泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2020年10月

デニス・バズエフが描いた日露戦争の描写が残っておりました。
これらの絵のサイトを記録していましたが、探しましても判明せず補足説明が不十分で申し訳ない事です。判明した時点で正確な画面の補足説明を致したいと考えておりますのでご了解願います。

旅順周辺戦跡での戦闘を描いたものです

(((デニス・バズエフが描いた日露1
後方が旅順港なので日本軍の203高地攻略の突撃戦か

(((デニス・バズエフが描いた日露2
左から日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露3
日本軍の203高地攻略
(((デニス・バズエフが描いた日露4
ロシア軍堡塁での決闘
(((デニス・バズエフが描いた日露5
日本軍の突撃と迎え撃つロシア軍

(((デニス・バズエフが描いた日露6
ロシア軍堡塁内部

(((デニス・バズエフが描いた日露7
ロシア軍堡塁へ攻め込む日本軍

(((デニス・バズエフが描いた日露8
遂に山頂敵陣に攻め込む

(((デニス・バズエフが描いた日露9
司祭に依る戦死者慰霊

(((1904年日本はロシアを攻撃米英は見物
【欧米の風刺画】米英にそそのかされ強いロシアに立ち向かう日本

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日本軍装

((日カーキユニフォームc
日本軍装

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日本軍装(冬季)

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ロシア海軍軍装

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ロシア・コサック軍
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ロシア軍スタッフ

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ロシア軍夏服
((ロ冬fcckbVM
ロシア軍冬服

(((明治
日本軍創設期の軍服

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軍人づくし・・明治34年2月発行
(発行者)浅草区 尾関トヨ



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日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃 


((1_Izumo
装甲巡洋艦「出雲」


((37石炭粉末o037
石炭搭載甲板上の混雑 粉末飛散の光景

((33合戦準備to033
合戦準備せる出雲上甲板の光景

((8インチto042
八インチ弾丸の補充搭載

((44甲板剣道o044
后甲板に於ける将校の擊剱  [写真右奥]加藤参謀長

((35将校の弓技035

((38軍楽隊o038

(((040
出雲後部甲板に於ける遊戯「デッキビリヤード」[写真右端]上村長官

((46水雷防御to046
盛夏の晩景水雷防禦網を張りたる後、兵員遊泳の景

((41入浴moto041
中部甲板兵員入浴の光景


((48士官食堂o048
士官次室の食卓用意(左に3人の士官が仮眠)
(船内の食卓に皿やフォーク・ナイフが準備された様子)

((43上村司令官to043
明治三十七年八月 出雲后甲板に於いて催されたる上村司令長官の茶話会


((45洗濯oto045
前甲板に於ける兵員の衣服洗濯


((39せんたく((039
中部甲板に於ける兵員衣服洗濯の景



旅 順 口 閉 塞 作 戦
((1回閉塞o006
明治三十七年二月廿四日、旅順港口第一回閉塞の壮挙に「出雲」より選出の五勇士は
仁川丸に乗組み齊藤大尉指揮のもとに名挙の任務を果して帰艦せし際に撮影

[左から] 一等機関兵青木五郎、二等機関兵三島謙六、一等機関兵貝原六郎、
二等水兵安保助蔵、二等機関兵伊豆音松、


((2回閉塞船o007

明治三十七年三月廿七日、第二回閉塞隊出雲撰出の三勇士

[左から]、二等水兵杉本三蔵、一等機関兵木下初蔵、二等機関兵古賀繁雄


((8閉塞出発to008
仝日 閉塞隊員韓国海州湾に於いて弥彦丸に転乗ノ為
出雲退艦に際し奏楽しつつ総員で見送る

((7-s
右の旅順口付近に自沈した閉塞船、から福井丸弥彦丸、米山丸、報国丸
(gettyimages-898061784-2048x2048
旅順港の入り口で沈没させた日本の封鎖船






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