泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2015年03月

日本統治時代の台湾・・⑧ 高砂族の集落・・絵葉書

明治27年(1894)、清朝は我が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895417日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
 これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。

【高砂族】
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。
人口は約50万人。
清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)64日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。
当時、学者の調査によると、衣装、風習、言葉、骨相などから16種族がそれぞれ分散集落をつくり、混在していたとのこと。

【生蕃せいばん】・・・言葉の違いなどで、中央の教化に従わない原住の人々。 第二次大戦前の日本統治時代、台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかったものをさして用いた言葉。
 
【蕃社ばんしゃ】・・日本統治時代、台湾の先住民族(高砂族)の集落や集団に対する呼称。



        [台北]ー[基隆]
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       [台中]ーー[日月潭]ーー[タロコ峡谷]
       [南投]
                     [嘉義]ーー[阿里山]ー[新高山]
[澎湖島] ーー [台南]
  
ホウコトウ    [高雄]ー[屏東]
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日本の財を注ぎ、新領土「台湾建設」に携わった多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。

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台湾・高砂族・・    タイヤル族クラス蕃屋

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台湾・高砂族・・   タイヤル族 屈尺蕃の蕃社

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台湾・高砂族・・  大甲渓上流のシカヤウ集落

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台湾・高砂族・・      リヨヘン蕃社

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台湾・高砂族・・  璞石閣高山蕃ブブヌル社(集落)

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台湾・高砂族・・       蕃 屋 風 景

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台湾・高砂族・・   日月潭湖畔の石印化蕃部落

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台湾・高砂族・・    タバホ社蕃人の住屋

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台湾・高砂族・・   カンタバン族 家屋

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台湾・高砂族・・   ガオガン蕃地のタイヤカン蕃人

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台湾・高砂族・・  ツォウ族タバン社蕃人と住家

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台湾・高砂族・・   屈尺蕃ウライ社蕃人と家屋

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台湾・高砂族・・   濁水渓流に架せる渾橋の光景
・      太い竹竿をつなぎ、組み合わせて作った吊り橋

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台湾・高砂族・・  リモカン吊橋と通行人の賑わい

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台湾・高砂族・・↑台湾土人の家鴨飼育  ↑台湾の駕籠(かご)

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台湾・高砂族・・日月潭湖上の竹筏生活と辰ノ口付近の風景




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日本統治時代の台湾・・⑦ 高砂族のスナップ・・絵葉書

明治27年(1894)、清朝は我が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895417日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
 これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。

【高砂族】
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。
人口は約50万人。
清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)64日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。
当時、学者の調査によると、衣装、風習、言葉、骨相などから16種族がそれぞれ分散集落をつくり、混在していたとのこと。

【生蕃せいばん】・・・言葉の違いなどで、中央の教化に従わない原住の人々。 第二次大戦前の日本統治時代、台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかったものをさして用いた言葉。
 
【蕃社ばんしゃ】・・日本統治時代、台湾の先住民族(高砂族)の集落や集団に対する呼称。



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                     [嘉義]ーー[阿里山]ー[新高山]
[澎湖島] ーー [台南]
  
ホウコトウ    [高雄]ー[屏東]
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日本の財を注ぎ、新領土「台湾建設」に携わった多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。

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台湾・高砂族・・   生藩人頭目(酋長)の礼装

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台湾・高砂族・・     盛 装 の 蕃 娘
蕃人の娘は貝殻や象牙、金属をもって頭から耳、首、肩から手などあらゆる部分を飾り付ける。それは実に絢爛美麗である。
こうした装身具の中には台湾人や支那人から奪ったもの、または交換したものがある。

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台湾・高砂族・・    盛装せるアミ族男女

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台湾・高砂族・・   桃園庁ガオガン藩人の婦人

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台湾・高砂族・・     タイヤル族の美人

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台湾・高砂族・・      プヌン族男女

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台湾・高砂族・・     台 湾 蕃 人
        (台湾総督府施政10年記念)1905年

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台湾・高砂族・・     タイヤル族の婦人

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台湾・高砂族・・     タロコ族の美人

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台湾・高砂族・・     タイヤル族の

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台湾・高砂族・・     台湾美人の姉妹

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台湾・高砂族・・   狩猟用武装のガオガン蕃人

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台湾・高砂族・・      タイヤル族男女

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台湾・高砂族・・↑パイワン族蕃人の盛装  ↑水牛の耕作

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台湾・高砂族・・      生蕃人の夫婦

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台湾・高砂族・・    気持ちよくくつろぐ蕃人
蕃人にも、言うに言われぬやさしい気持ちを持っております。
この顔によくそれが表れております。




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日本統治時代の台湾・・⑥ 高砂族の日常風景・・絵葉書

明治27年(1894)、清朝は我が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895417日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
 これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。

【高砂族】
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。
人口は約50万人。
清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)64日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。
当時、学者の調査によると、衣装、風習、言葉、骨相などから16種族がそれぞれ分散集落をつくり、混在していたとのこと。

【生蕃せいばん】・・・言葉の違いなどで、中央の教化に従わない原住の人々。 第二次大戦前の日本統治時代、台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかったものをさして用いた言葉。
 
【蕃社ばんしゃ】・・日本統治時代、台湾の先住民族(高砂族)の集落や集団に対する呼称。



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日本の財を注ぎ、新領土「台湾建設」に携わった多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。

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台湾・高砂族・・     蕃人の食事風景

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台湾・高砂族・・    パイワン族の一家団欒

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台湾・高砂族・・     タイヤル族の遊戯

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台湾・高砂族・・    アミ族蕃婦の用水運搬

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台湾・高砂族・・    高砂族の杵つき(脱穀)

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台湾・高砂族・・     蕃人の水田耕作(田の草取り)
狩猟を事としていた彼らも、今日では立派な水田を耕作するようになりました。

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台湾・高砂族・・   高砂族の水田草取りと稲刈り

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台湾・高砂族・・    タイヤル族の 粟搗 

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台湾・高砂族・・    ツオウ族蕃人の祈祷

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台湾・高砂族・・      家鴨の飼育

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台湾・高砂族・・   パイナップル畑と高砂族農夫

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台湾・高砂族・・     角板山蕃人の機織

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台湾・高砂族・・       蕃婦の機織

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台湾・高砂族・・      蕃婦の機織

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台湾・高砂族・・     丹大蕃の露営(野宿)

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台湾・高砂族・・    日月潭化蕃の由来と美人

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台湾・高砂族・・     日月潭湖畔の杵唄

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台湾・高砂族・・     日月潭の丸木舟

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台湾・高砂族・・    日月潭蕃人と丸木舟

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台湾・高砂族・・   日月潭の独木舟(丸木舟)

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台湾・高砂族・・ 化蕃の独木舟こぎと水社付近の風景




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日本統治時代の台湾・・⑤ 原住民・高砂族・・絵葉書

明治27年(1894)、清朝が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895417日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
 これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。

【高砂族】
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。
人口は約50万人。
清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)64日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。
当時、学者の調査によると、衣装、風習、言葉、骨相などから16種族がそれぞれ分散集落をつくり、混在していたとのこと。

【生蕃せいばん】・・・言葉の違いなどで、中央の教化に従わない原住の人々。 第二次大戦前の日本統治時代、台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかったものをさして用いた言葉。
 
【蕃社ばんしゃ】・・日本統治時代、台湾の先住民族(高砂族)の集落や集団に対する呼称。



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[澎湖島] ーー [台南]
  
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日本の財を注ぎ、新領土「台湾建設」に携わった多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。

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台湾・高砂族・・   猟犬を連れて青年の狩猟

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台湾・高砂族・・    高砂族 青年男女の踊り
       現代人と見違えるような表情の美男美女だ。

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台湾・高砂族・・     高砂族青年の踊り

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台湾・高砂族・・     銃を持つ生蕃の休憩

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台湾・高砂族・・      マリコワン蕃人

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台湾・高砂族・・    ガオガン蕃人の練武

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台湾・高砂族・・       生蕃一族集合

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台湾・高砂族・・       踊る高砂族

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台湾・高砂族・・       キンロウ社蕃人

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台湾・高砂族・・     生蕃人の集合

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台湾・高砂族・・       生蕃の踊り

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台湾・高砂族・・     腰掛ける生蕃

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台湾・高砂族・・   タイヤル族生蕃の女性たち

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台湾・高砂族・・     パイワン族の家族

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台湾・高砂族・・      立鷹の蕃人たち

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台湾・高砂族・・       ヤミ族の男女

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台湾・高砂族・・  ヤミ族蕃人と刳船(くりぶね=丸木舟)

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台湾・高砂族・・   日月潭湖畔、石印化蕃美人と杵

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台湾・高砂族・・    日月潭情緒・・ 杵の音

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台湾・高砂族・・      高砂族の演劇会


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●「尖閣群島」表示の中国発行(1969)地図・・・

 それは日本呼称の「尖閣群島」の表示であり、釣魚島ではなく日本呼称の「魚釣島」表示の地図を、毛沢東政権下の1969年に中国国土地理院にて発行しておりました。
つまり、1969年までは日本領土として認めていたのです。

1969年(昭和44年)5月に国連アジア極東経済委員会が発表した「東シナ海の海底調査」により日台周辺は「世界的な産油地域になるであろう」と石油資源が眠る可能性を示した。 これを契機として・・

1971年6月11日・・台湾が尖閣領有権を主張
1971年12月30日・中国も尖閣領有権を主張するに至ったのです。

これが「日中領土問題」発生と「釣魚島
(チョウギョトウ)」呼称の事始めなのですね。
兎に角、中国は大国なんて名ばかり・・いつの世も「相手に隙あれば・・掠め取る」主義の卑怯で根性の汚い国なのです。

 日本のメディアは「週刊新潮」3月5日号しか取り上げていませんが、見開き2頁だけで写真も小さく、確認不十分なため、拡大して取り上げました。

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           1967年發行の米軍地図
    日本呼称で尖閣群島表示、魚釣島表示  (Jap.)の領土表示

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1969年中華人民共和國國家測量総局發行地図・尖閣群島表示、魚釣島表示
              日本呼称表示

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   尖閣群島・魚釣島と日本呼称で発行している(中国国土地理院発行)
                ↓         
【見開きの2頁記事】
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週刊新潮・・2015年3月5日号

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週刊新潮・・3月5日号

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    1969年に中華人民共和国・国家測絵総局発行の原本
    毛沢東語録つまり説明注釈付きです。


  これも中国版地図関連資料(呼称表示に注意)
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  1958年11月 北京地圖出版社編輯部編地圖「日本之部」に
  魚釣島表示、日本領土の內、尖閣群島表示


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      1960年代の中国海図 尖閣群島表示、魚釣島表示

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  この中国地図から「尖閣群島」(日本名呼称)の文字が消去された。
1972年北京地圖出版社發行、福建省台湾省政區地図中,台湾右上の1、2の数字。  地図左下欄外に小字で説明・・1、釣魚島 2、赤尾嶼。



【参考】外務省↓

日本の領土をめぐる情勢・・http://www.mofa.go.jp/mofaj/territory/index.html


【参考】中国主張↓(明時代に島を見て航海したという記録がある・・)

釣魚島はなぜ中国固有の領土なのか・・http://www.peopleschina.com/zhuanti/2012-09/11/content_481680.htm


【参考】↓ (日本領土と認められる証拠の数々)

尖閣諸島・・改ざんされる尖閣地図・・外務省の怠慢!・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/30004744.html

尖閣諸島・・放置するから付け込まれる・・政府の怠慢!・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29993078.html


【後日補足】
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2015・3・16読売夕刊記事・・中国政府地図に「尖閣群島」表示

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2015・3・18 読売朝刊4面↑中国政府発行のこの一枚が重要証拠だ!
(ある訳けないのに、1000枚でも探し出せると、子供並みの強がりです)




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日本統治時代の台湾・・④ 基隆港(キールン)の風光・・絵葉書

明治27年(1894)、清朝が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895417日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
 これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。
 
日本政府は台湾統治を開始した4年後の1899年より港湾周囲の浚渫(しゅんせつ)工事と防波堤の建設などを進め、1万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。同時に基隆は台湾縦貫鉄道の北側の起点とされ、その経済的な重要性はさらに高まった。また軍事面でも基隆は日本海軍が駐留する軍港とされ要塞地帯(基隆要塞)にも指定されていた。
 
基隆は台湾北部に位置し日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。また内地から移住する多くの日本人により急速に都市化が進展、1925年には市制が施行され人口は約7万(内地人が25%)の都市へと発展した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、その重要性から米軍の攻撃も受けている。


        [台北]ー[基隆]
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       [台中]ーー[日月潭]ーー[タロコ峡谷]
       [南投]
                     [嘉義]ーー[阿里山]ー[新高山]
[澎湖島] ーー [台南]
  
ホウコトウ    [高雄]ー[屏東]
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                                [鵝鑾鼻ガランビ]

日本の財を注ぎ、新領土「台湾建設」に携わった多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。

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基隆港の風光・・      基 隆 港
台湾ののど元、要害の地、風光明媚、商港の諸施設完備すると共に益々隆盛に向かいつつあります。

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基隆港の風光・・     日新橋と基隆郵便局
基隆駅より市の中心地義重町への唯一の通路、傍に燐とそびえる郵便局。

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基隆港の風光・・  ↑基隆埠頭     ↑基隆駅


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基隆港の風光・・↑基隆合同庁舎      ↑基隆市役所     


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基隆港の風光・・   基隆港 哨船頭義重橋通り


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基隆港の風光・・      基隆海岸通り


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基隆港の風光・・      基隆日新橋通り 


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基隆港の風光・・ ↑基隆市街       ↑基隆港新岸壁


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基隆港の風光・・      基隆新店街通り 


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基隆港の風光・・   観瀾亭より基隆港内を望む


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基隆港の風光・・    基 隆 港 桟 橋


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基隆港の風光・・   基隆港 第二桟橋の景

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基隆港の風光・・      基隆港の扶桑丸


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基隆港の風光・・ 基隆港の支那に往来するジャンク


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基隆港の風光・・   ↑基隆港        ↑高雄港


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基隆港の風光・・      基 隆 神 社


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基隆港の風光・・      基 隆 神 社



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