泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2013年12月

●日本統治時代の朝鮮・・28.平壌の大同門、普通門、七星門、玄武門・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1126年~1234年・・・金の(属国)
1259
年~1356年・・・モンゴルの(属国)

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)

1894年~1897年・・・李王朝の苛政に農民が反旗を翻した「東学党の乱」が起きて、これを機に出兵した日清両国はほどなく衝突、「日清戦争」が勃発して日本が勝利した。
【日本の宣戦布告文
朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ、列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ、其ノ内乱アルニ於テ、口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)


1897年・・・下関条約により「清の属国から開放」され、大韓帝国として独立はしたものの・・・ 

1903年・・・ロシアが朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 17
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                        |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
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平壌の風光・・・ 古都の盛時を偲ばせる如く建つ平壌大同江畔の大同門

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平壌の風光・・・            平壌・大同門

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平壌の風光・・・    五百年前、大宗の建立せられし大同門

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平壌の風光・・・            平壌・大同門

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平壌の風光・・・           平壌・大同門

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平壌の風光・・・              大同門と鐘閣

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平壌の風光・・・        凍結した大同江と大同門

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平壌の風光・・・      大同江を背にした大同門


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平壌の風光・・・小嶋日向守」さんがカラー化された「大同門」



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平壌の風光・・・         平壌大同江畔・普通門

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平壌の風光・・・      平壌六門の一なる普通門を望む

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平壌の風光・・・            平壌・普通門

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平壌の風光・・・            平壌・七星門

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平壌の風光・・・            平壌・七星門

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平壌の風光・・・ 五百年前の昔、建てられし平壌六門の一なる七星門

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平壌の風光・・・           平壌・七星門
平壌神社の西方に古色を帯びた一楼門がある。 これは七星門と呼ばれる平壌六門の一つとして名高い。 門外は日清戦役の際、敵将・左宝貴の戦死せし処として有名である。

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平壌の風光・・・            平壌・七星門


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平壌の風光・・・            平壌・玄武門
・ 日清の戦役の時、原田重吉の奮戦せる玄武門。・・・500年前の建造。

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           「原田重吉之勇敢越玄武門之城壁而敗敵軍」 名和永年画
日清戦争では平壌・玄武門内に集結していた清国軍に対し、一番乗りで攻め込んで降伏させた英雄として名を馳せた原田重吉だった。

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平壌の風光・・・            平壌・玄武門

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平壌の風光・・・          朝鮮平壌・玄武門

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平壌の風光・・・              平壌・玄武門




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●日本統治時代の朝鮮・・27.雄基と会寧の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

かつての「羅津市」と「先鋒市」(旧称「雄基」)とが統合されて、現在は「羅先市」と呼称されているらしいです・・・。
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雄基の風光・・・         雄基港 東本町通り

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雄基の風光・・・          雄基市街の光景

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雄基の風光・・・       雄基中心街 本町通りの光景

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雄基の風光・・・  健康色溢れる雄基尋常高等小学校の美観

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雄基の風光・・・      陸軍軍馬補充部 雄基支部全景

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雄基の風光・・・      測候所山より見たる雄基港全景

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会寧の風光・・・会寧法院支庁、商業学校、警察署、郵便局、銀座通りの向うに、・・       会寧川、豆満江を望む。 (豆満江の向うは満州)

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会寧の風光・・・      慶興城壁頭 西方台より豆満江を望む

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咸鏡北道八景・・・           白 頭 山
四六時中、雪を戴く山上の大観と天地の神秘卿。  このカルデラ湖に五色の山魚棲息するという。

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咸鏡北道八景・・・             南 大 渓
         両岸の奇岩絶壁は谷に迫りて豪快を極め、滝あり淵ありて趣き深し。

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咸鏡北道八景・・・           七 宝 山
   奇峯の群立する中に第一の名山の趣は格別である。古站駅より6里、古刹開心寺あり。




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●日本統治時代の朝鮮・・26.羅津の町並み・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 17
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                        |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

 かつての「羅津市」と「先鋒市」(旧称・「雄基」)とが統合されて、現在は「羅先市」と呼称されているらしいです・・・。
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羅津の風光・・・            羅 津 駅 正 面

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羅津の風光・・・         羅津港の貨物の集積
         羅津の貿易は文字通り躍進的で、昭和13年度に於ける貿易額は
                 実に1億円を突破するに至ったという。
                写真は満州穀物集積、選別の光景です。


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羅津の風光・・・           羅 津 府 庁
          国威宣揚の文字が凛と輝き、日章旗が燦々とはためく清かさ。
                    大陸の風は颯爽と流れる。

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羅津の風光・・・       羅津港、満鉄埠頭ビル玄関
          おおらかな陽射しが羅津の街を包み、誠に街はのどかである。
            そこに満鉄埠頭ビルの巨体が街頭に聳え立っている。

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羅津の風光・・・           羅津漁港の網干
        羅津の漁業は清津、雄基と並んで北朝鮮漁業の中心を成している。
             これは羅津漁港の網干で、地方色豊かな一風景。


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羅津の風光・・・         羅津末広町一丁目の風景

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羅津の風光・・・         羅津末広町一丁目の風景
   道路を挟んで、みやげ物店や書店など各店舗が、文化建築の装いも明るく建ち並ぶ。
        羅津の町は近代的な都市美と、大陸的な地方色に映えて美しい。
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羅津の風光・・・        羅津末広町一丁目の風景
          市街をうずめる文化建築、清楚な近代的道路が縦横に延びて、
                羅津市外には斬新な市街美が充満する。


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羅津の風光・・・          羅津末広町一丁目の風景

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羅津の風光・・・        ↑ 羅津栄町一丁目の風景 ↓
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羅津の風光・・・          羅 津 仲 町

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羅津の風光・・・             羅津国際ビル
            羅津の市街に異彩を添えるのは国際ビルであろう。
            この建物は大規模な近代建築なる広壮なもので、
            他の都市ではちょっと見受けられない建物である。


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羅津の風光・・・         羅津尋常高等小学校
          爽やかな緑の風を受けて、屋上にへんぽんと翻る日章旗。 
          新しい大建築の学び舎が、今日も快活な姿をゆるがしている。



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羅津の風光・・・         異色の満鉄社宅風景
    広い敷地の上に、美しい構図を築いて並んだ文化住宅。 これは満鉄社宅である。
                 羅津の町の珍しい市街風景であろう。


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羅津の風光・・・   羅津の四会駅付近より張鼓山と将軍峰を望む





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●日本統治時代の朝鮮・・25.朱乙温泉の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 17
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。

   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

 清津駅から、康徳、羅南、鏡城、生気嶺と南下していくと朱乙である。
この朱乙の豊富な温泉湯量から日本人が温泉郷として開発した。

イメージ 1
朱乙温泉郷の風光・・・明澄な水面に影を涼しく浮かべて、美しいカネタ温泉水泳場の風景

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朱乙温泉郷の風光・・・北朝鮮の大温泉郷に薫る秀麗な鮮仙閣の全景

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朱乙温泉郷の風光・・・      朱乙温泉郷の全景

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朱乙温泉郷の風光・・・      朱乙温泉郷の全景

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朱乙温泉郷の風光・・・↑閑静な渓流に臨む朱乙温泉郷   
                         清津港、崖壁上に立つ清津灯台 ↑

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朱乙温泉郷の風光・・・     朱乙名所・・龍 潭 (上の瀑布)

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朱乙温泉郷の風光・・・    朱乙渓谷に温水瀑々たる龍潭

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朱乙温泉郷の風光・・・    咸鏡北道、朱乙温泉の渓谷

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朱乙温泉郷の風光・・・山青く水青く、風致得も言われぬ外人別荘のある朱乙温泉

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朱乙温泉郷の風光・・・      朱乙名所・・吾 心 巌

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朱乙温泉郷の風光・・・ 朱乙温泉名所・・吾 心 巌 (上の瀑)

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朱乙温泉郷の風光・・・     開拓当初の朱乙温泉郷

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朱乙温泉郷の風光・・・       朱乙名所・・半 月 島

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朱乙温泉郷の風光・・・       朱乙温泉の渓谷

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朱乙温泉郷の風光・・・       朱乙名所・・天 鶏 峯

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朱乙温泉郷の風光・・・       朱乙名所・・桑 岩 峯




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●日本統治時代の朝鮮・・24.清津港(チョンジン)の全景・・絵葉書


 清津港は現在、北朝鮮工作船の本拠地として広く周知されております。
拉致被害者の殆んど全てが、工作船によってこの清津(チョンジン)運び込まれたのです。イメージ 21
ここもまたその昔、日本人が営々と築き上げた港湾都市でした。



【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 23
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地域が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                        |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 1
清津港の風光・・・         清津港と市街風景

イメージ 22
清津港の風光・・・           清津港と市街風景

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 2012年の清津港

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清津港の風光・・・        清津港と市街風景

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清津港の風光・・・          清津港と市街風景

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清津港の風光・・・          清津港と市街風景

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清津港の風光・・・         清津港と市街風景

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清津港の風光・・・         清津港と市街風景

            
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清津港の風光・・・    清津風光海水浴場と清津市街の遠望

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清津港の風光・・・             清津港と市街風景

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清津港の風光・・・         清津港と市街風景

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清津港の風光・・・           清津港と市街風景

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清津港の風光・・・   現今最大速力をもって発展しつつある清津全景

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清津港の風光・・・         清津府 明治町

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清津港の風光・・・            清津の全景
満州国の建国に際し京図線の全通を見、羅津港は北満物資の呑吐港として日露を繋ぐ要路となってから、図門線は国策上、昭和810月より満鉄線として委託された。
商埠地としての清津港の歴史は余り古からず、日露戦役時の北韓軍の上陸地として以来、荒涼たる漁村だったが、明治41年新設商埠地となり、内外人の移住が増加して、京図線の全通により僅か20数年にして、人口4万余を有する咸北第一の都会となり、北鮮漁業の中心地としてその偉容を整えたのである。

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清津港の風光・・・↑閑静な渓流に臨む朱乙温泉郷   清津港、崖壁上に立つ清津灯台

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清津港の風光・・・           清津の夫婦岩

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清津港の風光・・・            清 津 府 庁

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清津港の風光・・・           清津税関支署

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清津港の風光・・・  ↑手術室    清津鉄道医院正面      ↑廊下

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清津港の風光・・・  船舶の守護神・・清津金比羅神社と釣月橋

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清津港の風光・・・          清津金比羅の釣月橋

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清津港の風光・・・        清津金比羅の釣月橋

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清津港の風光・・・        清津府清津神社
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              清津府 清津神社
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清津府 清津神社(石段を上がり左に歩行、Uターンして鳥居を4つ通って本殿正面に出る構造の様だ)
(まごさんのコメントをご覧になった「小嶋日向守」さんが、ご親切にカラー化して見やすくしてくれました=コメント欄参照)


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   ● 清津神社本殿 正面からの写真です(コントラストを強くして鮮明にした)
「小嶋日向守」さんがご指摘のサイトです。↓
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink_img.php?id=2653



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保存保存保存保存保存保存保存保存

●日本統治時代の朝鮮・・23.軍都・羅南と歩兵第73連隊・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]

       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

「羅南」は日本陸軍の軍都といわれた市街です。 満州に近く、ソ連のウラジオストックにも至近という戦略的、地理的条件に適っていたのでしょう。  併合後に僻地の閑村、羅南に第19師団司令部 、歩兵第73連隊、歩兵第76連隊、騎兵第27連隊、野砲兵第25連隊が順次開設され、併せて陸軍官舎や日用品商店街が進出して発展した処です。

イメージ 1
羅南の風光・・・           歩兵第73連隊正門

イメージ 23
羅南の風光・・・      羅南歩兵第73連隊営門

イメージ 2
羅南の風光・・・          羅南歩兵第73連隊正門

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羅南の風光・・・           羅南歩兵連隊兵営

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羅南の風光・・・         歩兵第73連隊 軍旗の行進

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羅南の風光・・・         歩兵第73連隊の実弾射撃

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羅南の風光・・・          歩兵第73連隊の行軍

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羅南の風光・・・             羅南憲兵分隊

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羅南の風光・・・           羅南歩兵第76連隊営門

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羅南の風光・・・           羅南騎兵第27連隊営門

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羅南の風光・・・          羅南野砲兵第25連隊営門

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羅南の風光・・・          羅南野砲兵第25連隊営門

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羅南の風光・・・    北鮮軍都の面目、羅南野砲兵第25連隊

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羅南の風光・・・           羅南野砲兵第9連隊正門

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羅南の風光・・・     北韓、羅南駐剳(駐屯)砲兵連隊の営門

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羅南の風光・・・      羅南、金比羅山上より歩兵連隊を望む


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羅南の風光・・・             羅南市街全景
↑(中学校)(電気機械)(師団司令部) (女学校)(北鮮日日新聞)(官舎街)(歩兵73連隊)の表示↑

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羅南の風光・・・             羅南市街全景
↑(電気会社)(丹北川)(練兵場)(至ル鏡城)(日本海)   ↑(羅南駅)(駐屯地)の表示。

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羅南の風光・・・           羅南市街全景(その1)
第19師団司令部、咸鏡北道庁其の他、主なる建物の所在地にして内地人5,000人、鮮人4,300人の人口。

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羅南の風光・・・           羅南市街全景(その2)

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羅南の風光・・・            羅南市街全景(その3)

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羅南の風光・・・              羅南市街全景
咸鏡北道庁の所在地にして、第19師団司令部ここに在り、日露戦役後の新建設地にして街路碁盤の状態たり。

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羅南の風光・・・           北鮮 羅南市 生駒町

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羅南の風光・・・             羅南市 生駒町

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羅南の風光・・・  羅南橋より生駒町を望む・・羅南市街目貫通りの場所

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羅南の風光・・・       英霊永久に慕われる 羅南忠魂碑





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●日本統治時代の朝鮮・・22.咸興の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
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            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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咸興の風光・・・    咸興歩兵第74連隊、軍旗奉迎式の光景

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咸興の風光・・・      咸興歩兵第74連隊に於ける観兵式

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咸興の風光・・・          咸興市、軍営通りの光景

イメージ 4
咸興の風光・・・↑船舶輻輳せる鎮南浦港内(平壌の西部)
            咸鏡南道の首都、咸興府の玄関・・咸興駅↑

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咸興の風光・・・咸興駅前の光景  咸興市街・郵便局前本町二丁目入口↑

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咸興の風光・・・  漢時代よりの古村、咸興府の繁華街本町 (郵便局前)

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咸興の風光・・・        咸興市、大和町二丁目

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咸興の風光・・・         咸興市、南門外通りの風景

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咸興の風光・・・      咸興市街中央より盤龍山を望む

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咸興の風光・・・  咸興府庁と盤龍山公園より咸興市街を望む光景
道庁及び連隊の所在地。   戸数1万戸、人口5万人で李朝発祥の地。
付近に有名なる水電窒素肥料工場、水利事業等あり。





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●日本統治時代の朝鮮・・21.元山の町並み・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。


   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

 北陸からの対岸にあたる元山は、日本併合後、新潟、能登、敦賀、舞鶴方面から移り住んだ人が多いみたいで、北陸特有の直線的な大屋根切妻作りの家が特に目立っています。
 丘の上から【元山市街】を、北から南へとカメラアングルを変えて、パノラマ状に写した町並みです。

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・         元 山 全 景

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元山市の風光・・・           元 山 全 景

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元山市の風光・・・         元 山 全 景

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元山市の風光・・・         元 山 全 景

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元山市の風光・・・         元 山 全 景

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元山市の風光・・・       元 山 全 景     (↑女学校と但し書)

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元山市の風光・・・    山上より見たる元山本町通りの全景

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元山市の風光・・・         元山本町通りの光景

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元山市の風光・・・    ↑元山本町通り         ↑大虹橋通り

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元山市の風光・・・          元山女学校

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元山市の風光・・・          元山中学校

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元山市の風光・・・        元山尋常高等小学校

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元山市の風光・・・         元山海水浴場

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元山市の風光・・・          元山海水浴場

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元山市の風光・・・        元 山 府 庁

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元山市の風光・・・       元 山 府 庁 と 桜



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●日本統治時代の朝鮮・・⑳元山港と名刹、釈王寺・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な大改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。 韓国人が自らの手では到底行えなかった偉業であったのだ。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
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   ↑大韓帝国皇太子 李垠                    大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


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日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



          [新義州]-[義州]             [会寧]-[羅津][雄基]
       |                        |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]
                                                

日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

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元山港の光景・・・   北朝鮮海陸物資の集積港、元山の埠頭

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元山港の光景・・・          元 山 桟 橋

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元山港の光景・・・↑元山の水産(漁獲高145万円、加工品高141万円を算す)
  元山港埠頭(350万円を投じて港湾設備を致し、投資額4,700万円に達す)↑
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元山港の光景・・・     元山海岸より金比羅山を望む

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元山港の光景・・・朝鮮、元山に於けるロシア避難民の惨状(召された幼児の葬儀)
「余りにも悲惨です。日本人としてどうして見過ごせましょう。どうぞお助け下さいませ。」
                          東京西大久保236  希望社

(1918年頃のロシア革命に追われた、王宮関係者か、教会関係者が、はるばる逃亡して、たどり着いた時のものと思われる)

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元山港の光景・・・         元山守備隊の全景

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元山港の光景・・・         元山守備隊 営門

・         (元山市街の紹介は次回となります)

元山から京城方向へ、京元線を戻ると「釈王寺」が在るが、今は北朝鮮管轄

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古刹、釈王寺・・・さながらお伽噺の王宮の如き静寂さの、朝鮮屈指の名刹・・釋王寺全景

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古刹、釈王寺の風光・・・      釋王寺 全景

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古刹、釈王寺の風光・・・   朝鮮有数の古名刹 釋王寺

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古刹、釈王寺の風光・・・       雪峰山 釋王寺

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古刹、釈王寺の風光・・・     釋王寺 への山道  (路傍の巨石に参拝者名)

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古刹、釈王寺の風光・・・釋王寺  断欲門と李祖大公御手植の松

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古刹、釈王寺の風光・・・         釋王寺  不二門

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古刹、釈王寺の風光・・・     釋王寺  断欲門と神仙橋

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古刹、釈王寺の風光・・・     釋王寺  奥の院禅房

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古刹、釈王寺の風光・・・        釋王寺 宸翰閣

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古刹、釈王寺の風光・・・        釋王寺 五百羅漢

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古刹、釈王寺の風光・・・         釋王寺 曹渓門

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古刹、釈王寺の風光・・・鐘観大天主堂       ↑釈王寺
・・釈王寺は京元線 釈王寺寡僧
萢に在り、朝鮮名刹の一にして、七堂伽藍を有せり。
・・鐘観大天主堂は京城府寛治町の一角に完起せり。


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古刹、釈王寺の風光・・・      釈王寺の千本松

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古刹、釈王寺の風光・・・       釈王寺 甘泉亭温泉




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