泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2014年01月

 第33話の⑨・・父、泰山がラバウルから帰還した時の顛末・・・


昭和19年1月30日は、父泰山(34歳)の戦病死による命日です。
昨年、愛媛県内子町の母の実家で、私の昔の資料を探しておりましたところ、父の実家松山での空爆で、既に灰になってしまったであろう「軍事郵便はがきの束」が出て参りました。

     満州牡丹江省東寧県城子溝から祖母浦子宛の葉書。
     転戦先、ソロモン諸島ラバウルから祖母浦子宛の葉書。
     一緒に帰還した戦友から、傷病兵姿の父の写真が届き、問い合わせした祖母浦子の葉書。(昭和19年1月14日)
     入院先が判明して親戚から父泰山に届いた見舞い状。(昭和19年1月18日~)
     祖母浦子が陸軍病院へ看病に、27日に出向くとの父泰山宛の電文。(昭和19年1月26日)
     命日が1月30日ですので、これら葉書の内容から推測すると、私ら子供たちが、忠兵衛と共に面会に行った日は、28日か29日のどちらかだろうと推測されます。
  (父の姿は今でも思い出されますが、余命一両日の姿には、とても見えませんでした。 高熱に犯されるマラリアは日ごと周期的に、急激な容態の変化をもたらせるものですので、その犠牲になったと思われます。)
・  浦子が手元に置いていた、松山歩兵第22連隊教練、軍服姿の父の写真立て。
・  召集を受けて入隊当初の軍隊手帳等。(昭和16年7月)

私が想像するに、この葉書類が残されたのは、昭和20年7月26日夜、松山大空襲の焼夷弾爆撃により、鉄砲町に程近い琢町に在った私方の実家は全焼しまして、祖母浦子は曾祖母ヒサヨと私の弟、孝芳を連れて郊外の山越まで避難したのです。(私と弟俊光は、空襲が激化して低学年は無期休校となったため、休校していない母の実家の内子町へ20年5月に疎開していた。)

自分の写真も1枚も残していない祖母浦子(53才)が、この書状は大切なものとして避難先へ持ち込み、空爆後の食糧事情、医療事情の悪辣な中で昭和21年1月8日に逝去したのです。
葬儀に参加した母方の祖父、忠兵衛が父泰山の遺品であろう物品を預かり、持ち帰っていたものと考えられます。


 父泰山は「定期的に必ず祖母浦子に安否を知らせる葉書を出す」との、親子の約束をしていたのだと思います。
大した内容ではないのですが、手紙を通じて連絡さえしておけば「元気だと伝えられる」ということに徹していたと思われます。
そして転戦先のラバウルから届いた最後の葉書が次のものでした。

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 愛媛県松山市琢町64   福島 浦子様
拝啓、その後お変わりありませんか。  先日、便り受け取りました。
子供達も皆元気で毎日遊んでいるとの事、何より結構なことです。
お祖母さんも元気ですか。 宜しく云って下さい。
学生の人も九人も下宿しているとのことですが、何かと忙しいことと思いますが、身体を気をつけて下さい。 
(当時、浦子は松山高等商業学校生(今の松山大)の下宿屋をしていて、2階の6畳の間2部屋を使わせていた)
又、寒くなることですが、子供達に気をつけてください。

昭和18年11月中旬?南海派遣剛第6418部隊 尾形部隊 今井隊  福島 泰山


 この頃、泰山はマラリアに感染し、兵站病院で入退院をしていたのだろうと思われます。
昭和18年11月26日にラバウルを出航した病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)に乗船して、帰国するマラリア患者、傷病兵の一人だったのです。

然し、出航した翌日の27日、病院船「ぶえのすあいれす丸」(9,626t)は
ニュー・アイルランド島カピエン西方に於いて、米軍のコンソリデーテッド機によって爆撃され轟沈したのです。
父泰山らはマラリアを押して、17時間の漂流を強いられた後、救助されたとのことでした。

【参考】 ↓

第33話の⑦●病院船「ぶえのすあいれす丸」の轟沈絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965782.html     

第33話の⑧●病院船「ぶえのすあいれす丸」轟沈後の漂流者絵図・・・http://y294ma.livedoor.blog/archives/17965783.html

 そして昭和19年正月明け14日に、一緒に広島へ帰還した戦友梅川利夫氏から父の実家に、下記①の封書(書状ナシ、写真在中のみ)が、いきなり届いたのです。

その写真は、父の「少々やつれた傷病兵姿」の写真でした。
写真の負傷兵姿の泰山を見た祖母浦子は、仰天したものと思います。

「11月以来便りが無かったが、ニューギニア方面で、
元気にご奉公していると思っていた泰山は、負傷して白衣を着ている・・ここは何処の病院か?発信先の広島へ帰還していたのか?」

 「本来なら本人の泰山に渡される写真が、説明もなく実家に届くとはどう云うことか?」
となったのです。


イメージ 2

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・        ①に入っていた写真・・・左二人のどちらかが梅川利夫氏 
          (帰還到着地の広島陸軍病院江波分院であった)


 【参考写真】
下の【廣島第一陸軍病院江波
(えば)分院】に帰還したようですね。
下の写真の【庭石】【松ノ木】【後方の病舎】は同一場所と判定できます。
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広島陸軍病院江波(えば)分院(池原上等兵召集解除記念に広島県沼隈郡出身の者相集いて・・昭和18年9月26日)

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広島陸軍病院江波分院・・・演芸会出演者記念撮影,俵おどりをなし好評を博す・・昭和20年4月12日

↑広島陸軍病院より・・http://www.roswitha.jp/%5B1%5Dguni@genbaku@kangofu@test.html



① 愛媛県松山市琢町64   福島 泰山殿
      【写真二枚在中】

1月6日  広島陸軍病院 第二分院四八病棟   梅川 利夫



② 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、写真確かに受け取りました。
泰山に下さりましても、私方には居りませんが、貴方と同じに広島病院に入院して居るのではありませんか。 それとも、松山の病院の方へ変わりましたのでしょうか。
1月5日に検閲があるところを見ますと、未だ広島病院に居る事と思いますが、それとも松山の方へ帰ったのでしょうか、お知らせ下さい。
広島分院に居るの成れば、一度子供を連れて行きたく思いますから、お手数ながらお知らせ下さい。頼みます。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子  (祖母)
 

③ 広島陸軍病院 第2分院 48病棟  梅川 利夫 様
拝呈
本日、早速写真を受け取りまして、開封してしてみました所、向かって右が「泰山」でありまして驚きました。 元気でご奉公していると思っていましたのに驚きました。
その後、梅川様には、おいおいご全快ですか。 泰山も同じでしたら、子供を連れて一度面会に行ってと思うのですが、何処でしょうか。
お返事下さることは出来ないでしょうか。
子供は皆元気と伝えてください。  さよなら。

1月14日     松山市琢町64  福島 浦子


 1月14日に祖母浦子が梅川利夫様に出した2通の葉書は、「受取人不在ニ付キ、差出人戻シ」で浦子の元に返却されております。  

恐らく、受取人(梅川利夫氏)が泰山と同様に地方病院に移送されたか?
又はマラリアの進行で死亡されたか?・・・と想像されます。
(この2通とも、閉じ穴が開けられ、こより紐が付いているので2通セットで【受取人不在】返却されたものと思われる)

 そして、これを喫機として、祖母浦子は泰山の入院先を探り当て(泰山から葉書が到着した模様か?)、下記親戚縁者に知らせたのでしょう。
 親戚からは昭和19年1月18~19日に集中して、泰山宛に見舞い状が出されております。

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④ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

本日便りを受け取りました。先日、写真を二枚受け取りまして驚きましたが、便りにより安心はしております。
早速面会と思いますれども、私も目が悪く、それに子供を連れては思うようになりません。
暖かくなったら早速行くつもりです。
それとも内子へも写真のことで手紙を出しましたから、当面、今日にもと言うかも判りませんが、寒いから子供に風邪でも引かしてはならぬです。
身体に気を付けなさい。 祖母も元気。

1月18日  松山市琢町64   福島 浦子 
(祖母)


⑤ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山殿 (伏見四番)

前略、その後ご無音を謝し、本日葉書到着仕り
(つかまつり)候。
尚、昨日内子町黒田熊治様にお言付けを賜り候。
貴殿、この度ご不快にて御地へ帰国、ご療養中とのことに御座候。
何れお伺い申したいと考え居り候。
尚、寒気の節に衣類等、ご入用の事なるかなと思いおり候に付き、ご入用の物何なりとご通知下されば、早速取り揃えご送付申すべく候。
その他何なりと有れば、ご一報くだされますよう願い上げ候。
尚、私方俊光を始め皆々無事に過ごし居り候に付きご安心の程。
尚、近所も別に変わり無く、親族一同も皆元気に御座候。
寒さが加わる折から故、存分にご注意ご養生第一の事に御座候。
右の通り、如斯
(かくのごとく)に御座候。

1月18日 伊予 喜多郡内子町  森並 忠兵衛  
(母方祖父)


⑥ 善通寺陸軍病院
 第33病棟 1号室 福島 泰山様 (伏見返し四番)

拝啓、厳寒のみぎりとなりまして、大層お寒いことでございます。
暫くご無沙汰いたしております中に、早1月も半ば過ぎとなって参りました。
承りますれば、お兄さんには只今は表記の所、善通寺の陸軍病院にてご療養中との事でございますね。
近頃、ちっともお便りが無いものですから心配しておりました矢先、松山のお母さんよりお葉書が参りまして、お母様方へお兄さんの白衣のお姿のお写真が来まして、如何したものかと驚き心配しております、とのことが書いてありましたので私方でもご案じ致しておりましたのですが、昨日当町の黒田さんがお見えになりまして、色々とお兄さんの事や何かを話して帰られたそうで御座いまして、私方でも幾分か安心しておりました。
また今日は久し振りにてお葉書戴き、家内一同拝見致しました。
申し遅れましたが、私方一同無事にて恙無く過ごし居りますから他事ながらご休心下さいませ。
俊光ちゃんも元気にて風邪一つ引かず成長して居りますから、何卒ご安心下さいませ。
隣の叔父さん方も皆元気で居られます。
どうかお兄さんも気を確り持って、一日も早く元のようなお元気なお体になられる様、気長くご養生なさいませ。
私たちも、それのみお祈りしております。
では今夜はこの辺にて失礼させて戴きます。
祖母、母よりもくれぐれも宜しくとのことでございます。さようなら。

1月18日  愛媛県喜多郡内子町  森並 登志子 
(母の妹)


 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山様(伏見分院四番病棟

拝啓、本日ご連絡に依れば、ご病気にて内地病院にご入院の由、
連絡受けた文意、簡単にてご容態も如何と案じております。
何れお見舞いに参上予定ですが、充分ご注意遊ばされ、ご養生が肝要と存じつつ、ご入用の品も御座いましたら、遠慮なくお申し出下され度く。
転じて当方一同無事、ご安心を乞う。

1月18日  伊予 長浜町   岸本 喜兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑧ 
善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室   福島 泰山様 (伏見四番)

拝啓、毎度ご無沙汰のみ致し、誠に申し訳ありません、何卒お許し下さる様。
さて、お葉書に依りますと はやり病気にて鋭意養生中の由、
寒さの折から、充分注意養生遊ばさる様、先ずは病気お見舞い迄に。
詳細は後便に。

1月19日  伊予 喜多郡長浜港  友澤 利兵衛 
(忠兵衛の弟)


⑨ 善通寺陸軍病院 第33病棟 1号室 福島 泰山殿 (伏見四番転送)

前略御免、私、今度の日曜日に面会に行こうと心積もり致すも、丁度其の日に
・・・候ところ、天気の都合も有之候。近日内に行く考えに御座候。
付いては目下、寒気の為衣類等ご入用に御座候。陳者
(のぶれば)持参可能。
尚、其の他ご入用品あれば、陳者何なりとご持参致すのでご返事願い度し。
尚、未だ熱の差引かず、熱が続き面会に行きても、面会することが出来ん様なる事にては、致しかた無しと思いおり候ところ、いつ面会を許して貰う事に御座候。  
貴殿よりの筆跡を見ては、大分良き方の様子と推察、面会が出来る事と願い居り候。敬具

1月21日   愛媛県喜多郡内子町  森並 忠兵衛 
(母方祖父)


1月27日朝、浦子が看病付き添いの為、急遽善通寺へ向かっております。
     1月26日午前11時発信・・・・・・午後0時59着信
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            善通寺陸軍病院 伏見分院


【参考】↓
第33話の 善通寺陸軍病院の父

第33話の 善通寺陸軍病院の父

 第33話の①にあるように、忠兵衛らに連れられて、私ら兄弟3人が面会に行った時の、あの松山駅でのあの雑踏は、昭和19年1月28日か29日で、調べると旧歴では1月3日か4日となり、正月の帰省客復帰の大混雑だったのだと想像できます。

(当時、田舎では旧正月で年越しをする風習で、郷里で正月を過ごした職人たちが、職場に復帰する混雑だったのでしょう。)




保存保存保存保存保存

●日本統治時代の朝鮮・・35.平壌、歩兵第七十七連隊ほか・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

    寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・         歩兵第七十七連隊営門

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平壌の風光・・・↑歩兵第七十七連隊営内忠魂碑 ↑歩兵第七十七連隊正門

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平壌の風光・・・         新領地朝鮮 平 壌 兵 

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平壌の風光・・・        平壌第七十七連隊営舎

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平壌の風光・・・    歩兵第七十七聯隊及び高射砲隊の営舎

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平壌の風光・・・    歩兵第七十七聯隊及び高射砲隊の営舎

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平壌の風光・・・大同江畔に爆音勇ましい飛行第六連隊の全容 (現在は平壌空港)

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平壌の風光・・・↑高射砲隊及び歩兵連隊営舎     ↑歩兵第七十七連隊正門
         ↑飛行第六連隊正門                 ↑平壌飛行場

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平壌の風光・・・        朝鮮 平壌旅團司令部

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平壌の風光・・・          平壌兵営 将校宿舎

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平壌の風光・・・ 平壌の文化施設・・青松に囲まれし理想的平壌グラウンド




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●日本統治時代の朝鮮・・34.平壌の妓生学校と市内風物・・絵葉書

朝鮮各地にあった妓生(キーセン)養成所は、日本統治時代に統合され、平壌市に一ケ所だけ妓生学校として残されたようです。

【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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平壌の風光・・・    妓生学校 正門 (箕城券富とある) 箕城=平壌

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平壌の風光・・・      妓生の舞 (帯に箕城券富とある)

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平壌の風光・・・            箕城妓生養成所
          朝鮮名物、
妓生の養成機関として、朝鮮唯一の平壌妓生学校

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平壌の風光・・・      百花乱れ咲く平壌妓生学校の麗観

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平壌の風光・・・     大同江に臨む平壌妓生学校の麗観


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平壌の風光・・・       雅趣ある建造物・・・平壌妓生学校

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平壌の風光・・・↑ 妓生      ↑ 平壌妓生学校  ↑ 琴を弾く妓生

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平壌の風光・・・             妓  生
妓生はもと官妓と称し、宮中又は両班等の宴席に侍って酒肴を斡旋したものであったが、今日では朝鮮名物の一つとなり、一般民衆の宴席にも侍って興を添えている。

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平壌の風光・・・            妓 生 の 盛 装

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平壌の風光・・・         妓生学校・・放課後楽しく
平壌は古来
妓生の本場としてその名を内外に知られている。 この地には妓生学校なるものが設けられており、平壌名物の一つとなっている。 大同江畔で余暇中にブランコで遊ぶ妓生学校生である。

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平壌の風光・・・      河畔で遊ぶ妓生学校生徒たち

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平壌の風光・・・              市 場 風 景
朝鮮の都市では1ケ月に数回、日を定めて市が立つ。 市日になると遠方から色んな産物を持って売りに集まる。米を売って呉服を買って帰る親爺もあれば、鶏を売って子供の靴を買うお袋も居て、とても賑やかだ。

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平壌の風光・・・         繁盛を極める司倉市場・・・
平壌名所の一つとして名高いものに司倉市場がある。 市街の最繁盛街に位置し、市日には数万の人出があり盛観を呈す。


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平壌の風光・・・          市 場 風 景

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平壌の風光・・・      大同江畔の甕(水がめ)の搬出

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平壌の風光・・・  ↑ 朝鮮壷の集積           ↑ 平壌旧市街の市場
         ↑ 壷の店                 ↑ 河畔の洗濯


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平壌の風光・・・↑街路点景      ↑大同江所見     ↑大同江畔  ↑祈祷風景

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平壌の風光・・・      朝鮮を縦貫せる大動脈、大同鉄橋

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平壌の風光・・・          大 同 鉄 橋

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平壌の風光・・・          朝鮮平壌 大同江鉄橋




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●日本統治時代の朝鮮・・33.平壌の町並み・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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平壌の風光・・・           平壌の市街
朝鮮最古の都市として歴史的に名高い平壌は、今を近代文化の大都市として、目覚しい躍進を続けている。  写真は旧市街の景観で、その繁盛繁華実に驚くばかりである。

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平壌の風光・・・            平壌旧市街

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平壌の風光・・(上より)・西平壌駅 ・平壌市街の一部 ・平壌駅 ・旧市街三角公園

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平壌の風光・・・  ↑ 西平壌駅          ↑ 大和町通り

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                    現在の平壌市街

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平壌の風光・・・    平壌 大和町通り  平壌繁栄の中心的市街、目貫の通り

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平壌の風光・・・         平壌 大和町通り

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平壌の風光・・・ 平壌 黄金町十八銀行前より東洋拓殖会社を望む

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平壌の風光・・・         平壌市街本町風景
朝鮮最古の都市として名所旧跡の多い
平壌は、今近代都市としても名高い都市である。
市街に見る商工業の発展は実に目覚しく、どの街もこの街も繁栄を極めている。

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平壌の風光・・・          平壌 船橋里市街
古都
平壌は近代的都市としての発展も目覚しい。 市街は建築に交通に躍進的なものがある。

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平壌の風光・・朝鮮総督府施政十周年記念↑朝鮮製紙(株)新義州工場 ↑小野田セメント平壌工場

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平壌の風光・・・     平壌舟橋里 大日本精糖株式会社

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平壌の風光・・・   大同江を隔てて製糖及び電気興業会社を望む

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平壌の風光・・・↑平壌警察署    ↑牡丹台の桜花  ↑平壌市街風景

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平壌の風光・・・↑ 朝鮮銀行平壌支店        ↑ 平安南道々庁
・       ↑ 覆審法院       ↑ 
平壌府庁  ↑ 平壌郵便局

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平壌の風光・・・  平壌大同江凱旋橋を隔てて大同門と市街を望む

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平壌の風光・・・           平壌 鉄道ホテル

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平壌の風光・・・       平壌 鉄道ホテル 鉄道局直営

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平壌の風光・・・           壮麗なる牡丹台博物館
明光に包まれた建物は牡丹台博物館の威容。楽浪文化を彷彿させるその美しさは、また格別である。

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平壌の風光・・・    楽浪文化を彷彿とする牡丹台博物館

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平壌の風光・・・          平壌郊外旧市街




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●日本統治時代の朝鮮・・32.平壌の名跡・・絵葉書

この回にもある乙蜜台、最勝台や浮碧楼、得月楼、清流亭、練光亭など、楼閣とは言いながら屋根と柱だけの「貴族専用展望台」と言うべきものだと思われます。

【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・
李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]
                            
日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・             麒 麟 窟
昔、東明王麒麟馬を此処に走らすと、役人石を立て之を誌せり。 
世に伝う王麒麟馬に乗り此の窟に入り、朝天石に出て天に昇れりと。

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平壌の風光・・・↑ 萬壽台 忠魂碑              ↑ 水明寺大耶殿
       ↑ 
萬壽台 行軍記念碑            ↑ 麒麟窟

         萬壽台には現在、金日成、金正日の像が建っている。
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               現在の萬壽台

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平壌の風光・・・     船橋里に建てられし日清戦役忠魂碑

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平壌の風光・・・         船橋里の日清戦役忠魂碑

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平壌の風光・・・ ↑ 乙蜜台                 ↑ 得月楼
・          ↑ 練光亭                 ↑ 浮碧楼

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平壌の風光・・・      練 光 亭  川面の遥か向うに牡丹台が遠望できる

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平壌の風光・・・          平 壌 練 光 亭 

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平壌の風光・・・          平壌、 練 光 亭

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平壌の風光・・・            練 光 亭
大同江に臨んで練光亭が建つ。 400年前の建築と言われ、曾で文蘇の役に小西行長と明使沈催敬等とが和を講ぜし所と伝えられる。

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平壌の風光・・・↑陵羅島水道浄水場   ↑牡丹台、清流亭   ↑練光亭と鐘閣
花が咲いたか天子ケ峰に、花じゃないぞえ君がゆく。

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平壌の風光・・・          牡丹台 清 流 亭
大同江岸の断崖絶壁の頂に、清流亭と称する大楼閣が建つ。 高麗清宗時代の建築と言われ独特の建築になるものである。 その眺望は他に比類無しと称せられる。

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平壌の風光・・・   牡丹台、浮碧楼より乙蜜台(山上)を望む

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平壌の風光・・・       平壌 大同江岸山壁の彫刻

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平壌の風光・・・             楽 浪
楽浪郡時代は、今より約2000年前、我が開化天皇50年頃に始まり、421年間継続し人口実に40万6千人を有し、その繁栄なる往昔を追憶せしむべき古墳は大同江岸付近に上りて、1,386墓が累々と散在している。





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●日本統治時代の朝鮮・・31.平壌の乙蜜台と箕子陵墓・・絵葉書

乙蜜台は、牡丹台の最勝台や浮碧楼、清流亭、練光亭と共に、楼閣とは言いながら屋根と柱だけの「貴族専用展望台」と言うべきものだと思われます。

【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・満州を拠点化したロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に完全整備した)・・・
(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 17
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・     綾羅島から牡丹台、乙蜜台の全景

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平壌の風光・・・          平壌 乙 蜜 台

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平壌の風光・・・            乙 蜜 台

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平壌の風光・・・           雪に見る乙蜜台
              風に落ちて鳥も啼かず、深々として身に迫る静けさ・・・

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平壌の風光・・・         冬の乙蜜台

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平壌の風光・・・          乙 蜜 台
牡丹台に相対する高丘で、乙蜜台からの眺望良く、牡丹台はすぐ近くに望まれ、
霊山の最勝台も呼べば答えん風情である。

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平壌の風光・・・緑樹の中に厳然たる姿の乙蜜台、遥かに最勝台を望む

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平壌の風光・・・緑樹の中に厳然たる姿の乙蜜台、遥かに最勝台を望む

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平壌の風光・・・          眺望絶佳の乙蜜台

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平壌の風光・・・ 牡丹台より眺めたる玄武門および乙蜜台の風光

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平壌の風光・・・丹青に彩られる最勝台より玄武門及び乙蜜台を望む
             遥か彼方に平壌市街の遠望


箕子陵(きしりょう)は、牡丹台の西側丘陵にに存在していた箕子の陵墓。
箕子は中国殷王朝の政治家で紂王の叔父にあたる。
箕国(現在の中国山西省晋中市)に封じられたので箕子と呼ばれていた。
その箕子は、伝説によると晩年は朝鮮半島に移住して箕子朝鮮を建国したといわれている。

然し1959年、北朝鮮政府は箕子陵を破壊し、その跡地は牡丹峰青年公園
(モランボン)
となってしまった。

この絵葉書は、破壊された古き文物を偲ぶ、重要な資料なのです。

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平壌の風光・・・牡丹台の最勝台より、西方の箕子廟と平壌市街を望む
            白壁内に箕子の陵墓と石碑が確認できる。

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平壌の風光・・・    箕子陵・・殷の大師、箕子の廟なり

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平壌の風光・・・         平壌、箕子の陵

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平壌の風光・・・         箕 子 陵

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平壌の風光・・・         箕 子 陵

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平壌の風光・・・          箕 子 陵

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平壌の風光・・・         箕 子 陵

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平壌の風光・・・   八百年前、高麗王徳宗の祭祀せる箕子陵

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     これが現在の箕子陵付近、牡丹峰(モランボン)青年公園




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●日本統治時代の朝鮮・・30.平壌・牡丹台の景観・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・ロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・        乙蜜台からみた牡丹台

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平壌の風光・・・             牡丹台の眺望

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平壌の風光・・・(上)                        牡丹台
         (下) 農夫の食事・・・出刃包丁には鞘がない、わしゃ作男で家がない。

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平壌の風光・・・     乙蜜台より牡丹台及び大同江の展望

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    現在の平壌(ピョンヤン)市街地図  (白枠が牡丹台周辺の建築物)

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平壌の風光・・・             平壌 牡丹台
戦跡地にしてまた名勝地、丹碧の楼陽を写し溶々たる大同江の流域を望む。

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平壌の風光・・・      乙蜜台より見下ろした牡丹台
永明寺及び浮碧楼を見下ろし、陵羅島を越して、酒岩山を経て大聖山の遠望。

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平壌の風光・・・       乙蜜台より俯瞰した牡丹台
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平壌の風光・・・         牡丹台 綾羅島 鳥瞰全景

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平壌の風光・・・        平壌・牡丹台からの勝景

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平壌の風光・・・     乙蜜台から見た綾羅島水道水源地

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平壌の風光・・・        浮碧楼を隔て水道水源地を望む

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平壌の風光・・・          牡丹台より大同江を望む

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平壌の風光・・・ 牡丹台の頂上より、大同江および平壌市街の遠望

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平壌の風光・・・       大同江畔より牡丹台を望む
平壌が誇る優雅な景勝地牡丹台を一遍に収めた風景。 綾羅島に架かる碧羅橋の一方には
転錦門が見え、浮碧楼、得月楼、永明寺などがある。山上に一段と高く建つのは最勝台である。

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平壌の風光・・・         牡丹台  妓生と屋形船
朝鮮第一の商工都市である平壌は、また一面希に見るような山紫水明の地であって、牡丹台付近の美しい景色と、これに加えて古雅な妓生の情緒とは、朝鮮の何処においても味わうことの出来ない景観である。

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平壌の風光・・・          牡丹台  妓生と屋形船

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平壌の風光・・・       平壌 牡丹台妓生の舟遊び

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平壌の風光・・・         綾羅島より牡丹台の眺望
  
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平壌の風光・・・            白雪の牡丹台
春風爽快な陽春の牡丹台もよい。陽光溢れる夏もよいが、更に白雪に輝く清閑な牡丹台は、ともすると忘れられようとする冬の牡丹台が、如何に見所があるかを示している。

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平壌の風光・・・             牡丹台の最勝台

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平壌の風光・・・            牡丹台の最勝台
最勝台は日清の役に清軍が砲列を敷いた山頂にあり、丹碧顕然として建ち牡丹台景勝中の白眉。

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平壌の風光・・・           牡丹台 浮碧楼
牡丹台の古刹、光明寺の近くに浮碧楼がある。大河の流れに浮かんでいるが如きその風情は来客多く、今より1千年前の創建と言われる。



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●日本統治時代の朝鮮・・29.平壌・牡丹台の転錦門・・絵葉書

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【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。

【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・
1903
年・・・ロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・ 大同江を下に、清流亭より見たる牡丹台と転錦門

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平壌の風光・・・    大同江に映す影も床しい牡丹台の静観

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平壌の風光・・・      牡丹台と大同江 ・ 右下に転錦門

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平壌の風光・・・         牡丹台 ・ 右下に転錦門

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平壌の風光・・・       牡丹台 ・ 右の建物が転錦門

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平壌の風光・・・   対岸から見た牡丹台全景 ・ 中央が転錦門

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平壌の風光・・・       牡丹台探勝の第一歩、 転錦門

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平壌の風光・・・             牡丹台 ・ 転錦門

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平壌の風光・・・          牡丹台 ・ 転錦門
爽やかな陽の光に映えて、古色ゆかしい大楼閣がここに毅然として高く聳える。
その名を転錦門と言う。結構精巧を極め建築芸術の粋を誇っている。


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平壌の風光・・・       牡丹台探勝の第一歩、転錦門

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平壌の風光・・・          牡丹台 ・ 転錦門
流れ麗しい大同江の江岸に沿って、半月島や陵羅島の趣の深い姿を眺めながら、清流亭の辺りを歩くと目前に転錦門がある。

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平壌の風光・・・           牡丹台 ・ 転錦門

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平壌の風光・・・       牡丹台より大同江を望む (転錦門の内側光景)




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