国史画帖『大和桜』㉓ 斎藤実盛、白髪を染め戦場の花と散る・・
平 維盛(たいらのこれもり)は越中倶利伽羅にて木曽義仲に破れ、加賀の篠原に退き人馬を休めたるが、なお義仲が長期間攻め立てたので総崩れとなり、遂に京に退き揚げた。
寿永2年(1183年)の篠原の戦い(加賀国篠原=石川県加賀市旧篠原村)に只一人、敵の大将らしき武者身に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着け、鍬形打ちの兜を脱ぎ、小金作りの太刀をはき、滋籐の弓を持って愛馬を休ませている所へ、義仲の軍にさるものありと云われたる手塚太郎光盛が名乗りをかけた。
するとこの武者「仔細あって名乗らざるも、敵として不足無かろう、いざ参れ」の返事。
光盛馬上より斬り込めば、滋籐の弓ではっしと受け、互いに呼吸を計りしその時、光盛の家来飛び来たり、むんずと後ろより組付けば、子供を捻る如く難なく首を刎ねた。
光盛は家来の仇と馬を捨て、むんずと組付き格闘数刻の後、首を搔き切った。
光盛は義仲の前に出て、しかじかの次第を物語り、声は坂東らしく敵大将かと思わしく首実検と差し出せば、義仲は思わず「あっ」と叫び「斎藤別当実盛なり・・・」
光盛不思議に思い「実盛は確か七十の坂を越した、白髪の老人と覚ゆ」と訝(いぶか)れば、義仲答えて「実盛は老境に入り戦に臨めば、老人と見られ人に侮りを受けるのも悔しく、髪を染め身も心も壮者の如く戦場に立ちたるならん」と云って実盛の勇を賞揚した。


斎藤実盛はかつて幼少の義仲を救った命の恩人で、義仲は実盛の首級と涙の対面をし、懇ろに弔い、その着具であった甲冑を多太神社(小松市上本折町)に納めた。
この甲、大袖、臑当は重要文化財に指定されている。↓



