絶海の真っ只中で、病院船「ぶえのすあいれす丸」撃沈直後の波のうねりに翻弄される傷病兵、看護婦、乗組員そしていかだや救命艇に浮遊物・・・
ああ、この光景を父親・泰山も目の当りに見ていたのです。
絶望に瀕していた中で、戦友や乗組員そして看護婦さんたちの協力を得ながら、互いに助け合ったのでしょう。
中には敵機からの機銃掃射や漂流に力尽きて、大勢の方が海の藻屑となって、沈んでしまわれたことでしょう。
見る者にとっては、無意識に手が合わされ、先人の無念と辛苦を労い、祈ってしまう絵画ですね。
●2・・ぶえのすあいれす丸沈没後のドキュメント・・
病院船「ぶえのすあいれす丸」は昭和18年11月27日朝、米B24の急襲を受け被弾、40分ほどで轟沈した。
本船から流れ出た重油で黒い海原に、無数の人間が投げ出されもがきながら助けを求めていた。
沈没するまでに時間があったので、18隻の救命ボートが下ろされ、乗組み船員は懸命に救助作業を続けた。
だが潮の流れは思いのほか速く、海中の人はどんどん流されて行く。
重油を飲んで声が出なくなった看護婦さんが、ボートを目の前にして、差し上げた手をヒラヒラさせながら海中へ消えていった。
定員50名程度の救命ボートはどれも、定員の3倍くらい乗せていて、人の重さで今にも沈みそうだった。
これ以上、海中の人を拾い上げても、乗せるすきもない。
船員達はそれを見ると、必要なこぎ手だけ残して、黙ってボートから飛び降り、海中に居る人の為に席を譲ってやり、自分は近くを流れている漂流用いかだに向かって泳いでいった。
いかだは畳4枚分くらいの小さなもので、かいも舵もなく、食料も水もない。
安定が悪く、4,5人も乗るとすぐに傾くので、いかだの廻りに取り付けられたロープに掴まって、ともかく救助船の来るのを待つしかなかった。
遭難現場に救助船が現れるのは、それから1週間あとである。
その間に敵機のお見舞いは3回もあり、ボートといかだを銃撃していった。
その度に死傷者が増えていった。
![]() 「ぶえのすあいれす丸」乗組員 漂流して4日目から海がシケ始めた。
それまではなんとかまとまって行動していたボートも、いかだも、ちりぢりになり、大海の木の葉となって、おきまりの漂流地獄をさまよわなければならなかった。
大久保画伯が、以上のような「ぶえのすあいれす丸」の遭難の模様を聞いたのは、年が変わって(1944)昭和19年2月になってからであった。
会社へ遭難報告に来たのは船長と二等航海士で、大久保は二人から話を聞かせてもらった。
がっちりした体格の片山二等航海士は、4人の仲間といかだで漂流した時の様子を、身振りを交えて語ってくれた。
「仲間の一人は足を負傷していて、出血が止まらない。もう一人は体力が消耗していたので、二人をいかだの上に乗せ、僕らはいかだのロープに掴まっていたのです。食うものは無し、喉はかわいてヒリヒリするし、時々敵の飛行機がやってくる・・・。ところが、敵は頭の上だけじゃなかったのですよ。もっと恐ろしい奴が、いかだの廻りに集まってきて・・・」
大久保はスケッチブックにメモしていた鉛筆を握りなおした。
ぶえのすあいれす丸の受難と乗組員の苦闘を題材にして、大久保は4点描いた。
その内の1枚は、漂流中にサメに襲われ、必死に闘う片山二等航海士と乗組員の姿を記録していた。
画面には水平線も空もない。
キャンバス一面、青みどりの海の色で塗りこめられ、画面の中央に波に洗われた、小さないかだが漂っている・・・大胆な構図である。
いかだの上には5人の男がおり、その周りに巨大なサメの群れが、旅人を襲う荒野のおおかみのように跳ね回っている。
銃撃を受けて負傷した仲間の、血の匂いで集まった人食いザメだ。
ぐらぐらするいかだから海中へ滑り落ちた仲間を、別の男が懸命にひっぱり上げている。
サメと対峙して疲れ果てたのか、四つんばいになってあえいでいる男がいる。
後の二人が折れたかいの柄で、周りをうろつくサメと闘っている。
半ズボン1枚の裸で、いかだの上で仁王のように立っているのが片山航海士で、振り上げたかいの柄に渾身の力をこめ、海のギャングに一撃を喰らわそうとしている。
絶望的な状況に置かれても、生き延びるための努力を決して諦めない、海の男の典型的な姿が描かれている。 (この解説は【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)
![]() ![]() ![]() 父が、帰還した広島江波陸軍病院で、生還した戦友らと19年正月に写した写真です。 直後善通寺陸軍病院へ移送され・・昭和19年1月30日 マラリア病状急変して戦病死。 上の写真のみが➀により祖母のもとに送られてきて、初めて「泰山がラバウルから帰還している事を知った」祖母は、差出人の梅川利夫氏に「ラバウルに居た泰山に何が有ったのか?今、何処にいるのか?」を問い合わせたが「宛先人不在②③」で返却されてきた。 梅川利夫氏は中央の人物と推察出来るが、恐らくマラリアの犠牲に成られたものと思われる。 ![]() ![]() 参考 ↓ 第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html病院船 「ぶえのすあいれす丸」
(上田穀八郎・画)
●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記 ![]() 【悲運の犠牲174名、漂流の傷病者を銃撃、晴天白昼の蛮行】 ●9月20日に[ プラム ]さんから「ぶえのすあいれす丸救助作業」に付いて、下記コメントを戴きました。![]() ![]() ![]() ![]() 別の視点からですが・・・【私の祖父の同船救助作業の模様】です。
「特設駆潜艇第三利丸」の船長として12月1日朝、ニューイングランド島南方沖合に別の輸送船の救助に向かっていたが、カビエンからステファン水道を通って島の南に出掛った辺りで、右航前方近距離に一隻の白塗りのボートを発見した。
それが病院船の備え付けの救助艇である事は一目で解ったが、病院船遭難の電報はキャッチしておらず、この事件は知る由も無かった。
艇員を収容して初めて解ったが、五日前にやられて生存者がボートで漂流中で、被爆の際無線機が故障して通信不能となったので、船長は頑強な者を集め、決死隊を作り近くの島に向かって3日と15時間、必死に力漕ぎを続けたという。
12月2日、カビエン基地で救助した30名のボート艇員を降し、食料、燃料、水などを補給の上、更に遭難現場へ急行した。
夜明けと共に、遥か水平線に帆を上げたボート2~3隻を発見できた。
南方の夜明けは早い、海面も全く静か、案の定次々にボートが見え始めたので、私の駆潜艇を中央に、二隻の海上トラックを左右に、扇型で手近なところから収容を開始した。
八時過ぎ、見張員から報告「左方向に敵機の爆音」。
デッキには今迄の収容患者でほぼいっぱい。
近くの雲下に姿を隠し、爆音が去ってから救助を再開した。
2010/9/20(月) 午前 0:40 [ プラム ] ![]() 救助船見ゆ ●3月30日、河野修興さんより下記コメントを戴きました。【軍医として乗船中だった父親からの話】小生(昭和27年生まれ、内科医)の父、河野正実(平成14年8月没)は広島の部隊の陸軍軍医少尉として、ブエノスアイレス丸に搭乗していました。 5日目までスコールがボートや筏のところに降雨しなかったために、飲み水が無かったそうです。 筏は臍のあたりまで水につかった状態だったようです。 マラリア患者が多く、高熱のため精神錯乱に陥り、ボートとボート、筏の間を泳ぎまわり、疲れ切って、いつの間にやら波間に消えていった傷病兵も多かったようです。 撃沈後6日目に米機の機銃掃射を受けたそうですが、その時幸いにも恵みのスコールが降り、父の乗ったボートは助かったと言ってました。 その翌日、日本軍艦艇に救助されたそうです。 広島の戦友会には、元兵隊のお世話で招待され、いつも出席していました。 父・河野正実は広島出身で、実家は古い神官で江戸末期から医師も兼ねていました。 父も小生も医師であり神官でもあります。 ブエノスアイレス丸沈没後、自宅静養後、南方へ出征、ハルマヘラ島で終戦を迎え、昭和21年夏に復員しました。 昭和22年から、無医地区でもあった愛媛県の興居島、田の筋、八幡浜の真網代の3ヶ所で診療し、昭和37年から松山市三津浜で開業しました。 小生は八幡浜生まれ、愛光学園出身の内科医です。 2011/3/30(水)午後2:55 [河野修興] ![]() 河野修興先生はコメント時、広島大学病院医師としてご在籍でしたが、現在は広島都市学園大学々長をされております。↓ https://www.hcu.ac.jp/guide/gakucho.html |
●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・ |
カテゴリ: ○戦時徴用貨客船の最期絵図
●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・
漠然と【南方海上】とされていた撃沈の場所も、下記記事により特定できました。 ●『昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カピエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1,129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
患者、看護婦、乗組員は16隻の救命ボートと発動機艇2隻で漂流するが、12月1日、同じくB‐24に発見された。
この時、漂流中の乗員はB‐24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。』
第33話の③・・ぶえのすあいれす丸の沈没・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9067673.html
・・・をご覧になって、当時乗務員だった片山武夫二等航海士のご子息から「ぶえのすあいれす丸、轟沈時の絵図が残っています」との連絡が有り、ご好意により見せて戴きました。・ぶえのすあいれす丸の船長と、片山二等航海士が帰国後、大阪商船の嘱託画家・大久保一郎画伯を通じて忠実に描かせた「沈没時の周辺状況絵図」が残されていたのです。






↑ 轟沈されてから20数日してからの新聞記事
●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記
{爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}
昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・中略・・・
ラバウルを出港して2日目の昭和18年11月27日のことです。
部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。
その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。
「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。
・・・中略・・・
その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。
通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。
見るも恐ろしい。
私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が、無事に海面に浮いていた。
・・・中略・・・
海水が膝まで覆ってきた。
40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。
私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。
板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む!・・・」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。
・・・中略・・・
海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。
真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・ (つづく・・・)
【ぶえのすあいれす丸の沈没】
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28 より
1943年8月17日:
ビスマルク海。 南緯01-14S、東経148-13Eで未知のアメリカ航空機、おそらくUSA-AF B-25に攻撃された。
1943年8月18日:
ラバウルに到着。 ブエノスアイレス丸は、船体の周りに緑のストライプが描かれた白く塗装されています。 彼女は艦橋の近くに番号8976を持ち、漏斗と船体の側面に大きな赤い十字を表示しています。
1943年8月19日:ラバウルを出発。
1943年8月29日:マニラに到着。
1943年8月30日:マニラを出港します。
1943年9月5日:門司に到着。
1943年9月10日:宇品を出港。
1943年 9月20日:ラバウルに到着。1943年10月11日:ラバウルを出発
1943年10月21日:宇品に到着。
1943年11月15日:宇品を出発して神戸へ。
1943年11月22日:ニューブリテンのラバウルに到着。
1943年11月26日:
正体不明の船団でパラオに向けてラバウルを出発。 ブエノスアイレスマルには、63人の看護師と、ラバウル海軍病院から送還された不明の数の日本人軍人と、1,129人の負傷者および病気のIJA兵士がいます。 [3]
1943年11月27日:
ニューハノーバーとニューアイルランドの間のステフェン海峡、ビスマルクス。 08時30分頃、B-24「解放者」重爆撃機が病院船BUENOS AIRES MARUを誤って爆撃しました。 爆弾は船体に損傷を与え、エンジンルームを水浸しにします。 ブエノスアイレスマルがリストに加わりました。 08時50分に、彼女は南緯02-40S、東経149-20Eにセントマチアス島沖の船首に沈みます。 生存者は、16隻の救命ボートと2回のモーターローンチを行います。 [4]
1943年12月3日:
不明なIJNサブチェッカーは約1,000人の生存者を救出しますが、ブエノスアイレス丸に乗った158人の男性と看護師が沈没で死亡するか、救命ボートで死亡します。 [5]1943年12月15日:
日本の外務省はメッセージ467を主要な大使館に派遣し、「日本の病院船ブエノスアイレス丸は米国の航空機、連結B-24によって攻撃されました。船は港側で爆弾に襲われ、約40分沈没しました。 」 負傷した兵士、医師、休暇で帰宅する大勢の看護師などの生存者は、18人の救命ボートに押し込まれました。 メッセージは、赤い十字を形成する赤いシートが上空に保持されていたにもかかわらず、わずか約300フィートの高度で入ってくるアメリカの飛行機が救命艇を機関銃で発射したことを報告し続けています。 コミュニケはまた、ブエノスアイレスマルへの攻撃は孤立した事件ではなかったと報告し、10機の他の明確にマークされた病院船がアメリカの航空機によって攻撃されたと述べています。 [6]
●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966282.html
第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html
第33話の⑥・・父の部隊が満州からラバウルへ移動したルート・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/14820913.html
第33話の⑤・・ラバウルって、こんなとこだった・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11347692.html
第33話の④・・南方戦線からのはがき・・ http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11271003.html
第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33226918.html
↓第33話の①・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8750541.html
第33話の②・・善通寺陸軍病院の父・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8758122.html
陸軍徴用船「瑞穂丸」マニラを目前の最期・・・
このまま行けば、夕方にはラポッグに辿り着けるとの期待を胸に秘めながら、警戒隊員と船員は充血した眼で見張を続けていました。船団上空には磁気探知機つき飛行艇など10余機が警戒していました。
21日午前7時頃、上空の1機が淡路丸(1948総トン、日本郵船、600名乗船)右舷前方に急降下して標識弾を投下、敵潜位置を知らせたが、永萬丸からの視認では、この瞬間、海面がぼこっと盛り上がり、3本の魚雷が黒褐色の胴体を浮き上がらせ、飛沫を上げながら突進してきたとの事でした。
7時45分、先ず最後尾の淡路丸が敵潜水艦ピクーダの一撃で轟沈、先頭を進んでいた瑞穂丸は、敵潜水艦レッドフィッシュの攻撃の的になりました。
21日8時35分、瑞穂丸見張員は右舷真横千メートルに3条の雷跡を発見、船長は直ちに面舵一杯、右舷機全速後進を命じたが、時すでに遅く、機関室と2番艙及び3~4番艙の中間に命中爆発しました。このとき中平勝治司厨手は5千余名の将兵に供する朝食の指図をしていたが、突然、ドスンという強烈な衝撃で「あ、やられたな!」と感じ、救命胴衣を取りに部屋に走ったが、デッキの兵士達は右往左往していました。

台湾航路の客船「高千穂丸」の轟沈・・




陸軍徴用船「鴨緑丸」スビック湾の最期・・・

以上における交戦で鴨緑丸は敵機13機を撃墜、6機を撃破する大戦果を挙げたが、爆弾は避けられず、計7回もの被弾で火災が発生、乗組員、護衛兵あるいは捕虜までが一致協力して消火する中、浸水は徐々に増しました。
また、マニラでの補炭時、石炭庫内で繰り炭の暇が無いまま出航したため、船は最初から左舷に傾いていたが、これに浸水が加わり傾斜が15度になったため、最寄のオロンガポ港沖に投錨、夜間に乗じ翌15日夜明けまでに婦女子や負傷者などの陸揚げに成功した。
このとき、小西金積3等機関士や小野安治機関員は飽くまで一時離船のつもりであったため、ボイラは埋め火にして離船したが、陸上から乗組員たちが見守る中、かつての大連航路の花形客船は敵機の執拗な爆撃により猛火に包まれながら、次第に傾斜を増し、遂に12月15日16時15分猛火に包まれながら遂に沈没した。



陸軍徴用船「龍興丸」目的地ポートブレアーを目前の最期・・




海軍徴用船「護国丸」平戸沖の最期・・
そのうち「響」に赤痢患者が多数発生して護衛任務が遂行不能となり、佐世保に先航したため護国丸のみの航海となり、古志岐島灯台沖を航行中の11月10日3時40分、魚雷2本が機関室と2~3番艙に命中、大音響で炸裂しました。
本船は忽ち30度左傾、発電機、無線機が破壊されて船内は暗黒、遭難信号も打てない状態になりました。
立ち往生する護国丸の孤影を見て、大胆になった米潜水艦「ハーブ」が、3時55分、突然、右舷前方に司令塔を現しました。
船砲隊が傾いたデッキから射撃に移ると、潜水艦は直ちに姿を消したが、数分後、深手を負った船に真横から狙いを定めた魚雷1本が4番艙に打ち込まれました。
輸送指揮官・水野孝吉大佐は全員に「天皇陛下万歳」を奉唱させて退船を命じ、乗組員は舷側より暗夜の海中へ飛び込んだ。
4時06分、護国丸は船首を直立させて暁闇の東シナ海(北緯33度31分、東経129度19分)に海没しました。
輸送指揮官以下の兵員47名、台湾からの特別志願兵など217名、及び乗組員60名が戦死しました。




陸軍徴用船「ありぞな丸」ソロモン海での最期・・・




陸軍徴用船「ぼるねお丸」キスカ島での最期・・

昭和17年10月16日、アリューシャン列島キスカ島、七夕港にて空爆により炎上。



陸軍徴用船「関西丸」最期の絵図・・
海軍徴用船「北陸丸」最期の絵図・・




疑問です!!

海軍徴用船「ぶらじる丸」最期の絵図・・


船と運命を共にした「ぶら志る丸」の大野船長

