泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2013年11月

●日本統治時代の朝鮮・・⑲海金剛の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。韓国人が自らの手ではとうてい行えなかった偉業であった。

 (韓国評論家 朴泰赫)

       寺内正毅初代総督 ↓             ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠                    大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
             日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 1
海金剛の風光・・・            海金剛 松島
立石の東方、奇態萬状怪岩乱立壮観を極める岩島あり、名付けて松島(別名蓬莱島)と称す。 佛岩とともに五十三佛の伝説を有す。

イメージ 2
海金剛の風光・・・         海金剛 松島の奇岩

イメージ 3
海金剛の風光・・・            海金剛の近景
イメージ 4
海金剛の風光・・・            海金剛の海浜

イメージ 5
海金剛の風光・・・           海金剛  佛 岩
立石里以東の海岸は
海金剛として最も風光に富む、しかもここは五十三佛の伝説があり、興味の更に深きものあり。

イメージ 6
海金剛の風光・・・     海金剛  萬物相と金剛門の奇岩

イメージ 18
海金剛の風光・・・           海金剛 金剛

イメージ 8
海金剛の風光・・・         海金剛  浦立石

イメージ 7
海金剛の風光・・・ 海金剛 立石里
波濤に洗われたる花崗岩の観は、岩頭に青松の枝を垂れ、
白砂の長江と奇岩の直立とは、実に展望至極なり。

イメージ 9
海金剛の風光・・・     海金剛 より金剛山諸峯を望む

イメージ 10
海金剛の風光・・・            海金剛 の奇巌

イメージ 11
海金剛の風光・・・            海金剛 叢石亭

イメージ 12
海金剛の風光・・・         海金剛 叢石亭

イメージ 13
海金剛の風光・・・          海金剛 叢石亭

イメージ 14
海金剛の風光・・・         海金剛 叢石亭

イメージ 15
海金剛の風光・・・      海金剛 叢石亭の一部、四仙亭
凧底より東十八町、直立七十尺の玄武岩群、見るからに壮観を呈す。

イメージ 16
海金剛の風光・・・            海金剛 叢石亭の四仙亭

イメージ 17
海金剛の風光・・・           海金剛 叢石亭




イメージ 19





●日本統治時代の朝鮮・・⑱外金剛山の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わりした上、未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入して、短期間に整備した)・・(明治43年~昭和20年)

韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる、進歩的であり円滑である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に三倍の進歩を遂げた。

 (韓国在住 宣教師ラッド博士)
 

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗黒を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な改革が、どれほどまでに賞賛されたことだったろうか。韓国人が自らの手ではとうてい行えなかった偉業であった。

 (韓国評論家 朴泰赫)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣
イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠                    大日本帝国総理大臣 山形有朋↑
          日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月


1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 2
外金剛山の風光・・・  金剛山 彩霞峯より外金剛と日本海を望む
彩霞峯は標高1,588m、奇抜な外金剛衆峯を脚下に従え、遠く日本海を望む広大な展望が、特に秀逸と言われている。

イメージ 3
外金剛山の風光・・・ 外金剛 断崖の一頁を飾る、雄大なる山容の姿

イメージ 25
外金剛山の風光・・・  外金剛随一の絶景・・新萬物相三仙巖

イメージ 4
外金剛山の風光・・・      外金剛第一の奇観 鬼面岩

イメージ 26
外金剛山の風光・・・      外金剛、連珠譚付近の登山路

イメージ 5
新金剛山の風光・・・        新金剛 萬象峯

イメージ 6
外金剛山の風光・・・  ↑外金剛 連殊譚渓谷       ↑外金剛の玉流洞

イメージ 7
外金剛山の風光・・・      外金剛 玉流渓谷 玉流洞

イメージ 8
外金剛山の風光・・・ 外金剛山中第一の巨瀑、 九龍滝の壮観

イメージ 9
外金剛山の風光・・・       外金剛 玉流渓 九龍淵

イメージ 10
                     現在の外金剛 九龍滝

イメージ 11
新金剛山の風光・・・          新金剛 石門瀑

イメージ 12
新金剛山の風光・・・        新金剛 乱糸の滝

イメージ 13
新金剛山の風光・・・        新金剛 十二瀑

イメージ 14
外金剛山の風光・・・         外金剛 神渓寺

イメージ 18
外金剛山の風光・・・      外金剛 玉流渓 神渓寺

イメージ 23
      今の外金剛 神渓寺の佛塔 (天上の彫刻が欠落している)

イメージ 15
外金剛山の風光・・・    外金剛 神渓寺より 観音峰遠望

イメージ 16
新金剛山の風光・・・           新金剛 松林寺

イメージ 17
外金剛山の風光・・・          外金剛 中内院

イメージ 19
外金剛山の風光・・・          外金剛 楡岾寺
金剛山中の巨刹にして、その創立は新羅の中世に属し新羅南解王の時建立せられ、現建物は李朝中世再建されたものなり。

イメージ 20
外金剛山の風光・・・         金剛山 九龍淵

イメージ 21
外金剛山の風光・・・↑富霞渓中の景観、文殊譚   ↑金剛山探索者の拠点、弁余晴原の社

イメージ 24
外金剛山の風光・・・        外金剛 温井里の風景




イメージ 22




●日本統治時代の朝鮮・・⑰内金剛山の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府の国家運営能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭し、日本への併合を望む声が高まり暴動にまで発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]
          

                                                                                                               

 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 22
金剛山の風光・・・   自然美の盟主 大金剛
雄大豪快なスケール、奇々怪々な山容と尽きることなき変化によって、世界的名山の威容を備える金剛山一万二千峯こそは、山を愛し自然を慈しむ者にとって最大の恩人である。
朝鮮鉄道東海中岳線の開通は、この霊山と人間との距離を著しく縮め、京城より車中一夜の安眠によって、その麓に達することができる。

イメージ 1
金剛山の風光・・・           金 剛 山

イメージ 2
金剛山の風光・・・      金剛山麓全景 (金剛山観光の拠点)

イメージ 3
金剛山の風光・・・            金剛山 三仙台

イメージ 4
金剛山の風光・・・          金剛山の眺望

イメージ 5
金剛山の風光・・・              金 剛 山
江原道の東北に林立する一万二千衆峯の総称である。

イメージ 6
内金剛山の風光・・・内金剛 金剛山中の最高峰 毘慮峰の大観
金剛山、一万二千衆峯中、山容の整然たるにおいて、山岳趣味の豊満なるにおいて最高峰 毘慮峰を抜く山はない。 海抜1,786メートルのその頂に立ちて望めば、遠く日本海の大海は紺碧の鏡面を浮かべ、三千世界を一人掌中に収めたる如く、実に天下の大観である。

イメージ 7
内金剛山の風光・・・  内金剛 望軍台の頂上より見た眺望

イメージ 8
内金剛山の風光・・・        内金剛 望軍台の眺望

イメージ 9
内金剛山の風光・・・         内金剛 明鏡台
明鏡台は霊源洞裏に在り、長安寺より十町潤浄にして、玉を磨き奇岩の四面環峯の間に擁立す。

イメージ 23
内金剛山の風光・・・         内金剛 明鏡台

イメージ 10
内金剛山の風光・・・          内金剛九龍沼
イメージ 11
内金剛山の風光・・・         内金剛 萬瀑洞上

イメージ 21
内金剛山の風光・・・         金剛山 萬瀑洞渓谷

イメージ 12
内金剛山の風光・・・       内金剛 萬瀑洞真珠潭

イメージ 13
内金剛山の風光・・・        秋の金剛山渓谷

イメージ 14
内金剛山の風光・・・        内金剛 水簾洞の瀑

イメージ 24
内金剛山の風光・・・   法起峯の断崖に建つ古刹、普徳窟

イメージ 15
内金剛山の風光・・・         内金剛 表訓寺全景

イメージ 25
内金剛山の風光・・・          内金剛、三仏巖
               金剛山中、三大佛、六十小佛を封ずる巨岩

イメージ 26
内金剛山の風光・・・          内金剛、妙吉祥
              「佛に夕日さす、足元にも行かず」 碧梧欄

イメージ 16
内金剛山の風光・・・       内金剛 西山大師浮屠場

イメージ 18
内金剛山の風光・・・          内金剛 長安寺 
長安寺は内金剛に入り最初に逢看する大寺院であり、外金剛楡岾寺と共に山中の二大刹なり。 創建遠く新羅興王時代なるも壬辰の兵火にあい空しく灰燼に帰す。
現在の建物は李朝中期のものなり。(北朝鮮の管理下では寺院は放置、存続は無理でしょう)

イメージ 17
内金剛山の風光・・・          内金剛 長安寺

イメージ 19
内金剛山の風光・・・        内金剛 本山 長安寺




イメージ 20





●日本統治時代の朝鮮・・⑯京城と仁川の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・9/13.大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 1
京城の風光・・・京城郊外、象頭山漢江神社境内より漢江ごしに南山を望む

イメージ 23
           ソウル・・・現在の南山遠望

イメージ 2
京城の風光・・・       南山山頂の記念碑
大空は晴朗に澄み渡っている。緑の風が爽やかに流れていく。南山の頂には記念碑が大空を貫いて高く聳えている。麓には彼の有名な奨忠壇公園があり市民はここに集うものが多い。

イメージ 17
京城の風光・・・       遊園地の子供機関車と踏切

イメージ 18
京城の風光・・・            パゴダ公園の蝋石塔
往昔の大円覚寺の跡にある。この十三層の石塔は、全部大理石で造りその塔身には隙間もなく、仏像人物、鳥獣草花を浮き彫りし、彫刻技の優雅なるは鑑賞に値する。

イメージ 19
京城の風光・・・          パコダ公園の石仏塔

イメージ 20
京城の風光・・・     パコダ公園、六角堂より音楽堂を望む

イメージ 21
京城の風光・・・        京城パコダ公園石佛塔

イメージ 22
京城の風光・・・         京城パコダ公園石佛塔

イメージ 3
京城の風光・・・   ↑奨忠壇公園            ↑パゴダ公園蝋石塔
・          ↑南山公園             ↑南山山頂付近


イメージ 4
京城の風光・・・↑漢江のスケート  ↑京城グラウンド    ↑漢江畔発電所

イメージ 5
京城の風光・・・  (上より)・京城 漢江畔発電所  ・人道橋  ・漢江鉄橋

イメージ 26
京城の風光・・・(上より) ・龍山漢江鉄橋   ・漢江水泳場  ・草鞋(ぞうり)売り

イメージ 6
京城の風光・・・京城郊外、象頭山漢江神社境内より漢江の鉄橋を望む 

イメージ 7
京城の風光・・・     京城郊外、象頭山漢江神社 全景

イメージ 8
京城の風光・・・  京城郊外、象頭山漢江神社 第三鳥居付近の景観



イメージ 9
仁川の風光・・・       明治後期、仁川周辺の俯瞰 (2枚組)

イメージ 10
仁川の風光・・・      東洋唯一の仁川閘門式ドック全景
仁川港は潮の干満の差が7~8mも有るので、大型船はドックに入って荷の積み下ろしをする必要がある。

イメージ 24
仁川の風光・・・        陸上より見たる朝鮮仁川港全景 (2枚組)

イメージ 25
仁川の風光・・・         陸上より見たる朝鮮仁川港

イメージ 11
仁川の風光・・・        仁川 突堤長橋より月尾島を望む
イメージ 12
仁川の風光・・・  仁川市街より月尾島に通ずる大突堤終点の景観

イメージ 13
仁川の風光・・・        仁川・月尾島浴場内の遊泳場

イメージ 14
仁川の風光・・・   仁川・月尾島の海水浴場と大プールの賑わい

イメージ 15
仁川の風光・・・      仁川・月尾島遊園潮湯の水泳プール




イメージ 16





●日本統治時代の朝鮮・・⑮京城府の風光・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]



 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 1
京城の風光・・・          京城府全景

イメージ 2
京城の風光・・・  ↑京城医学専門学校       ↑京城帝国大学予科

イメージ 12
京城の風光・・・京城帝国大学 (ソウル大学の前身だが、何一つ、この姿は残って無い)

イメージ 26
・             今のソウル大学正門

イメージ 16
京城の風光・・・↑京城中学校     ↑公文商業学校      ↑麓山中学校
       ↑第二公立高等女学校             ↑第一公立高等女学校

イメージ 17
京城の風光・・・(上より)・軽機関銃射撃予行演習 ・歩兵第78連隊 ・歩兵第79連隊
            ・銃剣術試合実況

イメージ 18
京城の風光・・・        春畝山博文寺 慶春門

イメージ 19
京城の風光・・・ 春畝山、博文寺 故伊藤博文公の菩提寺として、昭和7年建立されたが、戦後破壊された。

イメージ 21
京城の風光・・・     春畝山、博文寺 故伊藤博文公の菩提寺

イメージ 20
京城の風光・・・           春畝山、博文寺 

イメージ 3
京城の風光・・・        春畝山、博文寺 

イメージ 4
京城の風光・・・     春畝山、博文寺 (故伊藤博文公の菩提寺)

イメージ 5
京城の風光・・・    春畝山 博文寺全景 奨忠壇公園より望む


イメージ 6
京城の風光・・・         緑樹滴る閑静な奨忠壇公園

イメージ 7
京城の風光・・・           奨忠壇公園

イメージ 8
京城の風光・・・   奨忠壇公園は、往年韓国士卒の招魂場たりし所である。
喧騒を離れた閑静な公園で南山北麗の松翠を負うて風致よし、園内には故伊藤博文公の菩提寺、博文寺がある。

イメージ 9
京城の風光・・・         昌慶苑正門・・弘化門

イメージ 10
京城の風光・・・        昌慶苑の桜花と花見風情

イメージ 22
京城の風光・・・          春の昌慶苑

イメージ 11
京城の風光・・・(上から)・京城神社  ・郊外清涼里 ・青絡寺 ・北漢山城壁

イメージ 13
京城の風光・・・        表参道に拝す・・・朝鮮神宮
官幣大社朝鮮神宮は天照皇大御神、明治天皇の御二柱を畏くも半島鎮護の神として仰ぎ奉った尊き御宮である。

イメージ 14
京城の風光・・・         朝鮮神宮 一の鳥居正面

イメージ 23
京城の風光・・・            朝鮮神宮
    草の芽が萌えて、朗らかな空があるよ、そよ風がそっと来て、裳をなぶる嬉しさ・・・

イメージ 24
京城の風光・・・     光化門の見える京城風景(1900年)

イメージ 25
京城の風光・・・↑東大門から見た鐘路(明治28年・1895) ↑昭和5年(1930)の京城          



イメージ 15





●日本統治時代の朝鮮・・⑭京城府の町並み・・絵葉書


【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】

1392年~1637年・・・明の(属国)
1637
年~1897年・・・清の(属国)
1897
年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903
年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。

1905・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。

1910年~1945年・・・大
韓帝国の要請を受け日本が併合
(韓国皇帝、純宗が「請願」し
総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)

     寺内正毅初代総督 ↓           ↓ 李完用大韓帝国総理大臣

イメージ 1
   ↑大韓帝国皇太子 李垠(イ・ウン)             大日本帝国総理大臣 山形有朋↑            日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月

1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948
年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。

1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの 大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)
1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。


イメージ 1
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。

但し、絵葉書は見ての通り
社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。

それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。

順次、ご紹介して参りたいと思います。



   [新義州]-[義州]           [会寧]-[羅津][雄基]
       |                         |
     [萬瀑洞]            [羅南][清津(チョンジン)] 
      [徳川]              [咸興]
------[朱乙]
・          |               |
・ 
       [鎮南浦]-[
平壌]----------[元山]
             [開城]                     [釈王寺]
・                       |                 |
  [仁川]-[京城(ソウル)]
--------[金剛山]
       
 |
            [公州][報恩]
   [扶余][論山] 
---------- [大邱]--[慶州]
        |             |    [蔚山]
       [木浦]
--[馬山][鎮海][釜山]


 日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。

イメージ 1
ソウルの町並み・・・       京城市街の中央部
大なる洋館は・・・手前より郵便局、朝鮮銀行、鉄道ホテル、京城日報社

イメージ 2
ソウルの町並み・・・          京城郵便局

イメージ 12
ソウルの町並み・・・          京城郵便局

イメージ 17
ソウルの町並み・・・↑郵便局と三越百貨店    ↑朝鮮銀行前の大広場


イメージ 18
ソウルの町並み・・・        広場を前に京城郵便局
南大門通りと、本町通りと、長谷川町とがほぼ十字に交差する広場を前にして京城郵便局が建っている。 赤と白との華麗な建物で朝鮮でも珍しい建物の一つである。

イメージ 19
ソウルの町並み・・・    最も繁華なる本町一丁目 (京城郵便局付近)

イメージ 20
ソウルの町並み・・・↑朝鮮銀行    ↑東洋拓殖会社京城支店 ↑朝鮮殖産銀行
         ↑京城郵便局               ↑京城株式現物取引所

イメージ 21
ソウルの町並み・・・     京城の広場に蒼然たる朝鮮銀行本店

イメージ 22
ソウルの町並み・・・↑商工奨励館       ↑商工会議所     ↑京城日報社


イメージ 3
ソウルの町並み・・・ 京城朝鮮ホテル        ↑朝鮮ホテル庭園の一部

イメージ 4
ソウルの町並み・・・        京城朝鮮ホテル

イメージ 5
ソウルの町並み・・・          京城朝鮮ホテル

イメージ 6
ソウルの町並み・・・          美しき京城停車場

イメージ 7
ソウルの町並み・・・    レンガの明るい色に映える京城駅

イメージ 8
ソウルの町並み・・・京城駅を望む
京城駅はルネッサンス式石材煉瓦併用鉄筋コンクリート建の壮麗な建物である。
表関は二階建て、乗降路は三階建てになっていて、
中央には大玄関を設け乗降客の通路とし、階上には食堂その他の設備がある。


イメージ 9
ソウルの町並み・・・       京 城 駅

イメージ 10
ソウルの町並み・・・↑京城駅構内より南大門通りを望む  ↑京城駅  ↑市内、龍山駅


イメージ 11
ソウルの町並み・・・  京城・南大門通り二丁目

イメージ 13
ソウルの町並み・・・  京城・南大門通り一丁目

イメージ 31
ソウルの町並み・・・  京城・映画の殿堂・明治座


イメージ 14
ソウルの町並み・・・(左より) ・本町通り ・南大門通り ・黄金町通り

イメージ 25
ソウルの町並み・・・↑南大門通り          ↑南大門通り 
       ↑南大門通り          ↑韓路通り


イメージ 15
ソウルの町並み・・(上より)・京城府庁 ・総督府鉄道局 ・鉄道学校 ・総督府逓信局

イメージ 28
ソウルの町並み・・・   宏壮なる 京 城 府 庁

・・↓● その日帝時代の旧京城府庁を襲う・・
   通称「ツナミ」 ソウル新市庁舎

イメージ 26

イメージ 30
   ソウル市庁舎に覆いかぶさる新館がコレ・・・

イメージ 23
ソウルの町並み・・・     京城の旧市街地

イメージ 24
ソウルの町並み・・・   京城の旧市街地  (同一地点)

イメージ 27
ソウルの町並み・・・  京城の旧市街地 (道路の中央に排水溝)  

イメージ 29
ソウルの町並み・・・ 1895年(明治28年)併合前のソウル市街全景
併合近代化前のソウルがコレ。藁屋根群落の向こう遥かに光化門と景福宮が見える



イメージ 16





保存

このページのトップヘ