でロシアの兵士から武装解除


((((旅順遠望_ナマコ山

ナマコ山から旅順遠望


((((第3軍慰霊祭

水師営東北方に於ける第3軍の慰霊祭


((((乃木第3軍ポートアーサーへ

旅順入城に向けて乃木第3軍司令官の出発



(((ポートアーサーの前-ロシアの砦

旅順近郊でのロシアの砦を捕獲した日本兵


(((ポートアーサーを占領する日本の兵士
旅順近郊でのロシアの砦を捕獲した日本兵



((((日露捕獲した敵銃器
              捕獲した敵銃器類と日本兵

(((エポート・アーサー近郊の野木将軍とそのスタッフの昼食04・12・4
旅順近郊での乃木将軍とそのスタッフの昼食  1904・12・4

(((エ日露戦争中に朝食を楽しむ野木将軍と将校
旅順近郊での乃木将軍とそのスタッフの昼食  1904124


((((第3軍_p12_134
第3軍司令官乃木・聯合艦隊司令官東郷及びその幕僚

(((日本兵が旅順陥落で
旅順陥落で日本兵と市民は歓喜した

(((順入城乃木連隊1905年4月2日
旅順市内へ入城する乃木聯隊  1905年4月2日

(((ポートアーサーの一般的なMaresuke軍隊4・2
旅順で第三軍を指揮する乃木希典陸軍大将・・  4月2日

(((エ旅順を奪った日本の指揮官
司令官室前の乃木希典将軍

(((エ旅順陥落後のキャンプでの日本軍乃木将軍1905年4月2日
旅順陥落労いの席での乃木将軍・・・

(((ポートアーサー降伏後の乃木希典4月2日
旅順で降伏後の敵将を労う乃木希典(右奥)  4月2日

(((野木将軍とそのスタッフ、ポートアーサーの征服者
乃木将軍とその部下たち


「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

190426       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

190428       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

190428       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

190429       仁川沖海戦

1904210      相互宣戦布告

1904224      第一次旅順口閉塞作戦

1904327      第二次旅順口閉塞作戦

190451       鴨緑江会戦

190458       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904810      黄海海戦

1904822      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904814      蔚山沖海戦

1904819      第一回旅順総攻撃

1904830      遼陽会戦

1904109      沙河会戦

19041015    バルチック艦隊出航

19041126    第二回旅順総攻撃

1904125      日本軍、旅順口203高地を占領

19041231    第三回旅順総攻撃

190512       旅順開城

1905125      黒溝台会戦

190531       奉天会戦

1905527      日本海海戦

190569       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905612      ロシア、講和勧告を正式に受諾

190577       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905731      日本軍、樺太を占領

190589       ポーツマスで日露講和会議が始まる

190591       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

190595       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

19051014    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]


((ロシア皇帝ニコラス彼の軍隊と

ニコライ二世ロシア皇帝が前線について指揮官に激励別れを告げた


((((R満州で第32砲兵旅団がガッチナを前に出ようと
満州で第32砲兵旅団が、ガッチナを前に出ようと列車に乗る


(((Retvizanロシア海軍
戦艦「レトヴィザン」艦上で艦長と水兵


((R巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの船員
巡洋艦「ルリック」に乗ったロシアの水兵

(((R功績勇敢さのために兵士に
功績を挙げその勇敢さに兵士に勲章授与する将校

(((R旅順の露海兵history-008
旅順市内でのロシア海軍の上陸


((((ロシア軍事物資c866e
列車でロシア軍事物資の到着

((((R満州戦線で活動中のロシア軍
満州戦線で活動中のロシア軍

((((R1904年行動に向かう前にコサック
前線に向かおうとする露軍・コサック隊

((((R暑い日に塹壕にいるロシア歩兵
灼熱の中、塹壕から攻撃をかけるロシア歩兵

((((R丘への攻撃中に鎖を形成するロシア兵-1904年夏
丘への攻撃中に鎖を形成するロシア軍隊

((((RLiao平原を見下ろす高台にあるロシアのバッテリー
Liao平原を見下ろす高台にあるロシア軍のバッテリー

((((Rサンチェンジー近くのロシアの銃
サンチェンジー近くのロシア軍砲台


((((Rロシア陣地8
ロシア軍 砲台陣地

((((R日露戦争行軍中の1904-1905年
ロシア軍・行軍中の小休止

((((R満州鍋でのロシア軍キャンプ
満州鍋でのロシア軍キャンプ

((((休・旅順、砦の中にロシア人によって埋められた日本人
旅順、砦の中にロシア兵、日本兵死者の両軍相互調査中・・

((R-Japanese捕虜-POW-
ロシア軍の捕虜となった日本兵

((R落胆した日本のスパイと彼の奇抜なロシアの捕虜
現地人に成りすました日本軍のスパイが捕虜となった

(((H日本軍による占領の日、203ロシア兵から軍票
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵戦死者から軍票の採取する捕虜

(((R終戦203高地971
日本軍による203高地占領の日、ロシア兵捕虜の集結

(((戦死したロシア兵、日本人の軍事名誉に埋葬された
戦死したロシア兵、日本人司祭によって名誉の埋葬をされた

(((R・Feng-Wang-Cheng王城でロシア人丁重に
Feng-Wang-Cheng王城でロシア兵を丁重に葬る日本兵

(((H日本兵に護衛されたロシア人捕虜
日本兵に護衛され移動するロシア人捕虜

(((H遼途堡子付近・捕虜russo
遼途堡子付近にて日本軍の指示を受けるロシア兵捕虜

((Hロシアの捕虜が電車を待つ
駅のホームで列車を待つロシア兵捕虜

(((+ケムルポの日本軍病院で負傷したロシアの船員
仁川の日本軍病院で負傷したロシア海軍水兵たちと看護婦

(((+ロシアの兵士看護Chemulpoの日本人赤十字
ロシア兵士の看護・・仁川の日本人赤十字

((+日本の看護師と医師、日露
ロシア兵を看護する日本赤十字の看護師と軍医









「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】

1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。


1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。


1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。

同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。   

一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。

満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。


1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。

開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。

((((203高地中央部より旅順
203高地中央部監視所より旅順港を望む

((((ポートアーサーに砲弾を発射する日本の野戦砲
旅順港に向け砲弾を発射する日本の野戦砲

((((フィールドガンを搭載した日本の兵士
フィールドガンを準備中の日本の兵士

大阪で建造された強力な沿岸防衛砲-500ポンドの砲弾を搭載、各迫撃砲のバレルは8トンの重さでした。 そのため砲本体は重い木材のフレームにセットされ、800人のチームによって木製のローラーの上に引き上げられ、4人が前後に移動した。 仕事は暗闇の中でしかできなかった。昼間はロシアの銃砲弾が最前線の兵隊の上を常に飛んでいた。 9月末までに6基が配置された。

((((日露203高地大打撃
28cm榴弾砲の発射
((((1904・10・8、ポートアーサーを砲撃する日本軍
旅順港を砲撃する日本軍

((((28センチのhow弾砲
28cm榴弾砲の発射準備

((((nihon砲台p13_186
富士型砲台付近に準備された海軍砲

((((ryojunkouryakusen2_p5
旅順港を目前にして28cm榴弾砲の発射

((((ryojunkouryakusen2p4
28cm榴弾砲の発射準備

((((アーサー前の日本のhow弾砲、日露戦争、1904-5。
旅順港を目前にして28cm榴弾砲の発射準備

((((日露日本軍28c榴弾砲
旅順近郊の日本軍に於ける包囲戦
・・1904年10月

((((ポートアーサーで日本の大砲により
旅順でロシア艦を狙って砲撃が開始された

((((旅順の日本砲撃
旅順の山中からロシア艦目標に日本軍の砲撃

((((陸上からの砲撃を受けている巡洋艦「パルラーダ」
陸上から我が軍の砲撃が命中した巡洋艦「パルラーダ」

((((旅順fwe
外洋への逃避もかなわず為す術もないロシア巡洋艦「パルラーダ」

((((旅順Japanese-war
ロシアの巡洋艦「パルラーダ」と戦艦「ポピエダ」1904年12月

((((ゴールデンヒル近くの港でロシア軍艦
黄金山近くで退避するロシア戦艦「ポピエダ」

((((パルラーダ((((_battleship_ポピエダ_
⇧往年の巡洋艦「パルラーダ」
往年の戦艦「ポピエダ」➔


((((崩壊する前のポートアーサーでのロシアの戦艦の座礁
崩壊する前の旅順港でのロシアの戦艦の座礁.
左から「パルラーダ」「ポピエダ」「レトヴィザン」「ボルタワ」

((((ロシアの戦艦「ペレスビエット」日本の砲弾で破壊
我が砲撃で破壊されたロシアの戦艦「ペレスビエット」

((((ペレスベード
往年の戦艦「ペレスビェット」


((((レトビザン
撃沈された戦艦「レトヴィザン」

((((_Retvizan
戦艦「レトヴィザン」の被害

((((砲撃で沈没したレトヴィザン_retvizan
撃沈され擱座した戦艦「レトヴィザン」

((((旅順_戦艦「レトビザン」
撃沈され擱座した戦艦「レトヴィザン」

((((旅順港
旅順・沈没戦艦「レトヴィザン」と奥が巡洋艦「ポルタワ」 (後方の山が203高地

((((_Gold_Hill
ロシア主力艦が沈む旅順港
左から「ペレスビェット」「ボルタワ」「レトヴィザン」「ポピエダ」「パルラーダ」

((((日露白玉山より500
戦勝後白玉山で寛ぐ我が兵士と、左「戦艦ポピエダ」中央「戦艦レトヴィザン」
右は巡洋艦「ポルタワ」

((((旅順港3c
旅順・沈没戦艦「ポピエダ」及び我が軍の壮烈を極めた遥か前方の閉塞船

(((ru_retvizan_hbr
往年の戦艦「レトヴィザン」
(((ru_retvizan_qtr
往年の戦艦「レトビザン」

((((日露oo2_500
撃沈されたロシア戦艦「パルラーダと戦艦「ポピエダ」(右)

((((沈没したロシア船
旅順港の沈船ロシア艦

((((ポートアーサー湾のロシア極東艦隊の巡洋艦に大きな損害
旅順港・ロシア極東艦隊の巡洋艦に大きな損害

((((旅順湾のロシア極東艦隊の巡洋艦に大きな損害を
撃沈されたロシア戦艦「パルラーダと戦艦「ポピエダ」(右)

((((旅順_戦艦「Peresviet」と「Poltava」
撃沈されたロシア巡洋艦「ポルタワ」と戦艦「ペレスビエット」(右)


((((岸壁で無残横倒し
旅順・東港船架内に沈む水雷母艦「アムール」

((((旅順「アムール」東域船架内の
旅順・東港船架内に沈む水雷母艦「アムール」

((((日本軍の砲撃により大きく破壊されたポートアーサー
日本軍の砲撃により大きく破壊された旅順港湾施設




開戦前の旅順港
((((ポートアーサー、1904-05
白玉山から見た旅順港口

((((旅順口ウェイユエンのハイフォートからの眺め
その逆方向から見た白玉山方面

(((52fd

((((旅順港前9
白玉山から眼下を見る

((((旅順攻前
旅順港 (正面に「アムール」の沈んでいたドックが見える)

((((海岸の小型ボートと港の軍艦
旅順港とロシア戦艦

((((でのロシア巡洋艦「ツァレヴィッチ」と「アムール」
旅順港でのロシア巡洋艦「ツァレヴィッチ」と水雷母艦「アムール」

((((前旅順港
旅順港のロシア艦



((((210▲img_15





「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】

1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。


1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。


1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。

同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。   

一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。

満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。


1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。


1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。

開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。

(((Nichirojp

(((52fd

((((位置に進出する日本軍-旅順包囲戦
前線に出動する日本軍・・旅順包囲戦

((((日本軍の攻城砲陣地
日本軍の攻城砲陣地
 
((((大連に於ける第2軍隊の大連到着
大連に於ける第2軍隊の到着

((((大連の日本補給船05
大連の日本補給船

((((砲弾輸送・道を作る
銃砲、砲弾輸送道を作る日本兵

((((軍路の開設
突貫中の運搬用軍路の開設


((((ポートアーサーに投げ込まれるのを待っ500ポンド
旅順要塞に投擲されるのを待っ500ポンド砲弾

((((第9師団、第4師団)戦闘準備完了-ポートアーサー包囲戦
(第9師団、第4師団)旅順包囲戦、戦闘準備完了

((((ポートアーサーの北西部を攻撃
旅順北西部のロシア軍に向けて砲撃開始

((((発砲する日本の砲台、旅順のロシア04年12月20日に占領
ロシア堡塁(要塞)に向けて砲撃する日本の砲台

((((ポートアーサーへの長い飛行を開始する
旅順への遠距離砲撃を開始する

((((東とさか_弾薬庫に命中
ロシア要塞、東鶏冠山堡塁の弾薬庫に命中

((((旅順_ 東キクワンヒルフォートで
東鶏冠山堡塁のロシア砲残骸

((((旅順Liao-Ti-Shan砦に対する日本の砲台。
旅順 Liao-Ti-Shan 砦に対する日本の砲台」

((((ポートアーサーで日本人が捕らえた武器
旅順周辺で日本軍が捕獲したロシア軍武器弾薬

((((日本軍は戦いの準備ができ1
小休止、日本軍は戦いの準備ができている

((((ポートアーサーの包囲中に日本軍がtrenchを築き
旅順包囲中の日本軍が高地の敵に対して陣地を整備

((((旅順周辺の必死の闘争
旅順周辺の必死の戦闘

((((203の死闘
203高地の決死の突撃

((((203決死の突撃戦
旅順203高地の突撃戦

((((ポートアーサーの戦い(1904)
旅順203高地の攻防戦

((((203cc6
  歩兵第25連隊将校団・・・203高地占領記念

【写真解説文】

我が連隊の、大連に上陸せるは、明治371120日。

203高地、東北角の占領せるは、同年125日。

北関、松樹山を白襷隊、赤城山攻撃、

203高地の累次戦争で、失える将兵千六百、故山の出でし三千。

認誅強句、日にして其客を失う・・・ 判読不詳の為、意味不明はご容赦・・)

(あぁ)!!今日、風霞む山領にて記念撮影する、将校の胸中や如何に。

((((4921

  ↑ 歩兵第25連隊・・203高地占領記念


((((日露oo8_500
203高地攻防戦が終わって・・

(((20-04-13 Google マップ
旅順市街と203高地(左〇印)

(((2004-13 Google マップ(1)
「爾霊山」(二〇三)の碑 
203高地山頂-明治39年建之


((((勝利の代償ー日本軍203高地死者の一部
勝利の代償・・日本軍 203高地での戦死者の一部(合掌)

((((旅順郊外太鼓山
旅順郊外太鼓山砦の占領(眼下に野営テント)


((((Rシベリア予備軍は、1904年8月203高地ルの丘を防衛する
ロシア・シベリア予備軍は、1904年8月203高地を防衛

((((Rロシア軍、ポートアーサーに入る
補強のロシア軍、旅順に入る

((((R旅順攻囲戦での塹壕内のロシア兵
旅順攻囲戦での塹壕内のロシア兵

((((Rロシア旅順16804
陣地のロシア兵

((((旅順_ペイトウのロシアの展望台
旅順・北斗山頂・ロシア軍の監視所


((((R3番目の要塞に移動する予備-port-arthur
旅順第3の要塞に移動するロシア兵

((((Rポートアーサー郊外のロシアの野営地
旅順郊外、ロシア軍の野営地

((((Rロシア砲台北を見る-ポートアーサー
ロシア砲台は旅順の裏側から攻める日本軍を睨む

((((R損傷を受けたレストランで食事45
被弾損傷を受けたレストランで食事するロシア軍

(((R司祭oo3_500
旅順で倒れたロシア軍の遺体を祈る司祭(合掌)

(((R司祭と兵士が満州のポートアーサーの丘に埋葬
旅順で倒れたロシア軍の遺体を祈る司祭(合掌)

(((R司祭アーサーで倒れたロシア軍の遺体を祈る司祭
司祭とロシア兵士が満州のポートアーサーの丘に戦死者埋葬(合掌)

(((Rポートアーサー郊外の埋葬を待つロシアの死者
旅順郊外で埋葬を待つロシア兵の戦死者(合掌)

((((R1904年2月旅順戦いの後、倒れたロシア兵
1904年2月・・旅順戦いの後、倒れたロシア兵(合掌)



((((210▲img_15




「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】

1894年(明治27年)2・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。


18345に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治2781日開戦の詔勅が出された。


1895年(明治28年)417日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。

同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。   

一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。

満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。


19038からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして190426日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。


1904年(明治37年)28日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。

開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。

(((Nichirojp

((((ロシア騎兵隊からの攻撃に備えテリン近くで
テリン近くでロシア騎兵隊からの攻撃に備える

((((R1904年行動に向かう前にコサック
前線に向かおうとする露軍・コサック隊

((((R満州:ロシア騎兵隊(コサック)のパレード
ロシア騎兵隊(コサック)の容姿

((((Rロシア騎兵_p13_169
露軍コサック騎兵の休憩

((R遼陽でロシア援軍到着
遼陽へ
到着したロシア軍の援軍

((((日本兵は1904年から5年頃の浅いtrenchの後ろに隠
日本兵は浅い陣地の後ろに隠れ体制をとる

((((遼陽の戦い。 黒木日本軍将官と藤井重太参謀長
遼陽の戦い・・ 黒木日本軍将軍(左)と藤井重太参謀長(中)の指揮

((((満州の日本軍砲兵隊
満州での日本軍砲兵隊

((((平陽での日本騎兵隊の偵察-1904
平陽での日本騎兵隊の偵察

((((日本兵が野砲を所定の位置に
日本兵が野砲を所定の位置に・・

((((日本兵は緊密な陣形をとる
日本兵は緊密な陣形をとる・・

((((指揮中の第16連隊の馬場大佐
指揮中の第16連隊の馬場大佐

((((日本軍が機関銃を配属
日本軍が機関銃を配置

((((電話で状況を報告する日本の兵士
電話で状況を報告する日本の兵士

((((日露戦争中の
現地人が建てたか「死為護国」の前で・・日本軍将校

((((日本軍の参謀長山口将軍
日本軍の参謀長山口将軍

((((日露戦争中にライフルを掲げて編隊と戦い
銃を構えて突撃編隊の体制

((((沙保の劇場での日本の野外kitchen
沙保の前線での日本軍の野外昼食

((((遼陽 Battle of Liaojang (1904)
日露・・遼陽に至る会戦

((((74346ab
遼陽・首山堡の決戦

(((( 陸軍恤兵部 武勇 軍神橘中佐 首山堡
首山堡の戦いに激戦壮烈の最期を遂げた軍神橘中佐は機に臨んで
沈着冷静、克く大勇の実を示した。


((((橘4296((((橘b50
  歩兵第34連隊第1大隊長 橘 周太中佐       橘 周太中佐

(((( 嗚呼 橘中佐
軍歌『 嗚呼 橘中佐 』の一節

(((( 橘中佐関谷大佐戦死地 橘山遠望 忠 -
首山堡(橘山)の遠望・・遼陽駅の8km南方にあり、日露戦役に第二軍の奮戦せし処。
橘中佐、関谷大佐の戦死した地なり。忠魂碑には1万3千の英霊を祀る。


((((日本人による名誉の儀式s
日本兵一同による名誉ある慰霊式

((((死んだ日本人s
塹壕で戦死した日本兵(合掌)

(((Liao-Yangで日本人とロシア人の死者を共に葬る日本兵
Liao-Yangで日本人とロシア人の戦死者を共に葬る日本兵
(合掌)

((((R陥没道路でロシアの死者
陥没塹壕でロシア軍の戦死者
(合掌)

((((Rロシア陣地で9471
ロシア陣地での戦死者を見入るロシア兵
(合掌)

((((日本人は殺されたロシア人将校に適切な埋葬アンタンでs
日本兵は戦死したロシア人将校に適切な葬送をした・・アンタンで

((((死傷者収容中の日露軍s
死傷者収容の為、休戦中の日露軍関係者

((((210▲img_15





「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

日露戦争に於いては、欧米から視察武官が監視に参加し欧米から特派員も視察して、日本では殆んど知られていない写真も残されておりました。
順次、ご紹介したいと思います。

【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】

1894年(明治27年)2・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。


18345に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治2781日開戦の詔勅が出された。


1895年(明治28年)417日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。

同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。   

一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。

満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。


19038からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして190426日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。


1904年(明治37年)28日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。

開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。

(((Nichirojp

((((兵士たちが東京を前に出て、日本
故国の港から大陸の戦線へ

((((日本軍歩兵部隊の上陸ー朝鮮
日本軍歩兵部隊の上陸・・朝鮮仁川

((((仁川に上陸した最初の日本軍。
仁川に上陸した最初の日本軍。

(((( at Chemulpo, Korea 1904 (over 21 MILLION views Tha((釜山
仁川
Chemulpo, に上陸した日本軍

((((Chemulpoで医療用品を運ぶ韓国人労働者
仁川で医療用品を運ぶ韓国人労働者

((((ヤルへの前進のシーン
京城へ到着の日本軍

((((朝鮮を北上
朝鮮を北上中の第1軍兵士

((((日露、日本兵のポーターとして働く韓国のクーリ
日本兵のポーターとして働く韓国のクーリー

((((1ヤルへの前進のシーン
ヤルへの前進をする日本軍

((((日本軍がヤル川を渡る
日本軍がヤル川を渡る

((((1900年代、日本陸軍の帝国防衛部隊の兵士
日本陸軍の帝国防衛部隊の兵士

((((1904年の日露戦争中の日本軍の射撃ライン。
日露戦争中の日本軍の射撃ライン

((((ロシアの立場で前進する日本の兵士
敵を意識して前進する日本の兵士

((((鴨緑江の仮設橋を渡る第一軍部隊
鴨緑江の仮設橋を渡る第一軍部隊

((((1yxo1_500
キビ畑で突撃前進が始まる

((((オープンフィールドを横切って前進。 (2)
オープンフィールドを横切って前進

((((攻撃する準備ができている日本兵
攻撃態勢ができている日本兵

((((大山陸軍の兵 October 1904).
大山陸軍大将の歩兵はシャホー平野でロシア軍に睨みをきかす

((((大山陸軍元Shaの歩兵はシャホー平野でロシア軍に
大山陸軍大将の歩兵はシャホー平野でロシア軍に睨みをきかす

((((日本刀を身に着けた将校
日本刀を身に着けた将校

((((軍の病院に負傷した同志を運ぶ
野戦病院に負傷した同志を運ぶ

((((重機関銃を輸送した日本軍
重機関銃を搬送中の我が軍

((((負傷した日本兵が更衣室に向かう途中-
負傷兵は後方の野戦病院へ移動

((((負傷兵
野戦病院へ到着した負傷兵

((((負傷したロシア人を
負傷したロシア兵を救助する

((((モティエンPassで負傷したロシア兵士
モティエンPassで負傷したロシア兵士

((((負傷したロシア兵が日本兵によって
負傷したロシア兵捕虜は、日本兵によって野戦病院へ


((((視察中の英国看護婦
野戦病院視察中の英国看護婦

((((ロシア軍最前線_045
ロシア軍最前線での行軍

((((タリングTalingで戦闘中のロシア軍
タリングTalingで戦闘中のロシア軍

((((きび畑でロシア兵の射撃体勢k
きび畑でロシア兵の砲撃体勢

((((ロシア軍病院で負傷した日本人捕虜
ロシア軍野戦病院での負傷した日本人捕虜

((((ロシア軍のキャンプでの体罰
ロシア軍のキャンプでの体罰

((((ロシアの医療搬送
ロシア軍の医療品搬送

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