泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年11月

国史画帖『大和桜』㉜ 村上四郎義光 錦の御旗を奪還す・・

世が世とは云い乍ら、御身は南朝後醍醐天皇の皇太子におわします護良親王(もりながしんのう)には、村上義光ら僅かに九名の従者を従え給い、山伏姿に身を装い熊野詣でと見せかけ、紀州より熊野を経て吉野へと向かわせ給うた。

 
 御一行は山越え谷渡り飢えを偲び吉野に進まれた時、芋瀬の荘司は護良親王を虜にし奉らんと、要所に関所を設けて待ち受けていた。

 親王は荘司の邸に到り給い大義を説き、関所の通過を懇願せられたが、後日鎌倉方に対して申し開きの為、親王のご家来の内十二人の首を渡されるか、それとも親王の御旗を残して置かれよとの事で、詮方なく御旗を渡されお通りになった。

 

 御一行に遅れた村上義光がこの関所に来ると、錦の御旗を見て怪しみ、その由を尋ねたところ、上述の次第を話したので、村上四郎義光は怒髪天を突き、「この無礼者」と大喝、御旗を奪い取り、驚く関守を蹴飛ばし尻目にかけ無事御一行に追いついた。

 

 この義光は吉野山の蔵王堂に護良親王の御身代わりに成り、宮の鎧直垂れ(みやのよろいしただれ)を着て高櫓に上り、「吾こそは大塔の宮なるぞ」と敵を欺き、腹を十文字に搔き切って自害し、その間に宮を無事落ちさせ申したのである。

 

 国乱れて忠臣出ずるの例え、げに天晴れの武士であった。


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         村上義光 芋瀬錦の御旗を奪還之図

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          村上義光 芋瀬錦の御旗を奪還之図

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            村上義光 錦の御旗を奪還

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           村上義光 錦の御旗を奪還す・・

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             吉野山 村上義光公の墓

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            吉野山 村上義光公の墓





国史画帖『大和桜』㉛ 桜の木に赤誠を記す 忠臣児島高徳・・

 勤王の志、篤き備前児島の住人児島高徳は、畏れ多くも後醍醐天皇が隠岐の島へ遷幸遊ばされるを伝え聞き、一族を率い御鳳輦(ほうれん=天皇の乗り物)を船坂山(岡山県、兵庫県)に迎えて奪い奉らんとしたが、御道順が違い果たされず、杉坂に向かわれしと聞き、急遽杉坂に向かったが杉坂も御通過の後であった。


 そこで高徳は御跡を慕い美作の院ノ庄で、御鳳輦に追いつくことが出来た高徳は、夜に到り天皇を迎え奉らんと蓑笠をまとい行在所に忍び込みしも、御庭の警護が厳重で近づくことも出来ず、御座所の正面の桜の老木を削り、墨痕鮮やかに『天莫空勾践、時非無范蠡』(てんこうせんを、むなしゅうするなかれ、ときにはんれい、なきにしもあらず)と記し、御座所に向かい伏し拝み、落涙しばし名残を惜しんで御庭を出でた高徳の、赤誠が天に通じてか、翌日、後醍醐帝が御覧遊ばされ、龍顔殊に御麗しく叡慮を安んぜられた。


「天莫空勾践 時非無范蠡」
(天、勾践を空
(むな)しゅうする莫(なか)れ、時に范蠡無きにしも非(あら)ず)

この意味は「天よ、越王勾践を空しく見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣がいないとも限 らないのだから。」 (「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳 がいるのだから」)というように解釈している。

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    後醍醐帝を想い、桜の幹に十字の詩を記した児島高徳

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    日本花圖繪 櫻ノ誌児島高徳  尾形月耕画 1895


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    児島備後三郎高徳  鈴木春信画 17621764年頃


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            ↑ 船坂山々中をさまよえる後醍醐天皇・・  
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文部省唱歌 
「児島高徳」
 大正3年(1914)

「 児 島 高 徳 」   文部省唱歌


一、船坂山
(ふなさかやま)や 杉坂すぎさか)
  御
(み)あと慕いて院の庄(いんのしょう)
  微衷
(びちゅう)をいかで 聞こえんと、
  桜の幹に十字の詩。
  『天勾践
(てんこうせん)を空しゅうする莫(なか)れ。
   時に范蠡
(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』

二、     御心
(みこころ)ならぬ  いでましの
  御袖
(みそで)露けき 朝戸出(あさとで)に、
  誦
(ずん)じて笑(え)ます  かしこさよ、
  桜の幹の十字の詩。
  『天勾践を空しゅうする莫れ。
   時に范蠡無きにしも非ず。』



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           船坂山義挙之址の碑
 元弘2年(1332)、後醍醐天皇が北条氏のため、隠岐島に遷された時、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原)に在った児島高徳が、志を同じくする一族と共にこの船坂山の峰に隠れ、待ち構えた義挙の地として知られています。

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          船坂山義挙の碑に付いて



国史画帖『大和桜』㉚ 名和長年 船上山に義兵を挙ぐ・・

天資英邁 ( てんしえいまい )におわす、後醍醐天皇は鎌倉幕府の専横を憂い給い、幕府の政権を取り戻さんと計られし御聖慮も今は空しく、逆臣北条高時の為、隠岐の仮宮に金枝玉葉の畏き(かしこき)御身を、科人(とがにん=罪人)の如く厳めしき監視に護られ、あじきなき日を送り給いしが、御心は片時として王政復古をお忘れになる日とても無かったのである。
 
高時の権政如何に強力なりとは言え、順逆をわきまえざる非理非道は、遂に討幕の声となり勤王の士が諸国より立ち初めだした。
天皇はある夜、密かに隠岐の島より近侍の六條少将忠顕ろくじょうしょうしょうただあき)唯一人をお連れ遊ばされ、元弘の乱により流罪とされていた後醍醐天皇は幽閉先の隠岐を脱出し漁船に乗って、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)にて海運業を営んでいたとされるこの地の豪族名和長年を頼り名和の湊にたどり着かれたのである。
 
元弘3年(1333)長年、長重の兄弟は、一門の名誉として天皇を迎え奉り、船上山に一族郎党を率いて立て籠ったが、兵が少ないので数多の馬を処々の木に繋ぎ、絶えずいななかせ、また白布数百反を以って近郷の豪族の家紋を描き旗幟にし、船上山の処々に立て大軍が籠っているように見せかけ、賊軍佐々木清高の三千騎を見事討ち破り、建武中興の火蓋を切った。
その結果、後醍醐天皇の復権が達成され、鎌倉幕府滅亡の大きな転換点となった。

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 伯耆国名和の湊(鳥取県西伯郡大山町名和)に辿り着かれた後醍醐天皇

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      後醍醐天皇を援護する名和長年と弟の長重

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             後醍醐天皇 

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            船上山屏風岩

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            船上山屏風岩

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           鳥取県 船上山周辺

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             船上山神社

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    船上山神社での後醍醐天皇行宮跡についての説明

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         船上山、後醍醐天皇行宮之碑




国史画帖『大和桜』㉙ 思い出は悲し 笠置山・・

鎌倉時代後期の元弘元年1331)足利尊氏の大軍に追われて、笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)に戦塵を避けさせ給うた後醍醐天皇には、忠臣楠木正成の赤坂の城完成をお待ち給う暇もなく、又もや賊軍陶山、小見山の軍勢の為に、笠置の山の行在所は火焔に包まれ遂に陥落した。
 
天皇は多くの朝臣と共に行宮を逃れさせられしが、風雨激しく道暗く、その上追手の為、次第に別々に成って、今はただ藤原藤房及び季房の兄弟二人をお供に、畏れ多くも、ご徒歩で木の根や岩を踏み越え、雨に濡れ露にしめりつつ三昼夜も落ち延び、井出の里、有王山にお着き遊ばされ、梢を払う松風にしばし松の下陰に御憩い給えば、松の梢からはらはらと心なき雫落ちて御帝の御衣を濡らし奉る。
 後醍醐天皇は
「さして行く笠置の山を出でしより、雨が下には隠れ家もなし」と御感を詠じ給えば、藤房落ちる涙を払いながら
「いかにせん頼む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と奉答申し上げた。
 
 時代とはいえ、御身は畏くも一天万乗の天子におわしながら、玉体を風雨に曝し、つぶさに辛酸をなめさせ給うた御帝の御一代を偲び参らす時、誰か高時尊氏の悪逆非道を慨嘆せざるものがあろうか。
 
 今は昔、笠置の山の老松に心有らば、王政復古し忠君愛国の気迫溢るゝ現代日本の姿を見て、感慨深いものがあろうか。

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     藤原季房と   後醍醐天皇を庇護する藤原藤房

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松の下露跡後醍醐天皇(~1339年)が1331年の元弘の変のさ中、笠置山から金剛山千早城へと逃れる途中、有王のこの松の下で休まれたときお供の藤原藤房とかわされた歌に由来します。
京都府綴喜郡井手町・・交通:JR玉水駅より東へ約5.0キロメートル。徒歩約60分


【太平記】
笠置の城の東西より延焼の火は吹き上がり、消え残った煙など皇居に流れてきたため、天皇をはじめとして、各宮さま方や、公卿、高級官僚など全員が裸足になって、どこへ向かえば良いのか分かずに、ただ足の向くまま落ちて行きました。
これらの人々も初めの一、二町位までは、天皇をお助けしながら、前後にお供をしていました。
しかし、風雨が激しい上、道は暗くて分かりづらく、敵の挙げる閧の声もあちこちから聞こえてくると、次第にバラバラになり、最後にはただ側近の万里小路藤房と弟の季房の二人以外、天皇のお手を引く人もいませんでした。
畏れ多くも十善の天子(天皇)たるお人が、そのお姿を無教養な庶民と間違える位に変えて、どこへ行くのか分からずに、迷い出られたことは嘆かわしく、あきれるばかりです。


何とかして今夜中には、楠木正成がいる赤坂城には着きたいと願ってはいるのですが、天皇にしてみれば慣れない徒歩でもあり、夢路を歩いてるような気がして、一足歩いては休憩し、二歩目には立ち止まる有様です。
昼間は道の傍にある、青く植物などが茂り、こんもりと高くなった場所の陰に隠れ、枯れ草を集めて敷物にして休み、夜になれば人も通らないような野原を、露に濡れながら歩き続け、薄絹の着物の袖も乾くことはありません。
このようにご苦労はありましたが、昼夜三日間歩き続けて、山城国の多賀郡にある有王山の麓まで、落ちて来たのでした。
藤房も季房もこの三日間何も口にしていないので、足はくたびれ身体全体も疲れ果てて、今のこの状態では、どんな目に会おうが、もう逃げる元気もありません。
やむなく静かな谷で岩を枕にして、天皇と臣下兄弟が一緒になって、前後不覚の眠りについたのでした。松を吹き抜ける風が梢を揺らす音に、雨が降ってきたのかと思い、天皇に木陰への避難をお願いしたところ、滴り落ちる露が袖をはらはらと濡らすのを見て、一首お詠みになられました。

      さして行く 笠置の山を 出しより あめが下には 隠家もなし
 藤房は流れる涙を押さえながら、返歌を詠まれました。

      いかにせん 憑む陰とて 立ちよれば 猶袖ぬらす 松の下露


さて、山城国の武将、深須入道と松井蔵人の二人は、この周辺の地理に詳しいので、山々峰々残すところ無く捜索をしたので、天皇一行は発見されてしまいました。
天皇は恐怖に震えながらも、「もし、汝らが思いやりや思慮分別のある人間なら、ここは天皇の恩恵を受けて、自分達の繁栄を期待せよ」と、おっしゃられ、さすがの深須入道もとたんに心変わりしました。
この気の毒な天皇をお隠しし、出来れば兵を募ろうとも考えましたが、もう一人の松井蔵人の真意が分かりません。
秘密が簡単に漏れるかも知れないし、ことが成就するのも難しく思え、そのまま黙ってしまいました。情けない話です。
急なことであり、竹や桧を編んだ物を張った輿も無いので、仕方なく粗末な略式の輿に、手を添えてお乗せし、まず南都の内山にお入りなられました。


国史画帖『大和桜』㉘ 宇治川の先陣 佐々木高綱・・

旭将軍の異名をとった木曽義仲の専横、日々に募り、遂に後白河法皇を幽閉し奉るに至った。
そこで法皇は源 頼朝義仲追討を命ぜられたのである。

頼朝は二人の弟 範頼義経に命じ、兵六万を以って義仲を討つべく、元歴元年1684範頼は三万五千を率い勢田(瀬田)に、義経は二万五千を以って宇治に向かったが、義仲は既にこのこと有るを察し、勢田と宇治の二橋梁を落とし、岸には策を巡らし水中には乱杭、逆木を植え川底に網を張るなど防戦の準備をしていた。
 
義経はこの様を見て士卒に「此の度の合戦に巧名したる者は、一々その名を書き留め鎌倉に注進する、又天晴れこの河を渡る者あらば、敵に射さすな」と命令した。
この時、はや宇治川に馬を躍らせて先陣を競う二騎がある、先頭が梶原景季(かじわらかげすえ)、続くは佐々木高綱で、両名とも頼朝より愛馬をもらい受け出陣し、景季は磨墨(するすみ)に、高綱は池月に、高綱は若しこの合戦に高名が出来ざれば、生きて再び頼朝公にま見えませぬと誓った面目上、是が非でも勝たねばならぬ。
 
そこで高綱、一策を案じ「梶原殿、貴殿の馬の腹帯が緩んでいるようだ」と云ったので、計られたとは知らず腹帯を引き締める間に高綱は追い越し、対岸に跳び上がりざま『佐々木四郎高綱、宇治川の先陣をつかまつった』と名乗りを上げた。


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           佐々木高綱、宇治川先陣の図


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         佐々木高綱と遅れをとった梶原景季


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    『宇治川先陣争図』川底の太綱を切り払いながら進む高綱。

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           伝 佐々木高綱肖像


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