泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

カテゴリ: ●爺ちゃん、婆ちゃんに捧ぐ追想録

昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・


昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンが鳴るなどほとんど無く、時々真夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。

ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。

昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことはありました。

【第54話・松山での空襲】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。


いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
           戦災前の松山市・清水小学校 上=南西方向から見た正門 下=東南方向から見た全景


警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)


 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先きに運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心に使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の遥か向うの、三津浜方面だろうか。
  あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

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   清水国民学校(松山市・清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・
 

 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で、自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高等商業学校北側の帰り道を、砂埃を上げて走る上級生を追って
懸命に走って行く。


松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。


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      松山高等商業学校の正門(東門)(松山大学の前身)


防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。


 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕をブンブン回しながら身振りで指示している。


 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。


 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

城北練兵場に並べてある、整備兵訓練用の戦闘機のすぐ横の周辺である。


((●●s城北練兵場●
 通学路から松山・城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・
 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。


 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


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     松山・城北練兵場で、B29が4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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               ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており、飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。


 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。

 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。


 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判らない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く判別することが出来ない、全方向からの爆音なのだ。


 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり
「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。


 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていた気になるあの爆撃煙を、西方に見てみた。


 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている


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6kmほどの三津浜付近から、丸善石油の黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は
「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は「夜には炎に染まって真っ赤に見えていたが、一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが、最早「でっち上げ」としか言いようがない内容の記事であった。

『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』



一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」
松山市における大悲劇の幕開けである。



あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。


 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知あるまで通学は見合わせ・・家庭待機」と云う通達が為された。
 5月の下旬であったか、疎開先の内子町へ「清水小学校の1~2年生は、琢町々内の天理協会で補修授業が再開された」との情報が届いておりました。





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第54話● 松山での空襲のこと・・ 8歳 昭和20年


 昭和19年、小学1年生の時でしたが大東亜戦争の戦局もニューギニア、ソロモン諸島あたりから米軍に反撃され始めた頃ですので国内では平穏そのものでした。
 しかし、昭和20年になってからは、松山にも米機の来襲が本格的な激しさを増しつつあったのです。

 松山への爆撃こそ無かったが、北九州、宇部、広島、呉など工業地帯や軍事施設攻撃への通過点でもあったからです。
 米軍爆撃機が内陸に侵入してくるコースは、紀伊水道、豊後水道が空襲銀座と云われていたほど、頻繁でしたので、敵機の接近ごとに警戒警報、空襲警報の発令は日常茶飯事となっていたのです。

 或る日、空襲警報が鳴って間もなく、西の方から百数十機の中型爆撃機B25、B24が飛来してきたことがある。
 飛行機の型の見分け方は、ポスター等に影絵模様で公表されていたから、爆撃機はボーイング、ダグラス、マクダネルなど、戦闘機はカーチス、グラマン、ロッキード等があり、敵機の型式把握は市民には小学生にまで常識になっていた。


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  北九州方面の爆撃行の帰途か、西方から飛来し豊後水道を南下した


 飛行機の爆音(エンジン音)がし始めて、すぐに防空壕へ避難したが、次々と近づく余りにも多い飛行機の爆音に、その振幅で異様なウナリのような音に変っている。
 窓ガラスからもビビビビ・・・・・と振動音が出ている。


 「一体、何分続くのじゃろう・・・?」と息を殺して、通過するのを待つのみだ。
 ただ、爆音がするだけだったので、子供心に防空壕から何度も空を見上げた。
 目の前が出入り口の、首を出せばすぐ空が見える・・・浅い小さな防空壕だ。


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       防空壕から恐る恐る敵機を見上げていたのです

 ウンカのように、ぶんぶん次から次へ飛んでくるとはこのことだろう。
 城山上空で機体を傾けながら、右旋回している様子が手に取るように解かる。
 低空で悠々と飛んでゆく様は、撃てるものなら撃ってみろ・・・と言わんばかりの堂々たる飛行だ。
 制空権は完全にアメリカの様相で「日本軍機は、一体どうしたんじゃ?」と子供ながらにも思っていた。
 結局、下からの反撃は何もなし。 歯がゆい思いで見上げるだけだ。     
 これらの爆撃機は順に松山上空で、南へ向きを変えて通過しただけであったが、あのような大編隊は映画でも見たことがない。
 米軍機が内陸部に進入するには、豊後水道が飛行コースであったので、おそらく北九州方面工業地帯を爆撃した帰途であったのだろうと思う。

(この日だったのかも知れない)

 防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。

 4月末には,満州にあった第11師団が本土防衛の任務をもって四国に集結,高知市一帯に配備されたが,もはやアメリカ軍の敵ではなく,5月5日には,100機を越えるB-29(?)が松山上空を飛行した(『松山市年表』291頁)が,松山市民は,前日の激しい空襲の残像と相まって,100機以上というこれまで目にしたこともない巨大な重爆撃機の大群が大空に舞う姿を仰ぎ,世紀末的な状況を身を以て経験することとなった。

 


 松山上空を日本の戦闘機が訓練飛行していても、いざ空襲警報が発せられると、何処へともなく姿を消してしまうのが常であった。
 今さっきまで飛行していた友軍機は、一体何処へ行ってしまったのだろう?と不思議に思ったものだ。
 尻尾を巻いて逃げる負け犬のように、子供の僕らにも感じられたものだが、相手に立ち向かって、空中戦でもやって欲しいと願いながら、敵機を見上げていたが、松山では空中戦など全く無かった。
 それほど勇ましい筈の日本軍は、主力は最前線優先で、国内は迫撃能力に貧していたのでしょう。
 
地方都市の松山には、訓練用の旧式飛行機しか配属されていなかったのだろうと思った。
 内陸部への爆撃機侵入銀座の豊後水道で、迎え撃つという軍事力も、又その知恵さえも日本軍部には無かったのだろうか?・・・今考えても疑問でたまらない。



 でも松山で、下から高射砲で撃ったのは数回見たことはある。
 一点の雲も無い日本晴れの日に、偵察機か爆撃機が飛来したとき、防空壕内でドーンドーンという鈍い音を聞いた。
 爆弾が落ちた音と違い、上空から聞こえたようなので、防空壕からおそるおそる首を出して空を見上げた。
 琢町から見ると、城山の上に白い雲のような点が一つ浮いている・・・それが徐々に膨らみ・・・周囲に白い煙の筋が飛び散ってゆく・・・一瞬、落下傘か・・・とも思えた。


 「危ないから、覗いたらいけん!」と浦子が注意をするが、僕は浦子の目を盗んでは、気になる空を見上げていた。
 白い煙は3ケも4ケも浮いていた。砲弾の破片が飛び散ったあとに、白い煙の糸が四方八方に広がってゆく。
 今で言う昼間の花火が、相当な高空で弾けたような眺めだ。


 白い煙とその糸状の煙は西風になびいて、いかにもクラゲが空に浮いているように見えたものだが、敵機を狙って撃っているような射撃ではなく、敵機からは大きく逸れていたのが子供にも確認できた。
 まさに「気休めの自己満足」状況の射撃に見えた。


 (調べてみると昭和20年3月18日だったようだ)の或る晴れたり曇ったりといった天候の日の事であった。
 空襲警報の後、防空壕の中から、やはり気になる空を眺めていた。
 この頃は空襲警報の後、直ぐに敵機の爆音がしてくるのが常であった。


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 複数の戦闘機の爆音がしてきた。
 城山越しに南から、雲間を縫うようにしてグラマン(米、艦載機)10数機が2列編隊で飛来してきたのが見える。
 爆音のウナリが急に変化して、方向を変え始めたのが判る。
 その豆粒のような機体は、上空で左に旋回しながら急降下してきた。
 雲の後ろに太陽があったので、ちょっと眩しかったが、旋回のたびに黒い機体がキラキラ光っていた。
 急降下と同時に編隊を崩し、それぞれがあちこちで機銃掃射をしながら、ぶんぶん飛び回っている。

 浦子の目を盗んでは、防空壕から首を出して見ていたんだろうと思う。
 壕の中に居ても、急降下と上昇を繰り返しているのが、爆音を聞いているだけで解かる。
 今で言う、車がアクセルを吹かしたり緩めたりするような、プロペラの爆音の唸りが断続的に響いてくる。
 黒い機体のグラマンは、主に松山城付近で見え隠れしていたので、堀の内の連隊を中心に機銃を浴びせていたようで、入れ代わり立ち代り執拗な攻撃をかけていた。


 
 3月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。
 ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。



 そんな日だったと思うが、町内の天理教会の前で、機銃掃射の跡が残っているとかの話を聞いたので、警報解除の後に見に行ってみた。
 浦子は「危ないから行ったら駄目!・・・」と言ったが、こっそり見に行った。
 見物の人垣の中、地道道路の石ころが弾けとんだ跡があって、他に何もなかった。
 これが銃弾の跡?・・・という風に感じただけのものだった。






第36話● 松山 城北練兵場のこと・・   7歳 昭和19年


 昭和18年までの城北練兵場は、東は護国神社正面の道路を越えて、更に東に広がり、西は北豫中学校(松山北高校)と松山高等商業学校(松山大学)の東側道路まであり、南側は伊予鉄城北線と接していた。
 城北線と接している部分には、西から東まで大きな櫨の木が植えられ、毎年鈴なりの実を付けていたので、ヒヨドリ等が実をつつきに群れていました。

 練兵場はこの広さで一面の草っ原、それもよく踏み固められて牧場の風情であり、子供らの格好の遊び場所でもあった。
 平日は主に北豫中学校生徒等がグライダーの飛行訓練や、軍事教練の服装(背嚢を背負いゲートルを巻いて木銃を持って)をして、軍服姿の指導官のもと、野原に腹ばいになって訓練をしているのをいつもよく見ていた。


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       ↑ このタイプのグライダーを使用していた

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          松山・護国神社前での突撃演習

 中学生の中に3~4名、小柄な小学生のような学生が混じっていたのが目立ったものだ。

 他にグライダーの教練も、主に北豫中学校の生徒だったと思うが、グライダーの後尾を杭に結び、グライダーの前で二本のロープを20人ほどで引っ張り、その反動で飛び上がるのである。

 ある時、通称赤とんぼと言われていたオレンジ色二枚翼の練習機が、何処からともなく 飛来し練兵場に着陸したことがあった。
 護国神社の前あたりに停止したので、それを見ていた子供たちがいちもくさんに、駆け寄って行ったが、行く途中で機首を西の方へ向け飛び去っていったこともあった。

 城北線の鉄砲町停留所は練兵場南西の端に在った。
 その周辺の練兵場は、こんもりと茂った欅の大木の林があったが、その横に演習用のトーチカ(土塁を盛った陣地)が造られていた。

 トーチカはどちらかと言えば、防空壕のようでもあったが、こんもりと土まんじゅうの様に盛り土され、あちこちに入り口があり、射撃口がある。
 中は迷路のような通路と部屋があり、子供には適当な遊び場所だった。
 当時の練兵場は市民の広場、子供たちの野原というイメージの場所であった。

 然しこの練兵場も、戦争が進展するにつれ、昭和19年になると徐々に変貌していった。
 まず、練兵場西北隅(松山高商東側)に飛行機格納庫が一戸建ち、更に東へ一戸づつ 増えてゆき、護国神社の手前辺りまで、合計四棟の格納庫が並んだ。
 それと相前後して、練兵場の西側および南側には、旧式ではあったが戦闘機や双発爆撃機が10機ほど並べられた。

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 昭和19年夏頃から、飛行機格納庫が建設されていった(松山城北練兵場)

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      1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山市。
      城北練兵場の格納庫4棟跡がはっきり見える。


【今では考えられない景色ですが、空襲があるやも・・との気配が近付く時期に、学校の横、市電線路の横、住宅横のこの広場に、平然と戦闘機、爆撃機を並べている日本軍部の節操の無さ・・・。それにも増して、住民が苦情を申し出る時代でもなかったのです。】

 当時でも、飛行中の飛行機しか見る機会がなかったので、目前で見られる本物の飛行機だけに、いつも気にしてよく見に行ったものです。
 いま考えてみると、整備兵の訓連用教材ではなかったのかと思える。 

 整備兵がトラックでやってきて、エンジンをかけてプロペラは回すが、ここには滑走路は無かったし飛行場の広さでもなかった。
 飛行場はやはり吉田浜(今の松山空港)だったが、訓練用の飛行機が標的にもなるし、置き場所の都合でここへ移動したのだろう。


 時々、頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、濃緑色の整備兵つなぎ服で身を包んだ整備兵一箇連隊が、清水町の方から4列縦隊で、道路をドス声で合唱しながら行進して来て、整備訓練を受けていた。

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松山市清水町方面から(写真は違うが雰囲気はこのまま)
頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、
濃緑色の整備兵つなぎ服で
身を包んだ整備兵一箇連隊が、
軍歌を合唱しながら行く・・

 エンジン始動の場面を数回見たが、当時はスターターなど無くプロペラの先に紐のついた革袋を掛け、二、三名がそれを引っ張ってその反動でプロペラを回していた。
 エンジンがバタバタという初動音を出しながら、周辺に青い煙がたなびいて、プロペラはゆっくりと廻りながら、正常回転に唸りを変えて行くのだ・・・。




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第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

 昨年、愛媛県喜多郡内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう父の「軍事郵便はがきの束」と、応召した時に受けた「軍隊手帳」が出て参りました。

 私が想像するに、この軍事郵便はがき類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(享年53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。

便りの内容は、軍事郵便の常で必要以上の事は決して書けない・・・という他愛の無い内容ですが、
父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思っています。

第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33047396.html・・にあるように、満州東寧に赴任したのが昭和16年8月27日でした。

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 昭和17年(1942)3 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事、安心しております。
芳子の容態は如何ですか、以前より大分良いとの事、安心しております。
泰弘も松山へ来ているとの事ですね。電車等には充分気をつけて下さい。
先日写真を送っておきましたが届きましたか。
まあ心配はせぬように願います。身体に気をつけて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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・       恐らくこの写真が送られて来たのだと思います。
(戦時中はシェパードのことを、「軍用犬」と呼んでいたように記憶しています)

泰弘も松山へ来ているとの事ですね・・・については↓●第25話 鯉の血・・参照http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8721542.html


 昭和17年(1942)617 
松山市琢町64   福島浦子様内  福島 泰弘殿(5才)
   【絵葉書在中】
満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 
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     ●封書の中身は荒井一壽」筆の軍隊漫画絵葉書6枚ほどでした。

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 昭和17年(1942)827日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、内地も暑いことと思いますが、私も大変元気ですからご安心下さい。
当地も最近は大分涼しくなり、内地の秋の様です。
先日ご送付下さった同窓生の人々の処へは、私の方よりも礼状を差出しておきました。
子供達の服を・・・との事ですが、買うようでしたら俊光のをも買って送っておいて下さい。
時候柄ですから、子供達に気を付けて下さい。 お母さんによろしく。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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泰山の召集を聞き付けた松山市、北豫中学校(現・北高校)卒業の同窓生有志が「御餞別」を実家の方へ届けてくれたのでしょう・・・その名簿を浦子が戦地へ送り、本人の手帳に挟んでありました。

【同窓生名簿】                       

松山市志津川町      岡本 長一    

松山市河野町     山本 末見   

・松山市昭和町68     香川 一雄     

・松山市道後湯之町     三好 退二  

・松山市江戸町(南味酒町) 石川 兼      

・温泉郡小野村字平井    森本 利徳   

・温泉郡南吉井村字北野田  隅田 寿男     

・松山市道後湯之町南町   池内 修(西岡 

・松山市府中町       樋口 恒徳     

・松山市桑原町       石丸 英隆   

・温泉郡浅海村       高橋 泰夫


 昭和179月末 松山市琢町64  福島 浦子 様
其の後、変わりありませんか。私も大変元気です。
内地も祭り前で大分涼しくなってきた事でしょう。
当地も冬服で丁度良い頃となりました。
便りは出しますが大街道へも宜しく云って下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 

 昭和171127日 松山市琢町64  福島 浦子 様
寒くなって来ましたが子供達や皆元気ですか。
私も相変わらず元気ですから、安心して下さい。
子供達に風邪を引かさぬ様にお願い致します。
当分の間、便りを致しませんが、元気ですから心配せぬ様にして下さい。
寒くなりますから身体に気を付けて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊(鈴木隊)今井隊  福島 泰山

「当分の間、便りを致しませんが・・・」とあるのは、この時、満州岩6418部隊は今井隊長のもと南方戦線へ転戦すると発表され、12月2日出発となったのです。

【参考】第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・

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  12月2日より陸路、海路を経て12月22日にラバウルへ到着しております。

以下の便りには「ニューギニア」方面へ転戦したとは書いていませんが、私が浦子から地図を前にして聞いたのは「父ちゃんは牡丹江から、ニューギニアの戦地に移動したんと・・・」と教えてくれたので、12月2日到着早々に(ニューギニア方面)という便りが来ていたようです。
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 昭和18年(1943)131日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後大変永らくご無沙汰しましたが、
子供達や皆、変わりはありませんか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
先日、送金しておきましたが届きましたか。
何か子供達のものでも買ってやって下さい。
内子の方も元気ですか。大街道の光月堂へもよろしく。
八木の人に度々便りを頂きましたが、よろしく云って下さい。
寒い頃ですから身体に気を付けて下さい。
お母さんや門屋へもよろしく。 では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和183月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、ご無沙汰致しますが、皆変わりはありませんか。
子供達も相変わらず元気ですか。
私も元気ですから安心して下さい。
内地も大分暖かくなってきた事と思います。
芳子の一周年も来ることと思いますが、丁寧に祈ってやって下さい。
時候柄ですから身体を大切にして下さい。 内子へもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和1852日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事で安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
俊光もまた内子の皆も元気なとの事で安心して居ります。
内子から慰問袋を送って貰いましたから、礼を云っておいて下さい。
大街道や近所の門屋さんにもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

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 昭和18年(1943)610 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後ご無沙汰ばかり致しますが、子供達や皆は元気ですか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
内地も大変暑くなり始めたことと思いますが、
子供達の病気に充分気を付けて下さい。
先日内子から便りが有りました。 皆身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

 
 昭和1877日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日便り受け取りました。 
子供達や内の者も皆元気との事、安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
内子からも便りがありました。皆元気との事、安心して居ります。
大街道の光月堂も元気ですか。 よろしく、では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和188月 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、其の後、皆元気ですか。
内地も大変暑いことでしょう。 私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
内子の俊光も元気との事、安心しております。
時候柄ですから子供達の身体にも気を付けて下さい。 では又。 

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山


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 昭和18年(1943)9月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後お変わりありませんか。
私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
子供達やお母さんも元気ですか。
少々送金して置きましたから、受け取って下さい。
時候柄ですから身体を大切に。  返事下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和181016日 松山市琢町64  福島 浦子 様 
本日、便り受け取りました。皆元気との事、安心しております。
送った煙草、着いたとの事ですが、あれは呑んで下さい。
半分は内子へ送って喫って貰って下さい。
「カビ」がねても(かびても)困ります。
下宿で居る学生さんにものましてあげて下さい。
皆、身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

(この便りから「私も相変わらず元気です・・」の言葉が抜け落ちています。 マラリアの発熱で配給の煙草が不味くて吸えなくなった・・・ものと考えられます)



 
昭和18年11月中旬? 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山




 この頃、父・泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。 

 泰山は昭和18年(1943)11月26日
にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。 

【参照】↓

第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・


第33
話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図


第33
話の⑨・・父泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・



保存保存保存保存

第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・

 昨年、愛媛県内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう父から祖母浦子に宛てた「軍事郵便はがきの束」と、応召した時に受けた「軍隊手帳」が出て参りました。
 昭和20年7月26日の松山大空襲があり、祖母浦子が非難の時、持ち出され昭和21年1月に祖母浦子が逝去した時、葬儀に参加した母方の祖父忠兵衛が預かったものです。

 手帳には入隊した昭和16年7月から、赴任地の満州牡丹江省東寧市城子溝に於いて、活動を始めた約3ケ月がメモ日記風に記されております。

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 愛媛県の警察官だった泰山は、昭和15年頃喜多郡内子警察署から越智郡岩城島駐在所へ家族と共に赴任しました。
 この地で三男、孝芳が昭和16年7月13日に生まれまして、相前後して「召集令状」が届いたのです。 

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・            伯方島から見た岩城島全景

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             岩城港フェリー埠頭

(((47年・岩城港
    改造前の岩城港波止場(昭和16年頃は奥の階段岸壁に客船が接岸)

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             岩城島巡査駐在所

【参照】第19話 父の姿 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8714329.html

 泰山は昭和8年に愛媛県警察練習所を卒業して警察官になっております。
 併せて、警察練習生時代に松山歩兵第22連隊の教練も終了していました。
 その為、召集後20日間の短期訓練で、警備隊として前線へ派遣されたのでしょう。

 日米開戦が昭和16年12月8日ですので、その5ケ月前の開戦に先駈けての布石が準備されていたと思われ、衛兵関連要員として巡査の中から応募者を募った形跡を感じます。


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・          愛媛県警察練習所 卒業記念写真帳  昭和8年

◎s昭和8年第22連隊23歳
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          松山歩兵第22連隊教練時の泰山(22歳)と善行証書


以下、善通寺連隊召集入隊 ★ 軍事日誌内容
昭和16年7月
29日・・午後9時、来市一泊す。 竹松作太氏(徳島市田宮町字耀硝舎)
(当時、善通寺は善通寺町だったので、来市ということは松山の実家へ帰省したという意味か)(又は、徳島市の竹松宅へ一泊の意味か)
30日・・午前10時森山と会合。午後1時入隊、合格す。
31日・・女学校を宿舎とす。

昭和16年
1日・・・女学校を宿舎とす。
2日・・・仮軍装検査、各々行先地判明「兵站警備隊64」
3日・・・午前10時本軍装検査、三十二部隊営庭に於いて接種ホーソー。
4日・・・朝、演習。 午後1時接種腸チフス。 慰安会 於講堂。
5日・・・無為
6日・・・同上
7日・・・演習
8日・・・同上
9日・・・同上
10日・・演習
11日・・揮弾筒射撃。
12日・・演習
13日・・演習、海岸へ
14日・・演習、夜間大暴風雨。
15日・・演習。 母、妻より便りあり。 土居君より便りあり。
16日・・演習
17日・・班内休養。 夜間慰安会。
18日・・森山三十二部隊へ。 妻より便りあり、泰弘の絵を見る。
(この絵は、内子町の表の部屋で描いたのを憶えているので、この時は岩城駐在所を引き払い、母の実家へ移転していたようだ。 弟、孝芳が生まれて1ケ月後のことだ。)
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(この絵は泰山遺品の「お守り袋」の中に、折りたたんで入っていたが、未だ探し出せてない・・・公用箋に大まかにこの感じの絵でした。 絵の「いわれ」は・・・↓)    【参考】第22話・・汽車の絵  http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8721542.html?type=folderlist

19日・・班内清掃整頓。 今夜か明朝出動準備の上、出動の検閲。 
・    午後1時頃に今夜出動と判明す。
20日・・午前1時整列出動。 自転車途中困る。 
    午前9時乗船す、208号 5千トン位い。
    坂出発、西へ西へ一路波路をたどる。 船内狭小。 
    午後4時30分弓削沖通過
    午後6時30分今治沖通過。 午後9時30分菊間沖、就寝。
21日・・午前4時30分起床。 
    同7時20分関門通過の警報あり、全員上甲板上板を禁止す。
・    愈々玄界灘だ。
22日・・暴風雨正子頃(0時)停止。午前6時馬山着。 船内にて一泊予定。

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            朝鮮 馬山港 (釜山西方)

23日・・馬山港、船内一泊。
24日・・午前6時上陸す。 馬山にて一泊す。
25日・・午前7時集合、列車乗組み。午前9時馬公発。夜龍山着(京城郊外)
26日・・引続き列車内にて目的地へ鏡城。 羅南通過。夜間們通過。
27日・・引続き列車にて目的地へ、正午頃、城子溝着。
    途中各所にて駐屯軍を見る。当夜露営。

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            東寧、城子溝周辺要塞配置図

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              東寧市の位置


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鉄塔のある勝鬨山と右の栄山(手前は兵営跡)   勝鬨山から栄山陣地を見る

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勝鬨(かちどき)山から北西方向を見る     勝鬨山から勲山を見る

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            勝鬨山から勲山全景を見る

  勝鬨山からの展望


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          勝鬨山地下陣地

28日・・満人部落を見る。 各種準備をなす。
    大陸の月、感慨無量、然も夜景良し。
    終夜、駐屯部隊の演習を見る。(講話)露軍の装備不完全を聞く。
29日・・満人部落を見る、物価の高きに驚く。 各種準備で1日をつぶす。
30日・・炊事勤務。 満人部落に赴く、支那酒(火酒)を飲む。
31日・・約1里程離れたる処へ演習に赴く。洗濯を為す。ノロの足跡多数。
    下士官及び兵が公用外出の途中、越境せる・・・を聞く。

昭和16年9月
1日・・・炊事勤務。
2日・・・衛兵勤務あり。
3日・・・衛兵勤務。 見習士官失敗の件。
4日・・・炊事勤務。 他部隊は演習に赴く。手紙を書く、家族其の他10枚。
5日・・・幕舎(テント)移転準備。班長と将棋を為す、勝。
 洗濯に赴く、山一つ超えた個所なるも、当地方に此処しかない清水なり。     気持ち良く水浴す。午後、移転地の準備をなす。
6日・・・南方、山向うに黒煙上がるを見る。
    大同、中西部隊の火薬庫破暴の事。スパイの仕業か。
7日・・・朝より移転準備をなす。 移転、道路より北方。
    中盆の事ゆえ各幕舎に酒3本配給さる。
    煙草の配給あり、(ゴールデン)バット20個あり。
    1個4銭、安価に驚く。夕食後に飲酒歓談を催す。
8日・・・休養日。
9日・・・朝より演習をなす。ソ連国境及び東寧(市街)の一部を見る。 

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  右手斜め奥が東寧市中心部    ソ満国境の大烏蛇溝河(対岸はソ連)

10日・・炊事勤務。 外出日なるも警備中隊なるに付き、天幕内にて休養。
    各所にて喧嘩。
11日・・勤務中隊の炭焼きの護衛に、小隊は行く予定なるも雨の為中止す。
    整列遅延にて、隊長に怒られ馳歩をなす。
   午後、薪を取りに全員赴く。狐の走るを約200米位の処にて見る。
16日・・孝父へ石炭取り使役に赴く。
    西宇和郡(愛媛県)の石崎氏と面会す、懸命に歓待を受く。
    昼食は同処で食す、面白く。
17日・・東寧市へ外出す。 松本氏と同伴す。
18日・・石炭取り使役に赴く。非常に面白く、夜間は酒の給与あり。
19日・・連隊兵器検査、終了後各個教練。
20日・・班内休養、他の者は演習に赴く。 冬服を支給さる。
21日・・洗濯に赴く。 夜間警備に付く、東寧より未だ遠方約一里とのこと。     6分隊は残留。
22日・・衛生講話あり。各個教練。午後は射撃予行演習。
     夜間、中隊の派遣あるを聞く。東寧より約一里位い東方との事。
     希望あり、然れども6分隊は残留らしい。
23日・・出発す。 露営移転。
24日・・衛兵勤務あり。
26日・・班内休養。
27日・・班内休養。 本部下士官、営倉懲罰房入倉の噂あり。
28日・・衛兵、営倉衛兵、吉林へ下る事の噂、伝わる。
29日・・班内休養。 幕舎に移転(二幕舎) 西田と親しくなる。 
    第一線、飛行機を射撃との話あり。 
    第三小隊先遣隊、花園へ出発す、全員310出発と決定。
30日・・班内休養。
    午後4時、弾薬輸送のため宇都宮軍曹と共に花園へ先遣さる。
    村上、松本の諸氏へ久し振りで面会す、一夜を楽しく過す。

昭和16年10月
1日・・・倉庫の上面へ移転。支那の小汽車を見る。
    移転完了、普通の人家なり。 倉庫の衛兵に村上氏と赴く。
2日・・・本日衛兵。
3日・・・下番。
4日・・・本日衛兵。
5日・・・本日衛兵。
6日・・・下番。
7日・・・衛兵上番。
8日・・・衛兵。
9日・・・下番。
10日・・昼間休養。夜間衛兵。

(ここで終っています)

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        城子溝駐屯中に同僚と東寧市内で写した写真 ▼
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    ▼ [ 小嶋日向守 ]さんのご協力で色彩復元して頂きました。
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泰山が満州、東寧城子溝からニューギニア方面ラバウルに転戦開始したのが、昭和17年12月2日ですので、約1年4ケ月東寧要塞周辺で活動したことになります。

【参考】第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・



保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

 第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・


昭和19年1月30日は、父泰山(34歳)の戦病死による命日です。
昨年、愛媛県内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう「軍事郵便はがきの束」が出て参りました。

     満州牡丹江省東寧県城子溝から祖母浦子宛の葉書。
     転戦先、ソロモン諸島ラバウルから祖母浦子宛の葉書。
     一緒に帰還した戦友から、傷病兵姿の父の写真が届き、問い合わせした祖母浦子の葉書。(昭和19年1月14日)
     入院先が判明して親戚から父泰山に届いた見舞い状。(昭和19年1月18日~)
     祖母浦子が陸軍病院へ看病に、27日に出向くとの父泰山宛の電文。(昭和19年1月26日)
     命日が1月30日ですので、これら葉書の内容から推測すると、私ら子供たちが、忠兵衛と共に面会に行った日は、28日か29日のどちらかだろうと推測されます。
  (父の姿は今でも思い出されますが、余命一両日の姿には、とても見えませんでした。 高熱に犯されるマラリアは日ごと周期的に、急激な容態の変化をもたらせるものですので、その犠牲になったと思われます。)
・  浦子が手元に置いていた、松山歩兵第22連隊教練、軍服姿の父の写真立て。
・  召集を受けて入隊当初の軍隊手帳等。(昭和16年7月)

私が想像するに、この葉書類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。(私と弟俊光は、空襲が激化して低学年は無期休校となったため、休校していない母の実家の内子町へ20年5月に疎開していた。)

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。


 父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思います。
大した内容ではないのですが、手紙を通じて連絡さえしておけば「元気だと伝えられる」ということに徹していたと思われます。
そして転戦先のラバウルから届いた最後の葉書が次のものでした。

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 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

昭和18年11月中旬?南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山


 この頃、泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。
昭和18年11月26日にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。
父泰山らはマラリアを押して、17時間の漂流を強いられた後、救助されたとのことでした。

【参考】 ↓

第33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965782.html     

第33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965783.html

 そして昭和19年正月明け14日に、一緒に広島へ帰還した戦友梅川利夫氏から父の実家に、下記①の封書(書状ナシ、写真在中のみ)が、いきなり届いたのです。

その写真は、父の「少々やつれた傷病兵姿」の写真でした。
写真の負傷兵姿の泰山を見た祖母浦子は、仰天したものと思います。

「11月以来便りが無かったが、ニューギニア方面で、
元気にご奉公していると思っていた泰山は、負傷して白衣を着ている・・ここは何処の病院か?発信先の広島へ帰還していたのか?」

 「本来なら本人の泰山に渡される写真が、説明もなく実家に届くとはどう云うことか?」
となったのです。


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・        ①に入っていた写真・・・左二人のどちらかが梅川利夫氏 
          (帰還到着地の広島陸軍病院江波分院であった)


 【参考写真】
下の【廣島第一陸軍病院江波
(えば)分院】に帰還したようですね。
下の写真の【庭石】【松ノ木】【後方の病舎】は同一場所と判定できます。
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広島陸軍病院江波(えば)分院(池原上等兵召集解除記念に広島県沼隈郡出身の者相集いて・・昭和18年9月26日)

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広島陸軍病院江波分院・・・演芸会出演者記念撮影,俵おどりをなし好評を博す・・昭和20年4月12日

↑広島陸軍病院より・・http://www.roswitha.jp/%5B1%5Dguni@genbaku@kangofu@test.html



① 愛媛県松山市琢町64   福島 泰山殿
      【写真二枚在中】

1月6日  広島陸軍病院 第二分院四八病棟   梅川 利夫



② 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、写真確かに受け取りました。
泰山に下さりましても、私方には居りませんが、貴方と同じに広島病院に入院して居るのではありませんか。 それとも、松山の病院の方へ変わりましたのでしょうか。
1月5日に検閲があるところを見ますと、未だ広島病院に居る事と思いますが、それとも松山の方へ帰ったのでしょうか、お知らせ下さい。
広島分院に居るの成れば、一度子供を連れて行きたく思いますから、お手数ながらお知らせ下さい。頼みます。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子  (祖母)
 

③ 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、早速写真を受け取りまして、開封してしてみました所、向かって右が「泰山」でありまして驚きました。 元気でご奉公していると思っていましたのに驚きました。
その後、梅川様には、おいおいご全快ですか。 泰山も同じでしたら、子供を連れて一度面会に行ってと思うのですが、何処でしょうか。
お返事下さることは出来ないでしょうか。
子供は皆元気と伝えてください。  さよなら。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子


 1月14日に祖母浦子が梅川利夫様に出した2通の葉書は、「受取人不在ニ付キ、差出人戻シ」で浦子の元に返却されております。  

恐らく、受取人(梅川利夫氏)が泰山と同様に地方病院に移送されたか?
又はマラリアの進行で死亡されたか?・・・と想像されます。
(この2通とも、閉じ穴が開けられ、こより紐が付いているので2通セットで【受取人不在】返却されたものと思われる)

 そして、これを喫機として、祖母浦子は泰山の入院先を探り当て(泰山から葉書が到着した模様か?)、下記親戚縁者に知らせたのでしょう。
 親戚からは昭和19年1月18~19日に集中して、泰山宛に見舞い状が出されております。

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④ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

本日便りを受け取りました。先日、写真を二枚受け取りまして驚きましたが、便りにより安心はしております。
早速面会と思いますれども、私も目が悪く、それに子供を連れては思うようになりません。
暖かくなったら早速行くつもりです。
それとも内子へも写真のことで手紙を出しましたから、当面、今日にもと言うかも判りませんが、寒いから子供に風邪でも引かしてはならぬです。
身体に気を付けなさい。 祖母も元気。

1月18日  松山市琢町64   福島 浦子 
(祖母)


⑤ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山殿 (伏見四番)

前略、その後ご無音を謝し、本日葉書到着仕り
(つかまつり)候。
尚、昨日内子町黒田熊治様にお言付けを賜り候。
貴殿、この度ご不快にて御地へ帰国、ご療養中とのことに御座候。
何れお伺い申したいと考え居り候。
尚、寒気の節に衣類等、ご入用の事なるかなと思いおり候に付き、ご入用の物何なりとご通知下されば、早速取り揃えご送付申すべく候。
その他何なりと有れば、ご一報くだされますよう願い上げ候。
尚、私方俊光を始め皆々無事に過ごし居り候に付きご安心の程。
尚、近所も別に変わり無く、親族一同も皆元気に御座候。
寒さが加わる折から故、存分にご注意ご養生第一の事に御座候。
右の通り、如斯
(かくのごとく)に御座候。

1月18日 伊予 喜多郡内子町  森並 忠兵衛  
(母方祖父)


⑥ 善通寺陸軍病院
 第33病棟 1号室 福島 泰山様 (伏見返し四番)

拝啓、厳寒のみぎりとなりまして、大層お寒いことでございます。
暫くご無沙汰いたしております中に、早1月も半ば過ぎとなって参りました。
承りますれば、お兄さんには只今は表記の所、善通寺の陸軍病院にてご療養中との事でございますね。
近頃、ちっともお便りが無いものですから心配しておりました矢先、松山のお母さんよりお葉書が参りまして、お母様方へお兄さんの白衣のお姿のお写真が来まして、如何したものかと驚き心配しております、とのことが書いてありましたので私方でもご案じ致しておりましたのですが、昨日当町の黒田さんがお見えになりまして、色々とお兄さんの事や何かを話して帰られたそうで御座いまして、私方でも幾分か安心しておりました。
また今日は久し振りにてお葉書戴き、家内一同拝見致しました。
申し遅れましたが、私方一同無事にて恙無く過ごし居りますから他事ながらご休心下さいませ。
俊光ちゃんも元気にて風邪一つ引かず成長して居りますから、何卒ご安心下さいませ。
隣の叔父さん方も皆元気で居られます。
どうかお兄さんも気を確り持って、一日も早く元のようなお元気なお体になられる様、気長くご養生なさいませ。
私たちも、それのみお祈りしております。
では今夜はこの辺にて失礼させて戴きます。
祖母、母よりもくれぐれも宜しくとのことでございます。さようなら。

1月18日  愛媛県喜多郡内子町  森並 登志子 
(母の妹)


 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山様(伏見分院四番病棟

拝啓、本日ご連絡に依れば、ご病気にて内地病院にご入院の由、
連絡受けた文意、簡単にてご容態も如何と案じております。
何れお見舞いに参上予定ですが、充分ご注意遊ばされ、ご養生が肝要と存じつつ、ご入用の品も御座いましたら、遠慮なくお申し出下され度く。
転じて当方一同無事、ご安心を乞う。

1月18日  伊予 長浜町   岸本 喜兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑧ 
善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

拝啓、毎度ご無沙汰のみ致し、誠に申し訳ありません、何卒お許し下さる様。
さて、お葉書に依りますと はやり病気にて鋭意養生中の由、
寒さの折から、充分注意養生遊ばさる様、先ずは病気お見舞い迄に。
詳細は後便に。

1月19日  伊予 喜多郡長浜港  友澤 利兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑨ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山殿 (伏見四番転送)

前略御免、私、今度の日曜日に面会に行こうと心積もり致すも、丁度其の日に
・・・候ところ、天気の都合も有之候。近日内に行く考えに御座候。
付いては目下、寒気の為衣類等ご入用に御座候。陳者
(のぶれば)持参可能。
尚、其の他ご入用品あれば、陳者何なりとご持参致すのでご返事願い度し。
尚、未だ熱の差引かず、熱が続き面会に行きても、面会することが出来ん様なる事にては、致しかた無しと思いおり候ところ、いつ面会を許して貰う事に御座候。  
貴殿よりの筆跡を見ては、大分良き方の様子と推察、面会が出来る事と願い居り候。敬具

1月21日   愛媛県喜多郡内子町  森並 忠兵衛 
(母方祖父)


1月27日朝、浦子が看病付き添いの為、急遽善通寺へ向かっております。
     1月26日午前11時発信・・・・・・午後0時59着信
イメージ 5

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            善通寺陸軍病院 伏見分院


【参考】↓
第33話の 善通寺陸軍病院の父

第33話の 善通寺陸軍病院の父

 第33話の①にあるように、忠兵衛らに連れられて、私ら兄弟3人が面会に行った時の、あの松山駅でのあの雑踏は、昭和19年1月28日か29日で、調べると旧歴では1月3日か4日となり、正月の帰省客復帰の大混雑だったのだと想像できます。

(当時、田舎では旧正月で年越しをする風習で、郷里で正月を過ごした職人たちが、職場に復帰する混雑だったのでしょう。)




保存保存保存保存保存

昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・

昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンなどほとんど無く、時々夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。
ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。
昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことありました
  
【第54話・松山での空襲】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。

いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
             戦災前の清水小学校   上=南西方向から見た正門  下=東南方向から見た全景


 警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)
 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先に運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の三津浜方面だろうか。
  あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

イメージ 2
      清水国民学校(清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・・
 
 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
 防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高商北側の帰り道を、砂埃を上げながら懸命に走って行く。

松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。

イメージ 1
          松山高等商業学校の正門(東門)


 防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。


 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕を回しながら身振りで指示している。

 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

練兵場に並べてある戦闘機のすぐ横の周辺である。

           
((●●s城北練兵場●
通学路から城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・

【第36話・城北練兵場の変貌】参照→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8803577.html


 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。
 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


イメージ 3
        B29が、4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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               ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。


 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。
 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判ない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く把握することが出来ない。
 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。
 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていたあの煙を、西方に見てみた。
 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている。


イメージ 6
      6kmほどの三津浜付近から、黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は、夜には炎に染まって、真っ赤に見えていたが「一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じた。

『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』

一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

「5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」


あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。
 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知あるまで通学見合わせ・・家庭待機」と云う通達が為された。




昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・

昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンなどほとんど無く、時々夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。
ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。
昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことありました
  【第54話・松山での空襲】参照・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。

いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
               戦災前の清水小学校  上=南西方向から見た正門  下=東南方向から見た全景


 警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)
 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先に運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の三津浜方面だろうか。
 あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

イメージ 2
     清水国民学校(清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・・
 
 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
 防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高商北側の帰り道を、砂埃を上げながら懸命に走って行く。

松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。
 防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。
 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕を回しながら身振りで指示している。

 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

練兵場に並べてある戦闘機のすぐ横の周辺である。


((●●s城北練兵場●
           通学路から城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・・
【第36話・城北練兵場の変貌】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8803577.html



爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。
 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


イメージ 3
          B29が、4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


イメージ 4
                ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。

 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。
 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判ない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く把握することが出来ない。
 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。


 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。
 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていたあの煙を、西方に見てみた。
 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている。


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      6kmほどの三津浜付近から、黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は、夜には炎に染まって、真っ赤に見えていたが「一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じた。


『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』


一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

 「5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった。」


あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。
 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


  この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知するまで家庭待機」と云う通達が為された。




中学校の卒業を、来年の春に控えた昭和二十七年秋のことでした。

担任の藤田先生が、進路指導を含めての聞き取り調査が始まって居りましたが、山間の小さな町内の事、高校進学などは家庭によほど余裕のある子息、子女の行くところじゃ・・・との風潮が残っており、子供ながらに「進学したいけど無理も云えんし・・・」と悩んで居りました。

と云うのもウチでは父は戦死、母は若くして他界した境遇のこの身、兄弟三人もが祖父母宅に居候の身だったのです。 終戦直後の当時、同級生の中でも家は空襲で壊滅し、父が戦死したという同じ境遇の子息はクラスの中にも十人近く居て、決して珍しいことではなかったのです。

祖父母の考えは、僕に就職する意思を貫かせて、精一杯に職に就く努力をさせた上で就職が叶わなければ別途方法を考える事とする・・・と心積りしていたのでしょうか、目標が潰えない様に努力させる為か、本人の意思も考えず中々「高校へ進学させる」と云ってくれませんでした。

 

戦災者扶養補助や戦死者遺族年金等も受給していたのでしょうが、中学生にその内情にまで理解できるものでもなく、祖父母の意向を尊重し就職する方向で努力をした挙句、若し叶わなければバイトしてでも高校へ進学するという道を選んだのです。

高校生の場合、日本育英会からの奨学金は千五百円/月もあり、これを申し込めば何とかなるだろうとの考えも持っておりました。 

 

そんなこんなで、中学三年生の後半は就職試験の問題集で徹底的に模擬試験に励んだのです。。

当時、中学卒で目指す先は、電電公社の傘下で社員養成施設の電気通信学園と電力会社の養成施設の電力社員養成所があり、合格すれば給与を受けながら養成終了後社員となる制度が有ったのです。

担任の藤田先生と相談して電気通信学園を数名が受検したものの、一握りの合格者を集めるのに数百人の受験者で、その上親族が勤務している縁故受検者は合格に有利との情報もあり、同僚も含めて全員不合格に終わったのです。

新聞配達も問い合わせてみたが、小さな町の事、成人の職業として成り立っており、バイトの入り込む余地など無いとのことでした。

高校の入試は周辺の山村の中学校も含めての受験だが、就職試験の問題集で訓練のお陰もあり、十数人程落伍したとの噂を聞きながらも、まずまずの成績で合格したが、仲の良い優秀な友人など数人は家業の手伝い等で定時制高校(夜間高校)にしたとの話を聞き、僕はまだ幸せな方なんだ・・・と感じ入ったものです。

 

中学校卒業式終了後に、担任の藤田先生に呼び出され『君はポスターや字を書くのがうまいが、映画館の辻ビラを書いてみないか? 本町劇場の映写技師をしとる先生の同級生が居ってな、高校へ入学する生徒で誰か辻ビラ書きのバイトを紹介してくれないかと依頼があったんじゃが・・・』とのこと。

先生は卒業した後の僕のバイト先を、何とか探してやりたいと常に気にしていてくれたのじゃなぁと先生の配慮に有難く感謝する気持ちが湧いてきました。

そう言えば三才年上の森野長一郎先輩が高校在学中にやっていた辻ビラ書きの仕事をしていて、松下電器への就職が決まったとの噂を聞いたことがあるが、それで辞めたんじゃなぁ・・・これは渡りに舟じゃ・・・と感じたのです。

『先生、僕にやらせてください。懸命に努力しますのでお願いします』と即答したのです。

『そんなら、すぐ連絡してみようわい・・・』と電話連絡してくれたのです。

先生は『明日の十時頃、本町劇場の竹崎さんを訪ねて来てくれ、社長に紹介するけん・・と言うとるけん、時間通り行ってください』

『先生、そうします。頑張ってきます』とわくわくしながら職員室を出たのです。


(●本町劇場1
内子町 本 町 劇 場

翌日、時間通りウチから五百米先の本町劇場へ竹崎さんを訪ねた。 竹崎さんは僕を社長のところへ連れて行き   『宮崎社長に話を通してあるから、社長から話を聞いてな・・・』と云って事務所から出て行った。

社長は『家の近所にも貼ってある辻ビラを書いてもらうのじゃが、見たこと有るじゃろ?』

『はい、知っています』

『いっぺんコレに【十五日、二本立 三十円 本劇】と、この筆を使って書いてみてくれるか』と筆、絵具鉢と用紙を差し出してきた。 僕はいきなり看板風の隷書文字を書くのはおこがましいと思い、習字のつもりの楷書で云われた通りに書いてみた。 

『うーん、筆慣れはしとるのぉー、じゃが看板字はこの様に書くのじゃ。 劇の字はややこしいので略してこうじゃのー』としっかりした筆使いで隷書風な看板文字を看板屋の様に上手く丁寧に書いて見せた。

『これを手本にして二、三枚書いてみてくれ』

僕は隷書を書く要領で難なく二枚仕上げました。『こがいなもんで、いいですか?』・・・

社長はそれを見て二、三度頷きながら『バイト料は高校の月謝の足しにするんか? 田舎の映画館じゃけん二本立てで三十円、四十円の入場料しか貰えんけんの~、余り出せんけどそれでも良かったら来てくれや。 高校の月謝はなんぼなんじゃ?』

『一ヶ月に七百円です』

『よっしゃ、それじゃぁ月給七百円にしょうわい、明日から毎日来れるか?』

『土、日曜以外は三時まで授業が有るので、毎日四時には来ますから・・・宜しくお願いします』という事を伝え事務所を出たのです。 永い間悩んでいた懸案のバイト先が決定したことで、やっとこさ安堵の胸を撫でおろした次第でした。  

 

町内にはこの本町劇場と旭館の二つの映画館があり、加えて内子座と云う立派な芝居小屋もある。

パチンコの普及する以前の時期でもあり、テレビの無い時代の事、おのずと娯楽は映画か、芝居しか無く芝居小屋には定期的に巡業芝居一座が興行し、本町劇場は大映、東映、新東宝系で旭館は東宝、日活、松竹系で二百席程でしょうが、夜は周辺農村からも客が来て娯楽は映画しかない時代なので、いつも満員状態で映画館だけは大賑わいをしていました。

 

 翌日からいつもの下駄ばきで歩いて行き、改札口の小母ちゃんに「バイトの福島です」と会釈して入ったら、すかさず映画ポスターを差し出してきた。


 『明日十六日の映画はコレじゃけんな、コレと同時上映【駅前旅館】の二本立て四十円となっとるけん、明日からはポスターの準備状況を見て上映予定表と料金を確認して書いてな、判らなんだら教えるけん聞いてよ』 

そして小さな片手鍋を持ってきて 『コレ、にかわ(膠)を溶かしたお湯じゃけんな、コレで粉末絵具を溶かして書くのよ、コレで絵具を溶かさんと、ビラが雨に濡れたら字が流れて消えてしまうのよ・・・』と用紙三十枚と赤、紺、黒の絵具鉢と筆を用意していた。作業は二階の映写室横の高圧線整電機のある部屋で常にブーンと云う整電機の唸り音がしている、それに加えて隣の部屋の映写機のコマ送りの音がうるさい場所でした。

 床に置いてある台の上で中腰になって書いてゆくのです。


(本町52

 『適時、休憩のつもりで映画を見てもエエから・・・』と云われていたので二階の隅でゆったりと一息入れたり、売店でアイスを買ったりと比較的自由も利くのです。

 館内のメンバーは社長の他、切符売り場、改札係、売店、清掃の小母ちゃんが四人、映写技師の竹崎さんと助手の七人でしたから、直ぐに馴染みになってゆきました。

 

 三十枚書き終わると筆を洗って道具を整理して、書き上げた三十枚を改札の小母ちゃんに渡すのです。小母ちゃんは『コレをポスターに貼って繋ぐのがウチの仕事じゃけん・・・、それとなぁココで働く人の家族は、改札はフリーパスじゃけんな、(福島の家族です・・・)と云うてくれたらエエけんな』とのことだった。

 帰宅後にそれを祖父母に伝えたら『おこがましいから、そんな事出来んわい。 漫画映画の時、弟等が行くじゃろ』との返事だった。

 

その数日後、待望の高校入学、一年一組となり京大出身の宇都宮正弘先生が担任となったが、同じクラスに当時未だ無名だった大江健三郎の妹が偶々在籍して居たのです。 


そういう事もあってか先生は、僕らが名前も顔も知らない三年先輩の大江健三郎を何かに付けて例えに出し 「大江さんの兄貴、大江健三郎君は当校へ入学したんじゃが、あんな頭脳明晰な男は、今まで見たことが無いぞ、カミュや太宰治を読んでいて只者じゃない思考力がずば抜けとった。 彼は当校に入学したんじゃが二年生から松山東校へ転校させたんじゃ、今は東大へ進学を目指しているので、いずれ大成することじゃろ」

「当校に居ったのでは大江健三郎のあの才能は伸びんわ、下衆の中ではあれだけの卓越した能力の芽が摘み取られてしまう。 東大を目指すのなら松山東高校へ転校しろと言うてな転校させたんじゃよ」 と並外れた才能を見抜いていた大江の良き理解者でもあり、名立たる大学への合格率の良い松山東高校への転校を先生主導で勧めた様でした。

(低俗な一般人に同調できない気質と内気が禍いして、級友から陰湿な虐めを受けたらしく、二年生から松山東高校へ転校したそうです・・・)

【参考】
忘れかけの内子町風景・・⑯ 作家 大江健三郎 ↓

http://y294ma.livedoor.blog/archives/26496443.html


(((●G_3342
 1年1組 宇都宮先生と大江健三郎の妹(前列左端)

 

入学後一ヶ月ほど経たホームルームの時間に担任の宇都宮先生は『この前言うとった(バイト届)を持ってきている人、提出してください」との事で提出した。 バイト先と勤務時間、作業内容を書いただけのものだが、担当教諭が情報把握だけはしておきたいとの主旨の様で、僕ともう一人が提出した。

先生はざっと目を通しながら『福島君、本町劇場の木戸口の小母ちゃんはな、先生の姉御じゃからな、ビラ書きしに行って映画ばかり見とったらいけんぞ。 真面目にやらんと監視付きみたいなもんじゃからなぁ』とダメ押しの一言がきた。 級友の目の前で、他の生徒への牽制の意味も含めて明からざまにしたのでしょうが、一同から失笑が漏れていました。

狭い町のこと、そういえば改札の小母ちゃんは宇都宮さんだったな、知らなんだなぁ・・・と納得した次第です。

それから先生は『級長をしてくれていた岩田君が病気療養のため明日から三ヶ月間、療養所へ入るので、代行者を選任することになったんじゃ・・・、福島君、君やってくれ・・・』

 『先生、僕バイトの件も有って気分的余裕がなく責任重大過ぎです。選挙で選んでください』

 『新入生は見知らぬ者同士、選挙が出来んから入試の成績で岩田が選ばれとったんじゃ。 二番目が君だったんじゃ。 級長の打合せ会合と云うてもクラブ活動で忙しい者も居るんじゃけん、三十分ほどじゃ、何とでもなるよ・・・』と押し切られてしまった。 考えて見れば入試の成績が思わぬところで公開され判明してしまったのでした。

 

約半年が過ぎてバイトにも慣れ、洋画やあっけらかんと笑える喜劇の面白さが好きに成り、伴 淳三郎、堺 駿二、古川ロッパらが出演した笑える映画は時々見に行く様になりました。

ところが夜行くと、いつも何処かの席に必ず担任の宇都宮先生が坐っていて映画を見ているのです。

生徒が遊び呆けて映画を見に来てないか・・監視を兼ねて来ているのかな?と感じるのです。

木戸口に姉さんが坐って居るのでフリーパスは当然なのですが、娯楽と云えば映画だけの時代です、それも毎日の事、先生の夜の時間つぶしには最適だったのだと思われます。

劇場近所の友人に、その事を話したら『ワシらも睨まれたこと何度も有るぜ。木戸口の小母ちゃんが宇都宮先生の姉さんじゃけん、タダじゃから毎晩、時間つぶしに来とるんよ。そじゃけん一階で見るのは大禁物じゃ』と要領を得た反応が返ってきたのです。

 

欠勤も無く真面目に務め一年が経過した三月の給料日に、社長から『毎日、真面目に頑張ってくれとるなぁ・・・二年目の来月から月給千円にしてやるけん、頑張れよ頼むぞ』との期待と労いの言葉をかけて貰い嬉しい気持ちが湧いてきた。

月謝を払った残り、三百円の小遣いが残ることになるのか・・・と満足感に浸ったのです。

(本町104.2
 

客席が暗闇の田舎の映画館のこと、昼間の閑散とした時間帯には思い掛けない事態に遭遇することが有ります。作業が一段落して休憩しようと作業室を出ると、二階席であり正面がスクリーンで、そこに濃厚なラブシーンが写っていたのです。

朝鮮戦争を描いたハリウッド映画が映写中でした。 空軍パイロットに扮したタイロン・パワーが従軍先から郷里へ帰り恋人と再会する場面でした。二人は互いに走り寄って抱き合いながら、熱烈で激しい接吻を繰り返しているのです。二人が離れようとした時、二人の唾液が繋がったまま糸を引いてこぼれそうになったのです。それをこぼすまいとタイロン・パワーが口で瞬時に迎えに行く仕草をする場面だったのです。

僕は濃厚なその場面に見惚れてしまっていました。

暗闇に眼が慣れて来て、ふと二階席前列を見ると一組のアベックが坐っており、映画のそのラブシーンに触発されてか、互いに腕を背に絡ませ抱き合い、男性が被さりながら永い熱烈なキスを続けているのです。

田舎でもこんな場面に遭遇することもあるんじゃなぁ・・・という思いで初めて見るキスの姿に見惚れてしまいました。

更に後部席に人の気配がしたので目をやると、同級生の俵頭君が一人っきりで坐り、スクリーンそっちのけで前のアベックがキスする様をじっと目を凝らせて観察していたのです。

俵頭君と僕は眼が会ってお互いが黙して笑顔、目と目で指と指でお互いに冷やかし合いをした次第です。


以来、昼間の二階席は結構な穴場じゃなあ・・・と解かってきたようでした。

近所のバーのお姉さんとそのお客さんが、二階席の隅の暗闇で映画場面など目もくれず、昼間からいちゃいちゃしているのを偶に見ることもあり、多少なりとも眼の保養にも成っていたのかも知れません。

 

全く苦悩を感じることも無く充実した三年間でした、少々の苦労をも楽しさや明日への糧にに変えてゆく気概を持ちながら、高校三年生の夏までビラ書きバイトを続けることが出来て、夏休み以降は就職準備に専念することとしたのでした。



 昭和2054日の朝、三津浜の丸善精油所を爆撃したB29が松山市上空を4機編隊で西から東へと通過しました。
 丸善精油所は南風を受けて、黒煙を上げながら燃え続け、一昼夜燃え続けていました。

 当時、清水国民学校(小学校)2年生だった私は、空襲警報の中、全校生徒は防空壕へ退避の後、集団下校したのですが、走りながら帰る途中で、そのB29が上空を通過したのでした。
 「今、投下されたらおしまいだ・・」と恐怖を感じながら帰宅したのです。
翌日の「愛媛新聞」記事は「西南から進入したB29は815分頃、軍事施設を盲爆し、今治付近を経て東方へ逓走した」だけで被害の内容は無報道だったのです。

【その日の状況】→頭上のB29・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9477431.html


 全国の主要都市が爆撃に晒される最中でしたので、その翌日から松山市では、『危険の為小学1~2年生は無期休学』となったのです。
母の実家の内子町では「休学はしていない」とのことでしたので、5月中旬に私と弟だけ内子へ疎開転校したのです。
(6月になってから、松山では『1~2年生は町内の天理教会で、補修授業が始まった・・・』との連絡を受けたのでしたが、内子に馴染んできたので、しばらく様子見しようと内子町に留まったのです)

 
内子で・・その2ヶ月後の726日・・

夜中に祖母タキノにたたき起こされた。 12時頃か・・・1時頃か・・・
 「早よう起きて! おおごとじゃぁ! 松山が空襲で、燃えとるぜ!」と言っている。

 二階表の部屋だ・・「こりゃ、大変じゃ!」
 寝ぼけまなこで、とっさに跳び起き、寝巻のままで下駄をひっかけて外へ駆け出した。
 近所の人らが、郷の谷橋(ごんたにばし)のところで10人ほど集まって、北の方向を見上げている。
 行って見ると、新天神さんの奥の空が、真っ赤に染まっている。


イメージ 4
           郷の谷橋から、空爆で燃える松山の空が見えた・・・


 深々と更けた田舎の夜のこと、静寂の中に遠雷のような音がかすかに聞こえ、赤く染まった空が時間とともに、明るくなったり暗くなったりしているのが解かる。
 遥か遠くをB29の通過する爆音も微かに聞こえている。
 これから爆撃に向かうものか、爆撃を終えたものかが気になる。

 「あの下で、末の弟・孝芳、浦子(祖母)、ヒサヨ(曾祖母)らが逃げまどうているのか・・・」という気持ちが、真っ先に頭をよぎるが「こんな遠くで・・・こんなトコで、寝巻き着てボーッと立っていてエエのか?」と自問しながらも、どうすることも出来なかった。

恐らく、主な荷物(行李4個)を避難させていた山越地区へ、必死で逃避行の途中でしょう・・・無事逃げていてほしい・・・と願っていたのです。

燃焼物の少ないコース、城北練兵場~千秋寺~松田池~山越への逃避行が眼に浮かぶ。
 無意識のままに手を合わせ、頭を垂れて無事を祈っていた。
 両手を合わせたまま、赤い空がある程度収まるまで見ていた。
 松山には「焼夷弾」(しょういだん=空中で爆発すると、飛散したゼリー状燃料が火の雨となって降ってくる)が降り注いだということを、翌日になってから知った。

約半月後に「3人とも無事に、山越公民館に避難している」との連絡が届いたのです・・・が一面の焼け野原の松山のこと、食糧調達も医療体勢もままならず、ひい祖母ちゃんは12月に他界し、祖母浦子(53才)も1月に相次いで他界したのです。

2回の葬儀に参加した内子の祖父ちゃんは、この時「松山は、とてもとても子供等を連れて行ける所じゃないわい・・・ひどい、ひどいありさまじゃ」と話してくれました。

 ごく最近、当時の記憶を、弟・孝芳曰く(当時4歳)・・・『空襲の時か、逃げる途中に、あぜ道の水路に落ちてズブ濡れになった。 (火災、火傷よけに、浦子が水に漬けたのかも?とも思える)
その時、浦子はバケツに魚を入れて持っていたが、足に火傷していた』・・との事であったが、兄の私が更に聞き出そうとしても、多くを語ろうとしなかった。(火傷防止用にバケツに水だったのか・・・?)

 
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          空襲43日目の空撮、焼けただれた松山市街・・・
(杉谷町から、北へ3本目の琢町の西端突き当たりに桝形(折れ曲がり)が、くっきり見える)


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  ↑1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山。 城北練兵場の格納庫4棟跡も見える。


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                        これが至近の・・・松山市



保存

ブログ「泰弘さんの追憶の記」を製本し、1冊づつですが松山と内子の図書館へ寄贈しました。
記述の中に下記内容があるからです。

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36話 昭和1920年の「松山・城北練兵場」周辺の変貌の様子・・

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松山城北練兵場へ訓練用戦闘機が運び込まれた・・

54話 昭和203月の堀の内周辺へのグラマンの機銃掃射の状況・・

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松山市琢町(緑町)から見えたグラマンの攻撃・・

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防空壕から首を出せば見えるのです・・


55話 昭和205月の三津の丸善精油所爆撃延焼と「B29の編隊飛行」・・ 

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清水小学校校庭にある防空壕へ走った・・

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西から東へB29が真上に迫ってきた・・今、落とされたらお仕舞いだ・・

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丸善精油所の燃える、真っ黒い煙は南風に流されて・・・


58話 内子国民学校(小学校)へ疎開転校と内子での生活・・

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                     堂々たる風格の内子小学校でした・・


75話①~④内子町にあった忠魂碑は今?と内子出身・重岡中将閣下のエピソード・・

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←内子町にあった38cm砲弾を頂いた忠魂碑


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                  ↑潜水艦の権威、重岡中将閣下


71話①~②松山東雲高等女学校生の尼崎方面・学徒動員先からの便り・・

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↑昭和20年2月2日学徒動員先、尼崎からのはがき・・↑昭和20年6月10日 松前の動員先から・・


本ブログ、カテゴリーの『爺ちゃん、婆ちゃんに捧ぐ追想録』を1冊にまとめまして、家族・親戚分として製本したのですが、余裕分を図書館用として贈呈したのです。

松山に於いても昭和20年7月26日夜の「松山大空襲」の空襲状況は語られておりますが、それ以外の空襲については殆ど語られておりません。
「愛媛新聞」でさえも、軍部の報道統制のもとで「三津浜の丸善精油所が被弾して全焼」とは書けなかったし、記録は残ってないのです。

その全ては「朝8時10分にB29、8機編隊が松山航空隊基地を空襲し、盲爆のあと逓走した」とあるだけなので、記録として残っているのは非常に限られたものと考えられます。
 
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製本はYahoo社で推奨する「My Books. Co」社で、訂正校正は全てnetにて自己校正で行いました。
写真、カットも含みますので文庫本【B6版】で【468ページ】となり、「MyBooks. Co」社では1冊の限界は480頁でしたので、丁度切りも良かったのです。
1冊あたり約10,000円に成りました。
製本するに当たっては、一般的には1ロッド=数十万円かかりますが、「My Books. Co」社さんではロッドに関係なく1冊より、受け付けてくれますので、少数注文者にとっては大助かりでした。
 

 さて、送呈先の図書館3ヶ所は・・・次の通りです。

     戦時中の松山市での空襲や城北地区の子供らの生活記述が多いので・・・
松山市立中央図書館 (松山市湊町7丁目5番地、松山市総合コミュニティセンター内)

http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisetsu/bunka/library/chuotosho/chuoutosyokan.html

   【蔵書検索エンジン】↓

 
     疎開先の内子町(母の里)での生活記録も多いので・・・
   内子町立図書館 (愛媛県喜多郡内子町内子3427番地.
   http://www.town.uchiko.ehime.jp/library/

   【蔵書検索エンジン】↓

 
     松山東雲高等女学生の尼崎方面、勤労動員先からの報告はがき内容の詳細記述があるので・・・
松山東雲女子大学 図書館 (松山市桑原町3丁目21

【蔵書検索エンジン】↓
http://lib.shinonome.ac.jp/jhkweb_JPN/service/termref.asp



足と足との恋路・・】

 

あれは確か小学校五年生の時(昭和二三年)だったと思います。

田舎の学校とは言え当時は子供も多く、一学年で三クラスも有り顔は知っているが、名前は知らない・・おしゃべりしたことも無い同級生も多かったのです。


自分のクラスにも可愛い女の子が居るにも拘わらず「他のクラスには可愛い子が多いなあ・・」と羨望の眼差しでいつも眺めていたものです。

そんな中で「可愛いい顔でおしゃまで、屈託のない明るく朗らかな美代ちゃん」がひと際目立っていて、僕は密かに思いを寄せていたのです。

当時は男の子同士で遊ぶのが普通で、男女共同で遊ぶことは殆んど無く、運動場での男の子同士で遊んでいる時でも、遠目に美代ちゃんがどの辺で遊んでいるのかと探していた・・という事が度々あったのです。    

初恋に目覚め始めていたのでしょうか・・・

 

毎年四月、学年が変わるとクラスの編成替えが行われ、新クラスが誕生していました。

五年生になって初めて美代ちゃんと同じクラスになったのです。

今迄女の子には近寄り難い一線が有ったのですが、利口で物おじしない屈託のない美代ちゃん等とお話しする機会も増えてきたのです。

 

新学期早々の休憩時間ことでした、頭が良くて成績優秀な美代ちゃん、知子ちゃん、文子ちゃんの三人が僕の方に目配せしながら何か相談していた気配を感じた後のことでした。

 大きな声で「福島さ~ん、くりくり坊主がかわいい~、好きよ、スキスキ」とか「福島さ~ん大好きよ~」とか言いながら三人がすり寄って来たのです。 からかい半分で弄られている雰囲気の声だが僕には本気に思えてなりません、その上、まんざらでもない気持ちなのです。

周辺の男の子も、何が始まったのかとびっくりしてキョトンとした様相と羨望の眼でニヤニヤしながらその女の子たちの様子を眺めているのです。

 なんとこの子等「好きよ~・・とか言うて、おませな女の子じゃなぁ~」と思いながらも、女の子から「好きよ~」などと云われるのは初めての経験でまんざらでもない、内心嬉しい気持ちがこみ上げて来ました。


「くりくり頭、チョットさわらせてよ~、なぜるだけじゃからぁ~」と美代ちゃんが言う、男の子はみんな坊主頭じゃのに、何で僕にだけ云うてくるのじゃろ? 他の男の子に気を使って「何で僕にだけ~~?」と云いながらも、「こがい(こんなに)しとったらエエんかい」と頭を突き出した。

いきなり三人の手が、僕の頭をなでなでし始めた。

「うわー気持ちエエ~、タワシみたいよー」「ほんと、さわさわで気持ちエエー、キャーこんなん好き好き、福島さ~ん」などと大袈裟な甘い声を出している。

僕はまんざらではなかったが、羨ましそうに眺める同僚の男子に気遣いして「もうエエんじゃろ~」と女の子の手を順に掃っていったのです。   

 「あーよかった~」「気持ちよかったなぁ~」と三人は僕に目配せしながら離れていった。

 そして知らぬ間に、美代ちゃんのように男の子に甘い声でずんずん迫って来る「おませ度」に、堪らない魅力を感じる様になっていったのです。

いつもの僕からの眼差しを感じ取っていたのでしょうか、そんなことが有ってから、今まで遠目に見ていた女の子らと、緊張もほぐれて喋りやすくなっていったのです。


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美代ちゃんらと写したクラスメートとのスナップ


 当時の小学校では男女とも下駄又は草履通学で、登校後に廊下で上草履(雪駄のように底にスライスした古タイヤが貼ってある)に履き替えるので平時は素足、冬は足袋を履いていました。(実を云うと高校卒業まで白い鼻緒の高下駄通学が常識でした)

 

 二学期早々にクラスの席替えが行われ、僕は前から三列目になり僕の後ろ四列目が美代ちゃんになったのです。


 そんなある日、授業中に僕は足を折り曲げて椅子の桟に足を置いていると、後ろの席から美代ちゃんが足を伸ばしてきたのでしょう、僕の足の裏に美代ちゃんの足の親指がツンツンとつついてきたのです。

美代ちゃんはすぐに引っ込めたようですが、僕は美代ちゃんが後ろから足を伸ばしてきたんじゃなぁ・・・と思ったのです。

後ろを向いて咎める様な素振りなどしたら級友関係が台無しになるのは明白です、ましてや気付いた振りをして足を動かして探す素振りをしても美代ちゃんに失礼です。 

 僕は気付かぬ振りをしたまま、先生の話を聞きながらも足をそのまま放置していたのです。

 すると、しばらくして足の裏に美代ちゃんの足指が恐る恐る探りを入れるかの様にツンと触れてきて触れたまま止まったのです。

温かいぷよぷよの柔らかい親指が、足の裏に接触してくっ付いたのです。

僕のガサガサの汚い足に、こんな柔らかい足がくっ付いといてもエエんじゃろか・・・と自問自答しながら、伝わってくるその温もりの気持ち良さにうっとりとして、神経を足裏に集中させてその感触の良さ心地良さを楽しんでいたのでした。

勿論、美代ちゃんも感触を楽しんでいるのでしょう、接触したまま微動だにせずに時間が経過していったのです。

 これが「足恋」の全ての始まりだったのです。


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授業中にぷよぷよの柔らかい指が触れてきたのです・・


 それからと云うもの音楽と体育の時間以外はこの教室で着席するたびに、美代ちゃんが足を伸ばしてくるのを僕は期待を膨らませて楽しみにしながら待つようになってしまったのです。

 のべつ幕なしに美代ちゃんが足を伸ばして来るわけでもないのですが、そのチャンスを僕はいつも待つようになったのです。

 いつもの事ながら椅子の桟に足を置いていると、椅子に微妙な振動が伝わってきて美代ちゃんの足がツンと当たってじわーッとすり寄ってくるのです。 時にはすりすりで始まり、すりすりで答え合うこともあるのです。

 美代ちゃんがこの感触を楽しんでいるのなら、多少なりともこの気持ち良さに答えたい一心で僕も反応していたのです。


 それは日が経つにつれ多少なりともエスカレートしてゆき、美代ちゃんは足の親指と次の指で僕の足の小指付近をつまんで締め付けたり緩めたりがあり「ねーねぇー、何とか反応してよー」と催促しているようでもあるのです。 お互いの足が汗ばんできて、時には挟んだまま汗で滑りパチンとはじいたりを繰り返したり、汗ばんだ足指同士のすりすりは滑りが良くてドキドキと鼓動が高鳴り、鳥肌の立つほど気持ちの良いものとなり、この接触で美代ちゃんも僕と同様にときめきを感じていることだろうと思っていました。

 美代ちゃんが授業中に無意識のままで足を動かしていたとは考えられず、僕には僕の足を愛おしむ様な動きに感じてならなかったのです。

 かといって勉強そっちのけではなく、二人とも先生の話はちゃんと聞き、質問があっても適格な返答が出来ていましたが、偶に僕が口ごもり気味の時など美代ちゃんが小声で助け舟を出してくれる時もあったのです。

 

お互いが愛しむ様に、足と足指とを絡ませてじゃれ合っている二人、これだけのことをしておきながら、この触れ合いを二人の話題にしたら美代ちゃんが恥ずかしがって自制することに成ってしまったら僕は困ってしまうなぁ・・・との配慮もあり、両人共二人がおしゃべりする時、この足の話題には全く触れようとしない、暗黙の了解が出来上がっていた様な感じでした。

 

足のじゃれ合いの事などおくびにも出さず、普通の会話となっていたのです。

「ウチなぁ、夏休みに宝塚の少女歌劇と遊園地に行ってきたのよ、凄く良かったよー、途中で真赤のヘリコプターが飛んどってなぁ、あんなの初めて見たのよー」「大阪の親戚へ行ったん?、高浜から船に乗って?僕らヘリコプターじゃの云うもんは、写真でしか見たことないけんナ」とか「ウチも忙しくて知子ちゃんらと同級生で舞踊と三味線の習い事に、行っとるけんなぁ」「僕、こないだの秋祭りに幟を担いだら、今でも肩が痛いけん・・・」などと有りふれた話となるのです。

 

やがて足袋を履く季節となり、お互いに足袋を履いたままの接触となったが、僕の足が冷えているのでその温もりの伝わりは更に快適なものとなりました。

ただ、雨の日などは足袋が濡れて霜焼けが出来そうなほど足が冷え込んでくるのです。そういう時はつい足袋が乾くまで素足に成り、素足の方が体温を奪われないので楽だし足袋を脱ぎ尻の下へ敷いて乾かすのです。 そういう時には授業中は素足で我慢していました。

こんな時、美代ちゃんの足袋を履いた暖かい足がすり寄って来て、恐らく僕の冷たい足が熱を奪って行くから判るのでしょう、僕の足の裏全面に美代ちゃんの足の甲が接触してきてじわーっと温めてくれその温もりが伝わってくるのです、時には両足で挟んでくれたりして、次第に足が温もってくるのです。

思い遣りのある美代ちゃんの優しさと、その気持ち良さに「足が温もった~、ありがと~」とか言いたいのですが、それを云うと恐らく美代ちゃんは恥じらいで自制してしまうことでしょう。  だからその一言が僕には言えなかったのです。

 

ちょっと春めいて来た頃だったかと思いますが、美代ちゃんは僕の足の裏全面にすりすりとなぞる様な動きをして来たことがありました。

勉強中に無意識の様に足指が動いてはいるのですが、文字を書いているのかなぁ?・・と感じる様になったのです。

今のは「す」と書いたのかな?「すき」と書いたのか?「すきよ」と書いたのか?内心どきどきし乍らつい考えてしまうのです。

そんな時、僕は足指を懸命に折り曲げて美代ちゃんの足指をつまむ仕草をして答えようとするのですが、所詮前向きのままでは足指に触れるのがやっとで、つまむことすらとても無理な動作だったのです。

 

美代ちゃんも足の組み直し程度のごく自然な淑やかな足の動きですので、周囲の席の誰にも気付かれず、感付かれて誰からも咎められる事も無くこの一年が過ぎたのでした。

五年生の終わりの日に「ここの席は良かったのになあ~」と美代ちゃんに言ったら「うん、ほんと、そうよなあ~六年も同じ組ならエエのになぁ~」と恥じらいを見せながら笑顔の相づちが返ってきたのでした。

 

成果と言えば言葉を交わさなくとも、美代ちゃんの心情が垣間見えたことでしたが、ドキドキしながら感触を楽しみ、美代ちゃんの心の内が透けて見える様な癒された時を過ごした思い出となってしまったこの一年間でした。






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