泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年03月

国史画帖『大和桜』㊺ 運拙く哀れ 光秀 の最期・・

天正十年1582年)六月、信長の弔い合戦として秀吉は、山崎天王山(京都府大山崎町)に於いて明智の軍を破った。
 
そこで光秀は坂本城(大津市下坂本)に立て籠もり、決戦を為さんと一騎当千の郎党十数名を従え、坂本城へ向かう途中伏見を通過、小栗栖(おぐるす=京都市伏見区醍醐)へ差し掛かった時は丑三つ頃、三々五々と密かにそぼ降る雨の中を進み、竹藪の傍を通らんとした時、横合いより土民が狙い定めてエィ・・・と突き出す槍は、光秀の脇腹に深くグイッと突き刺さった。
 
「無礼者ッ」と云いざまその竹槍を切り落とし、突き刺されたまま馬を走らせ、凡そ三十丁も来たころ、流石の光秀も遂に落馬したが、続いて来た溝尾茂朝この様を見て驚き、抱き起こすと「この深き傷では最早坂本城まで覚束(おぼつか)ない、命自害致す故、汝介錯致し呉れ」と五十五を一期として儚き最期を遂げた。
 
当時土民の一部には、落ち武者と見れば、物具を剥ぎ取る輩が出没して居た。
身は五十有余万石の城主、更に仮令十余日とは言いながら征夷大将軍、明智惟任光秀(あけちこれとうみつひで)が土民の竹槍にあえなき最期とは・・・
 
ああ天の配罪か、それとも宿命か、兎角英雄の最期、憐れな者の内でも、光秀の最期こそは最も哀れなものであろう。


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            山崎大合戦の図

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      山崎合戦之図  光秀の大山崎敗走場面
    ↑明智日向守光秀 ↑美曾尾惣兵衛 ↑武智十郎衛門↑津間木数衛
↑名見川嘉門之介                     ↑比企田帯刀

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         山崎合戦之地(京都府大山崎町) 

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           明智光秀 小栗栖の図

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          小栗栖の露と消えた光秀

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      小栗栖 明智藪に差し掛かった光秀と近臣

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        明智光秀亡滅旧跡 本経寺等の絵図

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     光秀死亡の藪

                  
      光秀の行状にて亡着し藪は、南小栗栖法権                    壇林の側にありし、藪を傳領したる土民覚わ                    りとて、今は知るべき附しなかるらん。

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       本経寺内にある明智日向守光秀公供養塔

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【明 智 藪】

「明智藪」は新小栗栖街道を六地蔵から山科方面へ向かうと存在する】

近江坂本城主、明智光秀は(1582年)天正十年六月二日早朝、中国地方へ出陣の為、上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた。(本能寺の変)
その後、光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名と共に暗夜に乗じて坂本城を目指したが、途中小栗栖の付近に差し掛かったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最期を遂げたと云われている。
この明智藪は、今日に到るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領と成っている。   
平成三年二月吉日

 
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           明智光秀之塚 胴塚

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            明智日向守光秀

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            明智日向守光秀

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      羽柴秀吉による明智光秀主従の首実検の図
↑青木勘兵衛↑加藤清正↑糟谷正次↑羽柴秀吉↑蜂須賀彦衛門↑福島正則





国史画帖『大和桜』㊹ 明智左馬之介 誉れの湖水渡り・・

明智左馬之介光春(光秀の重臣=妹婿または別説に従弟とか)は安土城にあったが、光秀の大山崎合戦敗軍を聞いた士卒は、士気沮喪し(しき、そそうし)多くは先を争って逃走したため、火を放って城を焼き、僅かの手兵を従えて坂本城(大津市下坂本)に向かう途中、秀吉軍の先鋒堀秀政の軍に出会い、打出の浜(大津市石場)で華々しく一戦を交えたが、悲しいかな多勢に無勢、打ち勝つ見込みもつかなかったから、光春は馬首を廻らして一直線に坂本城に急ぐべく、琵琶湖にざんぶと乗り入れた。
 
光春のこの日の扮装(いでたち)は、雲竜を描いた陣羽織に、二ノ谷の兜をかぶり群がる敵を尻目に、愛馬の大鹿毛を泳がせながら、さしもに広き湖水を見事に乗り切って唐崎に上陸した左馬之助は、汝のお陰でさしもの湖水を乗り切ることが出来たぞと労り、あたら名馬を殺すに忍びずと、懐紙を取り出し「左馬之助を乗せて、湖水を渡りたる馬」と記し愛馬の鬣(たてがみ)に括り付けて放った。          
    
光春の湖水渡りは後世まで誉れを残し、且つ安土城史の最後を飾る充分な劇的場面となった。
 
この名馬は後に秀吉の乗馬として愛せられ、幾百の山河を跋渉して、文字通り戦場を蹄で蹴散らし幾多の戦功を建てた。
 

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           明智左馬之介の湖水渡り

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          明智左馬之介の湖水渡り

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        武者名馬誉れ之図  明智左馬之介

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         坂本城址 大津市下坂本にて・・・

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          明智左馬之介の到達地点

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       西教寺(大津市坂本5)内には寺宝として
 「明智左馬助光春公寄進の、琵琶湖渡りの鞍」が伝わっている。


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            明智左馬之介光春


国史画帖『大和桜』㊸ 長恨尽きず 本能寺・・

海内平定の大偉業も殆ど完成せんとするに当たり、完璧が禍の元、遂に家来に誅されるに至った信長は、織田家の為悲しむべき事であった。
信長晩年に至り、光秀を猜疑しその領地を召し上げ、中国征伐を命じた。

天正十年1582年)六月二日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長軍を急襲、光秀は中国征伐と称し、一万五千を率い「敵は本能寺にあり」と下知し信長の宿せる本能寺を十重二十重に取り囲んだ。
 
信長は、只ならぬ人馬の響きにガバと床を起き「蘭丸居らぬか、疾(と)くもの見せい」と命ずれば、畏まりましたと縁に出て、ほのぼのと白む空に小手をかざして眺めれば、桔梗の紋の旗印急ぎ「光秀の叛逆と見受けられます」
 
信長は「何、日向とな、一矢報いて腹切ろう、防げ、者共」と自ら敵数名を射斃し、最早これまで自害せんと、奥に入りたる処へ明智方三羽烏の一人、安田作兵衛は障子に写る信長の影を見るや、躍りかからんとする刹那、森蘭丸が長柄の槍をしごき鉄壁も通れと突き出す鋭き槍先に、一度は作兵衛危うしと見えたが、却って蘭丸武運拙く討ち取られ、衆寡(しゅうか)敵せず信長以下は全員自刃した。



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         本能寺の変 森蘭丸と安田作兵衛

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             本能寺の変

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           本能寺 焼討ち之図

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           本能寺 焼討ち之図

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          本能寺 森蘭丸 討死之図

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            本能寺合戦之図

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          本能寺の変  織田信長

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         京都四条、本能寺 夜討ちの図
↑浮田蘭丸永保    ↑安田宅兵衛国朝  ↑大多上総介信長公


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             織田信長

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             本能寺の変 
    ↑明智光秀             ↑森蘭丸    ↑織田信長


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     錦絵に描かれた本能寺の変 (歌川貞秀画・大阪城天守閣蔵)

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当時の本能寺
  

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 本能寺は京都市役所から御池通を隔てゝ南側にある法華宗本門流の大本山






第54話● 松山での空襲のこと・・ 8歳 昭和20年


 昭和19年、小学1年生の時でしたが大東亜戦争の戦局もニューギニア、ソロモン諸島あたりから米軍に反撃され始めた頃ですので国内では平穏そのものでした。
 しかし、昭和20年になってからは、松山にも米機の来襲が本格的な激しさを増しつつあったのです。

 松山への爆撃こそ無かったが、北九州、宇部、広島、呉など工業地帯や軍事施設攻撃への通過点でもあったからです。
 米軍爆撃機が内陸に侵入してくるコースは、紀伊水道、豊後水道が空襲銀座と云われていたほど、頻繁でしたので、敵機の接近ごとに警戒警報、空襲警報の発令は日常茶飯事となっていたのです。

 或る日、空襲警報が鳴って間もなく、西の方から百数十機の中型爆撃機B25、B24が飛来してきたことがある。
 飛行機の型の見分け方は、ポスター等に影絵模様で公表されていたから、爆撃機はボーイング、ダグラス、マクダネルなど、戦闘機はカーチス、グラマン、ロッキード等があり、敵機の型式把握は市民には小学生にまで常識になっていた。


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  北九州方面の爆撃行の帰途か、西方から飛来し豊後水道を南下した


 飛行機の爆音(エンジン音)がし始めて、すぐに防空壕へ避難したが、次々と近づく余りにも多い飛行機の爆音に、その振幅で異様なウナリのような音に変っている。
 窓ガラスからもビビビビ・・・・・と振動音が出ている。


 「一体、何分続くのじゃろう・・・?」と息を殺して、通過するのを待つのみだ。
 ただ、爆音がするだけだったので、子供心に防空壕から何度も空を見上げた。
 目の前が出入り口の、首を出せばすぐ空が見える・・・浅い小さな防空壕だ。


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       防空壕から恐る恐る敵機を見上げていたのです

 ウンカのように、ぶんぶん次から次へ飛んでくるとはこのことだろう。
 城山上空で機体を傾けながら、右旋回している様子が手に取るように解かる。
 低空で悠々と飛んでゆく様は、撃てるものなら撃ってみろ・・・と言わんばかりの堂々たる飛行だ。
 制空権は完全にアメリカの様相で「日本軍機は、一体どうしたんじゃ?」と子供ながらにも思っていた。
 結局、下からの反撃は何もなし。 歯がゆい思いで見上げるだけだ。     
 これらの爆撃機は順に松山上空で、南へ向きを変えて通過しただけであったが、あのような大編隊は映画でも見たことがない。
 米軍機が内陸部に進入するには、豊後水道が飛行コースであったので、おそらく北九州方面工業地帯を爆撃した帰途であったのだろうと思う。

(この日だったのかも知れない)

 防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。

 4月末には,満州にあった第11師団が本土防衛の任務をもって四国に集結,高知市一帯に配備されたが,もはやアメリカ軍の敵ではなく,5月5日には,100機を越えるB-29(?)が松山上空を飛行した(『松山市年表』291頁)が,松山市民は,前日の激しい空襲の残像と相まって,100機以上というこれまで目にしたこともない巨大な重爆撃機の大群が大空に舞う姿を仰ぎ,世紀末的な状況を身を以て経験することとなった。

 


 松山上空を日本の戦闘機が訓練飛行していても、いざ空襲警報が発せられると、何処へともなく姿を消してしまうのが常であった。
 今さっきまで飛行していた友軍機は、一体何処へ行ってしまったのだろう?と不思議に思ったものだ。
 尻尾を巻いて逃げる負け犬のように、子供の僕らにも感じられたものだが、相手に立ち向かって、空中戦でもやって欲しいと願いながら、敵機を見上げていたが、松山では空中戦など全く無かった。
 それほど勇ましい筈の日本軍は、主力は最前線優先で、国内は迫撃能力に貧していたのでしょう。
 
地方都市の松山には、訓練用の旧式飛行機しか配属されていなかったのだろうと思った。
 内陸部への爆撃機侵入銀座の豊後水道で、迎え撃つという軍事力も、又その知恵さえも日本軍部には無かったのだろうか?・・・今考えても疑問でたまらない。



 でも松山で、下から高射砲で撃ったのは数回見たことはある。
 一点の雲も無い日本晴れの日に、偵察機か爆撃機が飛来したとき、防空壕内でドーンドーンという鈍い音を聞いた。
 爆弾が落ちた音と違い、上空から聞こえたようなので、防空壕からおそるおそる首を出して空を見上げた。
 琢町から見ると、城山の上に白い雲のような点が一つ浮いている・・・それが徐々に膨らみ・・・周囲に白い煙の筋が飛び散ってゆく・・・一瞬、落下傘か・・・とも思えた。


 「危ないから、覗いたらいけん!」と浦子が注意をするが、僕は浦子の目を盗んでは、気になる空を見上げていた。
 白い煙は3ケも4ケも浮いていた。砲弾の破片が飛び散ったあとに、白い煙の糸が四方八方に広がってゆく。
 今で言う昼間の花火が、相当な高空で弾けたような眺めだ。


 白い煙とその糸状の煙は西風になびいて、いかにもクラゲが空に浮いているように見えたものだが、敵機を狙って撃っているような射撃ではなく、敵機からは大きく逸れていたのが子供にも確認できた。
 まさに「気休めの自己満足」状況の射撃に見えた。


 (調べてみると昭和20年3月18日だったようだ)の或る晴れたり曇ったりといった天候の日の事であった。
 空襲警報の後、防空壕の中から、やはり気になる空を眺めていた。
 この頃は空襲警報の後、直ぐに敵機の爆音がしてくるのが常であった。


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 複数の戦闘機の爆音がしてきた。
 城山越しに南から、雲間を縫うようにしてグラマン(米、艦載機)10数機が2列編隊で飛来してきたのが見える。
 爆音のウナリが急に変化して、方向を変え始めたのが判る。
 その豆粒のような機体は、上空で左に旋回しながら急降下してきた。
 雲の後ろに太陽があったので、ちょっと眩しかったが、旋回のたびに黒い機体がキラキラ光っていた。
 急降下と同時に編隊を崩し、それぞれがあちこちで機銃掃射をしながら、ぶんぶん飛び回っている。

 浦子の目を盗んでは、防空壕から首を出して見ていたんだろうと思う。
 壕の中に居ても、急降下と上昇を繰り返しているのが、爆音を聞いているだけで解かる。
 今で言う、車がアクセルを吹かしたり緩めたりするような、プロペラの爆音の唸りが断続的に響いてくる。
 黒い機体のグラマンは、主に松山城付近で見え隠れしていたので、堀の内の連隊を中心に機銃を浴びせていたようで、入れ代わり立ち代り執拗な攻撃をかけていた。


 
 3月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。
 ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。



 そんな日だったと思うが、町内の天理教会の前で、機銃掃射の跡が残っているとかの話を聞いたので、警報解除の後に見に行ってみた。
 浦子は「危ないから行ったら駄目!・・・」と言ったが、こっそり見に行った。
 見物の人垣の中、地道道路の石ころが弾けとんだ跡があって、他に何もなかった。
 これが銃弾の跡?・・・という風に感じただけのものだった。






第36話● 松山 城北練兵場のこと・・   7歳 昭和19年


 昭和18年までの城北練兵場は、東は護国神社正面の道路を越えて、更に東に広がり、西は北豫中学校(松山北高校)と松山高等商業学校(松山大学)の東側道路まであり、南側は伊予鉄城北線と接していた。
 城北線と接している部分には、西から東まで大きな櫨の木が植えられ、毎年鈴なりの実を付けていたので、ヒヨドリ等が実をつつきに群れていました。

 練兵場はこの広さで一面の草っ原、それもよく踏み固められて牧場の風情であり、子供らの格好の遊び場所でもあった。
 平日は主に北豫中学校生徒等がグライダーの飛行訓練や、軍事教練の服装(背嚢を背負いゲートルを巻いて木銃を持って)をして、軍服姿の指導官のもと、野原に腹ばいになって訓練をしているのをいつもよく見ていた。


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       ↑ このタイプのグライダーを使用していた

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          松山・護国神社前での突撃演習

 中学生の中に3~4名、小柄な小学生のような学生が混じっていたのが目立ったものだ。

 他にグライダーの教練も、主に北豫中学校の生徒だったと思うが、グライダーの後尾を杭に結び、グライダーの前で二本のロープを20人ほどで引っ張り、その反動で飛び上がるのである。

 ある時、通称赤とんぼと言われていたオレンジ色二枚翼の練習機が、何処からともなく 飛来し練兵場に着陸したことがあった。
 護国神社の前あたりに停止したので、それを見ていた子供たちがいちもくさんに、駆け寄って行ったが、行く途中で機首を西の方へ向け飛び去っていったこともあった。

 城北線の鉄砲町停留所は練兵場南西の端に在った。
 その周辺の練兵場は、こんもりと茂った欅の大木の林があったが、その横に演習用のトーチカ(土塁を盛った陣地)が造られていた。

 トーチカはどちらかと言えば、防空壕のようでもあったが、こんもりと土まんじゅうの様に盛り土され、あちこちに入り口があり、射撃口がある。
 中は迷路のような通路と部屋があり、子供には適当な遊び場所だった。
 当時の練兵場は市民の広場、子供たちの野原というイメージの場所であった。

 然しこの練兵場も、戦争が進展するにつれ、昭和19年になると徐々に変貌していった。
 まず、練兵場西北隅(松山高商東側)に飛行機格納庫が一戸建ち、更に東へ一戸づつ 増えてゆき、護国神社の手前辺りまで、合計四棟の格納庫が並んだ。
 それと相前後して、練兵場の西側および南側には、旧式ではあったが戦闘機や双発爆撃機が10機ほど並べられた。

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 昭和19年夏頃から、飛行機格納庫が建設されていった(松山城北練兵場)

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      1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山市。
      城北練兵場の格納庫4棟跡がはっきり見える。


【今では考えられない景色ですが、空襲があるやも・・との気配が近付く時期に、学校の横、市電線路の横、住宅横のこの広場に、平然と戦闘機、爆撃機を並べている日本軍部の節操の無さ・・・。それにも増して、住民が苦情を申し出る時代でもなかったのです。】

 当時でも、飛行中の飛行機しか見る機会がなかったので、目前で見られる本物の飛行機だけに、いつも気にしてよく見に行ったものです。
 いま考えてみると、整備兵の訓連用教材ではなかったのかと思える。 

 整備兵がトラックでやってきて、エンジンをかけてプロペラは回すが、ここには滑走路は無かったし飛行場の広さでもなかった。
 飛行場はやはり吉田浜(今の松山空港)だったが、訓練用の飛行機が標的にもなるし、置き場所の都合でここへ移動したのだろう。


 時々、頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、濃緑色の整備兵つなぎ服で身を包んだ整備兵一箇連隊が、清水町の方から4列縦隊で、道路をドス声で合唱しながら行進して来て、整備訓練を受けていた。

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松山市清水町方面から(写真は違うが雰囲気はこのまま)
頭の上で耳隠しを結んだ整備兵帽をかぶり、
濃緑色の整備兵つなぎ服で
身を包んだ整備兵一箇連隊が、
軍歌を合唱しながら行く・・

 エンジン始動の場面を数回見たが、当時はスターターなど無くプロペラの先に紐のついた革袋を掛け、二、三名がそれを引っ張ってその反動でプロペラを回していた。
 エンジンがバタバタという初動音を出しながら、周辺に青い煙がたなびいて、プロペラはゆっくりと廻りながら、正常回転に唸りを変えて行くのだ・・・。




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国史画帖『大和桜』㊷ 山内一豊 名馬の誉れ

信長或る日、馬揃え(閲兵式)を催した、その日群臣綺羅星の如く並ぶ中に、ひと際目立って颯爽と現れた武者一騎、栗毛の駿馬に跨り、しかも手綱さばきも鮮やかに、馬術の巧みさ、並居るものは勿論、信長も思わず感嘆の声を放った。
 
「殿御覧遊ばせ、あれは山内一豊で御座ります」驚くも道理、日頃貧乏で良い馬を持たぬ一豊故、今日の馬揃えには仮病を使って、出仕しないだろうと噂されていた矢先である。
 

信長は近くに召し出して、名馬入手の次第を聞けば『先日の馬市にて「武勇で聞こえた織田公の城下で、この逸馬を手に入れる武士は無いのか、噂程でもないな」と嘲笑せられしも、家貧しく蓄財なく憤懣やる方なき折、妻これを聞き入嫁の際、夫の一大事に使えと言い聞かされし金は、鏡の底に有りとのことで取り出し、即刻名馬を手に入れし次第』と語れば、信長「天晴れなる心掛け」と深く一豊夫婦を嘉し幾多の褒美を与え、馬は鏡栗毛と名付けられた。

 
その後、立身出世して遠州掛川の城主となり、妻は後世まで節婦の亀鑑として褒め称えられた。


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           一豊の姿に、信長も思わず感嘆の声を放った

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                      ひと際目立って颯爽と現れた 山内一豊

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           「浮世画類考之内天正三年之頃(山内一豊)」 大判二枚続
(小林清親画 明治18年)山内一豊に名馬を買わせるため持参金を渡す妻


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      本山白雲作の 山内一豊の銅像 (高知城公園)

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      山内一豊と妻の像 (岐阜県郡上八幡城にて)




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