泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2014年03月

第33話の⑩・・父、泰山から祖母浦子への軍事郵便全記録・・・満州東寧から、ラバウルから・・

 昨年、愛媛県喜多郡内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう父の「軍事郵便はがきの束」と、応召した時に受けた「軍隊手帳」が出て参りました。

 私が想像するに、この軍事郵便はがき類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(享年53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。

便りの内容は、軍事郵便の常で必要以上の事は決して書けない・・・という他愛の無い内容ですが、
父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思っています。

第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33047396.html・・にあるように、満州東寧に赴任したのが昭和16年8月27日でした。

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 昭和17年(1942)3 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事、安心しております。
芳子の容態は如何ですか、以前より大分良いとの事、安心しております。
泰弘も松山へ来ているとの事ですね。電車等には充分気をつけて下さい。
先日写真を送っておきましたが届きましたか。
まあ心配はせぬように願います。身体に気をつけて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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・       恐らくこの写真が送られて来たのだと思います。
(戦時中はシェパードのことを、「軍用犬」と呼んでいたように記憶しています)

泰弘も松山へ来ているとの事ですね・・・については↓●第25話 鯉の血・・参照http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8721542.html


 昭和17年(1942)617 
松山市琢町64   福島浦子様内  福島 泰弘殿(5才)
   【絵葉書在中】
満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 
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     ●封書の中身は荒井一壽」筆の軍隊漫画絵葉書6枚ほどでした。

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 昭和17年(1942)827日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、内地も暑いことと思いますが、私も大変元気ですからご安心下さい。
当地も最近は大分涼しくなり、内地の秋の様です。
先日ご送付下さった同窓生の人々の処へは、私の方よりも礼状を差出しておきました。
子供達の服を・・・との事ですが、買うようでしたら俊光のをも買って送っておいて下さい。
時候柄ですから、子供達に気を付けて下さい。 お母さんによろしく。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山

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泰山の召集を聞き付けた松山市、北豫中学校(現・北高校)卒業の同窓生有志が「御餞別」を実家の方へ届けてくれたのでしょう・・・その名簿を浦子が戦地へ送り、本人の手帳に挟んでありました。

【同窓生名簿】                       

松山市志津川町      岡本 長一    

松山市河野町     山本 末見   

・松山市昭和町68     香川 一雄     

・松山市道後湯之町     三好 退二  

・松山市江戸町(南味酒町) 石川 兼      

・温泉郡小野村字平井    森本 利徳   

・温泉郡南吉井村字北野田  隅田 寿男     

・松山市道後湯之町南町   池内 修(西岡 

・松山市府中町       樋口 恒徳     

・松山市桑原町       石丸 英隆   

・温泉郡浅海村       高橋 泰夫


 昭和179月末 松山市琢町64  福島 浦子 様
其の後、変わりありませんか。私も大変元気です。
内地も祭り前で大分涼しくなってきた事でしょう。
当地も冬服で丁度良い頃となりました。
便りは出しますが大街道へも宜しく云って下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊鈴木隊  福島 泰山
 

 昭和171127日 松山市琢町64  福島 浦子 様
寒くなって来ましたが子供達や皆元気ですか。
私も相変わらず元気ですから、安心して下さい。
子供達に風邪を引かさぬ様にお願い致します。
当分の間、便りを致しませんが、元気ですから心配せぬ様にして下さい。
寒くなりますから身体に気を付けて下さい。では又。

満州牡丹江省東寧県城子溝軍事郵便処気付、
満州岩6418部隊(鈴木隊)今井隊  福島 泰山

「当分の間、便りを致しませんが・・・」とあるのは、この時、満州岩6418部隊は今井隊長のもと南方戦線へ転戦すると発表され、12月2日出発となったのです。

【参考】第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・

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  12月2日より陸路、海路を経て12月22日にラバウルへ到着しております。

以下の便りには「ニューギニア」方面へ転戦したとは書いていませんが、私が浦子から地図を前にして聞いたのは「父ちゃんは牡丹江から、ニューギニアの戦地に移動したんと・・・」と教えてくれたので、12月2日到着早々に(ニューギニア方面)という便りが来ていたようです。
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 昭和18年(1943)131日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後大変永らくご無沙汰しましたが、
子供達や皆、変わりはありませんか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
先日、送金しておきましたが届きましたか。
何か子供達のものでも買ってやって下さい。
内子の方も元気ですか。大街道の光月堂へもよろしく。
八木の人に度々便りを頂きましたが、よろしく云って下さい。
寒い頃ですから身体に気を付けて下さい。
お母さんや門屋へもよろしく。 では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和183月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、ご無沙汰致しますが、皆変わりはありませんか。
子供達も相変わらず元気ですか。
私も元気ですから安心して下さい。
内地も大分暖かくなってきた事と思います。
芳子の一周年も来ることと思いますが、丁寧に祈ってやって下さい。
時候柄ですから身体を大切にして下さい。 内子へもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和1852日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日は便り有難うございました。
皆、元気なとの事で安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
俊光もまた内子の皆も元気なとの事で安心して居ります。
内子から慰問袋を送って貰いましたから、礼を云っておいて下さい。
大街道や近所の門屋さんにもよろしく。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

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 昭和18年(1943)610 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後ご無沙汰ばかり致しますが、子供達や皆は元気ですか。
私も大変元気ですから安心して下さい。
内地も大変暑くなり始めたことと思いますが、
子供達の病気に充分気を付けて下さい。
先日内子から便りが有りました。 皆身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

 
 昭和1877日 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、先日便り受け取りました。 
子供達や内の者も皆元気との事、安心して居ります。
私も相変わらず元気ですから安心して下さい。
内子からも便りがありました。皆元気との事、安心して居ります。
大街道の光月堂も元気ですか。 よろしく、では又。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和188月 松山市琢町64  福島 浦子 様 
拝啓、其の後、皆元気ですか。
内地も大変暑いことでしょう。 私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
内子の俊光も元気との事、安心しております。
時候柄ですから子供達の身体にも気を付けて下さい。 では又。 

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山


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 昭和18年(1943)9月 松山市琢町64  福島 浦子 様
拝啓、其の後お変わりありませんか。
私も相変わらず元気ですから御安心下さい。
子供達やお母さんも元気ですか。
少々送金して置きましたから、受け取って下さい。
時候柄ですから身体を大切に。  返事下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山
 

 昭和181016日 松山市琢町64  福島 浦子 様 
本日、便り受け取りました。皆元気との事、安心しております。
送った煙草、着いたとの事ですが、あれは呑んで下さい。
半分は内子へ送って喫って貰って下さい。
「カビ」がねても(かびても)困ります。
下宿で居る学生さんにものましてあげて下さい。
皆、身体に気を付けて下さい。

南海派遣剛第6418部隊尾形部隊今井隊  福島 泰山

(この便りから「私も相変わらず元気です・・」の言葉が抜け落ちています。 マラリアの発熱で配給の煙草が不味くて吸えなくなった・・・ものと考えられます)



 
昭和18年11月中旬? 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山




 この頃、父・泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。 

 泰山は昭和18年(1943)11月26日
にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。 

【参照】↓

第33話の⑦ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・


第33
話の⑧ ●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図


第33
話の⑨・・父泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・



保存保存保存保存

●日本統治時代の朝鮮・・43.京城・龍山と開城(ケソン)の光景・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、欧米列強に莫大な借金、土地資源の抵当で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭して、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。
1909年10月26日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが加速。(この時は大韓帝国=独立国)


1910年~1945年・・・
8月29日韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備した)・・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・         国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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京城(ソウル)の風光・・・京城市、南の玄関・・龍山停車場

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京城(ソウル)の風光・・・     京城市、龍山駅

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京城(ソウル)の風光・・・  京城市、美しき龍山停車場

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京城(ソウル)の風光・・・    京城市、龍山停車場

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京城(ソウル)の風光・・・  龍山、歩兵第79連隊正門

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京城(ソウル)の風光・・・  京城・龍山野砲兵隊正門

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京城(ソウル)の風光・・・   京城市・龍山兵舎全景

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京城(ソウル)の風光・・・  京城市、龍山大洪水の様子
  大正14年7月18日(1925年)龍山警察署前
(中央の洋館は義勇消防署)


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京城(ソウル)の風光・・・ 京城・龍山漢江鉄橋 京釜線

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京城(ソウル)の風光・↑漢江に架す漢江大鉄橋 ↑設備の完全な京城グランド

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京城(ソウル)の風光・・・  結氷せる龍山漢江鉄橋

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京城(ソウル)の風光・・・京城・龍山漢江新道路橋の壮観

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京城(ソウル)の風光・・・大漢江を長蛇の如く横切る道路橋


そして「板門店」の向こう側・・開城(ケソン)
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開城(ケソン)の風光・・・     開城市街全景
開城市は、高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都で、朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきましたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されています。人口は現在約35万人の様です。

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・      現在の開城市街・・薪として使用するので禿山が目立つ

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 開城工業団地・・韓国と共同開発したが北の思惑で追い出したり受け入れたり・・・

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                 開城工業団地全景




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●日本統治時代の朝鮮・・42.京城の南大門、東大門、東小門、光化門、独立門などの文物・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。
1909年10月26日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが加速。(この時は大韓帝国=独立国

1910年~1945年・・・
8月29日韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備した)・・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・         国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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京城の文物・・・        京 城、 南 大 門
本名を崇礼門と言う京城の四大門中最大にして、京城の玄関にあり大王7年2月、今を去る522年前の建築にして其の後文禄の大火にも之を免れ、古代建築物として今や一層丁重に保存され、その構造は雄大燦然たるものにして東洋建築の精粋を示せり。

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京城の文物・・・        京 城、 南 大 門

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京城の文物・・・     京 城、 南 大 門 (崇礼門)

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京城の文物・・・         京 城、 南 大 門

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京城の文物・・・          京 城、 東 大 門

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京城の文物・・・        京城、東小門 (恵化門)

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京城の文物・・・       京城、 恵化門 (東小門)

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京城の文物・・・   歴史を偲ぶ京城景福宮 光化門の威容

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京城の文物・・・         京城景福宮 光化門

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京城の文物・・・        京 城、 独 立 門
西大門外、義州通りにあり、日清戦役(明治27~8年、1897)の結果、
清の属国から完全な独立国となり、全く支那の覇絆を脱したるをもって
       記念のため建設したる維壮なるものなり。


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京城の文物・・・    京城、独立門と手前迎恩門の礎石

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京城の文物・・・       京 城、 大 漢 門

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京城の文物・・・        景福宮の慶会楼

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京城の文物・・・     京城・清涼里王妃の墓陵

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京城の文物・・・  京城の石橋、水標橋とチゲケン荷運夫


【参考】↓

日本統治時代の朝鮮・・⑫京城の独立門、南大門・・絵葉書 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32475654.html




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●日本統治時代の朝鮮・・41.京城市内の光景・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。
1909年10月26日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが加速。(この時は大韓帝国=独立国

1910年~1945年・・・
8月29日韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備した)・・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・         国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


「日本に感謝しています」~韓国人大学教授が語る日本統治時代の真実

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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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京城市内の光景・・・↑京城市街    ↑南大門駅に於ける急行列車

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京城市内の光景・・・京城・朝鮮銀行前より南大門通りを望む

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京城市内の光景・・・    京城・南大門通り一丁目

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京城市内の光景・・・  京城鐘路より南大門通りを望む

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京城市内の光景・・・    京城鐘路の百貨店・和信
大半島政治の中枢として、ここに重きをなす京城は、政治、経済、軍事、教育其の他の施設機構をここに集め、また大会社、大工場等をも数多く包容して名実共に大都の風格をここに呈している。

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京城市内の光景・・・       京 城 鐘 路
明るい街路に人車溢れ、賑わいは日に夜に続く、建ち並ぶ大商店の偉観に輝く繁栄の大通り、鐘路の盛観。

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京城市内の光景・・・     京 城 鐘 路 通 り で

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京城市内の光景・・・       京城 三越百貨店
百貨店の王者として大京城の町に君臨する三越は、本町通りに聳えて、店頭には近代的なロータリーがある。垂れ幕には『一億一心』『国民精神総動員・復活の日』『第30回記念植樹』とある。

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京城市内の光景・・・    京城本町一丁目 郵便局横

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京城市内の光景・・・↑本町一丁目入口   ↑明治町の街角の明治座の巨体

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京城市内の光景・・・   京城本町一丁目入口・・郵便局前

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京城市内の光景・・・        京城・本町通り
  美しい飾り窓と商碑の中を、華やかな人波が続く、ここは京城第一の繁華街。

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京城市内の光景・・・    雑踏で賑わう京城本町通り

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京城市内の光景・・・   麗しの都大路、京城の大平通り

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京城市内の光景・・・     京城 東洋拓殖株式会社

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京城市内の光景・・・     京城 東洋拓殖株式会社

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京城市内の光景・・・      京城の旧市街寸描

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京城市内の光景・・・↑壽松洞普通学校      ↑淑明女子高等普通学校
・壽松洞普通学校は京城府公立に属し、公立1,258校の一にして、寧ろ朝鮮人児童の教育を旨とす。 
・淑明女子高等普通学校は朝鮮人女子に中学教育を施す私立9校の一にして京城に在り。


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京城市内の光景・・・         京城府庁全景


【参考】↓

日本統治時代の朝鮮・・⑭京城府の町並み・・絵葉書http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32555580.html

日本統治時代の朝鮮・・⑮京城府の風光・・絵葉書http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32598676.html

日本統治時代の朝鮮・・40.京城府のパノラマ光景・・絵葉書http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/33119436.html




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●週刊文春の記事「朝日新聞を断罪する」の朝日の広告は?

 3月6日(木)の読売新聞の「週刊文春」広告に・・・
「慰安婦問題、A級戦犯 朝日新聞を断罪する・・
”火付け役”記者(従軍慰安婦捏造記者・植村 隆の韓国人義母は詐欺罪で起訴されていた!」

と・・・トップ記事として、掲載されておりました。


こういう広告は、当の「朝日新聞」にはどのような広告を出すのだろう・・・見ものじゃなぁ・・・と思っていましたところ、案の定・・・下の通りでした。


「朝日新聞」には「●●新聞」として伏せてありました。
「従軍慰安婦」捏造記事をでっち上げたまま、日韓間の大混乱を誘発し
検証もせず放置している「朝日新聞」のバツの悪さが覗えます。


(写真左側の「週刊新潮」広告にも【●●記事を書いた「朝日新聞」記者の韓国人義母「詐欺裁判」】・・と有りますが、この伏字は「捏造」の文字が入ると言うことですね)

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      「週刊文春」広告の「朝日」と「読売」比較

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朝日新聞広告・・・誇らしい自社「朝日新聞社旗」は塗りつぶしてあります。


    「週刊朝日」の捏造記事に対して・・2007/4/25(水)
      
誰も気が付かないように朝日新聞に小さく謝罪。
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「人はそれをブラックジャーナリズムと言う」が、朝日だけ消去されている。


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   「朝日新聞」ポスター(沖縄珊瑚礁への落書きをスクープした時)

こういう落書きをして「日本人ダイバーは、自然を破壊している」と訴えたポスターを作って、大々的に喧伝したが・・・朝日のカメラマンが作為的に造った写真だった事が判明。

朝日は「言葉のチカラ」を信じ過ぎて「真実」を忘れた成れの果てがコレだ!
              ↓      
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落書き犯人「朝日の本田嘉郎カメラマン」は退社処分となり、当時の社長、一柳東一郎は辞任に追い込まれました。


「朝日」の魂胆に在るのは「如何に日本人が悪意に満ちた、卑怯な国民であるかを自覚させよう」と日本人を卑下し、貶めようと懸命になっている「お隣のどこかの国」の狂った考え方と全く同一なのです。


「どこかの国」
からの差し金が、そうしているのでしょうか?
「従軍慰安婦」捏造記事を、頑なに訂正しない「朝日」の姑息さが覗えます。



 日本人を悪者にして貶めたい欲求が「朝日新聞社」内に渦巻いているからではないでしょうか?

 日本や日本人を「悪」と決めつけて糾弾することで、自分自身が正義の立場に立つことが出来る。
 他を貶めることで自分を美化し道徳的優越感を享受したいのであれば、それは偽善である。
 日本や日本人を虐げる偽善だから「反日偽善の朝日」と言えますね。





保存保存

●日本統治時代の朝鮮・・40.京城府のパノラマ光景・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。
1909年10月26日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが加速。(この時は大韓帝国=独立国)

1910年~1945年・・・
8月29日韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備した)・・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・         国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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京城のパノラマ・・・      京城市街の眺望

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京城のパノラマ・・・       南山よりの京城市街

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京城のパノラマ・・・        京 城 市 街
京城は朝鮮における政治経済の中心にして、戸数約4万7千、人口約30万人、水道、瓦斯、電話、電灯、電車等の設備完備す。

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京城のパノラマ・・・        京 城 市 街
桜咲く朝鮮神宮境内から市内のセンターを望んだもの・・・左方松の樹間に眺められる大白亜館は府庁、総督府。その上に北漢山が聳えている。

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京城のパノラマ・・・青々と繁った松の樹間に眺められる京城市街

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京城のパノラマ・・・      南山より見た京城府全景

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京城のパノラマ・・・       京城市街の中央部

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京城のパノラマ・・・        京城市街中央部
・      大なる洋館は郵便局、朝鮮銀行、鉄道ホテル、京城日報社

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京城のパノラマ・・・1895年(明治28年)  併合前の京城市街全景

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京城のパノラマ・・・光化門の見える京城風景(1900年・明治33年)と藁屋根の群落

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京城のパノラマ・・・     城壁越しに南大門


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京城のパノラマ・・・       京 城 旧 市 街

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京城のパノラマ・・・       京 城 旧 市 街

【参考】↓

日本統治時代の朝鮮・・⑭京城府の町並み・・絵葉書http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32555580.html

日本統治時代の朝鮮・・⑮京城府の風光・・絵葉書http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32598676.html



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