泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年07月

国史画帖『大和桜』63. 三百年の徳川幕府が遂に倒れる・・

 慶応三年1867年)十月、十五代将軍慶喜は、大勢如何とするを能わず大政を奉還し、愈々王政復古の実は挙がり、家康将軍と成ってより二百六十五年にて徳川幕府は全く瓦解した。

 勝海舟西郷隆盛によって江戸城は無血開城となり江戸幕府は名実共に終焉を迎えることになります。

 

 されど幕臣らの中でこのまま終わるのも潔しとせず、あくまで官軍と一戦を交えて雌雄を決せんと諸藩の勇士は相集まり、輪王寺宮を奉じて彰義隊と号して上野東叡山に立て籠もり、官軍の命を拒んだ。
 戦わずして降伏することを不満に思う旧幕府の武士たちによって「彰義隊」は結成されるのでした。
 更に各地の脱藩兵が合流し、最盛期は三千~四千人もの規模であったとされています。

 時は明治元年1868年)五月十五日、「彰義隊」は新政府軍と上野寛永寺で戦争を始めます。
 折からの雨を侵して官軍は大砲を本郷天神台に据えて、黒門口に砲火を集中し、諸隊一斉に四方から包囲し総攻撃に移るや、隊員も最後の命を賭けての一戦と白刃閃かせて渡り合い、雨中に血煙を立てて白熱戦を演じたが、官軍の一斉射撃に遭い将棋倒しとなり、遂に黒門口はわずか半日で破れた。
 死者は二百六十六名にのぼったのです。
 
 どっと起きる鬨(かちどき)の声と共に、四方より攀じ登った官軍の為、彰義隊は遂に利あらず壊滅し、江戸最後の兵乱は治まった。
 この兵乱の為、上野、東叡山寛永寺の七堂伽藍は烏有(うゆう=焼失)に帰したのである。
 
イメージ 1
           上野山寛永寺の黒門前で始まった。

イメージ 2
    上野山の黒門では、東征軍と彰義隊の壮絶な攻防戦が繰り広げられた

イメージ 14
             東叡山寛永寺の黒門周辺の決闘

イメージ 3
           慶應戊辰の役 東叡山寛永寺黒門の部

イメージ 4
             上野 東叡山寛永寺の図

イメージ 5
        東叡山文殊樓焼討之図    慶応戊辰五月十五日


イメージ 6
        円通寺(彰義隊の墓所)に移築された寛永寺黒門

イメージ 7
          その黒門には貫通弾痕が多数残っている

イメージ 8
             春爛漫 上野寛永寺の晩鐘

イメージ 9
                寛永寺の花見

イメージ 10
春の寛永寺清水堂

イメージ 15
上野 寛永寺清水堂の花見図


イメージ 11
         鳥羽伏見の乱の図  慶應四年一月(1868年) 

(さかい)↑ (なんば)(大坂御城)↑     (天満天神)↑
(住吉社)(天王寺)     (樋ノ口)(ながら)(吹田)(光明寺)
(暗がり峠)(桜の宮)     (茨木)(富田)(高槻)(室寺)                       (天王山)(柳谷)
(男山)(枚方)(佐田)(守口)     
(八幡町)(はし本)(くづは) ↑(大山崎)(長岡)(西明神)
(伏見)         ↑(淀の城)  (千両松)   
                                                      
イメージ 12
              明治天皇御即位の図

イメージ 13
         明治天皇御即位 明治元年(1868)八月二七日



イメージ 16


国史画帖『大和桜』は、ひとまずココにて終了です・・


保存

国史画帖『大和桜』62. 白雪血に染む桜田門外の変・・

幕末の安政三年(1856)四月に大老に就任した彦根藩の井伊直弼(いいなおすけ)は、その強権をもって懸案となっている将軍継嗣および条約調印を独断で進めた。この強権政治に反発した公卿や幕政批判をした志士たちに容赦のない弾圧を加えた。
この「安政の大獄」は反幕派による尊攘活動をさらに激化させていく。
 
内外の事情切迫を機に、直裁を待たずして開港条約に調印し、又将軍家定の命を受けて紀伊より家茂(いえもち)を迎えて後継ぎとした。
 これより天下の志士、殊に尊王論者は直弼の専断を非難し世論は大いに沸騰した。
 
 そこで直弼は水戸の斉昭なりあき)、尾張の慶恕(よしひろ)、越前の松平慶永よしなが)等に謹慎を命じ、一ツ橋慶喜に登城を禁じて非常手段に訴えて反対派鎮圧に務めたが、更に六年八月尊王攘夷論者の急先鋒橋本左内(はしもとさない)吉田松陰頼三樹三郎等を捕えて小塚原(刑場)に於いて断罪に処した。
 
 斯くの如く攘夷党は、既に幾多の志士を失い、且つその首領と仰ぐ斉昭(なりあき)が蟄居ちっきょ=ひきこもりせられたので、水戸志士の激憤最も甚だしく、遂に直弼の近辺を狙うに至り、翌万延元年1860年)三月三日、直弼は行列も物々しく、正に江戸城に登城せんと桜田門外に差し掛かった時、水戸浪士佐野竹之助等十七人、及び薩摩浪士有村治郎左衛門等、町人を装うて行列を迎え、「掛かれっ」の合図とともに俄かに白刃を閃かして襲撃し、折から降りくる雪の中に斬り結び、忽ち白雪を紅に染め、遂に直弼を暗殺したのである。

白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。
 

イメージ 8
         桜田門外紅雪

イメージ 9
「桜田門外之変」図


イメージ 10
        「桜田門外之変」井伊大老の駕籠


そして元治元年(1864)三月に天狗党の乱が起こる。
これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して、藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである。
武田耕雲斎は尊攘派ではあったが過激派ではなく、この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった。
耕雲斎(61歳)は過激派を説得すべく水戸に向かったが、逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった。


 尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが、戦いは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してくる。(このころ水戸を押さえた保守派は、過激派の留守宅を襲い、過激派の妻子を殺したりしたらしい)

幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する。

そんな中状況を打破するため、天狗党の面々は将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと、京都に行くことを決定、天狗党八百人余りが進軍を開始した。
 元治元年秋のことである。幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは十二月十一日に越前の新保(福井県敦賀市)に到着した。

しかし彼らはそこで、頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った。
もはやこれまでと観念した天狗党は十二月十七日に加賀藩に対して降伏した。
 
天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので、一月一日には酒なども振舞われたらしい。
また幕府に対しても寛大な処分を要請した。
 
しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり、天狗党の身柄を福井、彦根、小浜の各藩に委ねた。
その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ、ろくな取調べもされないまま、首領の武田耕雲斎、藤田小四郎以下、なんと四百人近い人々が首を刎ねられた。
 

この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった。
この天狗党の大量処分は、血なまぐさい事件の多い幕末でも、ひときわ凄惨な事件である。

この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり、これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである。
 

イメージ 1イメージ 11



















    有村治郎左衛門          佐野竹之助


イメージ 2イメージ 3












   
  武田耕雲斎


                                 水戸藩士・藤田小四郎

イメージ 4
          大老・・井 伊 直 弼

イメージ 12
        直弼から三条実万に宛てた書状


イメージ 5
         大老・井伊直弼襲撃之図(右隻)

イメージ 6
         大老・井伊直弼襲撃之図(左隻)

イメージ 13
桜田門・・・万延元年1860年)三月三日、水戸浪士等が大老・井伊直弼を要撃しおり。


イメージ 7
          大老・井伊直弼の最期

イメージ 14
   
         桜 田 門





国史画帖『大和桜』61. 誉れは千裁に薫る赤穂浪士・・

 人は一代、名は末代、生きるべき時に生き散るべき時に潔く散り、誉れを千裁に残すが武士の本懐である。
 
 吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなか)は室町以来の典籍に通じ、幕府礼法の事あればこれに関与し、自ら進んで諸大名より収賄していた。
 
 赤穂の城主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は潔癖なる為、却って城中で上野介に礼法を知らざるに事よせて嘲弄せられ、遂に殿中で刃を抜き、義央に斬りつけた罪に切腹を命ぜられ、その所領はことごとく没収せられた。
 
 家老大石内蔵助良雄以下浪士四十六人、身を思い思いに変じて臥薪嘗胆、吉良を覗うこと二十余月、好機を待つ甲斐ありて元禄十五年1702年)師走十四日、降り積もった雪を蹴って恨み重なる上野介の邸へ夜襲することと成った。
 
 即ち浪士を二隊に分かち、一隊は大手軍として表門から、一隊は搦め手として裏門から進み相呼応し大石内蔵助良雄の下知のまま一糸乱れず、大高源吾、間十次郎等、予ねて用意の縄梯子で塀を登り、外の面々は門より雪崩れ込み、大石良雄が打ち鳴らす山鹿流陣太鼓の音は静寂の夜を破って響き、浪士の意気正に天を衝くの慨が有った。
 
 斯くて卑怯にも炭小屋に隠れていた吉良は首を討たれ、浪士は見事に主君の仇を報いたのである。
 

イメージ 1
          赤穂浪士、吉良邸討ち入り

イメージ 6
   松の廊下で 吉良上野介に赤穂の城主、浅野内匠頭が斬りかかった


イメージ 2
             義士姓氏禄

イメージ 3
             義士勢揃いの図


イメージ 4
永代橋を渡って討ち入りへ

イメージ 9
吉良邸前


イメージ 5
             討ち入りへ

イメージ 7
忠臣義士十一段目     吉良上野介捕獲


イメージ 12
       忠臣蔵義士四十七士 両国揃退図

イメージ 14
             

イメージ 8
 忠臣義士十二段目    吉良上野介の首

イメージ 10
                浅野内匠頭の墓前に報告


イメージ 11
  大石内蔵助切腹の図」部分  熊本藩の江戸屋敷においての切腹状況図


イメージ 13
         大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけ)

イメージ 15
             大石内蔵助良雄



国史画帖『大和桜』60. 家康が人生最大の危機と語った「神君 伊賀越え」逃走・・

 織田信長の天下統一を目前に起こった本能寺の変。
 この時、堺にいた徳川家康は身の危険を感じ、武装していない三十四人の一行で、伊賀を越え三河岡崎城まで逃げ帰りました。
 これが徳川家康が人生最大の危機と語った「神君伊賀越え」です。
 この伊賀越えの経路に、枚方市津田付近から普賢寺、草内、飯岡など京田辺を東走しています。


 【本能寺の変から逃走まで・・】

 天正年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正月には武田氏を滅ぼしている。
 明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、十五日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。

 しかし乍ら、十五日に秀吉から応援の要請が届いたため、信長はその日に明智光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、十七日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城(近江)に戻り、二十六日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
 「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。
 
 徳川家康
は、重臣たちを引き連れて天正十年(1582年)五月十四日に安土に到着し安土城での饗応の後信長の命により五月二十一日に安土を出て、京都や堺などを見物することとなる。
 
 また、信長は二十九日に秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。 同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。 翌六月一日、信長は本能寺で茶会を開いている。
 
 そして本能寺の変のあった六月二日には、家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出て、この本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されている。

イメージ 14
            徳川十六善神の図
               ↑徳川 家康公     
 ↑平岩 親吉 ↑大久保 忠世 ↑松平 忠吉↑本多 忠勝 ↑内藤 正成
  ↑鳥居 元忠 ↑渡辺 守綱    ↑榊原 康政  ↑服部 半蔵
      ↑井伊 直正    ↑鳥居 忠広 ↑高木 性順
      ↑大久保 忠佐     ↑酒井 忠次  ↑米津 浄心                           
(((7e7


 武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見物させられることになった。
 家康ほどの人物ならば、重臣たちと共にどこかで命が狙われる危険を、察知していて当然だったのでしょう。
 
 天正十年(1582年)六月二日未明、本能寺の変が起き、天下統一の直前の織田信長明智光秀の謀反で自害します。

 前日六月一日、堺で見物を終えた徳川家康一行三十四人は、朝早く信長に接見するために京都に向かい、その道中の飯盛山西麓(四条畷)で、本能寺の変による信長の死を知ることとなります。
(((60
                飯盛山西麓(四条畷)
 
 武装しないまま、このまま京都に向かっても襲われてしまうと云うことで、家康一行は、伊賀を越えて三河岡崎城まで帰還することを決めます。
 これが「家康人生最大の危機となる、伊賀越え逃走」の始まりです。
 この伊賀越えの意外な登場人物が居りました。
 昔、テレビでも放送されていたアニメ「ハットリくん」、忍者服部半蔵です。
 このルートを決めた理由は、その当時伊賀をまとめていた忍者服部半蔵が居たからだと言われています。

イメージ 13  服部半蔵正成

 伊賀では前年に織田信長が天正伊賀の乱を起こしていたので、伊賀を通るのは不利な筈ですが、土地勘のある伊賀、甲賀の忍者二百人が逃走を手伝ったようです。
 その貢献により服部半蔵の「半蔵門」が出来て今の東京に名前が残っています。


【徳川家康が通った京田辺ルート・・】


 家康が三日間で帰還したらしいコースは多数あり、話に尾ひれがつき、謎めいているようですが、信憑性の高い史料から判断すると次のようになります。
 
 飯盛山(四条畷)➔星田➔穂谷・尊延寺➔宇頭城(うつぎ)➔普賢寺・多田羅➔興戸・草内(くさじ)➔宇治田原➔信楽➔伊賀➔白子浜➔大浜➔岡崎城・・・・・堺から岡崎まで210Km.

イメージ 3
        星田周辺みちしるべ(左のざき大坂、右ひらかた道)

イメージ 21イメージ 22

     野崎観音前       「野崎まいり」の野崎・慈眼寺
 
(((52a1
 伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

(((98f

【伝・家康ひそみの藪】

天正1062日(1582年)織田信長が京都本能寺に於いて、明智光秀の反逆によって自害した。その時少数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻堺を出て、本国三河へ帰ることにした。帰途の深夜家康はこの竹やぶにひそみ、村の長、平井氏に連絡して山城方面に出るため道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。平井家では沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用の於ける二人の農民を選出し無事に道案内の大役を果たさせたと言われている。


(((704
伝・家康ひそみの藪 (大阪府・交野市)

(((52穂谷へ2
穂谷方面への道(枚方市)

(((53
穂谷周辺(枚方市)


イメージ 4
                普賢寺(ふげんじ)

イメージ 5
                  興 戸

(((4fc
               草内(くさじ)の渡し場跡

イメージ 7
     草内の木津川(西から城陽方面を望む)左が川下

イメージ 18
               草内の木津川(左が川下)

(((54
 江戸末期の木津川(草内付近)(左が川下)(1865年頃)
(当時は川下の伏見に巨椋池(おぐらいけ)が有り、大阪から淀川を上り、更に上流の木津まで帆船での荷役があった)

イメージ 19
            伏見、巨椋池  指月豊後橋
        ↑向い島        ↑小倉神社  ↑大久保神社
          ↑指月月橋院            ↑伊勢田神社

イメージ 20
      小倉双葉園保育所から旧巨椋池を望む 丘の向うが京都(1920年頃)

(((2宇治田原
                 宇治田原の山道

(((3多羅尾3
多羅尾周辺

イメージ 8
               ▼御斎峠(おとぎとうげ)
(((4おとぎ峠


(((5おとぎ
御斎峠(おとぎとうげ)の碑

(((6伊賀徳永寺
伊賀・徳永寺

(((7徳永
伊賀・徳永寺境内

家康一行は音羽郷を経て、柘植の浄土宗平庸山徳永寺に到着、
しばし休憩(一説には宿泊)したと伝えられる。
そして徳永寺はこの時のお礼として、後年葵の紋の使用を許されたという。


イメージ 9
                                      鈴鹿 加太(かぶと)


 それを三日間で行ったと云うことなので、これは想像を絶する速さなのです。
逃走ですから間道や抜け道を馬で行くのですが、山賊や野伏等が襲ってきますし、知らない場所を通るので非常に苦労します。
 勿論、きらびやかな格好をしていると目立つので、なるべく目立たないように、そして何人もの影武者を用意していきます。
 家康の逃走を知った明智光秀は、要所要所を封鎖し家康を追いますが、家康側には服部半蔵が居たのと、各地の領主に半蔵の知り合いの人物がいたので何とか進行しました。

イメージ 10
             白 子 浜


イメージ 11
            三 河 大 浜

イメージ 15
             岡 崎 城

 京田辺には当時、地元の長領や有力者が居なかったので、土地の言い伝えではありますが、村人が家康一行を「普賢寺」から「草内の渡し」まで道案内したり、舟を準備し無事通過出来たという話もあります。
 梅雨の時期の増水した川を馬を連れて渡ったり、逃走期間の食事や水の用意などは地元民が手助けした訳ですね。
 その後、家康一行は信楽、伊賀、伊勢湾を渡り六月五日の朝に三河岡崎城に無事帰還します。
 
(明智光秀が山崎から近江坂本へ移動したルートは、本能寺から南約10kmの宇治方面を通って山科の小栗栖で刺された訳ですが、徳川家康の通過したルートは、光秀の通った道から、更に南へ約15kmの京田辺から信楽・伊賀へ通ずるルートでした。)

 
【伊賀越えの証し、京田辺市に穴山梅雪の墓あり・・】


 家康一行の後ろには、甲斐武田氏の家臣から寝返って信長側へついた穴山梅雪ら十二人が居ました。
 穴山梅雪一行は一揆(?)に追われ、飯岡の渡しで自害したとの記録があり、村人たちが葬ったと云われています。

イメージ 12
        ▲穴山梅雪翁の墓(京田辺市、飯岡)▼
(((55穴山d


イメージ 16
  穴山梅雪翁の墓地周辺と木津川(京田辺市・興戸・草内周辺)
   最寄駅=(JR片町線・同志社前駅)(近鉄京都線・三山木駅)


 一般にはあまり知られていないかもしれないが、『雍州府志』に次のような記述があります。
 「於山城普賢寺谷、梅雪従者斬郷導者奪其太刀之銀鐔、於茲土人蜂起遂殺梅雪於草内村西」

 つまり、家康とは別行動を取った穴山梅雪の従者が、家康一行に少し遅れてここ普賢寺谷にさしかかったときに、同行の道案内人
(郷導者)を斬り殺し、その太刀の銀製の鍔(つば)を奪った。

 そのため、これに怒った土着民らが蜂起し、ついに梅雪を草内村の西で襲い殺害したということである。
 なお、これと同じ話が、飯岡にある梅雪の墓の横にある立て札にも、地元の伝承として記されていた。


 丁度、梅雨の時期で木津川も増水していたことでしょう。
 追い詰められて渡河出来ず、逃げられなくなった一行は自害します。
 
 京田辺の飯岡墓地には、穴山梅雪のお墓があり、伊賀越えが行われた確たる証しとなっています。

 後に穴山梅雪の妻が甲斐から、夫と家来を葬ってくれたことに対しお礼を述べに来たそうです。


(京田辺地域生活情報誌「ぐってぃ7月号」より・・
 山城周辺郷土史研究者 伊藤文雄氏筆)

2016年9月27日(火) 「伊賀越えウォーク」 の実施!





保存
保存保存


国史画帖『大和桜』59. 家康の奸策(悪だくみ)に大阪城遂に落城す・・ 

 関ヶ原の一戦に豊臣を破った徳川家康は、豊臣秀頼の所領を摂津、河内、和泉の三国に削り、その勢力を牽制したが、なお大阪城内の豊富な軍資金を消費させるべく、京都の方広寺の再建を勧めた。
 この時、新たに鋳造の大釣鐘の銘に「国家安泰」の文字を見た家康は、無理難題を吹きかけ、家康の望み通り大坂方は兵を挙げた。
 
 得たりとばかり家康は息子秀忠と共に、大軍を以って一挙に大阪城を陥すべく攻め立てたが、海内一の名城と智勇兼備の諸将が立て籠もり容易に陥らず、只,徒に兵を損するのみと察した家康は、使いを城中に送り和睦を勧め、外濠を埋めることをその条件の一つとした。
 城中の諸将は反対したが、大野治長の一派と淀君が砲弾を恐れて遂に和睦となった。
 
 然るに条約を無視して家康は、内堀までも埋めにかかったので、和議も破れ兵を挙げるに至った。
 
 家康は金城鉄壁の大阪城といえども、外堀を埋めた以上、何程の事やあらんと大軍を率い攻めかかれば、城兵も豊臣家存亡の時と力戦苦闘を続けたが、外堀を埋められた悲しさ、流石の名城も遂に守り切れず、豊臣秀頼自ら火を放ち逆巻く紅蓮の中に淀君と共に自害し、豊臣氏は遂に滅びた。
 

イメージ 1

イメージ 3
   ↑大久保彦左衛門忠徳   ↑真田左衛門尉幸村
 ↑徳川家康公               ↑岩淵主税


慶長十九年十一月二十一日の闇夜、徳川公前内裏、嶋巡見の時、真田幸村伏兵発り、ご勢散乱せし折から、竹腰山城守小栗大六等三十余り取って返し力戦せし内、徳川公は彦左衛門一人付き添い逃れあう折から、芦原の中より幸村ただ一人突然と現れ出た。危なしう岩淵主税、阿部惣兵衛両人御跡と慕い来たり真田と戦い、その間に家康公と忠教○島う別入りこびも、岩淵伊栗を幸村とみて取って葦の有りたる中を数度鎗さした,残念にも出丸の城人引取りたる。

イメージ 7
       ↑家康公代理・米倉和泉守優茂    ↑真田幸村
          幸村芦叢からの偵察の図


イメージ 8
           真田左衛門尉幸村

イメージ 16
            ↓ ↓ ↓ 道明寺の戦い(午前)
イメージ 18
           道明寺の戦い(午後)

イメージ 19
           現在の道明寺周辺


イメージ 17
       近鉄道明寺駅の「道明寺合戦記念碑」

イメージ 20
      大坂夏の陣 小松山古戦場跡碑 (柏原市)


イメージ 2
     大坂冬の陣図屏風図(城を取り囲んだ幟の図)


イメージ 4
           大坂夏の陣図屏風図

イメージ 5
      真田軍・・鳥居は四天王寺西門前 夏の陣

イメージ 6


イメージ 9
   家康大仁村難戦の図(大仁村=大阪市中津付近にあった)
           ↑真田幸村       ↑徳川家康
大坂・夏の陣において、幸村に三里(12Km)も追いまくられた徳川家康の、生涯における二番目の危機を描いた明治期の錦絵。

【家康の生涯における一番目の危機は
「神君、伊賀越え・・」で次回掲載予定】


イメージ 10
         ↑徳川家康     ↑真田幸村

イメージ 11

            徳川公・豊臣諸侯饗應図,

 ↑徳川家康   ↑浅野幸長↑福島正則 ↑池田輝政 ↑片桐且元 
      ↑加藤清正               ↑板倉四郎左衛門                           ↑黒田甲斐守
                           
 
イメージ 12
        太平記大合戦, 大坂の陣     ↑後藤又兵衛


イメージ 13
            大坂落城大戦図
           ↑木村重成       ↑後藤又兵衛

イメージ 14
         關阪摂戦畧記, 大坂夏の陣
慶長十九寅年(1614年)十一月から、関兵百余万の大軍を率いて攻め寄り、城を取り囲む真田を
黄泉の国処の英傑真忠を尽くし数度の戦いに関兵を謄し、殊更大御所を奇計に振舞い、敗走せしむる事の数を知長大利、豊臣秀頼の悲運ほしく新しき勇士の花と維も惜しい。報告三年五月八日貢は落城して豊臣の塘落し亡城す。
↑遠藤定之 ↑真田幸安  ↑木村重成  ↑後藤又兵衛  ↑真田幸村

イメージ 25
           黒田二十四騎画帖・・後藤又兵衛


イメージ 24
      大坂夏の陣で討ち死にした、後藤又兵衛最期の記録


  大坂夏の陣で討ち死にした武将・後藤又兵衛(1560~1615年)の最期の様子を記した書付が京都府内で見つかっている。
 豊臣秀頼から贈られた脇差し「行光」で、介錯を受けた経緯が記されており、専門家は「秀頼への忠誠心が読み取れる貴重な史料だ」としている。
  又兵衛は槍の名手として知られ、大坂夏の陣に豊臣方として参戦して「道明寺合戦」で深手を負い、配下に介錯を命じたとされる。この書付は、同じ内容の写し1通と共に、又兵衛の配下で戦った備前国出身の武将・金万平右衛門(こんまへいえもん)の子孫が保管していた。
「後藤又兵衛討死之時」とする13行の文面には、脇差の「行光」で首を打ち、秀頼に又兵衛の折れた「指物」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、金万平右衛門か、その子孫が残した記録とみられる。

 大阪城天守閣の北川央館長は「介錯した人物は特定できないが、経緯が非常に具体的に書かれた史料はこれまで無かった、豊臣家や秀頼への忠誠心や、又兵衛の武将としてのプライドが読み取れる」と語っている。

イメージ 21
   大坂夏の陣・・徳川治績年間記事 二代大徳院殿秀忠公
 ↑大久保彦左衛門↑新将軍秀忠公 ↑兼松又造      ↑真田大輔


イメージ 15
         豊臣秀頼と淀君の自刃の場所

イメージ 23
          豊 臣 秀 頼 像


イメージ 22
淀 君 像





保存保存

このページのトップヘ