泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年09月

国史画帖『大和桜』㉓ 斎藤実盛、白髪を染め戦場の花と散る・・

平 維盛(たいらのこれもり)は越中倶利伽羅にて木曽義仲に破れ、加賀の篠原に退き人馬を休めたるが、なお義仲が長期間攻め立てたので総崩れとなり、遂に京に退き揚げた。
 
寿永21183年)の篠原の戦い(加賀国篠原=石川県加賀市旧篠原村)に只一人、敵の大将らしき武者身に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着け、鍬形打ちの兜を脱ぎ、小金作りの太刀をはき、滋籐の弓を持って愛馬を休ませている所へ、義仲の軍にさるものありと云われたる手塚太郎光盛が名乗りをかけた。
するとこの武者「仔細あって名乗らざるも、敵として不足無かろう、いざ参れ」の返事。
 
光盛馬上より斬り込めば、滋籐の弓ではっしと受け、互いに呼吸を計りしその時、光盛の家来飛び来たり、むんずと後ろより組付けば、子供を捻る如く難なく首を刎ねた。
光盛は家来の仇と馬を捨て、むんずと組付き格闘数刻の後、首を搔き切った。
 
光盛は義仲の前に出て、しかじかの次第を物語り、声は坂東らしく敵大将かと思わしく首実検と差し出せば、義仲は思わず「あっ」と叫び「斎藤別当実盛なり・・・」
光盛不思議に思い「実盛は確か七十の坂を越した、白髪の老人と覚ゆ」と訝(いぶか)れば、義仲答えて「実盛は老境に入り戦に臨めば、老人と見られ人に侮りを受けるのも悔しく、髪を染め身も心も壮者の如く戦場に立ちたるならん」と云って実盛の勇を賞揚した。


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       手塚光盛 斎藤実盛 大奮戦の図篠原の戦)


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       手塚光盛             斎藤実盛


 斎藤実盛はかつて幼少の義仲を救った命の恩人で、義仲は実盛の首級と涙の対面をし、懇ろに弔い、その着具であった甲冑を多太神社小松市上本折町)に納めた。
 この甲、大袖、臑当は重要文化財に指定されている。↓


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         斎藤実盛の兜と臑当(すねあて)

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           多太神社小松市上本折町)

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国史画帖『大和桜』㉒ 鬼神にも勝る巴御前の奮戦・・

木曽義仲は京都に破れ、さらに近江国 粟津(現在の滋賀県大津市晴嵐、盛越川ほとり)に追撃せられ、今は主従わずか十三騎、その中の只一騎、緑なす髪に鉢巻きかいがいしく駿馬に跨り、長柄の薙刀抱え込んで従う芙蓉の顔、これぞ木曽義仲が愛妾、巴御前であった。

この時、関東方畠山重忠勢は、今日の手柄に討ち取らんと四方を囲めば、は群がる敵を蹴散らし畠山勢は雪崩を打って逃げた。

関東方に豪勇並び無き重忠は「不甲斐なき者どもよ、女に追い立てられしとは何事ぞ、出でやを生捕りにせん」と馬を走らせ、巴の左手の鎧の袖をむんづと掴めば、は如何に思いけん一鞭当て、馬は信濃第一の逸速、二間余り跳ね飛び鎧の袖が引きちぎれた。
さすがの重忠も感嘆の声をあげ「巴は人にあらず、鬼神の振る舞いぞ」と驚いた。

義仲らは尚も落ち延びれば、力二十人力と云う東海一の豪の者、内田家光を生捕りにせんと駆け寄ったが、により難なく首を掻き取られ、敵は身震いして逃げ去った。

は木曽の住人、中原兼遠の娘で才色兼備、殊に弓矢の道に優れ義仲の最愛の妾であった。


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          巴御前の薙刀での奮戦・・・


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            馬上の巴御前・・・

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             巴御前出陣図

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   「近江粟津原合戦」・・畠山重忠と勇婦巴御前の綿絵


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国史画帖『大和桜』㉑ 木曽義仲、法住寺殿を焼き討つ・・

北陸にて平家を破り、逃げるを追って近江に来たり、旭将軍の異名を挙げた木曽義仲は、後白河法皇(11271192)を奉じ京に入り、源 義朝敗北以来二十三年、再び源氏の白旗が京にひらめいた。
 

京都に入った義仲の軍勢は糧食に窮し、士卒は市中を荒し乱暴狼藉の振舞いをし市民より嫌われ、義仲も田舎育ちのこととて朝廷の礼儀作法にも通ぜず、公家等には嫌われるに至り、平家を京より追出した功を誇り、専横の行いが多くなったので、法皇はその頃勢力の在った延暦寺、円城寺の僧兵を召され、尚近畿の兵を募らせ給うたところ二万余騎に達し、義仲を京都より追出さんと平知康を大将として法住寺殿に拠った。

 
寿永21184義仲は、畏れ多くも法皇の御所法住寺殿を襲い四方へ火を放った。

折からの激しい強風に火焔は八方に飛び、紅蓮の焔は天を焦がし地を焼き、法皇は車に召され火を避けられしも、途中にて義仲の為、五條の内裏へ遷され給い、又天台座主明雲大僧正、三井寺円慧法親皇以下多くが射殺されたが、この如き人臣の道を弁えない義仲は後、遂に頼朝に滅ぼされた。

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     義仲は法皇の御所法住寺殿を襲い四方へ火を放った。

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激しい強風に火炎は八方に飛び、紅蓮の炎は天を焦がす法住寺・・

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        京都・法住寺殿蓮華王院(三十三間堂を基準として)

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           法住寺殿・・東方からの鳥瞰

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国史画帖『大和桜』⑳ 不忠の臣、平 清盛の最期・・

忠臣にして孝子の重盛が、父清盛に先んじて治承三年(1179)に胃潰瘍でこの世を去ったことは、平家の為悲しむべき運命であった。
 
重盛亡き後の清盛の専横振りは日に募り、遂に後白河法皇を鳥羽院に幽閉し奉るに至ったので、民心は次第に平家を憎むようになった。
この時、源頼朝が兵を挙げ関東一帯は忽ち源氏に加わり、侮りがたい勢力となるや、清盛は孫の維盛(これもり)を大将として頼朝を討つべく関東に大軍を差し向けた。
 
頼朝もまた大軍を率いて駿河の富士川に対陣したが、真夜中一度に飛び立った数多の水鳥の羽音に源氏の来襲とばかり、一戦も交えず逃げ帰った。
この敗報を聞きたる清盛大いに怒り頼朝を討つべく準備中に、世にも不思議な熱病にかかり狂いに狂い悶絶した。
 
伝うるに、清盛発熱するや体内火の如く熱く、うがいの水も忽ち湯となり、病床に近付けば四、五間先より熱さを感じ、清盛の為恨み死にしたる者の亡霊に悩まされ、眠ることも出来ず、その呻き声が門外にまで聞こえ、「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、九条河原口の屋敷で遂に養和元年1181悶死したと云う。  
 
不忠の臣、清盛の死も因果応報と云うべきであろう。 
(川柳)・・「清盛の医者は裸で脈を取り」
 


●「平家物語」序文
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)を表す。
奢れる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。


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           平 清盛、怨霊に悩む

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                        平 清盛は怨霊に苛まれ悶死した・・

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     歌川広重作 「平清盛福原にて怪異を見る図」

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      豊原国周作 「清盛入道布引の滝遊覧の図」



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