泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ○国史画帖『大和桜』

国史画帖『大和桜』63. 三百年の徳川幕府が遂に倒れる・・

 慶応三年1867年)十月、十五代将軍慶喜は、大勢如何とするを能わず大政を奉還し、愈々王政復古の実は挙がり、家康将軍と成ってより二百六十五年にて徳川幕府は全く瓦解した。

 勝海舟西郷隆盛によって江戸城は無血開城となり江戸幕府は名実共に終焉を迎えることになります。

 

 されど幕臣らの中でこのまま終わるのも潔しとせず、あくまで官軍と一戦を交えて雌雄を決せんと諸藩の勇士は相集まり、輪王寺宮を奉じて彰義隊と号して上野東叡山に立て籠もり、官軍の命を拒んだ。
 戦わずして降伏することを不満に思う旧幕府の武士たちによって「彰義隊」は結成されるのでした。
 更に各地の脱藩兵が合流し、最盛期は三千~四千人もの規模であったとされています。

 時は明治元年1868年)五月十五日、「彰義隊」は新政府軍と上野寛永寺で戦争を始めます。
 折からの雨を侵して官軍は大砲を本郷天神台に据えて、黒門口に砲火を集中し、諸隊一斉に四方から包囲し総攻撃に移るや、隊員も最後の命を賭けての一戦と白刃閃かせて渡り合い、雨中に血煙を立てて白熱戦を演じたが、官軍の一斉射撃に遭い将棋倒しとなり、遂に黒門口はわずか半日で破れた。
 死者は二百六十六名にのぼったのです。
 
 どっと起きる鬨(かちどき)の声と共に、四方より攀じ登った官軍の為、彰義隊は遂に利あらず壊滅し、江戸最後の兵乱は治まった。
 この兵乱の為、上野、東叡山寛永寺の七堂伽藍は烏有(うゆう=焼失)に帰したのである。
 
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           上野山寛永寺の黒門前で始まった。

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    上野山の黒門では、東征軍と彰義隊の壮絶な攻防戦が繰り広げられた

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             東叡山寛永寺の黒門周辺の決闘

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           慶應戊辰の役 東叡山寛永寺黒門の部

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             上野 東叡山寛永寺の図

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        東叡山文殊樓焼討之図    慶応戊辰五月十五日


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        円通寺(彰義隊の墓所)に移築された寛永寺黒門

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          その黒門には貫通弾痕が多数残っている

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             春爛漫 上野寛永寺の晩鐘

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                寛永寺の花見

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春の寛永寺清水堂

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上野 寛永寺清水堂の花見図


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         鳥羽伏見の乱の図  慶應四年一月(1868年) 

(さかい)↑ (なんば)(大坂御城)↑     (天満天神)↑
(住吉社)(天王寺)     (樋ノ口)(ながら)(吹田)(光明寺)
(暗がり峠)(桜の宮)     (茨木)(富田)(高槻)(室寺)                       (天王山)(柳谷)
(男山)(枚方)(佐田)(守口)     
(八幡町)(はし本)(くづは) ↑(大山崎)(長岡)(西明神)
(伏見)         ↑(淀の城)  (千両松)   
                                                      
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              明治天皇御即位の図

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         明治天皇御即位 明治元年(1868)八月二七日



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国史画帖『大和桜』は、ひとまずココにて終了です・・


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国史画帖『大和桜』62. 白雪血に染む桜田門外の変・・

幕末の安政三年(1856)四月に大老に就任した彦根藩の井伊直弼(いいなおすけ)は、その強権をもって懸案となっている将軍継嗣および条約調印を独断で進めた。この強権政治に反発した公卿や幕政批判をした志士たちに容赦のない弾圧を加えた。
この「安政の大獄」は反幕派による尊攘活動をさらに激化させていく。
 
内外の事情切迫を機に、直裁を待たずして開港条約に調印し、又将軍家定の命を受けて紀伊より家茂(いえもち)を迎えて後継ぎとした。
 これより天下の志士、殊に尊王論者は直弼の専断を非難し世論は大いに沸騰した。
 
 そこで直弼は水戸の斉昭なりあき)、尾張の慶恕(よしひろ)、越前の松平慶永よしなが)等に謹慎を命じ、一ツ橋慶喜に登城を禁じて非常手段に訴えて反対派鎮圧に務めたが、更に六年八月尊王攘夷論者の急先鋒橋本左内(はしもとさない)吉田松陰頼三樹三郎等を捕えて小塚原(刑場)に於いて断罪に処した。
 
 斯くの如く攘夷党は、既に幾多の志士を失い、且つその首領と仰ぐ斉昭(なりあき)が蟄居ちっきょ=ひきこもりせられたので、水戸志士の激憤最も甚だしく、遂に直弼の近辺を狙うに至り、翌万延元年1860年)三月三日、直弼は行列も物々しく、正に江戸城に登城せんと桜田門外に差し掛かった時、水戸浪士佐野竹之助等十七人、及び薩摩浪士有村治郎左衛門等、町人を装うて行列を迎え、「掛かれっ」の合図とともに俄かに白刃を閃かして襲撃し、折から降りくる雪の中に斬り結び、忽ち白雪を紅に染め、遂に直弼を暗殺したのである。

白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。
 

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         桜田門外紅雪

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「桜田門外之変」図


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        「桜田門外之変」井伊大老の駕籠


そして元治元年(1864)三月に天狗党の乱が起こる。
これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して、藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである。
武田耕雲斎は尊攘派ではあったが過激派ではなく、この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった。
耕雲斎(61歳)は過激派を説得すべく水戸に向かったが、逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった。


 尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが、戦いは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してくる。(このころ水戸を押さえた保守派は、過激派の留守宅を襲い、過激派の妻子を殺したりしたらしい)

幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する。

そんな中状況を打破するため、天狗党の面々は将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと、京都に行くことを決定、天狗党八百人余りが進軍を開始した。
 元治元年秋のことである。幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは十二月十一日に越前の新保(福井県敦賀市)に到着した。

しかし彼らはそこで、頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った。
もはやこれまでと観念した天狗党は十二月十七日に加賀藩に対して降伏した。
 
天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので、一月一日には酒なども振舞われたらしい。
また幕府に対しても寛大な処分を要請した。
 
しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり、天狗党の身柄を福井、彦根、小浜の各藩に委ねた。
その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ、ろくな取調べもされないまま、首領の武田耕雲斎、藤田小四郎以下、なんと四百人近い人々が首を刎ねられた。
 

この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった。
この天狗党の大量処分は、血なまぐさい事件の多い幕末でも、ひときわ凄惨な事件である。

この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり、これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである。
 

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    有村治郎左衛門          佐野竹之助


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  武田耕雲斎


                                 水戸藩士・藤田小四郎

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          大老・・井 伊 直 弼

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        直弼から三条実万に宛てた書状


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         大老・井伊直弼襲撃之図(右隻)

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         大老・井伊直弼襲撃之図(左隻)

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桜田門・・・万延元年1860年)三月三日、水戸浪士等が大老・井伊直弼を要撃しおり。


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          大老・井伊直弼の最期

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         桜 田 門





国史画帖『大和桜』61. 誉れは千裁に薫る赤穂浪士・・

 人は一代、名は末代、生きるべき時に生き散るべき時に潔く散り、誉れを千裁に残すが武士の本懐である。
 
 吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなか)は室町以来の典籍に通じ、幕府礼法の事あればこれに関与し、自ら進んで諸大名より収賄していた。
 
 赤穂の城主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は潔癖なる為、却って城中で上野介に礼法を知らざるに事よせて嘲弄せられ、遂に殿中で刃を抜き、義央に斬りつけた罪に切腹を命ぜられ、その所領はことごとく没収せられた。
 
 家老大石内蔵助良雄以下浪士四十六人、身を思い思いに変じて臥薪嘗胆、吉良を覗うこと二十余月、好機を待つ甲斐ありて元禄十五年1702年)師走十四日、降り積もった雪を蹴って恨み重なる上野介の邸へ夜襲することと成った。
 
 即ち浪士を二隊に分かち、一隊は大手軍として表門から、一隊は搦め手として裏門から進み相呼応し大石内蔵助良雄の下知のまま一糸乱れず、大高源吾、間十次郎等、予ねて用意の縄梯子で塀を登り、外の面々は門より雪崩れ込み、大石良雄が打ち鳴らす山鹿流陣太鼓の音は静寂の夜を破って響き、浪士の意気正に天を衝くの慨が有った。
 
 斯くて卑怯にも炭小屋に隠れていた吉良は首を討たれ、浪士は見事に主君の仇を報いたのである。
 

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          赤穂浪士、吉良邸討ち入り

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   松の廊下で 吉良上野介に赤穂の城主、浅野内匠頭が斬りかかった


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             義士姓氏禄

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             義士勢揃いの図


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永代橋を渡って討ち入りへ

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吉良邸前


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             討ち入りへ

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忠臣義士十一段目     吉良上野介捕獲


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       忠臣蔵義士四十七士 両国揃退図

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 忠臣義士十二段目    吉良上野介の首

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                浅野内匠頭の墓前に報告


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  大石内蔵助切腹の図」部分  熊本藩の江戸屋敷においての切腹状況図


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         大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけ)

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             大石内蔵助良雄



国史画帖『大和桜』60. 家康が人生最大の危機と語った「神君 伊賀越え」逃走・・

 織田信長の天下統一を目前に起こった本能寺の変。
 この時、堺にいた徳川家康は身の危険を感じ、武装していない三十四人の一行で、伊賀を越え三河岡崎城まで逃げ帰りました。
 これが徳川家康が人生最大の危機と語った「神君伊賀越え」です。
 この伊賀越えの経路に、枚方市津田付近から普賢寺、草内、飯岡など京田辺を東走しています。


 【本能寺の変から逃走まで・・】

 天正年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正月には武田氏を滅ぼしている。
 明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、十五日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。

 しかし乍ら、十五日に秀吉から応援の要請が届いたため、信長はその日に明智光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、十七日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城(近江)に戻り、二十六日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
 「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。
 
 徳川家康
は、重臣たちを引き連れて天正十年(1582年)五月十四日に安土に到着し安土城での饗応の後信長の命により五月二十一日に安土を出て、京都や堺などを見物することとなる。
 
 また、信長は二十九日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。 同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。 翌六月一日、信長は本能寺で茶会を開いている。
 
 そして本能寺の変のあった六月二日には、家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出て、この本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されている。

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            徳川十六善神の図
               ↑徳川 家康公     
 ↑平岩 親吉 ↑大久保 忠世 ↑松平 忠吉↑本多 忠勝 ↑内藤 正成
  ↑鳥居 元忠 ↑渡辺 守綱    ↑榊原 康政  ↑服部 半蔵
      ↑井伊 直正    ↑鳥居 忠広 ↑高木 性順
      ↑大久保 忠佐     ↑酒井 忠次  ↑米津 浄心                           
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 武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見物させられることになった。
 家康ほどの人物ならば、重臣たちと共にどこかで命が狙われる危険を、察知していて当然だったのでしょう。
 
 天正十年(1582年)六月二日未明、本能寺の変が起き、天下統一の直前の織田信長明智光秀の謀反で自害します。

 前日六月一日、堺で見物を終えた徳川家康一行三十四人は、朝早く信長に接見するために京都に向かい、その道中の飯盛山西麓(四条畷)で、本能寺の変による信長の死を知ることとなります。
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                飯盛山西麓(四条畷)
 
 武装しないまま、このまま京都に向かっても襲われてしまうと云うことで、家康一行は、伊賀を越えて三河岡崎城まで帰還することを決めます。
 これが「家康人生最大の危機となる、伊賀越え逃走」の始まりです。
 この伊賀越えの意外な登場人物が居りました。
 昔、テレビでも放送されていたアニメ「ハットリくん」、忍者服部半蔵です。
 このルートを決めた理由は、その当時伊賀をまとめていた忍者服部半蔵が居たからだと言われています。

イメージ 13  服部半蔵正成

 伊賀では前年に織田信長が天正伊賀の乱を起こしていたので、伊賀を通るのは不利な筈ですが、土地勘のある伊賀、甲賀の忍者二百人が逃走を手伝ったようです。
 その貢献により服部半蔵の「半蔵門」が出来て今の東京に名前が残っています。


【徳川家康が通った京田辺ルート・・】


 家康が三日間で帰還したらしいコースは多数あり、話に尾ひれがつき、謎めいているようですが、信憑性の高い史料から判断すると次のようになります。
 
 飯盛山(四条畷)➔星田➔穂谷・尊延寺➔宇頭城(うつぎ)➔普賢寺・多田羅➔興戸・草内(くさじ)➔宇治田原➔信楽➔伊賀➔白子浜➔大浜➔岡崎城・・・・・堺から岡崎まで210Km.

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        星田周辺みちしるべ(左のざき大坂、右ひらかた道)

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     野崎観音前       「野崎まいり」の野崎・慈眼寺
 
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 伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

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【伝・家康ひそみの藪】

天正1062日(1582年)織田信長が京都本能寺に於いて、明智光秀の反逆によって自害した。その時少数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻堺を出て、本国三河へ帰ることにした。帰途の深夜家康はこの竹やぶにひそみ、村の長、平井氏に連絡して山城方面に出るため道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。平井家では沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用の於ける二人の農民を選出し無事に道案内の大役を果たさせたと言われている。


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伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

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穂谷方面への道(枚方市)

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穂谷周辺(枚方市)


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                普賢寺(ふげんじ)

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                  興 戸

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               草内(くさじ)の渡し場跡

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     草内の木津川(西から城陽方面を望む)左が川下

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               草内の木津川(左が川下)

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 江戸末期の木津川(草内付近)(左が川下)(1865年頃)
(当時は川下の伏見に巨椋池(おぐらいけ)が有り、大阪から淀川を上り、更に上流の木津まで帆船での荷役があった)

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            伏見、巨椋池  指月豊後橋
        ↑向い島        ↑小倉神社  ↑大久保神社
          ↑指月月橋院            ↑伊勢田神社

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      小倉双葉園保育所から旧巨椋池を望む 丘の向うが京都(1920年頃)

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                 宇治田原の山道

(((3多羅尾3
多羅尾周辺

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               ▼御斎峠(おとぎとうげ)
(((4おとぎ峠


(((5おとぎ
御斎峠(おとぎとうげ)の碑

(((6伊賀徳永寺
伊賀・徳永寺

(((7徳永
伊賀・徳永寺境内

家康一行は音羽郷を経て、柘植の浄土宗平庸山徳永寺に到着、
しばし休憩(一説には宿泊)したと伝えられる。
そして徳永寺はこの時のお礼として、後年葵の紋の使用を許されたという。


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                                      鈴鹿 加太(かぶと)


 それを三日間で行ったと云うことなので、これは想像を絶する速さなのです。
逃走ですから間道や抜け道を馬で行くのですが、山賊や野伏等が襲ってきますし、知らない場所を通るので非常に苦労します。
 勿論、きらびやかな格好をしていると目立つので、なるべく目立たないように、そして何人もの影武者を用意していきます。
 家康の逃走を知った明智光秀は、要所要所を封鎖し家康を追いますが、家康側には服部半蔵が居たのと、各地の領主に半蔵の知り合いの人物がいたので何とか進行しました。

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             白 子 浜


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            三 河 大 浜

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             岡 崎 城

 京田辺には当時、地元の長領や有力者が居なかったので、土地の言い伝えではありますが、村人が家康一行を「普賢寺」から「草内の渡し」まで道案内したり、舟を準備し無事通過出来たという話もあります。
 梅雨の時期の増水した川を馬を連れて渡ったり、逃走期間の食事や水の用意などは地元民が手助けした訳ですね。
 その後、家康一行は信楽、伊賀、伊勢湾を渡り六月五日の朝に三河岡崎城に無事帰還します。
 
(明智光秀が山崎から近江坂本へ移動したルートは、本能寺から南約10kmの宇治方面を通って山科の小栗栖で刺された訳ですが、徳川家康の通過したルートは、光秀の通った道から、更に南へ約15kmの京田辺から信楽・伊賀へ通ずるルートでした。)

 
【伊賀越えの証し、京田辺市に穴山梅雪の墓あり・・】


 家康一行の後ろには、甲斐武田氏の家臣から寝返って信長側へついた穴山梅雪ら十二人が居ました。
 穴山梅雪一行は一揆(?)に追われ、飯岡の渡しで自害したとの記録があり、村人たちが葬ったと云われています。

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        ▲穴山梅雪翁の墓(京田辺市、飯岡)▼
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  穴山梅雪翁の墓地周辺と木津川(京田辺市・興戸・草内周辺)
   最寄駅=(JR片町線・同志社前駅)(近鉄京都線・三山木駅)


 一般にはあまり知られていないかもしれないが、『雍州府志』に次のような記述があります。
 「於山城普賢寺谷、梅雪従者斬郷導者奪其太刀之銀鐔、於茲土人蜂起遂殺梅雪於草内村西」

 つまり、家康とは別行動を取った穴山梅雪の従者が、家康一行に少し遅れてここ普賢寺谷にさしかかったときに、同行の道案内人
(郷導者)を斬り殺し、その太刀の銀製の鍔(つば)を奪った。

 そのため、これに怒った土着民らが蜂起し、ついに梅雪を草内村の西で襲い殺害したということである。
 なお、これと同じ話が、飯岡にある梅雪の墓の横にある立て札にも、地元の伝承として記されていた。


 丁度、梅雨の時期で木津川も増水していたことでしょう。
 追い詰められて渡河出来ず、逃げられなくなった一行は自害します。
 
 京田辺の飯岡墓地には、穴山梅雪のお墓があり、伊賀越えが行われた確たる証しとなっています。

 後に穴山梅雪の妻が甲斐から、夫と家来を葬ってくれたことに対しお礼を述べに来たそうです。


(京田辺地域生活情報誌「ぐってぃ7月号」より・・
 山城周辺郷土史研究者 伊藤文雄氏筆)

2016年9月27日(火) 「伊賀越えウォーク」 の実施!





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国史画帖『大和桜』59. 家康の奸策(悪だくみ)に大阪城遂に落城す・・ 

 関ヶ原の一戦に豊臣を破った徳川家康は、豊臣秀頼の所領を摂津、河内、和泉の三国に削り、その勢力を牽制したが、なお大阪城内の豊富な軍資金を消費させるべく、京都の方広寺の再建を勧めた。
 この時、新たに鋳造の大釣鐘の銘に「国家安泰」の文字を見た家康は、無理難題を吹きかけ、家康の望み通り大坂方は兵を挙げた。
 
 得たりとばかり家康は息子秀忠と共に、大軍を以って一挙に大阪城を陥すべく攻め立てたが、海内一の名城と智勇兼備の諸将が立て籠もり容易に陥らず、只,徒に兵を損するのみと察した家康は、使いを城中に送り和睦を勧め、外濠を埋めることをその条件の一つとした。
 城中の諸将は反対したが、大野治長の一派と淀君が砲弾を恐れて遂に和睦となった。
 
 然るに条約を無視して家康は、内堀までも埋めにかかったので、和議も破れ兵を挙げるに至った。
 
 家康は金城鉄壁の大阪城といえども、外堀を埋めた以上、何程の事やあらんと大軍を率い攻めかかれば、城兵も豊臣家存亡の時と力戦苦闘を続けたが、外堀を埋められた悲しさ、流石の名城も遂に守り切れず、豊臣秀頼自ら火を放ち逆巻く紅蓮の中に淀君と共に自害し、豊臣氏は遂に滅びた。
 

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   ↑大久保彦左衛門忠徳   ↑真田左衛門尉幸村
 ↑徳川家康公               ↑岩淵主税


慶長十九年十一月二十一日の闇夜、徳川公前内裏、嶋巡見の時、真田幸村伏兵発り、ご勢散乱せし折から、竹腰山城守小栗大六等三十余り取って返し力戦せし内、徳川公は彦左衛門一人付き添い逃れあう折から、芦原の中より幸村ただ一人突然と現れ出た。危なしう岩淵主税、阿部惣兵衛両人御跡と慕い来たり真田と戦い、その間に家康公と忠教○島う別入りこびも、岩淵伊栗を幸村とみて取って葦の有りたる中を数度鎗さした,残念にも出丸の城人引取りたる。

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       ↑家康公代理・米倉和泉守優茂    ↑真田幸村
          幸村芦叢からの偵察の図


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           真田左衛門尉幸村

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            ↓ ↓ ↓ 道明寺の戦い(午前)
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           道明寺の戦い(午後)

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           現在の道明寺周辺


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       近鉄道明寺駅の「道明寺合戦記念碑」

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      大坂夏の陣 小松山古戦場跡碑 (柏原市)


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     大坂冬の陣図屏風図(城を取り囲んだ幟の図)


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           大坂夏の陣図屏風図

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      真田軍・・鳥居は四天王寺西門前 夏の陣

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   家康大仁村難戦の図(大仁村=大阪市中津付近にあった)
           ↑真田幸村       ↑徳川家康
大坂・夏の陣において、幸村に三里(12Km)も追いまくられた徳川家康の、生涯における二番目の危機を描いた明治期の錦絵。

【家康の生涯における一番目の危機は
「神君、伊賀越え・・」で次回掲載予定】


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         ↑徳川家康     ↑真田幸村

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            徳川公・豊臣諸侯饗應図,

 ↑徳川家康   ↑浅野幸長↑福島正則 ↑池田輝政 ↑片桐且元 
      ↑加藤清正               ↑板倉四郎左衛門                           ↑黒田甲斐守
                           
 
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        太平記大合戦, 大坂の陣     ↑後藤又兵衛


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            大坂落城大戦図
           ↑木村重成       ↑後藤又兵衛

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         關阪摂戦畧記, 大坂夏の陣
慶長十九寅年(1614年)十一月から、関兵百余万の大軍を率いて攻め寄り、城を取り囲む真田を
黄泉の国処の英傑真忠を尽くし数度の戦いに関兵を謄し、殊更大御所を奇計に振舞い、敗走せしむる事の数を知長大利、豊臣秀頼の悲運ほしく新しき勇士の花と維も惜しい。報告三年五月八日貢は落城して豊臣の塘落し亡城す。
↑遠藤定之 ↑真田幸安  ↑木村重成  ↑後藤又兵衛  ↑真田幸村

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           黒田二十四騎画帖・・後藤又兵衛


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      大坂夏の陣で討ち死にした、後藤又兵衛最期の記録


  大坂夏の陣で討ち死にした武将・後藤又兵衛(1560~1615年)の最期の様子を記した書付が京都府内で見つかっている。
 豊臣秀頼から贈られた脇差し「行光」で、介錯を受けた経緯が記されており、専門家は「秀頼への忠誠心が読み取れる貴重な史料だ」としている。
  又兵衛は槍の名手として知られ、大坂夏の陣に豊臣方として参戦して「道明寺合戦」で深手を負い、配下に介錯を命じたとされる。この書付は、同じ内容の写し1通と共に、又兵衛の配下で戦った備前国出身の武将・金万平右衛門(こんまへいえもん)の子孫が保管していた。
「後藤又兵衛討死之時」とする13行の文面には、脇差の「行光」で首を打ち、秀頼に又兵衛の折れた「指物」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、金万平右衛門か、その子孫が残した記録とみられる。

 大阪城天守閣の北川央館長は「介錯した人物は特定できないが、経緯が非常に具体的に書かれた史料はこれまで無かった、豊臣家や秀頼への忠誠心や、又兵衛の武将としてのプライドが読み取れる」と語っている。

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   大坂夏の陣・・徳川治績年間記事 二代大徳院殿秀忠公
 ↑大久保彦左衛門↑新将軍秀忠公 ↑兼松又造      ↑真田大輔


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         豊臣秀頼と淀君の自刃の場所

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          豊 臣 秀 頼 像


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淀 君 像





保存保存

国史画帖『大和桜』58.浪速の華と散る 木村重成・・

 金城鉄壁を誇りし名城も、外堀は埋められたる以上、籠城もおぼつかないと、大阪城中より、真田幸村、後藤又兵衛基次、薄田兼相(すすきだかねすけ)、木村重成等の勇将智将豪将が打ち出でて道明寺(藤井寺市)、八尾、若江(東大阪市)等、処々に激戦奮闘大いに務め、徳川勢を散々蹴散らしたが、衆寡敵し難く(少数は多数に敵せず)遂に華々しき戦死を遂げた。
 
 その中にも知勇兼備の誉れ高かりし木村重成は、散々敵を追い散らし道明寺口に差し掛かりたる時、後藤基次に巡り合い、海内一と謳われし名城、大阪城も最早これまでと、悲痛の面で遥か伏し拝み、互いに潔き戦死を遂げんと約束し、そこで基次を見送った後井伊直孝の軍と戦い、二十三歳を一期として浪速の華と散った。
 
 重成は戦死を覚悟して断食したところ、重成の妻、尾花がその故を問えると、重成笑って「食物胃腸に入り二十四時を経て消化す、戦死に当たり身より穢物(おぶつ)出るは、武士の恥辱なり」
 尾花は夫の天晴れな覚悟を悟り、夫に心残りの無きようにと心事を書き遺し、年十八歳にして、その前夜見事な自害をして夫の出陣を励ました。
 
 重成の首実検をした家康、髪の中に加羅の香りが漂っているのを見て、その天晴れな用意を嘆賞した。
 げに日本武士の華であった。
 

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          木村長門守重成 最後の出陣の図
       ↑
木村重成                                ↑後藤又兵衛基次  

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    ↑荒川熊蔵  後藤又兵衛基次↑ 木村長門守重成↑ ↑真田幸村

 慶長十九年(1614年)九月十日夜の三更頃、
真田幸村、木村重成、後藤又兵衛基次は各々一千の兵を引きい、深田を前に陣を取り、各々松明を振り立てて藤堂高虎勢を十分に釣り、木村、後藤は「時はヨシ」と合図を定め五十目箇を世絶堂に切って数十間、幸村も是を合図として一町半進して、三度目の大箇を十枚計一時に切って放っては、藤堂勢六千が敗軍せりと云う。


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         道明寺周辺(大阪府藤井寺市)


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        江戸時代の若江風情(東大阪市)


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 若江の戦いで討ち死にした西軍の武将・木村重成の墓(彦根市)

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豊臣方として戦い敗れた木村重成の墓所である(八尾市幸町公園)


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 大坂平野(ひらの)合戦 真田幸村 地雷をもって関東の大軍を破る
         ↑真田大助    ↑後藤又兵衛基次↑海野信濃守↑真田左衛門尉幸村




国史画帖『大和桜』57.関ケ原に 後藤又兵衛 奮戦・・

天下統一を達成した豊臣政権の内部に於いては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役(三韓征伐)でも、前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、内政経済兵站(へいたん)宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。

東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、関ヶ原の戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。
(慶長三年(1598年)八月、
豊臣秀吉は伏見城で薨去)
 
慶長五年九月十五日(1600年)に、美濃国不破郡、関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として行われた野戦が「関ヶ原の戦い」である。
 
関ヶ原の戦いに徳川勢に加わり出陣した黒田長政石田三成の陣を切り崩すべく押し寄せたが、石田の郎党、渡辺新之亟等の勇将豪傑が固めて、容易に攻め崩せぬを眺めた長政は、自ら槍を引っ提げて渡辺新之亟に突っ掛かる『よき敵、御参なれ』と、互いに一上一下火花を散らし戦った。
 
 これを眺めた石田の郎党三十人余りが「それ敵の大将だ、討ち取れ」と、長政の左右より斬り込み、あわや討死の瀬戸際に、疾風のごとく駆け付けた荒武者、槍を持っては当代随一、長政自慢の後藤又兵衛基次瞬く間に十七騎を突き殺し、主君の危急を救った。
 
 すると新之亟「猪牙才(ちょこざい)千万、邪魔建て致す憎き奴、この槍先を受けてみよ」と突き出す穂先、実に稲妻の如く、互いに追いつ追われつ火花を散らしたが、遂に叶わずとみてか新之亟逃げ去り、この勢いに敵は忽ち総崩れとなり、遂に徳川の勝利の因をなした。
 
 この功により長政、筑前福岡五十二万石に封ぜられ、後藤又兵衛基次は筑前大隈三万五千石を長政より授けられたが、後に自ら浪人となり遂に大阪方に組みし、浪人組の大将として「夏の陣」に華々しき戦死を遂げた。


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           関ケ原に基次の奮戦
   
渡辺新之亟             ↑後藤又兵衛基次

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             『関ヶ原合戦屏風』


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          関ケ原合戦 東西軍の布陣

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      奮戦する大谷吉継隊・・・関ヶ原合戦

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           関ヶ原合戦・・島津勢

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             関ヶ原合戦

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      美濃霧中大合戦・・↑福島正則  ↑芳村政右衛門

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         美濃国 関ケ原大合戦

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           関ケ原大合戦之図


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          関ヶ原勇士 軍賞之図
↑福島丹波↑長尾隼人 ↑本多忠朝 ↑井伊直孝  ↑徳川家康公
           ↑小関石見







国史画帖『大和桜』56.鬼上官 加藤清正 兀良哈(オランカイ)城への奇襲・・

 清正軍は無人の境を行くが如く各地に転戦して、遠く咸鏡道会寧府に迫り、木村久蔵、井上大九郎、庄林隼人等一騎当千、鬼を酢漬けにして頭からかじるという豪傑五十余人を従えて城内へ押し寄せ、城主鞠景仁を始め国都より遁走して来た二王子を虜とした。
 
 更に北上して国境を超え隣国兀良哈(オランカイ=満州・延吉付近)をも一気に滅ぼさんと会寧の降将鞠景仁の手勢五百余騎を案内役とし、全軍を率い国都目指して旗鼓堂々進撃したが、城の壁塁高く堀は深く、後ろは深山峩々として聳え、その堅固なことは今まで攻め落とした朝鮮の城郭の比ではない。
 
 そこで清正は一策を按じ、下知して城の三方を囲み、大力の兵を選んで後ろの山へよじ登らせ、地を掘り崩して、大石を城内目がけて続けざまに転げ落としたから、何状たまるべき岩を砕き木を倒し、城の大門も櫓も微塵に砕け、天地鳴動して百雷が一時に落ちたかと思われ、周章狼狽、雪崩を打って逃げだすところを、待ち構えた鉄砲組の為、撃ち倒され、怯むところを鬨(とき)の声を挙げて攻め入り、縦横無尽に斬り敵を皆殺しにした。
 
 そして泣く子も黙ると云う鬼上官、加藤清正の尊称を得て、万里の異郷にまで勇名を轟かせた。

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   加藤清正・・大石を転がして 兀良哈(オランカイ)の堅城を破る


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           清正の三韓征伐図
  ↑加藤清正        ↑庄林早太↑志村政蔵↑阿川清右衛門

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            真柴大領 三韓退治
  ↑加藤清正       ↑斉藤伊豆入道立尊  ↑節頭司伯根


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            加 藤 清 正
オランカイに入って王子を虜とし、蔚山に籠りて、明の百万騎を抱える明人怖れて鬼将軍と唱えたり。



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         朝鮮半島に築城した日本式城郭(倭城)
西生浦(ソセンボ)倭城(蔚山市)、秀吉第一次朝鮮出兵(文禄の役)に際し「仕置きの城」として加藤清正が築城した。
朝鮮半島東岸に築かれた倭城の、最大規模を誇る最前線の城である。



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                西生浦倭城の城郭

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【朝鮮南部の主だった倭城】
安骨浦城、熊川城、熊川邑城、永登浦城、旧永邑城、加徳城、金海竹島城、順天城、泗川城、泗川邑城、機張城、林浪浦城、西生浦城、蔚山城、長門浦城、松真浦城、倭城洞城 



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文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱1592-98年)で日本側が朝鮮半島に築いた倭城の1つ、順天城(韓国・順天市)で行われていた石垣の復元工事がこのほど終了。


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← 熊川倭城石垣










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     官兵衛の嫡男で初代福岡藩主・黒田長政が築いた機張城・・・
釜山
(プサン)と蔚山(ウルサン)の中間に位置し、港を取り囲むように築かれた機張城が、豊臣軍の重要拠点だったことは容易に想像できる。

 

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            加 藤 清 正

征韓の功労空しく、却って嫌疑を蒙り閉居の身となり、無実の罪に陥らんとす・・・




国史画帖『大和桜』55.唐入りで 清正 の雷名、猛虎に及ぶ・・

秀吉は旭日昇天の勢いを以って国内を統一し、人材を登用して経綸を行ったので天下は安定した。
 
 国内の安定により、今度は明、朝鮮、遠くフィリピンまでも平定して我が属国としようとして、先ず朝鮮国王に明国征略の道案内を頼んだが、明王を恐れて拒絶して来たので、奏請して秀次に関白を譲り、太閤となって軍事を統括し、愈々征韓の議を諸大名に計った。
 
文禄元年1592年)肥前名護屋(佐賀県唐津市)に外征を記念として百万金を費やして城を築き、太閤自ら兵三万を従えて遠征軍を指揮した。
 
 即ち加藤清正、小西行長を先鋒として黒田、島津、小早川、毛利、浮田、浅野等十三万、九鬼、藤堂、加藤等水師九千は翌年1593四月軸櫓相含んで出陣した。
               
 既に日本軍來征の報伝わるや、加藤清正、小西行長の向かう処敵無く、無人の境を行くが如く破竹の勢いであった。
 
 当時は到る所に虎が群れを成して棲息していて、所々に出没して征韓の将士も往々その害を被り、朝鮮兵や明兵よりも、虎が我が軍を悩ました。
 
 咸鏡道(朝鮮半島東北部)に居た清正の軍でも馬数匹を餌食にされ、上月左膳という小姓が最初の犠牲となったので清正怒り、且つは頼朝の富士の巻狩りの故事に倣い、全軍の士気を旺盛鼓舞するため、度々大虎狩を開催して、各自獲物の数に応じて恩賞を与えたという。

 
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          加藤清正の虎退治の図



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           朝鮮征伐大評定ノ図

             ↑豊臣太閤秀吉
↑加藤嘉明↑加藤清正↑黒田長政   ↑小西行長↑毛利輝元↑徳川家康
↑島津義弘↑橘 宗重↑福島正則   ↑浮田秀家↑前田利家↑小早川隆景
↑藤堂高虎                       ↑石田三成



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          肥前 名護屋城(佐賀県唐津市)

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            肥前 名護屋城


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          攻め入る九鬼大型船


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          海峡を渡る加藤清正軍
      ↑加藤清正↑佐藤与左衛門↑和田備中守↑寺田甚内↑天野民部


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釜山鎮城攻略の様子で、左に密集しているのは上陸した日本の軍船


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  『文禄二年六月釜山海征韓水軍総督 九鬼大隅守舩柵之図』

真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

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           小早川秀明の中大型船

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             三韓征伐の図
    ↑大勇将軍     ↑加藤清正  ↑長林正道


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             三韓征伐の図


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            豊臣 三韓征伐の図
  ↑森本義太夫      ↑穆々子      ↑此田正後


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       朝鮮征伐石火矢図・・・加藤清正


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     清正は朝鮮半島を縦断、咸鏡道、会寧府を落とし
         更に女真国境を超えオランカイを攻めた。



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           加藤清正 虎狩の図


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          加藤清正 猛虎討取の図
            ↑加藤清正 ↑佐藤清兵衛↑飯田半兵衛↑志村愛蔵

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           加藤清正公 虎狩の図
↑西塔文平 ↑飯田角兵衛  ↑志村勝豊  ↑堀本理太夫 ↑加藤清正


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              小 西 行 長 


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         三韓征伐出陣の 加 藤 清 正


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             加 藤 清 正

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             加 藤 清 正





国史画帖『大和桜』54.小牧山にて両雄の力比べ・・

 明智を山崎に破り、織田の武将を賤ケ嶽に亡ぼした秀吉の威名は、ますます盛んになるにつれて、織田信雄おだのぶかつ)は愈々安心が出来ず、天正十二年(1584年)徳川家康の援けを得て兵を挙げ、家康は義戦の名目で出陣したが、事実は秀吉に自分の力量を示すべき示威挑戦であった。
 
 そこで股肱の臣本田、榊原、井伊等の三河武士、何れ劣らぬ一騎当千の粒選りを集め、東海一の名将と謳われた家康が総大将となり兵数一万八千、その勢い侮りがたく、秀吉家康が兵を挙げたと聞き自ら十二万の大軍を率い尾張楽田(犬山市楽田)に陣し、ここに名将智将の対陣となり、まさに山雨到らんとして風堂に満ち、両将本陣に在り、互いに旗幟の動きを見て、容易に大軍を動かさず双方睨み合っていたが、秀吉の武将池田信輝自ら、間道より岡崎の虚を突かんとしたが早くも覚られ、家康は自ら水野、榊原、井伊等を率い、密かに小牧山(小牧市)を出で、池田の軍を途中長久手(長久手市)に散々破った。
 
 この戦いに秀吉がこの大軍を挙げて攻め立てたら、流石の家康も敗北しただろうがそこは秀吉、いたずらに兵を損ずるよりはと和睦を相談すると、家康もその大度量に敬服し、実際はこの戦に自分の力量を十分示したので、渡りに舟と芽出度く和睦が成立した。
 
 これより家康秀吉に益々重んぜられる様になった。
 

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            小牧山合戦の秀吉

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   小牧長久手の戦い  羽柴陣営対織田信雄・徳川陣営

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            長久手合戦 屏風図

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         小牧山出陣・・秀吉敗走の図
 ↑羽柴秀吉           ↑榊原康政

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         小牧山に康政は秀吉を追う
   ↑羽柴秀吉           ↑榊原康政
 

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             二雄槍戦の図
  ↑紺田貞数      ↑加藤清正       ↑羽柴秀吉公

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            小牧山戦争の図      ↑羽柴秀吉
↑徳川家康 ↑本多忠勝    ↑加藤清正  ↑木村又蔵



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            小牧山大合戦
  ↑高木原秩父太夫 ↑小田切員元  ↑福島正則  ↑羽柴秀吉公

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 小牧山対陣の時、本多忠勝上方勢の真ん中に投入、徳川勢の雄偉を示す



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            楽 田 城 址


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           小牧山全景と小牧城

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             小 牧 城


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            長久手古戦場

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安昌寺の僧が長久手の戦いの戦死者を埋葬供養した首塚


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         長久手古戦場・池田恒典の塚

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           長久手合戦 慰霊碑







国史画帖『大和桜』53.役を果たし姉川に火花を散らす 木村又蔵 ・・

木村又蔵は宇多天皇の後裔佐々木の一族で幼少より力量有り、武勇優れ孝子を以ってその聞こえが高かった。
たまたま加藤清正秀吉の命を帯び領内巡閲の折り、認められて主従の約束をしたが、故郷の老婆の病気が昂じて、命旦夕に迫ったので已む無く後日を誓って一旦帰国していた。
 
ところが元亀元年1570年)四月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるや近江の浅井長政、佐々木承禎(ささきよしさだ)義景を援けて相反した。
 
そこで信長徳川家康に援けを請い、近江の姉川(長浜市)浅倉、浅井の両軍と合戦することになった。
 
この戦いを聞いた木村又蔵は、主君加藤清正の軍に加わるべく単身重鎧に身を包み、鍬形打った兜を被って今しも織田軍の陣を突き崩す浅倉勢の後ろを襲い、当たるを幸いと縦横無尽に斬りまくり、豪勇を以って鳴る浅倉方の宿将島田権右衛門を初めとし、幾多の勇将を討ち取って初見参の功を立て、清正の驥下(きか=俊才)に入り、主従の役を果たした木村又蔵正勝は後年清正四天王の一人として有名を轟かせた。


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               姉川の決闘
     ↑島田権右衛門   ↑木村又蔵          ↑加藤清正


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        織田・徳川軍・・・浅井・浅倉軍



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姉川古戦場

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現在の姉川、奥には伊吹山系が、写真の右奥が信長の本陣付近である。



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       姉川古戦場 戦死者の碑

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           姉川合戦の陣没者碑



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            姉川大合戦の図
   ↑笹井久蔵     ↑紺田平八郎       ↑真原直澄

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         姉川大合戦 志村愛蔵勇戦の図



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     遠藤喜右衛門政忠(浅井家々臣)の姉川の戦い

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              浅井長政




 

国史画帖『大和桜』52.賤ケ嶽に 加藤虎之助、将監の組討ち・・


 賤ケ嶽(しずがだけ=滋賀県)に於いて「加藤虎之助一番槍」と名乗り、片鎌の大身の槍を引っ提げ、群がる敵の真っ只中に、当たるを敵と突きまくり、討たれる者数知れず、虎之助敵の首級を藤蔓に括り付け敵将を物色中、清水口にて敵の猛将山口将監(やまぐちしょうげん)を見つけ出し敵としては不足無し「将監イザ参れ」と槍を捻って繰り出せば、将監もさるもの互いに虚々実々の秘術を尽くしたが勝敗決せず、豪気な虎之助エィ面倒なりと槍を討ち捨て、将監に組付き互いに揉みあう中、虎之助の兜がつつじの大株に引っかかり、あわや将監逃げんとしたが、虎之助首が斬れるか、兜が取れるか運は試しと逃げる将監に組付けば、さしもの兜の緒が切れ、組付きながら谷間に上になり下になりつつ落ち、尚も必死の組討ちに虎之助の力勝りけん、遂に将監の首を掻き落とし功名を挙げた。

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       賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘


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       賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘


    
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      賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘
  ↑福島石松  ↑羽伊宮小左ヱ門 ↑加藤清正
                  ↑山口将監


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      賤ケ嶽に於ける加藤虎之助清正と山口将監の決闘
  ↑加藤孫六    ↑浅井則政        ↑加藤虎之助
                        ↑山口将監

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            滋賀県 木之本町


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             加藤清正像


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           賤ケ嶽大合戦の図
 ↑荒星太郎平 ↑小城下野 ↑加藤清正↑加藤清兵衛
↑堀本義太夫           ↑長林隼人 ↑木村正又蔵
                 ↑井上大九郎↑飯田宅兵衛

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         賤ケ嶽大合戦 両雄血戦の図
          ↑毛受惣助家照      ↑志名左近朝行

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                        賤ケ嶽・・佐久間盛政  秀吉を襲う


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             賤ケ嶽の戦い
        ↑片桐助作  ↑小原新七 ↑平野権平   
  ↑糟屋助右衛門            ↑安彦弥五右衛門




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