【日清戦争(1894)から日露戦争(1904)への動向】
1894年(明治27年)2月・・全羅北道で大規模な農民蜂起が起き「東学党の乱」が発生し、朝鮮政府は清国政府に援軍出動を要請し当然日本も出兵して、東学党の乱は平定されたものの日清両軍は半島での残留を余儀なくされる。
1834年5月に「日清共同内政改革提案」を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府はこの提案を認めたものの数日後に全面拒否の回答を出す。朝鮮の背後から拒否をさせたのは清国であった。日本は提案拒否を開戦の大義名分として明治27年8月1日開戦の詔勅が出された。
1895年(明治28年)4月17日、日本が清国に勝利、下関条約調印、遼東半島の割譲を受ける。
日本が割譲を受けた遼東半島が、露独仏の三国干渉に依り清国へ還付を余儀なくされた。 一方、朝鮮は自立が可能となったとはいえ清国の支配力は衰えたが、遼東半島の還付を朝鮮政府は「日本、恃むに足らず」とみてロシアに急接近、ロシアもこれを好機と見て影響力が着実に増大して行き、朝鮮国王の高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅を発することとなり、ロシア公使館から摂政を行う事となる。朝鮮は清国に続いてロシアへの「事大主義」の道を選び、再び国家の体を為していないものとなった。
一方、日本が清国に還付した遼東半島はロシアの租借地となり、日本が苦難の日清戦争で獲得した権益が次々とロシアの手に落ちて行った。
満洲を勢力下に置いたロシアは朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ、売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦による対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエブゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案だとした。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、開通前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年(明治37年)2月8日・・大日本帝国[注釈はロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持することを主目的とし「旅順口攻撃」を行い開戦した。
開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが、日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。

● 開戦と同時に旅順港口・閉塞作戦・・
我が軍は、旅順港入り口の狭小部(旅順口)を閉塞して、湾内のロシア艦隊の外海活動を阻止すべく旅順口の第一次閉塞作戦を明治37年(1904)2月24日に実施した。
旅順港口に沈めて港口を塞ぐ作戦、連合艦隊に見送られて出発する福井丸広瀬武夫少佐(後に中佐に昇格)は港口に到着、「福井丸」自沈用の爆発点火に船倉に降りた杉野孫七上等兵曹が帰らず、他の乗員をカッターに移らせ、「杉野、杉野」と杉野上等兵槽を三度に渉り船内に捜したが発見できず、カッターに移乗して離船した瞬間に敵弾が命中、数片の肉片を残して戦死。
● そして日本軍は朝鮮半島、遼東半島へ出動・・


