国史画帖『大和桜』58.浪速の華と散る 木村重成・・
金城鉄壁を誇りし名城も、外堀は埋められたる以上、籠城もおぼつかないと、大阪城中より、真田幸村、後藤又兵衛基次、薄田兼相(すすきだかねすけ)、木村重成等の勇将智将豪将が打ち出でて道明寺(藤井寺市)、八尾、若江(東大阪市)等、処々に激戦奮闘大いに務め、徳川勢を散々蹴散らしたが、衆寡敵し難く(少数は多数に敵せず)遂に華々しき戦死を遂げた。
その中にも知勇兼備の誉れ高かりし木村重成は、散々敵を追い散らし道明寺口に差し掛かりたる時、後藤基次に巡り合い、海内一と謳われし名城、大阪城も最早これまでと、悲痛の面で遥か伏し拝み、互いに潔き戦死を遂げんと約束し、そこで基次を見送った後井伊直孝の軍と戦い、二十三歳を一期として浪速の華と散った。
重成は戦死を覚悟して断食したところ、重成の妻、尾花がその故を問えると、重成笑って「食物胃腸に入り二十四時を経て消化す、戦死に当たり身より穢物(おぶつ)出るは、武士の恥辱なり」
尾花は夫の天晴れな覚悟を悟り、夫に心残りの無きようにと心事を書き遺し、年十八歳にして、その前夜見事な自害をして夫の出陣を励ました。
重成の首実検をした家康、髪の中に加羅の香りが漂っているのを見て、その天晴れな用意を嘆賞した。
げに日本武士の華であった。

↑木村重成 ↑後藤又兵衛基次

↑荒川熊蔵 後藤又兵衛基次↑ 木村長門守重成↑ ↑真田幸村
慶長十九年(1614年)九月十日夜の三更頃、真田幸村、木村重成、後藤又兵衛基次は各々一千の兵を引きい、深田を前に陣を取り、各々松明を振り立てて藤堂高虎勢を十分に釣り、木村、後藤は「時はヨシ」と合図を定め五十目箇を世絶堂に切って数十間、幸村も是を合図として一町半進して、三度目の大箇を十枚計一時に切って放っては、藤堂勢六千が敗軍せりと云う。
慶長十九年(1614年)九月十日夜の三更頃、真田幸村、木村重成、後藤又兵衛基次は各々一千の兵を引きい、深田を前に陣を取り、各々松明を振り立てて藤堂高虎勢を十分に釣り、木村、後藤は「時はヨシ」と合図を定め五十目箇を世絶堂に切って数十間、幸村も是を合図として一町半進して、三度目の大箇を十枚計一時に切って放っては、藤堂勢六千が敗軍せりと云う。






大坂平野(ひらの)合戦 真田幸村 地雷をもって関東の大軍を破る
↑真田大助 ↑後藤又兵衛基次↑海野信濃守↑真田左衛門尉幸村