明治時代までの内子の街道筋は、護国から八日市、坂町、中町、郷の谷、駄場を通って新谷、大洲、宇和島へ通じていました。
古い町並みを丁重に残しているあの内子町でさえ、知らず知らずの間に、町の発展に伴い風景は様変わりしていったのです。
昔から内子の町は周辺の農家からの日用品や農業道具の調達のために、山間部の小さな町でありながら結構賑わっていたのです。
左の枝を伸ばしていた楠木も、枝を掃われ小さくなってしまった。
「栄橋」より西へ200m行くと「恵比須神社」があり、旧暦10月最終「亥の日」が祭礼日で、旧暦なので11月下旬となり、お百姓さんにとっては刈入脱穀が一段落し換金も一段落して、正月準備に入った時期、それを見込んで商工会が買い物客に抽選券を配布し、恵比須神社で豪華景品を当ててもらうことで、子供らには近寄り難い大混雑でした。
(この辺、恵比須神社から栄橋まで盛土され通称・新道と言われていた)

内子・本町2丁目の雨上がり・・地道の道路 (昭和30年1955)

内子・本町2丁目 (2012)
内子・本町2丁目「松の屋」前から西を見る。右折れ内子座へ (2013)

内子・本町の七夕かざり (1956年)

内子・本町の七夕かざり (1965年)

お提灯ぶらぶら・・おかごへ参りましょ・・と歌ったような(2005頃)
内子・本町の七夕かざり (2015年)

「化育小学校」として建設され、明治17年生まれの祖父も通学したとの事。
以後、内子郵便局、内子電々局、内子農協を経て現在「内子児童館」
(写真は昭和初期のもの)

1960年頃まで、この「電々局」裏庭に
天然記念物級の松の巨木が2本あった。
「内子農業協同組合」時代のもの (1970)

内子児童館 (2017年)

左は元「内子警察署」と「内子児童館」(2017)
(昭和11年建造)

内子町中町の風情 広町より西を見る(1979年)
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