泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年06月

国史画帖『大和桜』58.浪速の華と散る 木村重成・・

 金城鉄壁を誇りし名城も、外堀は埋められたる以上、籠城もおぼつかないと、大阪城中より、真田幸村、後藤又兵衛基次、薄田兼相(すすきだかねすけ)、木村重成等の勇将智将豪将が打ち出でて道明寺(藤井寺市)、八尾、若江(東大阪市)等、処々に激戦奮闘大いに務め、徳川勢を散々蹴散らしたが、衆寡敵し難く(少数は多数に敵せず)遂に華々しき戦死を遂げた。
 
 その中にも知勇兼備の誉れ高かりし木村重成は、散々敵を追い散らし道明寺口に差し掛かりたる時、後藤基次に巡り合い、海内一と謳われし名城、大阪城も最早これまでと、悲痛の面で遥か伏し拝み、互いに潔き戦死を遂げんと約束し、そこで基次を見送った後井伊直孝の軍と戦い、二十三歳を一期として浪速の華と散った。
 
 重成は戦死を覚悟して断食したところ、重成の妻、尾花がその故を問えると、重成笑って「食物胃腸に入り二十四時を経て消化す、戦死に当たり身より穢物(おぶつ)出るは、武士の恥辱なり」
 尾花は夫の天晴れな覚悟を悟り、夫に心残りの無きようにと心事を書き遺し、年十八歳にして、その前夜見事な自害をして夫の出陣を励ました。
 
 重成の首実検をした家康、髪の中に加羅の香りが漂っているのを見て、その天晴れな用意を嘆賞した。
 げに日本武士の華であった。
 

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          木村長門守重成 最後の出陣の図
       ↑
木村重成                                ↑後藤又兵衛基次  

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    ↑荒川熊蔵  後藤又兵衛基次↑ 木村長門守重成↑ ↑真田幸村

 慶長十九年(1614年)九月十日夜の三更頃、
真田幸村、木村重成、後藤又兵衛基次は各々一千の兵を引きい、深田を前に陣を取り、各々松明を振り立てて藤堂高虎勢を十分に釣り、木村、後藤は「時はヨシ」と合図を定め五十目箇を世絶堂に切って数十間、幸村も是を合図として一町半進して、三度目の大箇を十枚計一時に切って放っては、藤堂勢六千が敗軍せりと云う。


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         道明寺周辺(大阪府藤井寺市)


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        江戸時代の若江風情(東大阪市)


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 若江の戦いで討ち死にした西軍の武将・木村重成の墓(彦根市)

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豊臣方として戦い敗れた木村重成の墓所である(八尾市幸町公園)


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 大坂平野(ひらの)合戦 真田幸村 地雷をもって関東の大軍を破る
         ↑真田大助    ↑後藤又兵衛基次↑海野信濃守↑真田左衛門尉幸村




国史画帖『大和桜』57.関ケ原に 後藤又兵衛 奮戦・・

天下統一を達成した豊臣政権の内部に於いては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役(三韓征伐)でも、前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、内政経済兵站(へいたん)宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。

東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、関ヶ原の戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。
(慶長三年(1598年)八月、
豊臣秀吉は伏見城で薨去)
 
慶長五年九月十五日(1600年)に、美濃国不破郡、関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として行われた野戦が「関ヶ原の戦い」である。
 
関ヶ原の戦いに徳川勢に加わり出陣した黒田長政石田三成の陣を切り崩すべく押し寄せたが、石田の郎党、渡辺新之亟等の勇将豪傑が固めて、容易に攻め崩せぬを眺めた長政は、自ら槍を引っ提げて渡辺新之亟に突っ掛かる『よき敵、御参なれ』と、互いに一上一下火花を散らし戦った。
 
 これを眺めた石田の郎党三十人余りが「それ敵の大将だ、討ち取れ」と、長政の左右より斬り込み、あわや討死の瀬戸際に、疾風のごとく駆け付けた荒武者、槍を持っては当代随一、長政自慢の後藤又兵衛基次瞬く間に十七騎を突き殺し、主君の危急を救った。
 
 すると新之亟「猪牙才(ちょこざい)千万、邪魔建て致す憎き奴、この槍先を受けてみよ」と突き出す穂先、実に稲妻の如く、互いに追いつ追われつ火花を散らしたが、遂に叶わずとみてか新之亟逃げ去り、この勢いに敵は忽ち総崩れとなり、遂に徳川の勝利の因をなした。
 
 この功により長政、筑前福岡五十二万石に封ぜられ、後藤又兵衛基次は筑前大隈三万五千石を長政より授けられたが、後に自ら浪人となり遂に大阪方に組みし、浪人組の大将として「夏の陣」に華々しき戦死を遂げた。


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           関ケ原に基次の奮戦
   
渡辺新之亟             ↑後藤又兵衛基次

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             『関ヶ原合戦屏風』


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          関ケ原合戦 東西軍の布陣

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      奮戦する大谷吉継隊・・・関ヶ原合戦

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           関ヶ原合戦・・島津勢

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             関ヶ原合戦

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      美濃霧中大合戦・・↑福島正則  ↑芳村政右衛門

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         美濃国 関ケ原大合戦

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           関ケ原大合戦之図


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          関ヶ原勇士 軍賞之図
↑福島丹波↑長尾隼人 ↑本多忠朝 ↑井伊直孝  ↑徳川家康公
           ↑小関石見







国史画帖『大和桜』56.鬼上官 加藤清正 兀良哈(オランカイ)城への奇襲・・

 清正軍は無人の境を行くが如く各地に転戦して、遠く咸鏡道会寧府に迫り、木村久蔵、井上大九郎、庄林隼人等一騎当千、鬼を酢漬けにして頭からかじるという豪傑五十余人を従えて城内へ押し寄せ、城主鞠景仁を始め国都より遁走して来た二王子を虜とした。
 
 更に北上して国境を超え隣国兀良哈(オランカイ=満州・延吉付近)をも一気に滅ぼさんと会寧の降将鞠景仁の手勢五百余騎を案内役とし、全軍を率い国都目指して旗鼓堂々進撃したが、城の壁塁高く堀は深く、後ろは深山峩々として聳え、その堅固なことは今まで攻め落とした朝鮮の城郭の比ではない。
 
 そこで清正は一策を按じ、下知して城の三方を囲み、大力の兵を選んで後ろの山へよじ登らせ、地を掘り崩して、大石を城内目がけて続けざまに転げ落としたから、何状たまるべき岩を砕き木を倒し、城の大門も櫓も微塵に砕け、天地鳴動して百雷が一時に落ちたかと思われ、周章狼狽、雪崩を打って逃げだすところを、待ち構えた鉄砲組の為、撃ち倒され、怯むところを鬨(とき)の声を挙げて攻め入り、縦横無尽に斬り敵を皆殺しにした。
 
 そして泣く子も黙ると云う鬼上官、加藤清正の尊称を得て、万里の異郷にまで勇名を轟かせた。

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   加藤清正・・大石を転がして 兀良哈(オランカイ)の堅城を破る


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           清正の三韓征伐図
  ↑加藤清正        ↑庄林早太↑志村政蔵↑阿川清右衛門

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            真柴大領 三韓退治
  ↑加藤清正       ↑斉藤伊豆入道立尊  ↑節頭司伯根


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            加 藤 清 正
オランカイに入って王子を虜とし、蔚山に籠りて、明の百万騎を抱える明人怖れて鬼将軍と唱えたり。



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         朝鮮半島に築城した日本式城郭(倭城)
西生浦(ソセンボ)倭城(蔚山市)、秀吉第一次朝鮮出兵(文禄の役)に際し「仕置きの城」として加藤清正が築城した。
朝鮮半島東岸に築かれた倭城の、最大規模を誇る最前線の城である。



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                西生浦倭城の城郭

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【朝鮮南部の主だった倭城】
安骨浦城、熊川城、熊川邑城、永登浦城、旧永邑城、加徳城、金海竹島城、順天城、泗川城、泗川邑城、機張城、林浪浦城、西生浦城、蔚山城、長門浦城、松真浦城、倭城洞城 



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文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱1592-98年)で日本側が朝鮮半島に築いた倭城の1つ、順天城(韓国・順天市)で行われていた石垣の復元工事がこのほど終了。


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← 熊川倭城石垣










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     官兵衛の嫡男で初代福岡藩主・黒田長政が築いた機張城・・・
釜山
(プサン)と蔚山(ウルサン)の中間に位置し、港を取り囲むように築かれた機張城が、豊臣軍の重要拠点だったことは容易に想像できる。

 

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            加 藤 清 正

征韓の功労空しく、却って嫌疑を蒙り閉居の身となり、無実の罪に陥らんとす・・・




京城府鐘路区楽園町一九五 朝鮮旅館 ってどこ?

京城市(ソウル)で発行されていた「毎日新報」です。
ソウルでは、ほんの30年前まで漢字、ハングル混在の一般紙、スポーツ紙が普通でした。ソウルへ行った友人が、読み終えたスポーツ紙を土産代わりに持ってきたものです。
結構日本で活躍する韓国選手の記事が多く、漢字部分の拾い読みで充分理解できましたね。
あのややこしい漢字を覚えるのが嫌で放棄、遂にハングル、ひらがな表示にしてしまった国学大先生方は、近き将来国民から恨まれ続けることになりましょう。

昭和19年10月27日付と言いますと、南海の最前線「ラバウルの攻防」が始まった頃のことです。(いよいよ日本も押され始めたかの時期です。)

この「毎日新報」の広告欄「軍慰安婦急募」の広告。
広告主・・・朝鮮旅館内 (許氏) 


只でさえ「慰安婦問題再燃」を狙うあの国のことですから、この報道も追及新材料発見と見るのでしょうか?(泰弘さん補足)



あっちのWikiを見てみると
 
 
ハングルやハングルは韓国語固有の文字として、1443年 、朝鮮第4代王世宗が訓民正音(训民正音)という名前で創製し、1446年に頒布した。以降、漢文を固守するの士大夫たちには軽視されることもしたが、朝鮮王室と一部両斑層と庶民層を中心に続いて、或いは、1894年甲午改革で、韓国の公式の国の文字となり、1910年代に至って、ハングル学者の周時経が「ハングル」という名前を使用した。分岐点は、表音文字のうち、音素文字に属する。韓国ではハングル専用法が施行されている。
 

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▲ハングルと漢文が混在して使われた毎日新報 1944年の記事
 
ん?
 

毎日新報っていうのは今残ってませんから、今でこそ総督府の御用新聞と呼ばれていますが、現在のソウル新聞につながるものです。

 
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やるなぁ 工作員め

まだ韓国の人は気づいていないようです。 うひひっ



1944年10月27日の毎日新報に掲載された募集広告
44年10月末というとレイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈没したり最初の特攻隊がフィリピンで突入したりしたころです。当時の戦況発表などでは”フィリピンの米艦隊来襲を撃退”していたころですから行き先の某部隊っていうのはフィリピンだったかもしれません。
当時の中国は北京と南京をニホン軍が占領していて大きな戦いは無いし、中国軍は重慶に引っ込んでいたりしてニホン軍の兵隊も次々に”南方”へ送られていた時期ですから行き先が中国ってこともなさそうです。
ビルマ方面っていうとインパール作戦の失敗のあとですが、これも勝ち戦じゃないことが知られ始めたころですからあっち方面じゃないような感じですね。


さて

京城府鍾路区楽園町一九五 朝鮮旅館 ってどこでしょうか 

某部隊の慰安所に行くために数十人が列をなしたところ、いわば 遠征韓国人慰安婦の聖地じゃないですか。

※電話番号が光局二六四五番 光っていうのは光化門交換所のこと、当時はダイヤル直通じゃないので受話器を手に取ってぐるぐるを回して交換が出たら3局2645番って言うと繋いでもらえるアレですよ どんなのなんだ。

地名も変わってそうですけどね。でもそこは総督府ですよ、地図なんかいっぱいあるんだから。  えへんっ

あるのか?

ハイ ありました。


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ありましたね、ふぅ~~ん、今のどのへんなんだろ あれがそこで その先だから
敦義洞のとなりかぁ  って ドコドコ??

そういえば韓国はこのあいだ住居表示が変わったでしょ  大丈夫かな

その前に鐘路区の歴史についてちょっと脱線しましょう

地名
鍾路という名称は今の鍾路1街都城の開閉の時刻を知らせてくれる大きな鐘を吊るした鐘楼から始まっている。 朝の'キン'と夜の'コン'を言うが、鐘楼があるとしてウンジョンカでも呼ばれており、1943年4月1日、旧制度を実施する時'鐘楼のある通り'という意で、鍾路区となった。

沿革
1394年漢陽に遷都し、翌年6月6日には漢陽を漢城府に改め、9月、宗廟、社稷、宮殿を完成した。
1910年10月1日、漢城(ハンソン)府が京城府と改称されて、1911年4月1日には、府の行政組織を都城を基準に城の中は5部36面、城外は8面とする5部8免除を実施することによって現在の鍾路区地域は中部8部屋と東部2部屋が該当された
1914年4月1日5部の行政区域を拡張して8面のうち、都城付近地域を5部に編入するが、そのうち、今の鍾路区に該当する一部地域が東部に編入された
1943年6月10日、京畿道京城府鍾路区を設置した。
1946年10月1日、従来の~町の行政区域を~洞に一括変更した
1947年同会制度実施
1949年ソウル特別自由市→ソウル特別市改称
1955年4月18日、洞制の実施により36の行政洞が設置された[6]
1970年5月18日、名称が一致しないボプチョンドンと役場の名称を一致させ、管内の行政洞は36社から25つに統合・調整された。
1975年10月1日は西大門区のうち平倉洞などと東大門区のうち、昌信洞などが鍾路区に編入された
1977年9月1日ヌサン洞、鍾路1街洞、鍾路5、6街洞、東崇洞が廃止され、22洞になった。
1980年7月1日、鍾路3街+鍾路4、5、6街→鍾路3、4街洞、5、6街洞(忠信洞ハプソク)。(21行政洞)
1980年明倫3街洞管轄臥竜洞1番地→鍾路1、2街洞管轄臥竜洞ハプソク
1998年12月1日、世宗(セジョン)路洞を社稷洞に、鍾路1・2街洞(チュング・シンダンドン)と鍾路3・4街洞を鍾路1・2・3・4街洞に合同した(19行政洞)
2008年、社稷洞管轄世宗路(チョンノグ・セジョンノ)の一部→鍾路1、2、3、4街洞ハプソク
2008年11月1日、青雲洞や孝子洞(ヒョジャドン)を青雲孝子洞に合同した(18行政洞)
2012年8月1日、明倫3街洞とソウル恵化洞(ヘファドン)をソウル恵化洞(ヘファドン)に合同と鍾路1、2、3、4洞の管轄臥龍洞(チョンログ・ワリョンドン)の一部をこれにハプソク。(17行政洞)
地理
鍾路区の地理的な形勢は昔からの場所と注目された。 仁王山・白岳山・駱山(ナクサン)につながる高く、低い山岳や丘陵が天然のフェンスをなしていて、南側には大きな溝が垣根の役割を果たし、その中に黄土マル・ソルコゲ・ベコゲ・赤い灰・薄石首・馬頭産など、小さなドゥンドクらがあることはあるが、概ね平坦な盆地をなしていた。

まぁどうでもいいんですが、むかしソウルが京城と呼ばれる前の漢城と呼ばれていたころ4大門と城壁で囲まれていたその内側の大部分が鐘路区であるということです。
南大門、東大門、西大門と、あとどこか。(光化門は宮殿の門なので含まれません)

ニホン式の名前で呼ばれたところと朝鮮式の呼び名が混在してたみたいです。


鍾路区ってどんなところ?

イメージ 4実はニホン大使館やアメリカ大使館とか東亜免税店~ロッテホテル、ソウル市役所なんかが全部鍾路区なんですね。 

※今気づいたんだけど、が鳴るのに路区って書くみたい へぇ 知らなかったなぁ(エネオス風)  ええぇ~

あ 楽園町ね、 えとと、楽園洞でいいのかな。 ポチッ

そしたらあらまぁ
いまも地名が残ってるんですね”楽園商店街”ですって、ふむふむ

つまりそのへんなんですね

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ちょっ そこ、タプコル公園のところじゃない あのバッカスおばさんの聖地じゃないですか。

つまりそういうつながりなんだ。


◆  ◆


もうすこし調べてみましょう、番地も変わってないとすると旧番地検索で新住所と場所がわかりそうです。   ポチッ

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どうやら そこのようです 現在の番地名 ソウル鍾路区敦化門路5街36
〒03139(地番)、楽園洞195-4

それじゃ もうすこしズームイン

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どうやら間違いなさそうです、いまも朝鮮旅館って残ってるのでしょうか、

たとえば大正ロマンあふれるモダンな(どっちなんだ)純日本式旅館が残ってるとしたらこれはもう大発見ですよ。

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ええ、とても残念ですが、昔の建物ではありませんでした。バッカス公園のすぐ脇にある路地のこの場所に朝鮮旅館はあったようです。今はBARって書いてありますね。

※いつからバッカス公園なんだよ。 もうこの際バッカス公園でイイよね。


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そのとなりはMOTEL その路地の先にも左右にMOTEL 突き当たりもMOTELですよ

番地がちょっと違ってるかもしれませんから、このへんのほかのどれかかもしれません。

朝鮮旅館ってバッカス公園のすぐそばだったなんて ”聖地”つながりだったんですね


バッカス公園Ⓒって何ね?・・・バッカスおばさんとこね・・・

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この記事に
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国史画帖『大和桜』55.唐入りで 清正 の雷名、猛虎に及ぶ・・

秀吉は旭日昇天の勢いを以って国内を統一し、人材を登用して経綸を行ったので天下は安定した。
 
 国内の安定により、今度は明、朝鮮、遠くフィリピンまでも平定して我が属国としようとして、先ず朝鮮国王に明国征略の道案内を頼んだが、明王を恐れて拒絶して来たので、奏請して秀次に関白を譲り、太閤となって軍事を統括し、愈々征韓の議を諸大名に計った。
 
文禄元年1592年)肥前名護屋(佐賀県唐津市)に外征を記念として百万金を費やして城を築き、太閤自ら兵三万を従えて遠征軍を指揮した。
 
 即ち加藤清正、小西行長を先鋒として黒田、島津、小早川、毛利、浮田、浅野等十三万、九鬼、藤堂、加藤等水師九千は翌年1593四月軸櫓相含んで出陣した。
               
 既に日本軍來征の報伝わるや、加藤清正、小西行長の向かう処敵無く、無人の境を行くが如く破竹の勢いであった。
 
 当時は到る所に虎が群れを成して棲息していて、所々に出没して征韓の将士も往々その害を被り、朝鮮兵や明兵よりも、虎が我が軍を悩ました。
 
 咸鏡道(朝鮮半島東北部)に居た清正の軍でも馬数匹を餌食にされ、上月左膳という小姓が最初の犠牲となったので清正怒り、且つは頼朝の富士の巻狩りの故事に倣い、全軍の士気を旺盛鼓舞するため、度々大虎狩を開催して、各自獲物の数に応じて恩賞を与えたという。

 
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          加藤清正の虎退治の図



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           朝鮮征伐大評定ノ図

             ↑豊臣太閤秀吉
↑加藤嘉明↑加藤清正↑黒田長政   ↑小西行長↑毛利輝元↑徳川家康
↑島津義弘↑橘 宗重↑福島正則   ↑浮田秀家↑前田利家↑小早川隆景
↑藤堂高虎                       ↑石田三成



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          肥前 名護屋城(佐賀県唐津市)

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            肥前 名護屋城


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          攻め入る九鬼大型船


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          海峡を渡る加藤清正軍
      ↑加藤清正↑佐藤与左衛門↑和田備中守↑寺田甚内↑天野民部


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釜山鎮城攻略の様子で、左に密集しているのは上陸した日本の軍船


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  『文禄二年六月釜山海征韓水軍総督 九鬼大隅守舩柵之図』

真ん中の巨船は安宅船日本丸で、九鬼嘉隆の乗艦として前後役で活躍し無事に帰還した。

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           小早川秀明の中大型船

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             三韓征伐の図
    ↑大勇将軍     ↑加藤清正  ↑長林正道


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             三韓征伐の図


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            豊臣 三韓征伐の図
  ↑森本義太夫      ↑穆々子      ↑此田正後


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       朝鮮征伐石火矢図・・・加藤清正


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     清正は朝鮮半島を縦断、咸鏡道、会寧府を落とし
         更に女真国境を超えオランカイを攻めた。



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           加藤清正 虎狩の図


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          加藤清正 猛虎討取の図
            ↑加藤清正 ↑佐藤清兵衛↑飯田半兵衛↑志村愛蔵

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           加藤清正公 虎狩の図
↑西塔文平 ↑飯田角兵衛  ↑志村勝豊  ↑堀本理太夫 ↑加藤清正


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              小 西 行 長 


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         三韓征伐出陣の 加 藤 清 正


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             加 藤 清 正

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             加 藤 清 正





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