泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2018年06月


朝鮮戦争の時の韓国軍捕虜ってこんなにいた

大韓民国国軍捕虜は8万2千人余りと推算、8,300人余りが送還 
韓国軍は捕虜の数も誇張して発表する習慣があるのか? ベトナム戦争では捕虜ゼロ

うんうん でも正確には判らないんだ  なぜ?


[国防ミーナ]国軍捕虜(國軍捕虜)とは韓国戦争(朝鮮動乱)の期間、戦闘中に朝鮮人民軍と中国人民支援軍に降伏するか捕縛された韓国軍捕虜をいう。 

1953年の停戦協定締結の際、国際連合軍が発表した資料によると、戦争中に捕虜として北に捕えられたり行方不明になった韓国軍を8万2,000人あまりと推算した。 しかし朝鮮民主主義人民共和国は8,300人余りだけを送還した。

この大きな差は、北朝鮮に残った国軍捕虜のすべてが、自ら希望して北朝鮮を選んだことで、'解放戦士' に編入されたと明らかにしている。

※韓国も韓国軍も停戦協定に署名していない、当時の韓国軍の指揮命令権は連合国にあり韓国軍の戦闘日記は国連軍の手によって記録された。

イメージ 1

▲1953年のキタ朝鮮軍による韓国軍捕虜送還のようす
国民防衛軍よりまともそうに見える


開戦から1年と半月が過ぎた1951年7月からキタ朝鮮+人民軍と国連軍の間で停戦交渉がはじまり捕虜交換の条件などの交渉が行われ1953年にようやく停戦された。
しかし捕虜問題は、1953年の李承晩(イ・スンマン)大統領の反共捕虜釈放事件の時、韓国側が一方的に捕虜送還協定を違反して、キタ朝鮮としては、もはや再論されることができないという立場だ。 


◇ ◇ 



ってことで未帰還なひとが大勢いるようなんですが、その数がわからないんですね。
名前も出身地も分かんないけど、いまここにいないから戦死か捕虜でしょってことなのです。

なぜかっていうと、韓国軍も兵隊の数だけコメとお金が国から支給されるのですが、兵隊の数を水増ししておくと韓国軍の将軍の取り分が増える。という朝鮮伝統の水増し式がその理由なのです。(高宗のころの朝鮮の常備軍は将軍だけしかいなかった)

アメリカ統治を経て独立した韓国から駐留米軍が引揚げると韓国軍が人員募集を進めて、1950年6月25日の開戦直前の韓国軍の定員数は10万人でした。徴兵制ではなく「三度のメシあり〼」というだけで志願者殺到したのが1948年のことでした。

どのようにして分けるか
さて、10人の分隊を実質的に6人でやりくりすれば10人分の給与のうち4人分を分けっこしていいことになるのです。これが小隊、中隊ぐるみで行われると、総員整列して端から ”番号っ” なんてことは無いので「大勢いるね」でOKなのですね。

このほか架空小隊の第13小隊なんていうのが名簿上に存在すれば30人分丸儲けだったりします。架空中隊の第6中隊なんて作っちゃうとそれだけでヤバイ気がしますね
これってまるで大理石の壺や朝鮮人参茶を売る悪徳マルチ商法そのものですよね。(これも韓国起源だ)


架空小隊整列っ!

架空の師団があるんですよ 指揮官しかいない数千人規模といわれる師団なんですが、存在することにしてその費用を丸々と懐に入れたのが李承晩に任命された某国防長官でした。
そうやって出来上がったお金を李承晩に渡すことで自分が偉くなったのです(戦争には無能だったけどね)
その結果、公称10万の韓国軍精鋭は実質7万人程度だったと懐述した将軍もいました。
(もっと少ないという説もある)

軍籍とかそんなに名前や出身地の名簿がいい加減でもイイのかというと、韓国国軍の採用は縁故採用が主でしたから、「従兄弟かなんかの名前も書け」なんてやるのです。名前だけ書かせて不採用とかもあったりしたそうです。
※これが韓国型の匿名社会、関係者を整列させて名前を言わせると関係ないのが必ず混ざっているという


キチンと数えたら3万人
やがて、1000人の寝床のある大隊に700人しかいなくても誰もおかしいとは思わないようになるのです。それでも毛布は1000枚支給されるので300枚が闇市に流れます。これも丸儲けですよね。
「1000人の大隊に700人じゃ、何か不都合があるのでしょうか?」「帳簿上には1000人いるんですから1000人分のお給料とコメをどう使ってもイイでしょ」。という朝鮮式論理なのです。

これが開戦前の韓国軍でしたから、いざ敵戦車がやってくると総崩れになって武器も階級章も捨てて身軽に釜山まで逃げ延びることができたのです。
さて、キタ朝鮮軍の進撃に成すすべのない韓国軍が、ようやく釜山に逃げ延びた頃には韓国軍の作戦指揮権が国連軍に移譲されていました。
韓国軍国防予算を好き勝手してきた将軍たちも米軍の命令があれば最前線でキタ朝鮮と撃ちあいしないとならないのです。
もう一度武器を配ることになってみて、そういうわけで兵隊の数を正しく報告しなきゃならなくなりました。そこでキチンと数えたら3万人だったというのは有名なハナシです。これで戦死行方不明者7万人の完成です。(その年のうちに山に逃げ込んでいたのが帰隊したりした)

すると、もう兵隊の数の水増しが出来ないってことで将軍~大統領への実入りがつまらなくなってきますよね。募集しようにもアメリカ軍の指揮下に入るとなれば水増しができないことになるのです。  どうしましょうか?


ほら 国民防衛軍しかないでしょ
というわけで思いついたのが国民防衛軍という韓国軍最大の惨事でした。これが1951年1月と言われています。

イメージ 2

▲国民防衛軍死の行軍は捕虜送還よりも
2年前のこと、見るからに栄養状態が悪そう。


第2国民役っていうと 乙種合格みたいな栄養不足の若者ですが、そんなのを50万人あつめてそこから水増し分を横取りしようと考えたのです。(アタマイイネ)

もちろん戦力として募集したのではありません 訓練させておくつもりで...。

これで実質40万人(30万人)でもイイやなんて思ったかどうか知りませんが、とにかく予算まで有り金出す気で組んじゃったら

まあどうしたことでしょう。


ピラミッド型搾取構造が直列になると
集めたところから後方に移動するあいだに、手慣れた将軍たちが、新兵に配る筈の食料や衣類を横流ししちゃったのです。国の利益より自分の利益を優先するのが彼らですからね。
いえいえ、後になって分かってみれば将軍たちはいつものこれまで通りの手慣れた横流しをしただけだったのです。決して丸ごと横取りしたのではありません。将軍たちはキチンとわきまえた取り分しか取っていないのです。ではなぜ大惨事になったのでしょうか。

開戦前のピラミッド式並列搾取システムが、移動経路の直線上に将軍が並んだ直列式搾取になったのです。こうなるとひとたまりもなく食べ物は提供されず寝るところには毛布もありません。しかも半島の1月といえば寒いですからね 大勢死んじゃったんです。

この戦争の後、韓国には徴兵制度が敷かれ60人部屋の兵舎などが作られるようになると、員数のごまかしは質を落とすことで行われるようになりました。知恵がついたんですね

イメージ 3


李承晩のつぎに朴正煕が出てくると、国軍のインチキにきびしくなりました。しかしきびしすぎて部下の銃弾に斃れてみたり。ベトナム戦争の派兵に志願した全斗煥はあっちで米軍の糧秣支給品と韓国からの支給品の二重取りをして私財を肥やすと瞬く間に大統領の座を得ることが出来ました。 これが朝鮮社会の伝統です。

たとえば陸軍部隊で使用される燃料には ”揮発分” と言う項目があって、余った燃料代が現金化されてみたりして、軍用トラックの軽い板金代などに流用されるとか。
※天使の取り分と言うのはホント


ちなみに、全斗煥の指揮したベトナム派兵韓国軍からは敵の捕虜になったのは居ないことになっていました。(何人かキタ朝鮮から解放されたり)




  
minaQせんせより転載・・https://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/15566269.html



保存


文部科学省の「天下り容認問題」で解任に追い込まれた前川喜平文部科学次官は、解任された恨みを果たす様相で全国講演行脚を行っております。

文部科学省在任であっただけに学校教育の現場中心でしょうが、前川の思想を熟知した地方議員や教諭に引く手余多であるようです。

この公僕たる公務員のトップが、陰険にも
「右傾化を深く憂慮する一市民 @brahmslover」の名のもとに政治的印象操作を少なくとも5年前からツイートしていたのです。

なんとも虚しい人ではないか。総合的に考えて、前川喜平は安倍憎しの気持ちを暴走させてしまい、安倍総理が不正をやったに違いないと野党と同様思い込んでしまった。加計学園問題では結局、何の証拠も提示できず、「~だと思った」という主観を述べるにとどまった。 その後、加戸前知事が獣医学部新設の必要性について歴史的な経緯を踏まえて解説してくれたおかげで、前川喜平も野党もいかに間違っているかが世間に知れ渡ることになった。 
反日の気持ちを隠し持っている前川喜平、こんな人物は到底信用できない。「日本の右傾化を憂慮する一市民」というが自分が極左にいるから普通の人が右にいるように思えるだけだ。
文部科学省の顔でありながら、陰でこそこそと子供じみた行動をして政局の足を引っ張るこの弱輩を、よくも教育の場に招き寄せその講演を聞こうとする心理が私には理解出来ません。


イメージ 10



2013年
前川喜平は、何かに取り付かれたようにツイートをしております。
前川

安倍自民党総裁は君が代斉唱で仕事始めだと。なんとグロテスクなんだ。
2013-01-09 01:48:56

前川

仮に天皇廃止を主張したとても何ら不利益を被らない社会でなければならない。
2013-01-09 01:56:54

前川

ファシズムが忍び込んで来ている。精神の自由は絶対に譲らないぞ。
2013-01-09 02:00:07

前川

愛国心はならず者の最後の拠り所。個人の尊厳を踏み躙るイデオロギーとは徹底的に闘わなければならない。
2013-01-24 23:05:29

前川

集団的自衛権だと!?冗談じゃない!アメリカ十字軍のオイルとユダヤ人資本確保のための侵略聖戦を一緒に戦うなど、狂気の沙汰だ。
2013-01-25 01:36:58

前川

ヒトラーは民主主義が産んだ独裁者だった。日本国民の皆さん、このドイツ国民が80年前に犯した過ちと同じ過ちを犯してはいけないのです。
2013-01-25 01:56:43



イメージ 11


↓売春バーへ頻繁に出入りし、援助交際していた男のセリフです。

前川

朝日新聞がかつての従軍慰安婦報道の誤りを認めたのは、遅すぎたとはいえ、良いことだ。しかし、ネトウヨや産経が鬼の首を獲ったように騒ぐのは不愉快だ。日本兵が戦地で行った数えきれない性暴力の事実は消えない。
2014-08-07 23:14:21

前川

中曽根康弘が「苦心して土人女を集めて」慰安所を作ったことは、本人が書き残している。存命のうちに国会に証人喚問して、どのような「苦心」をしたのか問い質すべきだ。
2014-08-09 03:16:45

 
前川

昨日はお昼に東京を出発して福島へ。16時過ぎに福島を出発して新函館北斗経由で札幌に着いたのは23:407時間半の鉄道の旅だった。
今日は、国際女性デーに参加する。
2018-03-08 11:26:44

前川

大阪で府教組幹部と焼肉中。神戸女学院大学の景山先生も参加。ホルモン堅かった。
2018-03-16 21:00:45

前川

アパホテルには、絶対泊まりません。
2018-03-17 00:31:52

前川

千年後には「日本人」は絶滅する。血が繋がった子孫だけを「日本人」と考える限り。
2018-03-17 18:08:49


前川喜平のつぶやきが見れるアノニマス・・・➜ http://anonymous-post.com/archives/25151



      ●前川喜平の講演を聞いた生徒の弁 ↓ 

イメージ 1

イメージ 29

イメージ 2


(前川喜平のアカウント)内容がよっぽど酷かったようだ。これより前、前川喜平の匿名アカウントは講演会で、憂さ晴らしができたと満足気に1人でつぶやいていた。
イメージ 12

こんな人が文科省次官だったとは? うまく誤魔化し出世したものだ
イメージ 13


 次官を解任された時の負け惜しみ 
イメージ 14


 靖国神社反対派ね・・戦死したご先祖が居ない人は軽いねェ。

 自身の立場と矛盾した思想をもっている。もめるのを見てほくそ笑む。

 少なくとも2013年からずっと安倍総理のことが大嫌いなようだ。中国アゲ

 安倍総理にケチをつけたがる。一人ひっそりと愚痴をこぼす。

「百田尚樹は頭がおかしい」と云うのはオカシイ人が云う言葉。

  当初から・・根っからの安倍総理嫌い。これでは足を引っ張るワ。


イメージ 3
               (↑これ、ネットより拾ったもの)

イメージ 31
橿原市にて委嘱状を受ける(↑これ、ネットより拾ったもの)

イメージ 4
               (↑これ、ネットより拾ったもの)


イメージ 5
イメージ 6


イメージ 7イメージ 8


イメージ 17
イメージ 28


イメージ 9イメージ 19


イメージ 15イメージ 16


イメージ 18


イメージ 20イメージ 21


イメージ 22イメージ 23


イメージ 26

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 27

イメージ 30




保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

イメージ 17

60【幕末~明治の伊予・大洲】

 私らが生まれていない時代のこと、そしてここに写っているご先祖様は、全て仏様になっておられる事を考えると、これらの写真は、不思議な不思議な世界なのです。

 外国人が日本の珍しい風物を写真に収めたり、当時の日本の写真家に頼んで写し、残された写真です。

 幕末から明治時代にかけての、日本のご先祖様の姿が沢山写されております。

 50年ほど前に「荒れ果てて崩落寸前の伊予大洲城・天守閣」の俯瞰写真
(4層目の屋根が抜けて、梁が乱雑に剥き出しになっていた)が、パンフに掲載されていたのを見た記憶があるのですが、探しても見当たりませんでした。 見つかりましたらアップします。


イメージ 1
      伊予大洲・大洲城 (1870年)北から(荒廃により1888年解体)

イメージ 20
 伊予大洲・大洲城天守閣(先代) (1870年頃)

(大洲城1875
伊予大洲・大洲城天守閣(先代)西から (1870年頃)


イメージ 2
               伊予大洲・大洲城 東から (1870年頃)

イメージ 3
       大洲城・再建芋綿櫓(おわたやぐら) (1843年頃)

イメージ 4
       大洲城・三の丸南隅櫓(1766年の建築)  (1870年頃)

イメージ 5
         大洲市 大洲城天守閣  (2004年再建)

イメージ 21
       伊予大洲 肱川越しの大洲城  (2017年)


イメージ 18
        伊予大洲 肱川越しの大洲城  (2009年)


イメージ 6
         大洲・大洲城と肱川橋  (2014年頃)

イメージ 7
  大洲町 肘川の筏流しと肱川橋と後方富士山(とみすやま)  (1913年)


イメージ 15
       大洲古城跡之裏面(肱川河畔)  (1890年頃)


イメージ 8
      伊予・大洲 俯瞰(左上部・大洲城)  (1948年)

イメージ 19
大洲市・中央が大洲城址  (1956年)


イメージ 9
         合併による新大洲町  (1934年)

イメージ 10
大洲市・肱川橋 改修工事 (1953年)

イメージ 11
伊予大洲・肱川橋を渡る御神幸行列 (1920年頃)

イメージ 12
伊予大洲・肘川橋  (1925年頃)

イメージ 13
大洲・亀山より肱川上流を望む(臥竜付近) (1910年頃)

イメージ 14
伊予大洲・肱川下流八幡山を望む-予讃線鉄橋  (1920年頃)

イメージ 16
伊予大洲・大洲尋常高等小学校新築校舎  (1892年)


オールド にっぽん ↓↓
120年前 京都】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36756469.html
120年前 京都】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36767922.html
120年前 金刀比羅神社参道】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36783968.html
120年前 大阪・道頓堀界隈】1.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36795845.html
120年前 大阪】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36811686.html
120年前 神戸】1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36824899.html
120年前 神戸】2  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36835780.html
120年前 神戸・有馬・城崎温泉】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36854631.html
150年前 幕末~明治の風俗】1.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36866385.html
150年前 幕末~明治の風俗】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36879106.html
150年前 幕末~明治の風俗】3.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36892754.html
150年前 幕末~明治の風俗】4.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36907067.html
150年前 幕末~明治の風俗】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36918040.html
150年前 幕末~明治の子供たち】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36930103.html
150年前 幕末~明治の子供たち】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36942689.html 
【幕末~のサムライたち】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36957411.html 
【幕末~のサムライたち】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36972490.html 
【幕末~のサムライたち】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36982748.html 
【幕末~明治の街道風景】箱根. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36995083.html 
【幕末~明治の街道風景】東海道 1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37008231.html 
㉑【幕末~明治の横浜風景】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37021475.html
㉒【幕末~明治の横浜市街】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37032764.html
㉓【幕末~明治の横浜市街】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37046686.html
㉔【幕末~明治の東京(江戸)市街】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37060310.html 
㉕【幕末~明治の東京(江戸風情)】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37073017.html 
㉖【幕末~明治の東京(江戸風情)】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37085904.html 

㉗【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37098457.html 
㉘【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37113530.html 

㉙【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37125957.html 
㉚【幕末~明治の江戸城(西ノ丸周辺)】7. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37140289.html 
㉛【幕末~明治の江戸城(本丸・二ノ丸周辺)】8.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37152897.html 
㉜【幕末~明治の江戸城(三ノ丸・外濠周辺)】9.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37167706.html 
㉝【幕末~明治の長崎と1945長崎】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37179815.html
㉞【幕末~明治の広島・岩国・下関】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37192708.html 
㉟【1945年の広島被爆】      https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37206055.html 
㊱【幕末~明治の横浜市街】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37235939.html 
㊲【幕末~明治の横浜市街】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37247156.html 
㊳【幕末~明治の東海道・日本橋~箱根】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37259168.html 
㊴【幕末~明治の東海道・三島~袋井】3.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37272254.html 
㊵【幕末~明治の東海道・見附~岡崎】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37283893.html 
㊶【幕末~明治の東海道・池鯉鮒~京都】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37295636.html 
㊷【幕末~明治の京都】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37308140.html 
㊸【幕末~明治の京都】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37317216.html 
㊹【幕末~明治の京都・滋賀】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37335890.html 
㊺【幕末~明治の風俗・風情】6.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37350181.html 
㊻【幕末~明治の日光・中山道周辺】https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37363208.html 
㊼【幕末~明治の百姓の作業】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37374002.html 
㊽【幕末~明治の大阪】3.    https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37387460.html 
㊾【幕末~明治の大阪駅界隈】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37401260.html 
㊿【幕末~明治の大阪・道頓堀】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37411837.html 
51【幕末~明治の大阪・道頓堀千日前】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37423472.html
52【幕末~明治の大阪・中の島界隈】7.   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37438217.html 
53【幕末~明治の大阪・三越からのパノラマ】8. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37451491.html 
54【幕末~明治の大阪城・四天王寺】9. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37480860.html 
55【幕末~明治の大阪・心斎橋など市内寸描】10. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37493070.html 
56【幕末~明治の長崎の町並み寸描】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37530466.html 
57【幕末~明治の長崎の風光】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37539193.html 
58【幕末~明治の函館の風光】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37548775.html 
59【幕末~明治の伊予・宇和島】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37595505.html 
保存保存保存

イメージ 32

59【幕末~明治の伊予・宇和島】

 私らが生まれていない時代のこと、そしてここに写っているご先祖様は、全て仏様になっておられる事を考えると、これらの写真は、不思議な不思議な世界なのです。

 外国人が日本の珍しい風物を写真に収めたり、当時の日本の写真家に頼んで写し、残された写真です。

 幕末から明治時代にかけての、日本のご先祖様の姿が沢山写されております。

イメージ 1
         伊予・宇和島城・追手門  (1900年頃)

イメージ 2
       伊予・宇和島城・追手門  (明治41年 1908)

イメージ 5
        伊予・宇和島城・追手門  (1900年頃)


イメージ 3
       宇和島市・宇和島城・黒門櫓  (1900年頃)

イメージ 4
      宇和島市・宇和島城・黒門櫓  (1900年頃)

イメージ 33
        宇和島市・宇和島城 豊後橋  (1900年頃)

イメージ 6
        宇和島市・宇和島城・天守閣  (1890年頃)

イメージ 7
     宇和島市・鶴島城頭に聳える天守閣  (1910年頃)

イメージ 8
            宇和島城天守  (1928年)

イメージ 38
           宇和島城天守閣  (2015年)


イメージ 9
                宇和島城

イメージ 10
宇和島藩八代藩主、伊達宗城(むねしげ1818~1892)


イメージ 17
宇和島城


イメージ 11
         宇和島市街の俯瞰  (大正11年1922)

イメージ 12
         宇和島市街の俯瞰  (1915年頃)


イメージ 13
          宇和島市街の俯瞰  (1910年頃)


イメージ 39
          戦災を受けた宇和島市街 (1945年)


イメージ 14
宇和島市街  (1910年頃)

イメージ 37
宇和島市街の展望  (2014年)


イメージ 15
       宇和島愛宕山から市街を望む  (1900年頃)


イメージ 16
          宇和島市・追手通り  (1927年頃)

イメージ 18
         宇和島市・宇和島駅  (1914年)

イメージ 19
    宇和島市・宇和島運輸会社 (1910年頃)

イメージ 20
           伊予宇和島内港  (1910年頃)

イメージ 21
    宇和島市・樺崎埠頭 第一艦隊寄港記念 (大正15年1926)

イメージ 34
  巡洋戦艦・鞍馬↑と潜水母艦・駒橋が寄港した (大正15年1926)


イメージ 22
           伊予宇和島港  (1920年頃)

イメージ 36
       宇和島名所・歓楽境地築地花街  (1920年頃)


イメージ 23
  宇和島名所・ 松青く波静かなる、赤松遊園地の風光 (1920年頃)

イメージ 24
          宇和島市役所  (1925年)

イメージ 31
       伊予・宇和島郵便局落成紀念  (1920年頃)


イメージ 25
         伊像宇和島・和靈神社  (1900年頃)

イメージ 26
        宇和島名物・祭りの牛鬼  (1925年頃)

イメージ 27
   宇和島藩主・伊達四名君を祭神とする鶴島神社 (1920年頃)

イメージ 28
  宇和島市・高額予算を投じて付替えの新須賀川の大観 (1932年)

イメージ 35
      須賀の清流に姿を映す新装の御幸橋 (1932年)


イメージ 29
             宇和島闘牛  (1915年頃)

イメージ 30
    宇和島市・本邦無比の宇和島闘牛大会  (1925年頃)


オールド にっぽん ↓↓
120年前 京都】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36756469.html
120年前 京都】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36767922.html
120年前 金刀比羅神社参道】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36783968.html
120年前 大阪・道頓堀界隈】1.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36795845.html
120年前 大阪】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36811686.html
120年前 神戸】1  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36824899.html
120年前 神戸】2  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36835780.html
120年前 神戸・有馬・城崎温泉】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36854631.html
150年前 幕末~明治の風俗】1.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36866385.html
150年前 幕末~明治の風俗】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36879106.html
150年前 幕末~明治の風俗】3.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36892754.html
150年前 幕末~明治の風俗】4.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36907067.html
150年前 幕末~明治の風俗】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36918040.html
150年前 幕末~明治の子供たち】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36930103.html
150年前 幕末~明治の子供たち】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36942689.html 
【幕末~のサムライたち】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36957411.html 
【幕末~のサムライたち】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36972490.html 
【幕末~のサムライたち】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36982748.html 
【幕末~明治の街道風景】箱根. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36995083.html 
【幕末~明治の街道風景】東海道 1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37008231.html 
㉑【幕末~明治の横浜風景】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37021475.html
㉒【幕末~明治の横浜市街】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37032764.html
㉓【幕末~明治の横浜市街】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37046686.html
㉔【幕末~明治の東京(江戸)市街】1. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37060310.html 
㉕【幕末~明治の東京(江戸風情)】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37073017.html 
㉖【幕末~明治の東京(江戸風情)】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37085904.html 

㉗【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37098457.html 
㉘【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37113530.html 

㉙【幕末~明治の東京(吉原遊郭)】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37125957.html 
㉚【幕末~明治の江戸城(西ノ丸周辺)】7. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37140289.html 
㉛【幕末~明治の江戸城(本丸・二ノ丸周辺)】8.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37152897.html 
㉜【幕末~明治の江戸城(三ノ丸・外濠周辺)】9.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37167706.html 
㉝【幕末~明治の長崎と1945長崎】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37179815.html
㉞【幕末~明治の広島・岩国・下関】   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37192708.html 
㉟【1945年の広島被爆】      https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37206055.html 
㊱【幕末~明治の横浜市街】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37235939.html 
㊲【幕末~明治の横浜市街】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37247156.html 
㊳【幕末~明治の東海道・日本橋~箱根】2.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37259168.html 
㊴【幕末~明治の東海道・三島~袋井】3.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37272254.html 
㊵【幕末~明治の東海道・見附~岡崎】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37283893.html 
㊶【幕末~明治の東海道・池鯉鮒~京都】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37295636.html 
㊷【幕末~明治の京都】3. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37308140.html 
㊸【幕末~明治の京都】4. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37317216.html 
㊹【幕末~明治の京都・滋賀】5.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37335890.html 
㊺【幕末~明治の風俗・風情】6.https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37350181.html 
㊻【幕末~明治の日光・中山道周辺】https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37363208.html 
㊼【幕末~明治の百姓の作業】 https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37374002.html 
㊽【幕末~明治の大阪】3.    https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37387460.html 
㊾【幕末~明治の大阪駅界隈】4.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37401260.html 
㊿【幕末~明治の大阪・道頓堀】5. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37411837.html 
51【幕末~明治の大阪・道頓堀千日前】6. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37423472.html
52【幕末~明治の大阪・中の島界隈】7.   https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37438217.html 
53【幕末~明治の大阪・三越からのパノラマ】8. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37451491.html 
54【幕末~明治の大阪城・四天王寺】9. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37480860.html 
55【幕末~明治の大阪・心斎橋など市内寸描】10. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37493070.html 
56【幕末~明治の長崎の町並み寸描】2. https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37530466.html 
57【幕末~明治の長崎の風光】3.  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37539193.html
58【幕末~明治の函館の風光】  https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37548775.html保存保存

 危険を察知出来ないんだな・・まず、ブレーキを踏めよ!!

【韓国ドラレコ】ありえない事故が普通に起きる 1



【韓国ドラレコ】ありえない事故が普通に起きる 2


6月4日 幅寄せに消えた乗用車 京釜高速道路で事故

京釜高速道路の事故、17トン貨物車に衝突した運転者(54・女)死亡
自分が悪く無さそうな時は被害をより大きくしてみる ”朝鮮人心理”


イメージ 2
[ハンドルミーナ]4日京釜(キョンブ)高速道路で死亡事故が発生した。

連合ニュースなどによると、同日午後6時40分に慶尚北道金泉市(京釜(キョンブ)高速道路釜山方向187キロ地点で小型乗用車が運行中に中央分離帯に衝突した後、17トン貨物車と再度衝突した。

この事故で車二台が全焼し、乗用車の運転手A氏(54・女)が死亡した。

イメージ 1


また、京釜(キョンブ)高速道路の事故現場周辺5キロ一帯の通行が1時間以上、全面遮断されて激しい渋滞が起こった。


この日事故は乗用車が片道3車線高速道路一車線を走っている間2車線側に車が傾くとすぐに貨物車との接触を避けるために方向を定めて発生したと分かった。


イメージ 3

▲積荷を台無しにされた腹いせに中央分離帯に幅寄せして、ひき肉のミンチを解凍してスライスしてすりおろした17tトラック


イメージ 5

▲乗用車は中央分離帯に痕跡を残して...消えた?


イメージ 6
      ▲ノーブレーキでさらに300m以上も疾走する ”朝鮮型心理”
(韓国の車線の点線は10m間隔で10mの白線が引いてある)

↓ フル動画 ↓


イメージ 7

▲消防隊も到着し、ようやく消火作業を終えると・・・


イメージ 4

▲消えた乗用車はここに居ました。


出動した消防隊は現場で乗用車運転者の遺体を収拾した。

京釜(キョンブ)高速道路の事故現場は午後7時50分から3車線のうち、1・2車線の運行を順に再開した。

警察関係者は"貨物車運転者は事故現場を抜け出しており、さらなる人命被害はないと見ている"、"正確な事故原因を調査している"と話した。

(ソウル/みそっち)

【韓国ドラレコ】ありえない事故が普通に起きる 4





韓国の大型車貨物車、あるいは大型バスまで、ほとんどすべてがすべてニホンで言うところの白ナンバーの自家用車と同じ登録です。つまりローンと燃料代は個人事業主の運転者負担ってことです(会社登録の路線バスやタクシーとかもある)。
もちろん保険も高速代も運転者の負担となっています。すると積荷がダメになったり納期が遅れたりすれば運賃を受け取れないどころか、損害賠償請求までやってくることになりかねません。

時間が間に合わない時に「早く着くようにスピードを出す」あるいは「言い訳ができるようにどこかで派手にぶつける」という選択肢があると思います。韓国人の場合どちらを選ぶでしょうか。
スピードを出す?  ええ、韓国の方は本来マンマンデーなスローペースが基準ですからスピードを出すより近道を選ぶでしょうね。んでも高速道路よりまともな道路事情はほかにありませんから脇道なんていう選択肢は決してありません。

もちろん ”自己責任の単独事故” では、荷主の同情は得られても損をするのは自分自身ですね。  

そんなときにうしろからカモがやってくれば軽く幅寄せしてみたりする心理のようなものが厳然として存在します。もちろん当の韓国メディアはそんな考えを必死で否定しますが、いいペースで走ってるところに小さいクルマが接触してきました。

事故処理でトラックを停めればこれで完全に積荷の配達が遅れるのが決定的です。
軽い接触事故じゃ保険も免責で全額受け取れないし、どうしよう?
イメージ 8

「そういえばローンで買ったこのトラックもそろそろ買い替え時だなぁ」、「タイヤを替えたのはいつだったかな。 そうだピコーン”! とりあえず「あちらさん持ち」でドォ~~ンと解決しちゃおうかな。と思うわけです。

このあいだのバス事故では満員の乗客を乗せたバスの前にクルマが割り込んできて左側に接触するとバス運転者は事故を大きく見せようと張り切って右に大きくハンドルを切りました その先には植込みと壁があるので大丈夫だと思ったのでしょう
ところが壁は崩れその向こう側で横倒しになるなんて


イメージ 7

先日のバス事故でもバス運転手は故意に過度のハンドル操作をした。


イメージ 1

バスの前に割り込んだ乗用車からの画像にはあまり接触の衝撃が見えないが、多くの韓国ネチズンらの ”韓国型思考” によれば ”衝突連鎖の法則でバスが路肩の外まではじき出された” のだという




イメージ 8

割り込んだ乗用車のすぐ後ろのタクシーからの画像、バスはブレーキを踏んでいないのがよくわかる。


ついでに補足すると、どちらの事故もバス・トラック共に運転者はブレーキを踏んでいません。どちらの場合も減速すれば軽い接触事故程度で済んだように見えます。

ところがどちらの場合も運転者が張り切ってアクセルを踏んでハンドル操作を故意に悪い事態へと進めているように見えないでしょうか。

「ブレーキを踏むことは負けである」「わが国民にブレーキと言う言葉は無いのだ」という社会文化がそこにあるということを聞いたことがあるわけではありません。
しかし、うっかりブレーキ痕でも残ればそこから ”速度超過” が割り出されて被害者から加害者へとなりかねないと考えるのが彼らの特長でしょう。
被害者になり済ます本能を手に入れた近代朝鮮の教義を正しく守ることこそが今日もまた朝鮮人であり韓国人なのであると言える事故事例でした。


イメージ 9

ス スゴイな!




保存保存

 韓国人「にお」さんと云う一青年の「韓国での歴史教育が、いかに偽善に満ち歪んでいるか、このままでは韓国で正常な常識人は育成できない下劣な国に成る」という「韓国教育事情を憂う」動画がアップされています。

 このような教育を続けていたら「日本と云う隣国を恨み、妬む性根に病み、実直な人間形成に大きな影響を及ぼす」という問題に向き合うのは重要な事だと、韓国では理解されないのでしょうか?

 正しい歴史認識の下に歴史教育を行うことが、韓国でも認識されているのでしょうが、韓国にも優秀な学者や教育者が居るだろうに、それを改善していく動きが有るのでしょうか?
 
声を上げる教育者が居ないとは不思議なことです。

 日本でのTVでも東大の(姜先生)ほか著名な韓国系学者が出演されますが、他国への意見はするが、自国への提案や反省が出て来ないのが現状で「勇気を出せ!この腰抜け!」と檄を飛ばしたいのです。

 
声を出せば叩かれる・・・勇気が無い、改善点が多すぎて自国々家混乱のもと、国賊扱いされる・・・要は「エー格好だけの腰抜け」でしょうかね。


➀ 韓国人ユーチューバーが「反日教育」を暴露! ↓

【コメ付き】韓国人による反日教育の実態の説明↓

 https://www.youtube.com/watch?time_continue=89&v=2tKYW5vkHTk

反日教育を受けた韓国人が親日になっていく過程↓

 https://www.youtube.com/watch?v=Fhm0qa0n184

韓国人が語る徴用工の真実!(新日鉄住金資産売却決定)↓

 https://www.youtube.com/watch?v=HlNw_qIbfog

【レーダー照射】韓国人の反応がヤバい(韓国駆逐艦と日本の哨戒機の間で一体何が)↓

 https://www.youtube.com/watch?v=U29yBfAknoY

隣国の国会議長が天皇陛下への侮辱発言の撤回を拒否↓

 https://www.youtube.com/watch?v=cDqd0OK2nIA

韓国人に脅迫されました。↓

 https://www.youtube.com/watch?v=0687A6cs7AI



② 韓国人の私が親日になった過程 ↓

↑ この動画、6月3日に消去されました・・多分ヘイト扱いされたのでしょう
(韓国教科書を正しく改善したいという韓国青年の意見は、抹殺されたのです



③ 日帝時代の教科書を見た韓国人が衝撃! ↓

韓国人は悩んでいる・・歴史歪曲は我々がしているのではないだろうか?と


保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

大院君が使いニホン軍の手先にもなった軍隊があった

あの朝鮮戦争でも活躍した韓国人荷役隊の源流は朝鮮500年続いた褓負商
現代に残された朝鮮文化の内で褓負商団のみは民族的魂魄を有して居った




イメージ 1
[ソウルミーナ]現代の朝鮮人は最早この ”褓負商” の文字すら判らぬようになったが李氏朝鮮五百年間民族の生活を支配し、民族的窮習と行跡とを残したものは只だこの制度一つである


イメージ 2
負褓商ともいう。朝鮮で各地の市場を巡回する行商人をさす。おもに金属器,冠,笠,筆墨などやや高価な雑貨を取扱う褓商と、木器,土器,草むしろなどやや安価な日用雑貨を取扱う負商の総称。その発生については諸説あるが,新羅統一期前後と考えられ,朝鮮王朝 (李朝) 時代に政府の公認を受け,組合をつくり,固い規律のもとに活発な商業活動を展開した。
彼らは平時は商業に従事し,有事には運糧,偵察,通信などの軍務に献身した。朝鮮王朝末期にいたり政治団体に動員されることもあり,光武2 (1898) 年には守旧派の皇国協会の行動隊として独立協会を襲撃し,その後は共進会と称し尊王改革を標榜,あるいは一進会と呼応して日韓合邦論を主張したりもした。


イメージ 3
李氏王朝五百年間、魚、塩、水鉄、土器、木物、麺子等の百貨を独占専実したる坐買行商した褓負商、京郷三千の市場と問屋を管理した左社と右社、そして慶弔相助の約束を実践し、強盗土匪の荒掠を防衛し、行路に悩む病人、国難に赴く義勇軍、これ五百年間褓負団の姿であった
恰も近代的青年団と称する若者が異様な風采にて肩を立てつつ歩くが如く昔の褓負商民は頭に綿花をつけたる尖角の冠―平涼子を彼むり、手には勿尾杖を帯び、元気よく洞里の巷や都邑の辻々に横行闊歩して居った
この団は今より二十五年前(1910年頃)にその形貌を廃せられ、その団体の特権と存在まで禁止された、爾来二十有余年、彼等の頭目や重なる残徒は、王朝五百年の長かりし彼等の歴史を振りかえり見て幾多の手を改め品を換えて其改造と存在の認許をその筋へ陳情したが、当局は遂に之を許容しなかった、否な之が改造の研究すらも専念しなかった


近代の事跡

イメージ 4
この商団近来の事跡に就いて二三の事跡を語ろう。 西暦1866年フランス艦隊が江華砲撃に際して摂政大院君の国防軍に投じて最も勇敢に戦った軍士はこの団員であった、彼等はこの国難に際して戦場の勇士であったばかりてなく運搬、通信、探情、治安等の任務にもこの商兵が最もよく活動した、そして天主教禁圧の下手人は大抵この団体に委かせられてあった、故に大院君はこの商兵の総裁となり、この団の頭目中より高官に任用したものもあった。

その後東学党の乱に際して朝鮮政府はこの団員を以て東学軍に対抗させた、明治二十七年四月古阜黄土峴の戦に於いて東学軍と戦い七白余名の戦亡者を出した話は有名である、褓負商団の憲法は如何なる場合に於いても、王家の命に赴き、国の指揮に従い、官憲の下に服従することがこの商団唯一の信条である


独立協会一進会 ⇔ 皇国協会褓負商

降って明治三十一年独立協会の運動が起り、青年党の改革運動漸く猛然となるや、王宮政治家は遂に独立協会に対抗するため褓負商を以て皇国協会を組織し、この二団の対抗は一時革命騒ぎの如くであった、独立協会と皇国協会の対抗運動は近代朝鮮の大争闘であった

イメージ 5


日露戦役が始まり、一進会なる一団が興り、日本軍のため運搬其他の便用を務めた、当時この団を指揮した宋秉峻は東学徒の残類を集め、遂には東学の残徒巨頭によって一進会を動かしたゆえ遂に東学徒と宿怨浅からざる褓負商は一進会より手を引き遂には日韓併合に功労多かった一進会より断然排撃された、併合後真先きに解散せられたのはこの褓負商であった

イメージ 6
形式は無くなったが五百年間の実態は現存した、それ故彼等は屡復興を計った、大正八年の万歳騒動、日本勢力排撃の民族運動が始まった時に於てその主要勢力は東学の変体である天道教であった、その巨魁は東学の首領 ”孫秉熙” であった。
褓負商は彼等復興の機会は今日なりとして日本の命に従い、総督本府の指揮に服従し、蹶起結束してかの万歳騒動に当たるべく申し出た大正八年の末方より九年秋まで彼等の頭目等が商務研究会、総商社、総商協会、商務社の看板を揚げて排日運動に対抗したその目覚しき行動と熱情は最早現代の官場人も言論子も忘却したかも判らぬ、特に大正九年十一月三日を期して万歳派の青年団排日主義の青年連盟に対抗し、之を撃破した事跡は目覚ましきものであった

万歳騒動の鎮定、民族運動の休止に就て、彼等褓負商団の貢献は尋常でなかった、故に彼等は大正九年末より昭和三年に至る間、如何かして商団の改造と復興に尽力して官の諒解と国の認可を請願したが、遂に彼等の報酬は無かった。少くとも万歳騒動に抗して日本の国憲に忠実なりし彼等の働らきを侮笑の下に葬り去ったことは甚だ心残りした事件であった


大正九年十一月三日彼等は誓って排日運動の青年団と戦う決心を以て南大門並に通路に出勤したが早くもこの事排日派に知られ遂に無事にして鎮定した、排日運動が気勢を無くしたことはこれからであった
大正九年の秋彼等の首領等は連合協議の末国境整備の補助任務に就くべくその臨機の万策とて国境開市の管理を与えられたき旨を請願した


(ソウル/みそっち)



というわけで 朝鮮軍は行商人 だったというおハナシです。 だってほら、朝鮮軍には将軍や部下はいたけど兵隊はいなかったでしょ。兵役はあったけど兵役の対価は布貨を納めることで免除だったでしょ。 そいうわけで朝鮮には訓練された兵隊という職業がなかったのです。

※最近朝鮮時代の歩兵の鎧が帰ってきた。でも実際に捕虜になった写真はこれ


イメージ 8

▲1871年辛未洋擾当時、米軍の捕虜となった朝鮮軍。(同じ格好してる)


◇ ◇ 


1950年の韓国軍ってどんなだった?

かの、朝鮮戦争で韓国軍が活躍した写真で、彼らが銃を持っている写真はほとんどありません。前にも度々紹介してきたように、戦争当事国であり、大活躍をしたと堅く信じられがちな韓国軍ですが、実際には1950年7月14日に軍の指揮命令系統がアメリカ軍に移譲されます。その段階で韓国軍という作戦指揮系統はすべて、米軍からの命令を受けることになりました。

6月25日の初日に総崩れした韓国軍精鋭10万ですが、着ていた軍服や装備品はニホン軍が仁川に残してきた被服廠にあった旧軍の上下でした。つまりゲートルを巻いたニホン式軍隊だったわけです。

それが着の身着のままで釜山まで後退するあいだに韓国軍っていうものは無くなってしまったのです。(釜山で再集結したら3万人)



その残存兵力が米軍の武器供与を受けて最前線で戦ったということなら韓国軍もなかなかやるねっ!っとなりますが、実際には米軍との作戦会議ですら意思疎通が困難な韓国兵の使い道は戦場には無かったのです。


イメージ 4

▲変な帽子をかぶり旧軍開襟軍装に九九式小銃を
装備した南朝鮮警備隊はそのまま韓国軍となる

イメージ 11

▲ニホン式装備で教練を受ける韓国国軍兵 彼らは銃を持つのが初めてだった
※こんなのに小突かれながら韓国軍慰安婦になった慰安婦が大勢いるらしい。



イメージ 10

▲ニホン式軍装品そのままの南朝鮮警備隊の人と後方は警察部隊
ニホンの将校がこんなベルトの締め方をすればすぐに整列である。


イメージ 6

▲韓国では封印された韓国陸軍の写真、朝鮮戦争直前の様子
韓国人にとっては初めての軍隊創設が旧軍の装備だった


◇ ◇ 


朝鮮戦争が始まると韓国人の本領発揮で荷役部隊に従事

ちなみにバラバラになった当時の韓国兵は敵前逃亡で全員処刑されるべき問題でしたが ”寄せ集めに罪はないだろう” という ”中世朝鮮式理論” でそのままになったのです。 あの宮本武蔵の初陣のころにもよくあった ”負け戦になると農民出身の雑兵は雪崩をうって散り散りになる” という中世そのままの戦争だったわけです。 
そんなふうに軍規なんてものとは無縁の韓国軍でしたから朝鮮戦争の最中には輜重兵の代わりに砲弾や弾薬や食糧などを運ぶことで戦争に参加したわけですが、韓国人の荷役部隊に監視の国連軍の兵隊が付いたりしなきゃならないほど逃げ足も早かったというのは戦争とはまた別の話ですけどね。
※彼らの身分は軍人ではない、荷役する民間人である。

イメージ 12

難民、難民自称難民 脱走兵、犯罪者
  
戦争が始まるとともに多くの韓国人労務者(のちに韓国国軍と認定)は実に多様な分野で国連軍を支援していた. 彼らは戦闘が広がっている前線に弾薬・燃料・軍資材・食糧・飲料水・補給品などを運んだことはもちろん陣地構築工事と前線ケガ人後送、その他に再び・橋梁保守などの役割を遂行した。
労務者の運搬手段は主に背負子(しょいこ)であり当時国連軍は背負子(しょいこ)が英語アルファベット‘A’を似ていたといって彼らを ‘A Frame Army(背負子(しょいこ)部隊)’と呼んだ。
これらの中1951~53年間前線部隊を直接支援した労務者の中で確認された犠牲者は総8794人だった 
 
イメージ 9
 
 
イメージ 10

 
前線に食料が届かない、全軍後退セヨ
 
イメージ 8
当時国連軍の小隊を指揮したオーストラリアの少尉は、"奴らの狙いは食べ物だ、重たい砲弾だけ運ばせてくれ"と本部中隊補給廠に駆け込んだ。
それは以前にトラック一台分の携行食糧(レーション)が一夜にして消えたことが発端だった、300人分にも及ぶ食料を載せたトラックの見張りを一晩韓国人軍属に頼んだのが間違いだったのだと気づいたとき、実は韓半島全土に駐屯するほぼすべての部隊で同じような報告が告げられていた。


 イメージ 4
 
 韓国人の仕事とは荷物運びをすること、およそ30万人が強制徴用された


イメージ 3
    
▲砲弾(薬嚢)の運搬に従事する"韓国人労務者"その多くが第2国民兵で組織された、その多くが任務の途中で重い物資を放置して逃げ出した、後方の国連軍司令部では"キタ朝鮮スパイ潜入"を疑ってさらに多くの警備兵を配備することになった。


イメージ 4
 
▲山岳部の多い朝鮮半島の地形では"韓国人労務者"は重宝した、組織的に各部隊に人員を配置すると半数は途中で行方不明になることが繰り返された。 
※写真:韓国人労務者を見張る国連軍兵士


イメージ 5

▲1950年秋 ソウル市庁前。軍装がバラバラ


イメージ 9


minaQせんせより転載・・https://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/15532337.html


このページのトップヘ