● 太田天橋 の軍隊漫画絵葉書・・(その3)
京都府・丹後・野田川町出身(京都府与謝郡与謝野町) (1893~1972)
当時カメラが一般的に普及していなかった時代の『報道画家』であった。
関東大震災で自らも被災しながら東京の街の様子を目にやきつける。
病身の妻を伴って丹後に避難するが、すぐに東京へ帰りその惨状をペン画にした。
その後、昭和の支那戦線に従軍し広報・宣伝の絵も描いた(それが後に“軍国画家”のイメージを生む)がために、戦後は作品を焼かれるなどし、中央画壇からも顧みられることはなかった。
時代に翻ろうされた悲運の「報道画家」だった。
← 北満州の歩哨
太田天橋 画
支那事変の最前線に身を置き、報道する彼の絵には、他の漫画家に無い最前線たる緊迫感が画面の中に滲み出ております。
← 黄泥舗○○隊本部の衛兵
太田天橋 画
戦地新聞 (昭和14年1月30日 月曜日発行、第80号)『鄭州に大爆撃』我が永持部隊は28日午後、第4次鄭州爆撃を行い、敵第29軍「第3回目の峡縣大空襲」川瀬爆撃隊は28日午前、峡縣漬関束迄を空襲行、大打撃を与えた。峡縣爆撃は、これが第3回目である。(戦線で発行された謄写版新聞の[使う紙4,5枚]表紙で、謄写版印刷のものを、絵葉書にしたもの)
『你(ニィー=盲人)の唄、時々眼をば、開けている』胡弓を弾きながら、哀れを乞う街の楽師の多きことよ。彼等の大部分が盲人であり、老人であり、老妻に手を曳かれ、こがいに腕を扼まれてトボトボと街から街へ哀音のリズムを流して行くさまは、誠に痛々しく測穏の情も起きるというもの。しかし、戦地の支那人はことごとく間諜(スパイ)と思えば間違いないほど、皇軍の動向は敵陣に知られてゆく。殊にビッコが駆け出したり、手の無い乞食が物を掴んで逃げ出すなどは、茶飯時の支那である。時に盲人の楽人、スパイでないと誰が断言しえようか。
『皇軍の前も平気で、運んで居り』市民の逃げ去った後に残っているのは、貧民と乞食である。家はがら空き、時こそ来たれとこれらの者どもが、公然の盗賊を働く。軒並みの空き家へ入って机といわず、腰掛といわず、カーテン食器類の論なく担ぎ、或いは風呂敷に包み、大人から子供、女までが歩哨の前を平気で通り抜けて行くが、天罰はてき面である。この漫画が出ると同時に、彼らは、各歩哨前で歩哨から怒鳴られて、あたふたと回れ右をした。
● 作者不詳の軍隊漫画絵葉書・・
入 営
ラッパ練習
不動の姿勢 鉄棒体操
洗 面 所
満期退営
