泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年10月

国史画帖『大和桜』㉗ 駄馬を奪って、佐々木高綱は鎌倉に馳せ参ず・・

佐々木高綱は近江の源氏方の侍であったが、源 頼朝が法皇の令旨を受け、従弟の木曽義仲を討つべく兵を挙げたるを聞き、源家の一大事と急遽馬に鞭打ち、鎌倉へ下向の途中、あまりに駆け続けたるため遂に馬は斃れ、夕闇迫る街道筋で途方に暮れていた。

すると一匹の馬を引き来る馬子に会い、天の助けと喜んだ高綱はいきなり「恩賞は何れ凱旋の暁に取らす、拝借致すぞ」と云うや、手綱を奪い取り乗らんとしたが、馬子は必死となり渡そうともせず。

高綱は「源家の一大事、勘弁せよ」と云いざま斬り殺し、一鞭打って鎌倉目指して駆け付けた。
 
頼朝に見参致せば頼朝大いに喜び、「先陣の門出、望みの恩賞取らすぞ」の言葉に高綱は「恐れ入りますがかくかくの次第、馬は駄馬、君が秘蔵の池月(頼朝の愛馬)を拝領仕り、宇治川先陣致したし」と願い出て遂に池月を頂き、天晴れな先陣を果たしたが、片時も哀れな馬子の事を忘れる暇とても無く、凱旋後馬子との約束を果たすべく住居を探し出し、そこの老婆に「高綱の高名は、汝の息子と馬のお陰だ」と深く謝し過分の恩賞を与え、ねんごろにその霊を慰めた。
 

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          佐々木高綱、奪馬下於東国之図


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    高綱「恩賞は何れ凱旋の暁に取らす、拝借致すぞ」と云うや・・・





国史画帖『大和桜』㉖ 国史は輝く元寇の戦い・・

悠久三千年の連綿たる国史は、燦として世界に輝き、大日本の国威は厳として四海に及んでいる。
遠くは彼の文永、弘安の二役に於ける蒙古の来襲の事績を見ても、実に日本精神の面目が躍如たるものがある。

当時支那を併呑し、西部アジアを版図に持ち高麗を従え、遂に神国日本を屈服させるべく、元の忽必烈(クビライ)は使者をして従えと無礼な書面、時の執権時宗は一言の下に撥ねつけた。

そこでクビライは文永11年1274900余艘の水師を遣わし、わが壱岐対馬を侵し進んで筑前博多に迫ったが、畏くも亀山上皇には御身を以って国難に代られんことを祈願遊ばされ、わが軍の少弐、大友、菊池、島津の諸将ら10万を以って防戦し遂に敵を退けた。
 
ところがこの役の翌年、亦も使者5人を遣わし「降伏致さずば攻め滅ぼす」との傲慢無礼な書を見た時宗は憤り、その5人の首を刎ねた。

ここに於いて弘安4年1281再び元軍10万、軍船4千余艘を以って博多に攻めたが、時の鎮西探題北条實政ら大いに防戦し、我が軍軽舟に乗り敵船に乗り込み、遮二無二切り込み、加えるに大暴風雨起こり沈没し、生き残りし者、僅かに3人であったと云う。

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      文永、弘安の役、肥前沿岸で蒙古軍を迎え討つ・・・

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      我が軍軽舟に乗り、敵船に乗り込み対峙した


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御厨海上合戦【弘安の役】敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟


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   鎮西奉行・少弐経資、薩摩守護・島津久経らの兵船。

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           蒙古元のクビライ・カーン

【大蒙古國皇帝奉書】
 天の慈しみを受ける大蒙古国皇帝は、書を日本国王に奉ず。

 朕(クビライ・カーン)が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。
まして我が祖宗(チンギス・カーン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し、遠方の異国にして我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。

 朕が即位した当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので、命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
 高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。

 義は君臣なりというが、その歓びは父子のようである。
 この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。

 高麗は朕の東藩である。

 日本は高麗にごく近い。
 また開国以来、時には中国と通交している。
 だが朕の代に至っていまだ一度も誼みを通じようという使者がない。
 思うに、王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。
 ゆえに特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布告させる。

 願わくはこれ以降、通交を通して誼みを結び、もって互いに親睦を深めたい。
 聖人(皇帝)は四海(天下)をもって家となすものである。

 互いに誼みを通じないというのは、一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。 不宣。

   至元三年八月 日(1266年)

     ・・・宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古國牒状、東大寺尊勝院文書・・・

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           出家後の北条時宗

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             北条氏略系図




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下記コメントに関する参考資料です・・・

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松山市 新田中学校開校記念 昭和14年 新田理事長

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新田長次郎(1857年~1936年)は、温泉郡山西村(現在の松山市)で生まれ、創意と工夫によって機械用革ベルトの試作に成功、「東洋の調革王」といわれるまでになりました。本県では松山高等商業学校(松山商科大学の前身、現在は松山大学)の開校にあたり設備費の全額を寄付したことが知られていますが、北海道では製革に必要なタンニンの原料かしわの樹皮の豊富さに目をつけ、十勝に製渋工場を設立しました。 
 [ マサムネ ]2015/10/22(木) 午後 9:07





国史画帖『大和桜』㉕ 武士の面目躍如たる佐野源右衛門・・

康元元年1256北条時頼は執権職を退き、仏門に帰依して薙髪(ちはつ=髪を剃りおとす)して最明寺(神奈川県大井松田)に入り、諸国を行脚して民情を訪ねた。
 
或る日、上野国佐野の渡しで、夕暮れ吹雪に遭い佐野源左衛門尉常世(さのげんざえもんのじょうつねよ)の詫び住居に一夜の宿を乞うた一僧侶があった。

常世は元立派な武士であったが、一族の者に所領を横領せられて、今は貧しく僅かに糊口をしのぐ哀れな生活をしていたが、相手が人心を済度する出家のこと故、断り切れず快諾した。
そこで夕食には栗飯を馳走したが、暖をとるに薪無く遂に秘愛の松、桜、梅の鉢木を切り取って焚火し、厚くもてなし乍ら指さして『見貧しくとも、今にも鎌倉に一大事あらば、千切れたりともこの具足取って投げ掛け、錆たりともその薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に跨り一番に馳せ参ずる覚悟』と夜を徹して語った。
 
時頼は感服惜しくあたわず、名も告げず厚く礼を述べて鎌倉に帰り、諸国の武士を非常招集した。

常世は言に違わず痩せ馬を引き、具足を着けて第一番に到着して、先の僧侶は鎌倉殿と初めて知り恐縮した。
時頼はこの心掛けに感じて、佐野の本領十余庄と鉢の木に因み加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田の三ケ庄を与えて、あっぱれその気概を激賞した。


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佐野源左衛門の詫び住居に一夜の宿を乞うた一僧侶が時頼だった。

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        吹雪の夕暮れ、時頼は宿を乞うた。


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          執権時代の北条時頼座像

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          仏門に帰依した北条時頼


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          北条時頼の墓(名月院・鎌倉


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北条氏略系図





国史画帖『大和桜』㉔ 朝比奈三郎、怪力を以って城門を破る・・

鎌倉侍所の別当和田左衛門尉義盛(わださえもんのじょうよしもり)の三男義秀は、安房国朝夷郡和田(南房総市和田町)に生い立ち、自ら朝比奈三郎と称し、長ずるに及び鎌倉に出で父と共に将軍源実朝に仕えた。

 
当時北条義時は幼君源 実朝を擁し、独り権勢を弄び、総ての政令を掌握し、専横の振舞い日々に募りゆくを見て、主家のため彼を除かんと一族を集めて討たんとした。
義時大いに恐れ、実朝の名を以って諸将を招集したが、時すでに遅く義盛の兵は幕府に迫り、自ら進みて南大門を一気に打ち破るべく馳せ来たりしが、北条義時は恐れて城門を硬く閉ざして出でず。
 
怪力無双の義秀は、城門の敷石を双手に差し上げ、城門目がけて投げつければ、さしもの城門もメリメリと破られ、得たりとばかりに乱入し、六角の大金棒を水車の如く打ち振り回し、当たるを幸いと薙ぎ倒し、鬼神の如き振舞いに討たるるもの数知れず、目指す敵将北条義時及び足利義氏を散々追いまくり傷を負わせし時、武田信光出で来たる。
「えぃ面倒・・」とばかり、大鉄棒を振り上げれば、信光の子、信忠は歳十三の小童ではあるが「父君危うし」と馳せ来たり義秀に斬りかかる。

義秀は討ち殺さんとしたが、幼年の信忠の孝心を賞でて武士の情けとして見逃した。 

嗚呼、花も実もある武士とは、この義秀のことであろう。


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       朝比奈三郎の怪力、和田の城門を破る・・

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                 朝比奈三郎

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           朝比奈の門破り  勝宮川春章画


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