泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2014年02月

●日本統治時代の朝鮮・・39.新義州市内の光景・・絵葉書

鴨緑江を挟んで新義州の対岸は満州の安東(丹東)である。
現在でも、丹東から中国の物資を北朝鮮へ輸送する光景には、必ずこの鴨緑江鉄橋を通過する場面が映し出されております。


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
イメージ 4

イメージ 5
・        国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


イメージ 17
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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新義州市内の風光・・・    新義州道庁通りの景観

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新義州市内の風光・・・  新義州駅と構内ホテルの眺望

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新義州市内の風光・・・  国境に美観を呈する新義州駅

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新義州市内の風光・・・   厳然たる新義州郵便局

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新義州市内の風光・・・ 輪奥美しい新義州高等普通学校

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新義州市内の風光・・・淑徳の美を誇る新義州高等女学校

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新義州市内の風光・・・緑薫る清新なる学園、新義州商業学校

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新義州市内の風光・・・国境の空に日の丸の勇ましき新義州中学校

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新義州市内の風光・・・ 理想的設備を有する新義州小学校

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新義州市内の風光・・   新義州地方法務院の正門

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新義州市内の風光・・ 道政の中枢機関、平安北道庁の威容

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新義州市内の風光・・ 高壮溢壮なる新義州府庁の偉観

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新義州市内の風光・・↑新義州・朝鮮製紙(株)工場(朝鮮総督府始政十周年記念)

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                 赴戦湖湖畔の風景





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●日本統治時代の朝鮮・・38.新義州と義州の風光・・絵葉書

鴨緑江を挟んで新義州の対岸は満州の安東(丹東)である。
現在でも、丹東から中国の物資を北朝鮮へ輸送する光景には、必ずこの鉄橋を通過する場面が映し出されております。


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、一進会などの日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上に自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・(明治43年~1945昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


19451948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮動乱勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・      仁川上陸・・国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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新義州の風光・・・  新義州・・鴨緑江の壮観 (プロペラ船)

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新義州の風光・・・  新義州・・朝鮮と満州国の国境・・鴨緑江

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新義州の風光・・・       新義州・・鴨緑江風景

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新義州の風光・・・       鴨緑江・・下流の浪頭

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新義州の風光・・・     天然氷の採取 (冷蔵庫用)
寒い国では敢えて珍しい光景ではないが、それでもあの長い鋸で切り取って行く白衣の労働者は偉観である。   

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新義州の風光・・・        解氷当時の鴨緑江
        押し流し来る氷、畳んで拾い水晶巌の崩れるが如し。

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義州の風光・・・ 義州・鴨緑江の眺め・・雄大なる桜花の統軍亭

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義州の風光・・・     義州・夏の鴨緑江と材木搬出の筏

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義州の風光・・・       義 州 文 廟 の 「大成殿」

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義州周辺の風光・・・工業朝鮮の豪華版・・ドイツのメルゼゴルヒに次ぐ世界第2の朝鮮窒素肥料会社を現出した。
お米の母乳、広大な水利事業・・半島産業の王であるお米を作る為に、山と山との狭い部分を堰き止めてダム湖を作り、融水を荒地に導き農耕地を際限なく拡張してゆく。

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義州周辺の風光・・・当時、世界第一と云われた水豊発電ダム
・                     (今は北で管理不十分)


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義州周辺の風光・・・      飛躍の天使・・めん羊
1年の羊毛の輸入金額1億2千万円という我が国の重大なる国策経済問題解決のために起ち上がりつつあるのである。 国は昭和9年度より行なわれつつある新緑化政策実施のために、豪州より海路遥々と朝鮮へ着いたコリデール種であるが、3千頭に近いこの大群の一時輸入は世界のめん羊史に比類なきことであり、やがて数10万頭に達する日も近いであろう。

【参考】対岸の満州・安東(丹東)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32120285.html



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第19話の②・・父、泰山の出征と満州東寧への赴任日記・・

 昨年、愛媛県内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう父から祖母浦子に宛てた「軍事郵便はがきの束」と、応召した時に受けた「軍隊手帳」が出て参りました。
 昭和20年7月26日の松山大空襲があり、祖母浦子が非難の時、持ち出され昭和21年1月に祖母浦子が逝去した時、葬儀に参加した母方の祖父忠兵衛が預かったものです。

 手帳には入隊した昭和16年7月から、赴任地の満州牡丹江省東寧市城子溝に於いて、活動を始めた約3ケ月がメモ日記風に記されております。

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 愛媛県の警察官だった泰山は、昭和15年頃喜多郡内子警察署から越智郡岩城島駐在所へ家族と共に赴任しました。
 この地で三男、孝芳が昭和16年7月13日に生まれまして、相前後して「召集令状」が届いたのです。 

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・            伯方島から見た岩城島全景

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             岩城港フェリー埠頭

(((47年・岩城港
    改造前の岩城港波止場(昭和16年頃は奥の階段岸壁に客船が接岸)

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             岩城島巡査駐在所

【参照】第19話 父の姿 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8714329.html

 泰山は昭和8年に愛媛県警察練習所を卒業して警察官になっております。
 併せて、警察練習生時代に松山歩兵第22連隊の教練も終了していました。
 その為、召集後20日間の短期訓練で、警備隊として前線へ派遣されたのでしょう。

 日米開戦が昭和16年12月8日ですので、その5ケ月前の開戦に先駈けての布石が準備されていたと思われ、衛兵関連要員として巡査の中から応募者を募った形跡を感じます。


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・          愛媛県警察練習所 卒業記念写真帳  昭和8年

◎s昭和8年第22連隊23歳
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          松山歩兵第22連隊教練時の泰山(22歳)と善行証書


以下、善通寺連隊召集入隊 ★ 軍事日誌内容
昭和16年7月
29日・・午後9時、来市一泊す。 竹松作太氏(徳島市田宮町字耀硝舎)
(当時、善通寺は善通寺町だったので、来市ということは松山の実家へ帰省したという意味か)(又は、徳島市の竹松宅へ一泊の意味か)
30日・・午前10時森山と会合。午後1時入隊、合格す。
31日・・女学校を宿舎とす。

昭和16年
1日・・・女学校を宿舎とす。
2日・・・仮軍装検査、各々行先地判明「兵站警備隊64」
3日・・・午前10時本軍装検査、三十二部隊営庭に於いて接種ホーソー。
4日・・・朝、演習。 午後1時接種腸チフス。 慰安会 於講堂。
5日・・・無為
6日・・・同上
7日・・・演習
8日・・・同上
9日・・・同上
10日・・演習
11日・・揮弾筒射撃。
12日・・演習
13日・・演習、海岸へ
14日・・演習、夜間大暴風雨。
15日・・演習。 母、妻より便りあり。 土居君より便りあり。
16日・・演習
17日・・班内休養。 夜間慰安会。
18日・・森山三十二部隊へ。 妻より便りあり、泰弘の絵を見る。
(この絵は、内子町の表の部屋で描いたのを憶えているので、この時は岩城駐在所を引き払い、母の実家へ移転していたようだ。 弟、孝芳が生まれて1ケ月後のことだ。)
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(この絵は泰山遺品の「お守り袋」の中に、折りたたんで入っていたが、未だ探し出せてない・・・公用箋に大まかにこの感じの絵でした。 絵の「いわれ」は・・・↓)    【参考】第22話・・汽車の絵  http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8721542.html?type=folderlist

19日・・班内清掃整頓。 今夜か明朝出動準備の上、出動の検閲。 
・    午後1時頃に今夜出動と判明す。
20日・・午前1時整列出動。 自転車途中困る。 
    午前9時乗船す、208号 5千トン位い。
    坂出発、西へ西へ一路波路をたどる。 船内狭小。 
    午後4時30分弓削沖通過
    午後6時30分今治沖通過。 午後9時30分菊間沖、就寝。
21日・・午前4時30分起床。 
    同7時20分関門通過の警報あり、全員上甲板上板を禁止す。
・    愈々玄界灘だ。
22日・・暴風雨正子頃(0時)停止。午前6時馬山着。 船内にて一泊予定。

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            朝鮮 馬山港 (釜山西方)

23日・・馬山港、船内一泊。
24日・・午前6時上陸す。 馬山にて一泊す。
25日・・午前7時集合、列車乗組み。午前9時馬公発。夜龍山着(京城郊外)
26日・・引続き列車内にて目的地へ鏡城。 羅南通過。夜間們通過。
27日・・引続き列車にて目的地へ、正午頃、城子溝着。
    途中各所にて駐屯軍を見る。当夜露営。

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            東寧、城子溝周辺要塞配置図

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              東寧市の位置


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鉄塔のある勝鬨山と右の栄山(手前は兵営跡)   勝鬨山から栄山陣地を見る

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勝鬨(かちどき)山から北西方向を見る     勝鬨山から勲山を見る

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            勝鬨山から勲山全景を見る

  勝鬨山からの展望


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          勝鬨山地下陣地

28日・・満人部落を見る。 各種準備をなす。
    大陸の月、感慨無量、然も夜景良し。
    終夜、駐屯部隊の演習を見る。(講話)露軍の装備不完全を聞く。
29日・・満人部落を見る、物価の高きに驚く。 各種準備で1日をつぶす。
30日・・炊事勤務。 満人部落に赴く、支那酒(火酒)を飲む。
31日・・約1里程離れたる処へ演習に赴く。洗濯を為す。ノロの足跡多数。
    下士官及び兵が公用外出の途中、越境せる・・・を聞く。

昭和16年9月
1日・・・炊事勤務。
2日・・・衛兵勤務あり。
3日・・・衛兵勤務。 見習士官失敗の件。
4日・・・炊事勤務。 他部隊は演習に赴く。手紙を書く、家族其の他10枚。
5日・・・幕舎(テント)移転準備。班長と将棋を為す、勝。
 洗濯に赴く、山一つ超えた個所なるも、当地方に此処しかない清水なり。     気持ち良く水浴す。午後、移転地の準備をなす。
6日・・・南方、山向うに黒煙上がるを見る。
    大同、中西部隊の火薬庫破暴の事。スパイの仕業か。
7日・・・朝より移転準備をなす。 移転、道路より北方。
    中盆の事ゆえ各幕舎に酒3本配給さる。
    煙草の配給あり、(ゴールデン)バット20個あり。
    1個4銭、安価に驚く。夕食後に飲酒歓談を催す。
8日・・・休養日。
9日・・・朝より演習をなす。ソ連国境及び東寧(市街)の一部を見る。 

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  右手斜め奥が東寧市中心部    ソ満国境の大烏蛇溝河(対岸はソ連)

10日・・炊事勤務。 外出日なるも警備中隊なるに付き、天幕内にて休養。
    各所にて喧嘩。
11日・・勤務中隊の炭焼きの護衛に、小隊は行く予定なるも雨の為中止す。
    整列遅延にて、隊長に怒られ馳歩をなす。
   午後、薪を取りに全員赴く。狐の走るを約200米位の処にて見る。
16日・・孝父へ石炭取り使役に赴く。
    西宇和郡(愛媛県)の石崎氏と面会す、懸命に歓待を受く。
    昼食は同処で食す、面白く。
17日・・東寧市へ外出す。 松本氏と同伴す。
18日・・石炭取り使役に赴く。非常に面白く、夜間は酒の給与あり。
19日・・連隊兵器検査、終了後各個教練。
20日・・班内休養、他の者は演習に赴く。 冬服を支給さる。
21日・・洗濯に赴く。 夜間警備に付く、東寧より未だ遠方約一里とのこと。     6分隊は残留。
22日・・衛生講話あり。各個教練。午後は射撃予行演習。
     夜間、中隊の派遣あるを聞く。東寧より約一里位い東方との事。
     希望あり、然れども6分隊は残留らしい。
23日・・出発す。 露営移転。
24日・・衛兵勤務あり。
26日・・班内休養。
27日・・班内休養。 本部下士官、営倉懲罰房入倉の噂あり。
28日・・衛兵、営倉衛兵、吉林へ下る事の噂、伝わる。
29日・・班内休養。 幕舎に移転(二幕舎) 西田と親しくなる。 
    第一線、飛行機を射撃との話あり。 
    第三小隊先遣隊、花園へ出発す、全員310出発と決定。
30日・・班内休養。
    午後4時、弾薬輸送のため宇都宮軍曹と共に花園へ先遣さる。
    村上、松本の諸氏へ久し振りで面会す、一夜を楽しく過す。

昭和16年10月
1日・・・倉庫の上面へ移転。支那の小汽車を見る。
    移転完了、普通の人家なり。 倉庫の衛兵に村上氏と赴く。
2日・・・本日衛兵。
3日・・・下番。
4日・・・本日衛兵。
5日・・・本日衛兵。
6日・・・下番。
7日・・・衛兵上番。
8日・・・衛兵。
9日・・・下番。
10日・・昼間休養。夜間衛兵。

(ここで終っています)

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        城子溝駐屯中に同僚と東寧市内で写した写真 ▼
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    ▼ [ 小嶋日向守 ]さんのご協力で色彩復元して頂きました。
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泰山が満州、東寧城子溝からニューギニア方面ラバウルに転戦開始したのが、昭和17年12月2日ですので、約1年4ケ月東寧要塞周辺で活動したことになります。

【参考】第33話の⑥ 父の部隊が東寧(満州)からラバウルへ移動したルート・・



保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存保存

●日本統治時代の朝鮮・・37.萬瀑洞と徳川の風光・・絵葉書

「萬瀑洞」は、北朝鮮の核開発施設のある寧辺(ヨンビョン)の奥地に在るので、現在は観光地として近寄り難い場所だろうと思われます。

【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・     1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
イメージ 4

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・           国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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萬瀑洞の奇景・・・         巨岩を滑り行く火龍潭

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萬瀑洞の奇景・・・     秀麗にして巨岩の下を潜る噴雪潭

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萬瀑洞の奇景・・・         最も優雅なる琵琶潭

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萬瀑洞の奇景・・・           萬瀑洞の三段瀧

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萬瀑洞の奇景・・・            黒龍潭の仙境

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萬瀑洞の奇景・・・         萬瀑洞、船潭の奇瀑

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萬瀑洞の奇景・・・       森鎖なる中に壮快なる碧波潭

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萬瀑洞の奇景・・・       森鎖なる中に壮快なる碧波潭

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萬瀑洞の奇景・・・        奇光怪石を集めたる亀潭

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徳川周辺の風光・・・         大同江の夕景

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徳川周辺の風光・・・   田舎の家屋と「よしず張りの便所

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徳川周辺の風光・・・           田舎の家屋

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徳川周辺の風光・・・      朝鮮人参の収穫と天日干し

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徳川周辺の風光・・・       朝鮮人参畑・・・六年もの




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●日本統治時代の朝鮮・・36.鎮南浦周辺の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、3ケ月で釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。

・      1950年9月15日・・・国連軍の仁川上陸作戦      
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・         国連軍空挺部隊の降下と上陸用舟艇の群れ


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
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       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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鎮南浦の風光・・・       鎮南浦海岸税関前桟橋

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鎮南浦の風光・・・      鎮南浦の税関波止場展望

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鎮南浦の風光・・・↑船舶輻輳せる鎮南浦港内の活況  ↑咸興府の玄関、咸興駅

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鎮南浦の風光・・・             鎮南浦灯台

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鎮南浦の風光・・・ 大同江の流氷と鎮南浦灯台 (大同江の河口)

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鎮南浦の風光・・・       鎮南浦府庁通り(正面が府庁)

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鎮南浦の風光・・・      鎮南浦周辺のりんご果樹園

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鎮南浦周辺の風光・・・ 治水工事、 萬頃江左堤と載寧江新水路
 朝鮮総督府監修のもと、日本から技術者、労務者、資材、資金など、あらゆる能力を注ぎ込んで、約20年で未開の地朝鮮の近代国家造りをしていったのです。

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鎮南浦周辺の風光・・・(上)竣工後の干潟地と貯水池  (下)防潮堤と閘門
朝鮮干潟地は干拓し得るもの20万町歩に及び、ここ12ケ年に33,050町歩を施工する予定にして、昭和7年度の実績は免許せるもの67,000町歩中、許可せるもの21,600町歩に達す。  
工事費は反当たり100円~200円を要し、国庫より5割の補助金を支給して助成しつつあり。


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鎮南浦周辺の風光・・・   ↑竹鎮灯台      ↑干拓地      ↑塩田
                【朝鮮総督府施政一周年記念】

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鎮南浦周辺の風光・・・          福渓の水門
         朝鮮5大水利事業の一たる、江原道中央水利組合の建設の一部。
         開拓面積は8,650余町歩なり。





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