泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2020年09月

日露戦役・・巡洋艦「出雲」士官 吉本光蔵撮影の蔚山沖海戦

http://archive.geidai.ac.jp/4217/nggallery/image/yoshimoto006 より


吉本光蔵は、明3510361015退3612283815

 明治37年8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。

 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8.4Kmで砲戦が開始された。

  砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。


 瓜生少将率いる「浪速」と「高千穂」はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。

 リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。

 リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。 


 僚艦、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。

 8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すに至った。


【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃


((1izumo
装甲巡洋艦「出雲」

((1出雲出航o047

巡洋艦「出雲」前甲板出港用意錨揚方の景


((10水雷艇蒼鷹ニ給炭o010

旗艦「出雲」より水雷艇蒼鷹に給炭の光景

(三十七年七月末、浦汐艦隊が東京湾附近に現れたる中、

第二艦隊は水雷艇隊を引卒し日向(宮崎)有明湾に仮泊中の時)


((11春日4月11日o011
明治三十七年四月十一日、軍艦「日進」及「春日」初めて根拠地に来着す
聯合艦隊は登舷礼式を行い其の安着を祝す(画像の劣化)

(((oto004
明治三十七年三月六日、出雲前甲板ノ結氷 

((12黄海海戦報告8・10t012
明治三十七年八月十二日、上村艦隊旅順方面に向かう途次、済洲島沖に於いて山田戦隊に会し参謀吉田少佐端舟に乗じ「出雲」に来たり情報を伝う、此の時、端舟指揮明石乗組福田少尉は出雲后甲板ニ於いて十日の黄海々戦の戦況を口演す

((13リ第2艦隊吾妻013
戦況を聞知して第二艦隊は針路を転じ進航せんとす(正面は「吾妻」)

(((Aoto002

明治三十七年三月六日、第二艦隊は果敢に浦汐艦隊を砲撃中の光景
(旗艦出雲より第二番艦吾妻を見たる光景)


((14リューリックウラジオ艦隊014
明治三十七年八月十四日午前五時、出雲左舷艦首遥かに浦汐艦隊三艦を望む

((15リ敵艦リューリックoto015

午前七時頃敵の殿艦リューリック少しく後れ、隊伍がやや乱れんとす


((16リューリック最後o016
午前九時頃リューリック運転困難となり「ロシヤ」「グロンボイ」これを抜けんとして、
隊伍全く乱れ我れこれに集弾して戦最も酣なる

((17リ戦闘中の3艦o017

戦闘中に戦闘旗を掲げたる上村艦隊「吾妻」「常盤」「磐手」を旗艦出雲より望む


((18リューリックグロンボイ18
「ロシア」と「グロンボイ」は僚艦リューリックの救われざるを悟り北へ逃避せんとす。
(被弾炎上に見えるのは画面劣化の可能性であろう)

((17装甲巡洋艦リューリク]
戦闘前のロシア巡洋艦「リューリック」

((19蔚山薬莢019

蔚山沖海戦の後、出雲六インチ砲の発射せし薬莢の一部、同日出雲に於ける発射総弾数二千二百五十発


((20リューリック捕虜020

出雲に救出収容せるリューリックの捕虜前甲板に於て休養す


((21リューリックの捕虜021

リューリックの捕虜出雲前甲板に於いて休養す、吾が兵士今は朋友として胸襟を披きこれと談笑す


((22蔚山沖被弾o022
蔚山沖海戦の際「出雲」の前檣に受けたる敵の弾痕の径二尺余り

((23上甲板ケーシング被弾023
上甲板「ケーシング」の敵弾痕は縦四尺三尺余り

(((A025
中甲板第三区左舷より入りたる敵弾「ケーシング」を貫き右舷外板に至りて止まる

((24被弾o024

中甲板第二区先任衛兵伍長室敵弾の炸裂破壊す、本艦に命中せる敵弾三十余個の内炸裂せる


((26水雷艇o026

敵弾伝馬舩を破壊して艦載水雷艇を貫く


((27水雷艇o027
最後部煙突及び水雷艇に命中せる敵弾痕

((28水雷艇028

蔚山沖海戦の翌日、佐世保軍港に於いて敵弾に破壊されたる艦載水雷艇修理の為揚陸の景


((30煙突修理030

大檣及煙突の修理(修理のため、複数名の乗組員が柱に登っている)



((29-6インチ砲029

六インチ砲揚陸の光景


((31磐手031

三須司令官旗艦「磐手」の受けたる敵弾右舷前部「ケースメート」を破壊し

其の附近甲板及び端舟を破壊し死傷者七十七名を出す


((32水雷艇陸揚げ032

敵弾に破壊されたる艦載水雷艇を「ポンツン」にて揚陸の光景






 

 日露戦争(1904~05年)時に日本国内に7万人以上が収容されたロシア将兵捕虜の生活や処遇が記録として残されております。
 捕虜とは言いながら彼等は丁重なもてなしと監視のもと、市内見物など比較的自由な時間を費やしていた事が見受けられます。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



ロ シ ア 兵 捕 虜 収 容 所
(((ロシア戦争捕虜高浜港




   松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)


  松山・捕虜収容所のロシア兵捕虜 (1905年)

((●松山01
松山市の繁華街大街道を散策するロシア兵捕虜

(((ps002
旅順から松山市公会堂収容所に移送された捕虜のロシア将校

(((ps008
松山郊外の郡中(伊予市)の彩浜館で接待を受ける捕虜のロシア将校
(1904年9月25日)

(((ps005
京都・智積院収容所の庭で記念撮影するロシア将校。
智積院には日本海海戦でバルチック艦隊を率いた
ロジェストベンスキー提督等が収容された。

(((ps007
大阪の収容所敷地内のあずまやの前に立つ捕虜。天王寺周辺とみられる

(((ps003
収容所となった松山・正宗寺の中庭で記念撮影する捕虜

((●道後awps004
旅順から松山・勧善社収容所に移送された捕虜のロシア水兵

(((ps010
松山でロシア将校に返還中のサーベル(1905年10月)

((●道後ps001
松山・道後で日本人負傷兵の家族に囲まれる捕虜のロシア将校

((●道後ps009
松山で収容中に死亡した仲間の葬儀に参列する捕虜


赤 十 字 病 院
(((+日本看護婦history-006
赤十字病院の看護婦

(((plc4WJZ
当時の礼状に使われた看護婦の絵葉書

(((にほん3
パフスリーブ看護服の従軍看護婦

(((パフスリーブ
従軍看護婦

(((+日本軍病院
仁川の野戦病院内の日本負傷兵

(((+野戦病院129
仁川の野戦病院での看護婦の働き

「日清戦争」「日露戦争」双方ともに、朝鮮半島を巡っての清国からの蹂躙、ロシアからの蹂躙が原因で日本への脅威も考え、義侠心をもって朝鮮の独立と富強のために開戦となったのです。日清戦争後、下関条約により「大韓帝国」として独立したもののロシアが韓国政治の中枢に触手を伸ばしてきたのです。

【日露戦役・・年表】                                                                                       

1904年2月6日       日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。

1904年2月8日       日本陸軍先遣隊が仁川に上陸

1904年2月8日       日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲

1904年2月9日       仁川沖海戦

1904年2月10日      相互宣戦布告

1904年2月24日      第一次旅順口閉塞作戦

1904年3月27日      第二次旅順口閉塞作戦

1904年5月1日       鴨緑江会戦

1904年5月8日       日本軍、遼東半島に上陸開始

1904年8月10日      黄海海戦

1904年8月22日      大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ

1904年8月14日      蔚山沖海戦

1904年8月19日      第一回旅順総攻撃

1904年8月30日      遼陽会戦

1904年10月9日      沙河会戦

1904年10月15日    バルチック艦隊出航

1904年11月26日    第二回旅順総攻撃

1904年12月5日      日本軍、旅順口203高地を占領

1904年12月31日    第三回旅順総攻撃

1905年1月2日       旅順開城

1905年1月25日      黒溝台会戦

1905年3月1日       奉天会戦

1905年5月27日      日本海海戦

1905年6月9日       セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告

1905年6月12日      ロシア、講和勧告を正式に受諾

1905年7月7日       日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始)

1905年7月31日      日本軍、樺太を占領

1905年8月9日       ポーツマスで日露講和会議が始まる

1905年9月1日       日露両国、休戦議定書に調印(休戦)

1905年9月5日       日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印

1905年10月14日    日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准 [終戦]



((ロシアと日本がポーツマス条約に調印
日本とロシアがポーツマス条約に調印 終戦  

日露戦役 勝利祝賀
(((祝東郷9618
1905年10月22日、東郷元帥の東京への凱旋を祝う

(((祝英雄的な提督トーゴを歓迎するための凱旋門と巨大な群集
英雄的な東郷元帥を歓迎するための凱旋門と祝う群集

(((祝戦勝日本軍パレード
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝1905年10月22日、平島東郷提督の東京への復帰
1905年10月22日、東郷提督の東京への凱旋を祝う

(((祝凱旋Tougou_and_KamimuraT
東郷元帥の凱旋を祝う群衆

(((祝1905年10月にトーゴが東京凱旋
銀座は祝勝の賑わい

(((祝銀座は、旗布と旗で飾られて
銀座は、旗布と旗で飾られて祝捷
(((祝横浜、日本海海戦勝利
日本海海戦の勝利を祝う横浜

(((東郷069b2
東郷平八郎元帥

(((祝ロシアの敗北
皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ・・東郷平八郎


(((R対馬の戦い。 ロシアの悪夢
日本海海戦によるロシア艦の被害


満州派遣軍の首脳たち
(((mansyuugunn

満州軍総司令部

前列左から井口省吾、児玉源太郎、大山巌、福島安正、松川敏胤、田中義一
二列目左端が田中国重

((第一軍司令部将校軍司令官の黒木為楨と参謀藤井
第一軍司令部将校
2列目左から四人目が軍司令官の黒木為楨
その右隣の帽子をかぶっていない人物が参謀長の藤井茂太

((((第一軍司令部と視察武官
第一軍司令部と視察武官

((((第1軍高官および軍の将校の召集陸軍本部
司令部前第一軍高官および軍の将校

((第二軍司令官、師団長軍司令官の奥保鞏、大山
第二軍司令官、師団長
2列目左から2人目が
立見、軍司令官の奥保鞏と大山。

((第三軍司令部将校と各師団長
第三軍司令部将校と各師団長
前列左から土屋第十一師団長、乃木、大山、大迫第七師団長、
飯田第一師団長、秋山好古
2列目
左から4人目が津野田

((第四軍司令部右から3人目が野津、4人目が上原
第四軍司令部。






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