日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦
http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より
吉本光蔵は、明治35年10月6日士官(少尉)相当の海軍軍楽長に任じられ、横須賀海兵団付となり、明治36年10月15日の中村祐庸退役後、その後任として海軍軍楽隊全体のトップに上った。この間、日露戦争中は第二艦隊旗艦・出雲に乗り組み従軍した(明治36年12月28日~明治38年3月15日)。
明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。
両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。
砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。
瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。
リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。
リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。
僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。
8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。
【日露戦役・・年表】
1904年2月6日 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。
1904年2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
1904年2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
1904年2月9日 仁川沖海戦
1904年2月10日 相互宣戦布告
1904年2月24日 第一次旅順口閉塞作戦
1904年3月27日 第二次旅順口閉塞作戦
1904年5月1日 鴨緑江会戦
1904年5月8日 日本軍、遼東半島に上陸開始
1904年8月10日 黄海海戦
1904年8月14日 蔚山沖海戦
1904年8月19日 第一回旅順総攻撃

旗艦「出雲」より水雷艇蒼鷹に給炭の光景
(三十七年七月末、浦汐艦隊が東京湾附近に現れたる中、
第二艦隊は水雷艇隊を引卒し日向(宮崎)有明湾に仮泊中の時)
戦闘中に戦闘旗を掲げたる上村艦隊「吾妻」「常盤」「磐手」を旗艦出雲より望む
蔚山沖海戦の後、出雲六インチ砲の発射せし薬莢の一部、同日出雲に於ける発射総弾数二千二百五十発

出雲に救出収容せるリューリックの捕虜前甲板に於て休養す

リューリックの捕虜出雲前甲板に於いて休養す、吾が兵士今は朋友として胸襟を披きこれと談笑す

