泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年11月

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⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①


〇〇先生、

毎年8月と言えば、日本にとって忌まわしい日がやって来るのを避けようがありませんが、たまたま19年前、会社の担当者にせがまれて、当時の社内誌に「満州での8月15日」として寄稿したのが書類整理中に出てきたので、〇〇先生にはどの様に受け取って下さるかと、恐る恐るお送りしたのですが、何度も読み返してくださった由、有難うございました。

 何しろ急かされて字数の制限まであったとはいえ、読み返してみると、之また悪文の見本のようで、お恥ずかしい次第です。それに想い出としても愉快な事でもないので、本当は忘れてしまいたいところですが、この「8月15日」という日がまた巡ってくると、もうあれから42年も経つのかと改めて歳月の流れの速さに驚くと同時に、こうして毎日無事に生きている自分の過去を振り返ると、やはり多少感情の揺れといったものを感じるのは止むを得ないことなんでしょうね。

 又、人間の一生には、その人なりの起伏があるのは仕方のないことだとすれば、私のこれまでの78年の生涯を通じて、一応外見的には最も劇的な一幕であったと言えるかも知れません。

 現在はいたずらに老醜を晒しているに過ぎませんが、いやそれであるから尚のこと運命の女神が「男の花道」を取り違えられた経緯を書き残しておくのが私の義務かな?・・・などと考えております。

 世の中の数多い戦記や体験談に比べたら、取るに足らぬ貧弱な経験ですが、自分にとっては生涯で恐らく二度とはないに違いない満州での終戦の周辺の事実を、いわば「戦争を知っている世代」から「戦争を知らない世代」へのメッセージの形で書いていると云うことをご承知の上で読んで下されば有り難いと思います。


昭和6281987              坂野 寿男

 

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            召集前の・・坂野寿男氏

⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①

【本文中、憶えていることが抜け落ちて・・と、その都度説明を加えているのが多過ぎの感じです・・・お詫び致します】

 

奉天城内(現在=瀋陽市)を無事に通過できたのは、今考えても殆んど奇跡に近いという気がします。
 又、あの頃には追加することは何もありません。
 ほんとに単純明快で、あれ以外の事は何も覚えておりません。
 ただ、あの状況下、どうして無事に満人の騒ぐ城内を通過できたか、不思議というより無いのですが、無理に理由を付ければ全員私服であったこと、5人の少人数というこの二つ以外には考えられません。
 
 これが彼等の嫌がらせや悪罵の対象にはなっても「あいつ等に構うより、この戦勝の喜びを祝おう。もう日本人が主人ではないのだ。我々が主人なのだ」という気分が強かったのではないかと考えられます。
 北門から奉天城内に入る前、米軍の飛行機が一機上空を舞って、しきりにビラを撒いておりました。
 駐支米軍司令官の名で「日軍降伏」という意味のチラシだったのです。
 前の文で、私はこの城内を「異様な雰囲気、割れんばかりの喚声」と表現しましたが、私の推量に間違いなければ、城内の満人たちもこのチラシによって勝利を今知ったばかり・・・というタイミングが私達に幸運をもたらしたと考えられます。

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         ⇧ 奉天市新市街        ⇧ 奉天城内旧市街


 それから私達を暖かく持て成してくれた公館を辞したのが、翌日であったか、その日の夕刻であったのか憶えておりません。

 あれほど恐怖心に襲われ、この家の玄関から一歩外へ出るのも怖いと思った筈なのに、さよならの時は記憶にないのです。 しかも、布団で寝たという記憶もないところをみると、暴徒が出払って静かになった時を狙ってさよならをしたのでしょう。
 それほど家路を急ぐ気持ちが私達に強かったのだと思います。
 然し、敗戦というそれまでの常識では考えることも出来なかった混乱の中で、簡単に鞍山へ帰れると思っていた私達にも大きな認識の甘さがありました。
 
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             奉天督軍の営門、東轅門

 私達は、それから仲間の一人の知人宅にも立ち寄りました。
 そこの主人が敗戦以来の数日の街の変貌してゆく有様をこと細かに語ってくれましたが、具体的なことは何一つ憶えておりません。 憶えているのは立ち寄った時の大変な喜びようと、辞去する時の如何にも同胞の協力を得られない淋しげな落胆の様子が、当時の奉天市民としての日本人一般の心細さの象徴として強く印象に残っています。
 
 同時にこれはただ事では済まないぞ、という胸を締め付けられるような切迫感を抱きつつ昭和製鋼所(本社・鞍山)の寮に向かって出発しました。

 その途中、その場所を思い出すことは困難ですが、何でも広い幹線道路から西に延びる商店街を10mほど歩いて左に入る路地の奥、5~6軒目東側の木造2階建ての家だったと記憶しています。

 「兵隊さん、よく来てくれた」大喜びで迎えられましたが「さあこれを持って」と渡されたのが、何と樫の木の棍棒一本づつでした。
 よく見ると私達が銃剣術練習の時使用した木銃で、然も銃身の方を切断した銃台の方だけ、何でも長尺のものは禁止されているとのこと。 この棒を護身用にして早速その日から、歩哨の任務に就かされました。

 正直「これは大変なことになった。殊によると鞍山へは帰れないかも知れぬ」と思いました。 と言って兵営を飛び出さなければ、ソ連の捕虜としてシベリアへ連れて行かれるのは確実だし、だからと言って奉天市民の為に命を捨てるには、何か割り切れないものが残る。

 戦争に負けた悲哀がひしひしと我と我が身を締め付けるのでした。


 その翌日だったと思います。 私達が最初入って来た路地の反対の方向に歩哨に行き、間もなく広い通りに出ました。 その通りには人で一杯でした。
 随分賑やかだなと思ってよく見ると白布や、綿糸の束、軍足の束、食糧品らしい紙袋、缶詰、メリケン粉の袋など、それぞれが手に抱えきれないくらい持った行列が延々と続いているのです。

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                 略  奪

 何事だろうと見ていると、傍にいた男が忌々しそうに「皆あれは、陸軍糧秣廠から略奪しているんだョ、もう二日二晩も続いているョ、然し有る処には有ったんだねェ」 私達は自分が身ぐるみ剝ぎ取られるような、何とも言えぬ嫌な気分で寮に戻りました。
 「兵隊さん、握り飯が出来たよ。さあ食べてくれ」私の記憶では、あの公館は別にして、米の飯を食べたのはこれが最後でした。
 5人でヒソヒソ話をしているのが聞こえたのでしょうか、ここの寮母が「なに? 鞍山へ帰るんだって! 飛んでもない。 ここ奉天から出られやァしませんよ」 奉天市内から外へ出る要所要所に50人から100人、多いところでは200人以上の暴徒が待ち伏せていて「今出たら殺される、もう沢山殺されているよ、それよりここに居て私達を護ってください。兵隊さん!頼むから行かないで・・・」

 「兵隊」と名がつけば、この弱々しく貧弱な身体でも、頼もしく見えるのだろうか?

 内心面映ゆさと心細さを感じながら、これはえらいことになった、少なからず絶望感が心の底をよぎりました。そして聞くニュースと言えば暗いものばかりで、曰く婦女暴行、略奪、殺人等々です。


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           雄大なる奉天城々壁「大西門」


 
 その翌日、私達は路地の商店街出口付近で立哨していました。
 携えている木銃の成れの果ての棍棒は、何となく頼りなくて困っておりました。
 ふと大通りの方へ眼をやると一人のソ連兵がのこのこ商店街の方へ歩いて来ます。
 近づくと酔眼朦朧として顔は真っ赤、あいつらは昼間から酒が飲めるのか・・・と思っていると、この路地から少し斜め前の扉の開いていた店にフラフラと入って行きました。
 「おや、どうするんだろう?」と見ていると、血相を変えて二階に駆け上がってきたのは白いエプロン姿の主婦でした。
 顔面蒼白、オロオロ声を発しているが、全く意味を成していません。
 恐怖に引きつった顔、後ろを振り返り、振り返り、手摺を越えて屋根に出ました。
 ソ連兵が手摺に近づくと、女性は屋根の端まで来て一瞬躊躇していたが、切羽詰まって飛び降りたのです。 ハッとしたのはむしろ私達の方でした。
 彼女は地面に顔を伏せてうずくまっていたが、はじかれる様に立とうとして、足が折れたか、くじけたらしく苦痛に歪んだ顔が今でも眼に浮かびます。
 私達が駆け寄ろうとするより早く、這いずるように向いの家の方へ駆けつけた人に助けられ姿を隠しました。
 赤鬼の様なソ連兵は、ズボンのバンドを占め直しながら不機嫌そうにブツブツ言いつつ立ち去った。
 これは私達にとって大変なショックでした。 「話」としてはこれまで幾度となく聞いた話の一断面にしか過ぎない現象ですが、それをこの眼で直接見たのです。 カーッと血が逆流して、耐えきれぬ憤怒が身体を震わせると同時に「敗戦」の二文字が浮かび上がり、どうにもやり場のない口惜しさに心が呻いたのです。
 女性が危難に遭遇した時「アレーッ」「キャーッ」とか「助けてーっ」などと、大声で叫ぶものとばかり思っていた私は、3~40歳のこの婦人の全く意味をなさないオロオロ声に、本当の危険に出会ったらあんな芝居がかった声など実際に出せるものではないと、その時初めて気付きました。
 
 これ迄、奉天市民の怯え、苦しみ、口惜しさの体験を数多く聞いてはいましたが、実感としては今一つピンとしたものが申訳けないこと乍らなかったのです。 この現実を目の前にして彼らの苦しみの実態が初めて我が物として現実味を帯びてきたのです。

 同時に我が街、鞍山でも我らの知人が同様の苦しみを味わっているに違いない。

 どうせ一度は、あの味もそっけもない木箱爆弾と抱き合い心中をするつもりだったのだ。

 木箱爆弾を使うとすれば、出来るものなら我が街鞍山でと、私ばかりか他の4人も期せずして同じ思いが生まれたようでした。

 

 


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● 坂野壽男・・・満州での8月15日 ②

 
 昭和20815日の終戦と同時に、ソ連機甲部隊が日ソ不可侵条約を無視して、怒涛のように侵入してきた。
撫順守備隊には全員が所持できる武器らしい武器も無く、終戦の報告も無く、只後退をするのみとなり坂野壽男氏は召集前の勤務先鞍山の徳井洋行商会に帰り着いたのです。

【その逃避行が本日の手記の内容ですが、昭和43年に書かれたモノにも拘わらず「記憶に残ってない」と言う部分が目立ちます。 お許しください】

そして、昭和23年頃、徳井社長等と引揚げ帰国、昭和28年に大阪で石油会社を設立しました。
私も、その500余名の社員の一人として定年まで勤め上げたのです。
坂野壽男氏は、昭和47年頃1974定年により退社、平塚市に移り住まれました。 
 
 その当時、ネットやブログが在りましたら、そのサイトで手記を発表されたのでしょうが・・・
【満州での815日】 (昭和43年、社内誌に発表)
【満州での敗戦脱出行】(昭和62年、コピー冊子を知人発送)2編が有ります。
 召集日から1年弱の除隊兵に近い兵隊ですから、華々しい戦記は何一つ有りませんが、当時の満州の様子が伺える内容となっております。

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               奉天市街図

【前回より続く・・】

 さて私達は愈々覚悟のホゾを固めて、最初の難関奉天城内へ足を踏み入れた。
 このいわゆる敗残兵どもは、兵営を離れる時支給された携帯口糧としての白米を一足の軍足の中に一杯詰めて、両の腰にぶら下げ、支給の毛布を5枚背中に背負った、誠に珍妙なスタイルで冒頭に述べたとおりの一列縦隊となって隊伍堂々(?)北門より行進を開始したのである。
 
  朝だというのに城内の中華街は、各戸に晴天白日旗を揚げ街中の者が全部道路に出ているのかと思える程、道という道は手に手に旗を持った群衆で溢れ、いわば他動的に転がり込んで来たような戦勝の喜びに沸き返っていた。  中華街特有のニンニク臭を帯びた独特の臭気がグッと鼻をつく。

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               奉天城内風景


 それにしても、この異様な雰囲気につつまれた興奮状態はどうであろう。
 割れんばかりの群衆のどよめきと喚声・・・
 私達は我が身の上に何が起きるかも解からない不安と緊張に、身体を硬わばらせ乍らも、隊伍は崩さずただ一点だけを凝視しながら行進を続けた。
 
今考えても街々の様子がどうであったか、又あの張作霖が住んでいた広大な宮殿も、道路がどうなっていたのかも思い出すことが出来ない。
  唯、何回となく群衆に取り囲まれたり、何事かののしられたり、身体の何処かを撲られた記憶は残っている。
 然し、私達はそんなことの一切にわき目も触れず、眉一つ動かさず、最初の姿勢のまま前進を続けた。

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         奉天城内、小西関辺門での人車の往来


 突然、私の横でカーンという鋭い金属音がした。
 二番目を行進していた私は目玉だけを動かして見た。12~3歳の子供が日本軍の鉄兜を力一杯道路に叩きつけた音であった。その音でわずかに石畳の舗道だなと解かったくらいである。
 群衆はそれに呼応するように喚声と拍手をした。その瞬間私の膝に強い衝撃を受けた。
 その小輩は群衆の喚呼に益々得意になり、その鉄兜を力まかせに蹴飛ばしたのが、私の膝に当たったのだ。
 それでも私達は何事もなかったように前進し、やがて待望の南門が見え始め、次第に近づき遂に無事城外に出ることができた。
 時間にすれば3~40分くらいであったと思うが、私には何時間にも思える長い道中であった様な気がした。ホッとしたとたん、私の膝がズキズキ痛みだしたのをはっきり思い出します。


 「すぐそこに俺の知人が居るから、そこで休ませてもらおう」と一行の一人が城外の静かな佇まいの一角の立派な洋館に案内してくれた。その館で私と同年配と思える夫妻が手を取らぬばかりに暖かく招じいれてくれ、早速朝食を作ってくれて私達はやっと人心地がついた。
 「ここは外国公館だから満人が侵入することはありません。いま外へ出ると危険だから暫く様子を見てから出発しなさい」と親切に云ってくれた。
 多分北欧の公使館か領事館で留守を預かる日本人スタッフと思われるが、もっと詳しく聞いておくべきだったと残念に思う。
 「毎日、城内から何百人もの暴徒が、日本人街へ出かけていますのョ」という夫人の言葉が終わらないうちに、手に手に棍棒を持った数百名が、この公館の前を通り過ぎて行った。
 私はその集団を眺めている時、ふいに心臓が止まる様な、又、腹わたが痙攣しそれが身体、手足に伝わる何とも形容のし難い恐怖心で全身が震えたのである。

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            奉天城と商埠拉の境界線防御


 これまで、防衛の第一線で爆薬の入った木箱と運命を共にしようとした時も、危険に身を晒しながら城内を行進している最中にも、別に恐ろしいと感じもしなかったのに「絶対に安全だ」と保障された治外法権の中にかくまわれて、何ゆえにこのような恐怖心に身を震わせなければならないのか。
 その時の私には自分の心理状態が理解できなかった。
 只、ここに招じ上げられて風呂にゆったり浸かり、暖かい米飯と味噌汁の味にホッとすると同時に「ひょっとすると助かるかなァ」という気持ちが顔をのぞかせたような気がする。
 
 今振り返って当時を回想するとき、微かな生への希望が却って人間の恐怖心を掻き立てたのであろうか。
 元来臆病で善良な市民生活の中に住んでいた私に、恐怖心が無かったと言えば噓になるだろう、だがどちらを向いても助かる見込みがない絶体絶命の境地では諦めの気持ちの方が先に出て、恐怖の観念を覆い隠していたのだろう。

 ここから鞍山への道のりは遠かった。奉天を脱出するのに3日もかかったのが何よりの証拠である。
 陸軍糧秣廠が三日三晩に亘って略奪されてゆく有様、日本婦人を追いかけ回すソ連兵、奉天の市民が毎日の略奪と暴行でおびえ切った姿、今思い出しても敗戦という冷厳な事実を現地で体験した者のみが知る口惜しさであろう。

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            奉天郊外・・渾河附近.
 
 奉天の街はずれ渾河(こんが=日露戦争の古戦場)の近くで、二百名ほどの暴徒の群れを中央突破で辛くも脱出したこと、沿道の村落には十数名~三十名の棒の先端を血潮で紅く染めた村民が、獲物を狙う鷲のように眼を光らせていたこと、各所で単身除隊の兵隊の犠牲者の屍が放置された姿などを目にしながら、鞍山にやっと辿り着いた時の安堵感は、まるで敵地から母国に帰ったような気になった程、まだ治安が良かったのか、今でも不思議なくらい鮮やかに浮かび上がってくる。


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            鞍山製鉄所採鉱鉄山 大孤山.

 
 日本に妻子を帰してある私の帰る処は、鞍山の徳井資弘社長宅(徳井洋行(貿易)商会経営)より他になかった。
 何しろそこの居候であったのだから・・・
 撫順を出発して6日目815日の真夜中の出発)やっとの思いで玄関に辿り着き、案内を乞うと奥から夫人が走り出て「よく無事に帰って来られたわねー」と涙を浮かべながら手を差し伸べられた。
 私はその手をしっかり握りしめた時、不覚にも全身の力が一度に抜けて、玄関にへたりこんでしまったのである。
 



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● 坂野壽男・・・満州での8月15日 ①


 私が現役の時の上司が【坂野壽男氏】です。 
横浜市出身で本日の文中にある満州・鞍山の徳井洋行商会に勤務されていたが、戦局の進行と共に満州駐留の関東軍は南方戦線への移動転進が進み、満州では現地臨時召集兵として、この【坂野壽男氏】も昭和19年に長期出張の名目で召集され、奉天(瀋陽)東部の撫順での守備隊に二等兵の籍を置いていたのです。
そして昭和20815日の終戦と同時に、ソ連機甲部隊が日ソ不可侵条約を無視して、怒涛のように侵入してきた。
撫順守備隊には全員が所持できる武器らしい武器も無く、終戦の報告も無く、只後退をするのみとなり坂野壽男氏は召集前の勤務先鞍山の徳井洋行商会に帰り着いたのです。

【その逃避行が本日の手記の内容ですが、昭和43年に書かれたモノにも拘わらず「記憶に残ってない」と言う部分が目立ちます。お許しください】

 そして、昭和23年頃、徳井社長等と引揚げ帰国、昭和28年に大阪で石油会社を設立しました。
私も、その500余名の社員の一人として定年まで勤め上げたのです。
坂野壽男氏は、昭和47年頃1974定年により退社、神奈川県、平塚市に移り住まれました。 
 
 その当時、ネットやブログが在りましたら、そのサイトで手記を発表されたのでしょうが・・・
【満州での815日】 (昭和43年、社内誌に発表)
【満州での敗戦脱出行】(昭和62年、コピー冊子を知人発送)2編が有ります。
 召集日から1年弱の除隊兵に近い兵隊ですから、華々しい戦記は何一つ有りませんが、当時の満州の様子が伺える内容となっております。
 
 以下・・【4回に分散して発表させて戴きます】


泰弘さん、お手紙どうも有難う。  
 唯、もうやたらに嬉しくて、殆んど驚愕に近い眼差しで、虫メガネのレンズ越しに見覚えのある懐かしい字体を暫く見つめていました。
〇〇社の社員は筆無精者が多い、何か書いてやっても「梨の礫」である、梨のツブテであるから痛くはないにしても、張り合いのないことおびただしい。
 だから返事など期待しない方針に切り替えてから久しい。
 こうした前例に鑑み、今回も「ナシのツブテ」に違いあるまいと多寡を括っていました。
 ところが、巨大な礫が間髪を入れずに打ち返されて来たので、びっくりするのが当り前でしょう。
さて泰弘さん、ここで一寸過去を振り返れば当然のことながら、私の怠慢だが今まで手紙らしきものを差し上げていないので、何をどの様に書いて良いのか、とんと見当がつかなくて困っているが、ご無沙汰のお詫びに何かを書かねばなるまいと思います。
 貴殿の手紙で気に懸かるところが無い訳でもない、人生の先輩として「雁の乱れに伏兵あるを知る」という程ではないが、息の乱れ位は感じられます。
 だが、今回は止めときましょう、機会があったら貴殿が気にしている〇〇の件と一緒に、赤裸々に話してみたいと思います。      


 昭和四十四年一月二十二日   坂野寿男 拝


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昭和19年、召集前の坂野壽男氏

● 坂野壽男・・・満州での8月15日


 「いいか、これから先はどんなことがあっても、隊列を乱してはいかんぞ。一列縦隊で、先頭は目の高さの前方だけ見つめて前進しろ。後続の者は一歩の間隔で前列の後頭部から眼をそらすな。いいな、もう一度言う、周囲でどんな事態が起きても、隊列の誰かに何が起きても一切構うな。俺はしんがりを務める」こう言ったのは一行の中で最も軍隊経験の長い森村伍長であった。
 

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          撫順市の風光・・・撫順炭鉱露天堀の實況。

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         撫順市の風光・・・廟児溝鉄山   洗炭場。


 時は昭和20816日午前8時頃のことである。
 私達一行(といっても僅か5名であるが)、昨夜半から炭鉱で有名な撫順を出発、夜を徹して歩きようやく奉天城外に達したところである。
 
 奉天の旧城内と言えば、周囲を支那特有の厚い土と、煉瓦の城壁で囲まれた数平方キロは有ろうかと思われる中華人街で、日本の統治華やかであった頃でさえ治安の悪いことでは有名で、日本人が単身でうかうか城内に入ることは出来なかった。
 随分沢山の日本人が、この城内で行方不明になったと伝えられ、日本の警察でも手の付けられない一角とされていた。
 今、私達一行は身に寸鉄を帯びずここを通過しようとしているのである。
 ともかくこの城内を通り抜けない事には、日本人の居住区である新市街地に入ることが出来ない。
 私達は運を天に任せて、この危険な城内を強行突破しようとして、その一歩を踏み出したのである。

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         ⇧ 奉天市新市街        ⇧ 奉天城内旧市街


ここ数日来、私は心身共に疲れ果てていた。
満州東方国境数か所から一斉にソ満国境を突破したソ連機甲部隊は、まるで無人の野を行くような快進撃を続け、一週間とたたないうちに怒涛のように新京、奉天、撫順へ迫ろうとしていた。
 後で解かったことだが、精強を誇った満州派遣の関東軍の精鋭は、いつの間にか南方戦線に転出して、残されたのは召集兵を主体とする弱小兵団だけであったのだ。
 
 これも後で解かったことだが、その時の関東軍司令官山田乙造大将は、この弱小兵団なるが故に国境での抵抗を放棄して、奉天~撫順~本渓湖の山岳地帯で、この圧倒的なソ連の機甲部隊を迎え撃つ作戦であったと伝えられている。
 私達も撫順から数十キロ離れた丘陵地帯の防衛に立たされていた。
 私が召集され入隊以来、軍隊に欠くことの出来ない武器を、銃はおろか短剣すら持たされていなかった我々は一体何を武器に敵と闘えというのであろうかと、いつも疑問に思っていたが、この防衛の第一線に立たされて、始めて私達に銃剣の必要がないことが解かった。
戦慄が背筋を走るのと同時に、深い絶望感に襲われた。
 
 精強な機甲師団に対する唯一の武器、それは重さ20キロ、40センチ角くらいの木の箱がたったの一つである。
 木の箱の武器? 変に思われるかも知れないが、これは敵の戦車に体当たりする爆雷なのである。
 これをリックサックを背負うようにしてタコツボに潜むのである。

 箱の上部に小豆粒(あずきつぶ)大の穴が開いていて、その穴から細い紐が出ている。その紐の先が輪になっていて、丁度親指が入るくらいの大きさである。 指をはめて二の腕を少し曲げたくらいで、その紐は限度一杯の長さになる。 だからタコツボから躍り出る時には両の腕は使えない、右手は箱に付いている背負い紐をしっかり握って、左手一本で機敏に素早く飛び出さなければいけないのだ。
 タコツボから躍り出て、戦車のキャタピラーに抱きつくと腕を伸ばさなければならない。
 兎にも角にもその瞬間に信管が切れて爆発する、それで私の人生は一巻の終わりということになっていた。
 私のように訓練未熟で、然もこの貧弱な身体では容易な業でないことは容易に理解できた。
 せいぜいうまくやったとしても、穴からヨタヨタ這いだしたところへ、敵の好目標になるのは明らかである。私はそれでも良いと思っていた。 今思い出しても、その時どうしたら助かるかとは思い付かなかった。
むしろどうしたら楽に死ねるか、苦しまずに死ぬにはどうしたらよいかばかり考えていた。

もうその頃になると、何にも知らされていない一兵卒の私にも、日本の敗色濃厚なことは薄々感じられ解かっていたからだ。
そして『もうソ連軍が、どこそこまで侵入した』『明日あたり奉天が陥落するだろう』という噂が兵隊同士の口こみで伝わってきた。
どうせ生きて帰れないのなら一挙に身体中、蜂の巣の様に弾丸をぶち込まれて死んだ方が、一番楽な死に方だろうと、真剣に考えていた自分を思い出します。
だから恐怖心は起らなかったが、人間が死を覚悟した時の気持ちそのものは、壮烈、果敢、血沸き肉躍るなどマスコミ用の言葉とは裏腹の、暗い底知れぬ穴に引きずり込まれるような、何とも云えぬ落莫として沈鬱な気持ちになるものであることを、その時初めて知ったのである。
 
只残念なことに、戦争末期の応召は「長期出張」と言う名目で旗や幟(のぼり)楽隊などで賑やかに送られた初期のそれと違って見送る者も居ない、人知れぬ出征であったことが、より一層私の気持ちを暗くさせたのかも知れないが、それは今でもよく解からない。
そして私の脳裏に去来するものと言えば、内地に返してある妻子のことが頻りに思い出されてならなかったことだけである。
 
815日の午後、私はタコツボ堀りの作業中に負傷した戦友を、2~3人の戦友と一緒に病院へ連れて行った。 診察室で手当中に看護婦と会話を交わしたが、何を話したか全く覚えていない。 ただその時の戦局の話であったことは間違いない。
「心配しなさんな、日本が負ける筈がないよ」とたんに、2人か3人居た看護婦が一斉にわっと泣き出した。 傍にいた医師も、解かっていながらも同情の意識を示しながらも顔を背けた。
その最後の場面だけは、異様な雰囲気として覚えている。
 

怪訝な面持ちで帰営すると、本部から召集がかかっていた。
駐屯司令部が置かれていた撫順小学校の校庭に整列した。
私達に部隊長が終戦の証書を奉読して聞かせた。そしてその後で声涙下る決別の辞を、半ば放心状態で聞いていた自分を思い出します。 

 歩兵操典その他重要書類を焼却しながら、何故かあの涙に濡れた看護婦さんの顔が浮かび上がってくるのだった。
『何んだ、知らなかったのは、我々兵隊だけだったのかぁ…』
もし終戦が815日より遅れていたら、或いはソ連軍がそれ以前に我々の防衛線に到達していたら、今日の私は存在して居なかったに違いない。 結果はどうあれ、あの四角い箱と抱き合い心中していたことだけは間違いない。

 人間の運命とはこうしたものであろうかと戦後(23年)経過した今日でも、人の運、不運に思いを馳せれば新たな感慨が沸くのをどうすることも出来ない。
 
 
 斯くして、明日ソ連軍が到達するであろうという前日の16日夜半、行先を同じうする5名が撫順を脱出して、私の勤務地であった鞍山への約140Kmの道程を、先ず奉天へ向けて出発したのであった。
 今は烏合の衆と化した撫順、奉天間の日本軍防衛線兵隊の間をすり抜けて歩きながら、詔勅の中の今の言葉に訳すれば『日本国民の将来の苦難の道を思うとき、朕(天皇陛下)の五臓六腑は張り裂ける思いがする』の一節の、そこだけが何度も思い出されて来るのであった。
 



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太平洋戦争の残影 ⑭松山海軍航空基地

  その昔、松山市の西南部、伊予灘に面して「吉田浜飛行場」と市民が愛着を込めて呼んでいた飛行場が在りました。
  そこは
太平洋戦争中には「松山海軍航空基地」となり、現在は「松山空港」と呼ばれています。

  戦時に於いてここ松山は、呉軍港を中心とする広島湾要塞の防空を担うため、戦争の進捗状況に応じて日本海軍が造営していったのです。
 
太平洋戦争中にはつの航空隊および基地部隊として内海空本部が展開したほか、飛行場北側の敷地には予科練教育隊である「松山海軍航空隊」が置かれました。
「松山海軍航空隊」は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。一挙に増加した予科練甲飛第1314期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊です。
昭和20年2月1日に偵察第4航空隊を編入し、局地戦闘機「紫電改」を配置した。
松山といえば、源田実司令率いる第三四三海軍航空隊の印象が強いが、北側の予科練「松山海軍航空隊」と南側の飛行場である「松山海軍航空基地」は完全に別個の施設で、しばしば誤って混同されている事が多い。


この「松山海軍航空基地」も戦局の進行で、米軍の空撮により壊滅状況が以下写真の通り見て取れます。

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  松山海軍航空基地・・谷暢夫1飛曹慰問の母、一枝さんが慰問の時。

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谷暢夫1飛曹 昭和19年10月25日神風特別攻撃隊「敷島隊」3番機として
マバラカット基地を出撃、突入戦死。
(松山で訓練を受けた)

神風特攻隊 1(参照)➔http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/36326083.html


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          松山海軍航空隊跡地に建つ碑文

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 ➔➔は「松山海軍航空基地」 右中央部が松山市街 下は重信川(1945)

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       松山空襲の記録   〇印は松山海軍基地関連

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y吉田浜pin
前写真の左方部分の拡大


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           ➔➔は「滑走路」

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  1945年8月25日、丸善石油松山精製所。(前写真の上部付近)


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松山基地細密図  1945年1月


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掩体壕誘導路付近空襲・・1945年8月12日の空爆(南西より)
  (右は・・重信川)

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  掩体壕誘導路 (南方から)

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 戦闘機用の掩体壕付近の空爆 (西方向から)

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        8月12日、爆撃を受ける戦闘機用の掩体壕誘導路 (南方向から)

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           8月12日、爆撃を受ける戦闘機用の掩体壕誘導路 

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  最後の松山空襲・・・1945年8月12日爆撃を受ける滑走路付近。


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            松山基地跡(1947年)

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           松山基地跡(1947年)


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             1962年の松山空港。

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              至近の松山空港


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        昭和20年2月配置された局地戦闘機「紫電改」

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            今も残る戦闘機用の掩体壕

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         保存されている戦闘機用の掩体壕。


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後方背景の(右)は「興居島」(ごごしま)(中央)の「釣島」は明確な事実。
   【吉田浜海岸に、うち捨てられた戦車】
(松山基地海岸部)

戦時中、松山方面(愛媛県伊予郡砥部町)に駐留していた日本陸軍戦車部隊(独立戦車第四七連隊)が、終戦後、武装解除の為、写っている進駐軍により移動したものと思われる。

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