第1次大戦の独墺軍(ドイツ・オーストリア)と連合軍との戦いの最中、戦場のロシアで大正7年(1918)ロシア革命が発生し革命軍とロシア軍が相戦う内戦状態とも重なり、連合軍側の日本も英国の要請によりシベリア派兵に踏み切りました。その時の派兵された「小倉第12師団」の勇壮な活躍振りが精密報道画報(下記17編)として残されております。
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だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。
アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは直近の危機となる。
アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種だ」などととんでもない勘違いをしていた、日本の出兵は「シベリアの門戸開放に違反する」などと馬鹿なことを考えていたのだ。
アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。
1920年(大正9年)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。
これは日本での自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。
極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。
しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。
朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。
日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。
1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明はしたが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件(ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、ロシア赤軍パルチザンによる、日本人を含む住民の半数6千人もの大規模な虐殺事件)が発生した。
このため撤兵は大幅に遅れることになる。









