泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年07月

国史画帖『大和桜』・・⑭ 鵯越えの嶮を越え義経の奇襲・・

平家は都を落ち摂津の一ノ谷の嶮岨に籠った。
寿永3年(1184)2月、頼朝の命を受けた義経は、一隊を土肥実平に授け一ノ谷に向かわせ、自らは残りの兵を率いて鵯越より奇襲すべく、一ノ谷の裏山伝いに鵯越に向かったが、山険しく人馬共に大いに悩まされた。

そこで義経は弁慶にこの山の道案内者を探し出せよと命じたところ、ようやく谷間の一軒のあばら屋を見出し、この山の道案内を頼んだところ、快く引き受けてくれた。
これが鷲尾三郎経春でようやく鵯越絶頂に着いた。
下を見下ろせば今しも西南の門では、敵味方入り乱れて大激戦の様がありありと見える。

義経は道案内者に向かって
『屏風を立てた如きこの断崖を、人馬が通るか』との問いに、
『人馬は通りませぬが、たまに鹿が通ります』との答えに、
義経は『鹿は四足、馬も四足、鹿が通って馬が通れぬ筈がない』と大胆にも義経、左右を振り向き『吾に続け』と一鞭当て降りれば、一同続いて一ノ谷を攻め火を放った。


敵はこの不意の襲撃に狼狽し、一溜りもなく敗れ、海路で屋島へとまた落ちのびた。

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一ノ谷大合戦・・鷲尾三郎案内して、鵯越の裏手を越える義経の図
 
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          神戸須磨・一の谷合戦図

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          神戸須磨・一の谷合戦図


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         神戸須磨・・・一の谷の風光

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神戸電鉄の「鵯越駅」周辺では、沿線から見上げると、飄々と赤松の生えた六甲の嶮しい峯の稜線が、電車内から見えていました。


「いくさに敗れた、平 敦盛の哀れ」を、哀愁こめて唄われた歌で、
小学校3年生の時、教わりました。

小学唱歌 「青葉の笛」

一の谷のいくさ破れ  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁寒き須磨の嵐に  聞こえしはこれか 青葉の笛 ♫

更くる夜半(よわ)に門(かど)を叩き わが師に託せし言の葉あわれ
忌(いまわ)の際まで持ちし箙(えびら)に 
残れるは「花や今宵」の歌 ♫

(箙(えびら)=矢を入れて身に付ける道具)

 「青葉の笛」を聞く・・     歌・倍賞千恵子

「青葉の笛」を聞く・・https://www.youtube.com/watch?v=q8zBc9cJOok

平 敦盛(たいらあつもり・平清盛の甥)
笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦に参加。
源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。
敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。
直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。


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平敦盛と追う熊谷直実
「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。
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平氏略系図         熊谷氏略系図

国史画帖『大和桜』・・⑬ 鴨川の水音よりも高い弁慶と牛若丸・・

京の五條の橋に、毎夜雲突くばかりの大入道が現われ、何の遺恨か武士とみれば刀を取り上げ、拒めば切り捨てるとの風評が京童の口に伝えられ、昼の雑踏に比べ夜は森閑として誰一人として通行する者も無い。

大入道は今宵も忽然と姿を現し、鴨の流れに映る十五夜の月を、欄干にもたれて眺めている折、黒塗りの下駄を履いた稚児姿の少年が、笛を吹きながら橋に差しかかり、入道が立てかけた薙刀を蹴飛ばした。
これを見た入道烈火の如く憤り、薙刀を取って斬りかかれば、少年は飛鳥の如き早業をもって遂に入道を降伏せしめた。

そこで入道恐れ入って『ご高名承りたし、吾こそは武蔵坊弁慶と申す荒法師なり、心願有りて千振りの太刀を手に入れんと毎晩ここに現われ、今宵は満願に当たり、今一口のところでこの不覚』と両手をつき平服せば、少年は『われは左馬頭義朝(さまのかみよしとも)の九男牛若丸ぞ』と名乗る。

弁慶驚き且つ悦び牛若丸(後の義経)と主従の誓いを立て、以後蔭の形に添う如く献身義経の為に仕えた。

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 五條橋義経と弁慶之図 (牛若丸は跳び上がりざま、弁慶目がけて扇を投擲した)
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         五條大橋上の御曹司牛若丸と武蔵坊弁慶 

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        弁慶と牛若丸    歌川国貞画

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   程義経恋源一代鏡  弁慶  牛若丸   歌川国芳画

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        五條大橋の牛若丸と弁慶    歌川国芳画


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国史画帖『大和桜』・・曽我兄弟、富士の裾野に父の仇を討つ・・

我が国固有の敵討ちは、畢竟 忠臣孝子の殉情的精神の発露であり、仇討ちの最初が曽我兄弟の父、河津三郎祐泰が親戚工藤家の所領争いの事から伯父工藤祐経(くどうすけつね)に殺された。

この時河津祐泰遺子、兄十郎祐成(すけなり)、弟五郎時致(ときむね)の五歳と三歳があったが、間もなく母の里、曽我祐信の下に引き取られ初めて曽我の性を名乗り幼少より母から父の仇を討てとこんこん聞かされ、爾来十八年間、父の仇を討つべく武を練り機を窺っていた。


建久四年五月(1193)、頼朝が富士の巻狩りを催し、工藤祐経も来ていると聞き、この機を逸してはと兄弟が母に暇乞いをなし、兄は千鳥、弟は蝶の小袖を授けられ、喜び勇んで五月雨降る夜、松明片手に工藤が寝所に忍び入り、祐経の枕を蹴って目を覚まさせ、左右より斬り付けめでたく本懐を遂げたが、この騒ぎに陣屋は忽ち、それ狼藉者召し捕れと兄弟に斬りかかり、兄十郎は仁田四郎と戦い殺され、弟五郎は五郎丸に殺された。
時に十郎祐成二十二歳、弟五郎時致二十歳であった。


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    曽我兄弟復讐の図  曽我十郎祐成 曽我五郎時致

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愛媛県内子町大瀬に在る曽我十郎、五郎の首塚・・・http://iyokannet.jp/corporate/spot/detail/place_id/1576/

曽我十郎、五郎の首塚へ・・・http://angelcymeeke.web.fc2.com/mizunasi/a_5.html

愛媛県内子町の人里離れた豊かな山々の中で、今も地域の
人達に祀られている曽我十郎・五郎の首塚。この曽我十郎・
五郎兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとしても有名。
幼い時に父親を討たれ、その仇を討つため二人だけで仇で
ある工藤祐経の御陣へ忍び込み見事仇をとったが、その直後
多くの家来に囲まれ勇敢に戦ったが討死した。

その後曽我十郎の家来だった鬼王が主人の首を故郷へ持ち
帰ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時に海がしけていたため
上灘に漂着し、中山町を通り乙成に辿り着いたところで主人
の首が痛み初めたためこの地へ埋めたと言われている。
この首塚は現在地域の文化遺産とされている。
 
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         曽我十郎(兄)の首塚。

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曽我五郎(弟)の首塚。
    
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 内子町大瀬乙成に伝わる曽我伝説


 幼い時(兄5才弟3才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎

兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。
 領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が

満22才になった1193年富士の裾野で巻き狩りをする御陣へニ人だけで
忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事ができた。


 しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。
 曽戎十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り

弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘(双海町)に漂着し

中山町、程内を通って乙成(此処椎ノ木駄場)まで来た。
 しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事を

あきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。
 塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」裏には「建久四年癸丑五月二十八日

於富士野御狩場殺父之敵工藤祐成経于時以公命仁田四郎忠常討つ之臣
宇和島産鬼王者持帰其首埋于此」と記されている。


 乙成地区住民は先祖よりこの曽我十郎神社をお祀りし地域の文化遺産と

して守っている。
 また首塚という事で首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、
信者も多くそのお礼に小さな鳥居が多数奉納されている。

平成四年四月吉日          乙成地区 曽我十郎神社を守る会

「思いきや有りしむかしは白雲の かかる山路に跡をとめむとは」

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国史画帖『大和桜』・・ 仁田四郎忠常の高名・・

源頼朝は、鎌倉幕府を開いて武家政治六百年の基礎を作った英雄だけに、その識見は頗る高かった。
先ず地方の政治に意を注ぎ、京都の華奢な風俗に対し、地方的質実剛健な制度を建て、遊戯、娯楽に至るまで、武芸胆力を練る勇壮なものを奨励した。

建久四年五月(1193)、源頼朝は将士を率いて、富士の裾野に於いて大巻狩りを催した或る日、幾年経たとも知れぬ大猪が一頭手負いのまま駆り出されて、山下目がけて牙をむき、砂塵を巻き上げ地を鳴らしながら突進してきた。

さすがの血気にはやる関東武士も、この凄い勢いに呑まれアレヨアレヨと立騒ぎ、早二三人は哀れ牙にかけられた折、豪胆をもって音に聞こえた仁田四郎忠常(にったしろうただつね)馬に乗って現われ『ヤァ 不甲斐無きかな、おのおの方』と呼ばり、一鞭当てて駆け寄り、すれ違いざまにひらりと後ろ向きに飛び移り尻尾を握った。

猪は更に驚き、死にもの狂いに暴れ頼朝公の面前近くに来るや、忠常は腰の一刀を引き抜き、柄も通れと胴中に突き立て遂に刺し斃した。
其の見事な離れ業に、頼朝思わず扇を打ち振り『出かしたりや四郎』と褒めそやせば、居並ぶ者ワァーと歓声をあげて四郎の勇気をたたえた。


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           頼朝の前で仁田四郎忠常の高名

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  仁田四郎忠常は、すれ違いざま後ろ向きに猪に跳び移った


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        頼朝思わず扇を打ち振り『出かしたりや四郎』と・・・





国史画帖『大和桜』・・ 源 頼朝 蛭ケ島に旗揚げ・・

平治の乱に父義朝は誅せられ、危うく一死を免れた頼朝は、年歯十四歳で伊豆の蛭ケ島(現在=静岡県伊豆の国市)に流されて、あじきなき世を流浪の子として送り、寂しい生活をしていたが、月日は夢の如く流れて、伊豆にあること約二十年、治承四年(1180)頼朝三十四歳の時、高倉天皇の皇子以仁王は平家討伐の令旨を頼朝に下された。

頼朝大いに喜び、かねて志を通じていた頼朝在島の監視役、北条時政に意中を打ち明け、いよいよ平家討伐の兵を揚げることになった。
折しも文覚上人訪れきったって、後白河院の院宣を下達したので、頼朝はいたく感激して諸国の源氏を集め勤王の武士を誘うて、先ず平家の一族八牧和泉守兼隆の館を襲った。

この挙兵こそ源氏浮沈の定まる戦いであったが、見事に砦を抜き兼隆の首を挙げた。
春風秋雨二十星霜の忍苦は茲に報われ、頼朝は六十余州日本総追補使に任ぜられ、建久三年(1192)幕府を鎌倉に設け、武家政治の始祖として天下に号令し、源氏の黄金時代を現出せしめたのである。


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          源 頼朝 初陣の図


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