国史画帖『大和桜』㊿ 羽柴秀吉 よくも屈辱を耐え忍ぶ・・

↑佐久間盛政 ↑柴田勝家 ↑羽柴秀吉

当時の武士道による戦いは、正々堂々たるものがあった。殊に最も感服するのは、四方田但馬守と加藤清正との戦いである。
二人が尼ヶ崎で相戦ったとき、清正の刀が中ほどからはっしと折れ、四方田が斬り込めば清正は尼ヶ崎の露と消えるところであった。
しかし四方田は、折れた刀で人を討つのは武士の情けにあらずと思い、清正の申し出に応じて組み打ちをした。
揉みつ揉まれつしたが、清正の力が優れていたので、遂に四方田を組み敷き、短刀一閃(いっせん)、敵の喉(のど)に突きつけようとしたが、清正も武士の情けを知る人間である。
陶晴賢(すえはるかた=大内氏家老職、後に入道し陶全姜すえぜんきょう)は周防、山口の城主大内義隆の重臣であったが、次第に勢力を増し主家を攻め滅ぼした。
義隆は自刃するに先立ち、密書を毛利元就に寄せて「他日、逆臣晴賢を誅戮(ちゅうりく=罪人を殺す)して呉れ」との頼みで、大内家に仕えていた芸州の元就は義隆の遺志を汲み、義兵の天勅を請い晴賢討伐の師を起こしたのである。
晴賢の勢力侮りがたく、智謀に優れた元就は彼を欺き滅ぼさんと厳島に城を築いた。
その頃毛利家に出入りする盲目の琵琶法師があった。
元就は何心なく時折法師を呼んで平家を語らせていたが、晴賢の間者だと見破った後も元就は相変わらず法師に平家を語らせていた。
かくて城が出来上がると、元就は法師が来るたびに「家来の諫めを用いず厳島に城を築きしは元就一生の失敗、万一敵に厳島を占領されなば手出しが出来ぬ」と、さも後悔している如く宣伝するを、間者法師より聞きたる晴賢は、我が意を得たりと家来の諫めも聞かず、兵六万を率い厳島を攻め、元就の計画に陥り惨敗、遂に自刃し、法師は捕らえられ出陣の血祭りとされて海中に投ぜられた。
元就は大内氏の領地八ケ国を採り、更に尼子氏を滅ぼし山陰、山陽に覇を唱え戦国時代の一驍将(ぎょうしょう=勇ましい大将)として後世に其の名を残すに至った。