国史画帖『大和桜』㊶ 龍虎相討つ 川中島 ・・
永禄四年(1561年)八月、上杉謙信は白布を以って顔を被い、夜明けの濃霧を幸いに、唯一騎信玄と雌雄を決すべく、武田の本陣目がけて躍り込み、速くも信玄の前に現れた。
これを見るなり信玄は『下郎、下がれッ』と大喝したが、謙信の眼にもとまらぬ早業に流石の信玄も、刀抜く暇もなく持っていた軍扇でようやく受け止めたが、鋭く斬り込む太刀先に軍扇の柄は斬りおとされ、左肩先を少し切り下げられた。
今一打ちと謙信が、二の太刀振り上げた刹那、主君の一大事と家来の原大隅守昌虎馳せ来たって、馬上の謙信の脇腹目がけて繰り出す槍先は、手元狂って謙信の馬を衝く、馬は驚き河中へ躍り込み信玄の危地は一瞬にして救われた。
彼の有名な頼山陽の詩「鞭声粛々、夜過河」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)は、この時の有様を詠んだものである。
甲越両軍の干戈(かんか)を交えること九ケ年、十数度の戦いにも常に勝敗決せず、今又、流星光底長蛇を逸したる両雄の心情や如何に。
されど常々、信玄は謙信の豪勇を讃え、謙信は信玄の智謀を褒めたが、信玄は喀血の持病持ちでこれが悪化、元亀四年(1573年)三州街道で死去す。
後に信玄の死を聞いた謙信は「我が良き相手を亡くした」と嘆息落胆したとのことである。



↑武田信玄 ↑上杉謙信 ↑山本勘助

↑武田信玄 ↑上杉謙信 ↑原 大隅守

↑武田信玄 ↑原 大隅守 ↑上杉謙信

↑武田信玄 ↑上杉謙信



武田信玄公之像
武田信玄


上杉謙信公之像
上杉謙信