


















日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦
http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より
明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。
両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。
砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。
瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。
リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。
リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。
僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。
8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
[左から] 一等機関兵青木五郎、二等機関兵三島謙六、一等機関兵貝原六郎、
二等水兵安保助蔵、二等機関兵伊豆音松、
明治三十七年三月廿七日、第二回閉塞隊出雲撰出の三勇士
[左から]、二等水兵杉本三蔵、一等機関兵木下初蔵、二等機関兵古賀繁雄
日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦
http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より
明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。
両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。
砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。
瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。
リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。
リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。
僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。
8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
旗艦「出雲」より水雷艇蒼鷹に給炭の光景
(三十七年七月末、浦汐艦隊が東京湾附近に現れたる中、
第二艦隊は水雷艇隊を引卒し日向(宮崎)有明湾に仮泊中の時)
戦闘中に戦闘旗を掲げたる上村艦隊「吾妻」「常盤」「磐手」を旗艦出雲より望む
蔚山沖海戦の後、出雲六インチ砲の発射せし薬莢の一部、同日出雲に於ける発射総弾数二千二百五十発
出雲に救出収容せるリューリックの捕虜前甲板に於て休養す
リューリックの捕虜出雲前甲板に於いて休養す、吾が兵士今は朋友として胸襟を披きこれと談笑す
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
1904年8月30日 遼陽会戦
1904年10月9日 沙河会戦
1904年10月15日 バルチック艦隊出航
1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
1904年12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順開城
1905年1月25日 黒溝台会戦
1905年3月1日 奉天会戦
1905年5月27日 日本海海戦
1905年6月9日 セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月12日 ロシア、講和勧告を正式に受諾
1905年7月7日 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)
1905年7月31日 日本軍、樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマスで日露講和会議が始まる
1905年9月1日 日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
1905年9月5日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1905年10月14日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
1904年8月30日 遼陽会戦
1904年10月9日 沙河会戦
1904年10月15日 バルチック艦隊出航
1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
1904年12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順開城
1905年1月25日 黒溝台会戦
1905年3月1日 奉天会戦
1905年5月27日 日本海海戦
1905年6月9日 セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月12日 ロシア、講和勧告を正式に受諾
1905年7月7日 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)
1905年7月31日 日本軍、樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマスで日露講和会議が始まる
1905年9月1日 日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
1905年9月5日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1905年10月14日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]
満州軍総司令部
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
1904年8月30日 遼陽会戦
1904年10月9日 沙河会戦
1904年10月15日 バルチック艦隊出航
1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
1904年12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順開城
1905年1月25日 黒溝台会戦
1905年3月1日 奉天会戦
1905年5月27日 日本海海戦
1905年6月9日 セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月12日 ロシア、講和勧告を正式に受諾
1905年7月7日 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)
1905年7月31日 日本軍、樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマスで日露講和会議が始まる
1905年9月1日 日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
1905年9月5日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1905年10月14日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年8月 遼陽会戦 1905年3月 奉天会戦
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
1904年8月30日 遼陽会戦
1904年10月9日 沙河会戦
1904年10月15日 バルチック艦隊出航
1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
1904年12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順開城
1905年1月25日 黒溝台会戦
1905年3月1日 奉天会戦
1905年5月27日 日本海海戦
1905年6月9日 セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月12日 ロシア、講和勧告を正式に受諾
1905年7月7日 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)
1905年7月31日 日本軍、樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマスで日露講和会議が始まる
1905年9月1日 日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
1905年9月5日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1905年10月14日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月22日 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
1904年8月30日 遼陽会戦
1904年10月9日 沙河会戦
1904年10月15日 バルチック艦隊出航
1904年11月26日 第二回旅順総攻撃
1904年12月5日 日本軍、旅順口203高地を占領
1904年12月31日 第三回旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順開城
1905年1月25日 黒溝台会戦
1905年3月1日 奉天会戦
1905年5月27日 日本海海戦
1905年6月9日 セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告
1905年6月12日 ロシア、講和勧告を正式に受諾
1905年7月7日 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)
1905年7月31日 日本軍、樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマスで日露講和会議が始まる
1905年9月1日 日露両国、休戦議定書に調印(休戦)
1905年9月5日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1905年10月14日 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]
ニコライ二世ロシア皇帝が前線について指揮官に激励別れを告げた
満州で第32砲兵旅団が、ガッチナを前に出ようと列車に乗る
【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】
1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。
1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。
1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。
同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。
一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。
満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。
開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。
【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】
1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。
1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。
1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。
同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。
一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。
満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。
開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。
【写真解説文】
我が連隊の、大連に上陸せるは、明治37年11月20日。
203高地、東北角の占領せるは、同年12月5日。
北関、松樹山を白襷隊、赤城山攻撃、
203高地の累次戦争で、失える将兵千六百、故山の出でし三千。
認誅強句、日餘にして其客を失う・・・ (←判読不詳の為、意味不明はご容赦・・)
噫(あぁ)!!今日、風霞む山領にて記念撮影する、将校の胸中や如何に。
↑ 歩兵第25連隊・・203高地占領記念
【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】
1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。
1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。
1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。
同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。
一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。
満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。
開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。
【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】
1894年(明治27年)2月・・朝鮮・全羅北道で大規模な農民蜂起「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請、当然日本も出兵して、この東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。
1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。
1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。
同年4月23日・・日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を見た朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。
一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。
満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国注釈は「ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持すること」を主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。
開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。