泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2017年01月

太平洋戦争の残影 ㉕米西海岸奇襲とドーリットル東京空襲

 日米開戦後には、真珠湾攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、1220日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開していた。
 その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻を撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は64千トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。
 
 さらに昭和17年(1942)224には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行い、これに成功するなど一連の西海岸本土への先制攻撃を行った。日本軍による一連の米本土への先制攻撃は、これまで本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本軍の本土上陸は避けられないと判断していた。

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         カリフォルニア サンタバーバラ奇襲

日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として、昭和17年(1942224日未明に「伊号第17潜水艦」(イ-17)によりカリフォルニア州ロサンぜルス西方近郊、サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、アメリカ軍からの反撃を受けぬままに同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の先制攻撃と上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えた。

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      1942年、アメリカ本土沿岸で通商破壊戦を行ったイー10


独立以来、アメリカ本土での侵略経験がない米国民の戦意高揚を目的に、早い時期における日本の首都東京空襲戦略を企画した。  昭和17年(1942)の年明けから戦術化された東京空襲戦略は、アメリカ合衆国のノースアメリカン社によって開発・製造された航続距離の長い陸軍の双発中型爆撃機である「B-25」を空母ホーネットに搭載、日本本土の哨戒線間際の900キロ地点から空母から発進させ、東京を夜間空襲し、約2,000キロ離れた中国大陸東部へ着陸させる計画であった。

 攻撃指揮をとるジェームズ・ハロルド・ドゥリットル中佐をはじめ隊員たちは、わずか1カ月の猛訓練の後の1942年4月2日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。
 
 空母からの索敵によると、北緯36度4分東経153度10分地点で日本の哨戒艇を発見した。 それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」(日東漁業、90トン)に発見されたことを意味した。 底引網漁船の「第二十三日東丸」は、軽巡のナッシュビルと、F4Fワイルドキャットの機銃掃射を受け、07:23に撃沈されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』の無線を使う時間は有った。


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    ⇧「第二十三日東丸」

06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった



   炎上する「第二十三日東丸」➔



 4月18日夜間攻撃予定だった米軍の計画は、同日朝、米・機動部隊が太平洋沿岸で日本の哨戒艇に発見されたため、急きょ計画を変更、攻撃時間を10時間早め、東京から1,200キロ、着陸地点中国大陸までの航続限界地点からB-25を発進させた。

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爆弾に日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐➔


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        空母「ホーネット」上のB-25 出撃体制

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       空母「ホーネット」上のB-25 離陸体制完了


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           空母「ホーネット」より出撃

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       空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25


日本本土、18日の東京では、早朝から大規模な防空訓練が行われていた。
 その最中の午後0時10分、「B-25」は焼夷弾を
投下した。爆弾が投下され、住宅が炎上して、高射砲が撃ちあげられても本物の空襲だと気づかない市民が多かった。それもそのはず、空襲警報が出されたのは、その15分後の0時25分だったのである。

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ドーリットル進行ルート、茨城県から東京侵入し12:15頃から空襲を行った


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            横須賀軍港に対する空襲

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横須賀を爆撃した(2247機)が撮影した空中写真のほかに、田園地帯を爆撃する不可解な写真。

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  16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃。

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            爆撃被害後の子供たち


勝利に次ぐ勝利という戦果を上げていた日本の軍部は、空母が爆撃機を搭載して日本本土を攻撃してくるとの思考を持ち合わせていなかったため、哨戒艇から、米機動部隊発見の報を受けていながら、空襲があるとしても翌朝と判断していた。まさに迫撃態勢、空中戦も無く列島横断中に1機の撃墜も出来ぬまま放置され、空母「ホーネット」を探索追尾攻撃さえ出来ず、偵察資料不足の米軍の奇襲攻撃を成功に導いたのです。

 茨城、千葉上空で戦闘機による迫撃態勢を取っておれば、敵16機全機の撃墜は可能だったと思われます。
 正に迎え撃つべき司令部の無能ぶりを見せ付けたのでした。

ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。日本側の被害は死者87名、重傷者151名、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった。

 爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュートで脱出した。
この結果、15機のB-25が全損となった(11機は落下傘脱出、4機着水)。
8番機はソ連のウラジオストック不時着、乗員は抑留された。爆撃機隊のうち、乗員戦死が1名と行方不明が2名、日本側捕虜となったのが8名(後日3名処刑、1名病死)。

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 1942年、捕虜となったB-25搭乗員を連行する憲兵下士官。(上海方面)

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➀         昭和17年4月19日付『朝日新聞』朝刊

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② 19日付『読売新聞』2「国土防衛に士気極めて旺盛」「焼夷弾微力な2キロ」


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③           昭和17年4月19日付『読売新聞』



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④          昭和17年4月19日付『東京日日新聞』

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⑤           昭和17年4月19日付『東京日日新聞』


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⑥       昭和17年4月22日付『東京日日新聞』夕刊

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⑦          昭和17年4月26日付『読売新聞』

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⑧         昭和17年4月28日付『東京日日新聞』






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太平洋戦争の残影 ㉔ミッドウェー海戦

開戦半年後、昭和17年(1942)65(アメリカ標準時では64日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦により、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失した。
ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を失う大きなターニングポイントとなってしまった。

 
国力で圧倒的に劣る日本が守勢に回ってもいずれジリ貧になる。
短期決戦に持ち込むため、早期に敵の弱点を叩くことで、相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断がなされた結果だ。
 
以後のハワイ攻略を見据えた作戦計画が立案され、その前提としてミッドウェー攻略作戦に踏み切ったのだ。
ミッドウェー島を占領しても維持は極めて困難でも、占領後にはただちに他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたようだ。
  結果は、約2倍の投入兵力でありながら取り返しのつかない損害を被ることとなった。

 
敗因は多岐に渡っております。 その主な原因としては・・・
 
 ●諜報能力の差・・
 日本軍の暗号は、米軍でかなりの精度で解析されていたとされる。
 本作戦概要は、最初は断片的であったものの、海戦前の5月頃には全体像などを明白に掴まれている。
 また、日本軍側でも情報管理に綻びが出始めており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていた(「今度はミッドウェーですね」と挨拶された)という証言もある。
 

 ●不十分な索敵・・
 索敵立案を担当した吉岡忠一は敵が作戦中現れると考えておらず、艦上攻撃機を索敵に回すのが惜しかった、全く状況判断が甘かったと戦後反省している。
(索敵計画に携わった数名も二段索敵にするべきだったと反省している)

 甘い敵情の判断は戦闘指導に大きな影響を与えた。
 

 ●兵装換装・・
 上記のこともあって、兵装を雷装から爆装に
(決戦用から対地用へ)換装している。換装にはかなりの時間を要する。

 そこに敵が現れる結果となったため、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能であった。
 米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できたという「運命の5分間」説は根強いが、実際にはその時点で攻撃隊は、飛行甲板に並んですらいなかったので、誤りであるとされる。
 

 ●ダメージ・コントロールの欠如・・
 日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されておらず、火災に備えた訓練も行われていなかった。

 そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手の付けようがなく、米軍勢力圏内での曳航に失敗し、自沈処理に至った。
 

 ●楽観的気運・・
 真珠湾以来の完勝は自信を過信に変えた。珊瑚海での戦いも練度の低い五航戦でも勝てたのだから自分たちには問題ないと信じていた。

 これにより珊瑚海での検証さえも十分になされなかったとされる。
 また、搭乗員だけでなく司令部も甘い判断が目立ち、第一航空艦隊に敵に備えるように言っておきながら、情勢の緊迫を察知しながら、東京からの甘い状況判断の放送を全部隊に流したままで、自己判断を知らせないままだった。
 
 その他にも、●司令部での意見の不一致、●レーダー装備の有無、●哨戒網の問題・・など色々な説がある。

 それにしても開戦6ケ月後に、
航空母艦4「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」、巡洋艦1隻三隈」とその艦載機多数(300機と熟練パイロット120人以上)を一挙に喪失したのは、今後の作戦の練直しの止むなきを得ず、司令部の大失策であろう。


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            ミッドウェー諸島攻撃

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            これがミッドウェー環礁

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         ミッドウェー諸島と米海軍航空隊基地

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               ミッドウエー海戦図

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         1942年6月5日~7日(ミッドウエー海戦)


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     南雲機動部隊によって炎上するミッドウェー島空襲

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     この機に乗じてダッチハーバー爆撃敢行(アリューシャン)


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             ミッドウェー海戦

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              ミッドウェー海戦

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         空襲を受ける米空母「ヨークタウン」

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      煙を上げる米空母「ヨークタウン」と「ハムマン」

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イ168による雷撃、ヨークタウン』と『ハムマン』それぞれに1発ずつ命中

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 現地時間6月7日、伊‐168の魚雷を受け沈没寸前の空母「ヨークタウン」

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      伊168の雷撃により轟沈する駆逐艦「ハムマン」



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       アメリカ機の攻撃を回避中の空母「赤城」

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          ドーントレスによる急降下爆撃


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          留目の被弾を受けた空母「赤城」
九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった。

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            空母「赤城」(1941年)


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 ミッドウェーで沈没前の空母『加賀』・・大火災をおこした直後のもの

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機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、戦争における主導権を失った。

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               空母「加賀」

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         米軍機の爆撃を回避する空母「飛龍」


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        急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」

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               空母「飛龍」

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       脱出後に救助された空母「飛龍」の機関科兵

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           回避行動をとる空母「蒼龍」

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              空母「蒼龍」

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          炎上傾斜する重巡洋艦「三隈」

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      酸素魚雷の誘爆により大破した重巡洋艦「三隈」


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             重巡洋艦「三隈」


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          朝日新聞  (1942年6月11日)





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太平洋戦争の残影 ㉓珊瑚海海戦

  真珠湾攻撃後、昭和17年(1942)4月10日。
  海軍軍令部は、 長期不敗の態勢確立を目指す第二段作戦 の開始を発令。
  その先駆けとして、 ポートモレスビー 攻略作戦(暗号名 MO作戦 ) を発動させた。
  東部ニューギニアの要衝 ポートモレスビーを海路から攻略し、 珊瑚海を制圧して、 豪州北部方面からの連合軍の反攻を阻止する拠点にしようとするものであった。

  5月初旬。ポートモレスビー攻略部隊は、
 ラバウルから・・・同作戦の航空支援任務を帯びた、 原忠一少将指揮下の第五航空戦隊 (空母二隻基幹) は、 寄港地のトラック島から・・・相前後して出撃した。

  然し、 暗号解読によって日本側の企図を察知した米海軍は、是を阻止すべく、 第十七機動部隊 (空母二隻基幹) を、 ニューギニア南東海域・・・ 珊瑚海 に差し向けて来た。

  そして・・・昭和17年(1942)5月7日。
  日 ・ 米両機動部隊の間に、 世界戦史上最初の空母決戦である珊瑚海海戦 が生起する事となったのである。
 
  ポートモレスビー攻略部隊がラバウルを出港した5月4日。
  日本軍が攻略したばかりのツラギ島が米艦載機群の空襲に遭い、 駆逐艦一隻 ・ 小艦艇数隻 (掃海艇 ・ 駆潜艇等) 喪失の被害を出しました。
  米機動部隊が珊瑚海に進出して来ている事が判明したのです。

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  5月6日。
  日本機動部隊は、 敵空母撃滅を期して同海域に進入。
  世界戦史上最初の空母決戦である 珊瑚海海戦 の幕が開かれます。
 
  5月7日早朝。
  日本機動部隊の索敵機の一機が、 敵空母発見を打電。
  報告を信じ、 機動部隊は、 直ちに攻撃隊を発進させます。
  然し、 実は油槽艦を空母と見間違えたものでした。
  (本物の) 敵空母発見の報がもたらされたのは、 その数十分後の事でした。
  先の (誤認に基く) 報告がなかったら、 攻撃隊は本来の敵を目掛けて飛び立っていたに相違なく、 日本側としては、 誤認情報 に惑わされ、貴重な先制攻撃の機を失してしまった事は確かです。
  もっとも、 この時点では、 最初の報告が誤認に基くものである事は判明していませんが、 何れにしても、 機動部隊は攻撃隊の帰投を待つしか有りませんでした。
 
  ・・・攻撃隊は、 存在する筈のない空母を捜し回って時間を空費し、結局・・・油槽艦を護衛駆逐艦ともども沈めて帰途に着きましたが、 その間に、 ポートモレスビー攻略部隊の船団護衛に任じていた改造空母 「祥鳳」が、 敵艦載機群の集中攻撃を受け、撃沈されてしまいました。
  日 ・ 米両機動部隊は、 互いに、 敵主力を取り逃がし、決着は翌8日に持ち越される格好となりました。
 
  昭和171942)年5月8日早朝。
  日 ・ 米両機動部隊は、 殆んど同時に敵を発見し、それぞれ攻撃隊を発進させます。
  日本軍の攻撃は、 大型空母である 「レキシントン」の方により集中。
  魚雷二本 ・ 爆弾二発が命中し、 「レキシントン」は誘爆を起こし、総員退艦の後、 味方駆逐艦の雷撃によって処分されまた。

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   日本軍の攻撃を受け、炎上するアメリカ海軍空母「レキシントン」

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           炎上中の空母「レキシントン」

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   気化ガソリンに引火し大爆発を起こした、空母「レキシントン」

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             空母「ヨークタウン」


  「ヨークタウン」 は、 至近弾二発 ・ 直撃弾一発を受け、火災が発生しますが、 程なく鎮火。
  攻撃力を失い、 重油の帯を引きながら戦場を離脱していきました。
 
  日本側は、 空母「翔鶴」 が爆弾四発を受けて大破。艦載機発着不能の状態に陥りました。


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           爆撃を受ける空母「翔鶴」

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        米艦載機の攻撃をうけ炎上する空母「翔鶴」

  
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   空母『翔鶴』  
 


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           魚雷が命中した空母「祥鳳」

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        珊瑚海海戦で沈没した 空母「祥鳳」

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              空母「祥鳳」

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       回避運動中の空母『瑞鶴』と秋月型駆逐艦二隻

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  翔鶴型空母「瑞鶴」


  僚艦の 「瑞鶴」は、 折からのスコールに隠蔽されて攻撃を免れ、無傷でした。
  然し、 搭載機の損失が大きく、 新たな攻撃隊編成は困難な状態で、敵機動部隊追撃を断念せざるを得ませんでした。
 
  機動部隊が任を果たせなくなった事で、 海路からのポートモレスビー攻略は延期(後に中止) されました。
  開戦以来初めて、 日本軍の進撃にストップが掛けられたのです。
  然も、 第五航空戦隊は搭載機 ・ 搭乗員の大量喪失によって行動不如意の状態。
  傷付いた「翔鶴」のみ成らず、 無傷の「瑞鶴」までもが、次期作戦のミッドウェー攻略作戦に参加出来なくなってしまったのでした。
米海軍は、 局地戦闘で敗れても、 戦略的勝利を挙げた事になります。
 
  珊瑚海海戦 は、 様々な意味合いに於いて、 一ヶ月後の ミッドウェー海戦 の前哨戦として語られる場合が多いのですが、 日 ・米共に、 敵情誤認 ・ 誤判断を重ね、 戦機を失してしまった経験を実物教育として謙虚に受け止める限りに於いて、 索敵の重要性 等・・・数多くの貴重な戦訓を修得する機会でも有ったのです。







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太平洋戦争の残影 ㉒マレー沖海戦

 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃の同日、マレー半島にて日英開戦。
 日本軍はマレー半島のコタバルに上陸します。当時マレー半島はイギリスの植民地でした。
 9日、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を旗艦とするイギリス東洋艦隊主力Z部隊は日本船団を攻撃するため出撃します。日本軍の伊号第65潜水艦がZ部隊を発見。 日本第一航空部隊が索敵に出動しましたが、この日は天候が悪く補足できませんでした。
 10日、朝から再び第一航空部隊が索敵攻撃に出撃します。11時13分、元山空が駆逐艦「テネドス」を発見。次いで戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋艦「レパルス」を発見します。
 美幌空の96式陸攻8機、元山空の96式陸攻16機、鹿島空の最新鋭機一式陸攻26機が爆撃、雷撃を加え巡洋艦「レパルス」は午後2時20分轟沈、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は午後2時40分に轟沈しました。

 これまで「作戦行動中の戦艦を、航空機で沈めることはできない」というのが常識でしたが、それを覆し、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の方向から、戦略的なものだけでなく精神的な面でも世界に大きな衝撃を与えることとなりました。

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空爆を受ける戦艦「プリンスオブウェールズ」


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 「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」

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    マレー沖海戦・・・一式陸攻の攻撃    中村研一 画


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我が96式陸攻、英極東艦隊主力プリンスオブウエールス及びレパルスを強襲


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日本軍機の攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」(左手前)、「レパルス」(左奥)、駆逐艦「エレクトラ」(右手前)

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          燃焼するプリンスオブウェールズ

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「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦エクスプレス。


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             戦艦「プリンスオブウェールズ」

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          「読売新聞」 昭和16年12月11日






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