泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2019年03月

北朝鮮の亡命政府だか反体制組織「自由朝鮮」とは?

 日韓併合前の朝鮮で、諸外国人が見た朝鮮人の生活を見聞して書き残している内容です。 その鋭い観察力は現代を生きる朝鮮人を見ても、根本は相通ずるものが有るように感じてなりません。


●「韓国事情」 マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教
「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である。朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている」両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。

その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。
 なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、今だかつて無いからである。
 彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。

しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。

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                両 班
 


●「新井白石の朝鮮観」(江戸中期の儒学者・政治家16571725)

  上垣外憲一(1989年)
 日本を訪問してくる朝鮮通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀を唱えているが、朝鮮の文献を読んでみると、「敵情探索」を目的としており、これは恩義を忘れたものである。

大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、濊貊之俗、天性固然」(朝鮮人は狡猾で偽りが多く、利のあるときには信義を顧みない。濊や貊と呼ばれた野蛮人民族(朝鮮北東部にいた古代民族)天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
新井白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の知識人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。


●「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳)
(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き(165366年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた)

 朝鮮人の誠実、不誠実および性格について語っている。
 彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、騙したりする強い傾向があります。彼等を絶対信用してはなりません。

 


奴婢『ソウル城下に漢江は流れる・朝鮮風俗史夜話』(林鍾国)
その中の「人間家畜の奴婢制度」という章の一節。
 奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
 かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
 それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。
奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。
 外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。
 局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に、奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。


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●「新・韓国風土記 第1巻」ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。
更にそうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。
常民階級が徳目に背を向け したがって彼らは、ほんの僅かでも己の利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。
大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵ったり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。
そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。
 
 
●ノース・チャイナ・ヘラルド紙の記事 190555日号 
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。また、この半島ほどなんの理由もなく騙したり、騙されたりすることが広く行なわれている国もない。そして、今の朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。
その上、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れてしまい、これに気付かなくなっており、他人の欠点ばかりが見えているのだ。 (エッソン・サード記者)

 
●「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年(スエーデン人)
学者である両班は礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことには全て答えられなければならない訳ですが、ただ、わざと騙そうとするのではないが、その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたら全く驚くべき事です。
自分が正しい道理が殆んど無いにもかかわらず、悪びれる様子が全くないのだ。
もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は言動を守り抜くために必死の努力をするのです。
なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身が納得するまでは、決して投げ出したりはしません。

将来性がなく、中国人以上に酷い民族である。1000年前に眠った場所に留まり続けている。
 更に良くないのは、その眠りから覚めようとしない事だ。韓国人は独立が嫌なのだ。できれば他者に依存して責任回避をしたいのだ。
 彼らの望むことは、何の心配もなく平和に暮らす事だけだ。「独立」と言う言葉は、彼らにとって恐怖を意味し、不信や無法と同じである。


 

●「朝鮮の悲劇」 フレデリック.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳
韓国人は、遺伝としきたりによって、その殆んどは大げさな物言いをする人間か、厚顔無恥の嘘つきかである。それで日本人の非行についての彼らの供述は、検証なしにこれを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用)


「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 

【佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)】
 誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。

 なぜ「原コリアン」かというと、彼は卒直に自分の感情を表明する。
そして、自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる。 
次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまうのだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。


「韓国事情」 フランス人宣教師 シャルル・ダレ
1871 年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が半島を襲い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨めたらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。だがそんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。

韓国人は怯えながら生きる生活を続けていたので、感情の安定を失った民族になった。
 おそらく韓国人は世界一怒る事を好む民族だろう。怒る事が不安や焦燥感を解決するのだ。代償行為になるし、自尊心を守る手段にもなる。
 その自尊心も、虚飾によって作られた自尊心である。だから、ちょっと<触れただけで傷つき、怒りの感情が爆発する。

イメージ 9『最近朝鮮事情』とは、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。1906(明治39年/日露戦争直後)に清水書店から刊行された。20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚ない筆致で描かれており、当時を伝える貴重な資料となっている。
← 衆議院議員 荒川五郎



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 この朝鮮では、事業を含めて日本人が手伝うべき仕事が限りなく多いのみでなく、将来隣国としての関係は非常に大切で、特にこの半島ではまだまだ改善、開発できる事が多過ぎることを知らなくてはならない、朝鮮の実情を誰にも理解できるよう紹介するべく、政治、経済、産業、人文に至って、日露戦争終了後の明治38年(1905)に朝鮮を視察、繊細に見聞し観察した内容を「最近朝鮮事情」としてまとめたものです。

河川と耕地・・朝鮮の河川はまだ治水という概念がないらしい。
 全国一帯に河は多いが洪水に成れば流れに任すばかりで田畑も流失、少し手を入れて堤防でも造れば水流が定まって立派な農地ができ、安心して稲や麦が作れるところでもなす術も無く放置している。朝鮮では三豊一凶という言葉が有り3年に一度は田畑が洪水に流されるものだと諦めている。
 朝鮮100年の経営を思えば姑息な考えをせずに、まず堤防を造り河流を固定し、運輸の便利を十分にして農民が安心して作物を作れるようにするべきだ。

●山麓・・朝鮮の山という山は殆んど禿山で、朝鮮には山が無いと云っても過言ではない。
 朝鮮の山には虎が多かったから、人の安全を害するのみか入山することが出来ず、山裾から木を伐り払って薪にして被害を除いたのである。伐採しては炊飯の燃料に焚き、如何に禿げようが植林など考えず我先に薪用に切り取って顧みなかったから、現在の様に哀れな姿となったのだ。
 朝鮮人はまだその知識が無いに等しいが、大雨があると禿山では水源が保てず川水はすぐに氾濫して田畑を害することになるのが理解できないのだ。

●首府京城・・京城の城門は東西南北に4大門があり他に4小門があり、最も大きいのが大南門である。 どの府城でも石を築き揚げて高い郭壁を築き、外からよじ登ることは出来ない。
 城内は大方人家で充たされ市街となっているが、城外でも便利なところは大きな市街を作っている。南大門の外では京釜鉄道の大停車場が出来てから一層賑やかになった。
 京城は朝鮮の首府で漢城と云い北には北漢山、鷹峰が聳え、西北に仁王山、東に駱駝山が連なり、また南には南山の外を漢江の長流が巡っている。この四方の山にかけて高さ10尺(33m)から20尺の城壁を築きその周囲5里(約20km)ばかり、城内の広さは東西30余町、南北20町もあって戸数は4万5千戸、人口203千人、李朝500年代々の国王が住まわれた三王宮もこの城内に在る。京城の地勢は我が京都に似ていて市街を5区に分けている。
 街路はいたって平坦で、殊に景福宮の前から慶運宮のあった貞洞の辺や東大門から西大門に通ずる本街路と、南大門から鐘路に至る道路は道幅何れも10間~20間もあるが、その他の小路になると極めて狭く、市中に便所やゴミ捨て場の設備が無いから、糞尿だらけで非常に不潔、気持ち悪くなる処が非常に多い。
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                京城・鐘路通り

 市街には人力車も所々に客待ちしているが、米人の事業している電気鉄道も有り便利だ。本社は鐘路にあって明治32年(1899)の開業で、電車は東京より京城が早く開けた。
 京城には特に外国人のための居留地域と云うものは無くて、域内至る処でも自由に雑居できる。
 この雑居制は支那のやり方で、もともと朝鮮を属国扱いしておりその名残である。
 条約国は朝鮮に行使を置いて居るにも拘わらず、支那は行使も置かず欽差大臣というような名義だったのである。
 京城の井戸水は殆んど不良で塩気を含み飲料に適していなく、良質な井戸は23ケしか無いが現地の人々は殆んど頓着していない。
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              井戸と水汲み夫


●朝鮮の王宮・・朝鮮の王様は立派な美しい御殿が在り乍ら、それを放棄して手軽な新王宮にお住まいになり、大宮殿は庭など荒れ果て、瓦ぶきの屋根上にまで長い雑草が生え、御殿中には鳥の糞などで汚れ放題、それは酷い有様であるのはどう申したらよいだろうか。
 京城には景運宮、景福宮、昌徳宮と王宮が三つあるが、その正門、今は硬く閉ざされ警番の役人も居ない。その横の通用門らしいのを入ると門警の役人が名刺を取り次いで詰所に至り、帯剣いかめしくやってきて案内してくれた。
 景福宮の立派で宏大な建物も今は瓦がずれ落ちたところがあり、壁は落ち雨漏りなどでいやはや荒廃極まっている。
 国王御座の間を錦福軒と称えて周辺の壁面の装飾等も、荒廃の中にも昔の名残を見ることは出来るが、悲しい事に朝鮮には古社寺院保存法どころか古宮殿保存の技術伝承も無いらしい。
 宮殿は、どれも荒れていて見る影もない。
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 朝鮮歴代王の神位を祀った「宗廟」も保善のため日本の技術で改修された
      今でも外郭石垣に残る「昭和8年3月改築」の文字

●古都平壌・・朝鮮で最も古い城府であり、今も5千ばかりの家と3万ほどの人が居て京城に次ぐ大都会である。日清戦争には支那の葉士超らの軍が占拠していたのを、野津将軍ら広島師団が包囲して攻め落とした地である。
 平壌第一の名物は美人で、京城の宮中に勢力の有る官妓は殆んど平壌から出るので、官妓養成学校まで在るのは奇態ではないか。
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          大同江に臨む平壌妓生学校の麗観


●朝鮮の政治・・朝鮮政府の官制は唐や明の制を斟酌折衷したもので、専制政治としては、やや発達した組織で宮中も府中も二重組織となり宮中にあるのは中枢院と承政院とで、中枢院は諮詢の府で、承政院は国王の命を伝え行う部署である。組織はこうであるが王権は振るわず規律は乱れているのであるから、只表面の組織が良いのみで内面は全く秩序も無く、国を外国に開いてからは外務省に当たる外衙門(がいがもん)を置き、次いで内務省に当たる内務衙門も、空名となるありさまで何が何やら判らないのである。 法典でも六典条例や大典会通という成文律があって、これを誠実に実行したなら、世運の進歩に伴って文明の政治に進むことが出来るのに、国王の意のままに無規律の政治を行い、国王の一言が法典という有様で、この成文律は全く死文となっている。
 ことに王言、即ち法典と云ってもその実、奸細の徒が賄賂を以て国王の歓心を買うなどするので、真実は王言もその精神ではないのである。
 こういう実情だから根本的に政務の組織を改める他にないと言える。 ところが中央政府が腐敗するものだから、地方官はただ人民の膏血を絞る道具となり賄賂贅沢が大いに行われ、官職は公然と売買される有様で、その幣害を受ける人民こそ天に向かって号泣するほか訴える道も無く、哀れな有様に陥っているのだ。
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京城・幅をきかす両班の男性(1903年)

●朝鮮の教育・・日本での維新前の寺子屋教育を見たような有様だ。
 朝鮮では新式の教育が開けてないだけ骨折り甲斐がある。各居留地とも日本の師範学校卒業生を採用する方針をとっているし、日本の教育家が身を捧げて朝鮮子息の教育に務め、朝鮮を開発して日本の経営に資する努力が為されている。

●朝鮮の人々・・容貌は日本人と殆んど変わりがない。
 よく見ると、どことなくボンヤリした所があって、口を開け眼がどんよりして何かが足らぬ様な表情をしているが、日本語も早く覚え一通りの事務も出来るが、ただ面倒な勘定や難題に出くわすととても耐えられない様子だ。
 雨の日や寒い日は自分の仕事はせず、終日家の中で遊惰にふけり雑談して、人としての責任、勤労、時間の大切さなど全く観念が無い。
 だから傘などの雨具は殆んど用意が無く発達もしていない。
 朝鮮人を雨の日に働かそうとすれば、雨の関係を極めねばならない。雨が降っても田畑や道路が水没しないよう治水、河川の改修をして、彼らの柔惰さ、無気力さを改善してゆく必要がある。
 女性の顔は何処となく無頓着な性格に見えて、衛生だの病気に付いて無頓着千万だ。
 悪く言えば人間と云うより獣類に近いと云ってもよい。歩くときも目的を持って歩くのでなく、牛が道草を食いながら歩くに似て、牛に近いと云いたい。
 朝鮮人の不潔さはヒドイもので、てんで清潔とか衛生とかの考えが無いから、如何に不潔な家でも場所でも一向に平気で、濁った水でも小便や大便のある周辺の水でも、頓着せずにこれを飲む。実に味噌も糞も一緒の様相だ。 更に驚くべき信じがたきことは、小便で顔を洗うと肌がキメが細かくなると信じており、小便は腎虚や肺結核や解熱に有効だと云ってこれを用い、強壮剤だと云って健康な者でも飲んでいる。
 夏など穴の様な家の中は蒸し暑いので、大方は屋外に露宿しているが、その枕元には糞や小便が流れており、悪臭ぷんぷんとして鼻をついても彼等は何も感じないらしい。また小便壺は室内に置いてあって大人、子供関係なく客の前であろうが誰であっても平気で小便をし、便器に口を寄せて唾を吐きこむのが慣習のようだ。見るからにたまったもので無い。
 朝鮮人は概して勤勉貯蓄の思想が極めて乏しい。一見したところでは仕事をする者は居ないと思われるほど、長いキセルを持ってぶらりぶらりしている姿を至る所で見るのだ。


●朝鮮の家屋、家庭・・朝鮮で家を建てるのは至って造作も無いことであるから、一般に大工左官の職人を頼むことも無く、大抵は隣近所寄り合って建ててしまうので、低くて汚くて僅かに雨や風を凌ぐに足るくらいのものだ。その四方を土や石瓦で塞ぎ、且つ稲藁の屋根も低い有様は全く防寒的で、家と云うものは寒ささえ凌げばよいと思っているらしい。
 一般の家は荒壁のままで、天井も無くクモの巣だらけ、蠅だらけ、ビンデーという南京虫も沢山いて、他にも虫が這いまわっており、所かまわず唾や痰を吐き何ともひどい状態だ。
 家屋は雨風を凌ぐだけのものだから、家庭団欒を得られる仕組みが無く、親子が相親しみ夫婦相愛して団欒を感じ得る機会もない。「男女席を同じゅうせず」との儒学の教えであるが、一家の男女夫婦までも一緒に居ることが出来ないという程、窮屈には及ぶまいから、せめて夫婦愛携え、親子相い語り愛睦みて苦楽の中に家庭の営みが有るべきなのに、朝鮮では表面上その隔てが厳重であるから、一家全員で楽しむ家庭団欒の愉快は、到底得られよう筈がない。


●食物・・朝鮮の食物は日本風と支那風とを折衷したような料理で、ずいぶん凝ったものもある。
 朝鮮では辛味を加えることを好み、唐辛子、胡椒、生姜などが必ず添えられどんな料理にもかけて食べている。大いに閉口するのは何を煮るにもニラやニンニクを煮込むことで、その臭気と云えば耐えられるものではない。肉類は牛、豚、羊、鶏であるが、犬の肉を食し食用に犬を飼っている者まで居る。牛は肉ばかりではなくその頭を大釜で煮込んで、その汁に唐辛子をまぶしてすすったり、牛の臓腑を蒸して塩を付けて食べている。
 朝鮮では食中、食後に茶を飲む習慣は無いが、米のとぎ汁を沸かして飲む、又は砂糖湯を飲む習慣がある。
 朝鮮の食事が心地悪いのは釜の萬用である。飯を炊いたり汁を煮たりする釜で、垢で汚れた衣服も煮て洗うのだ。不潔の観念の無い現地人は平気でも、日本人にはたまったものでない。


●朝鮮の病葬・・朝鮮人の病気は家の造りや不潔と大食いから来るのが主で、最も多いのが胃腸病であるが、これは大食い大飲みする上に、唐辛子を沢山接取するからと言ってよい。
 夏など土間も同様の冷えた所に寝るから朝鮮熱と云う一種の風土病にかかる。大方の病気は平気で放置し、重病になると怪しい巫女や呪師に頼んで、鐘や太鼓で病人の枕元で大きな音を出しながら呪文を唱える。 それも夜通し喧しく騒がれるのだ。そして病死者が出ると隣近所、親戚友人が寄り集まって大声を上げて泣いて悲しむ、参加者は号泣するのが礼儀なのである。
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              葬 式 の 御 輿


 葬式も同じように声を上げて号泣し、神輿の様に棺を担いで、それに付いて行くのが会葬者の礼なので、声色を使って泣いているのが分かり、神輿を担いだお祭り騒ぎのようだ。
 死体を葬るのは黄海道や平安道では空地に土葬して土饅頭を作る風習で、京幾道、三南地方では山の麓などに祭壇を設け、そこへ死体を置き藁で周囲を包んで雨ざらしにして、白骨にしてから埋葬するのである。墓は土饅頭だけで墓標は全く無い。
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            墓参り・周辺の土饅頭が墓


●朝鮮の社会風俗・・朝鮮には上層部と下層部が有るのみでその中等社会が無い。下層部は家庭も教育も殆んど無いので、子供らは裸のままで放置の状態だから総じて感が鈍く、棒などでヒドく打たれてもさして痛そうにもしない。
 大人は衣類冠を飾り、そうして人から尊敬せられようとする事に関心を示しているが、仕事をしないで上司から棒で叩かれても、罵倒されても残念がりもしない。真面目に働くことを卑しむ風潮があり、徒食の輩を尊び、働く者は下等の者の様に考え、それ故に商売など実業を賤しむので商業が発展していない。
 一歩田舎へ入ると、殆んど一軒家は見ない、人の住むところ必ず十数軒以上の家が集まっており、それは政府の取締りが不行届きであるから、暴徒盗賊などから防御する必要があるからと言う。
 然し、その群がっている家々は不規則に建てられ、通り道など畦道のようで道の姿を成していない。京城から諸方へ通ずる道路を王道と称えているが、それでさえ牛馬が通行できる程度で修繕して使っているという形跡も無い。
 橋梁は極めて少なくて、たまには丸木橋が有るが大抵は飛び石くらいの事、雨が降れば旅人は水の減るまで渡るのを待たなければならない。


●市場・小売場・・主に都会や各地の大きな町の市場のみと言ってよい。
 朝鮮には「市日の他に商売ナシ」という諺が有るがその通りで、市日に買って用意しておかないと臨時事があっても、次の市日までどうすることも出来ない。その市日は1と6の日とか2と7の日の組合せで毎月6回が普通である。市日となると中々賑やかなもので、日本で云う縁日のような有様である。何百何千という人々が売買のみならず、物々交換するので、その喧騒振りはここに表現できない程だ。
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              京城、市日の光景 


●土地の取得売買・・朝鮮は万事が不規律、不整頓であるのは今更言うまでもなく、人の生死も届出ず人の人数も知れず、耕地の広さも判らず、土地台帳の備付もなく、地権も無いという極めて曖昧な有様であるし、無方針の政府と専横な貴族の支配を受けているので、世人は人民の土地所有権を疑うものがあるけれども、実際宅地を除く外は所有権はほぼ確立している。
 我々外国人が土地を取得し所有するには、条約上の権利地域があり、居留地付近の一里二町半以内はこれを所有する事が出来る。土地を買い入れたら直ぐそこの管理署に届け出て地券の発給を受けるのであるが、地券料を払うのは無益だと相互間の売買契約だけで済ますのが殆んどである。



 日清戦争でわが国が勝利し。清国の勢力を追い出して独立国の体裁を整えた以降のこの国のことを次のように述べている。

以前から朝鮮は支那の付属国と言うてもよい有様で、無論支那はその政策をとって居たので、朝鮮に於ける支那の勢力と云うものは実に非情なものであった。
日清戦争で全くその勢力が転倒し、迎恩門を倒して独立門を建てるという仕誼(しぎ)となり、朝鮮の内政も大改革が行われ、朝鮮の国は大韓帝国と云う豪義な国となり、国王様は大韓国皇帝陛下と御立派にならせられ、皇太子様が立てられる、大韓国大皇后様も定められると云う、えらい有様になった。
この大韓国は他の国とは違うて、その王室は決して国民とその休戚を共にすると云うことは無く、ただ貴族のみは王室と利害を共にして居るようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益も受けるが、その他はそうで無い。であるから、誰も彼も国王に取入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、したがってその間に立って次女や宦官、官妓、巫女(ふじょ)などが旨いことをやるのである。

 
 人が世に立とうと思うなら、安心されるべき手堅い勉強家となることを志す以外に無い、学校の教育もまた同様なのだ。島国の中に引きこもっていた時代なら遣り繰りも付こうが、今日世界の睨み合いの中に立ち、大陸の一部に手を付けて、困難な世を切り抜けようと思うには軽薄な考えではいかないものだ。朝鮮は見込みある大地であるが、無頼不信の徒は決して見込みある地ではない。
 人がたくさん事業を為すのは、着々として一事半業を積みあげ勉めてゆく他はない。
 朝鮮だって濡れ手に粟のような地では決して無い、やらなければならない事は無限にあるが仕事となるとその人次第である、その人の工夫勉強次第であることを知らなくてはならない。
・・と締めくくっている。




イザベラ・バード(1831~1904)が見た朝鮮・・

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 李氏朝鮮末期を旅したイギリス人女性の素直な叙述「日本奥地紀行」で有名なイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、日本以外にもアメリカ西部、マレー半島、チベット、オーストラリア、ペルシアなど様々な地を旅しては旅行記を残しています。
 
 イザベラ・バード1831年~1904年)
彼女は、1894年(明治27年)~1897年(明治30年)の間に、4回も李氏朝鮮を訪れている。


 
 バードは極東滞在中の1894(明治27年)から1897(明治30年)4年間で李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を4回も旅しています。
  この旅行記の中でバードは、朝鮮半島の自然の美しさや国土の豊かさを讃え、朝鮮王朝の王族たちの人柄に魅せられつつも、人々を貧困たらしめ怠惰に向かわせる官僚機構や政治制度を批判しています。
 朝鮮が貧しい全ての元凶は人々を搾取する統治制度にあり、適切な指導が行われれば朝鮮は豊かな国になるだろうと希望を抱いていますが、ひとり立ちするのは不可能であり、ロシアか日本、あるいはその両方の保護の元で改革を進めるべきであろうとしています。

●朝鮮の社会と民族性について・・
・朝鮮の国民を分けるとしたら、「盗む人」「盗まれる人」の2つしかない。
 「搾取する人」は役人 「搾取される人」はそれ以外の庶民である。
・一生懸命努力してほんの僅かな金でも蓄財したことが知られれば、役人が全てを搾取していく。
・故に、ぎりぎりに暮らしていけるだけの収入を得ればよいので、それ以上働こうとしないので生活の向上は無く、みんな貧しいままである。
・北方のロシア人統治の地域に入植した人々は、搾取されることがなかったので、一生懸命働き蓄財し、明るい表情であった。
・朝鮮人は本来が「なまけ者」であるのではなく、政治腐敗が労働意欲を棄損している。
・朝鮮では自国による自己改革はもはや不可能であり、他国による強制改革しか方法はなかった。

●日清戦争後李朝末期の日本のかかわり・・
・数世紀前の歴史から(豊臣秀吉の遠征の頃)朝鮮人はとことん日本人が嫌いであった。
・当時、日本は朝鮮を植民地化して統治しようとは考えていない。
・あまりの政治腐敗ぶりに、日本での政策を浸透させるのには困難を極めた。
・その為、微に入り細に入り指示することになり、一層反感を誘ったが、日本のやり方は悪くはなかった。

●生活の状況について・・
1894年当時に見たソウルは世界一汚い都市である。

1897年(日清戦争後の日本の主導)に訪れた時はソウルの街は見違えるように清潔になっていた。
・両班と言われる貴族階級は、役人か教師しか職業がなく、町でぶらぶら過す人々が多かった。

・商業を起業しても役人にたかられて、発展を阻害され大成出来ない。
・女性は最下層の人が外で働くことがあっても、殆んどの夫人は家の奥に蟄居させられていて、女性自身はそうされることは大事にされていると感じていた。
・だから屋外の世界、ソウルの街さえも見たことがない女性が多い。
・当然男尊女卑である。結婚は親が決めた人とし、嫁は朝から夜遅くまで働き、身なりに気をまわすことなどできなかった。
・女性で教育を受けることが出来るのは妓生のみであった。大事な賓客をもてなす妓生は客と同じレベルの話題についていけるように、国の運営する養成学校で歌舞などと併せて教育を受けた。

 

●風土について・・
・朝鮮の自然、山、川、草木、花など美しいと感じている。
・虎がたくさん居て人々は恐怖のため、暑くても窓を開けて寝ることは出来なかった。
・バードは遠慮のない好奇の目にさらされ、ゴキブリや虫が多くて宿とはいえない場所に寝泊まりし、埃っぽさ、汚れに辟易し、外国人というだけで阻害されながら旅をした。
・この間、4度も訪問し、最終的には朝鮮人との繋がり等で愛おしく感じるようになっていた。



. 釜山・ソウルの街並みについて・・
18942(明治27年・日清戦争時代)、イザベラ・バードは長崎から船で15時間かけて釜山に上陸しました。
当時の釜山は日本人が大勢貿易に携わる活気のある町で、朝鮮人はほとんど目立たない印象を受けたようです。
釜山の居留地はどの点から見ても日本である。5508人という在留日本人の増加に加え、日本人漁師8000人という水上生活者の人口があった。

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           黎明期の釜山港 (1915年頃)


 
●釜山・・日本人街から山腹に細い小道が3マイル(約5kmばかり続いている。この小道は、私が最後に見たときは無人だったが、官衙(官舎)もある小さな清国人居留地を通り、その終点に、城壁に囲まれた釜山の旧市街がある。
 高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉軍による植林によるものと記し「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」と書いている。


岸辺の岩場に坐っているのは、ペリカンかペンギンを思わせる白い物体の群れであるが、そのような姿が人間そっくりの足取りで釜山の新旧市街間を止めどなく行き交うところをみると、坐っている物体もどうやら人間らしく見える。その様な朝鮮人の姿はわたしの目には奇異に映った。
清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人より遥かに立派である。
 
その後バードは船で首都ソウルに向かいました。
第一印象では不潔で風格もなければ風景の特徴もないという印象を持ったようですが、その後の滞在が長引くにつれ、ソウルという町の自然の魅力や美しさに魅了されていったようです。
 
●ソウル・・「都会であり首都であるソウル城内は、そのお粗末さは実に形容し難く「描写するのは勘弁して戴きたいというほどキタナイ場所」であると記しています。
王室への儀礼上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は、主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。
路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間ならかろうじてすれ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞尿や汚物を受ける穴か溝で更に狭まっている。
酷い悪臭のするその穴や溝の横で好んで集まるのが、土ぼこりと垢にまみれた半裸の子供たちと疥癬虫(かいせんちゅう)持ちで霞み目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ廻ったりしている。


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              ソウル・南大門路


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             ソウル・南大門遠望

 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というかの水路である。
蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利や砂だった川床に、堆積した排泄物やゴミの間を、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。
水ならぬ濁り水を手桶に汲んだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。  
ソウルには芸術品が全く無く、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
他の都会なら当然有るべき魅力が、ソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。
結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでも有る、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここには無い。
 
私は昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、言葉にならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点では、他に比類がない。
中世風の行列、人で混雑した路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押し寄せる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みが感じられる。
然し人は始めからそのように「呑みこめる」ものではなかった。
 
ところが数度訪問する内に、私は推定人口25万のこの都市が世界有数の首都に値すること、ソウルの四季折々の風景、春に色づく山腹の美しさや、濃い緑に覆われた山が続くかと思えば突如切り立った峰が現れたりする変化に富んだ地形、優雅な田園地帯や美しい木立を讃え、周辺自然の美しさに恵まれた首都は稀なことを評価するに至った事を充分に悟ったのである。
一年かけて付き合った後、朝鮮の自然を美的に感じ取っていたようです。


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イサベラバードは今でいうバックパッカーで、へんぴな処へも足を運んで行ってしまう人です。
そして基本的には人付き合いよりは自然と戯れることが好きで、都市の不潔さや雑然はさておいて、自然の美しさや半自然の庭園などに心惹かれていったようです。
  イザベラバードの旅したコース➔


 
2.朝鮮人庶民の様子
バードはソウルから船に乗って漢江の上流を目指す旅に向かいます。
その自然や農村風景の美しさに感嘆しつつ、怠け者の船頭や好奇の目で見てくる民衆にイライラしながらも旅は続くのですが、農村や一般住民の暮らしは悪くはないが、必要以上の金銭や物資を「あえて持たない」ようにしていると指摘しています。


貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくはない。自分たちばかり朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めて来て、誰も彼もが満たせるだけの生活必需品はある。
負債はおそらく全員がかかえている。
借金という重荷を背負っていない朝鮮人は全くまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資が貧窮していて、堕胎であるように見えると当初はそう思っていた。
しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」と噂された者、たとえそれが真鍮の食器でやっと食事がとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目を付けられて搾取されたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのが落ち・・となるのである。
朝鮮の災いのもとの一つに、この両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。


両班は自からの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそり他の縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず、住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。


「両班は公認の盗人であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている

両班は慣例上、この階級に属する者は上行をするとき、大勢のお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。


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              ソウル市内の様子


非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の罪をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。


その為、一般の朝鮮人は命と家族を守るために、あえて働かず稼がず、必要最小限のものだけを持って細々と生活するしかないというわけです。
朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得が出来なくなるという、私利私欲のために改革に反対していた」とし、「大韓帝国独立後、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に、保護国として日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と書いている。
バードは朝鮮人の「怠惰さ」が生来のものなのか、あるいは制度がそうさせているのか考えますが、後に満州のロシア人支配地区でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりにし、きちんと制度が整えば朝鮮はきっと豊かになるに違いないし、漢江周辺の田畑も十分に開墾されていないため、経済発展の可能性は大いにあると考えています。
 
気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱とか盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪癖が強力な手段で阻止されたなら、おして地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民は日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸福になれる筈なのである。
 
その一方で、朝鮮人の大食漢ぶりも描写されています。当時の朝鮮人は、身分問わずメチャクチャ食うと描かれており、「貧しい者=食えない者」と結びつけがちな日本人と少し感覚が違うようにも思います。
他のところでもよく目撃したが、中台里でもわたしは朝鮮の人々の極端な大食ぶりを目の当たりにした。彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べるのです。


大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事の良さは質より量で決められ、14ポンド(1.8kg)のごはんを食べても困らないよう、胃にできる限りの容量と伸縮性を持たせるのが幼い頃からの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量の果物、木の実、菓子を食間にとるが、それでも次の食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度で臨む。
私は朝鮮人が一度の食事で3ポンド(1.3kg)はゆうにある肉を食べるのをみたことがある。「一食分」が大量なのに、1日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事も出来ないほど貧しい人と見なされ兼ねない。一度の食事で20個から25個のモモや小ぶりの瓜が皮もむかれずに無くなってしまうのはざらである。
 
. 朝鮮のシャーマニズム
バードは「朝鮮には宗教がない」と述べています。その代わり、「とても宗教とは呼べない」民間信仰が人々を支配しており、それは東北アジアのシャーマニズムを基礎に仏教の影響も受け、朝鮮で独自にローカライズされたものとしています。
朝鮮の民間信仰では、土地、空気、海には鬼神が棲んでいるとされる。鬼神は葉陰をなす木立、薄暗い渓谷、山の頂には例外なく宿っている。緑の山腹、田畑のあるのどかな谷間、小さな谷の草地、林のある高台、湖や川のほとり道端、東、西、南、北に鬼神は無数にいて、人間の運命をもてあそぶ。鬼神は屋根、天井、かまど、暖房床、梁にもかならずいる。煙突、物置、居間、台所にもいれば、棚やかめにもことごとく宿っている。朝鮮人は唯一持っているというべきこの信仰のおかげで四六時中、心が休まらず、限りない恐怖にさらされ、実のところ「怖がり通しで、この世の時間を過ごしている」と言えるほどである。

 朝鮮人は降りかかる災難の原因はすべて鬼神のせいだと思っており、鬼神の怒りが自分に向いたため病気や失敗、貧困などが起こったとみなす。そのため、鬼神をなだめ怒りを解くパンスやムダンというシャーマンが重要な存在となっていた。
シャーマンによる祭儀は絶大な効果があると信じられており、貧乏人でも着物を売ってでも金を工面して「悪霊払い」を受けようとします。
 
. 朝鮮の王族たち
バードは朝鮮滞在中、当時の王族たちと個人的に親しくなり、何度も宮殿を訪ねて親交を深めています。
当時の王妃は後に暗殺された閔妃です。


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【閔妃】
王妃はそのとき40歳を過ぎていたが、ほっそりとしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。話はじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、限りなく美しいものを帯びていた。私は王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才能に感服した。
           

イメージ 8【高宗皇帝】
同時に国王の高宗にも謁見しています。高宗は歴史的には、主体性がなく弱気で、外国に翻弄された挙句、国を滅ぼした無能な君主という評価がありますが、バードも「人は好いが君主としての技量に欠ける」と述べています。

 国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、薄い口ひげと皇帝ひげを蓄えていた。落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居住いや物腰に威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。
 国王は心やさしく温和である分、性格が弱く人の言いなりだった。
 3度にわたって謁見を繰り返し、「好人物だが意志薄弱で人の言いなりの国王」「キレ者で王を良いように操る王妃」「実権を閔妃から取り戻すべく、陰謀を企てる国王の父・大院君」を中心に繰り広げられる王族たちの戦いに国政の混乱の元を見ますが、国王夫妻とのふれあいはバードに好印象を与えたのです。
 

イメージ 9【純宗】
高宗と閔妃の息子は、後に純宗という名で李完用ら親日派に担がれて国王になる人物です。韓国併合後は王族として暮らしています。純宗は知的障害があった可能性が指摘されており、バードも謁見時にそのように感じています。

皇太子は肥満体で、あいにく強度の近視であるのに作法上眼鏡をかけることが許されず、そのときは私に限らずだれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。彼は一人息子で母親に溺愛されていた。王妃は皇太子の健康について常時気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々晒されていた。謁見中の大部分を母と息子は手を取り合って坐っていた。

高宗(朝鮮) - 李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主
     李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主





その3.1運動の寄せ書きがどうもインチキくさいね


太極旗に墨痕あらたかに書かれたものはすべて抗日独立運動の志士たちが書いたのだ・・読めないって不便、でも ”民族独立運動家33人の寄せ書き”


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[ソウルミーナ]
韓国、文化日報は 3.1運動100周年と題して 次のような記事を載せた。

”ソウルの街は熱狂的な独立万歳を連呼する群衆でいっぱいだった。 いつの間に作られたのか、紙で作った太極旗(テグッキ=韓国国旗)の波の隊列の前では、学生たちが先頭に立ち、ソウル市民と地方から上京した田舎の人々がこれに呼応した。” 

独立運動家であり国語学者の李熙昇(イ·ヒスン)先生は、1919年3月1日の万歳運動当時のソウル塔骨(タプゴル)公園の姿をこのように描いた。 今年は3·1運動と大韓民国臨時政府樹立100年になる年だ。 3·1運動は抗日独立運動史上最大規模の独立万歳デモ運動で、その後中国、上海に大韓民国臨時政府を樹立する契機になった。 また、3·1運動は第1次世界大戦勝利国家の植民地で起きた最初の反帝国主義民族運動である。
中国の5·4運動とインドの無抵抗運動などアジア各民族の解放運動にも影響を与えた世界史的事件だ。


このような内容と一緒に太極旗に寄せ書きされた写真が掲載されている。3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。

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これは、どこかの展示館にあるもので、毎年この季節になると大韓民国の独立が云々とか光復軍がどうしたなどと紹介されがちな寄せ書きだ。


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▲どこかの展示館に貼ってある様子


ところが、どうやらこれは3.1運動とは全く関係ないものだという主張が現れている。(関係ないわけじゃないけど)

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これは左上の部分を拡大したものだが、下記のように書かれているように読める。

大韓民国廿八年一月十日
蚌埠第二區隊區隊附文雄明榮轉紀念


大韓民国という名称は1920年の3.1運動で出来たとか、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府が亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した、というように知られている。(だから100周年でお祭り騒ぎをやっているでしょ)

んであれば大韓民国暦28年とは1948年ごろ(終戦後3年目)なのである。(つまり・・朝鮮南北戦争開戦2年前)


「蚌埠」いうのは現在の中国のこの辺です。

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蚌埠というのは中国の上海の内陸のあたりに比定される。どうやら戦後(第2次世界大戦後)に中国の内陸にまだ残っていた第二区隊の文雄明君の栄転記念だと分かる。

栄転というからには寄せ書きをした人たちは蚌埠第二區隊に所属していた人たちであり、終戦3年後の1948年頃の中国で書かれたものだとすれば、文君の栄転後の蚌埠第二區隊そこに残って何をしていたのだろうか? 

※武装解除後にバラバラに帰国した光復軍は1946年6月に正式に解体されている。


博物館の展示の説明書きにありがちな光復軍は、いったい何から「光復」しようとして現地に残っていたのだろうか?

1948年と言えば李承晩や金九はすでに韓国に帰国していた時期であり、しきりに内紛を繰り返していた頃だ。アメリカ軍政は韓国に愛想をつかし駐留する国連軍の規模を縮小を検討していた時期でもある。これが1~2年程度の誤差の範囲だとしてもその意味は似たり寄ったりでしかない。


しかもこの寄せ書きの中には光復の文字など一つも無いのだ。


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完全独立を為す努力 団結

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自主 自立 自愛 (自愛かい)


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熱心に勉強しよう(オマエラガナ)

このようであるが、この寄せ書きはの説明文によれば 3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。 
その内容は ”熱心に勉強しよう” なのである。

李承晩から朴正煕のころにハングル専用化が進められ、現在の韓国人の漢字の識字率は5%程度と言われる。古びた太極旗に墨書きで書かれた「漢字」を理解することができる現代韓国人は殆んど皆無だという。 

まさに ”熱心に勉強しよう”  というのは現在の彼らに向けられた言葉のようだ。



 
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うんうん 知ってたさぁ

 minaQせんせより転載・・↓




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