泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2021年04月

支那事変・報道写真⑮・・上海・南京

           1931年9月・・満州事変(栁条湖事件)
           1932年1月・・上海事変
           1937年7月・・支那事変(盧溝橋事件)

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1938年・上海市街で陸戦隊の攻防

((s●1937年の上海遺跡の89式
1937年・上海市内での89式戦車

((s1932年、上海で
1932年、上海事変時で陸戦隊の攻防

((s●1937年の上海
1937年・上海での市街戦

((s1937日本海軍海兵隊、上海
1937年・日本海軍海兵隊、上海市街にて・・

((s1937年に上海で戦った日本兵
1937年・上海で市街戦を戦う日本兵

((s1937年、上海のドイツ大使館を守備する大日本帝国海軍兵
1937年、上海のドイツ大使館を守備する大日本帝国海軍兵

((s1937年10月、中国の上海で
1937年10月、上海の岸壁で戦車の陸揚げの警備

((s1937年10月に日本陸戦隊は上海の郊外を前進
1937年10月・日本陸戦隊は上海の郊外を警備行進

((s1939年に負傷した中国人を運んでいる日本軍の将校
1939年・負傷した中国人老婆を運んでいる日本軍の将校

((s1940年7月に上海のフランス租界に入る車両九四式軽装車
1940年7月・上海のフランス租界へ警備に入る九四式軽装戦車

((s1941年4月に中国の舟山島
1941年4月・上海沖の舟山島への上陸

((s1942年8月浙江贛戦作戦中河辺正三畑俊六の陸軍将軍。
1942年8月・浙江省贛戦作戦中の河辺正三と畑俊六の陸軍将軍

((s1938年、民間の服を着た中国兵日本軍を
1938年・民間人に紛れての中国兵を日本軍が捕捉

((s1940年冬、湖北省で捕らえられた中国兵
1940年冬、湖北省で捕らえられた中国兵

((s1937松井石根将軍南京入城日本陸軍第6歩兵師団の連隊旗に敬意
1937年・松井石根将軍の南京入城の光景、日本陸軍第6歩兵師団の連隊旗に敬意


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1937年12月17日・中国兵の悪行に辟易していた南京市民は、日本兵を喚呼で迎えた

((s1938年、中国の南京で中国の大道芸人
1938年・中国の南京で中国の大道芸を見る民衆と日本兵

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1938年・暫しの休憩

((s1938年馬と兵
1938年・馬と兵

((s1939繕いをする日本兵中国
1939年・繕いをする日本兵

((s1937年シナ戦線
1937年・支那戦線での交信

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閲 兵 式

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皇居前にて海軍陸戦隊

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海軍陸戦隊の壮行日



● 外人の入国に比例して陽性者が増えている・・・
((bfa5・4

⇩ 外国人感染者がこれだけ加算されている(埼玉県坂戸市など)
外人がコロナを持ち込む可能性を常に考えよう・・
(( 新型コロナ- 坂戸市ホームページ
https://www.city.sakado.lg.jp/soshiki/19/19608.html より




 マニラからの民間人引揚げ、捕虜輸送の「鴨緑丸」の沈没・・・

昭和19年(1944)12月、米国の奪還が迫ってきたマニラ市街・・・鴨緑丸が最後の引揚船ということで、多数の在留邦人が殺到しました。引揚一般邦人、遭難船員、捕虜(1619名)など約3500余名を乗せて、12月13日18時10分マニラ岸壁を出航したが、その日は港外錨地に仮泊しました。

翌日4時40分抜錨、駆逐艦・桃、第60号駆潜艇に護衛されて北上、高雄に向かいました。

この頃、本船は海軍砲1門、7センチ高射砲2門、25ミリと13ミリ機関砲各6基という重武装が施されていました。

出航4時間後に米第38機動部隊艦載機(TBF雷撃機)が飛来、その猛襲が15日まで継続、雷撃機は6機~13機編隊で銃爆撃を繰返したが、14日は11波で延べ118機、15日は12波延べ170機が来襲したのです。

鴨緑丸はスービック湾へ退避し、更にオロンガポ港内で1215日に轟沈したのです。

沈船からは米軍が機関砲を引き揚げオロンガポ市街に「鴨緑丸記念碑」が設置されております。


【参考】

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965797.html 

http://www.powresearch.jp/jp/archive/ship/ouryoku.html 

(((Postcard -john
神戸~大連航路時代の「鴨緑丸」

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(((Oryoku Maru attack sequence

(((1Oryoku Maru The End in2

(((鴨緑丸-1
(((鴨緑丸-2
(((1 up and film comparison

(((2スービック湾に向かう途中の鴨緑
鴨緑丸はスービック湾口のスエステポイントへ一時退避す

(((2鴨緑丸の最期
スエステポイントでも執拗な攻撃は続いた

(((2途中の鴨緑丸
鴨緑丸はスエステポイントから更に湾内に移動した

((( 3沈む場所の近くの鴨緑丸
スービック湾の奥、オロンガポ海軍基地付近に攻撃を受けながら接近

(((3沈む場所近くの鴨緑丸
スービック湾を為す術もなくさまよう鴨緑丸

(((3Olongapo_on_15_December_1944
スービック湾を為す術もなくさまよう鴨緑丸

(((3Oryoku_Maru

(((3y2 w-1
鴨緑丸の沈没近し、捕虜や民間人がスービック湾で船を放棄し岸へ泳いでいる

(((3鴨緑丸が沈没し、捕虜がスービック湾で船を放棄

(((3オロンガポ海軍基地スー湾に沈む鴨緑丸
オロンガポ海軍基地スービック湾に沈みゆく鴨緑丸

(((3y5-1
現在のオロンガポ市
(1=鴨緑丸の沈没地点) (3=「鴨緑丸記念碑」のあるところ)

(((y3iew-1
鴨緑丸は1952年に水中から引き上げられました。
後ろには、キュービポイント海軍航空基地での作業が開始されていることがわかります

(((y4-1
「鴨緑丸記念碑」オロンガポ市に同僚が設置した(1952年)

(((鴨緑yアメリカンレジョンポスト前
「鴨緑丸記念碑」オロンガポ市・アメリカンレジョンポスト前 (2009)

(((鴨緑y8
【碑銘】「鴨緑丸」のFWD-3 機銃 (オロンガポ市の記念碑) 日本船に乗って命を落としたアメリカ人捕虜を記憶に残すため、
1952年11月11日、米兵同僚によって捧げられました。 1944年12月15日 「俘虜輸送船・鴨緑丸」がスービック湾で
アメリカの攻撃機により沈没した

エドワード T. ダーリング 
ポストコマンダー・スービック湾 post 4.

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記念碑の場所が分かりますか? マグサイサイ・ドライブの右側から3番目の建物前です(〇印)


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