泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ○国史画帖『大和桜』

国史画帖『大和桜』51.七本槍の豪勇 福島市松(正則)の奮戦・・

 賤ケ嶽(しずがだけ)の戦いは天正十一年1583年)羽柴秀吉が織田氏の宿将、柴田勝家の軍を討ち破った有名な合戦である。
 
 この戦いに秀吉配下の豪勇、加藤清正、福島正則、加藤嘉昭、平野長泰、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則の七名は賤ヶ岳の七本槍として陣頭に立ち、各々目覚ましき奮闘を為し武勲を立てた。
 
 羽柴秀吉進んで賤ヶ岳の北に出で、金瓢の馬印を高く朝日に輝かした、これを遥かに眺めた柴田勢は「すはや筑前の守ぞ」と驚く。
 
 秀吉敵陣の旗幟の動きを見て急に弓銃手に命を下す。
 「あれを見よ、堀切の手前の敵は退くと見える、急ぎ追いつき撃ち取れ」
弓銃手は勇み立ち坂道を馳下り、敵の隊後を目がけて猛射を浴びせ、倒れる者数知れず、陣形忽ち乱れる。
 
秀吉は左右を見ながら「法度は許す、小姓どもそれ手柄を仕勝ちに致せよ」と自ら貝を吹き立てる。


福島市松(正則)馬に一鞭当て、敵の真っただ中に躍り入り、敵の豪将拝郷久盈はいごうひさみつ)を討ち取った。

この戦いで本能寺の変以来、秀吉を妬みし織田方の諸将はことごとく敗残し、秀吉は真に旭日昇天の勢いを以って四方を風靡するに至った。
 

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            賤ケ嶽(しずがだけ)の合戦で・・       
     ↑拝郷久盈           
↑福島市松(正則)

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秀吉は左右を見ながら「法度は許す、小姓どもそれ手柄を仕勝ちに致せよ」
と自ら貝を吹き立てる。


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           賤ケ嶽(しずがだけ)合戦図
           ↑片桐助作 ↑羽柴筑前守秀吉 ↑福島市松(正則)

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加藤清正、福島正則、加藤嘉昭、平野長泰、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則の七名は賤ヶ岳の七本槍として陣頭に立ち・・・

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   秀吉は賤ヶ岳の戦いによって天下統一の主導権を握った。


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        賤ヶ岳の七本槍ほか武将図・・(当て字で記載)

↑島 忠太郎 ↑千極甚平  ↑羽柴久吉公(秀吉) 
↑津久島吉松(福島)                ↑笠喜利助作(片桐)↑秋阪新内(脇坂)      
               ↑越尾保助
     ↑佐藤正清(加藤)
↑蓮谷右衛門
糟屋)↑佐藤金之助(加藤)
          ↑佐名田昌幸(真田)  ↑日良野勘平(平野)


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         賤ヶ岳周辺・・・滋賀県木之本町

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             賤ヶ岳山頂の古戦場


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            賤ケ嶽の戦い
  拝郷五左衛門久
盈   ↑福島市松  ↑脇坂甚内↑水野助右衛門 



国史画帖『大和桜』㊿  羽柴秀吉 よくも屈辱を耐え忍ぶ・・

 尾張の国中村の一農家に生まれ、卑賎の身より立身して一方の将となり驍名を謳われた羽柴秀吉は、織田家に仕える彼の先輩柴田勝家等から目の上の腫物視されるに至ったことは、戦国時代はおろか今の世も当然のことである。
 
 或る日、清洲城内大溜所に於いて柴田勝家は、その甥佐久間盛政と計り秀吉を招き、あらゆる屈辱を加え難題を吹っかけて屈服させ、万一反抗せば一捻りに捻り殺さんと物騒な相談をしていた。
 
 秀吉は、斯くの如き計略がありとは露知らず、呼ばれるままに柴田の前に端坐するや「のう羽柴殿、五~六年前を思えば夢の様ではないか、足下が二合半の藤吉郎時代には按摩もしてもらったが、吾等老境に及んでしきりに肩が凝る、されど足下も今では立派な殿様じゃ。まさか按摩もしてもらえまい、あゝ水の流れと人の身は、実におかしなものである」と秀吉を尻目にかけて口振り、堪忍強い秀吉「若い者が長者に仕えるは人の道でござる、苦しゅう御座らぬ、揉んで進ぜましょう」と云いながら勝家の肩から腰にまで丁寧に按摩して「さて不器用な按摩、少しはご気分が好くなり申せしや」とどこまでも従順で、これには鬼と呼ばれた勝家玄番も機先を制せられ喧嘩にもならず、すごすごと退城した。
 
 柔よく剛を制すの喩え、秀吉にこの忍耐と大腹量が有ったればこそ、後には柴田、佐久間を滅ぼし群雄割拠、麻の如く乱れた天下を統一し、関白太政大臣と位人身を極められたのである。


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    柴田勝家より按摩をしてほしいと乞われた秀吉は・・・
 ↑佐久間盛政    ↑柴田勝家    ↑羽柴秀吉

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        柴田修理進勝家と小谷(おだに)の方






国史画帖『大和桜』㊾ 坊主に化け 秀吉 危機を逃れる・・

  主君信長の凶報を聞き、毛利と和睦した秀吉は、疾風迅雷、弔い合戦のため帰途に就いた。
 万一、秀吉が中国より引き返しては面倒だと、光秀明石義太夫、四方田但馬守(しほうでんたじまのもり)豪将をして密かに手配せしめた。
 
 今しも唯一騎、甲冑に身を固め飛び来るは、まがう方なき秀吉にて、明石「やあやあ、筑前と見たは僻目(ひがめ)か、いざ覚悟ッ」と斬りかかれば、汝如きを相手にいたす秀吉でないと、大事を取って馬に一鞭当て逃げ去って、ほっと一息付いたところへ仁王の再来かと思わるる物凄き勇士が槍を持ち「我こそは四方田但馬守なり、猿面冠者見参」と槍を捻って突きかかる鬼神も拉ぐ勢いに、大事の前の小事のこと、秀吉逃げつつ、遂に道誤って古寺の抜け道無き細い畦道に乗り入れた。
 
 今は詮方なしとヒラリと馬より降り、今、四方田が追って来る道へ馬に一鞭当て追い返す。
 四方田避けるに道なき深田の一本道、あわや蹄にかかり蹴り殺されるかと思われる刹那、飛び来る馬の前両脚を抱えドッと深田へ投げ込んだ。
 
 この暇に秀吉、古寺に入り頭を剃り坊主に化け、四方田の目を遁(のが)れることが出来た。
 この咄嗟の危急の場合にも、奇策縦横の秀吉の面目が現れている。


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       追う四方田但馬守と、広徳寺へ身を隠す秀吉

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        広徳寺での加藤清正と四王天但馬守の対決

 天正十年(1582)六月、本能寺で織田信長明智光秀に討たれたことを知った羽柴秀吉は、後に「中国大返し」と呼ばれる強行軍で兵を返しました。
江戸後期に流行する『絵本太閤記』などの伝記ではその際の出来事がこんな風に語られています。
 
 俊馬に乗った大将の秀吉は単騎となってしまい、武庫川(西宮、尼崎)あたりで明智方の四王天(四方田)但馬守の待ち伏せに遭います。

どうにかこれを凌いで近くの広徳寺(尼崎市寺町8)に逃げ込んだ秀吉は、まず浴室の剃刀で髪を剃り、脱衣場にあった衣をまとって僧侶に化けます。
そして台所で食事の支度をしていた僧衆に交じって味噌すりを始めました。
そこに四王天但馬守が現れ秀吉を捜しますが、僧侶に化けた秀吉を見つけることができず、やがて駆けつけた加藤清正に討ち取られ、秀吉は危機を脱したというのです。
 
 この話は残念ながら史実ではありませんが、知恵者の秀吉らしい逸話として広く知られるようになります。また、秀吉が逃げ込んだ寺は諸説ありますが、後に広徳寺(尼崎市寺町8)がその舞台として知られるようになります。 この「尼崎危難」伝説は芝居にも取り入れられ、錦絵の画題としても好まれるようになりました。
 つまり本作品は、広徳寺での加藤清正と四王天但馬守の対決を描いたものだったわけです。

 両雄の脇に記載された「四方田但馬守」、「佐藤虎之助正清」という人名は、徳川家康在世中以降の出来事に関する出版物の刊行が幕府に規制され、実際の名前が変えられています。
とはいえ誰が見ても「四王天」「加藤清正」であることがすぐに分かるあたり、当時の出版関係者のしたたかさが感じられます。

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   秀吉、栖賢寺(せいけん寺)に剃髪して危難を免れ給う図

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     西方から見た尼崎城と栖賢寺(せいけん寺)、広徳寺

 

当時の武士道による戦いは、正々堂々たるものがあった。殊に最も感服するのは、四方田但馬守加藤清正との戦いである。
 二人が尼ヶ崎で相戦ったとき、
清正の刀が中ほどからはっしと折れ、四方田が斬り込めば清正は尼ヶ崎の露と消えるところであった。

しかし四方田は、折れた刀で人を討つのは武士の情けにあらずと思い、清正の申し出に応じて組み打ちをした。

 揉みつ揉まれつしたが、
清正の力が優れていたので、遂に四方田を組み敷き、短刀一閃(いっせん)、敵の喉(のど)に突きつけようとしたが、清正も武士の情けを知る人間である。

自分の刀が折れたとき、情けの猶予をくれた相手を殺すには忍びない。
そこで四方田を助け起こし、いずれ重ねて晴れの勝負をしようと約束し、互いに彼のためなら命もいらぬと思いながら別れたという。
 
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        太閤秀吉公、剃髪したる尼崎広徳寺

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       太閤秀吉公、剃髪したる瑞雲山広徳寺

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           瑞雲山 広徳寺本堂

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       太閤記傳 秀吉由緒寺 (尼崎広徳寺)





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国史画帖『大和桜』㊽ 木下藤吉郎 富士川の初陣・・

 身を匹夫(ひっぷ=卑しい身分)より起こし、遂に関白太政大臣となり、位は人身を極め、更に遠く万里の海外に迄、武威を轟かせた大英雄豊臣秀吉の豪胆智謀は既に富士川の初陣に現れている。
 
藤吉郎(日吉丸)蜂須賀小六の世話になっていた時期があり、その蜂須賀氏の紹介で織田家に仕官したということだ。
 天文十七年(1548年)、藤吉郎十三才にて今川義元の家臣、軍学指南役遠州浜名の松下之綱まつしたこれつな)に仕えた。
 
 月日に関守無く藤吉郎十八才の時、北条氏康は二万五千余騎を率い街道筋の覇権目指して富士川へ出陣し、今川方も三万を以って迎えて相対した。
 
 やがて戦端は開かれ北条軍の先陣、伊東日向守佑国いとうすけくに)は五千余人を率いて黎明を期して川を渡らんとするや、今川勢の将、朝比奈康能は伏兵を以って迎撃しこれを破った。
 
 この時藤吉郎は主君之綱に従って今川軍に有り、身は糧食係に有りながら密かに抜けて戦線に出で様子を覗うところへ、敵将日向守佑国が痛手を負い追われて来たので、藤吉郎躍り出で大音声に「勝負!勝負!」と呼ばわれば、日向は小僧扱いにして渡り合い数刻、藤吉郎は所詮かなわずと、馬の横腹目がけて突き出す槍に馬は驚き卒倒し日向守佑国はもんどり打って真っ逆さまに河中へ落馬した。
 
 藤吉郎は得たりと躍り込んで、見事に首掻き落とし今川勢大勝の因をなした。
 これが藤吉郎初陣の功名である。
 

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          木下藤吉郎 富士川の高名  
  ↑木下藤吉郎         ↑伊東日向守佑国 


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          豊臣雲昇録 富士川の合戦  
  ↑木下藤吉郎         ↑伊東日向守佑国 



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  矢作川の出会い      ↑蜂須賀小六正勝  ↑日吉丸


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        蜂須賀小六正勝 と 日吉丸

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             矢作川の情景




国史画帖『大和桜』㊼ 毛利元就の策略、功を奏し 陶 晴賢を討つ・・

 陶晴賢(すえはるかた=大内氏家老職、後に入道し陶全姜すえぜんきょう)は周防、山口の城主大内義隆の重臣であったが、次第に勢力を増し主家を攻め滅ぼした。

 

 義隆は自刃するに先立ち、密書を毛利元就に寄せて「他日、逆臣晴賢を誅戮(ちゅうりく=罪人を殺す)して呉れ」との頼みで、大内家に仕えていた芸州の元就は義隆の遺志を汲み、義兵の天勅を請い晴賢討伐の師を起こしたのである。

 

 晴賢の勢力侮りがたく、智謀に優れた元就は彼を欺き滅ぼさんと厳島に城を築いた。

 

 その頃毛利家に出入りする盲目の琵琶法師があった。

 元就は何心なく時折法師を呼んで平家を語らせていたが、晴賢の間者だと見破った後も元就は相変わらず法師に平家を語らせていた。

 

 かくて城が出来上がると、元就は法師が来るたびに「家来の諫めを用いず厳島に城を築きしは元就一生の失敗、万一敵に厳島を占領されなば手出しが出来ぬ」と、さも後悔している如く宣伝するを、間者法師より聞きたる晴賢は、我が意を得たりと家来の諫めも聞かず、兵六万を率い厳島を攻め、元就の計画に陥り惨敗、遂に自刃し、法師は捕らえられ出陣の血祭りとされて海中に投ぜられた。

 

 元就は大内氏の領地八ケ国を採り、更に尼子氏を滅ぼし山陰、山陽に覇を唱え戦国時代の一驍将(ぎょうしょう=勇ましい大将)として後世に其の名を残すに至った。


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     間者法師は捕らえられ、毛利元就出陣の血祭りにされた。

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              陶 全姜(晴賢)敗死の図


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                           「高安原 陶晴賢 敗死之所」


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             陶 晴賢 の像


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            毛利元就 の像




国史画帖『大和桜』㊻ 大丈夫鬼と謳(うた)われし 柴田勝家・・

 柴田勝家は剛勇無双の武将で、織田信長に仕え一方の重鎮であった。
 人呼んで鬼柴田と称し天正三年1575年)越前の北ノ庄城主(福井城)となった。

 本能寺の変に主君信長が、明智光秀に亡ぼされてからは、主君の仇を討った羽柴秀吉の威望が日に増し盛んになった。
 
 これを憂いた柴田は、万一織田家が滅ぼされては一大事と、遺子織田信孝を安泰にして秀吉の勢力を駆逐せんと機を狙うに至った。

 たまたま天正十一年1583年)三月、柴田の血縁佐久間玄番盛政は秀吉と戦い、時こそ到れりと柴田が玄番を援けて秀吉の軍に抵抗せしめたが、時に利あらず賤ケ嶽(しずがだけ)において敗れ、佐久間玄番及び勝家の養子権六も捕虜となった。
 
 そこで勝家は僅かの手兵をまとめ、越前北ノ庄(福井城・福井市中央)に立て籠もり再挙を計ったが、勝ち誇りたる秀吉の大軍は、一挙にして勝家を滅ぼさんと北ノ庄に迫り遂に城を包囲した。
 城兵大いに防戦力闘したが今は戦う者数百人、さすがの鬼柴田と謳われた勇将も死の運命を覚悟した。
 
 そこで勝家は夫人お市の方を諭し「城を抜け出でよ、例え敵の捕虜になっても信長公の妹として命を援けると思う、子供を連れて逃れよ」と勧めたが、流石は信長の妹であり、柴田が夫人であり、お恨めしこと申されるかな、夫を見捨てて逃れる心は露もなく、死なばもろとも城を枕に討死するこそ武士の妻として取るべき道と、頑として聞かず燃え落ちる天守と共に夫人は懐剣を以って己が胸元刺し通せば、勝家は莞爾(かんじ=ほほえむ)として腹十文字に搔き切って自刃したが、その義節は後世に至るも讃えられている。


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           大丈夫鬼 柴田勝家

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         柴田勝家     織田七郎左衛門

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              柴田勝家 

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              柴田勝家 

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              柴田勝家 

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              お市の方





国史画帖『大和桜』㊺ 運拙く哀れ 光秀 の最期・・

天正十年1582年)六月、信長の弔い合戦として秀吉は、山崎天王山(京都府大山崎町)に於いて明智の軍を破った。
 
そこで光秀は坂本城(大津市下坂本)に立て籠もり、決戦を為さんと一騎当千の郎党十数名を従え、坂本城へ向かう途中伏見を通過、小栗栖(おぐるす=京都市伏見区醍醐)へ差し掛かった時は丑三つ頃、三々五々と密かにそぼ降る雨の中を進み、竹藪の傍を通らんとした時、横合いより土民が狙い定めてエィ・・・と突き出す槍は、光秀の脇腹に深くグイッと突き刺さった。
 
「無礼者ッ」と云いざまその竹槍を切り落とし、突き刺されたまま馬を走らせ、凡そ三十丁も来たころ、流石の光秀も遂に落馬したが、続いて来た溝尾茂朝この様を見て驚き、抱き起こすと「この深き傷では最早坂本城まで覚束(おぼつか)ない、命自害致す故、汝介錯致し呉れ」と五十五を一期として儚き最期を遂げた。
 
当時土民の一部には、落ち武者と見れば、物具を剥ぎ取る輩が出没して居た。
身は五十有余万石の城主、更に仮令十余日とは言いながら征夷大将軍、明智惟任光秀(あけちこれとうみつひで)が土民の竹槍にあえなき最期とは・・・
 
ああ天の配罪か、それとも宿命か、兎角英雄の最期、憐れな者の内でも、光秀の最期こそは最も哀れなものであろう。


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            山崎大合戦の図

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      山崎合戦之図  光秀の大山崎敗走場面
    ↑明智日向守光秀 ↑美曾尾惣兵衛 ↑武智十郎衛門↑津間木数衛
↑名見川嘉門之介                     ↑比企田帯刀

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         山崎合戦之地(京都府大山崎町) 

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           明智光秀 小栗栖の図

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          小栗栖の露と消えた光秀

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      小栗栖 明智藪に差し掛かった光秀と近臣

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        明智光秀亡滅旧跡 本経寺等の絵図

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     光秀死亡の藪

                  
      光秀の行状にて亡着し藪は、南小栗栖法権                    壇林の側にありし、藪を傳領したる土民覚わ                    りとて、今は知るべき附しなかるらん。

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       本経寺内にある明智日向守光秀公供養塔

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【明 智 藪】

「明智藪」は新小栗栖街道を六地蔵から山科方面へ向かうと存在する】

近江坂本城主、明智光秀は(1582年)天正十年六月二日早朝、中国地方へ出陣の為、上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた。(本能寺の変)
その後、光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名と共に暗夜に乗じて坂本城を目指したが、途中小栗栖の付近に差し掛かったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最期を遂げたと云われている。
この明智藪は、今日に到るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領と成っている。   
平成三年二月吉日

 
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           明智光秀之塚 胴塚

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            明智日向守光秀

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            明智日向守光秀

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      羽柴秀吉による明智光秀主従の首実検の図
↑青木勘兵衛↑加藤清正↑糟谷正次↑羽柴秀吉↑蜂須賀彦衛門↑福島正則





国史画帖『大和桜』㊹ 明智左馬之介 誉れの湖水渡り・・

明智左馬之介光春(光秀の重臣=妹婿または別説に従弟とか)は安土城にあったが、光秀の大山崎合戦敗軍を聞いた士卒は、士気沮喪し(しき、そそうし)多くは先を争って逃走したため、火を放って城を焼き、僅かの手兵を従えて坂本城(大津市下坂本)に向かう途中、秀吉軍の先鋒堀秀政の軍に出会い、打出の浜(大津市石場)で華々しく一戦を交えたが、悲しいかな多勢に無勢、打ち勝つ見込みもつかなかったから、光春は馬首を廻らして一直線に坂本城に急ぐべく、琵琶湖にざんぶと乗り入れた。
 
光春のこの日の扮装(いでたち)は、雲竜を描いた陣羽織に、二ノ谷の兜をかぶり群がる敵を尻目に、愛馬の大鹿毛を泳がせながら、さしもに広き湖水を見事に乗り切って唐崎に上陸した左馬之助は、汝のお陰でさしもの湖水を乗り切ることが出来たぞと労り、あたら名馬を殺すに忍びずと、懐紙を取り出し「左馬之助を乗せて、湖水を渡りたる馬」と記し愛馬の鬣(たてがみ)に括り付けて放った。          
    
光春の湖水渡りは後世まで誉れを残し、且つ安土城史の最後を飾る充分な劇的場面となった。
 
この名馬は後に秀吉の乗馬として愛せられ、幾百の山河を跋渉して、文字通り戦場を蹄で蹴散らし幾多の戦功を建てた。
 

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           明智左馬之介の湖水渡り

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          明智左馬之介の湖水渡り

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        武者名馬誉れ之図  明智左馬之介

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         坂本城址 大津市下坂本にて・・・

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          明智左馬之介の到達地点

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       西教寺(大津市坂本5)内には寺宝として
 「明智左馬助光春公寄進の、琵琶湖渡りの鞍」が伝わっている。


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            明智左馬之介光春


国史画帖『大和桜』㊸ 長恨尽きず 本能寺・・

海内平定の大偉業も殆ど完成せんとするに当たり、完璧が禍の元、遂に家来に誅されるに至った信長は、織田家の為悲しむべき事であった。
信長晩年に至り、光秀を猜疑しその領地を召し上げ、中国征伐を命じた。

天正十年1582年)六月二日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長軍を急襲、光秀は中国征伐と称し、一万五千を率い「敵は本能寺にあり」と下知し信長の宿せる本能寺を十重二十重に取り囲んだ。
 
信長は、只ならぬ人馬の響きにガバと床を起き「蘭丸居らぬか、疾(と)くもの見せい」と命ずれば、畏まりましたと縁に出て、ほのぼのと白む空に小手をかざして眺めれば、桔梗の紋の旗印急ぎ「光秀の叛逆と見受けられます」
 
信長は「何、日向とな、一矢報いて腹切ろう、防げ、者共」と自ら敵数名を射斃し、最早これまで自害せんと、奥に入りたる処へ明智方三羽烏の一人、安田作兵衛は障子に写る信長の影を見るや、躍りかからんとする刹那、森蘭丸が長柄の槍をしごき鉄壁も通れと突き出す鋭き槍先に、一度は作兵衛危うしと見えたが、却って蘭丸武運拙く討ち取られ、衆寡(しゅうか)敵せず信長以下は全員自刃した。



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         本能寺の変 森蘭丸と安田作兵衛

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             本能寺の変

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           本能寺 焼討ち之図

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           本能寺 焼討ち之図

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          本能寺 森蘭丸 討死之図

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            本能寺合戦之図

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          本能寺の変  織田信長

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         京都四条、本能寺 夜討ちの図
↑浮田蘭丸永保    ↑安田宅兵衛国朝  ↑大多上総介信長公


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             織田信長

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             本能寺の変 
    ↑明智光秀             ↑森蘭丸    ↑織田信長


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     錦絵に描かれた本能寺の変 (歌川貞秀画・大阪城天守閣蔵)

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当時の本能寺
  

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 本能寺は京都市役所から御池通を隔てゝ南側にある法華宗本門流の大本山






国史画帖『大和桜』㊷ 山内一豊 名馬の誉れ

信長或る日、馬揃え(閲兵式)を催した、その日群臣綺羅星の如く並ぶ中に、ひと際目立って颯爽と現れた武者一騎、栗毛の駿馬に跨り、しかも手綱さばきも鮮やかに、馬術の巧みさ、並居るものは勿論、信長も思わず感嘆の声を放った。
 
「殿御覧遊ばせ、あれは山内一豊で御座ります」驚くも道理、日頃貧乏で良い馬を持たぬ一豊故、今日の馬揃えには仮病を使って、出仕しないだろうと噂されていた矢先である。
 

信長は近くに召し出して、名馬入手の次第を聞けば『先日の馬市にて「武勇で聞こえた織田公の城下で、この逸馬を手に入れる武士は無いのか、噂程でもないな」と嘲笑せられしも、家貧しく蓄財なく憤懣やる方なき折、妻これを聞き入嫁の際、夫の一大事に使えと言い聞かされし金は、鏡の底に有りとのことで取り出し、即刻名馬を手に入れし次第』と語れば、信長「天晴れなる心掛け」と深く一豊夫婦を嘉し幾多の褒美を与え、馬は鏡栗毛と名付けられた。

 
その後、立身出世して遠州掛川の城主となり、妻は後世まで節婦の亀鑑として褒め称えられた。


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           一豊の姿に、信長も思わず感嘆の声を放った

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                      ひと際目立って颯爽と現れた 山内一豊

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           「浮世画類考之内天正三年之頃(山内一豊)」 大判二枚続
(小林清親画 明治18年)山内一豊に名馬を買わせるため持参金を渡す妻


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      本山白雲作の 山内一豊の銅像 (高知城公園)

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      山内一豊と妻の像 (岐阜県郡上八幡城にて)




国史画帖『大和桜』㊶ 龍虎相討つ 川中島

永禄四年(1561年)八月、上杉謙信は白布を以って顔を被い、夜明けの濃霧を幸いに、唯一騎信玄と雌雄を決すべく、武田の本陣目がけて躍り込み、速くも信玄の前に現れた。
 
これを見るなり信玄は『下郎、下がれッ』と大喝したが、謙信の眼にもとまらぬ早業に流石の信玄も、刀抜く暇もなく持っていた軍扇でようやく受け止めたが、鋭く斬り込む太刀先に軍扇の柄は斬りおとされ、左肩先を少し切り下げられた。
 
今一打ちと謙信が、二の太刀振り上げた刹那、主君の一大事と家来の原大隅守昌虎馳せ来たって、馬上の謙信の脇腹目がけて繰り出す槍先は、手元狂って謙信の馬を衝く、馬は驚き河中へ躍り込み信玄の危地は一瞬にして救われた。
 
彼の有名な頼山陽の詩「鞭声粛々、夜過河」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)は、この時の有様を詠んだものである。
甲越両軍の干戈(かんか)を交えること九ケ年、十数度の戦いにも常に勝敗決せず、今又、流星光底長蛇を逸したる両雄の心情や如何に。
 
されど常々、信玄は謙信の豪勇を讃え、謙信は信玄の智謀を褒めたが、信玄は喀血の持病持ちでこれが悪化、元亀四年(1573年)三州街道で死去す。
後に信玄の死を聞いた謙信は「我が良き相手を亡くした」と嘆息落胆したとのことである。
 
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    ↑武田信玄     ↑上杉謙信         ↑原 昌虎

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        川中島、武田 上杉両将直戦之図

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          川中島 両将直戦之図
     ↑武田信玄  ↑上杉謙信     ↑山本勘助


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            川中島大合戦之図
   ↑武田信玄     ↑上杉謙信      ↑原 大隅守

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            川中島大合戦之図
   ↑武田信玄     
↑原 大隅守     ↑上杉謙信      
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         信州 川中島 両将直戦之図
  ↑武田信玄      ↑上杉謙信      
 
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       川中島・・武田信玄と上杉謙信の合戦


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       武田信玄公之像


     武田信玄 


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      上杉謙信公之像


     上杉謙信



国史画帖『大和桜』㊵ 鬼勘助 最後の大激戦

片目でびっこ乍ら、信玄方にさる者ありと曉名を馳せた山本勘助晴幸は又軍師として智勇兼備の誉れ高く、人呼んで「片目のびっこ勘助」と称し、何時の戦場でも常に功を建てた。   
 
永禄四年1561八月、甲越両軍は川中島(長野市)に対陣し、この時も勘助の献策により西條山(長野市松代町)に自ら兵を率い立て籠もった。
 
然るに未だかって一度も戦機を誤ったことなき勘助、いま暁の深霧を透かして見ればすぐ目の前に上杉の大軍が押し寄せた、南無三失敗ったかと切歯扼腕「それ者共、敵を蹴散らせ」と大音声に呼ばわりながら、自ら大身の槍を提げて当たるを幸い、群がる敵を突き殺し、さながら阿修羅の荒れるがごとく敵十三騎を討ち取り、続く部下も勇将の下に弱卒なしとか、西條山は忽ちに鮮血に染まり、血流れて川をなす一大修羅場と化した。
 
この激戦の真っ最中、上杉方の狼火を合図に敵はサッと引くかと思えば、忽ち現れ敵の銃手隊が整然と進み来たりて一度に火蓋を切った。
 
時既に勘助の馬は斃れ、身には数か所の傷を負ったが、尚も屈せず斃れし馬の横腹に、腰打かけ部下を指揮せしも、遂に武運拙く六十九を一期として自刃した。


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     ↑山本勘助晴幸入道
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          川中島にて勘助討死之図

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           川中島 勘助勇戦図    

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      ↑武田信玄   ↑上杉謙信          ↑山本勘助

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    川中島の戦いで討死する 山本勘助  (月岡芳年画)

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川中島大合戦 山本勘助入道晴行小高き丘に馬蹄をやすむる図 歌川国芳画

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       ↑上杉謙信   ↑武田信玄          ↑山本勘助
川中島大合戦両将勇猛の図



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 山本勘助 像





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