太平洋戦争の残影 ㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲
日米開戦後には、真珠湾攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開していた。
その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻を撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4千トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
さらに昭和17年(1942)2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行い、これに成功するなど一連の西海岸本土への先制攻撃を行った。日本軍による一連の米本土への先制攻撃は、これまで本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本軍の本土上陸は避けられないと判断していた。

カリフォルニア サンタバーバラ奇襲
日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として、昭和17年(1942)2月24日未明に「伊号第17潜水艦」(イ-17)によりカリフォルニア州ロサンぜルス西方近郊、サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、アメリカ軍からの反撃を受けぬままに同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の先制攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えた。


独立以来、アメリカ本土での侵略経験がない米国民の戦意高揚を目的に、早い時期における日本の首都東京空襲戦略を企画した。 昭和17年(1942)の年明けから戦術化された東京空襲戦略は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社によって開発・製造された航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機である「B-25」を空母ホーネットに搭載、日本本土の哨戒線間際の900キロ地点から空母から発進させ、東京を夜間空襲し、約2,000キロ離れた中国大陸東部へ着陸させる計画であった。
攻撃指揮をとるジェームズ・ハロルド・ドゥリットル中佐をはじめ隊員たちは、わずか1カ月の猛訓練の後の1942年4月2日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。


⇧「第二十三日東丸」
06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった
炎上する「第二十三日東丸」➔
4月18日夜間攻撃予定だった米軍の計画は、同日朝、米・機動部隊が太平洋沿岸で日本の哨戒艇に発見されたため、急きょ計画を変更、攻撃時間を10時間早め、東京から1,200キロ、着陸地点中国大陸までの航続限界地点からB-25を発進させた。


爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐➔




日本本土、18日の東京では、早朝から大規模な防空訓練が行われていた。
その最中の午後0時10分、「B-25」は焼夷弾を投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない市民が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。
ドーリットル進行ルート、茨城県から東京侵入し12:15頃から空襲を行った
その最中の午後0時10分、「B-25」は焼夷弾を投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない市民が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。





勝利に次ぐ勝利という戦果を上げていた日本の軍部は、空母が爆撃機を搭載して日本本土を攻撃してくるとの思考を持ち合わせていなかったため、哨戒艇から、米機動部隊発見の報を受けていながら、空襲があるとしても翌朝と判断していた。まさに迫撃態勢、空中戦も無く列島横断中に1機の撃墜も出来ぬまま放置され、空母「ホーネット」を探索追尾攻撃さえ出来ず、偵察資料不足の米軍の奇襲攻撃を成功に導いたのです。
茨城、千葉上空で戦闘機による迫撃態勢を取っておれば、敵16機全機の撃墜は可能だったと思われます。
正に迎え撃つべき司令部の無能ぶりを見せ付けたのでした。
茨城、千葉上空で戦闘機による迫撃態勢を取っておれば、敵16機全機の撃墜は可能だったと思われます。
正に迎え撃つべき司令部の無能ぶりを見せ付けたのでした。
ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。日本側の被害は死者87名、重傷者151名、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった。
爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュートで脱出した。
爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュートで脱出した。
この結果、15機のB-25が全損となった(11機は落下傘脱出、4機着水)。
8番機はソ連のウラジオストック不時着、乗員は抑留された。爆撃機隊のうち、乗員戦死が1名と行方不明が2名、日本側捕虜となったのが8名(後日3名処刑、1名病死)。








