国史画帖『大和桜』⑲ 孝子重盛、父清盛の不忠を諫める・・
平家一門の専横が、日に月に募りゆくを憂いた藤原成親らは、治承元年(1177)愈々党を結んで平氏殲滅の計画を立てるに至ったが、事前に発覚して成親等は捕えられた。
清盛の思えらく、今度の事件の源泉はむしろ「後白河法皇の聖慮に基づくものとなし、畏くも法皇を幽閉し奉らん」と、密かに一族郎党を平家の一大事と偽り己の邸に集めた。
清盛の長男重盛は平服のまま遅れて参集したので、その弟宗盛は「何故お家の一大事に甲冑を召されざるや」と詰問したが、重盛は却って他の者の武装せるを甚だ訝しいことであると言って戒め、進んで父清盛の前ににじり寄った。
さすが非道の清盛も、この凛然として犯すべからざる重盛の態度と清節とに気おくれを感じ、自ら法衣を以って鎧を覆い隠しながら重盛を迎えた。
重盛は、この場の甚だ不穏当なるを説き、所謂忠孝両道を全うせん為、先ず重盛の首を刎ね給えと声涙をもって父を諌めた。
茲に於いて、臣としてあるまじき大逆を敢えてせんとした清盛は、今一歩のところで危うく思い止まり、天晴な重盛の忠孝両道は後世まで賞賛せられている。


