泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2018年12月

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  公海で国旗も掲揚せず、何様のつもりか? 韓国軍・国際公約の完全無視!

韓国海軍艦艇による火器管制レーダー照射画像の全て


Regarding the incident of an ROK naval vessel directing its FC radar at an MSDF patrol aircraft ↓ (英語版)



●韓国国防部の発表は・・支離滅裂な内容だ・・・↓

①<韓国軍は作戦活動中でレーダーを運用していたが、日本の哨戒機の追跡を目的に運用した事実はない> - 12月22日午前
②<北朝鮮漁船の救助のために一時的にすべてのレーダーを稼働した> - 22日午後
③ <映像撮影用光学カメラの電源を入れた> - 23日
④<レーダー波を照射したことはない> - 24日
⑤<日本哨戒機の乗組員の英語が流暢でなかったので、何を言っているのか聞き取れなかった>
‐25日
⑥<「肝心の中核データであるレーダーの周波数を公表していない・・客観的証拠とはならない」>⇒ 佐藤正久議員「公表されたらレーダーが丸裸、困るのは韓国。日本は提示するのは可能」29日

会見のたびに内容を変える韓国国防部。

動画が教えてくれる真実・・

1、1m級の穏やかな海であり、国防部が気象悪化のためにレーダーを動かしたという言い訳は嘘だった。

2、北朝鮮の漁船が目の前にあり、漁船を探すためにレーダーを操作する必要自体がなかった。

3、日本の哨戒機が現場に到着すると、韓国の軍艦が火器管制レーダーを動作させた。

4、つまり最初から漁船を探す目的ではなく、日本の哨戒機相手に動作したということ。

5、駆逐艦の広開土王艦だけがいたのではなく、警備救難艦「サムボン号」(5001号)も現場にいた。

6、日本の哨戒機は国際法による高度で飛行していた。つまり韓国側の低空脅威論は嘘だった。

7、韓国の駆逐艦はさらに火器管制レーダーを動作させた。

8、日本の哨戒機はFCの脅威に対してVHF緊急周波数で通信しようとしたが無視。

9、日本の哨戒機はFCの脅威に対して国際VHF周波数で通信しようとしたが無視。

10、日本の哨戒機はFCの脅威に対してUHF緊急周波数で通信しようとしたが無視。

今後日本側は、必要に応じて引き続き証拠提示するという。
● これから確認を要すべき部分・・・

1、どうして韓国軍艦は日本の排他的経済水域EEZまで入ったのか?

2、どうして北朝鮮船舶を探す目的だったと嘘をついたのか?

3、日本のEEZで日本哨戒機を脅かした理由が北朝鮮と果たして無関係なのか?

4、日本が3回に渡って通信しようとしたが、なぜ無視したのか?

5、北朝鮮船舶と接触中だったのが、それほど不都合だったのか?


今まで一部の人は、韓国側が日本の哨戒機を威嚇した理由は「韓国が北朝鮮と接触中だった」(瀬取り)という部分はあり得ると推論していたが、これが真実である可能性があるかも知れない。


 きゅうじさんの記事から・・
 
‘我らが守り人’自衛隊哨戒機への、韓国軍艦船からの攻撃準備事件へは、小生も色々と思うことが有りましたがなかなか取りまとめられませんでした。公開直後から数回見るごとに気づくことがありました。まさに「百聞は一見に如かず」です。冬の日本海にしては珍しい凪の昼下がりの空を、通常業務で淡々と哨戒するP1からの空撮動画。不謹慎かもしれませんが、音声をOFFにしてしまえば「春の海」をBGMにしても不自然ではありません。それにしても、実際に起こったことは戦争を惹起しかねない挑発行為です。明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐなむ」も、念頭に浮かびました。時代が変わろうと、明治時代も今も、国を護る本質は変容しないものです。

 さて、哨戒機乗組員のやり取りで気づいたことを書き出したいと思います。おそらく古参乗組員が、「この音を覚えておくように」指示していることと、照射直後に発射源艦船を特定していることから、過去にも同様の挑発行為を繰り返された経験を推測します。自衛隊内部では、韓国軍の傾向と対策が確立している可能性すら感じました。米国からの要請と韓国への一定の信頼から、自衛隊側は‘男は黙って情報収集’に徹していたのではないかと考えました。地道な‘情報の落穂拾い’、否、危険を伴う点に注目すれば、藁船を仕立てて敵軍から射掛けられた矢を集めた諸葛孔明の策のようにも・・・。

 ここにきて米国はマティス国防長官を更迭し、アフガニスタン・イラクからの撤退予定です。また在韓米軍は、ソウルより北に位置していた基地と子弟の通うだろうアメリカンスクールを整理縮小し、あるいは南に移動しました。財政再建のために努力を惜しまないトランプ大統領が、非協力的で北朝鮮対応に偏執する韓国を、いつまでも西側陣営に留め置くとも考えられません。中共封じ込めに本格的取り組みを始めた米国の勘気に遭う(もう手遅れかもしれないが)のも時間の問題です。韓国には‘積弊清算’と言う言葉があるとか・・・。国自体が西側社会から清算されていく過程を目撃しているのかもしれぬ・・・と感慨を抱きます。

 「国家に永遠の友も敵も無い、有るのは永遠の国益だ」は、英国の政治家パーマストンの名言です。我が防人方が、粛々と反撃の材料を備蓄し有事に備えていることが垣間見れたのが今事案の収穫でした。そうであれば、寡黙に任務に勤しむ彼等の桎梏を外すのは、我ら国民の務めです。増税を阻止し、しかして憲法改正し、普通の国にするのが、彼等の奮励努力に応える唯一の答えではないかと思います。ケンポー窮状が平和の源泉というのは偽善です。
地獄への道は善意で舗装されている。外交は性悪説でやらねば国を滅ぼします。

②韓国国防省による反論動画が出たぞ・・https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37902572.html

③韓国国防省の反論動画に・・小細工されたウソ2つ・・https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37911221.html



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「満洲時報」
が発刊されているのを、12月上旬に知りサイト上で拝読しております。

諸事情に依り「満州」「満洲」になっているのか?と疑問を持っていたのですが、下記説明で理解出来ました。

  (満州国々章)

満洲国臨時政府・・https://twitter.com/Manchukuo_Gov

16時間16時間前

教科書などでは「満州国」の表記が一般的だが、あれは何故かというと「洲」という文字が常用漢字じゃないからなんだ。だから同じ読みで形の似た「州」で代用してるってわけ。
・・・とのことです。


2018年12月15日 第3号(日本語版)
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(陛下とあるのは満州国皇帝・愛新覚羅溥儀・溥傑の子孫らしい・・15歳とのこと)


   2018年12月15日 第3号(漢文版)
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 2018年12月1日 第2号(日本語版)
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2018年11月23日 第1号(日本語版)
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満州国の名刹と風光・・
●1・満州国・・一般風俗・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31798775.html 
●2・満州国・・一般風俗・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31820434.html 
3・満州国・・一般風俗③・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31841151.html
4・満州国・・一般風俗④・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31865374.html
5・満州国・・一般風俗⑤・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31881377.html
6・満州国・・一般風俗⑥・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31898162.html
7・満州の名刹と風光・・奉天(瀋陽)の北陵ほか・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31919516.html
8・満州の名刹と風光・・奉天(瀋陽)の東陵と喇嘛(ラマ)寺・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31936523.html
9・満州の名刹と風光・・奉天城(瀋陽)と市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31956783.html
10・満州の名刹と風光・・首都新京(長春)と市街・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31974071.html 
11・満州の名刹と風光・・新京(長春)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/31993622.html
12・満州の名刹と風光・・ハルピン(哈爾濱)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32009354.html
13・満州の名刹と風光・・ハルピン(哈爾濱)の町と松花江・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32031681.html
14・満州の名刹と風光・・チチハル(斉斉哈爾)の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32049763.html
●15・満州の名刹と風光・・佳木斯(ジャムス)と牡丹江の市街・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32068554.html 
16・満州の名刹と風光・・吉林の市街と満州幼児の寸描・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32085306.html
17・満州の名刹と風光・・石炭産出地、撫順・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32103030.html 
18・満州の名刹と風光・・鉄嶺と安東(丹東)・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32120285.html 
19・満州の名刹と風光・・遼陽と鞍山・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32137814.html 
20・満州の名刹と風光・・錦州と山海関・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32153319.html 
21・満州の名刹と風光・・承徳の夏の離宮・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32170334.html 
22・満州の名刹と風光・・承徳の喇嘛(ラマ)寺院・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32194577.html    
23・満州の名刹と風光・・金州周辺・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32207513.html 
24・満州の名刹と風光・・大連市街・・  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32219407.html 
25・満州の名刹と風光・・大連と旅順・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32243045.html 
26・満州の名刹と風光・・満州霊廟建設記念・・ https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/34464614.html 
 




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元TBSアナ・鈴木史朗氏曰く「南京事件の話は聞いた事がない」「清潔好きな日本兵が強姦するとは考えづらい」


日本軍の南京攻略直後の1938年4月17日「朝日新聞」には「最近までに南京城内で1,793体、城外で30,311体の戦死者を片付けた」とあり、殆んどが城外周辺の支那軍戦死者だったのです。

そして当時の中国国府軍(蒋介石)は東京裁判にも参加して居りながら「南京虐殺」に付いて、何ら問題にしておりませんでした。
日本の敗戦後に、それまで支那北部戦線でゲリラ活動をしていた八路軍(共産軍・毛沢東)が南進し1947年に国府軍(蒋介石)を台湾に追い出して、今の中国に成ったのです。当事者でない共産軍が「南京虐殺」の捏造報道を利用して騒ぎ始めているのです。
然も田中角栄総理、周恩来総理の1972年に日中国交が正常化され、この頃は「南京虐殺」の件は何ら問題にもされておりませんでした。

「朝日新聞」本多勝一
(1932生れ)捏造報道がこの頃となります
        ↑先輩記者にも取材せず、意見も聞かず知ったかぶり・・
 ●改めて呆れた本多勝一の卑劣な手口 https://ironna.jp/article/922

日本で捏造騒ぎの足元を見ながら、中国では南京虐殺犠牲者3万から10万へ増やされ、20万へ、30万へと際限なく増え、当時の南京市民10数万人の数倍が殺されたことに成っているのです。

華北の辺地でゲリラ戦をしていた共産党八路軍が、南京で30万の虐殺犠牲者を出したとの喧伝施設「南京虐殺記念館」は1985年に完成したのです。


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朝日新聞記者・本多勝一が「誤用」を認めた「南京事件」捏造写真

この写真は「朝日新聞」だけでなく「アサヒグラフ」(1937年11月10日号)でも報道されていた「日本軍に守られて避難する中国の農民(揚子江付近)」であったが・・・

終戦後26年も経た1971年(昭和46年)8月から「朝日新聞」に連載された本多勝一の「中国の旅」「中国の日本軍」に南京大虐殺の参考として写真説明には「婦女子を駆り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は7,8歳の幼女から70歳の老女まで及んだ」と捏造キャプションをつけ「皆殺しにされた現場の写真➔」とそれらしき写真を載せて見てきたように煽ったのです。




元TBSアナ・鈴木史朗氏曰く「南京事件の話は聞いた事がない」「清潔好きな日本兵が強姦するとは考えづらい」
【動画】元TBSアナ・鈴木史朗氏「北京と天津に7年いたが南京事件の話は聞いた事がない」@南京戦の真実を追求する会
元TBSの鈴木史朗アナウンサー
(父親が日中貿易会社を運営し、幼少期は中国大陸で暮らし終戦後母と妹2人とで引き揚げた)

「北京と天津に7年間いましたが、日本人からも中国人からも南京事件の話は聞いた事がない」
「日本兵は清潔好きなので、蚤、虱、南京虫が移ってしまうので、女性に乱暴するということは全く無かったと考えて良いと思う」


https://twitter.com/Jon2hz7wo5iQ/status/1073795603157532673 ↓

チャンネル写楽TV‏ @Jon2hz7wo5iQ 
南京戦の真実を追求する会
第九回講演会
元TBSアナウンサーの鈴木史朗さん

#南京事件 #南京戦 #鈴木史朗 #阿羅健一
(動画)↓
13:23 - 2018年12月15日
■動画
【北京と天津に7年いたが南京事件の話は聞いた事がない】鈴木史郎講演 ~私が見た南京~( 前半)

https://www.youtube.com/watch?v=vcPSAB2LXxM

■動画
【日本兵は中国の民衆のために一生懸命やってきた。その方々を悪く言う事は許せない】元TBSアナウンサー鈴木史朗氏の講演 南京戦の真実を追求する会 ~私が見た南京~(後編)

https://www.youtube.com/watch?v=tpC3s8cWDQI


元TBSアナウンサーの鈴木史朗さんによる素晴らしい講演だ!

上掲したツイッターの動画で、鈴木史朗さんは「北京と天津に7年間いましたが、南京事件の話は聞いた事がない」と述べている。

そのとおりだ。

当時は、戦時プロパガンダによるごく一部のデマ報道を除けば、世界中の誰も「南京事件」「南京大虐殺」なんて認識していなかった。

相手の支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見を開いて日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。

したがって、当時は、支那人も日本人も第3国の外国人も、誰も「南京事件」「南京大虐殺」なんて全く認識していなかったのだ。

実際は略奪や暴挙の限りを尽くしていた支那軍を追い出してくれた、秩序ある日本軍は南京市民に大歓迎を受けていたのです。↓
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  陥落直後の南京、日本軍の配給を喜ぶ中国人  (昭和12年12月)

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           日本兵と談笑する南京市民

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         穏やかな表情の南京の子供と日本兵

南京~つくられた”大虐殺”【シリーズ南京事件】↓


南京攻略戦 参考写真https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29156201.html  

南京戦跡 参考写真https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29284442.html


南京に居た支那人や日本人や第3国の外国人でさえ誰も南京での虐殺のことなど話題にしていなかったのだから、ましてや北京と天津に7年間居ても南京事件の話なんて全く聞かないのは当たり前のことだったのだ!

事実関係として、当時南京に居て事件などの情報収集に躍起になっていたプロ中のプロたちも、南京での日本軍による虐殺は全く認識していなかった!



一般市民の殺害等については、当時南京で取材していた朝日新聞など多くの新聞社や通信社の記者やカメラマンたちが「虐殺は0件」(0人)、「市民殺害なんて1件も有りえない」、「戦後25年も経過して言われていることは全部ウソ!」だと断言している!
東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局長の証言

「南京での事件ねえ。
私は全然聞いてない。
もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ

記者は少しでも話題になりそうな事は話をするし、それが仕事だからね。
噂としても聞いた事もない。
朝日新聞は現地で座談会もやっているが、あったのなら、露骨ではないにしても抵抗があったとかそんな話が出るはずだが。
南京事件はなかったんだろう。」

同盟通信・前田雄二記者の証言

「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。
ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。
入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。
この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの虐殺など行われようはずがない。
もしあれば、私たちが見逃すはずがない

東京日々新聞カメラマン 金沢善雄氏の証言

「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、不思議でしようがないのです。私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」
ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」

報知新聞従軍記者 田口利介氏の証言

―― 南京で虐殺があったといわれますが?

「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

読売新聞技師 樋口哲雄氏の証言

「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」

―― その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?

「どこで何があったのか知りません」

―― 見たり聞いたりしませんか?

全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。
やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」

大阪毎日新聞 五島広作記者の証言

―― 第六師団は北支で感謝状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。

はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています

―― 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

十三日、十四日は城内掃蕩で、残虐行為などありません
(中略)

―― 五島さんはいつまで南京にいましたか。

「翌年の一月十日頃までいました。
この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。
また、強姦もあったといわれますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。(後略)」

大阪毎日新聞 五島広作記者の証言

―― 第六師団は北支で感謝状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。

はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています

―― 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

十三日、十四日は城内掃蕩で、残虐行為などありません

(中略)

―― 五島さんはいつまで南京にいましたか。

「翌年の一月十日頃までいました。
この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。
また、強姦もあったといわれますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。(後略)」

東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言

―― 虐殺があったといわれてますが……。

「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。

―― 南京事件を聞いたのはいつですか

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、NHKに『真相箱』という番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。
テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。
これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります
 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。
当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。
(略)」

石川達三(「生きている兵隊」作者)の証言

「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です」

――そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?

「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」

『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』
      冨士信夫著より


東京裁判・・弁護側立証


●塚本浩次(陸軍法務局で中支派遣軍検察官、予審官、裁判官)
検察官は幾つかの殺害事件について訊問したが、塚本証人は「そのようなことは全くないと思う」との証言を繰り返した。


●中山寧人(中支那方面軍参謀として情報収集を主務としていた人物であり、その宣誓供述書の内容は、松井軍司令官の旗下部隊に発した命令の内容、南京城攻撃前に執られた措置、南京攻略の模様、南京入城後に執られた措置等詳細に亘る)

南京事件のことを私が聞いたのは、実は終戦後である。
私は南京事件なるものは、次の4つに区分して考える必要があると思う。

第1 市民に対する虐殺事件。これは絶対にそういうことはないと信じている。

第2 俘虜の虐殺。先述したような誤り伝えられた外に、これもないと考える。


第3 外国権益、特に財産に対する侵害。これは一部にあったと思う。ただし、これは中国兵がやったのか日本兵がやったのか、その点は今に至るまではっきりしない。

第4 婦女子に対する不法行為および掠奪。これは小規模においてはあったと考え、はなはだ遺憾に思う。

以上のとおり、当時、南京に居て情報収集に躍起になっていたプロ中のプロたちでさえ、南京事件や南京虐殺については1件たりとも聞いていないのだから、子供の時に北京と天津にいた鈴木史朗さんが南京事件のことを聞いた事がないのは当然なのだ!



また、上掲したツイッターの動画で鈴木史朗さんは「日本兵は清潔好きなので、蚤、虱、南京虫が移ってしまうので、女性に乱暴するとは考えづらい」と述べている。

真実だが、より厳密に言うと、日本軍への通報記録や軍関係の裁判を司る法務部長の証言などによれば、買春(売春の客)や和姦かもしれない事案も含めて全部で約7件~10件のいわゆる「強姦事件」は認識されていた。

逆に言えば、買春(売春の客)や和姦かもしれない事案も含めても、当時の南京ではせいぜい約7件~10件の強姦事件しか認識されていなかったということだ。

これは、古今東西、世界中のいかなる戦争でも考えられないほど、当時の日本軍の軍紀が厳正だったということだ。

また、日本軍は、道端で拾った靴を持ち帰っただけで掠奪事件として軍法会議にかけられたりしていた。

それほど、当時の日本軍内部では、強姦、略奪、殺人などの犯罪について、厳しく取り締まっていた。

それほど厳しく軍隊内部を取り締まっていた南京の日本軍においても、殺人事件はゼロ(0件)だったのだ!



南京における日本軍による強姦犯罪については、きちんとした当時の資料が存在する。
(南京安全地帯の記録より強姦の事例を紹介)

そこで、記録者名のある強姦(未遂)事例61件のうち、日本軍に通報された事例を挙げると、それは次のように分類される。

①日本兵逮捕の事例は、右の「事例167」の1件のみであった。
②日本兵が憲兵に引き渡されて事例は、右の「事例227」の1件のみであった。
③憲兵に連絡された事例は、「事例426」の1件のみであった。
④日本兵が連行された事例は、「事例168」と、「事例220」の、2件であった。
⑤被害者が証人として同行を求められたのは、右の「事例146」の1件のみであった。
⑥日本兵と被害者(未遂)が連行されたのは、「事例216」の1件のみであった。

このように日本軍に通報された件数は、合計7件であった。右の計算には、あるいは見落としがあるかも知れない。そこで、東京裁判に出廷した塚本浩次法務部長の証言をも紹介しておく。
法務部とは軍関係の裁判を司る部門であった。塚本法務部長は上海派遣軍法務官として、1937年12月から1928年8月まで南京に在勤した。その間に、何件の事件を扱ったのか。サトン検察官から、そう尋問されて、彼は次のように答えた。
《10件内外であつたかと思います。(略)10件と申しましたのは1人1件ではございません。1件の中には数人を含む場合も相当あります。》
P261
『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道著


上記のように、日本軍への通報記録や軍関係の裁判を司る法務部の塚本浩次部長(上海派遣軍法務官)の証言によれば、南京における日本軍による強姦事件は約7件~10件だった。

さらに、第十軍法務部長の小川関次郎氏も、1937年11月15日~12月14日に軍紀及び風紀犯で処罰したのは約20件程度と証言している。

以下、竹本忠雄・大原康男著
日英バイリンガル 再審「南京大虐殺」より。


[六十四] 日本兵による強姦事件が全くなかったわけではない。東京裁判において第十軍法務部長の小川関次郎は宣誓口供書で次のように証言している(検察は反対尋問の機会を与えられたが、行わなかった)。

「自分は南京に着くまでの間(一九三七年十一月五日から十二月十四日まで)に約二十件くらいの軍紀及び風紀犯を処罰した。風紀犯の処罰について困難を感じたことは和姦なりや強姦なりや不分明なることであった。
その理由は中国婦人のある者は日本兵に対して自ら進んで挑発的態度をとることが珍しくなく、和合した結果を夫または他人に発見せらるると婦人の態度は一変して大袈裟に強姦を主張したからである。
しかし自分は強姦と和姦とを問わず起訴せられたものはそれぞれ事実の軽重により法に照らして処罰した」

(「速記録第三一〇号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』二五六頁)


[68] There were a few rapes by Japanese soldiers. As to the rape cases, OGAWA Sekijiro, the chief of Judicial Affairs Department of the 10th Army, testified in his 'affidavit' in the IMTFE as follows :

During my moving to Nanking from November 5, 1937 to December 14, 1937, I dealt with about twenty cases of offenses against military discipline and public morals. In the course of my dealing with crimes or public morals, I found it very difficult to decide whether the cases were fornication with female consent or violation.
The reason was that on the part of the Chinese women some of them were not so rare to take a suggestive attitude towards Japanese soldiers, and once found as having committed adultery with Japanese soldiers by their husbands or other people, they suddenly changed their attitude and asserted exaggeratedly that they had been raped. Whether adultery or rape, however, I punished indictees in accordance with the law, weighing the relative importance of the facts.

(The Tokyo War Crimes Trial, pp.32675-32676.)


上記の資料は、日本語と英語の2か国語で書かれた南京大虐殺の否定本に掲載されており、ネット上で全て読むことが可能だ!
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http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/index.html
日英バイリンガル
再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪
The Alleged 'Nanking Massacre'
Japan's rebuttal to China's forged claims

http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/preface.html#preface
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2

以上のとおり、当時の資料から、南京における日本軍による強姦事件は、買春(売春の客)や和姦に近い事案を含めても10件程度だった。


一方、南京における日本軍による虐殺事件は、0件だった。


「南京戦の真実を追求する会」第9回講演会
~外務省目覚めよ!南京事件はなかった~
これが最後!
元TBS アナウンサーの鈴木史朗氏が語る当時の中国
《私が見た南京》
講師 元TBS アナウンサー鈴木史朗
日時:12月12日(水)

【南京戦の真実】元TBS・鈴木史朗アナ「北京と天津に7年いたが南京事件の話は聞いた事ない」


   ●南京大虐殺完全否定のまとめ

日本軍による南京市民虐殺事件は、全くなかった(0人)。

まず、南京市民の大半は、日本軍が南京を陥落させた1937年12月13日以前に南京を脱出して日本軍が占領した上海などに避難していた。
南京に残った約20万人の南京市民も全員が安全区に避難し、安全区以外の南京城内に善良な市民は誰一人として居なかった。
南京城内の安全区以外には誰も居なかったのだから、そこで虐殺など起こるわけがない。

次に、南京に残った全市民が集められていた安全区内の状況だが、12月13日に日本軍が南京を陥落させる前と比べ、日本軍占領後の南京安全区の人口は増加した。
日本軍による南京占領後、南京の治安が回復すると、日本軍が占領していた上海などに避難していた南京市民が戻って来て南京の人口は増加した。

陥落から何日か経ち、安全区内で日本軍による約10件の強姦事件や同程度の掠奪事件が発生したが、これら事件は、日本の軍関係の裁判を司る法務部で把握されている。
日本軍将兵は道端で拾った靴を持ち帰っただけで掠奪事件として軍法会議にかけられたりしていたが、「虐殺」事件は南京に居た憲兵隊などに通報されたことも全くなかった。

また、15人の安全区国際委員会メンバーや100人を超す日本人報道関係者などは南京に長期間滞在していたが、誰も1度も日本軍による虐殺を目撃しなかった。
虐殺事件に関しては、目撃が0件で、現地の憲兵隊などへの通報も、憲兵隊などによる発見もなかった。

更に、支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。

支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。
支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。

最後に、戦後しばらく経ってから自白した元日本兵が何人か居たが、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されている。

よって、日本軍による南京虐殺事件は0件だった。


以上のとおり「南京大虐殺」については、事実関係として完全に虚構(捏造)であり、日本軍によって虐殺された南京市民はゼロ(0人)だった。

【平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》】朝日新聞1937年12月20日掲載「17日河村特派員撮影」
【平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》】
 朝日新聞1937年12月20日掲載「17日河村特派員撮影」



また、捕虜の不法殺害については、南京戦に参加した畝本正己が、資料、証言を更に整理し検討し、【昭和63年=1988年】に発行した『南京戦史』(偕行社)で、撃滅・処断推定約1万6千人、うち不法殺害の可能性があるのは歩66第1大隊の捕虜処断最大約8百人の一例のみとの結論を出している。

つまり、「捕虜の不法殺害」の犠牲者は、0人~800人というのが結論だ。(関連記事


一方、支那軍は、支那事変のあった8年間で、投降したり負傷したりして捕まえた日本兵を捕虜として保護したことは全くなかった。

支那軍は、「反戦兵士」(違法)にする極めて少数の日本兵を除き、1人残らず日本軍将兵を惨殺した。 まさに「皆殺し」だった。

日本軍が南京だけでも1万人以上の支那兵を捕虜として保護したのとは、対照的だった。



正しい歴史認識、国益重視の外交より転載
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7328.html





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あれは故障ョ 事故じゃありません 無事故記録更新中

コレイル列車の故障、5年7ヶ月間661件..KTXだけでも109件
線路や分岐器の故障は想定しない。なぜなら事故(故障)したのは、走る列車だから


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[朝からミーナ]12月8日、午前7時35分頃、江原道江陵市ウンサンドン一帯江陵線鉄道でソウル806号KTX列車が脱線した。

列車10両のうちの前4両が線路を超えた、10両の列車はすべて脱線した状態だ、この列車には198人が乗っていたことが伝えられた。

江陵線KTX列車脱線事故で14人がけがをした中で韓国鉄道公社コレイル(KORAIL)が運営する各種列車の故障が最近5年7ヶ月間、600件を超えることが分かった。

KOROS(殺す)は韓国鉄道公社コレイルの旧称じゃない、車両製作企業の現代ロテムの旧称が韓国鉄道車輌株式会社(Korea Rolling Stock)である。

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      ▲図解の東江陵信号所から複線区間はじまりとあるのは
線路が複線であるだけで珍富駅まで単線運行となっている。

江陵線の場合、複線と単線が混在しており、
厳密に言えば"高速鉄道"ではなく "高速車両通過鉄道"です。
そのため、全線の実際の最高運行速度は時速200キロです。
特に、単線区間では100キロ前後で速度を減らして運行してきました。

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 ▲こっちは対向車線というのは間違いで、車両基地に向かう引き込み線が正しい。

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何かに衝突した様子も無い先頭車両、脱線直前に急ブレーキをかけたことから、運転士が線路上に何かを発見したものとみている。


国会国土交通委員会所属の自由韓国党ホンチョルホ議員がコレイルから受信したデータによると韓国鉄道公社コレイル(KORAIL)がが運営するKTXなど各種機関車と電車の故障件数は、2013年から今年7月までの合計661件と集計された。

韓国鉄道公社コレイル(KORAIL)がによる公式な故障件数が、2013年150件、2014年137件、2015年99件、2016年106件、2017年118件、今年7月に基準51件なのである。

しかも今年も発生した故障の原因を調べてみると43.1%である22件の部品要因によることが明らかになった。

その上、残りの原因は製造上の欠陥16件(31.4%)、人的要因による整備疎か5件(9.4%)、その他の要因8件(15.7%)であった。

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先に前日の午前7時30分頃、乗客198人を乗せ江陵駅を出発したソウルKTX列車が5分で江陵市ウンサンドンで脱線した。この事故で乗客14人が負傷した二日目KTX復旧作業が行われている。 

開通は明日始発からの予定で、復旧が最優先されるため現場検証は行われず、車両機材の故障が原因であるという結論になる模様だ。


(ソウル/みそっち)



助かった乗客によれば、「加速感のない惰性走行のあと減速があり、さらに急激な減速の後に線路から逸脱したようだ」ということなんですね。
運転手がカーブ区間のあとの直線で加速を躊躇して、さらにブレーキしているってことなのです。
たとえば、「横断する耕運機が見えた」とか「波打つ線路が見えた」とか、そいうことです。
あるいは暗黒の闇がその先で口を開けていたのかもしれません。(オイオイ)



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▲韓国KTXはフランスのTGVをそのまま国産化したもので、先頭車両と最後尾が動力車となっている。そのため先頭車両には客席の窓が無い


◇ ◇ 

韓国は小径ワイド思想の国である

シャコタンに小径ワイドタイヤを付けると、①最終減速比が加速重視になる(フケが良くなる)、②スピード表示を補正しない場合、速度表示が大きくなる、③結果的に性能が上がった気がする。(←ここ重要)  まさに良いことずくめなのだ
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こんな仕様でも自慢のデジパネは180キロオーバーを表示する(ノーマルじゃ160キロがいいとこでしょ)いわゆる「センパイのグランデチョーかっこイイっす」である。

まさに手軽に手に入る高評価を得るには小径扁平タイヤが不可欠なのだ。

この時代(マークⅡの時代)、イエローハットなどで限定的に販売されたハンコックなどの韓国製タイヤは80扁平しか作っていなかった。(最近の韓国製低扁平率の高性能タイヤの速度表示はS規格(~180km/h)だったりする。)


ちなみに韓国にはシャコタンはありません、そういう生活に余裕のあるクルマライフをする人口がほとんど無いからです。つまり改造パーツも無いってことです。


ソウルを知らないニホン人旅行者とかが勘違いしている韓国って、クルマが多そうだと思っていますが、人口当たりの自家用車登録台数(普及率)はニホンの60%程度という普及率なのです。
つまり登録してあるクルマが全部道路に出ている状態なんですよ。しかも韓国には車庫証明制度みたいなものがありませんから最近の集合アパートの地下駐車場など以外では、路上駐車上等。ご意見無用という駐車が当たり前になっています。

ニホンではありえない幹線道路6車線区間に2重駐車3重駐車もあります。驚いちゃうのは駐車場の通路でさえもブレーキをかけていない状態(押して動くなら)であれば堂々とどこに停めてもOKっていう文化です。

駐車場のクルマはブレーキがかけてないのが韓国では普通なんですよ。

ウソだと思った? ⇩
韓国には車両運転者が守らなければならん駐車マナーがあります

まず、駐車場の境界線を守ることである。駐車の後サイドミラーをたたんでおくのも良い方法である。
ギアはニュートラルに、サイドブレーキは解放しておく。駐車場の中で、仕方なく二重駐車をしたり、駐車場がないところで駐車をすることになる状況が発生した場合は、必ず、サイドブレーキを外し、ギヤはニュートラル、車輪は正面を向いた後、駐車をしなければならない。また、緊急時の際の連絡先をよく見えるところに置いてなければならない。

今後増加する駐車場の問題を少しでも減らすために上に提示した最も基本的かつ実践しやすい駐車場のマナーを知って実践して、すべてのマナーのある車両の運転者になることを期待したい。




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誰だってイイじゃありませんか


minaQせんせより転載↓・・
https://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/15781173.html


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 絶海の真っ只中で、病院船「ぶえのすあいれす丸」撃沈直後の波のうねりに翻弄される傷病兵、看護婦、乗組員そしていかだや救命艇に浮遊物・・・
 
 ああ、この光景を父親・泰山も目の当りに見ていたのです。
 絶望に瀕していた中で、戦友や乗組員そして看護婦さんたちの協力を得ながら、互いに助け合ったのでしょう。

 
 中には敵機からの機銃掃射や漂流に力尽きて、大勢の方が海の藻屑となって、沈んでしまわれたことでしょう。
 見る者にとっては、無意識に手が合わされ、先人の無念と辛苦を労い、祈ってしまう絵画ですね。


●2・・ぶえのすあいれす丸沈没後のドキュメント・・

 病院船「ぶえのすあいれす丸」は昭和18年11月27日朝、米B24の急襲を受け被弾、40分ほどで轟沈した。
 本船から流れ出た重油で黒い海原に、無数の人間が投げ出されもがきながら助けを求めていた。
 沈没するまでに時間があったので、18隻の救命ボートが下ろされ、乗組み船員は懸命に救助作業を続けた。
 だが潮の流れは思いのほか速く、海中の人はどんどん流されて行く。
 重油を飲んで声が出なくなった看護婦さんが、ボートを目の前にして、差し上げた手をヒラヒラさせながら海中へ消えていった。
 定員50名程度の救命ボートはどれも、定員の3倍くらい乗せていて、人の重さで今にも沈みそうだった。
 これ以上、海中の人を拾い上げても、乗せるすきもない。
 船員達はそれを見ると、必要なこぎ手だけ残して、黙ってボートから飛び降り、海中に居る人の為に席を譲ってやり、自分は近くを流れている漂流用いかだに向かって泳いでいった。
 いかだは畳4枚分くらいの小さなもので、かいも舵もなく、食料も水もない。
 安定が悪く、45人も乗るとすぐに傾くので、いかだの廻りに取り付けられたロープに掴まって、ともかく救助船の来るのを待つしかなかった。
 遭難現場に救助船が現れるのは、それから1週間あとである。
 その間に敵機のお見舞いは3回もあり、ボートといかだを銃撃していった。
 その度に死傷者が増えていった。

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定員過剰の救命ボートから、傷病兵等に席を譲って、海中に飛び込もうとする
「ぶえのすあいれす丸」乗組員


 
 漂流して4日目から海がシケ始めた。
 それまではなんとかまとまって行動していたボートも、いかだも、ちりぢりになり、大海の木の葉となって、おきまりの漂流地獄をさまよわなければならなかった。
 
 大久保画伯が、以上のような「ぶえのすあいれす丸」の遭難の模様を聞いたのは、年が変わって(1944)昭和192月になってからであった。
 会社へ遭難報告に来たのは船長と二等航海士で、大久保は二人から話を聞かせてもらった。
 
 がっちりした体格の片山二等航海士は、4人の仲間といかだで漂流した時の様子を、身振りを交えて語ってくれた。
 「仲間の一人は足を負傷していて、出血が止まらない。もう一人は体力が消耗していたので、二人をいかだの上に乗せ、僕らはいかだのロープに掴まっていたのです。食うものは無し、喉はかわいてヒリヒリするし、時々敵の飛行機がやってくる・・・。ところが、敵は頭の上だけじゃなかったのですよ。もっと恐ろしい奴が、いかだの廻りに集まってきて・・・」
 大久保はスケッチブックにメモしていた鉛筆を握りなおした。

 ぶえのすあいれす丸の受難と乗組員の苦闘を題材にして、大久保は4点描いた。
 その内の1枚は、漂流中にサメに襲われ、必死に闘う片山二等航海士と乗組員の姿を記録していた。
 画面には水平線も空もない。
 キャンバス一面、青みどりの海の色で塗りこめられ、画面の中央に波に洗われた、小さないかだが漂っている・・・大胆な構図である。
 いかだの上には5人の男がおり、その周りに巨大なサメの群れが、旅人を襲う荒野のおおかみのように跳ね回っている。
 銃撃を受けて負傷した仲間の、血の匂いで集まった人食いザメだ。
 ぐらぐらするいかだから海中へ滑り落ちた仲間を、別の男が懸命にひっぱり上げている。
 サメと対峙して疲れ果てたのか、四つんばいになってあえいでいる男がいる。
 後の二人が折れたかいの柄で、周りをうろつくサメと闘っている。
 半ズボン1枚の裸で、いかだの上で仁王のように立っているのが片山航海士で、振り上げたかいの柄に渾身の力をこめ、海のギャングに一撃を喰らわそうとしている。
 絶望的な状況に置かれても、生き延びるための努力を決して諦めない、海の男の典型的な姿が描かれている。   (この解説は【海に墓標を】から抜粋させてもらいました)

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           不安定な筏の上で、鮫と闘う漂流中の片山二等航海士
 

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           いかだで漂流する乗組員を、救助する救命ボート
 

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父が、帰還した広島江波陸軍病院で、生還した戦友らと19年正月に写した写真です。  直後善通寺陸軍病院へ移送され・・昭和19年1月30日 マラリア病状急変して戦病死。

上の写真のみが➀により祖母のもとに送られてきて、初めて「泰山がラバウルから帰還している事を知った」祖母は、差出人の梅川利夫氏に「ラバウルに居た泰山に何が有ったのか?今、何処にいるのか?」を問い合わせたが「宛先人不在
②③」で返却されてきた。
梅川利夫氏は中央の人物と推察出来るが、恐らくマラリアの犠牲に成られたものと思われる。
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               広島陸軍病院江波分院. (昭和20年7月)


参考 ↓

第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html



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病院船転向頃の

ぶえのすあいれす丸





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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
    (上田穀八郎・画)




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病院船
「ぶえのすあいれす丸」
(香港にて実写)
http://www.sugibun.net/heiwatokusyu.htmより引用




●乗船の看護婦、原田初枝さん(主婦・元大津赤十字病院婦長)の手記

 {爆撃を受けた病院船ぶえのすあいれす丸}・・つづき

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・中略・・・
 ボートには一隻に140人か150人くらい乗っていたと思うが、そのうち看護婦は11人いた。
・・・中略・・・

 11月27日・・・19時頃、爆音が聞こえた。
 友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリー(双発飛行艇)の音だ。


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←(コンソリデーテッド機・・・
私の記憶では、気だるい飛行音)





 いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。

 海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。
 夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。
 恐ろしく、悲しい、長い夜だった。
 こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。

 ・・・中略・・・

 午前8時ころか、また爆音が聞こえた。
 敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。
 「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。
 毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、あるいは救助船爆撃の目的か。
 多い日はニ、三回偵察に来た。

 ・・・中略・・・

 また爆音がして雲間からコンソリー機(双発飛行艇)が遭難ボート頭上を低く飛び、ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす
 悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。

 艦長以下全員海に飛び込む。
 それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、ボートにも五、六発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。

 大きな機体は頭上30メートルほど上にある。機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、笑っている顔まではっきりと見えるではないか。
 超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。

 私は救命胴衣を頭に載せ、船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
 コンソリー機は二回“旅回り”して再び向ってきた。
 今度こそ駄目だと目を閉じた。
 今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。
 恐怖で生きた心地もしない。

 私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。

 そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。
 嬉し涙が頬をつたって流れた。
 待ちに待ったスコールだった。
 「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。


 以上は従軍看護婦・原田初枝婦長の手記から引用しました↓
http://vaccine.sblo.jp/article/1196804.html?reload=2010-09-18T11:18:28


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昭和18年12月20日の新聞記事・
     【悲運の犠牲174名、漂流の傷病者を銃撃、晴天白昼の蛮行】



●9月20日に[ プラム ]さんから「ぶえのすあいれす丸救助作業」に付いて、下記コメントを戴きました。

顔アイコン顔アイコン顔アイコン顔アイコン とても詳しい内容ですね。
 別の視点からですが・・・【私の祖父の同船救助作業の模様】です。
 
 「特設駆潜艇第三利丸」の船長として12月1日朝、ニューイングランド島南方沖合に別の輸送船の救助に向かっていたが、カビエンからステファン水道を通って島の南に出掛った辺りで、右航前方近距離に一隻の白塗りのボートを発見した。
 それが病院船の備え付けの救助艇である事は一目で解ったが、病院船遭難の電報はキャッチしておらず、この事件は知る由も無かった。
 
 艇員を収容して初めて解ったが、五日前にやられて生存者がボートで漂流中、被爆の際無線機が故障して通信不能となったので、船長は頑強な者を集め、決死隊を作り近くの島に向かって3日と15時間、必死に力漕ぎを続けたという。
 
 12月2日、カビエン基地で救助した30名のボート艇員を降し、食料、燃料、水などを補給の上、更に遭難現場へ急行した。
 夜明けと共に、遥か水平線に帆を上げたボート2~3隻を発見できた。
 南方の夜明けは早い、海面も全く静か、案の定次々にボートが見え始めたので、私の駆潜艇を中央に、二隻の海上トラックを左右に、扇型で手近なところから収容を開始した。
 八時過ぎ、見張員から報告「左方向に敵機の爆音」。
 デッキには今迄の収容患者でほぼいっぱい。
 近くの雲下に姿を隠し、爆音が去ってから救助を再開した。

2010/9/20(月) 午前 0:40 [ プラム ]

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救助船見ゆ
















●3月30日、河野修興さんより下記コメントを戴きました。

【軍医として乗船中だった父親からの話】

小生(昭和27年生まれ、内科医)の父、河野正実(平成14年8月没)は広島の部隊の陸軍軍医少尉として、ブエノスアイレス丸に搭乗していました。

 5日目までスコールがボートや筏のところに降雨しなかったために、飲み水が無かったそうです。
 筏は臍のあたりまで水につかった状態だったようです。
 マラリア患者が多く、高熱のため精神錯乱に陥り、ボートとボート、筏の間を泳ぎまわり、疲れ切って、いつの間にやら波間に消えていった傷病兵も多かったようです。
 撃沈後6日目に米機の機銃掃射を受けたそうですが、その時幸いにも恵みのスコールが降り、父の乗ったボートは助かったと言ってました。
 その翌日、日本軍艦艇に救助されたそうです。

 広島の戦友会には、元兵隊のお世話で招待され、いつも出席していました。

 父・河野正実は広島出身で、実家は古い神官で江戸末期から医師も兼ねていました。
 父も小生も医師であり神官でもあります。
 ブエノスアイレス丸沈没後、自宅静養後、南方へ出征、ハルマヘラ島で終戦を迎え、昭和21年夏に復員しました。

 昭和22年から、無医地区でもあった愛媛県の興居島、田の筋、八幡浜の真網代の3ヶ所で診療し、昭和37年から松山市三津浜で開業しました。
 小生は八幡浜生まれ、愛光学園出身の内科医です。

2011/3/30(水)午後2:55 [河野修興]

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河野修興先生はコメント時、広島大学病院医師としてご在籍でしたが、現在は広島都市学園大学々長をされております。↓
https://www.hcu.ac.jp/guide/gakucho.html




●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・




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