泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: シベリア派兵の記録(広島小倉師団


第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所】     同所               尚美堂画店


極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。(本編5の最終に記述した)

このため撤兵は大幅に遅れることになる。

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     其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
     (ムラビョフの銅像前)

我が騎兵はハバロフスクを占領するや、武威を示すために公園銅像前広場に於いて敵艦を眼下に見つつ堂々と分列式を行い、一方敵陣に降伏を勧告し敵司令官邸に艦長の集合を命じ、集合したる処を着剣にて追いまくり一室に監禁し有無を言わせず降伏を命じたれども、ドイツ、オーストリア捕虜等は強硬に主戦を主張し結果が付かないため、機関銃でもって捕虜30名を射殺すれば、一も二もなく降伏し一切の武器を引き渡せり。我が軍の意気、亦壮なりと云うべし。

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  ハバロフスクの公園と黒竜江
(アムール河)・・隊員からの現地報告
▲河に臨めるレストラン ▲黒竜江沿岸を支那から只で取得した偉人ムラビョフの銅像 ▲黒竜江の湾曲した所・幅員1里(4km)に及ぶ。

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ハバロフスク市街周辺


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      其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
我が軍は、アレキセーフスクを占領するや直ちに騎兵の主力及び歩兵先発隊と共に、ゼーヤ河にある敵艦を襲撃すべく猛進し、世界戦史上に稀にみる騎兵と戦艦との戦闘は開始せらる。アレキセーフスク市東側橋梁付近に行動する7隻の敵艦を攻撃したるに、敵艦忽ち砲門を開き応戦したれば、我が軍直ちに猛射撃を浴びせるに、敵艦2隻は危うくも艦首高く白旗を揚げ我に降り、他は全て上下流へ逃走せり。

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   其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を圧す
我が軍ハバロフスク出発し電光石火の勢いを以て7日間にシベリアの難路160里を踏破せる剛健無比の九州兵団及び、チチハルより黒龍河方面に猛進せる勇壮果敢なる北海師団と共にブラゴエチェンスクに侵入進んでアレキセーフスクをも占領せり。我が飛行隊は17日以来日本政府の布告文を多数搭載飛行し敵を威嚇すると共に、布告文を撒布し大きな効果を収めた。

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チェコ軍司令部前に於いて連合軍代表武官の敬礼交換式及び我が分列式の光景

シベリア派兵1914
チェコ軍司令部前に於いて連合軍代表武官の敬礼交換式及び我が陸戦隊の行進

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           チェコスロバキア軍団の救出
 
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 其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

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我が軍の鹵獲した過激派軍の車両(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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松山・歩兵第22連隊凱旋式(於・松山堀之内練兵場)

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【感状】
 (感謝状)

野中支隊 歩兵第22連隊・第3大隊(第9中隊
缺)、
          同・第1第2中隊、
          同・機関銃1小隊、
          同・特殊砲隊
 
大正8年(1919)12月末、兵力約1500乃至2000を算する過軍(過激派軍)「ムホルシビール」「マレータ」「クナレ」の各地に集団して所在、我が軍及び交通線を脅威するのみならず「トルバカタイ」以西「ウェルフネウジンスク」以東に於ける鉄道線路の被害殊に甚しきを以って、野中支隊に之が掃蕩を命ぜられ、大正9年1月2日支隊は「ペトロスキー」を発し各地に転戦すること十有五日、此の間「ニコリスコエ」に約400の敵を撃破したるを始めとし「ハラシビール」「ヒローク」河谷等に於いて、常に優勢にして頑強なる敵を掃蕩し、殊に1月12日早暁「ノーウォザルダミンスコエ」付近の戦闘の如きは、約3000の過軍の包囲攻撃を受け激戦数時間に昇りたるも、将卒克く堅忍持久遂に天明と共に猛烈なる逆襲を敢行して敵を潰乱に陥らしめ、敵の戦場に遺棄したる死体約530を算し真に懺滅的打撃を与えたるものと謂うべし、如此にして全討伐期間敵と交戦すること前後5回、敵の屍すこと実に730、我が損害は頗る僅少にして、而も連日連夜殆んど不眠不休零点下50度の厳寒と戦い一百余里に昇る積雪深き広野山嶺を踏破し、幾多の困苦欠乏に耐え、上下一致身命を擲って勇戦奮闘し、終始光輝ある戦勝を得て過軍を震骸せしめたるは、一に支隊長の適切にして周密なる画策と部下将卒の忠勇義烈なる赤誠の発露にして、其の功績洵に偉大成るものと認む、依って茲に感状を附与す。
(句読点なしの一文である)
  
大正9年(1920)2月20日
浦潮(ウラジオストック)派遣軍司令官 陸軍大将   
(従三位、勲一等、功三級)      
大井 成元
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 ↑ 
大井 成元(おおい しげもと)
   
(1863~1951)山口県出身

  1919年8月 浦塩派遣軍司令官。(大谷大将の後任)、11月に陸軍大将



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         緩衝国家設立構想(白系ロシア)の模索

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日本軍の将校は、極東共和国(FER・白系ロシア)の代表者と会合を持った

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朝鮮・元山港に避難してきたロシア避難民の惨状(召された幼児の葬儀)
「余りにも悲惨です。日本人としてどうして見過ごせましょう。どうぞお助け下さいませ。」
・                          東京西大久保236  希望社

1918年のロシア革命に追われた王宮関係者か、教会関係者が、
バルチザンに追われ、はるばる逃亡してたどり着いた時のもの)

● 尼港事件(ニコラエフスク事件)の発生

1920年3月、共産党バルチザンがユダヤ人、アメリカ人、英国人、日本人などの外国人居留民の民家に徒党を組んで押し寄せ、物資の略奪を始めたことで、陸軍の駐屯する、水戸第3大隊と海軍の陸戦隊50名は、共産党武装勢力と戦火を交えて、その後降伏し全員 軍医、看護婦、戦傷者も含めて、斧で頭を叩き割られて殺害され、外務省の日本領事館の職員も、家族も皆殺しになるのですが、わずか3ヶ月の間に、人口1万2千人の都市で約半数の6千数百人が、虐殺されるという大きな事件になっていったのです。
アムール河氷結で遅れ6月に旭川の連隊が救援に駆けつけたときには、頭を叩き割られた遺体が散乱し、平和な商業都市は廃墟と化していたのです。
この当時の共産党というのは、生産と言う事を行わず、略奪を行うことで生計を立てていたようで治安など考えられない実態でした。

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             ニコラエフスクの街並み

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  食料が備蓄されていたニコラエフスクの島田商会と上部は日本軍兵営

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    1918年9月ニコラエフスクに到着・駐屯した日本海軍陸戦隊

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     共産党バルチザンにより廃墟となったニコラエフスク市街

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         廃墟となったニコラエフスクの様子

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           ニコラエフスク事件といわれる

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        アムール河岸に打ち捨てられた虐殺犠牲者

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     在ニコラエフスク外務省職員の死を知らせた新聞記事

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  在留日本人及び露国良民が黒龍江河岸に於いて虐殺されつつある光景

尼港事件の絵・・1920年の春、沿海州二コラエフスクで起きた地方パルチザンによる大虐殺事件、「尼港事件」。
700人以上の日本人軍民、そして反革命白系と疑われたロシア人市民数千人が惨殺され、歴史と由緒ある街は徹底的に破壊され焼き払われた。
当時の惨劇を再現して描かれた絵である。
黒竜江河岸で惨殺される邦人や白系露人と疑われた市民たち。


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日本人遊郭を占拠し屏風の前で写したバルチザン幹部らの写真
中央ソファーに横臥するは首領トリャビーツィン(25才)、その左ニーナ(情婦28才)、後列左が副首領ラプタ。

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           バルチザン幹部三名のモチーフ 
中央白服の男が首領ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン。左の女が彼の情婦で、参謀長であったニーナ・レベジェワ。右の男が副首領、ラプタ。
後に逃亡中に逮捕され、赤軍の粛清裁判で死刑を宣告され銃殺に処された。


保存保存保存保存保存保存保存保存保存


第1次大戦の
独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。


【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す
其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


1920年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本での自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。
このため撤兵は大幅に遅れることになる。


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  シベリア出兵各国軍の司令官、参謀長の作戦会議 (1918年12月)
ウラジオストクで撮影されたシベリア出兵各国軍の司令官、参謀長クラスの集合写真。正面前列中央に日本軍(浦塩派遣軍)司令官の大谷大将の姿が見える。
その左隣が米国の派遣軍司令官グレーブス少将。後列左に英国ノックス将軍


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          浦塩派遣軍総司令部  (1922年)



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       其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部進發の光景

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        我がウラジオ派遣軍司令部に於ける将校たち
浦塩派遣軍司令部(191812ごろ)前列左から2人目より、植田謙吉中佐、天野邦太郎大佐、由比光衛中将、大谷喜久蔵大将、稲垣三郎少将、坂部十寸穂大佐、糸山静一一等主計正。

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        ウラジオに於ける参謀長会議 (1918年)
            (前列中央に大谷大将)


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               連合軍の耐寒装備
 (英)  (加)  (米)  (支那)  (伊)  (チェコ) (日本)


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         其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景

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       戦闘後の露営(ボクダットスカヤ〈バイカル南部〉付近の第5師団)
               

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                行軍の休息

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    機関銃及び特殊砲射撃(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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    戦場に放置された敵の死体(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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     某支隊の歩行前進(ボクダットスカヤ付近の第5師団)

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     某支隊大行李の渡河前進(ボクダットスカヤ付近の第5師団)


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     其十三 豪勇無双なる許斐(このみ)大尉の奮戰 其三図を参照)
我が小倉師団の精鋭達は大正7年8月24日黎明、ベーラヤ河付近に大攻撃を開始す。許斐中隊は実に中央部隊の第一線たり、豪遊無双なる中隊長は陣頭に立ち猛烈にも敵陣に肉迫せるに、敵は塹壕中に白旗を掲揚したれば、直ちにこれを捕えんとしたるに敵は白旗を徹して手榴弾を投げ始める。ここに於いてか許斐(このみ)中隊長は憤然激怒、塹壕に躍り込み縦横に敵を斬り捨て奮戦中、遂に敵弾が胸部に命中し名誉の戦死を遂げた。ここに於いて全員必死となり塹壕中の敵を塵殺した。




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保存保存保存保存保存


第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。


【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す
其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


アメリカにはその読みが浅く、日本の「防共努力」に対する理解が全く欠けていた。
だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。
アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは直近の危機となる。

アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種だ」などととんでもない勘違いをしていた、日本の出兵は「シベリアの門戸開放に違反する」などと馬鹿なことを考えていたのだ。
 

アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。
1920
年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本での自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。
このため撤兵は大幅に遅れることになる。


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 其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す

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               騎馬兵団の突撃


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            氷結中のアムール河大鉄橋


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         其八 雷鳴豪風雨を冒して我鐵騎、風の如く猛進す


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                騎馬兵の進軍

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               騎馬兵の進軍


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  其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し

小倉師団の騎兵の主力及び先遣の歩兵大隊と協力、破竹の勢いをもって北進、大正7年9月7日にハバロフスクを占領し、直ちに同地に於ける敵海軍根拠地を包囲するに敵は周章狼狽その度を失い海陸軍共に白旗を揚げて降伏す。鹵獲品の主なるものは砲艦17隻、汽船4隻、無線電信局、各火砲120余門、小銃弾薬庫1棟、砲弾庫7棟、火薬庫7棟、馬具庫1棟、馬70頭、自動車7両、鉄条網材料多数を得た。

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    ハバロフスクに於いて我が軍が鹵獲(ろかく)した河川砲艦


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     其十 黒龍江を西進の先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
ハバロフスクより西進したる山田少尉傘下の小倉旅団及び米国・支那両軍は、牢中の鼠に等しき敵を壊滅すべく80里を汽車にてさかのぼり、9月13日オブルチヘエ駅に着せしが、敵は鉄道を破壊して退却せるを以て我が軍戦機を逸すべからず。即時、大島隊長に命令を伝え忽ち前進せしむ。道なき為に線路上を進軍せるに、天祐なるかな敵が遺棄せる列車が前面線路上に有るを発見し直ちにこれに乗り込み全速力にて進行し、敵の退却疾走する列車に砲火を浴びせつつ肉迫せしが敵も逃げながら応戦せり。進行中の列車戦は実に壮烈を極めた。



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保存保存


第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


英仏の要請により、共同出兵をした日本とアメリカだったが、両国のシベリア出兵目的はまったく異なるものだった。


アメリカの出兵目的は日本の北満とシベリアへの進出に抵抗することだった。
アメリカ軍は日本の出兵意図に猜疑を抱き、ロシアの共産主義者(ボルシェビキ)と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様を示していた。

一方、日本はロシア共産主義を危険思想だとはっきりと認識していた。
共産主義というものがアジアに迫りくること、これを何とかして防ごうという気持ちが日本には強くあった。


したがって、北満州から沿海州のあたりを、静かなアジアと赤いロシアとの緩衝地帯にしたい。
そして、共産主義が満州、朝鮮そして日本に入ってくるのを防ぎたい。こういう願望を日本は持っていた。

しかし、アメリカにはその読みが浅く、日本の「防共努力」に対する理解が全く欠けていた。
だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。
アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは対岸の火事ではない。

アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種だ」などととんでもない勘違いをしていた、日本の出兵は「シベリアの門戸開放に違反する」などと馬鹿なことを考えていたのだ。

 


アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。
1920
年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本の自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。


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其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍(ドイツ・オーストリア軍)を撃破す

大正7824日、我が小倉第12師団の精鋭は敗退し来たる友軍チェコスロバキア軍を収容後、師団長の命令一下、全軍たちまち攻勢に転じ、先ず我が威力ある砲兵の洗礼をもって敵の肝を寒からしめた一方、歩兵は奮戦強襲を敢行し、敵に肉迫力戦奮闘遂にこれを撃退せり。

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     赤軍に殺害されたチェコスロバキア兵士と葬送する兵士

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(大正9年4月19日付・東京朝日新聞掲載地図)
広島第5師団・小倉第12師団・宇都宮第14師団が記載されている

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          赤化防止の緩衝地帯として考慮されていた

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             第1次大戦中のドイツ装備

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           第1次大戦時、敵のドイツ兵

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         第1次大戦時、敵のオーストリア兵


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     其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す(広島第5師団)


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其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す

シベリア・ウスリー戦に我が小倉師団歩兵第14連隊、第12中隊及び工兵半小隊は鉄道破壊の重要命令を受け、大正7年(1918)823日午後11時、西田大尉指揮のもとに敵の背後に迂回しルサノフスキーを経て北進し、腹部までも没する湿地と幾多の危険を冒し24日黎明に決死目的地に達したるに、不覚にも敵の発見するところとなり装甲列車より猛射撃を浴びせられるも、勇敢なる我が軍は屈することなく奮戦力闘、遂に鉄道破壊の目的を果たし装甲列車2台を鹵獲した。西田中隊は許斐中隊と共に武勲著しく中外に轟いた。

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       ウスリー付近で鹵獲した大砲装備の装甲列車

日本のシベリア派遣軍の部隊が赤軍部隊との戦闘で勝利し、鹵獲した装甲列車のようだ。日本兵と並んで立っているのは白系ロシア軍の兵士であろう。
場所はロシア沿海州と中国東北部との境目、ウスリー付近。


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           線路保安守備中の白系ロシア兵



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第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


第一次世界大戦中の1918年(大正7年)11日、イギリスは日本に対して、ウラジオストックにあるロシア軍需品が敵国ドイツの手に渡るのを防止するため、日本軍を主力とする連合軍の派兵を提案してきた。

日本の出兵にはアメリカが反対したため、日本はイギリスの提案を拒否した。

ところが5月中旬、ロシアに新しい事態が起こった。開戦当初、チェコ軍はロシア軍の中に入ってドイツと戦っていたのだが、ロシアが革命でソビエト政権に変わると、ロシアは対独戦線から離脱したのでチェコ兵は4万人近くいたが、怨みのあるドイツとどうしても戦いたいというので形式上フランス軍の指揮下に入ることになった。
しかし、チェコ兵がいたのは東部戦線(ロシア軍側)であり、これを西部戦線(フランス軍側)まで送り込まなければならない。そこで、シベリア鉄道でウラジオストックまで輸送し、海路でヨーロッパに送り込むことになった。
ところが、東進中のチェコ軍と故国に向けて帰還中のドイツ・オーストリア捕虜部隊のあいだに戦闘が発生した。
続いて、この事件が拡大してチェコ軍とロシア革命軍(共産主義者)との衝突となり、シベリア鉄道全線にわたって戦闘が開始されることとなった。
反共産主義のロシア人達は、ロシア共産党の権力を倒すためにチェコ軍を援助した。
これによってチェコ軍の蜂起は西シベリアとウラル地方に於いてソビエト政権(革命軍)を倒してしまった。

連合国にとってチェコ軍の蜂起は大歓迎だった。
イギリスとフランスは新しい東部戦線の再建計画を進め、日本にシベリア出兵を要請してきた。

しかし、アメリカが日本の動きに神経を尖らせていたのを知っていたため、日本は英仏の要請をまたもや拒否した。

そこで連合国はアメリカの大統領ウィルソンを説いて、日米共同の出兵を促した。
アメリカもこの出兵要請を受け入れたためようやく日本も派兵を決めた。

そして19188月上旬、日本、アメリカ、イギリス、フランスは、軍をウラジオストックに派遣した。
支那も出兵を申し出て軍を送り、イタリアもそれに続いた。
こうして連合国の共同出兵が完了した。



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其一、 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎


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大谷将軍のウラジオストック上陸と戦艦肥前

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ウラジオ派遣軍司令官大谷大将、アドミラル埠頭到着と英仏将官の出迎え
(英国東洋軍司令官アルフレッド・ノックス将軍)(1918年8月18日)

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← 大谷喜久蔵 陸軍大将
(1856‐1923)
福井県・敦賀出身













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←ウラジオストック港の貨物ヤードに上陸した我が小倉師団







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←ウラジオストック港で整列点呼中の我が小倉師団








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連合軍の到着で見物客の賑わうウラジオストック港

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 其二 、皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く

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         ウラジオストック市内を行進する我が軍

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        ウラジオストックに於ける日軍敬礼交換式


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       ウラジオストック市内を行進する我が第12師団

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    ウラジオストック市内を行進する我が軍、婦人達の姿も散見

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       ウラジオストック市内を行進する我が第12師団


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   1918年8月、ウラジオストックでパレードを行う日本海軍陸戦隊

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       ウラジオストックを行進する連合国の派遣軍

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      ウラジオストックを行進する連合国のアメリカ派遣軍


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其三、 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘、許斐(このみ)大尉勇戰奮闘名誉の戰死


 我が小倉師団の精鋭は大正7824日黎明に、ベーラヤ河付近に大攻撃を開始し奮戦力闘一挙に敵を粉砕せり。このシベリア遠征軍陣頭の戦闘に於いて武勲粛々たるものは許斐(このみ)大尉とす。同大尉は命令一下、電光の如く第一線に突撃し、挺身部下を激励し、力戦悪闘縦横に敵を撃破し、遂に名誉の戦死を遂げる。



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 母が子供の頃、持っていた絵葉書が残っていました。
 「ロシア革命」時に・・・革命軍討伐のため、広島第5師団が従軍した時の写真です。
 
『広島第五師団 過激派軍討伐絵葉書』と表紙にあります。
 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」に広島第五師団が参加した時のものです。


この貴重な写真、残存もおぼつかないと思いまして、ブログ上でありますが掲載させて戴き、資料として多少なりとも、お役に立てば・・・と思っています。  


 
                            
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 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」
 ①戦場に遺棄せられある敵の死体 
                

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  シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」②戦闘後の露営
                       

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 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」③我が軍の捕獲せる敵の車輌         



●シベリア出兵から凱旋した「松山歩兵第22連隊への感状」で
 従軍した地名が網羅されている。

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              【感状】 シベリア出兵時の感謝状)

野中支隊 歩兵第22連隊 第3大隊(第9中隊
)、
                                    
第1第2中隊、
                                     機関銃1小隊、
                                     特殊砲隊
 
大正8年(1919)12月末、兵力約1500乃至2000を算する過軍(過激派軍)は「ムホルシビール」「マレータ」「クナレ」の各地に集団して所在、我が軍及び交通線を脅威するのみならず「トルバカタイ」以西「ウェルフネウジンスク」以東に於ける鉄道線路の被害殊に甚しきを以って、野中支隊に之が掃蕩を命ぜられ、大正9年1月2日支隊は「ペトロスキー」を発ち各地に転戦すること十有五日、此の間「ニコリスコエ」に約400の敵を撃破したるを始めとし「ハラシビール」「ヒローク」河谷等に於いて、常に優勢にして頑強なる敵を掃蕩し、殊に1月12日早暁「ノーウォザルダミンスコエ」付近の戦闘の如きは、約3000の過軍の包囲攻撃を受け激戦数時間に昇りたるも、将卒克く堅忍持久遂に天明と共に猛烈なる逆襲を敢行して敵を潰乱に陥らしめ、敵の戦場に遺棄したる死体約530を算し真に懺滅的打撃を与えたるものと謂うべし、如此にして全討伐期間敵と交戦すること前後5回、敵の屍すこと実に730、我が損害は頗る僅少にして、而も連日連夜殆んど不眠不休零点下50度の厳寒と戦い一百余里に昇る積雪深き広野山嶺を踏破し、幾多の困苦欠乏に耐え、上下一致身命を擲って勇戦奮闘し、終始光輝ある戦勝を得て過軍を震骸せしめたるは、一に支隊長の適切にして周密なる画策と部下将卒の忠勇義烈なる赤誠の発露にして、其の功績洵に偉大成るものと認む、依って茲に感状を附与す。 (句読点なしの一文である)
  
大正9年(1920)2月20日

浦潮(ウラジオストック)派遣軍司令官 
   陸軍大将 (従三位、勲一等、功三級) 
大井 成元

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大井 成元 (おおい しげもと)
1863年 山口県出身。大井又平の三男として生まれる。


イメージ 5    松山歩兵第22連隊、凱旋式 (シベリア出兵からの凱旋・1920年)   




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 母が子供の頃、持っていた絵葉書が残っていました。
 「ロシア革命」時に革命軍討伐のため、広島第5師団が従軍した時の写真です。
             
『広島第五師団 過激派軍討伐絵葉書』と表紙にあります。
 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」に広島
第五師団が参加した時のものです。

この貴重な写真、残存もおぼつかないと思いまして、ブログ上でありますが掲載させて戴き、少しでもお役に立てば・・・と思っています。


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 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」①某支隊大行李の前進

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 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」②機関銃及び特殊砲の射撃

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 シベリア出兵時の「バクダットスカヤ付近の過激派軍討伐」③某支隊の前進
 

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母が、小学校上級生頃の字だと思います。
この袋にも、子供のたどたどしい鉛筆字で「内子町 森並芳子」(○印)と記入してあり、いかにも昨日書いたように、鉛筆の筆圧まで残ったままです。

愛媛の片田舎、母の実家に永年残っていた大正期の絵葉書です。
当時はグラビア雑誌が有ろう筈もなく、絵葉書の写真が子供らにとって、唯一の外部の実情を知る手立てだったのでしょう。
 
所謂、【ロシア革命】による、シベリアの赤化防止のための【シベリア出兵】の現地写真です。
【過激派軍】・・・つまり、ロシア革命集団征伐のための従軍でした。

 シベリア出兵・・参照↓
 
『広島第五師団 過激派軍討伐絵葉書』と表紙にあります。
この貴重な写真、残存もおぼつかないと思いまして、ブログ上でありますが掲載させて戴き、少しでもお役に立てば・・・と思っています。
 
第五師団「ボグダットスカヤ」付近
過激派軍討伐絵葉書 (拾枚壱組)
第五師団司令部撮影   広島□○堂製・・・とあります。
    
 ↓
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  (絵葉書袋・・・表側)       袋・・・裏側(鉛筆筆圧が見える)

 
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  シベリア出兵時の浦塩(ウラジオストック)派遣軍司令官 大谷大将アドミラル埠頭上陸 
         大正7年(1918)8月18日(英米仏司令官等の出迎えを受ける)


          http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/11672891.html ●「松山第22連隊シベリアからの凱旋式と、その感状」の写真・・参照 ↑↑

 
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    シベリア出兵時のハバロフスクに於ける我が軍獲得の河川用砲艦
 
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          シベリア出兵時、氷結中のアムール大鉄橋





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