泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年04月

国史画帖『大和桜』㊿  羽柴秀吉 よくも屈辱を耐え忍ぶ・・

 尾張の国中村の一農家に生まれ、卑賎の身より立身して一方の将となり驍名を謳われた羽柴秀吉は、織田家に仕える彼の先輩柴田勝家等から目の上の腫物視されるに至ったことは、戦国時代はおろか今の世も当然のことである。
 
 或る日、清洲城内大溜所に於いて柴田勝家は、その甥佐久間盛政と計り秀吉を招き、あらゆる屈辱を加え難題を吹っかけて屈服させ、万一反抗せば一捻りに捻り殺さんと物騒な相談をしていた。
 
 秀吉は、斯くの如き計略がありとは露知らず、呼ばれるままに柴田の前に端坐するや「のう羽柴殿、五~六年前を思えば夢の様ではないか、足下が二合半の藤吉郎時代には按摩もしてもらったが、吾等老境に及んでしきりに肩が凝る、されど足下も今では立派な殿様じゃ。まさか按摩もしてもらえまい、あゝ水の流れと人の身は、実におかしなものである」と秀吉を尻目にかけて口振り、堪忍強い秀吉「若い者が長者に仕えるは人の道でござる、苦しゅう御座らぬ、揉んで進ぜましょう」と云いながら勝家の肩から腰にまで丁寧に按摩して「さて不器用な按摩、少しはご気分が好くなり申せしや」とどこまでも従順で、これには鬼と呼ばれた勝家玄番も機先を制せられ喧嘩にもならず、すごすごと退城した。
 
 柔よく剛を制すの喩え、秀吉にこの忍耐と大腹量が有ったればこそ、後には柴田、佐久間を滅ぼし群雄割拠、麻の如く乱れた天下を統一し、関白太政大臣と位人身を極められたのである。


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    柴田勝家より按摩をしてほしいと乞われた秀吉は・・・
 ↑佐久間盛政    ↑柴田勝家    ↑羽柴秀吉

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        柴田修理進勝家と小谷(おだに)の方






国史画帖『大和桜』㊾ 坊主に化け 秀吉 危機を逃れる・・

  主君信長の凶報を聞き、毛利と和睦した秀吉は、疾風迅雷、弔い合戦のため帰途に就いた。
 万一、秀吉が中国より引き返しては面倒だと、光秀明石義太夫、四方田但馬守(しほうでんたじまのもり)豪将をして密かに手配せしめた。
 
 今しも唯一騎、甲冑に身を固め飛び来るは、まがう方なき秀吉にて、明石「やあやあ、筑前と見たは僻目(ひがめ)か、いざ覚悟ッ」と斬りかかれば、汝如きを相手にいたす秀吉でないと、大事を取って馬に一鞭当て逃げ去って、ほっと一息付いたところへ仁王の再来かと思わるる物凄き勇士が槍を持ち「我こそは四方田但馬守なり、猿面冠者見参」と槍を捻って突きかかる鬼神も拉ぐ勢いに、大事の前の小事のこと、秀吉逃げつつ、遂に道誤って古寺の抜け道無き細い畦道に乗り入れた。
 
 今は詮方なしとヒラリと馬より降り、今、四方田が追って来る道へ馬に一鞭当て追い返す。
 四方田避けるに道なき深田の一本道、あわや蹄にかかり蹴り殺されるかと思われる刹那、飛び来る馬の前両脚を抱えドッと深田へ投げ込んだ。
 
 この暇に秀吉、古寺に入り頭を剃り坊主に化け、四方田の目を遁(のが)れることが出来た。
 この咄嗟の危急の場合にも、奇策縦横の秀吉の面目が現れている。


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       追う四方田但馬守と、広徳寺へ身を隠す秀吉

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        広徳寺での加藤清正と四王天但馬守の対決

 天正十年(1582)六月、本能寺で織田信長明智光秀に討たれたことを知った羽柴秀吉は、後に「中国大返し」と呼ばれる強行軍で兵を返しました。
江戸後期に流行する『絵本太閤記』などの伝記ではその際の出来事がこんな風に語られています。
 
 俊馬に乗った大将の秀吉は単騎となってしまい、武庫川(西宮、尼崎)あたりで明智方の四王天(四方田)但馬守の待ち伏せに遭います。

どうにかこれを凌いで近くの広徳寺(尼崎市寺町8)に逃げ込んだ秀吉は、まず浴室の剃刀で髪を剃り、脱衣場にあった衣をまとって僧侶に化けます。
そして台所で食事の支度をしていた僧衆に交じって味噌すりを始めました。
そこに四王天但馬守が現れ秀吉を捜しますが、僧侶に化けた秀吉を見つけることができず、やがて駆けつけた加藤清正に討ち取られ、秀吉は危機を脱したというのです。
 
 この話は残念ながら史実ではありませんが、知恵者の秀吉らしい逸話として広く知られるようになります。また、秀吉が逃げ込んだ寺は諸説ありますが、後に広徳寺(尼崎市寺町8)がその舞台として知られるようになります。 この「尼崎危難」伝説は芝居にも取り入れられ、錦絵の画題としても好まれるようになりました。
 つまり本作品は、広徳寺での加藤清正と四王天但馬守の対決を描いたものだったわけです。

 両雄の脇に記載された「四方田但馬守」、「佐藤虎之助正清」という人名は、徳川家康在世中以降の出来事に関する出版物の刊行が幕府に規制され、実際の名前が変えられています。
とはいえ誰が見ても「四王天」「加藤清正」であることがすぐに分かるあたり、当時の出版関係者のしたたかさが感じられます。

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   秀吉、栖賢寺(せいけん寺)に剃髪して危難を免れ給う図

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     西方から見た尼崎城と栖賢寺(せいけん寺)、広徳寺

 

当時の武士道による戦いは、正々堂々たるものがあった。殊に最も感服するのは、四方田但馬守加藤清正との戦いである。
 二人が尼ヶ崎で相戦ったとき、
清正の刀が中ほどからはっしと折れ、四方田が斬り込めば清正は尼ヶ崎の露と消えるところであった。

しかし四方田は、折れた刀で人を討つのは武士の情けにあらずと思い、清正の申し出に応じて組み打ちをした。

 揉みつ揉まれつしたが、
清正の力が優れていたので、遂に四方田を組み敷き、短刀一閃(いっせん)、敵の喉(のど)に突きつけようとしたが、清正も武士の情けを知る人間である。

自分の刀が折れたとき、情けの猶予をくれた相手を殺すには忍びない。
そこで四方田を助け起こし、いずれ重ねて晴れの勝負をしようと約束し、互いに彼のためなら命もいらぬと思いながら別れたという。
 
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        太閤秀吉公、剃髪したる尼崎広徳寺

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       太閤秀吉公、剃髪したる瑞雲山広徳寺

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           瑞雲山 広徳寺本堂

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       太閤記傳 秀吉由緒寺 (尼崎広徳寺)





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国史画帖『大和桜』㊽ 木下藤吉郎 富士川の初陣・・

 身を匹夫(ひっぷ=卑しい身分)より起こし、遂に関白太政大臣となり、位は人身を極め、更に遠く万里の海外に迄、武威を轟かせた大英雄豊臣秀吉の豪胆智謀は既に富士川の初陣に現れている。
 
藤吉郎(日吉丸)蜂須賀小六の世話になっていた時期があり、その蜂須賀氏の紹介で織田家に仕官したということだ。
 天文十七年(1548年)、藤吉郎十三才にて今川義元の家臣、軍学指南役遠州浜名の松下之綱まつしたこれつな)に仕えた。
 
 月日に関守無く藤吉郎十八才の時、北条氏康は二万五千余騎を率い街道筋の覇権目指して富士川へ出陣し、今川方も三万を以って迎えて相対した。
 
 やがて戦端は開かれ北条軍の先陣、伊東日向守佑国いとうすけくに)は五千余人を率いて黎明を期して川を渡らんとするや、今川勢の将、朝比奈康能は伏兵を以って迎撃しこれを破った。
 
 この時藤吉郎は主君之綱に従って今川軍に有り、身は糧食係に有りながら密かに抜けて戦線に出で様子を覗うところへ、敵将日向守佑国が痛手を負い追われて来たので、藤吉郎躍り出で大音声に「勝負!勝負!」と呼ばわれば、日向は小僧扱いにして渡り合い数刻、藤吉郎は所詮かなわずと、馬の横腹目がけて突き出す槍に馬は驚き卒倒し日向守佑国はもんどり打って真っ逆さまに河中へ落馬した。
 
 藤吉郎は得たりと躍り込んで、見事に首掻き落とし今川勢大勝の因をなした。
 これが藤吉郎初陣の功名である。
 

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          木下藤吉郎 富士川の高名  
  ↑木下藤吉郎         ↑伊東日向守佑国 


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          豊臣雲昇録 富士川の合戦  
  ↑木下藤吉郎         ↑伊東日向守佑国 



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  矢作川の出会い      ↑蜂須賀小六正勝  ↑日吉丸


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        蜂須賀小六正勝 と 日吉丸

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             矢作川の情景




国史画帖『大和桜』㊼ 毛利元就の策略、功を奏し 陶 晴賢を討つ・・

 陶晴賢(すえはるかた=大内氏家老職、後に入道し陶全姜すえぜんきょう)は周防、山口の城主大内義隆の重臣であったが、次第に勢力を増し主家を攻め滅ぼした。

 

 義隆は自刃するに先立ち、密書を毛利元就に寄せて「他日、逆臣晴賢を誅戮(ちゅうりく=罪人を殺す)して呉れ」との頼みで、大内家に仕えていた芸州の元就は義隆の遺志を汲み、義兵の天勅を請い晴賢討伐の師を起こしたのである。

 

 晴賢の勢力侮りがたく、智謀に優れた元就は彼を欺き滅ぼさんと厳島に城を築いた。

 

 その頃毛利家に出入りする盲目の琵琶法師があった。

 元就は何心なく時折法師を呼んで平家を語らせていたが、晴賢の間者だと見破った後も元就は相変わらず法師に平家を語らせていた。

 

 かくて城が出来上がると、元就は法師が来るたびに「家来の諫めを用いず厳島に城を築きしは元就一生の失敗、万一敵に厳島を占領されなば手出しが出来ぬ」と、さも後悔している如く宣伝するを、間者法師より聞きたる晴賢は、我が意を得たりと家来の諫めも聞かず、兵六万を率い厳島を攻め、元就の計画に陥り惨敗、遂に自刃し、法師は捕らえられ出陣の血祭りとされて海中に投ぜられた。

 

 元就は大内氏の領地八ケ国を採り、更に尼子氏を滅ぼし山陰、山陽に覇を唱え戦国時代の一驍将(ぎょうしょう=勇ましい大将)として後世に其の名を残すに至った。


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     間者法師は捕らえられ、毛利元就出陣の血祭りにされた。

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              陶 全姜(晴賢)敗死の図


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                           「高安原 陶晴賢 敗死之所」


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             陶 晴賢 の像


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            毛利元就 の像




国史画帖『大和桜』㊻ 大丈夫鬼と謳(うた)われし 柴田勝家・・

 柴田勝家は剛勇無双の武将で、織田信長に仕え一方の重鎮であった。
 人呼んで鬼柴田と称し天正三年1575年)越前の北ノ庄城主(福井城)となった。

 本能寺の変に主君信長が、明智光秀に亡ぼされてからは、主君の仇を討った羽柴秀吉の威望が日に増し盛んになった。
 
 これを憂いた柴田は、万一織田家が滅ぼされては一大事と、遺子織田信孝を安泰にして秀吉の勢力を駆逐せんと機を狙うに至った。

 たまたま天正十一年1583年)三月、柴田の血縁佐久間玄番盛政は秀吉と戦い、時こそ到れりと柴田が玄番を援けて秀吉の軍に抵抗せしめたが、時に利あらず賤ケ嶽(しずがだけ)において敗れ、佐久間玄番及び勝家の養子権六も捕虜となった。
 
 そこで勝家は僅かの手兵をまとめ、越前北ノ庄(福井城・福井市中央)に立て籠もり再挙を計ったが、勝ち誇りたる秀吉の大軍は、一挙にして勝家を滅ぼさんと北ノ庄に迫り遂に城を包囲した。
 城兵大いに防戦力闘したが今は戦う者数百人、さすがの鬼柴田と謳われた勇将も死の運命を覚悟した。
 
 そこで勝家は夫人お市の方を諭し「城を抜け出でよ、例え敵の捕虜になっても信長公の妹として命を援けると思う、子供を連れて逃れよ」と勧めたが、流石は信長の妹であり、柴田が夫人であり、お恨めしこと申されるかな、夫を見捨てて逃れる心は露もなく、死なばもろとも城を枕に討死するこそ武士の妻として取るべき道と、頑として聞かず燃え落ちる天守と共に夫人は懐剣を以って己が胸元刺し通せば、勝家は莞爾(かんじ=ほほえむ)として腹十文字に搔き切って自刃したが、その義節は後世に至るも讃えられている。


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           大丈夫鬼 柴田勝家

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         柴田勝家     織田七郎左衛門

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              柴田勝家 

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              柴田勝家 

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              柴田勝家 

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              お市の方





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