国史画帖『大和桜』63. 三百年の徳川幕府が遂に倒れる・・













(八幡町)(はし本)(くづは) ↑(大山崎)(長岡)(西明神)(伏見) ↑(淀の城) (千両松)



尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが、戦いは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してくる。(このころ水戸を押さえた保守派は、過激派の留守宅を襲い、過激派の妻子を殺したりしたらしい)
この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった。
この天狗党の大量処分は、血なまぐさい事件の多い幕末でも、ひときわ凄惨な事件である。
一般にはあまり知られていないかもしれないが、『雍州府志』に次のような記述があります。
「於山城普賢寺谷、梅雪従者斬郷導者奪其太刀之銀鐔、於茲土人蜂起遂殺梅雪於草内村西」
つまり、家康とは別行動を取った穴山梅雪の従者が、家康一行に少し遅れてここ普賢寺谷にさしかかったときに、同行の道案内人(郷導者)を斬り殺し、その太刀の銀製の鍔(つば)を奪った。
そのため、これに怒った土着民らが蜂起し、ついに梅雪を草内村の西で襲い殺害したということである。
なお、これと同じ話が、飯岡にある梅雪の墓の横にある立て札にも、地元の伝承として記されていた。
【家康の生涯における一番目の危機は
「神君、伊賀越え・・」で次回掲載予定】
徳川公・豊臣諸侯饗應図,
官兵衛の嫡男で初代福岡藩主・黒田長政が築いた機張城・・・
釜山(プサン)と蔚山(ウルサン)の中間に位置し、港を取り囲むように築かれた機張城が、豊臣軍の重要拠点だったことは容易に想像できる。
加藤清正の虎退治の図