泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2019年02月

クロード・シャルル・ダレ(1829~1878・フランス人宣教師)の「朝鮮教会史」の記述より…

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 1876年の朝鮮開国に先立って、ソウルへ派遣された宣教師が収集・整理していた資料を基にして1874年に『朝鮮教会史』をまとめたもの。
 厳重な鎖国体制下の1872年、朝鮮にあえて入国しそこで生活した欧米人、パリ外国宣教会所属の第5代ダブリュイ司教以下、宣教師たちからの報告を素材としている点で、極めて資料的価値は高い。




 著書『朝鮮事情』は以下、当時の「李氏朝鮮の社会」を細かくしっかりと観察している。

●ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れないような曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱している。道路を作る技術がほとんど無いため、利用しにくい道は商取引の障害になっている。

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            ソウル・南大門の見える風景

●役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁を構うことなく行動する。

女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけで、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、全く進歩していない。

●朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多くて朝鮮人の特徴であろう。

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             街頭で商いをする女性たち

●朝鮮は187172年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者も現れたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国を固守し中国や日本からの食料買い入れを許す事無く、むしろ国民の半数もが死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。

●朝鮮では、人々が非常に高い声で話すので、人が集まると特に騒がしい。大声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる。
 社交界では、普通の声で話すのは、人の注意を引こうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が
大声で喧騒を好むのは、先天的である。
 彼らの間では、大騒ぎして初めて物事が正されるのである。

●朝鮮人は、男女とも生まれつき非常に熱情的であり動物的である。
然し真の愛情は、この国には全く存在しない。
 彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、
そこにはなんら真心が無い。

●彼らは、自分自身の欲望を満足させる為、手に届く対象には何にでもやたら飛びつき、
あの動物的な凌辱、欲望の獣的本能以外は知らないようだ。
 従って風紀の腐敗・乱れは想像を絶し「人々の過半数は、自分の真の両親が誰なのかを知らない」と大胆に断言さえ出来るのである。

この国では如何なる宗教的、道徳的拘束が有っても、欲望を抑制することは不可能なのである。
 風習と物質生活上の必要ゆえに、貧しい人々、即ち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられているこの国
では、今後どんな方法で、この不貞観念に対処出来るのだろうか?


 一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。
 時には男の同伴者がいる時でさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。


●売春が白昼あちこちで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。

 街道筋では、至るところの村の入口に、身分の低い娼婦が焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供している。
 大抵の男たちが足を留めて、彼女たちに歌を歌わせたり、一緒にふざけ合ったりする。
 仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで足止めする。


●朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。
 それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
 彼らは
、怒りっぽいのと同程度に、復讐心に満ちている。
 例えば、五十の陰謀のうち四十九までが、何人かの陰謀加担者によって事前に暴露されたりする。


異教徒(在来仏教)の間は、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合でも、教育の成果が出るまでには時間がかかるだろう。


●殆んど全ての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。
 大人が不断の怒りを笑って済ませるから、
子供たちは、殆んど躾や懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。


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             ソウル・鐘路での子供たち。


●これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。
 敵対する者たちへの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとっては何でもないのである。

●朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。
 彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、全く平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。
 そして、病気の時でも耐え忍ぶ。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。
 例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。


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                刑を受ける犯罪人

●しかし不思議なことに、軍隊に関しては非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。

●多分それは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。
 有能な将官さえいれば、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、私たちは確信している。

●適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。
 人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気を配らない。

●朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
 彼らは、
財産を保護し盗難・詐欺を防ぐ道徳的な法を殆んど知らず、ましてや遵守しようともしない。
 また、守銭奴は殆んど居ない。居るとしても、富裕な中人階級か商人のあいだに居るにすぎない。
 この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。

●一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余す事なく使ってしまう。
 金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすなど自己の気まぐれだけで生きている。


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              ソウル市街の喧騒ぶり


用事の無い数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機を狙っている。
 ここに無くても他所では出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ見つかっていない何か高価な資源が発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を思い付くかもしれない等と常に期待している。
 或る地域などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から逃れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことを繰返しながら住み易い場所を探しているが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。




明治9年(1876)「宮本小一外務大丞・朝鮮国京城に行く」

 
明治9年(1876)6月、日本政府は宮本小一外務大丞の朝鮮国京城(ソウル)への派遣を修信使に伝えた。日朝修好条規第十一款に基づき、条規付録ならびに通商章程を協議締結するためである。


 宮本小一は、後に「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」なるものを提出しているが、朝鮮国の衣食住や人々の風俗が興味深く描写されており、更に日記録である「朝鮮理事日記」と同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」文と共に、その中から風俗に係る部分をまとめたものである。

 
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       「軍艦・浅間」にて7月15日釜山・草梁着。

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      上陸した江華島鎮海門から対岸の通津府側を望む。

   以下、宮本小一の朝鮮見聞録である・・・

●医療を行う・・
 軍医が現地の人間に医療を施していることが知れると村民が次々と来る。余りの多さに煩らわしさを覚えるぐらいであった。ある村民の夫人が病に困っているとのことで診察を乞うたが、婦人に対しては朝鮮官吏が拒んで許さない。聞くところによれば、婦人の場合は医者が直接触れるのを忌み、壁を隔てて患者の手首に糸を結んで、脈を診て薬を与えるという。実に未開の奇異なる風習である。


●東莱府で・・会場である宴廳は建物は立派だが、壁画は剥がれ落ち、門は傾き庭は荒れ、すでに荒廃してから久しいようだった。あらかじめ掃除をして幔幕を張ってあったが、その粗末さを隠す苦心が思いやられた。
 テーブルに椅子席で、甚だ粗末な文台のような盆に食事が盛られていた。蜜、酢醤油、鶏卵、鶏肉、生魚、乾し魚、牛肉、豚肉、餅、菓子、瓜、林檎、スモモなど計13品だった。酒は焼酎である。陶器の多くは日本製である。
 その後、府使を浅間艦に招待して軍事調練を見せた。


●陸路、京城へ・・

日本側一行には、朝鮮側の迎接官や槍持ちや「令」の旗持ちと楽隊など総勢七十四人が同行する。
 乗り物は、宮本小一のみが「双駕馬」という2頭の馬に乗り,他の日本側随員も馬に跨って行く。
 この輿は正二品以上の身分のものしか使うことが許されないものであり、これをもって格別の優遇であると言う。しかし輿の塗りは剥げ落ち、装飾は毀損していた。行進中は時々楽隊が歌い演奏をした。


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         「双駕馬」で行く宮本一行の想像図。


 地方官が先行して、各家の戸を閉じさせて見物を禁じている。時おり官憲が、集まって見物している人々を鞭をもって追い払う。なんとも大変な喧騒である。
  道が狭い上に輿を支える側人が多くて混雑するので、京城からの帰路はこの輿を辞退した。それで朝鮮政府は「手輿」を用意した。これは人間が担ぐものであったが、輿の中は狭くてやっと体が入れられるぐらいのものであった。

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             「手輿」 (1900年頃)

●京城に至る道路事情・・
 この間の道は1等の官道のようであるが、それでも道幅は6尺(2m)前後に過ぎない。至るところが凸凹であり、荷車・馬車の往来が出来ない悪路である。
 また、橋は土橋が多くまれに石橋がある。板橋は見ない。小川の橋が壊れている場合は両側の土手をせり出してそこを人馬とも飛び越して通っている。
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     清の官吏一行が、清国旗と思われる旗を立てて朝鮮の道を行く


●井戸、泉水について・・
 浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2m)あまりで清水が噴出した。

 人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得ようとする者が無い。かえって日本人によって良井戸を掘って教えるのは、哀れみさえ覚えられる。
 全体に井戸、泉水が乏しい。井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれで事足りるとするようだ。
 我が水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。


●宿泊、休憩施設について・・
 朝鮮国には旅宿というものがなく、公務ある者の旅は各府衙門(官庁のこと)に泊まり、平民は旅先での適当な民家を宿としている。

日本のように庶民が行商や神宮参拝旅行をするということも皆無なのであろう。もっとも、朝鮮には景色を楽しむ名所が無い。更に「この度、入京してその実情を目撃したこの国の至るところ駅亭の設けて無く、旅人らは路次の民家に投宿し一飯で飢えを癒し、僅かに雨露をの逃れるのみ。その家屋は概ね豚小屋、牛舎のそのままなり」
 通津府の衙門
(官庁)にて休息をしたが府使が来て慰労してくれる。彼は汗が衣を濡らすのも忘れて動き回り、お膳を出して饗応した。それは東莱府使の宴饗よりも一層丁寧なものであった。

この衙門は小さいとは言え、綺麗に洒掃してあり、床には新しい敷物を張り、外には外燈を懸け、簾を垂らして宿泊の備えをしていた。


●糞と牛骨が散乱する王城市街「京城」

 京城は大河(漢江)の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭くて人家が密集している。およそ3万戸以上はあろうか。
 城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。
 門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20m余りである。
 市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に狭小なる藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なことは例え様がない。


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      南大門(崇禮門)城外側 明治21年(1888)


 汚水が道路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層の臭気が一面に漂っている。
 その他の道は、23間(45m余り)で、凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。

 人家が道に出っ張っていたり、引っ込んでいたりが並んでいて、頗る不整である。
 王宮は壮大である。しかし庭には雑草が生い茂っている。一切掃除をしたことがないようだ。
 
●建物について・・

 京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる)
 敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらいで皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも展望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらに生えていた。
 敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。

 室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
 「花紋席」と称する薄いむしろが敷いてある。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
 部屋は狭く、数人を収容して、机と椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
 紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
 寝室は壁に竈
(かまど)の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾(すだれ)を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。

 庭には、築山泉石の飾りは無い。邸内はわずかに柏の老樹が門のところにあるだけである。なんとも風雅の無い邸宅である。朝鮮全般いたる所でそのようなものであると言う。


●風呂場と便所について・・
 途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新設されていた。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが頗る爽快であった。

 また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言うが粗末な藁葺きで不潔であった。日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では稀なる風景だと言う。
 途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。

また部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。

 普通、朝鮮の民家には一切便所がないとも言う。
 その為か、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蝿が飛び交い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない程である。雨が降る日にだけは流されて臭気が治まる状況。
 ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、おびただしい蚊と蚤のため、遂に一睡も出来なかったと言う。

 
●護衛朝鮮兵の様子・・

 清水館には、朝鮮兵が2300人ぐらいで護衛をしている。
 事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵
(むしろ)を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしている感じではない。殆んどまるで犬や羊の扱いで、雨の日は甚だ困難であろう。

 更に、糞尿をそこらあたりにするので、臭気や不潔さはこの上ない。しばしば催促して掃除をさせた。

 日本人のために朝鮮の護衛兵の中から使いの者を選んでいる。これを「房守」と称す。
 時々、下士官が来て働きぶりを調べて指図している。その交代の時には、下士官が帳簿を持って室内にある調度品などを、紛失が無いか検査して交代するという規則になっていた。


●食事のこと・・

 食事は1日2回で、たいてい10種類から178種に至る。三尺四方ばかりの有脚盆に渦高く盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
 牛豚鶏魚の肉、草餅、吸物などをみな器や皿に盛る。しかし臭気がひどく箸を下す者が少ない。
 ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
 水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。それらが、1人に対して実に10人前分ほどもある驚くべき量であった。

 炎熱の時節でもあり、その異様な臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を置く者が少数居た。(宮本たちの食事はいわゆる宮廷料理と思われる)
 なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。


●味付けについて・・

 胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言ってよい。
 また、大体のものは胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。

 醤油は上品下品とあって、極上品は日本製になるが、値段が高すぎて容易に得ることは出来ないと言う。下等品は不味くて食せない。味醂はない。砂糖も無いので蜜を代用している。


●酒類について・・

 酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
 焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
 米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。


●膳台や食器について・・

 盆や膳類は漆が剥げ落ち、垢がついて全て不潔さを感じた。
 磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしどれも汚れたような不潔さを感じる。
 酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製もあり、朝鮮製のもある。

 彩画した皿や金銀の器は無いが、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製で蝙蝠の絵が画いてあった。
 また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。

 銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。

 牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
 日本人がこの国に来た時、まず食べ物に注意すればするほど、飢渇の患いを免れられないであろう。


●米穀・・米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。


●茶の湯・・ 茶(緑茶)は無い。
 干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。


●菓子について・・

 菓子は、小麦粉を練って胡麻をまぶしたものであり大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
 棗
(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
 餅に豆の粉をまぶしたものもある。稀に、日本製の片栗の菓子も見る。
 日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出してくれた。


●夏でも氷がある・・
 金浦(ソウル郊外)より東は夏でも氷がある。氷は冬に漢江で取り、これを氷室で多量貯蓄しているようだ。泥がまじっているのがあっても注意して飲食すれば害があることはない。
このたびの炎暑酷烈で耐え難い暑さも、氷水によって冷を得ることができた。


●官妓の舞・・
 王宮で朝鮮国王謁見の後に宴禮を受ける。賜饌の時に舞楽があった。数人が楽を奏す中に156歳の女子3人が舞う。太平楽、興民楽と言う。

頭に異様の冠を戴き、赤色の紗の大袖長裾の衣をまとい、手に割竹、数珠、太鼓を持ち、その容姿は絵画に見るところの天人の如し。
 この楽は久しく支那においては絶えたものであるが、朝鮮には残っており唐の時代から伝えて今日に至ると言う。その古風を失わざるをもって誇ると言う。

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                官妓の舞

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               官妓と楽人

●名勝に乏しく見物を嫌う・・
 山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。また、老松がまばらに立っている。禿山が多いからその風景の風情は乏しいものなっている。

 三角山(北漢山)と称する剣鋩の如き山あり。王城の鎮たり。有名な山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
 村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので市街から遥かに見渡すことが出来る。

 市街の一般民家は朝鮮政府の命令によって悉く門戸を閉じていた。十字路の所ははるか遠くに縄を張って一般の人の通りを禁じていた。故に王宮に参内する時に通ったときは、道路は粛然として庶民の姿を見ず、ただ建物の戸の隙間からじっと見る目が沢山あるのが分かる。
 このような状態であるから、我々一行が門外に外出しようとするなら、まず朝鮮官吏らが引きとめて、外出してくれるなと乞う。学校や貧民院や病院などを見学したいと言っても、見るに足らずと言って制止する。或いは、そのような施設は無いと言って一歩も外出させようとしない。

 「薬水」(奨忠洞)は、「ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるのでこの地に遊ばれたらよい」というので案内された。
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   迎恩門あり。支那より勅使の来るのを国王がここで迎える。


 市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
 皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして、他の場所に行こうとしたが、朝鮮の護衛兵がしきりに遮り拒むので止むなく館に戻った。

 これでも、朝鮮人の話題にこの薬水のことがしばしば出るところからも、これをもって京城の風景名所に乏しいことを推察できよう。 このように3度ほど日本人一行が門外に出、又海軍士官が連絡のために浅間艦から往来し、そのつど市街の人民は居家を閉ざしたり往来を止められるので、その面倒さは実に苦であったろうが、遂に朝鮮王の特命が出て、それらの制限を廃したと聞く。


樹木・風景について・・

 京城近傍の草木は寒地であることもあって、特別に珍しいものは無かった。
 檜、杉、梅が無く、竹や棕櫚も無い。しかし柏、合歓の木が所々に野生している。
 また各所に多く松を見る。この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。

背が低くて横に曲がったものが多い。直立して天を指して伸びているのは稀である。
 朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
 釜山、江華府、京城、夫々の山に草木が繁るのに不適のようである。周辺は禿山が多く遠望すれば黄赤色の地面が斑々としてその観は美ならず。
 家屋の建築には松材以外に無い。
 草木が少ないということは、樹木を愛玩して植林する人も居ないということである。
 京城に花屋というものがない。人が植えた花木というものも無い。

 柑橘類の木はいよいよ無い。蜜柑を朝鮮では殊更に珍なるものとし、毎年冬至の祭りに日本から求めて国王自らこれを食するのが行事という。故にこれを尊重し、かつて黒田全権大臣が朝鮮に来たときに、冬であったから大量の蜜柑を持っていったが、朝鮮側もこれを殊のほか嘉賞したり。
 朝鮮修信使が東京に来たときに初めて枇杷の実を食したが、これを甚だ賞した。
 修信使らは日本のことを賞するのに、「建築が盛んであり、草木が多い」と言う。これによっても朝鮮には草木が少ないことを知るべし。

 桜は釜山にある。対馬の人が植えたものなれば、朝鮮固有のものではない。京城近村で一本あったのを見たことがあると人の語るのを聞いた。しかし、開花の時でないから確認はできてない。


●田園地帯・・

 土地は痩せていないようである。丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が怠惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
 夏は雨が多いと言うが、本年は旱魃とのことで稲の水田がひび割れていた。畑には大豆が多く植えてある。黍
(きび)、稗(ひえ)、甜瓜(マクワウリ)、ささげ(豆の一種)、胡麻、綿花、西瓜、南瓜、トウモロコシ、タバコなどを作っている。干天のために多少の損傷を受けているようである。
 男は耕作をやり女は乾飯を運び、耕牛は所々につながれて、その光景たるや日本の田舎と同じである。ただ田畑の並びが日本に比べて不整列であった。


●市場と産物・・

 大海から直接船が来て魚介を運ぶことは無いようである。魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。もっとも朝鮮人は、牛豚類を重用して魚介を賞しないようで、魚類は多く見ない。
 野菜などは、通常の種類がある。しかし、浅間艦が一度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。都外はもちろん都内でも魚市の取引は、常に閑寂たるを知るべし。

 薪柴も乏しい。家屋の床下にかまどを設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。

ゆえに薪柴は貴重品である。
 石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。後に帰国してから山中に石炭を見たという。しかし掘る方法を知らないと言う。


●一般の民家・・

 その家屋は石と泥をもって建設し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓は小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。大方の家は「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
 そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が散乱して、ほとんど足を踏み入れることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいの迷路である。
 寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1~2の炊具を見る。
 ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕
(かめ)がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕(かめ)であろう。質は頗る堅牢である。


●庶民の姿・・

 村民は粗食に甘んじ閑寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風潮がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
 長煙管をもって煙をくゆらしながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。

●王と庶民の衣服について・・

 朝鮮王(高宗)の衣服は、美絹にして桃紅色の礼服である。胸に袞龍(こんりょう)の如き金襴がある。冠は紅黄色の唐冠に似たものである。
 重官は、松葉色に双鶴の刺繍模様ある礼服である。
 庶民の服は木綿白色である。富貴の者は「紬
(つむぎ)」を用いる。
 庶民の場合、男女の服装は大して変わらないように見える。
(かつて黒田全権大臣は釜山草梁において一般男女の区別がついてない。)
 染料はまだ無いようである。縞小紋の類は全くない。赤、紫、橙、黄など人の目を悦ばす色も見当たらない。
 婦人などで色のある服は時々見るが、支那か日本から輸入したものである。
 近来、日本から染料を輸入しているから、漸次これを用いるようになるだろう。

●雨具・日除け・・

 炎天下、日光を遮る傘の類がない。故に如何なる炎天であっても帽子なき者は天日を避ける術が無い。
 雨傘は粗末なものがあり、頭だけを覆う油紙の扇のようなものがある。雨が上がれば畳んで懐中に入れる。

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        町の露天商 (客は日傘を被っているらしい)


●家畜 馬、牛、豚など・・

 朝鮮の馬は日本の在来種よりはるかに小型であり、時として「大馬」と称せられる馬ですら日本のものの8~9割ぐらいの背丈しかなかった。
 馬具は日本古式と同じである。日本蒔絵の鞍を賞美する。

牛は肥大している。大方、野に放って随意に青草を食べさせているのでよく育っている。
 浅間艦が牛1頭を買い求めたが、韓銭何貫文で値7円に相当したと言う。朝鮮人が牛を繁殖すれば貿易の一助ともなろう。

 豚は、普通の種類である。鶏はチャボの種類である。 山羊、羊の類は見ない。
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                 朝鮮の馬・・

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                田園風景・・

●細工・工芸・・
 細簾は朝鮮人の工の最も精妙なる技術品である。竹を糸のように細く削って製し、黒漆を塗って雷紋のようなものを画く。極めて価値あるものである。
 団扇(うちわ)は全羅道で製す。団扇の骨は細く何百筋も入れている。色は、紅、黄、青の三種がある。紅色の品は光沢があり最も美しいものである。
 扇も多く産す。油紙で片面を作り裏は骨が見える物である。極めて大きいものもある。

扇の要に紐を通して奇物を下げてこれに工夫を凝らしている。
 筆は毛が硬いが良く出来ている。
 墨の形模様は雑で銀泥などの装飾も完全ではないが、墨質はとても良い。

 梳き櫛を多く作っている。朝鮮一の産物と言ってよい。


●朝鮮国の徽章・・

 時として、団扇の中央に二つ巴のような紋章を画きだす。
 これは、朝鮮国政府の徽章とも言うべきか。各衙門
(がもん=役所)の扉やその他官府に係る物品の多くはこの紋章を画いている。


●製紙・・

 紙は楮(こうぞ)を原料にて作る。日本のものより厚くて強靭である。薄く美白色に製する方法をまだ発明していないようである。その値段は日本に比べれば高い。ただし楮での紙があるのは日本と朝鮮ぐらいと思われる。

●いいかげんな性格の風習・・

 時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。そのことを気にする者はいない。公務などにおいても同様である。
 対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。皆これらは朝鮮の風習である。


●気候・風土病・・

 一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。(一行の京城滞在は730日~826日まで)
隊員に病人が多くなってきた。これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。

 帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。重症の下痢の患者が多い。

患者の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。(高熱を発して嘔吐を繰り返し心停止に至る。赤痢の症状に似る。氷水による飲食が原因とも考えられる。又、奥義制書記官が重体となり、帰国後長崎の病院に入院して一命を取り留めている。)
 この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
 浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
 今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。


「本間九介」という日本人が明治27年に朝鮮を旅行した旅行記「朝鮮雑記」の副題は「日本人が見た1894年の李氏朝鮮」である。

 日清戦争(1894年~1897年)のころの朝鮮と朝鮮人たちの様子です。

イメージ 11 そこに書かれた朝鮮人たちは貧しくて、汚くて、腐敗していて、卑怯で、怠惰な人々として描かれている。
 同じ時期、朝鮮を旅行した西洋人たちが残した文面とほぼ同一で、否定的な観察が多くみられる。
 西洋人の場合は朝鮮人の民族性ではなく、朝鮮と政治制度の問題を本質的な原因として見ているが、本間はそのような構造解析には及ばないが人々の生活を鋭く見抜いている。

 彼は旅行中に体験した事実を中心に、次のように紹介しています。

 
●1
・・「残飯を欲しがるという小見出しの記事では、宿主が食べ物の準備をして、本間が食べようとしたときに起きた騒動を紹介している。

 本間がスプーンを持った瞬間に、隣人が旅館に入ってきた。
 宿屋の主人が詰問した。隣人は、「私は日本人がどのようにして食べるのかを見ようとしたのである。怒るな」と言う。
 宿屋の主人は「お前がこのタイミングでやってきたのは、お客さんの食べ残しを食べようとしたからではないか。珍客が残した食べ物を、どうしてお前なんかに与えるものか」と叫ぶ。
 隣人は「疑うなら帰る」といって去る。
 本間は、隣人を人間扱いしない主人に怒ったが、じっくり考えてみると、実際に残飯を待っていたのは宿屋の主人ではないかという気がしたという。
 「
衣食足りて礼節を知る」という習俗が、この国に有るというのは考えられない

●2・・「官吏はすべて泥棒だ」という小見出しの文は、民を搾取する腐敗した官吏の話である。
 ある外国人が朝鮮人に言った言葉を引用した。
 「あなたの国の官吏は勝手に民の財産を奪う。公盗である。公的な人間が民を苦しめる。盗人よりも悪質である。なぜあんな泥棒を排除して国を正してゆくという考えを持たないのだろう」

 本間は、朝鮮人たちが官吏の虐政にあまりにも長い間慣れてしまって、何の問題意識すら感じなくなっていると評している。
 子々孫々、遺伝子からその運命を受け入れてしまっているのであろう。


●3・・本間は「朝鮮は腐った卵のようだ。孵化する力がない」とした。
「腐った卵から孵化するか。自らの力で殻を破って出てきて鳴けるだろうか」と問うている。改善する意識すら育っていない。

●4
・・本間が慶尚道の陜川である家に滞在したときに目撃した「官吏の横暴」だ。いきなり3~4人の官吏が現れ、家の主人を捕縛し、連れて行こうとした。
 村の人々が集まって、善処を訴えても見向きもしない。
 この家の奥さんが貫程度の小銭の包みを持ってきて捧げた。
 官吏は突然表情が柔らかくなり、主人を解放し、お金を貰って立ち去った。
 何の罪を犯したのかと尋ねると、事情は簡単だった。
 郡守が近くを通過したとき、この家の主人がキセルを口にくわえていたのが不敬罪として捕まえられたのだった。

●5
・・この国の中流以上の妻は、重病にかかっても、医師の診断を受けることができない。
 せいぜい手を出して脈拍をはかる程度である。
 この国の婦女子は重病にかかっても医師からきちんとした治療も受けられずに死ぬ運命だ。

●6・・この国の武芸は「弓術」だけだ。

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                朝鮮での弓戯


●7
・・朝鮮の山々は禿山だ。
 薪用に使い植林しないので、小さな干ばつでも水が枯れて農業が壊れる。
 収穫が困難になると、親は子供を金持ちや中国人に売って穀物を買っている。

●8
・・朝鮮での喧嘩は激しい口喧嘩から始まり、汚らしく胸ぐらや髪の毛をつかみ合って威嚇して終わる。 朝鮮には決闘文化がない。


●9
・・朝鮮は全てが汚い。
 魚や野菜はほとんど腐っていて、調理している場面を見ると、かなりの豪傑でもスプーンを持ち上げることができなくなる。

●10
・・何処の道も狭い。
 釜山からソウルまで、大路という道ですら、一人がやっと通れるほどである。
 新羅時代には一般人も牛車を利用するほど道路が整備されていたというのに、朝鮮はなぜこうなったのか?
 ソウルから北に行くと道が広くなるが、これは中国の使臣のためだろうか?


●11
・・ここの役人、すなわち武官は、武芸も知らず戦法も知らない。
彼らは兵士を率いて祖国を守るという考えすらない。



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 エルンスト・フォンヘッセ・バルテッグ (Ernst von hesse-Wartegg=1854~1918)は世界旅行中に日本・朝鮮へ立寄った。

 その過程で1894年に朝鮮旅行をした。

 朝鮮半島が最もキナ臭い東学農民運動、日清戦争そして甲午更張などが続いた時期だ。
 朝鮮半島の120年余り前の姿はどうだったのだろうか?
 このオーストリアの旅行家は、釜山、済物浦、ソウルについての生々しい描写を残している。

 貧しくて汚い。男は仕事をしない。賭けごとに熱心だ。仕事は女性がしている。その女性たちはあまりにも犠牲的で勤勉である。
 施政・官吏が腐敗しており、搾取だけしているので庶民は働く意欲が生まれない。人々の体格はよく、持って生まれた健康体質である。
 性質が良いので良い政府なら短期間で成長する。


●1・・バルテックはソウルのみすぼらしさに驚く。

 ソウル(漢陽・ハンヤン=当時の呼称)は途方もなく汚かったが伝染病の発生は少なかった。
「今まで私が見てきた都市の中でもソウルは確かに最も奇妙な都市だ。

 25万人ほどが居住する大都市で、5万軒余りの家が殆んど藁ぶき屋根の土作りの家であるところが、世界の何処にあるだろうか?

 欧州旅行者のための宿泊施設が一切無い、地球上で唯一の首都であり、王の居住地でもあるのだ。
 今まで私が見てきた都市の中でも、ソウルは確実に最も奇妙な都市だ。


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         光化門の見える京城風景 (1895年)

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     藁屋根群落のソウル市街全景   1895年(明治28年)
          右前方遥かに光化門と景福宮が見える

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         ソウル  南大門大通り  (1888年)

 最も重要な大通りに下水が流れ込んで、溝になっている不潔な都市が他にあるだろうか?
 ソウルは産業も、煙突も、ガラス窓も、階段もない都市、劇場や喫茶店、公園や庭園、床屋もない都市だ。
 家には家具やベッドもなく、便所は直接道路周辺にしている。
 宗教も街灯も上水道も馬車も報道もない。
 男女に関係なく、全住民が色も柄も無い白い服を着ていながら、他の場所よりも汚い糞尿都市が他にあるだろうか?こんな国が他にあるのか?」  
 その一方で、ソウルは決して健康に害になるところではなく伝染病の発生などは珍しい。その理由は一方では冬が非常に苛酷で、長い間の雪と氷そして寒さが伝染病の発生を防ぎ、他の一方では夏の夕立ちが汚物を洗い流して行ったからだろう。それでも残った汚物は犬が食べてしまう。
 犬は最も忠実で、家屋内を清掃する廃物清掃夫なのだ。

 彼は男の怠惰と女の勤勉さを複数回対照させる。

 「私は男が働いている姿を一度も見なかった。
 彼らは家の中や家の前にしゃがんで座り、小さな中国パイプを口にくわえてのんびりしたり、一団となって集まって遊んだり、寝たりしていた。


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             ソウルの町角で・・

 一方で、小さくて苦労のために痩せた女性は家事を引き受け、調理し、洗濯をしていた。 すべての労働は女性の仕事だ。
 まさにこの国は女性を尊重していない民族で、女性を尊重していない民族は文化水準が低いという事実が証明されている。
 朝鮮の女性た
ちは、荷台の動物以下の存在である。
 男性は女性という奴隷を持つために結婚するようだ」 


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           光化門前の河川で洗濯する女性

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              京城の市街風景

 
 なぜ朝鮮男性は仕事をせず怠惰なのか。
 著者の観察が鋭い。

 「男性は仕事をする必要を感じない。欲が少ないからである。家は自ら作り、生活の道具は単純である。妻が菜園を育て、タバコや少しの肉を買うためにお金が必要な場合、日雇いをしたり、妻を働きに出す。仕事をしたくない理由は、『生計維持費よりも多くのお金を稼ぐと、官吏に奪われるから』ということである」


 彼には朝鮮の首都・漢陽
(ソウル)は大層珍しかったようだ。

 大都市としての秩序が整っておらず、汚いのに伝染病が流行しない場所だった。旅行記の通りなら朝鮮は発達した文明国家から来た人々が仰天する様な場所だった。

「長期にわたる壊れた政治」が国民の生活レベルまでどん底にしたようだ。


●2・・王は神聖な存在なので特別な待遇を受けた。
 「朝鮮で王はどれほど神聖視されているかは他の指針でも見られる。 王の前では誰も眼鏡をかけることはできない。馬に乗った人は王宮が近づけば降りなければならない。王の肖像はコインや張り紙にできない。なぜなら王の肖像に国民が触れると王を冒とくすることになるからだ。従って朝鮮人にはヨーロッパのコインはまったく理解できない。
 鉄でできた物が王の体に触れてはならない。


 1800年、恭靖大王(定宗・チョンジョン)が悪性腫瘍で死んだのは手術用メスで腫瘍を切ることがこの礼法に外れたためだ。何年か前にある王子が自身の腕に手術を行えるようやむなく許諾した。

 但しその後、彼は自分の気の毒な主治医の命を救うために様々なことをしなければならなかった。礼法を破った罪で王が主治医を斬首刑に処することに決めたのだ。」
 王政になじむヨーロッパ人の目にも珍しいほど、朝鮮の王は特権を享受した。その特権を保持しながら庶民のため善政を行ったら良かったのだが、それが出来なかった。そしてこの様な特権の行使は各種の科学や技術の発展を妨げる行為となってしまった。

 鉄で作った物が王あるいは王子の体に触れてはいけないという礼法は手術を不可能にさせた。技術の進歩は、力がある者から利用し始めてこそ発展するようになるのが常である。

 上層部から詰まっているので科学的基盤の医術は全く発展できなかった。


●3・・官吏になるために漢字が書かれた本で勉強している。
「官吏職に関心を持つ若者たちは事情が違う。彼らは‘漢文’すなわち漢字を勉強し始める。このために独自の教科書があって、この本には漢字と朝鮮字が載っていて、字のそばに中国式発音と朝鮮式発音が大きな文字で書いてある。なので不思議に一音節や一単語を意味する同じ字が朝鮮と中国では互いに違うように発音される。字が全部使えるようになれば中国の古い判例が説明され、歴史的主題に関するエッセイや詩のようなものを書く宿題が与えられる。数学や地理学は付随的であり、国家試験を受けるのに他の学問は不要だ。まだ朝鮮人は古代ギリシャ人のように地球が平たい板だと信じている」



●4・・著者は日本から船に乗って釜山港に入ってくるときの感じをこう書いている。

 「朝鮮の殺伐とした岩礁海岸が正面から私たちを睨んでいる。
 見ていると、最悪の野蛮国家という評判を受けている半島国家に対する驚きと、日本と朝鮮の間にあった数世紀前の流血の戦いと、そして朝鮮の支配者がわずか10年余り前にカトリック信者を殺害した血の海を思い出した。
 海の真ん中にそびえる5つの石を指している船長の手振りが、私を思いから目覚めさせた。
 その横を通過しながら、私たちは遠くから日本人居住地の白い家を見て、すぐにそこに停泊した」


●5・・著者は農村ではなく釜山、ソウル、済物浦などの都市だけみたのであるが、その失業状態に驚愕する。

 「彼らが絶対しないことが一つある。まさに仕事である。おそらく死んでしまったこの国には仕事がないからだろう。仕事をする機会が多い港の朝鮮人は勤勉で忍耐がある。中国人のように忍耐力があって満州人のように力がある。女性が働く町はきれいである。女性は感動的な勤勉と感嘆に値する忍耐力でその義務を果たす」

●6・・日本人に対する好評価が対照的である。

「日本は済物浦に進駐し、すでに首都にも進駐した。それでも日本軍は朝鮮軍より振る舞いがよい。彼らはすべての商品を現金で購入し、礼儀正しく行動し、酒に酔ったりせず、規律がある。日本の将校たちは礼儀正しくて教養がある」 



 著者はこのような搾取型の官吏が朝鮮の没落と、ここに蔓延する悲惨さの最も主要な原因であると強調している。
 官吏の貪欲さにより、個人の利益獲得と所有に対する人々の欲求や労働意欲、そしてすべての産業の可能性を窒息させてしまったのである。
 恐らくソウルほど仕事をしない、出来ない都市は無いと言っています。


 「インド、中国、日本を旅行すると、商人たちが集まってきて物を売ろうとするが、ソウルでは商人たちが見当たらず、探して来てもらう必要がある。商品も貧弱きわまりない。売物を作っても買う人がいないからだろう。

 だから技術者は育たず、就労さえ出来ないのである」



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               炊事する家族

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               露店の飲食店

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   ⇧ 左側は李氏朝鮮、       右側は同時代の日本 ⇧


  ● 1895年からの日本国との関わり


 1895年(明治28年)に、日本が日清戦争に勝利し、日本と清国との間で結ばれた下関条約で、清の属国だった朝鮮は清国から独立ができました。
 
 戦争に勝った国とは、敗戦国との講和条約の最初の条文には、自国が最も欲することを書き込みます。
 日清戦争の戦勝国である日本が、下関条約(日清講和条約)の第一条にした文言とは、清国からの領土や賠償金ではありません。
 
 下関条約の第一条は、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言で、日本が最も求めたのは朝鮮の清国からの独立でした。

 欧米列強の脅威にさらされていた日本は、朝鮮には独立国家としての成立を願いました。
 しかし、一人歩きの出来ない朝鮮は、清国からの独立から、わずか10年後に日本からの保護国になりました。
 
 1905年(明治38年)11月17日、日本と韓国は「第二次日韓協約」を締結し、日本は韓国の外交を監理指揮するとされ、大韓帝国は日本の保護国になりました。
 
 韓国は、日韓併合を「日本による植民地支配」と主張しています。 
 植民地とは、統治国が支配地から搾取することで、日本は朝鮮を植民地にした事実はありません。
 国家破綻の危機に陥った「大韓帝国」を欧米列強への吸収を恐れて日本が善処したのです。大日本帝国に併合して、全て日本国民としたのです。
 
 日本は日韓併合前である1907年の第三次日韓協約締結から、韓国の内政も監督しています。

 1909年、李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、欧米列強に莫大な借金、土地資源の抵当で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が充満して、日本への併合を望む声が高まり各地で暴動が発生した。
 
 当時の日本による朝鮮半島への財政負担をみても、これは朝鮮からの搾取ではなく朝鮮への莫大な支出を負担した。
 
『第三次日韓協約』が締結された明治40年から日本が韓国を併合した明治43年迄のたった4年間に限って見ても、韓国政府の歳入に充当、計上された金額は約1400万円。
 仮に当時の1円が現在の2万円に相当するとして計算すると・・・
 当時の約1400万円は現在の金額にして・・概算21千億円となる。
 
 1909年1026日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが急加速した。
(この時期は、まだ「大韓帝国」としての独立国)
 
 1910年829日大韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し、総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、道路、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて35年間で日本国内並みに完全整備・近代化した)・・・(明治43年~昭和20年)

                                     


韓国が奈落の底に落ちて行く・・韓国はレミングの群れのようだ・


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➔日経の元記者・鈴置高史氏の記事がありますのでご紹介しております・・

もう止められない「北朝鮮との心中」➀ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37924923.html

もう止められない「北朝鮮との心中」② https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37930843.htmlより・・つづく

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   信じ込みやすく、騙されやすい集団 ・・ソウルのロウソク・デモ

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パク・クネ大統領弾劾以降、ムン大統領退陣を叫ぶ保守右派が力を得ていて、
1月26日(土)ソウル都心のあちこちで大規模な同時多発太極旗集会が続いた・・
過去最大規模のものだ。

人権蹂躙国家とスクラム

ーーー「亡国の危機」の様相ですか?

鈴置「世の中がよく見えている韓国人」は今、絶望に陥っています。
米国からは同盟を打ち切られそうになっている。
 韓国が米国を裏切って北朝鮮の核武装に協力しているからです。

 そこに起きたレーダー照射事件。日韓関係は悪化する一方で修復のメドがたちません。左派政権の「反日」は「反米」の伏線です。
 米国との同盟はさらに危くなるでしょう。
 問題は米国との関係に留まりません。人権蹂躙国家の北朝鮮とスクラムを組んで、その核武装を幇助する文在寅政権の異様さが世界に知れ渡りました。北朝鮮だけではなく韓国も「危ない国家」と認定され始めたのです。

 周辺国家と世界はテロ国家たる北朝鮮の核武装を全力で阻止するでしょうから、文在寅政権の狙う「民族の核」の実現は容易ではない。
 仮に成功してもそれはあくまで北朝鮮の核。韓国が核を持つ北の支配下に入るのは確実です。それに普通の韓国人が耐えられるとは思えません。(『米韓同盟消滅』第1章第4節「『民族の核』に心躍らせる韓国」参照

 国が危機にあるというのに指導層は権力闘争に没頭する。国民は政府やメディアに扇動され、「積幣清算」や「反日」に浮かれる。国が奈落の底に堕ちて行くのに、見動きがとれないのです。

今回はもう「出口」なし・・

ーーー韓国の混乱は収拾できないのか?

鈴置1960年に李承晩政権がデモで倒れた後の混乱は翌1961年、反共を掲げる軍人のクーデターにより収拾されました。
 私は1987年から5年間ソウルに住みましたが、当時を知る韓国人の中には「クーデターが起きなかったら韓国は北朝鮮に吸収されていた」と説明する人がかなりいました。

 クーデター自体には賛成しないが、北朝鮮の一部となるよりはましだった、というのです。もちろん「あのクーデターによって成立した軍事政権が、韓国の民主主義を破壊した」と言う人もいましたが……。

ーーー今回はもう起きない?

鈴置……と、多くの韓国人が言います。軍人もサラリーマン化して、もはやクーデターを起こす根性はない、との理由です。
 今回は良かれ悪しかれ「出口」はないのです。

 自分たちを、集団自殺するとされるレミングに例える韓国人が出てきました。その1人が趙甲済(チョ・カプチェ)ドットコムの金泌材(キム・ピルジェ)記者です。
 『レミング効果』に見る『韓国人の群衆心理』(2016年11月16日韓国語)は「ろうそく集会」が始まった頃に書かれた記事です。
 書かれた時点では朴槿恵大統領が弾劾されることまで想像した人はあまりいませんでした。それによる左派政権登場と、米韓同盟の危機を予想した人も少なかった。
 しかし金泌材記者は韓国人の扇動に弱い体質を指摘し、国が危くなると当時から警鐘を鳴らしていたのです。

ーーー韓国はどうなりますか?

鈴置この段階に至っては手遅れと思います。北朝鮮との共闘路線を修正するのは難しい。それが左派政権の存在理由なのですから。(『米韓同盟消滅』第1章第1節「米韓同盟を壊した米朝首脳会談」参照

 それに米国や日本は「北朝鮮の使い走り」と見なして韓国に向き合うようになりました。米国は今、韓国との「思いやり予算」交渉でいつになく強硬です。

 米国の専門家は在韓米軍の削減・撤収まで公言し始めました。いざとなれば韓国との同盟をやめてもいいのだ、との合意が米政界に広がっているのです。
「レーダー照射事件」で日本が韓国を徹底的に追い詰めているのも「韓国が仮想敵になりつつある」との認識にあずかっています。

 韓国はもう、奈落の底に堕ちて行くだけと思います。 (終り)






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