泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2016年02月

国史画帖『大和桜』㊶ 龍虎相討つ 川中島

永禄四年(1561年)八月、上杉謙信は白布を以って顔を被い、夜明けの濃霧を幸いに、唯一騎信玄と雌雄を決すべく、武田の本陣目がけて躍り込み、速くも信玄の前に現れた。
 
これを見るなり信玄は『下郎、下がれッ』と大喝したが、謙信の眼にもとまらぬ早業に流石の信玄も、刀抜く暇もなく持っていた軍扇でようやく受け止めたが、鋭く斬り込む太刀先に軍扇の柄は斬りおとされ、左肩先を少し切り下げられた。
 
今一打ちと謙信が、二の太刀振り上げた刹那、主君の一大事と家来の原大隅守昌虎馳せ来たって、馬上の謙信の脇腹目がけて繰り出す槍先は、手元狂って謙信の馬を衝く、馬は驚き河中へ躍り込み信玄の危地は一瞬にして救われた。
 
彼の有名な頼山陽の詩「鞭声粛々、夜過河」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)は、この時の有様を詠んだものである。
甲越両軍の干戈(かんか)を交えること九ケ年、十数度の戦いにも常に勝敗決せず、今又、流星光底長蛇を逸したる両雄の心情や如何に。
 
されど常々、信玄は謙信の豪勇を讃え、謙信は信玄の智謀を褒めたが、信玄は喀血の持病持ちでこれが悪化、元亀四年(1573年)三州街道で死去す。
後に信玄の死を聞いた謙信は「我が良き相手を亡くした」と嘆息落胆したとのことである。
 
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    ↑武田信玄     ↑上杉謙信         ↑原 昌虎

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        川中島、武田 上杉両将直戦之図

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          川中島 両将直戦之図
     ↑武田信玄  ↑上杉謙信     ↑山本勘助


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            川中島大合戦之図
   ↑武田信玄     ↑上杉謙信      ↑原 大隅守

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            川中島大合戦之図
   ↑武田信玄     
↑原 大隅守     ↑上杉謙信      
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         信州 川中島 両将直戦之図
  ↑武田信玄      ↑上杉謙信      
 
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       川中島・・武田信玄と上杉謙信の合戦


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       武田信玄公之像


     武田信玄 


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      上杉謙信公之像


     上杉謙信



南沙諸島(スプラトリー)における中国の活動・・防衛省最新版

 南支那海の北部にある西沙諸島(パラセル諸島)、中央部にある中沙諸島、そして遥か南部ボルネオ沖の南沙諸島(スプラトリー諸島)があります。
 これ等の諸島は【ベトナム】【マレーシヤ】【フィリピン】【台湾】【中国】等の所有権争いが続いている中で、中国領としている島嶼は、ここ数年の間に大規模基地化が進められました。
 
 
 西沙諸島の基地化は、相当大規模なものとなっておりますが
、以下、南沙諸島のみではありますが、その実態を見てみましょう。

防衛省版より↓

http://www.mod.go.jp/j/approach/surround/pdf/ch_d-act_20151222.pdf


http://www.mod.go.jp/j/approach/surround/pdf/ch_d-act_20151222e.pdf


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1-1.南シナ海における中国の進出
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1-2.中国の進出に際しての交戦事例
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 【参照】ジョンソン南礁の惨殺 ↓【1988.3.14】
ベトナムが支配していた南沙諸島の、赤瓜礁(ジョンソン南礁)の渚に立って守備するベトナム兵に向かって、中華人民共和国は艦艇から、不意打ちの機銃掃射攻撃をしかけ、ベトナム水兵78名以上が死亡した。 現場実写!
この海賊並みの卑怯な戦闘で、中国は赤瓜礁(ジョンソン南礁)を武力で奪取、中国の占領地として現在に至る。


1-3.最近の中国の軍・海上法執行機関等による活動の事例
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2-1.中国による南沙諸島の占拠状況(埋立前)
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2-2.中国による南沙諸島の占拠状況(埋立後)
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2-3.中国の南シナ海における岩礁埋立動向
1.ジョンソン南礁
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1.ジョンソン南礁
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2.ヒューズ礁
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2.ヒューズ礁
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3.クアテロン礁
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3.クアテロン礁
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4.ガベン礁
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4.ガベン礁
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5.ファイアリークロス礁
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5.ファイアリークロス礁
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6.スビ礁
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6.スビ礁
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7.ミスチーフ礁
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7.ミスチーフ礁
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3-1.中国の埋立の速さ・規模に関する指摘
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3-2.埋立地の「軍事化」等に関する指摘
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4-1.南沙諸島の港湾建設が及ぼしうる影響
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5-1.中国とフィリピン、ベトナム、マレーシアの海上航空戦力比較
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5-2.フィリピン、ベトナム、マレーシア等による開発動向
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5-3.米国等の南シナ海における取組み
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国史画帖『大和桜』㊵ 鬼勘助 最後の大激戦

片目でびっこ乍ら、信玄方にさる者ありと曉名を馳せた山本勘助晴幸は又軍師として智勇兼備の誉れ高く、人呼んで「片目のびっこ勘助」と称し、何時の戦場でも常に功を建てた。   
 
永禄四年1561八月、甲越両軍は川中島(長野市)に対陣し、この時も勘助の献策により西條山(長野市松代町)に自ら兵を率い立て籠もった。
 
然るに未だかって一度も戦機を誤ったことなき勘助、いま暁の深霧を透かして見ればすぐ目の前に上杉の大軍が押し寄せた、南無三失敗ったかと切歯扼腕「それ者共、敵を蹴散らせ」と大音声に呼ばわりながら、自ら大身の槍を提げて当たるを幸い、群がる敵を突き殺し、さながら阿修羅の荒れるがごとく敵十三騎を討ち取り、続く部下も勇将の下に弱卒なしとか、西條山は忽ちに鮮血に染まり、血流れて川をなす一大修羅場と化した。
 
この激戦の真っ最中、上杉方の狼火を合図に敵はサッと引くかと思えば、忽ち現れ敵の銃手隊が整然と進み来たりて一度に火蓋を切った。
 
時既に勘助の馬は斃れ、身には数か所の傷を負ったが、尚も屈せず斃れし馬の横腹に、腰打かけ部下を指揮せしも、遂に武運拙く六十九を一期として自刃した。


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     ↑山本勘助晴幸入道
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          川中島にて勘助討死之図

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           川中島 勘助勇戦図    

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      ↑武田信玄   ↑上杉謙信          ↑山本勘助

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    川中島の戦いで討死する 山本勘助  (月岡芳年画)

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川中島大合戦 山本勘助入道晴行小高き丘に馬蹄をやすむる図 歌川国芳画

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       ↑上杉謙信   ↑武田信玄          ↑山本勘助
川中島大合戦両将勇猛の図



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 山本勘助 像





国史画帖『大和桜』㊴ 鬼神も三舎を避ける 前田犬千代の奮戦

永禄三年(1560年)五月、今川義元駿河、遠江、三河の軍勢四万六千を率い、桶狭間を本陣として先ず織田方の丸根、鷲津の二城を攻め立て、一挙に陥れんとした。
 この時、織田軍に前田犬千代(後に利家と改め、加賀、越前、能登を領し百万石の城主大納言)と云う豪の者があった。
 犬千代は十四才にして小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持っていた。
 
 信長の小姓頭を務めていたが勘気に触れ謹慎中、計らずも今川の大軍が押し寄せるとの報を聞き、この際命を捨て功を立てずんば、何時を期してか赦免されんと密かに丸根城主佐久間大学に従って、性来の豪胆槍を以って、敵軍を一手に引き留めて奮戦した。
 後敵将、朝比奈備中守一万五千余を率い、織田勢大隅守二千余騎の中に真一文字に斬り入って来るのを見た。
 
 二十二才の犬千代、猛虎飛勇の気を振るいて、群がる敵を突きまくり勇気百倍する折から、朝比奈の組下宍戸弥五郎と云う大剛の勇士が、槍引っ提げて犬千代の脇腹目がけて突き来るを一槍で見事討ち取るところへ、今川の将、江間左京正面より、かかるを得たりと身を交わして突き殺し、名だたる敵の騎馬武者十七騎を討って落とし、其余の手負い数知れず。
 
 鬼神の荒れ狂う如き勢いは、遂に織田軍戦勝の因を作り、その血の滴る首級を提げて信長の前面に出で、天晴れな武勲を賞でられ、勘気赦免となったのだ。
 

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          桶狭間 前田犬千代軍功

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           佐枝犬千代合戦の図

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      早枝犬千代と宍戸弥五郎との勇戦高名の図

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        前田犬千代と宍戸弥五郎友辰の決戦


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 信長の面前で、手柄を披露した前田犬千代の姿

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        明治六年(1873)佐々木泉玄筆(個人蔵)

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          江戸時代 十九世紀(個人蔵)

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     江戸時代 元治元年(1864)書(金沢市立玉川図書館蔵)

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              江戸時代 十九世紀 森矢十郎筆(金沢市尾山神社蔵)

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                   江戸時代 十九世紀(金沢市天徳院蔵)

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              江戸時代 慶応四年(1868)高橋式部筆(金沢市尾山神社蔵)

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                江戸時代 嘉永元年(1848)(金沢市尾山神社蔵)

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    「前田利家桶狭間凱旋図」江戸時代 十九世紀 岸良筆(石川県立歴史博物館蔵)


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             前田利家 公像

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             前田利家公之像

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前田利家公之像






国史画帖『大和桜』㊳ 桶狭間の戦いに 今川氏滅ぶ

駿河の驍将(ぎょうしょう)今川義元は、三河、遠江を併せてその勢力東海道を圧し、野心満々として尾張を窺っていた。
 その頃、尾張には年少気鋭の織田信長が志を天下に懐(いだ)き、これまた近国の併呑を画策していたが、その勢力は到底義元に対抗できるものとも思われなかった。
 
 然しあくまで豪胆智勇の信長は今川義元に挑戦することになった。
 義元は大軍を頼んで軍を起こし、その先陣は鷲津、丸根の二砦を陥落せしめ、明日は清洲を陥すべく桶狭間(愛知県豊明市)に陣を進め、早や戦勝の酒宴に酔い警護も怠っていた、処が忽ち起こる吶喊(とっかん)の声、敵の奇襲とは知らず、裏切り者か、喧嘩かと陣中俄かに動揺していった。
 
 義元何事成らんと立ち上がれば、早や織田軍の勇士服部小兵太が、槍をひねって義元に近づき「今川治部大輔殿(じぶだゆうどの)いざ見舞」と呼ばわり、義元の脇腹目がけてざくりと突き、義元急所の負傷も「何を小癪な」と槍を斬り落とす。
 そこへ毛利新助が横合いより組付き、遂に首かき落とし太刀に貫き、信長の前に出て毛利新助が大将の首を討ち取ってござる」と申せば、信長は「天晴れ天晴れ」とその功を賞した。

 尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる日本の歴史上有名な戦いである。
 この戦は織田氏が天下に名を成す動機となったもので、義元の油断が信長をして世に出でしめたのである。
 

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          今川義元 桶狭間大合戦の図

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            桶狭間合戦の図
        ↑毛利新助 ↑今川義元        ↑服部小平太

        

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          桶狭間 今川義元 血戦の図

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           尾州 桶狭間合戦の図

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             桶狭間合戦の図

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             桶狭間の戦い

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         今川治部大輔義元墓(桶狭間)

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            今川義元 佛式の墓

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桶狭弔古碑
 文化6年、津島の神官氷室豊長が建てた記念碑である。
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されている。
書は大阪天満宮の中西融で撰文は尾張儒官秦鼎。
石工は代々襲名している河内屋孫右衛門である。



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