泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2018年10月


第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。


【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す
其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


アメリカにはその読みが浅く、日本の「防共努力」に対する理解が全く欠けていた。
だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。
アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは直近の危機となる。

アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種だ」などととんでもない勘違いをしていた、日本の出兵は「シベリアの門戸開放に違反する」などと馬鹿なことを考えていたのだ。
 

アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。
1920
年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本での自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険は解かっており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていた者も居たことは確かだ。

1920
年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件が発生した。
このため撤兵は大幅に遅れることになる。


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 其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す

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               騎馬兵団の突撃


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            氷結中のアムール河大鉄橋


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         其八 雷鳴豪風雨を冒して我鐵騎、風の如く猛進す


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                騎馬兵の進軍

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               騎馬兵の進軍


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  其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し

小倉師団の騎兵の主力及び先遣の歩兵大隊と協力、破竹の勢いをもって北進、大正7年9月7日にハバロフスクを占領し、直ちに同地に於ける敵海軍根拠地を包囲するに敵は周章狼狽その度を失い海陸軍共に白旗を揚げて降伏す。鹵獲品の主なるものは砲艦17隻、汽船4隻、無線電信局、各火砲120余門、小銃弾薬庫1棟、砲弾庫7棟、火薬庫7棟、馬具庫1棟、馬70頭、自動車7両、鉄条網材料多数を得た。

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    ハバロフスクに於いて我が軍が鹵獲(ろかく)した河川砲艦


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     其十 黒龍江を西進の先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
ハバロフスクより西進したる山田少尉傘下の小倉旅団及び米国・支那両軍は、牢中の鼠に等しき敵を壊滅すべく80里を汽車にてさかのぼり、9月13日オブルチヘエ駅に着せしが、敵は鉄道を破壊して退却せるを以て我が軍戦機を逸すべからず。即時、大島隊長に命令を伝え忽ち前進せしむ。道なき為に線路上を進軍せるに、天祐なるかな敵が遺棄せる列車が前面線路上に有るを発見し直ちにこれに乗り込み全速力にて進行し、敵の退却疾走する列車に砲火を浴びせつつ肉迫せしが敵も逃げながら応戦せり。進行中の列車戦は実に壮烈を極めた。



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【話題のツイート】『驚愕 原爆ドームの前で被爆日本人ワッショイMVを作るkpopグループ現る!!』

奴らは、何で日本を材料にしたがるのか?

朝鮮動乱で焼け野原のソウルを舞台にするのが当然の筈だが? 狂ってないか?

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RAIN Bi - I'm Coming  ↓動画   



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第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


英仏の要請により、共同出兵をした日本とアメリカだったが、両国のシベリア出兵目的はまったく異なるものだった。


アメリカの出兵目的は日本の北満とシベリアへの進出に抵抗することだった。
アメリカ軍は日本の出兵意図に猜疑を抱き、ロシアの共産主義者(ボルシェビキ)と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様を示していた。

一方、日本はロシア共産主義を危険思想だとはっきりと認識していた。
共産主義というものがアジアに迫りくること、これを何とかして防ごうという気持ちが日本には強くあった。


したがって、北満州から沿海州のあたりを、静かなアジアと赤いロシアとの緩衝地帯にしたい。
そして、共産主義が満州、朝鮮そして日本に入ってくるのを防ぎたい。こういう願望を日本は持っていた。

しかし、アメリカにはその読みが浅く、日本の「防共努力」に対する理解が全く欠けていた。
だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。
アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは対岸の火事ではない。

アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種だ」などととんでもない勘違いをしていた、日本の出兵は「シベリアの門戸開放に違反する」などと馬鹿なことを考えていたのだ。

 


アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。
1920
年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本の自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。

しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。


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其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍(ドイツ・オーストリア軍)を撃破す

大正7824日、我が小倉第12師団の精鋭は敗退し来たる友軍チェコスロバキア軍を収容後、師団長の命令一下、全軍たちまち攻勢に転じ、先ず我が威力ある砲兵の洗礼をもって敵の肝を寒からしめた一方、歩兵は奮戦強襲を敢行し、敵に肉迫力戦奮闘遂にこれを撃退せり。

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     赤軍に殺害されたチェコスロバキア兵士と葬送する兵士

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(大正9年4月19日付・東京朝日新聞掲載地図)
広島第5師団・小倉第12師団・宇都宮第14師団が記載されている

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          赤化防止の緩衝地帯として考慮されていた

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             第1次大戦中のドイツ装備

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           第1次大戦時、敵のドイツ兵

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         第1次大戦時、敵のオーストリア兵


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     其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す(広島第5師団)


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其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す

シベリア・ウスリー戦に我が小倉師団歩兵第14連隊、第12中隊及び工兵半小隊は鉄道破壊の重要命令を受け、大正7年(1918)823日午後11時、西田大尉指揮のもとに敵の背後に迂回しルサノフスキーを経て北進し、腹部までも没する湿地と幾多の危険を冒し24日黎明に決死目的地に達したるに、不覚にも敵の発見するところとなり装甲列車より猛射撃を浴びせられるも、勇敢なる我が軍は屈することなく奮戦力闘、遂に鉄道破壊の目的を果たし装甲列車2台を鹵獲した。西田中隊は許斐中隊と共に武勲著しく中外に轟いた。

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       ウスリー付近で鹵獲した大砲装備の装甲列車

日本のシベリア派遣軍の部隊が赤軍部隊との戦闘で勝利し、鹵獲した装甲列車のようだ。日本兵と並んで立っているのは白系ロシア軍の兵士であろう。
場所はロシア沿海州と中国東北部との境目、ウスリー付近。


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           線路保安守備中の白系ロシア兵



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第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。



【画題】救露討独遠征軍画報

其一 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎
其二 皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く
其三 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘許斐大尉勇戰奮闘名誉の戰死
其四 我軍の大捷、西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)原頭に獨墺軍を撃破す
其五 満州里方面第一戰我軍、敵騎逆襲を撃退す

其六 歩兵第十四聯隊第十二中隊の殊勲、敵の背後に迂廻し鐵道を破壊し装甲列車を鹵獲す
其七 勇猛果敢なる我騎兵は長驅北進敵を追撃してハバロフスクを占領す
其八 雷鳴豪風雨を冒し我鐵騎、風の如く猛進す
其九 疾風迅雷的強行軍ハバロフスク占領、黒龍艦隊降伏鹵獲品、山の如し
其十 黒龍江西進先遣部隊、壮烈なる進行中の列車戰
其十一 西伯利(シベリア)聯合軍總司令部發の光景
其十二 西伯利(シベリア)遠征軍露營の光景
其十三 豪勇無双なる許斐
(このみ)大尉の奮戰
其十四 ハバロフスク占領刹那の光景、我が騎兵敵艦を前に堂々分列式を行う
其十五 世界戰史に稀有の騎兵と艦の戰闘、遂に敵艦降伏す
其十六 ブラゴヱスチェンスク占領皇軍の武威全西伯利(シベリア)を壓す
其十七 我軍空中及水陸挟撃し西伯利(シベリア)の敵軍を掃討す

【作画・発行印刷者】 東京市神田区一ツ橋通り町16番地 田中良三
【発行所     】    同所            尚美堂画店


第一次世界大戦中の1918年(大正7年)11日、イギリスは日本に対して、ウラジオストックにあるロシア軍需品が敵国ドイツの手に渡るのを防止するため、日本軍を主力とする連合軍の派兵を提案してきた。

日本の出兵にはアメリカが反対したため、日本はイギリスの提案を拒否した。

ところが5月中旬、ロシアに新しい事態が起こった。開戦当初、チェコ軍はロシア軍の中に入ってドイツと戦っていたのだが、ロシアが革命でソビエト政権に変わると、ロシアは対独戦線から離脱したのでチェコ兵は4万人近くいたが、怨みのあるドイツとどうしても戦いたいというので形式上フランス軍の指揮下に入ることになった。
しかし、チェコ兵がいたのは東部戦線(ロシア軍側)であり、これを西部戦線(フランス軍側)まで送り込まなければならない。そこで、シベリア鉄道でウラジオストックまで輸送し、海路でヨーロッパに送り込むことになった。
ところが、東進中のチェコ軍と故国に向けて帰還中のドイツ・オーストリア捕虜部隊のあいだに戦闘が発生した。
続いて、この事件が拡大してチェコ軍とロシア革命軍(共産主義者)との衝突となり、シベリア鉄道全線にわたって戦闘が開始されることとなった。
反共産主義のロシア人達は、ロシア共産党の権力を倒すためにチェコ軍を援助した。
これによってチェコ軍の蜂起は西シベリアとウラル地方に於いてソビエト政権(革命軍)を倒してしまった。

連合国にとってチェコ軍の蜂起は大歓迎だった。
イギリスとフランスは新しい東部戦線の再建計画を進め、日本にシベリア出兵を要請してきた。

しかし、アメリカが日本の動きに神経を尖らせていたのを知っていたため、日本は英仏の要請をまたもや拒否した。

そこで連合国はアメリカの大統領ウィルソンを説いて、日米共同の出兵を促した。
アメリカもこの出兵要請を受け入れたためようやく日本も派兵を決めた。

そして19188月上旬、日本、アメリカ、イギリス、フランスは、軍をウラジオストックに派遣した。
支那も出兵を申し出て軍を送り、イタリアもそれに続いた。
こうして連合国の共同出兵が完了した。



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其一、 皇軍浦鹽斯德(ウラジオストック)上陸各國官民熱狂的歡迎


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大谷将軍のウラジオストック上陸と戦艦肥前

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ウラジオ派遣軍司令官大谷大将、アドミラル埠頭到着と英仏将官の出迎え
(英国東洋軍司令官アルフレッド・ノックス将軍)(1918年8月18日)

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← 大谷喜久蔵 陸軍大将
(1856‐1923)
福井県・敦賀出身













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←ウラジオストック港の貨物ヤードに上陸した我が小倉師団







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←ウラジオストック港で整列点呼中の我が小倉師団








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連合軍の到着で見物客の賑わうウラジオストック港

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 其二 、皇軍浦鹽(ウラジオ)市街行進、威風堂々意氣天を衝く

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         ウラジオストック市内を行進する我が軍

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        ウラジオストックに於ける日軍敬礼交換式


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       ウラジオストック市内を行進する我が第12師団

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    ウラジオストック市内を行進する我が軍、婦人達の姿も散見

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       ウラジオストック市内を行進する我が第12師団


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   1918年8月、ウラジオストックでパレードを行う日本海軍陸戦隊

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       ウラジオストックを行進する連合国の派遣軍

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      ウラジオストックを行進する連合国のアメリカ派遣軍


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其三、 西伯利烏蘇里(シベリア・ウスリー)の戰闘、許斐(このみ)大尉勇戰奮闘名誉の戰死


 我が小倉師団の精鋭は大正7824日黎明に、ベーラヤ河付近に大攻撃を開始し奮戦力闘一挙に敵を粉砕せり。このシベリア遠征軍陣頭の戦闘に於いて武勲粛々たるものは許斐(このみ)大尉とす。同大尉は命令一下、電光の如く第一線に突撃し、挺身部下を激励し、力戦悪闘縦横に敵を撃破し、遂に名誉の戦死を遂げる。



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64【幕末~明治の伊予・松山市街寸描】4

 私らが生まれていない時代のこと、そしてここに写っているご先祖様は、全て仏様になっておられる事を考えると、これらの写真は、不思議な不思議な世界なのです。

 外国人が日本の珍しい風物を写真に収めたり、当時の日本の写真家に頼んで写し、残された写真です。

 幕末から明治時代にかけての、日本のご先祖様の姿が沢山写されております。


【参考】↓
  松山海軍航空基地(吉田浜) https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html

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         昭和19年の松山城北練兵場 (1944年)
昭和19年、城北練兵場に飛行機格納庫が4棟建造され、旧式戦闘機(97式戦闘機、双発機はキ-45か1機)が西側に並べられた。整備兵の集団が清水町方面から軍歌を合唱しながら行進してきて、エンジン始動等の訓練を行っていた。

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←(整備兵行進の雰囲気)
国防色の「つなぎ上下服」に「耳あて帽子」のヒモを天で結んだ姿でした。
清水町方面からドス声で軍歌を合唱しながら、ゆったりとした行進でした。




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   空襲後の松山市街城北練兵場に格納庫の跡が4個) (1947年)


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    空襲43日目・・・焼けただれた松山市街 (1945年9月7日)


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  松山・城北練兵場で歩兵の匍匐前進(ほふくぜんしん)訓練中(1941年)
              (護国神社前付近)

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     松山・城北練兵場で歩兵第22連隊射撃演習 (1932年)


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    松山・城北練兵場に着陸した91式2型戦闘機 (1932年)


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   松山・城北練兵場で・・北豫中学校滑空部のグライダー(1940年)

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          【参考】グライダーの飛行訓練(1940)


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           松山市大街道  (1930年)

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        松山・店舗繁華なる大街道 (1932年頃)

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         松山・繁華なる大街道  (1932年頃)


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  松山・一番町付近大街道・空襲で城山の松林はすけすけに (昭和22年1947)


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松山・大街道の風情 (1953年)


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松山・一番町大街道 (1956年)


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        松山のメインストリート大街道 (1935年頃)


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      松山・店頭美しく飾られた大街道  (1910年頃)


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     松山・大街道の芝居小屋とロシア兵捕虜たち (1905年)


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    松山・湊町商店街ー関東震災援助物資搬出 (大正12年1923)


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           松山市湊町の風情 (1930年頃)


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           松山市街-湊町風情  (1913年)


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           松山市駅前のヤミ市 (1947年)


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  松山・西堀端門から出る進駐の英国軍楽隊 (昭和20年11月、1945)


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   松山・日本赤十字社愛媛支部病院 県庁の正面側らしい (1920年頃)

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        松山・日本赤十字社愛媛支部病院 (1919年)


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          松山裁判所前電車通り (1900年頃)


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     大正時代から一番町にあった松山裁判所  (1955年)
   奥に萬翠荘(重文)・・第15代松山藩主にあたる久松定謨伯爵の別邸

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  1940年に南堀端から上一万へ移転してきた松山警察署(これは1960年頃)


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                先代・松山警察署 (1970年頃)


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        松山・港山から三津浜の遠景  (1920年)

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            松山・三津港  (1925年頃)


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     松山・梅津寺海水浴場と新時代の梅津寺飛行場(1939年)


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         松山・梅津寺海水浴場  (1927年)

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          松山・高浜漁港  (1910年頃)

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      松山・高浜港の景観(現、松山港) (1915年頃)


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     松山・高浜駅と高浜桟橋(現、松山港) (1905年頃)

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     松山・高浜港の景観(現、松山港) (1916年頃)

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      松山・高浜港の景観(現、松山港) (1920年頃)


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         松山・高浜港の四十島  (1938年)

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      松山・高浜港の四十島と興居島の遠景  (1930年)
              (しそじま)(ごごしま)


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            松山市全景  (1960年)

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          松山市中心部俯瞰  (1998年)

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           松山市中心部  (2008年)

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          松山市中心部俯瞰  (2017年)



  ●オールドにっぽん ↓ ↓
㉝【幕末~明治の長崎と1945長崎】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37179815.html
㉞【幕末~明治の広島・岩国・下関】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37192708.html 
㉟【1945年の広島被爆】      https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37206055.html 
㊱【幕末~明治の横浜市街】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37235939.html 
㊲【幕末~明治の横浜市街】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37247156.html 
㊳【幕末~明治の東海道・日本橋~箱根】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37259168.html 
㊴【幕末~明治の東海道・三島~袋井】3.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37272254.html 
㊵【幕末~明治の東海道・見附~岡崎】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37283893.html 
㊶【幕末~明治の東海道・池鯉鮒~京都】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37295636.html 
㊷【幕末~明治の京都】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37308140.html 
㊸【幕末~明治の京都】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37317216.html 
㊹【幕末~明治の京都・滋賀】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37335890.html 
㊺【幕末~明治の風俗・風情】6.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37350181.html 
㊻【幕末~明治の日光・中山道周辺】https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37363208.html 
㊼【幕末~明治の百姓の作業】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37374002.html 
㊽【幕末~明治の大阪】3.    https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37387460.html 
㊾【幕末~明治の大阪駅界隈】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37401260.html 
㊿【幕末~明治の大阪・道頓堀】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37411837.html 
51【幕末~明治の大阪・道頓堀千日前】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37423472.html
52【幕末~明治の大阪・中の島界隈】7.   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37438217.html 
53【幕末~明治の大阪・三越からのパノラマ】8. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37451491.html 
54【幕末~明治の大阪城・四天王寺】9. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37480860.html 
55【幕末~明治の大阪・心斎橋など市内寸描】10. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37493070.html 
56【幕末~明治の長崎の町並み寸描】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37530466.html 
57【幕末~明治の長崎の風光】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37539193.html 
58【幕末~明治の函館の風光】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37548775.html 
59【幕末~明治の伊予・宇和島】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37595505.html 
60【幕末~明治の伊予・大洲】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37606872.html
61【幕末~明治の伊予・松山】1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37730721.html 
62【幕末~明治の伊予・松山道後】2 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37753574.html 
63【幕末~明治の伊予・松山市街】3 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37762636.html






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63【幕末~明治の伊予・松山市街】3

 私らが生まれていない時代のこと、そしてここに写っているご先祖様は、全て仏様になっておられる事を考えると、これらの写真は、不思議な不思議な世界なのです。

 外国人が日本の珍しい風物を写真に収めたり、当時の日本の写真家に頼んで写し、残された写真です。

 幕末から明治時代にかけての、日本のご先祖様の姿が沢山写されております。


【参考】↓
  松山海軍航空基地(吉田浜) https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36487149.html

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       松山・湊町辺りから城山の眺望 (1900年頃)
                  
(下の印と同じ位置)

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松山・湊町辺りから城山の眺望 (1900年頃)
        (上の印と同じ位置)      (森川精米所)

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     松山・湊町辺りから城山の眺望 (1895年頃)

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松山・湊町辺りから城山の眺望 (1910年頃)
     (森川精米所)   (正面左に県庁、右に裁判所)      

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松山・湊町辺りから城山の眺望 (1900年頃)
         (森川精米所) (正面左に県庁、右に裁判所)     

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松山・初代愛媛県庁 (1910年)


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松山市・県庁付近の眺望とその向こうは第22連隊兵営(1931年)

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松山・井出神社付近から見た空襲後の市街 (1945年7月)

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同 上

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空襲で焦土と化した松山市街  (1945年)

光泉寺_3150
愛媛県庁前「光泉寺」の空襲で焼け落ちた境内にて(1945年7月)

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松山・城山から直下の一番町、大街道方面と石手川の松林 (1920年頃)
正面は新栄座

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松山・城山から直下の一番町、大街道方面と石手川の松林 (1905年頃)
正面は新栄座

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松山・城山から直下の一番町、大街道方面と石手川の松林 (1925年頃)

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松山・一番町 大街道の新栄座 (1890年頃)


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松山市・番町幼稚園卒園式 (昭和19年・1944)

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松山城より見たる市街南部 (1905年頃)

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松山城櫓上から繁盛を極める市街南部を望む (1900年頃)

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松山城より歩兵第22連隊兵舎を望む (1905年)
(国鉄松山駅は未だ無い)

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松山・空襲で残った建築物、県庁前から大街道方面(1945年)

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松山・愛媛県庁舎、手前は日本赤十字社  (昭和18年1943)

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松山・愛媛県庁舎  (1956年)

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上と同じ東堀端停留所 右が松山中学校 (1900年頃)

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松山・愛媛県庁舎 天井銅板葺き替え時 1953年)


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松山・城山から道後の遠望・・直下は上一万周辺 (1912年頃)

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松山・松山高等商業学校と清水小学校、松田池 (1959年)


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松山・松山高等商業学校と清水小学校 (1951年)

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松山・松山高等商業学校 (1925年)

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松山・松山高等商業学校 (1947年)


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松山・松山高等商業学校(松山大学)本館 (1927年)

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松山・松山高等商業学校(松山大学)本館 (1937年頃)


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松山・城山から北東の眺め・・愛媛大学と松山赤十字病院 (1980年頃)

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松山・城山から北方の眺め・・直下は松山大学、右へ北高校と愛媛大学(2015年)


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松山市街付近交通図  (明治28年1895)


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松山・道後公園山頂から見た城山、手前に武徳殿が見える (1905年)

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松山・道後公園山頂から見た城山、手前に武徳殿が見える(1912年)

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松山・持田村(上一万)にあった武徳殿(柔剣道指南) (1913年)

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松山・道後公園山頂から見た松山城 (1935年)

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松山市・道後付近からの遠望  (2016年)


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松山女学校(東雲女学校)と青年会館 (1927年頃)

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松山・正門側から見た松山女学校(松山東雲女学校)(1913年)

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松山・通学路を帰るもんぺ姿の東雲高等女学校生 (1944年)
上級生は阪神地区へ勤労動員中。各自、必携の防空頭巾を肩に掛けている。

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松山・空襲で焼けた東雲高等女学校舎の残骸 (1945年)

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松山・城山東口の東雲神社 (1940年頃)




↓ ● オールドにっぽん  ↓

㉔【幕末~明治の東京(江戸)市街】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37060310.html 
㉕【幕末~明治の東京(江戸風情)】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37073017.html 
㉖【幕末~明治の東京(江戸風情)】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37085904.html 

㉗【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37098457.html 
㉘【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37113530.html 

㉙【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37125957.html 
㉚【幕末~明治の江戸城(西ノ丸周辺)】7. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37140289.html 
㉛【幕末~明治の江戸城(本丸・二ノ丸周辺)】8.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37152897.html 
㉜【幕末~明治の江戸城(三ノ丸・外濠周辺)】9.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37167706.html 
㉝【幕末~明治の長崎と1945長崎】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37179815.html
㉞【幕末~明治の広島・岩国・下関】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37192708.html 
㉟【1945年の広島被爆】      https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37206055.html 
㊱【幕末~明治の横浜市街】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37235939.html 
㊲【幕末~明治の横浜市街】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37247156.html 
㊳【幕末~明治の東海道・日本橋~箱根】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37259168.html 
㊴【幕末~明治の東海道・三島~袋井】3.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37272254.html 
㊵【幕末~明治の東海道・見附~岡崎】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37283893.html 
㊶【幕末~明治の東海道・池鯉鮒~京都】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37295636.html 
㊷【幕末~明治の京都】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37308140.html 
㊸【幕末~明治の京都】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37317216.html 
㊹【幕末~明治の京都・滋賀】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37335890.html 
㊺【幕末~明治の風俗・風情】6.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37350181.html 
㊻【幕末~明治の日光・中山道周辺】https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37363208.html 
㊼【幕末~明治の百姓の作業】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37374002.html 
㊽【幕末~明治の大阪】3.    https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37387460.html 
㊾【幕末~明治の大阪駅界隈】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37401260.html 
㊿【幕末~明治の大阪・道頓堀】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37411837.html 
51【幕末~明治の大阪・道頓堀千日前】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37423472.html
52【幕末~明治の大阪・中の島界隈】7.   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37438217.html 
53【幕末~明治の大阪・三越からのパノラマ】8. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37451491.html 
54【幕末~明治の大阪城・四天王寺】9. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37480860.html 
55【幕末~明治の大阪・心斎橋など市内寸描】10. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37493070.html 
56【幕末~明治の長崎の町並み寸描】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37530466.html 
57【幕末~明治の長崎の風光】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37539193.html 
58【幕末~明治の函館の風光】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37548775.html 
59【幕末~明治の伊予・宇和島】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37595505.html 
60【幕末~明治の伊予・大洲】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37606872.html
61【幕末~明治の伊予・松山】1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37730721.html 
62【幕末~明治の伊予・松山道後】2 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37753574.html 



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