泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2013年05月

26・支那戦線・・絵葉書・・

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                 最前線、配置に付け・・


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             突 撃 前    川島 理一郎 筆

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            攻  撃       石井 光楓 筆


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                   歩哨兵の監視

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                   目標地到達

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                   朝もやの進軍

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            江上艦艇の活躍     奥瀬 英三 画

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                    良民救護

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             広範に活躍した96式陸上攻撃機

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          出動前の陸の荒鷲       鶴田 吾郎 筆

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           兵砲一魂・・高射砲   長谷川 春子 画


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                     野戦高射砲




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25・支那戦線・・絵葉書・・

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砲兵陣地     向井 潤吉 筆

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前兵児謡  頼山陽の詩歌

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進  撃


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風紀衛兵交代   毎日一定の時刻に、衛兵所の前に二列横隊の整列。
ラッパが高らかに吹奏され、これぞ衛兵の交代式です。

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演習整列    御飯が済む、たばこ一服、演習整列の令が伝わる。
早速支度を整えて営庭へ並びます。 これより各種の修練が展開されるのであります。


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車両で移動転進      鶴田 五郎 筆

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94式6輪自動貨車  愛国第54、55(下関)


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6輪自動貨車  愛国第52、53(福岡)

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自動車隊   武藤 夜舟 筆

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仰ぐ銀翼

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護れ大空

護れ大空(画面はキ-61型飛燕) http://www.youtube.com/watch?v=LiZaSY6KKlQ


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英霊靖国に還る(英霊移送列車の出発)   大橋 城 筆




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24・支那戦線・・絵葉書・・

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光家宅の攻撃     長坂 春雄 筆

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待 機      向井 潤吉 筆

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突  撃

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雄叫び・・・攻撃は最良の防御

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残敵粛静      鶴田 吾郎 筆

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出撃の機運、ようやく熟す(戦車兵)

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突入する戦車    向井 潤吉 筆

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漢詩 偶 成   大島 圭介

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大陸行進曲  (敵陣地攻略万歳)

大陸行進曲・・・http://www.youtube.com/watch?v=2ldLdW1YEis


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前進あるのみ

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最前線の仮眠    鶴田 吾郎 筆

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白 百 合

従軍看護婦の歌・・キング女子愛国合唱団・・                            http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=zSNtNr0KmfA

【軍歌】 婦人従軍歌 


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欽橋東方、速攻大殲滅戦に奮戦する皇軍   中村 研一 筆




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●支那戦線・・絵葉書・・


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渡河揚陸

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揚子江を圧する我が無敵艦隊


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京都・霊山護国神社献納 坂口・上住部隊戦闘史図  敵前上陸  北村春哉 画


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京都・霊山護国神社献納 坂口・上住部隊戦闘史図 
歩兵第109連隊・鈴木中佐、
宗仏山頂の奮戦   北村春哉 画
(揚子江中流、香口~湖口付近の宗仏山前面の掃討)

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京都・霊山護国神社献納 坂口・上住部隊戦闘史図   担架兵 北村春哉 画


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京都・霊山護国神社献納 坂口・上住部隊戦闘史図   頑敵殲滅戦 北村春哉 画

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京都・霊山護国神社献納 坂口・上住部隊戦闘史図 
宗佛山頂に東天を拝す  北村春哉 画

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聖戦四年、七月七日(盧溝橋事件日) 陸軍省   藤田 嗣治 筆

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敵戦車に肉迫攻撃(沙華峯にて、川村上等兵らの奮戦)  等々力 巳吉 画

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父よ、あなたは強かった

父よあなたは強かった・・皇軍将士に感謝の歌・・ http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=5XXggeAttdw


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敵拠点夜襲

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露営の歌

軍歌・・露営の歌  http://www.youtube.com/watch?v=lzpjBdxz5io


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兵器整備    熊野 礼夫 筆

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大河も恐れず・・・進路の開拓・・・架橋作業

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モータートロッコで急進

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日露戦役三十周年  陸軍記念日



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昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・

昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンなどほとんど無く、時々夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。
ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。
昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことありました
  
【第54話・松山での空襲】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。

いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
             戦災前の清水小学校   上=南西方向から見た正門  下=東南方向から見た全景


 警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)
 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先に運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の三津浜方面だろうか。
  あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

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      清水国民学校(清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・・
 
 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
 防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高商北側の帰り道を、砂埃を上げながら懸命に走って行く。

松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。

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          松山高等商業学校の正門(東門)


 防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。


 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕を回しながら身振りで指示している。

 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

練兵場に並べてある戦闘機のすぐ横の周辺である。

           
((●●s城北練兵場●
通学路から城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・

【第36話・城北練兵場の変貌】参照→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8803577.html


 爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。
 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


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        B29が、4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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               ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。


 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。
 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判ない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く把握することが出来ない。
 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。
 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。
 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていたあの煙を、西方に見てみた。
 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている。


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      6kmほどの三津浜付近から、黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は、夜には炎に染まって、真っ赤に見えていたが「一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じた。

『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』

一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

「5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった」


あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。
 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知あるまで通学見合わせ・・家庭待機」と云う通達が為された。




昭和20年5月4日●松山の丸善製油所が爆撃された日・・・

昭和19年までの松山市は、空襲警報発令によるサイレンなどほとんど無く、時々夜中に警戒警報のサイレンが鳴ったあと、米偵察機の気だるい爆音がして遠ざかってゆく程度のものでした。
ところが昭和20年になると、米軍機爆撃行は豊後水道を経て伊予灘に抜け、呉軍港、広島、宇部、小野田や水島、北九州工業地帯への通過点としてB29やB24、B25の爆撃飛行銀座になっていたのです。
昭和20年3月に艦載機グラマン10機ほどが松山市内に来襲し、堀の内の第22連隊辺りを機銃掃射していたのを、城山越しに見たことありました
  【第54話・松山での空襲】参照・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9422738.html


 松山市の城北地区、私が清水国民学校(清水小学校)二年雪組になって間もなくの新学期・・・雲一つない清々しい昭和20年5月4日の朝のことでした。

いつものように琢町(みがきまち=緑町2丁目の一部)の子供等が、上級生に引率され集団登校して、授業が始まって間もない頃、城山の空襲警報サイレンが鳴り始めた。


(((_855清水小_0
               戦災前の清水小学校  上=南西方向から見た正門  下=東南方向から見た全景


 警戒警報ナシの、いきなり緊急速報状態の空襲警報なので一瞬で緊張が走った。
 教室に居るときに空襲警報が発令されると、直ちに椅子を机の上に置いて、机の下にもぐり、防空頭巾を被り、親指を耳に当て他の指で目を塞いで伏せるように・・・と教えられていたので、直ちに全員がその動作に入った。
 二階の教室でも隣の教室からも、同様に椅子を引く音や椅子を机上に載せる音が、ゴトゴト聞こえていたので、相当あわただしい動きに感じていた。


 机の下へ潜り込む前だったと思うが、突然
ゴゴー・・・ドドーン・・・という強烈な破裂音と地響きがした。

誰もが顔面蒼白の必死の形相になって、しどろもどろしているのが判る。
 窓ガラスがビリビリ震え続けて、地震のような、それはスゴイ震動だった。
 直感的に、超低空を飛行機が飛び・・・どこかが爆撃された!・・・と私は感じたのだ。

(実際は頭上を低空で飛んだのではなかった様だが、ゴゴーの音は、そのような感じの音だった)
 それから、1~2分間、物音一つしないシーンとした静寂が続いていました。
 防空頭巾を被り、両手で耳と目をふさいで、全員が机の下で、息を殺して指示を待っていた。

しばらくして廊下の方向から「防空壕へ退避!」の声が聞こえ、受持ちの草野先生からも「地区別の防空壕へ退避してください・・・」との指示が出て、我先に運動場へ帰宅地域別に集合し、運動場の周囲に掘られている防空壕へ、直ちに避難した。
 
 この防空壕は、深さ約1メーター、幅約2メーター、長さ約5メーター程のものだったが相当深く感じた。
 跳び下りるとき、下駄を履いた足がガクガク震える。
(当時、ズック靴は配給制で中古ゴム底+料金が必要で、体育の時間中心使用していた)

4月から1年生になった弟の俊光も、既にそこへ来ていて伏せていた。


 
皆が西の方角を見ながら、非常に気になる素振りをさせているので目をやると、校舎の屋根越しに、こげ茶色の煙が立ち昇っているのが見えた。 

真西の方向の三津浜方面だろうか。
 あの<<ドド~ン>>の震源地だろう・・・

イメージ 2
     清水国民学校(清水小学校)の屋根越しに、煙が上がっている・・・
 
 最初のドドーンという音がしてから5~6分程経過していたと思う。     
 防空壕へ避難してからも、あたりは大変静かであったが、僕らは緊張感とこれから何が始まるのかとの不安感で自然に手足がガクガク震えがきていた。


 各地区の班が、各々駆け足で帰路に付き始めた。
 運動場にある裏門(南門)より出て、畦道を抜け松山高商北側の帰り道を、砂埃を上げながら懸命に走って行く。

松山高商(松山大学)の正門(東門)を通過する頃、かすかに飛行機の爆音(エンジン音)らしい音が聞こえてきていたが道路の砂利の音にかき消されてしまっている。
 防空頭巾を被ったまま、ズックや藁草履か下駄を履いて、砂埃をあげて走る上級生のあとを追って、息も絶え絶えに一生懸命走った。
 子供たちが走る足音と防空頭巾にかき消されて、爆音が聞こえ難かったのだろう。
 前方を走っていた上級生の数人が立ち止まり、後方を向いて左側の城北練兵場へ避難するように、大声と腕を回しながら身振りで指示している。

 西の方角から爆音は徐々に大きくなって、その音で敵機が近づいているのが解かる。
 既に練兵場へ跳び下りている上級生もいた。
 ばたばたと皆が跳び下りて伏せている。
 道路の方が練兵場より約1メーター高い段差なのと、道路の真下は溝になっているので畦道のような段が付いている。
 僕も反動をつけて跳び下りた。 
 前のめりになるほどで、足がズボッとめり込んだ感じだ。
 直ちに数歩小走りして、皆の伏せている付近で、耳と目に指をあてがって伏せた。

練兵場に並べてある戦闘機のすぐ横の周辺である。


((●●s城北練兵場●
           通学路から城北練兵場へ跳び下りて伏せた・・・
【第36話・城北練兵場の変貌】参照・・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/8803577.html



爆音は益々大きくなってきている。子供心にも「1機や、2機ではないぞ・・・」と思いながらブーンともゴォーンとも言える、重苦しく、腹の底に響く爆音を聞きながら、気になるので何度も空を見上げて探していた。
 鈍い銀色のB29が4機、西から東へ飛んでいるのが見える。 相当な高空である。
 それも朝日に輝きながら、ゆっくりと悠々と、4機が一糸乱れぬ編隊を組んで不気味に近づいている。


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          B29が、4機編隊で我々の真上に差しかかってきた・・・


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                ボーイングB-29 爆撃機
 
B29の編隊はいよいよ、我々の伏せている真上へ差しかかって来た。

「今、爆弾を落とされたらおしまいだ!」・・・と、身を硬くして、顔を引きつらせ、息を殺して歯を食いしばっていた。
 それでなくとも、城北練兵場の我々が伏せている周辺には、訓練用の旧式戦闘機が並べられており飛行機格納庫が四棟も建っているのだ。

 上級生の誰かが叫んだ・・・「弾倉(爆弾投下口)が開いてないから大丈夫じゃ!」
 僕らは何のことか解からぬまま、また見上げる。
 B29は真上から、やや通り過ぎたが、爆音はまだ全方向から響いて来ている。
 「まだ動くなよー、後続機が来るぞー」と上級生が、伏せたまま大声で叫んでいる。
 ブーンとも、ゴーゴーともつかぬ轟音のため、後続機が来ているかどうかも判ない。

周辺にも他の編隊がいないか目を凝らしてあちこち見たが判別できなかった。
 爆音のしてくる方角があの4機なのか、後続機の音なのかすらも全く把握することが出来ない。
 しばらく伏せて、様子見している間に、後続機もなくB29は通り過ぎて行った。


 爆音が徐々に低くなり、後続機は来ていないと判断された頃、全員が立ち上がり「再度、来襲が有るかもしれないので・・・走って真っ直ぐ家へ帰れ!」との、班長の指示のもとに、弟らとそこから500m程の自宅へ息せき切って走り帰った。
 琢町(緑町)の自宅へ帰宅してから二階へ駆け上がり、裏の窓から爆撃で上がっていたあの煙を、西方に見てみた。
 学校で見たあの茶色の煙が、なんとその時は、もくもくと真っ黒い煙となって、はるか北の方向へ南風に乗ってドンドン流れている。


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      6kmほどの三津浜付近から、黒い煙が北の方へもくもくと流れている・・・


 火災の勢いが相当強いらしく、火元付近では黒い煙がもくもくと勢いよく噴き上がっている。
 祖母浦子は「三津浜の丸善精油所が、やられたらしいョ」と教えてくれた。
 その煙は、夜には炎に染まって、真っ赤に見えていたが「一昼夜燃え続けとった・・」と、祖母は翌日になって教えてくれた。



『愛媛新聞』は5月5日付の小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じた。


『マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は、高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し、そのヽち今治付近上空を経て遁走したが、10分もたヽぬ間に、こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲、軍事施設を狙って投弾-----被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は、いやが上にも昂まり『この仇、きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた』


一方(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)の記述・・・

 「5月4日午前8時10分には、第1波8機のB-29が、同日午前8時25分には第2波9機のB-29が松山海軍航空隊基地を空襲し、それは基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と、3人の行方不明、169人の重軽傷者がでる惨事となった。」


あの日、祖母浦子が教えてくれた「丸善製油所がヤラレタらしいよ・・・」の言葉は、あの日松山市民がその目で見て、口伝えで一夜で広まったものだろうとは思いますが、誰が見ても「製油所の火災じゃ・・・」は一目瞭然の光景だったのです。
 子供の私らが見ても「油が燃えた真っ黒い煙」であるのは、明確でしたから「丸善石油じゃろう」と薄々感じ取っていて子供等の話題にはなっていました。


  この日を境に「空襲等による危険を避けるため、1~2年生は通知するまで家庭待機」と云う通達が為された。



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