泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ○戦時徴用貨客船の最期絵図


 絶海の真っ只中で、病院船「ぶえのすあいれす丸」撃沈直後の波のうねりに翻弄される傷病兵、看護婦、乗組員そしていかだや救命艇に浮遊物・・・
 
 ああ、この光景を父親・泰山も目の当りに見ていたのです。
 絶望に瀕していた中で、戦友や乗組員そして看護婦さんたちの協力を得ながら、互いに助け合ったのでしょう。

 
 中には敵機からの機銃掃射や漂流に力尽きて、大勢の方が海の藻屑となって、沈んでしまわれたことでしょう。
 見る者にとっては、無意識に手が合わされ、先人の無念と辛苦を労い、祈ってしまう絵画ですね。


●2・・ぶえのすあいれす丸沈没後のドキュメント・・

 病院船「ぶえのすあいれす丸」は昭和18年11月27日朝、米B24の急襲を受け被弾、40分ほどで轟沈した。
 本船から流れ出た重油で黒い海原に、無数の人間が投げ出されもがきながら助けを求めていた。
 沈没するまでに時間があったので、18隻の救命ボートが下ろされ、乗組み船員は懸命に救助作業を続けた。
 だが潮の流れは思いのほか速く、海中の人はどんどん流されて行く。
 重油を飲んで声が出なくなった看護婦さんが、ボートを目の前にして、差し上げた手をヒラヒラさせながら海中へ消えていった。
 定員50名程度の救命ボートはどれも、定員の3倍くらい乗せていて、人の重さで今にも沈みそうだった。
 これ以上、海中の人を拾い上げても、乗せるすきもない。
 船員達はそれを見ると、必要なこぎ手だけ残して、黙ってボートから飛び降り、海中に居る人の為に席を譲ってやり、自分は近くを流れている漂流用いかだに向かって泳いでいった。
 いかだは畳4枚分くらいの小さなもので、かいも舵もなく、食料も水もない。
 安定が悪く、45人も乗るとすぐに傾くので、いかだの廻りに取り付けられたロープに掴まって、ともかく救助船の来るのを待つしかなかった。
 遭難現場に救助船が現れるのは、それから1週間あとである。
 その間に敵機のお見舞いは3回もあり、ボートといかだを銃撃していった。
 その度に死傷者が増えていった。

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定員過剰の救命ボートから、傷病兵等に席を譲って、海中に飛び込もうとする
「ぶえのすあいれす丸」乗組員


 
 漂流して4日目から海がシケ始めた。
 それまではなんとかまとまって行動していたボートも、いかだも、ちりぢりになり、大海の木の葉となって、おきまりの漂流地獄をさまよわなければならなかった。
 
 大久保画伯が、以上のような「ぶえのすあいれす丸」の遭難の模様を聞いたのは、年が変わって(1944)昭和192月になってからであった。
 会社へ遭難報告に来たのは船長と二等航海士で、大久保は二人から話を聞かせてもらった。
 
 がっちりした体格の片山二等航海士は、4人の仲間といかだで漂流した時の様子を、身振りを交えて語ってくれた。
 「仲間の一人は足を負傷していて、出血が止まらない。もう一人は体力が消耗していたので、二人をいかだの上に乗せ、僕らはいかだのロープに掴まっていたのです。食うものは無し、喉はかわいてヒリヒリするし、時々敵の飛行機がやってくる・・・。ところが、敵は頭の上だけじゃなかったのですよ。もっと恐ろしい奴が、いかだの廻りに集まってきて・・・」
 大久保はスケッチブックにメモしていた鉛筆を握りなおした。

 ぶえのすあいれす丸の受難と乗組員の苦闘を題材にして、大久保は4点描いた。
 その内の1枚は、漂流中にサメに襲われ、必死に闘う片山二等航海士と乗組員の姿を記録していた。
 画面には水平線も空もない。
 キャンバス一面、青みどりの海の色で塗りこめられ、画面の中央に波に洗われた、小さないかだが漂っている・・・大胆な構図である。
 いかだの上には5人の男がおり、その周りに巨大なサメの群れが、旅人を襲う荒野のおおかみのように跳ね回っている。
 銃撃を受けて負傷した仲間の、血の匂いで集まった人食いザメだ。
 ぐらぐらするいかだから海中へ滑り落ちた仲間を、別の男が懸命にひっぱり上げている。
 サメと対峙して疲れ果てたのか、四つんばいになってあえいでいる男がいる。
 後の二人が折れたかいの柄で、周りをうろつくサメと闘っている。
 半ズボン1枚の裸で、いかだの上で仁王のように立っているのが片山航海士で、振り上げたかいの柄に渾身の力をこめ、海のギャングに一撃を喰らわそうとしている。
 絶望的な状況に置かれても、生き延びるための努力を決して諦めない、海の男の典型的な姿が描かれている。   (この解説は【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

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           不安定な筏の上で、鮫と闘う漂流中の片山二等航海士
 

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           いかだで漂流する乗組員を、救助する救命ボート
 

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父が、帰還した広島江波陸軍病院で、生還した戦友らと19年正月に写した写真です。  直後善通寺陸軍病院へ移送され・・昭和19年1月30日 マラリア病状急変して戦病死。

上の写真のみが➀により祖母のもとに送られてきて、初めて「泰山がラバウルから帰還している事を知った」祖母は、差出人の梅川利夫氏に「ラバウルに居た泰山に何が有ったのか?今、何処にいるのか?」を問い合わせたが「宛先人不在
②③」で返却されてきた。
梅川利夫氏は中央の人物と推察出来るが、恐らくマラリアの犠牲に成られたものと思われる。
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               広島陸軍病院江波分院. (昭和20年7月)


参考 ↓

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html



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病院船転向頃の

ぶえのすあいれす丸





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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
    (上田穀八郎・画)




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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
(香港にて実写)
http://www.sugibun.net/heiwatokusyu.htmより引用




●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

 {爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}・・つづき

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・中略・・・
 ボートには一隻に140人か150人くらい乗っていたと思うが、そのうち看護婦は11人いた。
・・・中略・・・

 11月27日・・・19時頃、爆音が聞こえた。
 友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリー(双発飛行艇)の音だ。


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←(コンソリデーテッド機・・・
私の記憶では、気だるい飛行音)





 いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。

 海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。
 夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。
 恐ろしく、悲しい、長い夜だった。
 こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。

 ・・・中略・・・

 午前8時ころか、また爆音が聞こえた。
 敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。
 「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。
 毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、あるいは救助船爆撃の目的か。
 多い日はニ、三回偵察に来た。

 ・・・中略・・・

 また爆音がして雲間からコンソリー機(双発飛行艇)が遭難ボート頭上を低く飛び、ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす
 悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。

 艦長以下全員海に飛び込む。
 それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、ボートにも五、六発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。

 大きな機体は頭上30メートルほど上にある。機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、笑っている顔まではっきりと見えるではないか。
 超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。

 私は救命胴衣を頭に載せ、船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
 コンソリー機は二回“旅回り”して再び向ってきた。
 今度こそ駄目だと目を閉じた。
 今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。
 恐怖で生きた心地もしない。

 私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。

 そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。
 嬉し涙が頬をつたって流れた。
 待ちに待ったスコールだった。
 「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。


 以上は従軍看護婦・原田初枝婦長の手記から引用しました↓
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28


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昭和18年12月20日の新聞記事・
     【悲運の犠牲174名、漂流の傷病者を銃撃、晴天白昼の蛮行】



●9月20日に[ プラム ]さんから「ぶえのすあいれす丸救助作業」に付いて、下記コメントを戴きました。

顔アイコン顔アイコン顔アイコン顔アイコン とても詳しい内容ですね。
 別の視点からですが・・・【私の祖父の同船救助作業の模様】です。
 
 「特設駆潜艇第三利丸」の船長として12月1日朝、ニューイングランド島南方沖合に別の輸送船の救助に向かっていたが、カビエンからステファン水道を通って島の南に出掛った辺りで、右航前方近距離に一隻の白塗りのボートを発見した。
 それが病院船の備え付けの救助艇である事は一目で解ったが、病院船遭難の電報はキャッチしておらず、この事件は知る由も無かった。
 
 艇員を収容して初めて解ったが、五日前にやられて生存者がボートで漂流中、被爆の際無線機が故障して通信不能となったので、船長は頑強な者を集め、決死隊を作り近くの島に向かって3日と15時間、必死に力漕ぎを続けたという。
 
 12月2日、カビエン基地で救助した30名のボート艇員を降し、食料、燃料、水などを補給の上、更に遭難現場へ急行した。
 夜明けと共に、遥か水平線に帆を上げたボート2~3隻を発見できた。
 南方の夜明けは早い、海面も全く静か、案の定次々にボートが見え始めたので、私の駆潜艇を中央に、二隻の海上トラックを左右に、扇型で手近なところから収容を開始した。
 八時過ぎ、見張員から報告「左方向に敵機の爆音」。
 デッキには今迄の収容患者でほぼいっぱい。
 近くの雲下に姿を隠し、爆音が去ってから救助を再開した。

2010/9/20(月) 午前 0:40 [ プラム ]

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救助船見ゆ
















●3月30日、河野修興さんより下記コメントを戴きました。

【軍医として乗船中だった父親からの話】

小生(昭和27年生まれ、内科医)の父、河野正実(平成14年8月没)は広島の部隊の陸軍軍医少尉として、ブエノスアイレス丸に搭乗していました。

 5日目までスコールがボートや筏のところに降雨しなかったために、飲み水が無かったそうです。
 筏は臍のあたりまで水につかった状態だったようです。
 マラリア患者が多く、高熱のため精神錯乱に陥り、ボートとボート、筏の間を泳ぎまわり、疲れ切って、いつの間にやら波間に消えていった傷病兵も多かったようです。
 撃沈後6日目に米機の機銃掃射を受けたそうですが、その時幸いにも恵みのスコールが降り、父の乗ったボートは助かったと言ってました。
 その翌日、日本軍艦艇に救助されたそうです。

 広島の戦友会には、元兵隊のお世話で招待され、いつも出席していました。

 父・河野正実は広島出身で、実家は古い神官で江戸末期から医師も兼ねていました。
 父も小生も医師であり神官でもあります。
 ブエノスアイレス丸沈没後、自宅静養後、南方へ出征、ハルマヘラ島で終戦を迎え、昭和21年夏に復員しました。

 昭和22年から、無医地区でもあった愛媛県の興居島、田の筋、八幡浜の真網代の3ヶ所で診療し、昭和37年から松山市三津浜で開業しました。
 小生は八幡浜生まれ、愛光学園出身の内科医です。

2011/3/30(水)午後2:55 [河野修興]

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河野修興先生はコメント時、広島大学病院医師としてご在籍でしたが、現在は広島都市学園大学々長をされております。↓
https://www.hcu.ac.jp/guide/gakucho.html




●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・




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 私の父親・泰山がラバウル従軍中にマラリアに感染し、病院船「ぶえのすあいれす丸」で内地へ帰途の2日目、B-24の空爆で撃沈され漂流の末に救助・・・昭和19年正月には広島江波陸軍病院へ帰還、数日後、善通寺陸軍病院(香川県)に収容されていたのです。


漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaze2534/diary/?PageId=1&ctgy=0・・から引用した記事】↓ 

●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』

 
 ところが、私の2/18の下記記事・・・

第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html

・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。

 拝見してゆくうちに、作者大久保画伯の力量もさることながら、辛苦の末に帰還、ご協力された多くの船舶関連者の事を想い、先人の崇高な精神に、止め処なく泣けてきて手を合わせていました。

・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。

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        ↑ 船尾付近に被爆した「ぶえのすあいれす丸」


 大阪商船(大阪商船三井船舶)の嘱託画家・大久保一郎は「戦時輸送船の最期」という貴重な記録画の連作を残して、その絵が昭和57年、大阪市中之島の大阪ビル(通称大ビル)地下倉庫で発見されたのだが、その6年前(1976)に84歳でこの世を去っていた。
 亡くなる前に、大久保は次のようなことを文章に残している。
 「陸軍や海軍の御用船(軍部に徴用された商船のこと)になった社船が、敵に撃沈されますと、その生き残りの船員たちから、同社船の遭難の状況を克明に聞きとり、それを忠実に絵に描いたわけです。 かれこれ80枚くらい描きました」
 これらの絵は画家の想像で描いたものではなく、生き残った乗組員の体験と報告に基づいた、忠実な記録でした。
発見されたのは37枚だったが、実際は80枚余りもの作品を描いていたのだ。
では、残りの40枚以上の絵はどこへ消えてしまったのだろう。
 
戦時中の従軍画家となって軍部に協力し、国民の戦意を奮い立たせる目的で、勇壮な戦争画を描いた画家は大勢居ましたが、大久保の絵は「悲惨な海上輸送戦における、敗北の記録画」である。
 岡田社長の指示とは云え、憲兵隊や警察の目が厳しかった戦時中に、日本軍の負けいくさの真相を書き残すということは国賊もので、余程の覚悟か、特別の目的がなければむつかしいことだった。
 味方の輸送船や戦艦が敵に撃沈されても、軍の作戦上の秘密として、一切発表されない時代、輸送船の海の悲劇(戦争海難計2,394隻)など、多くの国民には何も知らされていなかった。
(この解説は【画集・戦時徴用船の最期】と【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

 
●1・・「ぶえのすあいれす丸」沈没時のドキュメント・・
 陸軍の徴用船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は戦時病院船として任務に就いていた。
 真っ白に塗った船体の横腹と、煙突に赤十字のマークがくっきりと書かれ、空からも判るように甲板にも、一辺の長さが36メートルもある赤十字マークが書かれていた。
 それは8千メートルの高空からでも識別できる大きさだった。
 病院船は赤十字国際条約によって、海上における中立国とみなされる。
 したがって交戦国は、その船の安全を保障し、攻撃してはならないことになっている。
 とはいっても、中には病院船を装いながら、元気な兵隊に白衣を着せて乗せたり、軍需物資をこっそり輸送させたりする指揮官もいたから、相手国としては監視を怠るわけにはゆかない。
 
 「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)は、昭和181126日ラバウル及びココポで運送患者1,129名、便乗者63名を乗せてパラオに向かった。
 国際条約に違反するものは何も積んでいなかった。
 だから乗船負傷兵も乗組員も、赤十字マークを信頼し、安心して祖国への航路を急いでいたのである。
 1127日、朝から快晴で風もなく、波もたたず、海は青いペンキを塗ったように輝き、船べりに砕ける波だけが白かった。
 朝食後の甲板では、白衣の傷病兵たちが看護婦に付き添われて、散歩したり、船べりにもたれて歌を歌ったりしていた。
 
 乗組員の見張りを各所に配置し、厳重警戒航行中のところ、午前810分頃、南緯240分、東経14920分の地点に於いて、米空軍の爆撃機B241機雲間から現れた。
 高度は約1,200メートル、眼下の白い船の甲板に書かれた赤十字のマークは、もちろん見えすぎるくらいよく見える高度だ。

 敵機は爆弾を投下し始めた、。
 投下された爆弾の一発が後部左舷側に吊り出した端艇を貫通し、第4、第5番艙隔壁付近の舷外付近で、轟音と共に炸裂し、船体に大破裂口を生じた。
 この為、海水はシャフトトンネルを通じて、舵機室及び機関室に侵入し、乗組員は極力排水に務めたが、浸水は急速に進み危険状態になったため、同817分船長は病院船医長に乗艇用意を通告した。
 患者達は殆んど救命艇に移乗し避難したが、その後も左舷への傾斜が激しくなり、850分同船はついに船尾より沈没していった。
 戦場には国際条約も人道主義もない。あるのはただ暴力と野蛮な殺し合いだけである。


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         ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸

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    ↑ 沈み行く・・・ぶえのすあいれす丸      橋本睦郎 画

 
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↑ぶえのすあいれす丸はラバウル出航2日目、チンウォン島沖の×印に於いて轟沈す
 

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ぶえのすあいれす丸沈没時実写々真?  船首を上げて沈みゆく船と救命ボート

 

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        ↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事


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【ぶえのすあいれす丸撃沈事件  1943(昭和18)年11月27日 】


●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}

 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・

 ラバウルを出港して2日目の
昭和18年11月27日のことです。
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・中略・・・

 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。

 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。

・・・中略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・中略・・・

 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・   (つづく・・・)

【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より

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ケープタウン停泊中の「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)(1935年頃)

(((ブエノス
大阪商船「ぶえのすあいれす丸」(9,626総トン)


「ぶえのすあいれす丸」の航海記録 
http://www.combinedfleet.com/Buenos_t.htm より米側記録

1943817日:

ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。

1943
818日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。

1943
819日:ラバウルを出発。

1943
829日:マニラに到着。

1943
830日:マニラを出港します。

1943
95日:門司に到着。

1943
910日:宇品を出港。

1943
920日:ラバウルに到着。

19431011日:ラバウルを出発

1943
1021日:宇品に到着。

1943
1115日:宇品を出発して神戸へ。

1943
1122日:ニューブリテンのラバウルに到着。


19431126日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]

1943
1127日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 0830分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 0850分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]

1943
123日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]

19431215日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]




【参照】↓

●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html 

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

第33話の⑥・・父の部隊が満州からラバウルへ移動したルート・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/14820913.html

第33話の⑤・・ラバウルって、こんなとこだった・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11347692.html 

第33話の④・・南方戦線からのはがき・・ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11271003.html

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33226918.html

第33話の①・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8750541.html

第33話の②・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8758122.html



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 陸軍徴用船「瑞穂丸」(8,506総トン)は、昭和19年8月21日宇品港を出発、門司に回航して17隻の輸送船と5隻の護衛艦で船団を組んで高雄に向かった。
 途中、船団の再編成などがあり、予定を変更して9月3日基隆に寄港、同16日高雄に入港した。
 そして同18日、兵員5,100余名、軍需品などを積み、再び船団を組んで高雄を出港、マニラに向かったが、9月21日、前夜から降り続いた雨は止み、薄暗い雲間から微かな日差しが漏れていました。


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 このまま行けば、夕方にはラポッグに辿り着けるとの期待を胸に秘めながら、警戒隊員と船員は充血した眼で見張を続けていました。船団上空には磁気探知機つき飛行艇など10余機が警戒していました。

 21日午前7時頃、上空の1機が淡路丸(1948総トン、日本郵船、600名乗船)右舷前方に急降下して標識弾を投下、敵潜位置を知らせたが、永萬丸からの視認では、この瞬間、海面がぼこっと盛り上がり、3本の魚雷が黒褐色の胴体を浮き上がらせ、飛沫を上げながら突進してきたとの事でした。

  7時45分、先ず最後尾の淡路丸が敵潜水艦ピクーダの一撃で轟沈、先頭を進んでいた瑞穂丸は、敵潜水艦レッドフィッシュの攻撃の的になりました。
 21日8時35分、瑞穂丸見張員は右舷真横千メートルに3条の雷跡を発見、船長は直ちに面舵一杯、右舷機全速後進を命じたが、時すでに遅く、機関室と2番艙及び3~4番艙の中間に命中爆発しました。このとき中平勝治司厨手は5千余名の将兵に供する朝食の指図をしていたが、突然、ドスンという強烈な衝撃で
「あ、やられたな!」と感じ、救命胴衣を取りに部屋に走ったが、デッキの兵士達は右往左往していました。

 
  北緯18度37分、東経130度41分の地点で、右舷に傾斜しつつ後部より沈下、5分後に沈没した。
 報告書末尾に次の記述が残されています。
「本船沈没必至ナルヲ確認スルヤ、操舵手助手トシテ船橋ニアリタル甲板員・山本岩雄ハ1等運転士・岩崎利雄ノ命ヲ受ケ、直チニ海図室ヨリ真新シキ大国旗ヲ取リ出シ之ヲ前檣頭高ク掲揚ノノチ沈没寸前降下セリ。之ヲ目撃セル各船ハ瑞穂丸最後ヲ飾ル実ニ悲壮ナル光景ナリシト賞賛セリ」・・・しかし、岩崎運転士はこの直後に殉職しました。


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沈没寸前に日の丸を揚げる瑞穂丸

  幸いにも遭難したのが日中であり穏やかな海上だったため、乗船部隊5,179名のうち4分の3(3,899名)が救助されたが、船員は機関長以下35名が戦死した。

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 徴用されていなかった台湾航路の花形、大阪商船の豪華客船「高千穂丸」(8,154総トン)は、昭和18年3月14日乗客913名、乗組員176名及び雑貨2,600余トンを積んで神戸を出港、門司経由で基隆(キールン)に向かった。


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 基隆を目前にして、3月19日午前9時35分、北緯26度5分、東経122度30分の地点で、乗客及び乗組員が、端艇訓練中、右舷後方45度に魚雷跡2本を発見、直ちに転舵して、1本は交わしたが、他の1弾が右舷推進器付近に命中、大爆発が起こった。
 更にもう1弾が4番船艙右舷側に命中、大爆発と共に艙内積荷が空中高く飛散し、船体は左舷に急傾斜しつつ船尾より急速に沈下し始め、同9時39分、初弾命中からわずか4分で同船は沈没したため救命ボートも3艇しか降下できなかった。高千穂丸は乗客乗員844名を乗せたまま沈没。脱出した245名はボートに分乗し、アジンコート(彭佳嶼)にたどり着いて救助された。

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基隆港外で魚雷攻撃を受け、沈没する「高千穂丸」

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 鴨緑丸(7,363総トン)は昭和19年11月25日、ヒ83船団10隻で門司発、駆逐艦・神風、夕月など8隻に護衛された船団には特設空母・海鷹(元大阪商船:あるぜんちな丸)も加わっていました。
 30日に高雄に着いた船団はここで二手に別れ、鴨緑丸など輸送船4隻には満州駐屯の第10、第23師団の歩兵各1個連隊が分乗、船団は高速で迂回航行をしながら、マニラに12月11日無事到着して部隊を揚陸しました。

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             鴨緑丸

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鴨緑丸


 その後、鴨緑丸のみが単独帰還命令を受けたが、当時は特攻機が連日出撃する極度に緊迫化した状況下にあり、本船が最後の引揚船ということで、多数の在留邦人が殺到しました。引揚邦人、遭難船員、捕虜(約1600名)など3500余名を乗せて、12月13日18時10分マニラ岸壁を出航したが、その日は港外錨地に仮泊しました。翌日4時40分抜錨、駆逐艦・桃、第60号駆潜艇に護衛されて北上、高雄に向かいました。
 この頃、本船は海軍砲1門、7センチ高射砲2門、25ミリと13ミリ機関砲各6基という重武装が施されていました。
 出航4時間後に米第38機動部隊艦載機(TBF雷撃機)が飛来、その猛襲が15日まで継続、TBFは6機乃至13機編隊で銃爆撃を繰返したが、14日は11波で延べ118機、15日は12波延べ170機が来襲しました。
 鴨緑丸がナポ岬南方4~5マイルに差し掛かったとき敵機が猛然と来襲、陸軍船砲隊と海軍警戒隊は直ちに15門の銃砲で火蓋を切り、敵機が横に並んで機銃掃射しながら上空を通過すると、銃砲隊員はバタバタと斃れたが、すぐ別の隊員が代わって銃座に付き、次の敵掃射で隊員が撃たれると、また別の隊員が代わって射撃するという壮絶なシーンが終日続きました。


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昭和19年12月15日、沈没前に戦う「鴨緑丸」船舶砲兵



 この間、矢嶋幹三船長は巧妙な操作で避航したが、前田俊事務員によれば、船内の雰囲気は冷静で、甲板員や手の空いた者は警戒隊員への弾薬補給に駆け回っていた由で、また、須谷千代松司厨員は捕虜護衛で乗船中の高砂義勇隊員(台湾出身兵)たちが、弾雨の下で勇敢に行動している姿に感銘を受けた、と語っています。

 以上における交戦で鴨緑丸は敵機13機を撃墜、6機を撃破する大戦果を挙げたが、爆弾は避けられず、計7回もの被弾で火災が発生、乗組員、護衛兵あるいは捕虜までが一致協力して消火する中、浸水は徐々に増しました。

 また、マニラでの補炭時、石炭庫内で繰り炭の暇が無いまま出航したため、船は最初から左舷に傾いていたが、これに浸水が加わり傾斜が15度になったため、最寄のオロンガポ港沖に投錨、夜間に乗じ翌15日夜明けまでに婦女子や負傷者などの陸揚げに成功した。
このとき、小西金積3等機関士や小野安治機関員は飽くまで一時離船のつもりであったため、ボイラは埋め火にして離船したが、陸上から乗組員たちが見守る中、かつての大連航路の花形客船は敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、遂に12月15日16時15分猛火に包まれながら遂に沈没した。



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海岸にたどり着き 擱座炎上する本船を振り返る乗組員たち

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擱座した「鴨緑丸」は、敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、
猛火に包まれながら遂に沈没した。(米軍撮影資料)
1944・12鴨緑丸2

1944・12鴨緑丸1


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  日本郵船「富士丸」を救助する「鴨緑丸」乗組員


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 陸軍徴用船「龍興丸」(2,692総トン、大阪商船)は、昭和19年1月14日、護衛艦1隻とともに、シンガポールを出港し、アンダマン島ポートブレアーに向かった。
 
 之字運動を実施して航行中、翌日15日3時29分、北緯10度50分、東経93度00分(小アンダマン島東方約26マイル)の地点で、船尾第4番艪左舷側に、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
 爆発と共に浸水はなはだしく、沈没は免れない状況となったため、直ちに総員退船、3時34分、同船は船尾より沈下、船体を直立させながら沈没した。戦死者計9名
 
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 雷撃により、火柱を上げる本船

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大阪商船・・龍興丸



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機密書類を守る「龍興丸」の吉田事務長。
書類を抱えたまま船体と共に沈んだ同事務長は、その後奇跡的に浮上し救助された。
 

 海軍徴用船「護国丸」(10,439総トン)は、 昭和19年(1944)9月16日海南島を出帆、他の輸送船2隻と共に門司に帰る途中の20日、馬公付近で中国内陸基地発進の米機B-25の空襲を受け、4番艙左舷と左舷プロペラを損傷、右舷機のみの11ノットで高雄、基隆に寄港、基隆で仮修理の後、駆逐艦「響」に伴われて11月7日出航して11ノットで北上しました。

 そのうち「響」に赤痢患者が多数発生して護衛任務が遂行不能となり、佐世保に先航したため護国丸のみの航海となり、古志岐島灯台沖を航行中の11月10日3時40分、魚雷2本が機関室と2~3番艙に命中、大音響で炸裂しました。
本船は忽ち30度左傾、発電機、無線機が破壊されて船内は暗黒、遭難信号も打てない状態になりました。

立ち往生する護国丸の孤影を見て、大胆になった米潜水艦「ハーブ」が、3時55分、突然、右舷前方に司令塔を現しました。
船砲隊が傾いたデッキから射撃に移ると、潜水艦は直ちに姿を消したが、数分後、深手を負った船に真横から狙いを定めた魚雷1本が4番艙に打ち込まれました。

輸送指揮官・水野孝吉大佐は全員に「天皇陛下万歳」を奉唱させて退船を命じ、
乗組員は舷側より暗夜の海中へ飛び込んだ。
 4時06分、護国丸は船首を直立させて暁闇の東シナ海(北緯33度31分、東経129度19分)に海没しました。
輸送指揮官以下の兵
員47名、台湾からの特別志願兵など217名、及び乗組員60名が戦死しました。
 
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魚雷攻撃を受け水柱をあげる「護国丸」
 
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 前後部に銃座が増設されている。               迷彩色を施された護国丸の遠望。
 
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  在りし日の護国丸
 

 陸軍徴用船「ありぞな丸」ソロモン海での最期・・・
 
 陸軍徴用船「ありぞな丸」(9,684総トン)は、昭和17年11月12日兵員、弾薬、糧秣などを積み、輸送船11隻、護衛艦11隻と船団を組んで、ショートランド泊地からカダルカナル島のエスペランス泊地に向かった。
 翌13日護衛艦の指示により、いったんショートランド泊地に戻り、翌日再び同地を出発、目的地へ向かった。
 
 しかし翌14日午前5時40分頃、敵機に発見され、空爆を巧みに回避しながら航行を続けていたが、同日午後1時44分、ラッセル島の北北西22マイル、南緯8度45分、東経159度0分の地点で、右舷右手から敵戦闘機4機の急降下爆撃を受け、右舷機関室に致命的な損傷を受けた。
 間もなく浸水の為、主機運転不能におちいり、沈没の恐れが出てきたため、船長は同2時52分、総員退船を命じた。
 同船はその後、積載爆薬や高射砲弾に誘爆、全船猛火に包まれ炎上した。
 
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大破した本船より脱出する「ありぞな丸」乗組員
 
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OSK Line [ありぞな丸]
 
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[ありぞな丸]
 
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ニューギニア東方海上、ソロモン諸島
 

 陸軍徴用船「ぼるねお丸」キスカ島での最期・・

 陸軍徴用船「ぼるねお丸」(5,864総トン)は、昭和17年9月27日小樽港で、兵員276名、兵器、弾薬、糧秣など2,100トンを積んで、単独キスカ島へ向け出港した。
 
宗谷海峡からベーリング海に出て、敵潜水艦に対し厳重な警戒を持って航行を続けていたが、10月5日午前10時25分、北緯53度40分、東経176度15分の地点で、第1回の敵機の爆撃を受けた。
 この爆撃で第3、第4船倉に浸水を生じたが、極力排水に務め、翌日6日午前4時50分、キスカ港に入港、続いて同日午後1時55分七タ港に回航して、徹夜で兵器、弾薬、油類の揚陸を完了した。
 
 しかし翌日7日午前10時、第2回目の敵機の来襲を受け、船体の損傷はなはだしく、大発2隻に曳航させて、港湾近くに擱座させた。
 その後も連日の様に、敵機の来襲が続く中を揚陸作業を続けていたが、10月16日午前4時45分、敵機が投下した魚雷の爆発により、船内に爆発が発生、更に対空砲火によって撃墜されたB-26が4番ハッチ上に落下し、ガソリン放出で瞬時に火炎に包まれ、船体放棄のやむなきに至った。
 
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空爆により炎上する「ぼるねお丸」
昭和17年10月16日、アリューシャン列島キスカ島、七夕港にて空爆により炎上。

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大阪商船 ぼるねお丸
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 大阪商船 「関西丸」(8,614総トン)は、昭和1512月の神戸発の航海を最後にニューヨーク航路から撤退し昭和169月に陸軍に徴用される。
 1112日高雄を経由して、マレー半島に上陸する第25軍団第5師団を乗せ、浅香山丸(三井船舶)と共に駆潜艇初鷹の護衛で123日海南島三亜港を出港し、127日タイ湾フコク島南方に集結して第21連隊を乗せて12月8日シンゴラ揚陸。

 1212日高雄に帰航して航空資材と部隊を搭載し、駆逐艦吹雪の護衛で昭和17127日クヮンタン、南武、エンドウに揚陸し、29日宇品に帰航。
 4月にサイゴン、5月にスラバヤを経て520日門司に帰航し、6月にマニラ往復、7月にシンガポール、8月にバタビアを廻り門司に帰航。
 12月から門司~釜山間を13往復し、昭和18673隻の船団で宇品を出港しシンガポールへ。
 84日パラオ発のフ407船団4隻で宇品に11日帰着。
 23日宇品発のオ603船団に加わり佐伯を出港、91日パラオに到着し、ラバウルへ。

 ラバウルからオ602船団を構成し38号駆逐艇の護衛でパラオに向かうが、918日ニューギニアの北、アドミラルティ諸島北方の北緯01度03分、東経146度27分で米潜ScampSS-277)の雷撃を受け航行不能となり、放棄され同潜水艦により止どめが刺された。
 敵潜水艦は急浮上後、浮遊する救命艇に向かって機銃を浴びせながら逃走した。

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船尾を上げて沈み行く「関西丸」と、潜水艦に砲火を浴びせる砲兵
昭和18年9月18日、ニューギニア方面、アドミラルティ諸島北方約700マイルの地点で雷撃により沈没

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沈みゆく本船に別れを告げる「関西丸」乗組員
 
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   漂流中、敵潜水艦の銃撃を受ける「関西丸」乗組員。
関西丸を魚雷で葬った敵潜水艦は、その後、急浮上してきて、救命ボートで漂流中の人々に機関銃の乱射を浴びせていた。
潜水艦の米兵達は甲板にずらっと並んで、逃げ場のないボートの中で、慌てふためく日本船員を、ゲームを楽しむように見物していたという。
 
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 海軍徴用船「北陸丸」(8,360総トン)は、昭和17年5月28日、第11、第12設営隊を乗せサイパンから13隻の船団でミッドウエーに向かうが6月13日トラック島に帰着。
 ガダルカナル島飛行場設営隊を輸送し、その後はシンガポール航路に廻された。
 昭和19311日にビンタン、シンガポールでボーキサイト6,700t、重油6,000t便乗者256名を乗せ11隻編成のヒ48船団で門司へ向けシンガポールを出港。

 海防艦三宅、占守、壱岐、択捉に護衛され15~16日に仏印パンファン湾に停泊し、翌日出港後に米潜に探知され、闇夜の中13ノットでカムラン湾からホンコーへ航行中の18114分、南シナ海、北緯19度24分、東経116度50分の地点において、米潜水艦Lapon(SS-260)の雷撃を受け、見張員が左舷後方からの魚雷跡4本を発見、船長は直ちに「面舵一杯、主機全速」を命じ、第1弾はかろうじて交わすことができたが、第2、第3、第4弾は避けるひまなく命中。
 1番船倉に魚雷が命中し2番船倉に搭載されていた弾薬が誘爆、3番船倉にも魚雷が命中し重油に引火、さらに機関室にも命中し被雷から沈没まで1分半の轟沈でした。戦死者55名。

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敵機と闘う北陸丸

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船尾を猛炎で包まれる北陸丸

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救命ボートで漂流中、墜落した米軍機の乗員を救助する「北陸丸」乗組員

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北陸丸轟沈地点

【尖閣諸島問題で異常反応している欲張り中国。
尖閣以上にご執心な南支那海の・・
南沙諸島、
西沙諸島、
中沙諸島など、南支那海の全諸島を自国領土として表示している地図を、敢えて使用しました。】
日本政府及びマスコミは、これら島嶼の実効支配国の実態を、把握しているのでしょうか??
疑問です!!



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これが大阪商船「北陸丸」
http://hi.baidu.com/71540476/blog/item/09e6a61ec89c35fe1bd576d2.html より引用


 海軍徴用船「ぶら志る丸」(12,752総トン)は、テニアン、サイパン、グアム、サイパンと航行し物資、部隊輸送に従事する。
 昭和1751日付けで特設運送船となり、528日サイパンで海軍第二連合特別陸戦隊を乗せ、13隻の船団で出港しMI作戦に参加。
 613日グアムに帰投、74日横須賀着、18日横須賀発、大阪、釜山に寄港し徴用軍夫4千人と航空基地建設資材を乗せ731日トラック島入港。
 8414時トラック島を出港し、17ノットで之の字航行をしながら横須賀に向かうが、2050分魚雷命中するが不発。
 8月5日0時58分トラック島北方ルッケ島沖17マイル、北緯9度51分、東経150度46分の地点で、突如、左舷中央部に一大音響と共に大爆発を生じ、続いて同一部分付近で再度、大爆発が起こった。
 米潜水艦Greenling(SS-213)の魚雷2発が左舷中央に命中したのだった。
 船体は約3分間、平衡状態を保っていたが、魚雷命中と共に浸水はなはだしく、徐々に左舷に傾斜し、船尾から沈下を始めたとみるや、7分後には45度の棒立ちとなって、瞬時のうちに海中に引き込まれた。
 
 沈没の直前、大野船長は重要書類を1等運転手に預け、船橋上部に駆け上がり「天皇陛下万歳」を叫びながら、船と運命を共にしたという。
 なお1時間後、同潜水艦に漂流中の救命艇から便乗者1名が拉致され、乗船者計389名中、大野仁助船長以下乗組員57名と兵員等131計188名が殉職し、残り200余名が遭難後20日間漂流後に、哨戒艇第十拓南丸に発見され大半が救助された。

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雷撃により棒立ちとなって沈没する「ぶら志る丸」
 

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船と運命を共にした「ぶら志る丸」の大野船長
 

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「ぶら志る丸」
 
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