泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2012年03月

日露戦役・・【日本海海戦の勇壮な艦船】・・絵葉書⑧

 はるばるヨーロッパから航海して来た、バルチック艦隊38隻を迎え撃ったのは、戦艦、巡洋艦など108隻から成る聨合艦隊でした。

 大東亜戦争時の大和や武蔵のような、勇壮なスマートさは無く、どの艦艇も荒削りな豪快さに溢れた顔を持っておりますね。

 当時は対空砲火は無用の時代・・・重砲装備専門ですから、まるで海に浮かぶ要塞そのものです。

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         ↑ 帝国戦艦  周防(すおう)


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       ↑ 旗艦  三笠(みかさ)  昭和9年頃


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・          ↑ 巡洋艦  出雲(いずも)


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・      ↑ 帝国戦艦  安芸(あき)  高速力航走


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・     ↑ 巡洋艦   吾妻(あずま)  一般拝観中


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 ↑ 帝国巡洋艦 吾妻(あずま)


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 ↑ 帝国巡洋艦 八雲(やくも)


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       ↑ 帝国第1艦隊  相模(さがみ)


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       ↑ 帝国戦艦  盤手(いわて)  9,750t


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 ↑ 帝国巡洋艦  常盤(ときわ)  排水量 9,885t  速力 22.


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戦艦「三笠」の進水式 明治33年11月  於・英国ビッカース社




日露戦役・・【日本海海戦】・・絵葉書⑦

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 バルチック艦隊の来襲が、当初予想していた1月よりも大幅に遅れたため、日本側には時間的な余裕ができた。バルチック艦隊が対馬海峡を通過するとみた連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾に集結し、訓練に明け暮れた。

 1905年5月27日午前4時45分、五島列島沖で警戒にあたっていた連合艦隊の特務艦信濃丸は大艦隊を発見し、「敵艦らしき煤煙見ゆ」と無電を発信した。
 予想通りバルチック艦隊が対馬海峡に向かっていることを確認した連合艦隊は、5時5分、朝鮮半島鎮海湾を出撃した。大本営に対しては、「敵艦見ゆ との警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との電文が打電された。日本海海戦の幕はここに切って落とされた。

 午前10時、旧式艦からなる第3戦隊と第4駆逐隊がバルチック艦隊と接触し、砲戦が行われた。正午、第4駆逐隊がバルチック艦隊の前を横切ると、機雷を散布されたと思ったロジェストウェンスキーは隊形を変換した。しかし、経験が不足しているバルチック艦隊は混乱し、不利な2列の隊形と なってしまった。そこへ、戦艦4・装甲巡洋艦8を主力とする連合艦隊があらわれたのだった。
 午後1時39分のことであった。

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                            ↑ 聨合艦隊の雄姿

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 ↑ 日本海海戦の実景
『皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!』


 1時55分、連合艦隊旗艦三笠に、Z旗がひるがえった。「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」との信号旗である。
 両軍はすれ違うような形で接近していた。午後2時5分、距離が8000mになった時点で、東郷司令官は突如取り舵(左折)一杯を命じた。のちに東郷ターンとして知られる「敵前大回頭」である。
 これはきわめて危険な賭けであった。ターンの最中は砲撃が行えないため、一方的に撃ち込まれる恐れがあった。
 しかし、これはバルチック艦隊と並進する形に持ち込み、できるだけ長い間戦闘を続けるための動きだったのである。
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            ↑ 旗艦、三笠艦上の東郷元帥


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        ↑ 日本海大海戦・・・艦砲射撃

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 ↑ 日本海大海戦・・明治38年5月27日 午後2時過ぎ・・


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↑ 日本海大海戦・・敵艦撃沈の実況


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↑ 日本海大海戦・・明治38年5月27日 午後3時過ぎ、敵艦スワロフ沈没の光景


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           ↑蔚山沖海戦 第2週記念・・・明治37年8月14日

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   ↑ 日本海海戦の実景

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 東郷元帥の余香を留める軍装と長官の近辺を犯せし弾片並びに自筆の箱書き・・↑


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  ↑ 日本海大海戦実景


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↑手前より 「香取」「出雲」「盤手」「常盤」「浅間」の戦艦、巡洋艦

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↑ 旅順陥落時の連合艦隊首脳部・・

 13分後、回頭を完了した連合艦隊は一斉砲撃を開始した。バルチック艦隊の先頭を走っていた戦艦スワロフとオスラビアはたちまち火炎に包まれ、戦線から離脱した

 猛訓練を積んだ日本軍の砲撃の発射速度と命中率はロシア軍の3倍にのぼっており、晴天で見晴らしがよかったこともあって次々に命中弾を得た。砲弾には燃焼力が高い下瀬火薬が用いられており、ロシア艦の上部を焼きつくした。

 夜になると日本側は駆逐艦と水雷艇による襲撃を行った。その結果、バルチック艦隊はさらに戦艦2隻を失い、バラバラになってしまった。
 翌日、日本軍は追撃戦を行った。重傷を負い、駆逐艦に移っていたロジェストウェンスキーはこの時捕虜となった。比較的損害の少なかったネボガトフ支隊(戦艦2・海防戦艦2など)も包囲され、降伏した。
 
 ここに、バルチック艦隊は文字通り全滅した。
 ウラジヴォストークまでたどり着いたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけだった。日本の損害は水雷艇3隻のみであり、世界史上に残る完全勝利であった。

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    ↑ フランスで発行の・・・「日露戦争図」



次回は・・(海戦に参加した艦艇の雄姿)を予定


日露戦役・・旅順陥落・・【水師営の会見】絵葉書⑥

 一進一退が続く激戦の末、ついに旅順要塞を陥落しました。

 疲れきった兵士達は両軍入り乱れて、お互い国のために尽くした健闘を称え合ったといいます。
 乃木大将は、昨日の敵であるロシアのステッセル将軍の元へ食糧や酒をたくさん届けて、戦い疲れたロシア兵を労いました。


 日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された

 旅順戦で投降した旅順要塞司令官のステッセル中将が会見のために水師営にやって来ました。
 乃木大将は沿道に隊列をつくって迎えることを禁止し、敗軍の将を見せ物にすることを避けました。
 またステッセルと副官には帯剣を許し、敗軍の将に敬意を持って接しました。
 さらに会見の場の報道撮影を敗軍の将たちの名誉を理由に拒否しました。

 敗軍の将ステッセルに示した乃木希典の紳士的な応対は、各国の報道陣を感激させました。

 この会見をよくあらわしているのが戦前の、今で言う小学校の国語教科書です。
 以前は歴史のこのようなこともきちんと教えていたのですね。
 http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/16555894.html・・から転載しました。


 明治38年1月5日午前11時---この時刻を以て、わが攻団軍指令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになった。

 会見所は、旅順から北西四キロばかりに地点、水師営の一民屋である。

 附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていた。
 この一民屋だけが残っていたのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからである。

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↑水師営日露両将軍会見の所・・龍河に上流峡谷のやや広きところに水師営がある。露軍の旅順に篭城するや、クロパトキン保塁を築きステッセル将軍開城のとき、双方将軍ここに会見せり(改築前の会見所)


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↑ 旅順における捕虜の救護       戦地における患者の担送



 前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真っ白な布を掛けた。
 下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほえんだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、「あの新聞紙を、白くぬっておくように。」といった。新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからである。

 先に1月1日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来た。
 乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両代表は、旅順開城の談判をすましたのであった。
 その夜、山県参謀総長から、次のような電報があった。
 「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖国のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで伝達す」そこで三日、乃木将軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を伝達することにした。

 命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル将軍のところへ行った。
 ステッセル将軍は、副官に言いつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持って来させ、身支度を整えてから不動の姿勢を取った。
 津野田参謀が、御沙汰書を読みあげると、副官は、これをロシヤ語に訳して伝達した。
ありがたく拝受したステッセル将軍は、「日本の天皇陛下より、このようなもったいないおことばをいただき、この上もない光栄であります。どうぞ、乃木大将にお願いして、陛下に厚く御礼を申し上げてください。」といって、うやうやしく挙手の礼をした。
 乃木将軍が『たむかひし、かたきも今日は大君の、恵みの露にうるほいにけり 』と詠んだのは、この時である。

 4日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけた。
 長い間篭城していた将士たちに、このおくり物がどれだけ喜ばれたことか。

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↑ 水師営会見所へ来所のステッセル将軍とその幕僚


 11時10分前に、スッテセル将軍が会見所に着いた。
 白あし毛の馬に、黒い鞍を置いて乗っていた。
 その後に、水色の外套を着た将校が四騎続いて来た。
 土塀で囲まれた会見所に入り、片すみに生えていたなつめの木に、その馬をつないだ。

 まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着した。
 乃木将軍は、黒の上衣に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられてあった。
 静かに手をさしのべると、ステッセル将軍は、その手を堅くにぎった。
 思えば、しのぎをけづって戦いぬいた両将軍である。

 乃木将軍が、「祖国のために戦っては来たが、今開城に当たって閣下と会見することは、喜びにたえません。」とあいさつすると、ステッセル将軍は「私も、11箇月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくおあいするのは、まことに喜ばしい次第です」と答えた。
 一応の儀礼がすむと、一同は机を取り囲んで着席した。

 ステッセル将軍が「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことです。殊に工兵隊が、自分の任務を果たすまでは、決して持ち場を離れないえらさに、すっかり感心しました。」というと、乃木将軍は「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」という。
「しかし、日本軍の28サンチの砲弾には、弱りました。」
「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」
「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戦死したのです。」
 コンドラテンコ少将は、ロシヤ兵から父のようにしたわれていた将軍で、その日もロシヤ皇帝の旨を奉じて、部下の将士を集めて、激励していたさなかであった。
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん変わって来ましたね。変わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう」
「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」
「わが二十八サンチにも驚かれたでしょうが、海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、面くらいましたよ」 ・・・うちとけた両将軍の話が、次から次へと続いた。

 やがてステッセル将軍は、口調を改めて、「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戦死なさったそうですが、お気の毒でなりません。深くお察しいたします」とていねいに悔やみをのべた。
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。祖国のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう」と、乃木将軍はおだやかに語った。
 「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」

 それからステッセル将軍は、次のようなことを申し出た。

「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼っています。今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思います。お受けくだされば光栄に存じます。」

 乃木将軍は答えた。
「閣下の御好意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一応軍で受け取って、その上、正式の手続きをしてから戴きましょう。」
「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでしょうか。それとも、馬がおきらいなのでしょうか。」
「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大すきです。さきに日清戦争の時、乗っていた馬が弾でたおれ、大変かわいそうに思ったことがあります。今度も、やはり愛馬が弾で戦死しました。閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思います。」
「あ、そうですか。よくわかりました。」
「ときに、ロシヤ軍の戦死者の墓は、あちこちに散在しているようですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、わかることなら、将士の氏名や、生まれた故郷も書いておきたいと思いますが、それについて何か御希望はありませんか。」
「戦死者まで、深いお情けをいただきまして、お礼のことばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンドラテンコ少将の墓は、どうか保存していただきたいと思います。」
「承知しました。」

 やがて用意された昼食が運ばれた。戦陣料理の乏しいものではあったが、
 みんなの談笑で食事はにぎわった。
 食後、会見室から中庭へ出て、記念の写真を写した。

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↑ 水師営会見での記念撮影
【後列左から】川上事務官、安原参謀、マルチェンコ中尉、松平副官、渡辺管理部長
【中列左から】レイス参謀長、乃木大将、ステッセル中将、伊地知参謀長
【前列左から】ネベルスコーユ参謀、津野田大尉



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↑ 水師営会見所の庭内


 別れようとした時、ステッセル将軍は愛馬にまたがり、はや足をさせたり、かけ足をさせたりして見せたが、中庭がせまいので、思うようには行かなかった。
 やがて、両将軍は、堅く手をにぎって、なごり惜しみながら別れを告げた。
(初等科国語より)
・・・・・・

 水師営の会見の際に乃木大将はロシア兵の戦没者を丁重に祀ることを約束しました。
 明治40年、日本は各地に散在するロシア将兵の墓を旅順に集めて、ロシア風の墓地と顕彰碑を作って日本政府主催により盛大な慰霊祭を行いました。
 ロシア正教とロシア軍関係者を招き、乃木大将は日本代表として参列しました。

 明治42年に、日本軍の戦没者を慰霊する旅順白玉山表忠碑が建てられ、慰霊祭が行われました。

 日本軍の慰霊祭より先にロシア側の戦没者慰霊祭を行っているのです。

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 ↑ 野戦郵便局
   新聞の配布、野戦郵便局正面、郵送物の発着


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        明治37・8年戦役、陸軍凱旋大観兵式記念    
          明治39年4月30日 元帥陸軍大将総代 大山 巌







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日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【椅子山堡塁、大案山子山堡塁】⑤

 明治37年12月、椅子山堡塁では、前のターンに配置転換された野砲第2旅団の援護射撃のもと第1師団が最後の突撃を敢行した。しかし、周囲のロシア軍砲台からの砲撃と、守備隊による必死の反撃によりここに投入された第1師団9ユニットの内6ユニットが除去され3ユニットが退却となり、この攻撃は完全に失敗した。またこの頃、東鶏冠山堡塁に突入した第11師団もロシア軍の反撃にあい占領に失敗している。

 占領の可能性があった3ヶ所のうち2ヶ所に失敗した日本軍は最後の望みを二龍山堡塁の第9師団にかける。28サンチ砲の砲撃もすべてここに振り向けられた。その威力は凄まじく二龍山山頂の機関銃陣地を吹き飛ばし、松樹山堡塁より駆けつけたロシア軍増援部隊をも粉砕する。第9師団は残るロシア軍守備兵を瞬く間に排除し、二龍山堡塁を完全に占領する事に成功した。ロシア軍にそれを奪回する力は既に無く、日本軍の勝利が確定した。

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↑ 王家甸南西凹地における28cm榴弾砲の発射


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↑ 旅順、椅子山堡塁


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↑ 旅順、椅子山堡塁


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↑ 旅順、椅子山堡塁の遠望・・・旅順港背面要塞の、中心部にある永久堡塁で、明治38年1月2日閉城規約成立と同時に、保証として占領したものである。



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↑ 旅順、大案山子山堡塁・・・遥か前方の山頂に椅子山堡塁が見える。


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↑ 旅順、大案山子山堡塁・・・旅順要塞中、最も堅固な堡塁で明治38年1月2日の閉城規約成立の際、椅子山堡塁と共に保証として占領したものである。


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↑ 旅順、大案山子山堡塁山頂の一部


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↑ 旅順、北斗山上の露軍観測所跡



日露戦役・・203高地攻略直後の・・将校団記念写真・・(203山上にて)④

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       ↑ 歩兵第25連隊将校団・・・203高地占領記念


【写真解説文】
我が連隊の、大連に上陸せるは、明治37年11月20日。
203高地、東北角の占領せるは、同年12月5日。
北関、松樹山を白襷隊、赤城山攻撃、
203高地の累次戦争で、失える将兵千六百、故山の出でし三千。
認誅強句、日にして其客を失う・・・(←判読不詳の為、意味不明はご容赦・・)
噫(あぁ)!!今日、風霞む山領にて記念撮影する、将校の胸中や如何に。


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        ↑ 歩兵第25連隊・・203高地占領記念



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  ↑ 老君庸付近北軍逆襲前の光景、警備行軍 (第1大隊、第1第3中隊)



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         ↑ 明治38年1月1日占領したる旅順、望台


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     ↑ 旅順、望台の、最後まで我が軍を悩ませた露軍の遺砲



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↑ 重砲兵第3連隊・・24cm加農砲・・・203山上より旅順港湾の艦艇を狙った


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↑ 旅順、沈没した砲艦ポピエダ号、並びに我が軍が壮烈を極めたる閉塞船(遥か前方のマスト等)



● 旅順港口・閉塞作戦・・・広瀬中佐

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↑ 空前の壮挙をとげし、旅順口の閉塞船沈没の光景 (向かって右が広瀬中佐の報国丸、米山丸と露砲艦)

 我が軍は、旅順港入り口の狭小部(旅順口)を閉塞して、湾内のロシア艦隊の外海活動を阻止すべく旅順口の第一次閉塞作戦を明治37年(1904)2月24日に実施した。 (上写真の報国丸はその時のもの)



第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、またもやロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を広瀬少佐が指揮した
広瀬武夫少佐(後に中佐に昇格)は港口に到着、
「福井丸」自沈用の爆発点火に船倉に降りた杉野孫七上等兵曹が帰らず、他の乗員をカッターに移らせ、「杉野、杉野」と杉野上等兵槽を三度に渉り船内に捜したが発見できず、カッターに移乗して離船した瞬間に敵弾が命中、数片の肉片を残して戦死。
その部下を思っての死は「軍神」として伝説化され、国民的英雄となった。

第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、天候不順と陸上砲台からの迎撃で失敗する。

広瀬中佐は数片の肉片を残して戦死と発表されたが・・・
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Мертвый Хиросэ на палубе русского корабляロシア船の甲板に引き上げられた広瀬中佐の屍)  https://snob.ru/profile/5232/print/80975

 後日、福井丸の船首付近に浮かんでいた日本の海軍士官の遺体が、ロシア軍によって発見され、広瀬中佐と確認、栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬されたことが確認されました。
(コメントより小嶋日向守さんからのアドバイスにより補足)

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             広瀬武夫 中佐(1868-1904)


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        ↑ 軍神 広瀬中佐と悲愴なる最後の書簡

軍艦・浅間にて・・・八代大佐殿

指揮福井丸 再赴旅順口閉塞
七生報国  一死心堅  再期成効  含笑上船    武夫


天佑を確信し、再々旅順口閉塞の途に上り申し候。
先回御恵贈の貴影は、亡父の写真と共に収めて「ポケット」にあり、
形影相伴なっての御意に添って一層の成功を期し申し候也。  再拝。

明治三十七年三月十九日    六郎盟兄  広瀬 武夫



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            広瀬中佐遺墨と血染めの海図


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七生報国・・・日露戦役の際、広瀬中佐らの決死隊が、旅順港口の閉塞を試みた時の様子。       松岡 寿 筆

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       旅順口、閉塞作戦の状況     奥瀬 英三 筆



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日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【203高地・・】①

【朝鮮半島をめぐる日露対立】・・・大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシア高宗を通じ売り払われた鍾城鏡源鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年にロシア軍艦対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

 当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。
 大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

 一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。
 戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる


 日露戦争において、旅順攻略は必要不可欠になり、日本陸軍第三軍を編成し旅順要塞を攻撃した。
 203高地は、当初あまり重要視されなかった。
 日本側は観測できる地点は203高地の他にもあり、既に総攻撃前に占領した大孤山から観測射撃を実施していた。
 第一回総攻撃では目標とされなかったが、攻撃失敗後に海軍が旅順港停泊中のロシア艦隊を砲撃する際の弾着観測点として好適であるとして攻略を進言し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった中央の大本営が同調して203高地攻略を支持する。
 大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。
 一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。
 結局12月4日の早朝に日本軍が占領して戦闘は終了した。
 結果的にこの戦いで要塞の予備戦力が枯渇し、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、正面防御線の東鶏冠山保塁二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。 (wikiより)

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○爾霊山(二〇三高地の当て字) 乃木稀典(のぎ まれすけ)作

爾霊山嶮豈難攀 (爾霊山は嶮(けん)なれども、豈(あ)に挙(よ)じ難からんや)
男子功名期克艱 (
男子功名、克艱(こっかん)を期す)
鉄血覆山山形改 (
鉄血山を覆いて、山形、改まる)
萬人斉仰爾霊山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ、爾霊山(にれいさん、二〇三)  


『爾霊山〈203高地〉は要塞堅固で攀じ昇り難いが、男子たるもの功名を立てようとする気持ちで、艱難辛苦にうち克つことを心に期し、突破しなくてはならない。
砲弾と血潮によって山形が変わってしまうほど激しい戦いだった。 万人が皆、この地を仰ぎ見る時、幾多の将兵の勇気と犠牲とを思い起こすであろう。』

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↑ 旅順二〇三高地麓より頂上を望む


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↑ 旅順二〇三高地中腹より頂上を望む


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↑ 旅順二〇三高地の戦跡


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↑ 旅順二〇三高地 苦戦の跡
【碑文】・・『露軍此の地に火砲を焔封んじせしが、日軍の壮烈なる砲撃の為破壊し、遂に土中に埋没せられたり。 孝を○○命じて○○の涙、之を存(ながら)はず。  明治41年5月』 
(露と消えた露軍への弔いの言葉か?乃木の懐旧の言葉か?)(焔封んじ=レンガで封じ固める)


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↑ 鞠家屯に於ける 日本軍28cm榴弾砲 砲撃光況


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↑ 鞠家屯、徒歩砲兵臼砲中隊の砲撃状況


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↑ 二〇三高地付近に於ける我が歩兵の布陣


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↑ 旅順、重砲兵実弾発射の光景


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       (満州に於ける秋季演習)  双台口付近の休憩


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↑ 203高地 露軍戦死の惨状


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↑ 二〇三高地、我が軍戦死者の惨状


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↑ 旅順二〇三高地の頂上・・我が重砲兵隊観測所の位置・・『日本軍重砲兵 観測所之位置』


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↑ 旅順二〇三高地 記念碑々文


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↑  海鼠山占領の高地より見たる旅順港の全景 (203高地方向から)


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【日露戦争の戦跡を見る】・・絵葉書で網羅しています。↓

1.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【203高地・・】
 
2.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【東鶏冠山北堡塁】② 
 
3.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【松樹山堡塁、二龍山堡塁】 
 
4.日露戦役・・203高地攻略直後の・・将校団記念写真・・(203山上にて)④
 
5.日露戦役・・旅順周辺戦跡絵葉書【椅子山堡塁、大案山子山堡塁】
 
6.日露戦役・・旅順陥落・・【水師営の会見】絵葉書
 
7.日露戦役・・【日本海海戦】・・絵葉書
 
8.日露戦役・・【日本海海戦の勇壮な艦船】・・絵葉書
 
9.日露戦役・・乃木大将と戦死した二人の令息・・
 
10.日露戦役・・乃木大将邸・・絵葉書・・
 
11.日露戦役・・乃木大将邸殉死の部屋・・絵葉書・・
 
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