国史画帖『大和桜』54.小牧山にて両雄の力比べ・・




↑羽柴秀吉 ↑榊原康政

↑羽柴秀吉 ↑榊原康政

↑紺田貞数 ↑加藤清正 ↑羽柴秀吉公

↑徳川家康 ↑本多忠勝 ↑加藤清正 ↑木村又蔵

↑高木原秩父太夫 ↑小田切員元 ↑福島正則 ↑羽柴秀吉公








松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。
警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。
机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然≪ゴゴー・・・ドドーン・・・≫という強烈な破裂音と地響きがした。
誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。
(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、≪ゴゴー≫の音は、そのような感じの音だった)
それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。
しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先きに運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心に使用していた)
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。
各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高等商業学校北側の帰り道を、砂埃を上げて走る上級生を追って懸命に走って行く。
防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。
前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕をブンブン回しながら身振りで指示している。
西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
僕も反動をつけて跳び下りた。
前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。
鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。
「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており、飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。
上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。
「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判らない。
周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く判別することが出来ない、全方向からの爆音なのだ。
しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。
琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていた気になるあの爆撃煙を、西方に見てみた。
学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている。
火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
祖母浦子は「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
その煙は「夜には炎に染まって真っ赤に見えていたが、一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。
『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが、最早「でっち上げ」としか言いようがない内容の記事であった。
『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』
一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・「5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」
松山市における大悲劇の幕開けである。
子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。