泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2012年07月


中学校の卒業を、来年の春に控えた昭和二十七年秋のことでした。

担任の藤田先生が、進路指導を含めての聞き取り調査が始まって居りましたが、山間の小さな町内の事、高校進学などは家庭によほど余裕のある子息、子女の行くところじゃ・・・との風潮が残っており、子供ながらに「進学したいけど無理も云えんし・・・」と悩んで居りました。

と云うのもウチでは父は戦死、母は若くして他界した境遇のこの身、兄弟三人もが祖父母宅に居候の身だったのです。 終戦直後の当時、同級生の中でも家は空襲で壊滅し、父が戦死したという同じ境遇の子息はクラスの中にも十人近く居て、決して珍しいことではなかったのです。

祖父母の考えは、僕に就職する意思を貫かせて、精一杯に職に就く努力をさせた上で就職が叶わなければ別途方法を考える事とする・・・と心積りしていたのでしょうか、目標が潰えない様に努力させる為か、本人の意思も考えず中々「高校へ進学させる」と云ってくれませんでした。

 

戦災者扶養補助や戦死者遺族年金等も受給していたのでしょうが、中学生にその内情にまで理解できるものでもなく、祖父母の意向を尊重し就職する方向で努力をした挙句、若し叶わなければバイトしてでも高校へ進学するという道を選んだのです。

高校生の場合、日本育英会からの奨学金は千五百円/月もあり、これを申し込めば何とかなるだろうとの考えも持っておりました。 

 

そんなこんなで、中学三年生の後半は就職試験の問題集で徹底的に模擬試験に励んだのです。。

当時、中学卒で目指す先は、電電公社の傘下で社員養成施設の電気通信学園と電力会社の養成施設の電力社員養成所があり、合格すれば給与を受けながら養成終了後社員となる制度が有ったのです。

担任の藤田先生と相談して電気通信学園を数名が受検したものの、一握りの合格者を集めるのに数百人の受験者で、その上親族が勤務している縁故受検者は合格に有利との情報もあり、同僚も含めて全員不合格に終わったのです。

新聞配達も問い合わせてみたが、小さな町の事、成人の職業として成り立っており、バイトの入り込む余地など無いとのことでした。

高校の入試は周辺の山村の中学校も含めての受験だが、就職試験の問題集で訓練のお陰もあり、十数人程落伍したとの噂を聞きながらも、まずまずの成績で合格したが、仲の良い優秀な友人など数人は家業の手伝い等で定時制高校(夜間高校)にしたとの話を聞き、僕はまだ幸せな方なんだ・・・と感じ入ったものです。

 

中学校卒業式終了後に、担任の藤田先生に呼び出され『君はポスターや字を書くのがうまいが、映画館の辻ビラを書いてみないか? 本町劇場の映写技師をしとる先生の同級生が居ってな、高校へ入学する生徒で誰か辻ビラ書きのバイトを紹介してくれないかと依頼があったんじゃが・・・』とのこと。

先生は卒業した後の僕のバイト先を、何とか探してやりたいと常に気にしていてくれたのじゃなぁと先生の配慮に有難く感謝する気持ちが湧いてきました。

そう言えば三才年上の森野長一郎先輩が高校在学中にやっていた辻ビラ書きの仕事をしていて、松下電器への就職が決まったとの噂を聞いたことがあるが、それで辞めたんじゃなぁ・・・これは渡りに舟じゃ・・・と感じたのです。

『先生、僕にやらせてください。懸命に努力しますのでお願いします』と即答したのです。

『そんなら、すぐ連絡してみようわい・・・』と電話連絡してくれたのです。

先生は『明日の十時頃、本町劇場の竹崎さんを訪ねて来てくれ、社長に紹介するけん・・と言うとるけん、時間通り行ってください』

『先生、そうします。頑張ってきます』とわくわくしながら職員室を出たのです。


(●本町劇場1
内子町 本 町 劇 場

翌日、時間通りウチから五百米先の本町劇場へ竹崎さんを訪ねた。 竹崎さんは僕を社長のところへ連れて行き   『宮崎社長に話を通してあるから、社長から話を聞いてな・・・』と云って事務所から出て行った。

社長は『家の近所にも貼ってある辻ビラを書いてもらうのじゃが、見たこと有るじゃろ?』

『はい、知っています』

『いっぺんコレに【十五日、二本立 三十円 本劇】と、この筆を使って書いてみてくれるか』と筆、絵具鉢と用紙を差し出してきた。 僕はいきなり看板風の隷書文字を書くのはおこがましいと思い、習字のつもりの楷書で云われた通りに書いてみた。 

『うーん、筆慣れはしとるのぉー、じゃが看板字はこの様に書くのじゃ。 劇の字はややこしいので略してこうじゃのー』としっかりした筆使いで隷書風な看板文字を看板屋の様に上手く丁寧に書いて見せた。

『これを手本にして二、三枚書いてみてくれ』

僕は隷書を書く要領で難なく二枚仕上げました。『こがいなもんで、いいですか?』・・・

社長はそれを見て二、三度頷きながら『バイト料は高校の月謝の足しにするんか? 田舎の映画館じゃけん二本立てで三十円、四十円の入場料しか貰えんけんの~、余り出せんけどそれでも良かったら来てくれや。 高校の月謝はなんぼなんじゃ?』

『一ヶ月に七百円です』

『よっしゃ、それじゃぁ月給七百円にしょうわい、明日から毎日来れるか?』

『土、日曜以外は三時まで授業が有るので、毎日四時には来ますから・・・宜しくお願いします』という事を伝え事務所を出たのです。 永い間悩んでいた懸案のバイト先が決定したことで、やっとこさ安堵の胸を撫でおろした次第でした。  

 

町内にはこの本町劇場と旭館の二つの映画館があり、加えて内子座と云う立派な芝居小屋もある。

パチンコの普及する以前の時期でもあり、テレビの無い時代の事、おのずと娯楽は映画か、芝居しか無く芝居小屋には定期的に巡業芝居一座が興行し、本町劇場は大映、東映、新東宝系で旭館は東宝、日活、松竹系で二百席程でしょうが、夜は周辺農村からも客が来て娯楽は映画しかない時代なので、いつも満員状態で映画館だけは大賑わいをしていました。

 

 翌日からいつもの下駄ばきで歩いて行き、改札口の小母ちゃんに「バイトの福島です」と会釈して入ったら、すかさず映画ポスターを差し出してきた。


 『明日十六日の映画はコレじゃけんな、コレと同時上映【駅前旅館】の二本立て四十円となっとるけん、明日からはポスターの準備状況を見て上映予定表と料金を確認して書いてな、判らなんだら教えるけん聞いてよ』 

そして小さな片手鍋を持ってきて 『コレ、にかわ(膠)を溶かしたお湯じゃけんな、コレで粉末絵具を溶かして書くのよ、コレで絵具を溶かさんと、ビラが雨に濡れたら字が流れて消えてしまうのよ・・・』と用紙三十枚と赤、紺、黒の絵具鉢と筆を用意していた。作業は二階の映写室横の高圧線整電機のある部屋で常にブーンと云う整電機の唸り音がしている、それに加えて隣の部屋の映写機のコマ送りの音がうるさい場所でした。

 床に置いてある台の上で中腰になって書いてゆくのです。


(本町52

 『適時、休憩のつもりで映画を見てもエエから・・・』と云われていたので二階の隅でゆったりと一息入れたり、売店でアイスを買ったりと比較的自由も利くのです。

 館内のメンバーは社長の他、切符売り場、改札係、売店、清掃の小母ちゃんが四人、映写技師の竹崎さんと助手の七人でしたから、直ぐに馴染みになってゆきました。

 

 三十枚書き終わると筆を洗って道具を整理して、書き上げた三十枚を改札の小母ちゃんに渡すのです。小母ちゃんは『コレをポスターに貼って繋ぐのがウチの仕事じゃけん・・・、それとなぁココで働く人の家族は、改札はフリーパスじゃけんな、(福島の家族です・・・)と云うてくれたらエエけんな』とのことだった。

 帰宅後にそれを祖父母に伝えたら『おこがましいから、そんな事出来んわい。 漫画映画の時、弟等が行くじゃろ』との返事だった。

 

その数日後、待望の高校入学、一年一組となり京大出身の宇都宮正弘先生が担任となったが、同じクラスに当時未だ無名だった大江健三郎の妹が偶々在籍して居たのです。 


そういう事もあってか先生は、僕らが名前も顔も知らない三年先輩の大江健三郎を何かに付けて例えに出し 「大江さんの兄貴、大江健三郎君は当校へ入学したんじゃが、あんな頭脳明晰な男は、今まで見たことが無いぞ、カミュや太宰治を読んでいて只者じゃない思考力がずば抜けとった。 彼は当校に入学したんじゃが二年生から松山東校へ転校させたんじゃ、今は東大へ進学を目指しているので、いずれ大成することじゃろ」

「当校に居ったのでは大江健三郎のあの才能は伸びんわ、下衆の中ではあれだけの卓越した能力の芽が摘み取られてしまう。 東大を目指すのなら松山東高校へ転校しろと言うてな転校させたんじゃよ」 と並外れた才能を見抜いていた大江の良き理解者でもあり、名立たる大学への合格率の良い松山東高校への転校を先生主導で勧めた様でした。

(低俗な一般人に同調できない気質と内気が禍いして、級友から陰湿な虐めを受けたらしく、二年生から松山東高校へ転校したそうです・・・)

【参考】
忘れかけの内子町風景・・⑯ 作家 大江健三郎 ↓

http://y294ma.livedoor.blog/archives/26496443.html


(((●G_3342
 1年1組 宇都宮先生と大江健三郎の妹(前列左端)

 

入学後一ヶ月ほど経たホームルームの時間に担任の宇都宮先生は『この前言うとった(バイト届)を持ってきている人、提出してください」との事で提出した。 バイト先と勤務時間、作業内容を書いただけのものだが、担当教諭が情報把握だけはしておきたいとの主旨の様で、僕ともう一人が提出した。

先生はざっと目を通しながら『福島君、本町劇場の木戸口の小母ちゃんはな、先生の姉御じゃからな、ビラ書きしに行って映画ばかり見とったらいけんぞ。 真面目にやらんと監視付きみたいなもんじゃからなぁ』とダメ押しの一言がきた。 級友の目の前で、他の生徒への牽制の意味も含めて明からざまにしたのでしょうが、一同から失笑が漏れていました。

狭い町のこと、そういえば改札の小母ちゃんは宇都宮さんだったな、知らなんだなぁ・・・と納得した次第です。

それから先生は『級長をしてくれていた岩田君が病気療養のため明日から三ヶ月間、療養所へ入るので、代行者を選任することになったんじゃ・・・、福島君、君やってくれ・・・』

 『先生、僕バイトの件も有って気分的余裕がなく責任重大過ぎです。選挙で選んでください』

 『新入生は見知らぬ者同士、選挙が出来んから入試の成績で岩田が選ばれとったんじゃ。 二番目が君だったんじゃ。 級長の打合せ会合と云うてもクラブ活動で忙しい者も居るんじゃけん、三十分ほどじゃ、何とでもなるよ・・・』と押し切られてしまった。 考えて見れば入試の成績が思わぬところで公開され判明してしまったのでした。

 

約半年が過ぎてバイトにも慣れ、洋画やあっけらかんと笑える喜劇の面白さが好きに成り、伴 淳三郎、堺 駿二、古川ロッパらが出演した笑える映画は時々見に行く様になりました。

ところが夜行くと、いつも何処かの席に必ず担任の宇都宮先生が坐っていて映画を見ているのです。

生徒が遊び呆けて映画を見に来てないか・・監視を兼ねて来ているのかな?と感じるのです。

木戸口に姉さんが坐って居るのでフリーパスは当然なのですが、娯楽と云えば映画だけの時代です、それも毎日の事、先生の夜の時間つぶしには最適だったのだと思われます。

劇場近所の友人に、その事を話したら『ワシらも睨まれたこと何度も有るぜ。木戸口の小母ちゃんが宇都宮先生の姉さんじゃけん、タダじゃから毎晩、時間つぶしに来とるんよ。そじゃけん一階で見るのは大禁物じゃ』と要領を得た反応が返ってきたのです。

 

欠勤も無く真面目に務め一年が経過した三月の給料日に、社長から『毎日、真面目に頑張ってくれとるなぁ・・・二年目の来月から月給千円にしてやるけん、頑張れよ頼むぞ』との期待と労いの言葉をかけて貰い嬉しい気持ちが湧いてきた。

月謝を払った残り、三百円の小遣いが残ることになるのか・・・と満足感に浸ったのです。

(本町104.2
 

客席が暗闇の田舎の映画館のこと、昼間の閑散とした時間帯には思い掛けない事態に遭遇することが有ります。作業が一段落して休憩しようと作業室を出ると、二階席であり正面がスクリーンで、そこに濃厚なラブシーンが写っていたのです。

朝鮮戦争を描いたハリウッド映画が映写中でした。 空軍パイロットに扮したタイロン・パワーが従軍先から郷里へ帰り恋人と再会する場面でした。二人は互いに走り寄って抱き合いながら、熱烈で激しい接吻を繰り返しているのです。二人が離れようとした時、二人の唾液が繋がったまま糸を引いてこぼれそうになったのです。それをこぼすまいとタイロン・パワーが口で瞬時に迎えに行く仕草をする場面だったのです。

僕は濃厚なその場面に見惚れてしまっていました。

暗闇に眼が慣れて来て、ふと二階席前列を見ると一組のアベックが坐っており、映画のそのラブシーンに触発されてか、互いに腕を背に絡ませ抱き合い、男性が被さりながら永い熱烈なキスを続けているのです。

田舎でもこんな場面に遭遇することもあるんじゃなぁ・・・という思いで初めて見るキスの姿に見惚れてしまいました。

更に後部席に人の気配がしたので目をやると、同級生の俵頭君が一人っきりで坐り、スクリーンそっちのけで前のアベックがキスする様をじっと目を凝らせて観察していたのです。

俵頭君と僕は眼が会ってお互いが黙して笑顔、目と目で指と指でお互いに冷やかし合いをした次第です。


以来、昼間の二階席は結構な穴場じゃなあ・・・と解かってきたようでした。

近所のバーのお姉さんとそのお客さんが、二階席の隅の暗闇で映画場面など目もくれず、昼間からいちゃいちゃしているのを偶に見ることもあり、多少なりとも眼の保養にも成っていたのかも知れません。

 

全く苦悩を感じることも無く充実した三年間でした、少々の苦労をも楽しさや明日への糧にに変えてゆく気概を持ちながら、高校三年生の夏までビラ書きバイトを続けることが出来て、夏休み以降は就職準備に専念することとしたのでした。



 昭和2054日の朝、三津浜の丸善精油所を爆撃したB29が松山市上空を4機編隊で西から東へと通過しました。
 丸善精油所は南風を受けて、黒煙を上げながら燃え続け、一昼夜燃え続けていました。

 当時、清水国民学校(小学校)2年生だった私は、空襲警報の中、全校生徒は防空壕へ退避の後、集団下校したのですが、走りながら帰る途中で、そのB29が上空を通過したのでした。
 「今、投下されたらおしまいだ・・」と恐怖を感じながら帰宅したのです。
翌日の「愛媛新聞」記事は「西南から進入したB29は815分頃、軍事施設を盲爆し、今治付近を経て東方へ逓走した」だけで被害の内容は無報道だったのです。

【その日の状況】→頭上のB29・・http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/9477431.html


 全国の主要都市が爆撃に晒される最中でしたので、その翌日から松山市では、『危険の為小学1~2年生は無期休学』となったのです。
母の実家の内子町では「休学はしていない」とのことでしたので、5月中旬に私と弟だけ内子へ疎開転校したのです。
(6月になってから、松山では『1~2年生は町内の天理教会で、補修授業が始まった・・・』との連絡を受けたのでしたが、内子に馴染んできたので、しばらく様子見しようと内子町に留まったのです)

 
内子で・・その2ヶ月後の726日・・

夜中に祖母タキノにたたき起こされた。 12時頃か・・・1時頃か・・・
 「早よう起きて! おおごとじゃぁ! 松山が空襲で、燃えとるぜ!」と言っている。

 二階表の部屋だ・・「こりゃ、大変じゃ!」
 寝ぼけまなこで、とっさに跳び起き、寝巻のままで下駄をひっかけて外へ駆け出した。
 近所の人らが、郷の谷橋(ごんたにばし)のところで10人ほど集まって、北の方向を見上げている。
 行って見ると、新天神さんの奥の空が、真っ赤に染まっている。


イメージ 4
           郷の谷橋から、空爆で燃える松山の空が見えた・・・


 深々と更けた田舎の夜のこと、静寂の中に遠雷のような音がかすかに聞こえ、赤く染まった空が時間とともに、明るくなったり暗くなったりしているのが解かる。
 遥か遠くをB29の通過する爆音も微かに聞こえている。
 これから爆撃に向かうものか、爆撃を終えたものかが気になる。

 「あの下で、末の弟・孝芳、浦子(祖母)、ヒサヨ(曾祖母)らが逃げまどうているのか・・・」という気持ちが、真っ先に頭をよぎるが「こんな遠くで・・・こんなトコで、寝巻き着てボーッと立っていてエエのか?」と自問しながらも、どうすることも出来なかった。

恐らく、主な荷物(行李4個)を避難させていた山越地区へ、必死で逃避行の途中でしょう・・・無事逃げていてほしい・・・と願っていたのです。

燃焼物の少ないコース、城北練兵場~千秋寺~松田池~山越への逃避行が眼に浮かぶ。
 無意識のままに手を合わせ、頭を垂れて無事を祈っていた。
 両手を合わせたまま、赤い空がある程度収まるまで見ていた。
 松山には「焼夷弾」(しょういだん=空中で爆発すると、飛散したゼリー状燃料が火の雨となって降ってくる)が降り注いだということを、翌日になってから知った。

約半月後に「3人とも無事に、山越公民館に避難している」との連絡が届いたのです・・・が一面の焼け野原の松山のこと、食糧調達も医療体勢もままならず、ひい祖母ちゃんは12月に他界し、祖母浦子(53才)も1月に相次いで他界したのです。

2回の葬儀に参加した内子の祖父ちゃんは、この時「松山は、とてもとても子供等を連れて行ける所じゃないわい・・・ひどい、ひどいありさまじゃ」と話してくれました。

 ごく最近、当時の記憶を、弟・孝芳曰く(当時4歳)・・・『空襲の時か、逃げる途中に、あぜ道の水路に落ちてズブ濡れになった。 (火災、火傷よけに、浦子が水に漬けたのかも?とも思える)
その時、浦子はバケツに魚を入れて持っていたが、足に火傷していた』・・との事であったが、兄の私が更に聞き出そうとしても、多くを語ろうとしなかった。(火傷防止用にバケツに水だったのか・・・?)

 
イメージ 1

イメージ 2
          空襲43日目の空撮、焼けただれた松山市街・・・
(杉谷町から、北へ3本目の琢町の西端突き当たりに桝形(折れ曲がり)が、くっきり見える)


イメージ 5
  ↑1947年頃の空撮、復興が始まった頃の松山。 城北練兵場の格納庫4棟跡も見える。


イメージ 3
                        これが至近の・・・松山市



保存

小野寺秋風の漫画は、前記事の「荒井一壽」のような特異なキャラではなく、一見素人臭のする画風ですが、やはり長期に渡り軍隊漫画絵葉書として国民に利用されました。

婦人雑誌などへの漫画の連載などもあり、知名度が広かったからかも知れません。

☆軍隊漫画絵葉書・・③ 小野寺秋風 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29503511.html

☆軍隊漫画絵葉書・・⑧ 小野寺秋風 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29590331.html

イメージ 1
                          歩兵砲と曲射砲

イメージ 2
                            要塞攻撃

イメージ 6
                       勝利の宴・・・陣中気晴らし

イメージ 7
                             洗  濯

イメージ 8
                     野戦病院・・・不眠不休の救護

イメージ 9
                          連合艦隊の出動

イメージ 10
装甲列車の驀進 

イメージ 11
潜水艦の活躍

イメージ 12
一死報国・・・ああ我が戦友

イメージ 3
電 信 隊

イメージ 4
坑  道


イメージ 5










 小野寺秋風の漫画は、前記事の「荒井一壽」のような特異なキャラではなく、一見素人臭のする画風ですが、やはり長期に渡り軍隊漫画絵葉書として国民に利用されました。

婦人雑誌などへの漫画の連載などもあり、知名度が広かったからかも知れません。

☆軍隊漫画絵葉書・・③ 小野寺秋風 http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29503511.html

イメージ 1
歩武堂々・・・皇軍の入城

イメージ 2
武器・被服の手入れ

イメージ 11

遼陽城頭・夜はふけて・・月下の歩哨

イメージ 10

露  営

イメージ 5
我らの生命線・・・満ソ国境

イメージ 6
待たれる便り、嬉しい慰問袋

イメージ 12
年ごとに栄える満州建国祭

イメージ 7
陣中の慰安・野天風呂と理髪

イメージ 8
余 興 会

イメージ 9
酒  保  (隊内の売店)

イメージ 3
大 演 習



イメージ 4











昭和初期から、軍事郵便として最も人気を博していたのは・・・
「荒井一壽」の軍隊漫画絵葉書でした。
これらは大東亜戦争中も広く使用され、私らが幼少時にいつも見ていたキャラだったのです。
漫画王国・日本で完全に忘れ去られている荒井一壽をご存知の方、講談社ほか出版社の方、どうか[WIKI]に紹介記事を載せてください。 

☆軍隊漫画絵葉書・・②荒井一壽→
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29493370.html
☆軍隊漫画絵葉書・・⑤荒井一壽(その2)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29524581.html
☆軍隊漫画絵葉書・・⑥荒井一壽(その3)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29539155.html

イメージ 1
                       出  兵・・・故郷からの出征風景


イメージ 2
                            夜間歩哨


イメージ 4
                            防毒マスク


イメージ 9
                            洗  面


イメージ 5
                            健康診断


イメージ 6
                            俸 給 日


イメージ 7
                             出張炊事


イメージ 8
                            食事運搬


イメージ 10
                            食事当番


イメージ 11
                            廠舎での食事

イメージ 12
                             鉄道警備



イメージ 3












昭和初期から、軍事郵便として最も人気を博していたのは・・・
「荒井一壽」の軍隊漫画絵葉書でした。
これらは大東亜戦争中も広く使用され、私らが幼少時にいつも見ていたキャラだったのです。
漫画王国・日本で完全に忘れ去られている荒井一壽をご存知の方、講談社ほか出版社の方、どうか[WIKI]に紹介記事を載せてください。 

☆軍隊漫画絵葉書・・②荒井一壽→
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29493370.html
☆軍隊漫画絵葉書・・⑤荒井一壽(その2)→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29524581.html

イメージ 1
                           戦 車 隊

イメージ 2
                            騎兵の突撃

イメージ 4
                    輜重兵(物資・弾薬運搬)の輸送

イメージ 5
 偽 装 網

イメージ 6
                             銃口検査

イメージ 7
                       宿 営・・・家庭への分散招待

イメージ 8
                         軍馬の手入れ

イメージ 9
                           軍馬手入れ

イメージ 10
                           衛 兵 所

イメージ 11
                             軍靴掃除


イメージ 3

 昭和初期から、軍事郵便として最も人気を博していたのは・・・
「荒井一壽」の軍隊漫画絵葉書でした。
 これらは大東亜戦争中も広く使用され、私らが幼少時にいつも見ていたキャラだったのです。
 漫画王国・日本で完全に忘れ去られている荒井一壽をご存知の方、講談社ほか出版社の方、どうか[WIKI]に紹介記事を載せてください。 

☆軍隊漫画絵葉書・・②荒井一壽→
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/29493370.html

イメージ 1
                             入  営


イメージ 2
                             兵器検査

イメージ 7
                             点  呼

イメージ 8
                            露  営

イメージ 9
                             歩  哨

イメージ 6
                縫 工 場 (②にも有るが絵が違う)

イメージ 10
                             演習中止

イメージ 11
                            演習整列

イメージ 3
渡 河

イメージ 4
陣 中 理 髪




イメージ 5




 荒削りだが豪快な漫画を描く矢部静水の軍隊漫画絵葉書です。
 画風は岡本一平(岡本太郎の父親)の漫画に似たところがあるので、どこかに接点があるのかもしれません。

 (私は昔、岡本一平作の「富士御岳神社」へ山伏が「ろっこんしょうじょう(六根清浄)、ろっこんしょうじょう」と唱えながら、参拝する漫画【A3版】を持っていたことがある)

イメージ 1
入営の朝・・・ 「必ずご期待に添うようやって参ります」 【入営の日は、三ツ星に、成る気なり】
「留守中は何卒宜しくお願いいたします」「必ずご無事でお帰りの日を、お待ち申しております」

イメージ 2
斥候に付き教官殿の学科・・・斥候が敵情を報告するに、一番大切なことが四つある。A・何時 B・誰が C・何処で D・何して。 これを一番早く覚えられる方法を教える。それは義太夫の三勝半七の文句である。A・今頃は B・半七さん C・どこで D・どうして御座ろうやら~・・・この文句で覚えとけ~

イメージ 5
兵器の手入れ・・・「何でも2年兵の話では、兵器検査の時には、剣のこんな窪みに付くほこりまでも、よく見るそうな、気を付けようぜ」「天野、お前の銃の番号を覚えたか?」「覚えたとも、1896897番だ、どうだ長いだろう」「俺のも長いぞ、しかし銃は兵隊の魂と言うが、俺の戦友なんか夜間演習で、叉銃(さじゅう)してある沢山の銃の中から、自分の銃を持ってくるよ。どこに印が有るのか知らないがエライものだな」

イメージ 6
銃剣術・・・「まだやってら~、お~い、間稽古は、雨で取り止めだぞ」 
【間稽古に、夕立がきて、活気付き】


イメージ 7
初の食膳に向かって・・・「軍隊は地方で思ったより、2年兵たちの言葉づかいも丁寧で親切だし、それに・・このご馳走を見ろ!お頭付きで果物まで付いてら・・・俺のとこのお祭りよりよっぽどご馳走だ!」「どうした戦友、まだ食べんのか?」「どうだ、食べられるか、お~もう空か・・」

イメージ 8
射撃予行演習・・・「お前にゃ~どうしても、この左目がつむれんのか?」「班長殿、吉田は射撃予行演習に参りました!」「引き金は心で引くな!手で引くな!闇夜の霜の降りるように引け!この要領でジリジリと力を入れて・・・良いからと思ってガクリと引くなよ!」

イメージ 9
敬礼(真面目兵隊によくある型)・・・敬礼をされる相手はまだはるかに遠い・・・それなのに本人は、夢中になって敬礼をしようと右手に力を入れつっぱって用意して行きます。(進行中、上官に対する敬礼は、相手の8歩前にさしかかった時するものです)

イメージ 10
初年兵教育(跳躍運動)・・・「跳躍運動はこの要領でやる!よく見ていろ!うんと胸を張って、できるったけ前へ跳び、跳んだ瞬間弓のようになり、地に着いたら体がぐらぐらになってよろけん様に気をつけること。それでは、各個に数回始め!」

イメージ 4
診断ラッパにより中隊前に患者の集合・・・
「さあ集まったか!今日は何と種々様々な患者が集まったものだな!」
(演習中馬にけられて傷ついた者)
(演習の後、汗に濡れたシャツを着替えなかったため、風邪を引いた者)

(酒保で、うどんとしるこを食べ過ぎた者)(不潔にすると、よくこのように腫れ物が出来ます)
(昨日の行軍で医務室に土産のマメを持って行く者)

イメージ 11
楽しい外出・・・【衛兵に、済まないような、外出証】
「今日はどうしても、あそこへ行こう」
「おい山本、帰営時間に遅れるなよ、それから上官に逢ったら欠礼せんように気をつけろ!何でもかまわない、兵隊と思ったら手を挙げて敬礼をすれば、間違いっこないよ」

「大丈夫であります、1時間前には必ず帰ります」
「服部、今日はいいトコへ案内するから一緒に来い!」

「この前のコトもあるし、お前と一緒はコリゴリだよ!」



イメージ 3




 小野寺秋風の漫画は、前記事の「荒井一壽」のような特異なキャラではなく、一見素人臭のする画風ですが、やはり長期に渡り軍隊漫画絵葉書として国民に利用されました。

婦人雑誌などへの漫画の連載などもあり、知名度が広かったからかも知れません。

イメージ 1

イメージ 5
                 入  営

イメージ 10
暴力支那への懲罰・・・皇軍の進発
                           

イメージ 4
               銃 剣 術 訓 練

イメージ 13
                非 常 呼 集

イメージ 6
                射 撃 訓 練

イメージ 7
               寝 ず の 番

イメージ 8
                大砲の手入れ

イメージ 9
               軍 艦 旗 掲 揚

イメージ 11

            背嚢枕の草の上・・・故郷の夢路

イメージ 12
               匪 賊 撃 滅

イメージ 2
              東 亜 の 黎 明



イメージ 3



 満州事変(1931)の頃から日本国民に愛されてきた軍隊漫画絵葉書の中で、最も人気があり普及したものが「荒井一壽」のものでしょう。
絵葉書を見た人ならば、丁寧な筆のタッチ、人物の愛嬌たっぷりの表情の豊かさを見れば、ほほえましいものが感じられるからです。


ただ、「荒井一壽」の名は、当時は有名を馳せたのでしょうが、終戦後「小野寺秋風」の名前は出ても、「荒井一壽」の名前を聞くことは殆ど無くなっており、[Wiki]でも検索不能の状況になっております。

たった70年前に、一世を風靡した漫画家・荒井一壽を検索出来ないなんて、漫画王国の日本において許されることでしょうか?
 (荒井一壽・・・に、お詳しい方
[Wiki]に記述をお願い致します)

 「軍隊漫画絵葉書」と言えば「荒井一壽」の描くキャラクターが、今でも想い浮かんでくる程の、強烈な印象を残していた漫画家なのです。

 これほどの漫画家を、忘れ去ってしまってはなりませんよ。


イメージ 1

イメージ 2
検  閲

イメージ 6
不動の姿勢


イメージ 7
被服手入れ

イメージ 12
行  軍


イメージ 8
重機関銃サイドカー

イメージ 9
衛兵の交代 「カシラーッ ミギ!」

イメージ 10
執銃の敬礼

イメージ 11
縫工場・・・制服の補修


イメージ 3
行軍中の休憩


イメージ 4
ラッパ演習


イメージ 5



軍隊漫画と言いますと、先ず思い出されるのが田河水泡作「のらくろシリーズ」ですが、軍隊漫画絵葉書となれば「小野寺秋風」「荒井一壽」と「矢部静水」の三人に集約されますね。

ただ、断然小野寺秋風と荒井一壽の絵葉書は種類も多く、昭和初期、満州事変から支那事変、大東亜戦争にかけて大量に軍事郵便に使用され、また長期間のため画風も少しづつ変化して、双方が似てきた気配も出ています。

軍隊を漫画化することは侮蔑の笑いは厳禁、ユーモアの範囲内の笑いに徹することで、長期にわたり愛されたものだったのでしょう。
画材の舞台も召集・入営に始まり指導教練・前線移動など多岐におよび、戦地設定は昭和6年に始まった満州・支那戦線がほとんどでした。
これも大東亜戦争でのビルマ戦線、フィリピン戦線までが限界線で、椰子の木林が描かれた漫画が最終だったようです。

田河水泡小野寺秋風は、戦後も少年雑誌に漫画の連載をしていましたので、どなたにも画風などは広く知れ渡っていました。

イメージ 1

漫画作家・左から【福井英一】【島田啓三】【田河水泡】【倉金章介】【太田じろう】(当時の売れっ子漫画家です)他に横山隆一、横井福次郎、馬場のぼる小野寺秋風等が居ました。

(この頃は【手塚治虫】は第1「新宝島」が出た頃で・・学生上がりの、まだ駆け出しでした。雑誌【少年】に「鉄腕アトム」の連載が始まったのが、この頃です。
未来を描いた少年クラブ連載の「不思議の国のブッチャー」横井福次郎の影響を、手塚治虫は受けているな・・の印象でした。)


イメージ 2

昭和初期から軍隊漫画として青少年の喝采を得た「のらくろシリーズ」
戦後は引揚者としての耳の垂れた「のらくろ」の生活が連載されていた。



これが【矢部静水】の漫画絵葉書です。
ちょっと荒っぽい画風なので、小野寺秋風ほどには出回ってなかったようです。(後に特集を予定しております)
イメージ 7
「不動の姿勢」の教育


【小野寺秋風】の漫画絵葉書

発行時代によって、画風が変化している様子を見てください・・・
イメージ 16

イメージ 8
名誉の連隊旗

イメージ 9
衛 兵 勤 務

イメージ 12
営内のオアシス・・・酒保  (国旗は米、仏、日、英、満州)


【馬場のぼる】の漫画絵葉書
(軍隊漫画絵葉書としての作品は僅少ですが、キャラの表情から見ると
馬場のぼるの絵だと判明できます。)
イメージ 13
衛 生 隊 


【荒井一壽】の漫画絵葉書
訓練風景が主流、描画が丁寧で、人物表情に愛嬌があり非常にうまい。
イメージ 15

イメージ 14
半 舷 上 陸


イメージ 11
武器手入れ


イメージ 10
行 軍

イメージ 3
探 照 灯

イメージ 4
「伏 せ!」の訓練

イメージ 5
突 撃



イメージ 6




ブログ「泰弘さんの追憶の記」を製本し、1冊づつですが松山と内子の図書館へ寄贈しました。
記述の中に下記内容があるからです。

\¤\᡼\¸ 1


36話 昭和1920年の「松山・城北練兵場」周辺の変貌の様子・・

\¤\᡼\¸ 2
松山城北練兵場へ訓練用戦闘機が運び込まれた・・

54話 昭和203月の堀の内周辺へのグラマンの機銃掃射の状況・・

\¤\᡼\¸ 11
松山市琢町(緑町)から見えたグラマンの攻撃・・

\¤\᡼\¸ 12
防空壕から首を出せば見えるのです・・


55話 昭和205月の三津の丸善精油所爆撃延焼と「B29の編隊飛行」・・ 

\¤\᡼\¸ 13
清水小学校校庭にある防空壕へ走った・・

\¤\᡼\¸ 3
西から東へB29が真上に迫ってきた・・今、落とされたらお仕舞いだ・・

\¤\᡼\¸ 4
丸善精油所の燃える、真っ黒い煙は南風に流されて・・・


58話 内子国民学校(小学校)へ疎開転校と内子での生活・・

\¤\᡼\¸ 5
                     堂々たる風格の内子小学校でした・・


75話①~④内子町にあった忠魂碑は今?と内子出身・重岡中将閣下のエピソード・・

\¤\᡼\¸ 8

←内子町にあった38cm砲弾を頂いた忠魂碑


\¤\᡼\¸ 9
                  ↑潜水艦の権威、重岡中将閣下


71話①~②松山東雲高等女学校生の尼崎方面・学徒動員先からの便り・・

イメージ 1
イメージ 2




















↑昭和20年2月2日学徒動員先、尼崎からのはがき・・↑昭和20年6月10日 松前の動員先から・・


本ブログ、カテゴリーの『爺ちゃん、婆ちゃんに捧ぐ追想録』を1冊にまとめまして、家族・親戚分として製本したのですが、余裕分を図書館用として贈呈したのです。

松山に於いても昭和20年7月26日夜の「松山大空襲」の空襲状況は語られておりますが、それ以外の空襲については殆ど語られておりません。
「愛媛新聞」でさえも、軍部の報道統制のもとで「三津浜の丸善精油所が被弾して全焼」とは書けなかったし、記録は残ってないのです。

その全ては「朝8時10分にB29、8機編隊が松山航空隊基地を空襲し、盲爆のあと逓走した」とあるだけなので、記録として残っているのは非常に限られたものと考えられます。
 
\¤\᡼\¸ 10
 
製本はYahoo社で推奨する「My Books. Co」社で、訂正校正は全てnetにて自己校正で行いました。
写真、カットも含みますので文庫本【B6版】で【468ページ】となり、「MyBooks. Co」社では1冊の限界は480頁でしたので、丁度切りも良かったのです。
1冊あたり約10,000円に成りました。
製本するに当たっては、一般的には1ロッド=数十万円かかりますが、「My Books. Co」社さんではロッドに関係なく1冊より、受け付けてくれますので、少数注文者にとっては大助かりでした。
 

 さて、送呈先の図書館3ヶ所は・・・次の通りです。

     戦時中の松山市での空襲や城北地区の子供らの生活記述が多いので・・・
松山市立中央図書館 (松山市湊町7丁目5番地、松山市総合コミュニティセンター内)

http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisetsu/bunka/library/chuotosho/chuoutosyokan.html

   【蔵書検索エンジン】↓

 
     疎開先の内子町(母の里)での生活記録も多いので・・・
   内子町立図書館 (愛媛県喜多郡内子町内子3427番地.
   http://www.town.uchiko.ehime.jp/library/

   【蔵書検索エンジン】↓

 
     松山東雲高等女学生の尼崎方面、勤労動員先からの報告はがき内容の詳細記述があるので・・・
松山東雲女子大学 図書館 (松山市桑原町3丁目21

【蔵書検索エンジン】↓
http://lib.shinonome.ac.jp/jhkweb_JPN/service/termref.asp


このページのトップヘ