国史画帖『大和桜』㉜ 村上四郎義光 錦の御旗を奪還す・・
世が世とは云い乍ら、御身は南朝後醍醐天皇の皇太子におわします護良親王(もりながしんのう)には、村上義光ら僅かに九名の従者を従え給い、山伏姿に身を装い熊野詣でと見せかけ、紀州より熊野を経て吉野へと向かわせ給うた。
親王は荘司の邸に到り給い大義を説き、関所の通過を懇願せられたが、後日鎌倉方に対して申し開きの為、親王のご家来の内十二人の首を渡されるか、それとも親王の御旗を残して置かれよとの事で、詮方なく御旗を渡されお通りになった。
御一行に遅れた村上義光がこの関所に来ると、錦の御旗を見て怪しみ、その由を尋ねたところ、上述の次第を話したので、村上四郎義光は怒髪天を突き、「この無礼者」と大喝、御旗を奪い取り、驚く関守を蹴飛ばし尻目にかけ無事御一行に追いついた。
この義光は吉野山の蔵王堂に護良親王の御身代わりに成り、宮の鎧直垂れ(みやのよろいしただれ)を着て高櫓に上り、「吾こそは大塔の宮なるぞ」と敵を欺き、腹を十文字に搔き切って自害し、その間に宮を無事落ちさせ申したのである。
国乱れて忠臣出ずるの例え、げに天晴れの武士であった。






