


















日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦
http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より
明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。
両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。
砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。
瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。
リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。
リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。
僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。
8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃
[左から] 一等機関兵青木五郎、二等機関兵三島謙六、一等機関兵貝原六郎、
二等水兵安保助蔵、二等機関兵伊豆音松、
明治三十七年三月廿七日、第二回閉塞隊出雲撰出の三勇士
[左から]、二等水兵杉本三蔵、一等機関兵木下初蔵、二等機関兵古賀繁雄