国史画帖『大和桜』63. 三百年の徳川幕府が遂に倒れる・・
慶応三年(1867年)十月、十五代将軍慶喜は、大勢如何とするを能わず大政を奉還し、愈々王政復古の実は挙がり、家康将軍と成ってより二百六十五年にて徳川幕府は全く瓦解した。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸城は無血開城となり江戸幕府は名実共に終焉を迎えることになります。
されど幕臣らの中でこのまま終わるのも潔しとせず、あくまで官軍と一戦を交えて雌雄を決せんと諸藩の勇士は相集まり、輪王寺宮を奉じて彰義隊と号して上野東叡山に立て籠もり、官軍の命を拒んだ。
戦わずして降伏することを不満に思う旧幕府の武士たちによって「彰義隊」は結成されるのでした。
更に各地の脱藩兵が合流し、最盛期は三千~四千人もの規模であったとされています。
時は明治元年(1868年)五月十五日、「彰義隊」は新政府軍と上野寛永寺で戦争を始めます。
折からの雨を侵して官軍は大砲を本郷天神台に据えて、黒門口に砲火を集中し、諸隊一斉に四方から包囲し総攻撃に移るや、隊員も最後の命を賭けての一戦と白刃閃かせて渡り合い、雨中に血煙を立てて白熱戦を演じたが、官軍の一斉射撃に遭い将棋倒しとなり、遂に黒門口はわずか半日で破れた。
死者は二百六十六名にのぼったのです。
どっと起きる鬨(かちどき)の声と共に、四方より攀じ登った官軍の為、彰義隊は遂に利あらず壊滅し、江戸最後の兵乱は治まった。
この兵乱の為、上野、東叡山寛永寺の七堂伽藍は烏有(うゆう=焼失)に帰したのである。













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