泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2014年06月

●日露戦役・・乃木大将邸 ②殉死の部屋・・絵葉書・・

 大正元年(1912)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、霊柩の宮城出発を告げる号砲が鳴り響いた時、乃木大将は妻・静子とともに、ここ港区乃木坂の自宅で自刃して亡くなくなりました。

乃木邸は、6ケ月後の大正2年(1913)4月に一般公開され、その時に併せて発行された絵葉書が残っております。 

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             故 乃木大将閣下


(((bec乃木邸各室配置図

←調理室、風呂、便所
←台所、物置、女中部屋

←書生室、調度、茶の間

←内玄関
←洗面所、便所

←応接、書斎、夫人室
←表玄関

←客室、次室、将軍居室


←図書置場

←物置、二令息居室















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乃木将軍邸・殉死の部屋(将軍の居室・・染みのある部分が自刃の跡か?次室より見

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乃木将軍邸・・   将軍の居室(白い額に殉死時の見取り図) 廊下より見る

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 左側静子は、坐して前のめりの姿勢、乃木は静子の姿を繕った後、事切れた。

    乃木は、大正元年(1912年)913日午後8時頃、天皇大喪の礼、出立の礼砲と同時に東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

 警視庁警察医による死体検案始末書から推すと、静子は短刀を用い、三度その胸を刺した。一度は胸骨に当たり、それが遮った。二度目は右肺にまで達したが、これでも死に切れなかった。三度目の右肋骨弓付近の傷は既に力が尽き始めていたのか浅かった。
 希典が手伝わざるを得なかったであろう。状況を想像すると、希典は畳の上に、短刀を拳をもって逆に立て、それへ静子の躰を被せ、切先を左胸部に当てて力を加えた。これが致命傷になった。刃は心臓を貫き、それが背の骨にあたって短刀の切っ先が欠けていた。 希典は静子の姿を繕った。

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乃木将軍邸・・  大将の書斎          夫人の居室 

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乃木将軍邸・・        書斎内の大将常用机

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  乃木将軍邸・・ 夫人控室          静子夫人の部屋


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乃木将軍邸・・          応 接 室

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乃木将軍邸・・邸宅構内・・乃木大将夫妻、痙血の処(血染めのものを埋めた場所)

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乃木将軍邸・・   邸宅構内・・乃木大将夫妻、痙血の処

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           乃木将軍夫妻の墓 (青山霊園)

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           乃木将軍夫妻の墓 (青山霊園)

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乃木希典 「家断絶覚悟」の手紙
手紙は明治43年(191076日の消印。 陸軍時代の部下で広島の修道中学校理事長だった佐藤正(元陸軍少尉)に宛てたもの。乃木も後に学習院院長となり、同じ教育者として交流を深めたという。
 手紙では、広島の特産品をもらった礼を綴ったのち、旅順で二人の息子を亡くした乃木に養子縁組を勧める佐藤に対し、日露戦役で約六万人の死傷者を出すなど多大な犠牲を強いた責任を感じ、「弊家は小生共一代」と乃木家を断絶させる決意を綴っている。
 また、天皇陛下や戦死した将兵の遺族に対し「申し訳なく」と謝罪し、息子二人の戦死は「愚父の面目を添えたる」と、かえって面目を保てたとしている。

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    乃木希典より佐藤正に宛てた「家断絶覚悟」の手紙

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乃木将軍邸・・乃木神社の前身「乃木社」(後方を拡張し乃木神社となる)

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        大正12年(1923)11月1日鎮座祭が斎行された 乃木神社

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           空襲にて焼失後、現在の乃木神社

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乃木将軍邸・・       構内に植えられた月桂樹



【日露戦争の戦跡を見る】・・絵葉書で網羅しています。↓

1.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【203高地・・】
 
2.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【東鶏冠山北堡塁】② 
 
3.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【松樹山堡塁、二龍山堡塁】 
 
4.日露戦役・203高地攻略直後の・将校団記念写真・(203山上にて)④
 
5.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【椅子山堡塁、大案山子山堡塁】
 
6.日露戦役・・旅順陥落・・【水師営の会見】絵葉書
 
7.日露戦役・・【日本海海戦】・・絵葉書
 
8.日露戦役・・【日本海海戦の勇壮な艦船】・・絵葉書
 
9.日露戦役・・乃木大将と戦死した二人の令息・・
 
10.日露戦役・・乃木大将邸・・絵葉書・・
 
11.日露戦役・・乃木大将邸殉死の部屋・・絵葉書・・
 



保存保存

●日露戦役・・乃木大将邸 ①・・絵葉書・・

 大正元年(1912)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、霊柩の宮城出発を告げる号砲が鳴り響いた時、乃木大将は妻・静子とともに、ここ港区乃木坂の自宅で自刃して亡くなくなりました。

乃木邸は、翌大正2年(1913)4月に一般公開され、その時に併せて発行された絵葉書が残っております。 


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乃木将軍邸・・           正 門

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乃木将軍邸・・      乃 木 大 将 宅 正 面

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乃木将軍邸・・     現在の乃木邸正面 「旧乃木邸」

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乃木将軍邸・・                 建 物 配 置 略 図

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乃木将軍邸・・       ↑厩舎 ↑乃木大将邸   ↑乃木神社

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乃木将軍邸・・        邸 宅 前 面

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乃木将軍邸・・        現在の邸宅前面

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自宅玄関前の乃木大将(殉死当日の朝撮影)

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               乃木大将肖像

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乃木将軍邸・・         邸 宅 後 面

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乃木将軍邸・・        現在の邸宅後面

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乃木将軍邸・・↑ 厩舎の後面          ↑ 厩舎の前面

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乃木将軍邸・・        現在の厩舎の前面

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乃木将軍邸・・     乃木将軍と愛馬「壽号」、表札板

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             愛馬「壽号」の厩舎

愛馬「壽号」の由来・・・正馬「壽号」はロシア軍ステッセル将軍の愛用した牝馬で明治38年1月5日水師営会見の際に、乃木大将に贈ろうとしたが大将はその志を謝し、直ちにこれを受け取ることは軍規の許さない事なので後日を約して、これを「壽号」と名付けて戦役中乗用し、凱旋後払い下げを受け自分の馬として愛用した。

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乃木将軍邸・・        絵 葉 書 の 片 面



●日露戦役・・乃木大将と戦死した二人の令息・・

 乃木将軍は旅順要塞攻略で正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。
 第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。
 乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった。
 
 乃木将軍は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させる事で勝利出来る事を確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。
 第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事はついになかった。
 旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。
 しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている。(Wikiより)

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   明治37年5月30日、広島に於いて令息の写真種板を手にする乃木将軍

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      乃木大将肖像(明治44年)及び筆跡(明治42年6月書)

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明治44年8月(1911 ルマニエン国王陛下の寵命に依りベルリン府撮影献之
        大日本帝国陸軍大将伯爵 乃木希典 謹記


【名誉の戦死をされし乃木兄弟】
 日露の戦い、いよいよ難にして乃木将軍の令息勝典中尉、保典少尉は戦地にあり、将軍自らは須那野ケ原に閑居して百姓と親しんで居られたころ、突如将軍は近衛留守師団に補せられ、続いてわが軍の悪戦苦闘を報ぜらるるや第三軍司令官として祖国を後に満州の荒野へ向かわれることとなった。
 その折、思いがけなくも保典中尉戦死の悲報は、将軍の耳を驚かしたが、誠忠無二の将軍はただ我が子が御国の為に斃れた事を喜ばれた将軍は、出征以来下士卒に至るまで心を配られ部下を愛されていたが、203高地の悪戦苦闘に作戦の苦心言語に絶する折しも、又もや保典少尉は雄々しき亡骸となって将軍の眼前にまみえた。
 併し将軍は私事のために泪せず、数万の兵士のために泪されるのだった。
 かくして最後の決死隊は旅順口に肉薄し、肉弾また肉弾、さしもの堅城も遂に我軍の手に帰した。
 その暁、無量の感慨を胸に持して旭日旗の下にあえなく斃れし乃木兄弟こそ忠誠そのものの気高き姿である。

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       右・・203高地で戦死された乃木保典少尉
       左・・金州東八里庄で戦死された乃木勝典中尉

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          乃木保典少尉    乃木勝典中尉

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      遊就館発行  乃木勝典中尉 乃木保典少尉 肖像   

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・          乃木保典少尉    乃木勝典中尉

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 【戦死を遂げられたる乃木兄弟と乃木将軍から寺内閣下に送られた書簡
この書簡は旅順開城直後、水師営に於ける乃木将軍より、盟友寺内閣下に送られしもの。
鮮渾なる筆致は硝煙弾雨の中に、よく三軍を叱咤せし武将の面目躍如たるものがある。


 明治三十七年、日露戦争では司令官として旅順攻略を指揮、この激戦で二子を亡くす。しかし旅順では無謀な突撃を繰り返して、徒に死傷者を増やし、児玉参謀総長自ら指揮をとって、ようやく陥落させたのだ、という噂があった。四十年、学習院院長に任ぜられ、その精神主義を以って皇族子弟の教育に当るが、四十五年、天皇崩御により、妻静子とともに大喪の当日、自邸にて殉死を遂げた。
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大正元年(1912913日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時御発轜ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。
乃木は日露戦争後、旅順攻撃で死んだ多くの将兵の犠牲を償うため、割腹して詫びたい旨を明治天皇に申し述べたことがある。
返事がなく、乃木が退出しようとしたとき、呼び止めて次のように沙汰したという。
「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知れり。然れども今は卿の死すべきときにあらず。 卿もし強いて死せんならば、よろしく朕が世を去りしたる後においてせよ」
 
    乃木は、大正元年(1912年)913日午後740分頃、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
    将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。
    夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。
 
乃木は、以下のような辞世を残した。
辞世・・
「うつし世を神さりましゝ大君の、御あとしたいて我はゆくなり」
「神あがりあがりましぬる大君の、御あとはるかにおろがみまつる」 
妻静子の詠んだ辞世・・
「出でましてかへります日のなしときく、きょうの御幸に逢うぞかなしき」

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           自決当日朝の乃木夫妻(wikiより)

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       今は昔、 日露戦役記念の写真 二元帥六大将

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↑ 水師営会見での記念撮影
【後列左から】川上事務官、安原参謀、マルチェンコ中尉、松平副官、渡辺管理部長
【中列左から】レイス参謀長、乃木大将、ステッセル中将、伊地知参謀長
【前列左から】ネベルスコーユ参謀、津野田大尉
通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた。

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    旅順攻略戦の我が陸海軍首脳  柳樹房第三軍司令部に於いて
       前列中央に東郷元帥と乃木大将、右端には秋山真之

【参照】↓

日露戦役・・旅順陥落・・【水師営の会見】絵葉書⑥  http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28423457.html

日露戦役・・203高地攻略直後の・・将校団記念写真(203山上にて)  http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28341134.html 

日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【203高地・・】①  http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28286481.html 


次回は「乃木大将の閑居」・・・


●噴火を続ける【西之島】海上からの初映像・・

小笠原諸島父島西方130kmにある絶海の孤島、西之島の噴火状況。
昨夜の「Mrサンデー」で放映していた「西之島」海上からの初映像です。
島は噴火をし続け、東京ドーム18ケ分、0.86k㎡に成長中とのこと。


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西之島 初近接映像

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左の緑が西之島、黒い部分が新島

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西之島と新島と接合した周辺

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チャーターした漁船で接近を図る・・西之島

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西之島・・噴火口周辺は新山を形成中

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噴石を噴き上げる噴火口周辺

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西之島・・噴火口周辺の遠望

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西之島・・噴火口からの噴煙

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東側海岸には溶岩が流れ込み沸騰した水蒸気が・・・西之島

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西之島新島の中央部

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噴出する溶岩の遠望・・2ケ所・・西之島

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溶岩の噴出・・西之島

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地球の呼吸のような噴出音・・西之島

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西之島・・左右2ケ所、噴火口の遠望

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溶岩が東側海面へせり出して海を埋めてゆく・・西之島

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マグマによる沸騰水蒸気・・西之島

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新しく大地が生まれている西之島・・まさにその瞬間

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マグマが海面に達している・・・西之島

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マグマが海岸を形成している・・・西之島

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マグマが固まっている様子・・・西之島

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危険を感じながらの調査




30.銃後の護り・・絵葉書・・

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         靖国神社    軍 隊 の 参 拝

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           靖国神社大祭  海軍の参拝

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        靖国神社    陸 軍 の 参 拝

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     御大礼大観兵式記念  大元帥陛下御観閲 (代々木練兵場)

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     御大礼大観兵式記念  大元帥陛下御観閲 (代々木練兵場)

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      御大礼大観兵式記念 全国各部隊の整列 (代々木練兵場)

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         平和記念観兵式と代々木練兵場行幸鹵簿

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     武勲炬火に映ゆる(靖国神社)    林 唯一 画

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     靖国神社 社頭に戦友を想う     梁川 剛一 画

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      皇恩に咽ぶ誉の母子      富永謙太郎 画

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           通 信 機 教 育 訓 練

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・            軍 艦 旗 掲 揚

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     砲艦「橋立」進水記念   株式会社 大阪鉄工所建造
      昭和19年(1944)5月に南支那海において撃沈された。

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・               砲艦「橋立」

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        ○○地点に命令一下、出動を待つ主力艦隊

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           陸軍特別大演習記念 連隊旗

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  海軍館壁画 天保山沖軍艦御観閲(明治天皇)明治元年  中津弘光筆

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 ●大東亜戦争時の絵葉書・・・↓ 下記クリック


① 真珠湾攻撃、マレー沖海戦・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965918.html 

②ウェーク島、グァム島、ボルネオ、フィリピン戦線絵葉書・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965919.html  

③シンガポール陥落、ポートダーウィン(豪)爆撃・・絵葉書・・

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965920.html 

④スラバヤ沖海戦、パレンバンに空挺部隊降下・・絵葉書・・ 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965921.html  

カビエン、ラバウルを占領、ラングーン飛行場爆撃・・絵葉書・・ 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965922.html  

太平洋、インド洋で潜水艦の活躍・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965923.html 

珊瑚海海戦、ルンガ沖夜戦、アッツ島攻略・・絵葉書・・ 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965926.html  

⑧帝国海軍の威風堂々・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965927.html  

⑨帝国海軍・各戦艦の偉容・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965928.html 

⑩帝国海軍の戦艦・陸奥・長門・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965929.html  

⑪帝国海軍の戦艦・金剛・比叡・榛名・霧島・・絵葉書・・ 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965930.html     

⑫帝国海軍の戦艦・扶桑・山城の勇姿・・絵葉書・・ 

http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965931.html   

⑬帝国海軍の戦艦・日向・伊勢の勇姿・絵葉書・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965932.html  

⑭帝国海軍・巡洋艦の勇姿・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965933.html  

⑮帝国海軍・駆逐艦の勇姿・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965934.html  

⑯帝国海軍の潜水艦 ①・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965935.html  

⑰帝国海軍の潜水艦 ②・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965936.html 

  帝国海軍の航空母艦・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965938.html 

  帝国海軍・陸戦隊・・絵葉書・・   http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965939.html   

  支那戦線・・軍馬と兵隊①・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965940.html 

㉑ 支那戦線・・軍馬と兵隊②・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965941.html 

㉒ 支那戦線・・冬の北支戦線・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965942.html 

㉓ 支那戦線・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965945.html 

㉔ 支那戦線・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965946.html  

㉕ 支那戦線・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965947.html 

㉖ 支那戦線・・絵葉書・・  http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965948.html 

㉗ 支那戦線・・支那一般風俗絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965949.html  

㉘ガダルカナル、ブーゲンビル、ギルバートの戦い・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966034.html  

㉙ 銃後の生活・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966035.html 

㉚ 銃後の護り・・絵葉書・・ http://y294ma.livedoor.blog/archives/17966036.html  




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