国史画帖『大和桜』㊺ 運拙く哀れ 光秀 の最期・・

山崎大合戦の図

↑明智日向守光秀 ↑美曾尾惣兵衛 ↑武智十郎衛門↑津間木数衛
↑名見川嘉門之介 ↑比企田帯刀








光秀死亡の藪
光秀の行状にて亡着し藪は、南小栗栖法権 壇林の側にありし、藪を傳領したる土民覚わ りとて、今は知るべき附しなかるらん。



【明 智 藪】
【「明智藪」は新小栗栖街道を六地蔵から山科方面へ向かうと存在する】




↑青木勘兵衛↑加藤清正↑糟谷正次↑羽柴秀吉↑蜂須賀彦衛門↑福島正則
松山への爆撃こそ無かったが、北九州、宇部、広島、呉など工業地帯や軍事施設攻撃への通過点でもあったからです。
米軍爆撃機が内陸に侵入してくるコースは、紀伊水道、豊後水道が空襲銀座と云われていたほど、頻繁でしたので、敵機の接近ごとに警戒警報、空襲警報の発令は日常茶飯事となっていたのです。
或る日、空襲警報が鳴って間もなく、西の方から百数十機の中型爆撃機B25、B24が飛来してきたことがある。
飛行機の型の見分け方は、ポスター等に影絵模様で公表されていたから、爆撃機はボーイング、ダグラス、マクダネルなど、戦闘機はカーチス、グラマン、ロッキード等があり、敵機の型式把握は市民には小学生にまで常識になっていた。
飛行機の爆音(エンジン音)がし始めて、すぐに防空壕へ避難したが、次々と近づく余りにも多い飛行機の爆音に、その振幅で異様なウナリのような音に変っている。
窓ガラスからもビビビビ・・・・・と振動音が出ている。
「一体、何分続くのじゃろう・・・?」と息を殺して、通過するのを待つのみだ。
ただ、爆音がするだけだったので、子供心に防空壕から何度も空を見上げた。
目の前が出入り口の、首を出せばすぐ空が見える・・・浅い小さな防空壕だ。
ウンカのように、ぶんぶん次から次へ飛んでくるとはこのことだろう。
城山上空で機体を傾けながら、右旋回している様子が手に取るように解かる。
低空で悠々と飛んでゆく様は、撃てるものなら撃ってみろ・・・と言わんばかりの堂々たる飛行だ。
制空権は完全にアメリカの様相で「日本軍機は、一体どうしたんじゃ?」と子供ながらにも思っていた。
結局、下からの反撃は何もなし。 歯がゆい思いで見上げるだけだ。
これらの爆撃機は順に松山上空で、南へ向きを変えて通過しただけであったが、あのような大編隊は映画でも見たことがない。
米軍機が内陸部に進入するには、豊後水道が飛行コースであったので、おそらく北九州方面工業地帯を爆撃した帰途であったのだろうと思う。
(この日だったのかも知れない)
防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。4月末には,満州にあった第11師団が本土防衛の任務をもって四国に集結,高知市一帯に配備されたが,もはやアメリカ軍の敵ではなく,5月5日には,100機を越えるB-29(?)が松山上空を飛行した(『松山市年表』291頁)が,松山市民は,前日の激しい空襲の残像と相まって,100機以上というこれまで目にしたこともない巨大な重爆撃機の大群が大空に舞う姿を仰ぎ,世紀末的な状況を身を以て経験することとなった。
松山上空を日本の戦闘機が訓練飛行していても、いざ空襲警報が発せられると、何処へともなく姿を消してしまうのが常であった。
今さっきまで飛行していた友軍機は、一体何処へ行ってしまったのだろう?と不思議に思ったものだ。
尻尾を巻いて逃げる負け犬のように、子供の僕らにも感じられたものだが、相手に立ち向かって、空中戦でもやって欲しいと願いながら、敵機を見上げていたが、松山では空中戦など全く無かった。
それほど勇ましい筈の日本軍は、主力は最前線優先で、国内は迫撃能力に貧していたのでしょう。
地方都市の松山には、訓練用の旧式飛行機しか配属されていなかったのだろうと思った。
内陸部への爆撃機侵入銀座の豊後水道で、迎え撃つという軍事力も、又その知恵さえも日本軍部には無かったのだろうか?・・・今考えても疑問でたまらない。
でも松山で、下から高射砲で撃ったのは数回見たことはある。
一点の雲も無い日本晴れの日に、偵察機か爆撃機が飛来したとき、防空壕内でドーンドーンという鈍い音を聞いた。
爆弾が落ちた音と違い、上空から聞こえたようなので、防空壕からおそるおそる首を出して空を見上げた。
琢町から見ると、城山の上に白い雲のような点が一つ浮いている・・・それが徐々に膨らみ・・・周囲に白い煙の筋が飛び散ってゆく・・・一瞬、落下傘か・・・とも思えた。
「危ないから、覗いたらいけん!」と浦子が注意をするが、僕は浦子の目を盗んでは、気になる空を見上げていた。
白い煙は3ケも4ケも浮いていた。砲弾の破片が飛び散ったあとに、白い煙の糸が四方八方に広がってゆく。
今で言う昼間の花火が、相当な高空で弾けたような眺めだ。
白い煙とその糸状の煙は西風になびいて、いかにもクラゲが空に浮いているように見えたものだが、敵機を狙って撃っているような射撃ではなく、敵機からは大きく逸れていたのが子供にも確認できた。
まさに「気休めの自己満足」状況の射撃に見えた。
(調べてみると昭和20年3月18日だったようだ)の或る晴れたり曇ったりといった天候の日の事であった。
空襲警報の後、防空壕の中から、やはり気になる空を眺めていた。
この頃は空襲警報の後、直ぐに敵機の爆音がしてくるのが常であった。
複数の戦闘機の爆音がしてきた。
城山越しに南から、雲間を縫うようにしてグラマン(米、艦載機)10数機が2列編隊で飛来してきたのが見える。
爆音のウナリが急に変化して、方向を変え始めたのが判る。
その豆粒のような機体は、上空で左に旋回しながら急降下してきた。
雲の後ろに太陽があったので、ちょっと眩しかったが、旋回のたびに黒い機体がキラキラ光っていた。
急降下と同時に編隊を崩し、それぞれがあちこちで機銃掃射をしながら、ぶんぶん飛び回っている。
浦子の目を盗んでは、防空壕から首を出して見ていたんだろうと思う。
壕の中に居ても、急降下と上昇を繰り返しているのが、爆音を聞いているだけで解かる。
今で言う、車がアクセルを吹かしたり緩めたりするような、プロペラの爆音の唸りが断続的に響いてくる。
黒い機体のグラマンは、主に松山城付近で見え隠れしていたので、堀の内の連隊を中心に機銃を浴びせていたようで、入れ代わり立ち代り執拗な攻撃をかけていた。
3月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。
そんな日だったと思うが、町内の天理教会の前で、機銃掃射の跡が残っているとかの話を聞いたので、警報解除の後に見に行ってみた。
浦子は「危ないから行ったら駄目!・・・」と言ったが、こっそり見に行った。
見物の人垣の中、地道道路の石ころが弾けとんだ跡があって、他に何もなかった。
これが銃弾の跡?・・・という風に感じただけのものだった。
信長は近くに召し出して、名馬入手の次第を聞けば『先日の馬市にて「武勇で聞こえた織田公の城下で、この逸馬を手に入れる武士は無いのか、噂程でもないな」と嘲笑せられしも、家貧しく蓄財なく憤懣やる方なき折、妻これを聞き入嫁の際、夫の一大事に使えと言い聞かされし金は、鏡の底に有りとのことで取り出し、即刻名馬を手に入れし次第』と語れば、信長「天晴れなる心掛け」と深く一豊夫婦を嘉し幾多の褒美を与え、馬は鏡栗毛と名付けられた。