泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年12月

つい先日、「フクシマとチェルノブイリの汚染面積比較地図」が公表されました。

地図が並べられていても縮尺が違うと比較が出来ませんが、この地図では同一縮尺で画かれていて、容易に比較できます。
内容を見ると汚染地域の内、移住必要区域はチェルノブイリも福島でも2色までの筈です。

福島原発事故発生の時期は、北西からの季節風の時期だったがため、この程度の汚染で終わったのでしょうが、東風の吹く台風の接近時などであれば、正に「日本に逃げる場所無し」の状況だったことは容易に判断されますね。

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早川由紀夫の火山ブログ・・・より ↓
 
こうして並べてみると、「あの広大なチェルノブイリの原野と福島では比較にならんじゃろう・・・」と思っていたものが、「そうとは言い切れない深刻なものだなぁ・・・」ということをつくづく感じております。

今後、福島県を中心に「居住可能地域」から、順次除染作業が実施されてゆくのです。
庭の表土をを削り、道路側壁を削り、田畑を削り、森を林を野原を削って行く、気の遠くなる作業が続けられるのですね。




福島第1・・「事故原因と対応」を検証をしてみた・・

 福島原発の事故について「事故検証委員会」が設置され、あらゆる面からあの大事故の検証が為されている状況でしょうが、地震に津波に設備は万全であったかどうか?設備を制御する能力は万全であったかどうか?等の膨大な検証が行われている筈です。
その発表の前に、その『原因が何処にあるか』素人なりにまとめてみました。

 福島原発事故現場で、今に至り不眠不休で事故処理されている諸兄に対して、今更鞭打つつもりはないのですが、私なりに素人の白けた目で、この史上有り得ないような、しかも有ってはならない大事故の原因が何処にあったか・・・を反省してみますと・・・
① 東電の「原発取扱い体制と対応」の不備。
② 安全委員会、保安院ほか原子力学者からの「アドバイス不足」
(ズバリ!・・研究能力、判断能力不足と発信能力不足)
この2点に集約されてくると思います。

① 外部電源引込み線鉄塔が、地震で倒壊・・

 3月11日午後2時46分の地震により、1号機至近の外部電源引き込み高圧線の鉄塔が、基礎部分地盤の崩壊により倒壊した。
 これにより原発4機の外部電源が喪失されたが、直ちに予備電源のディーゼル発電に切り替えられた。
 然しながら、その後襲ってきた約15mの津波によりディーゼル発電機も浸水停止、更に予備電源のバッテリーに至るまで浸水による一時使用不能に至りました。(11日・・15時37分)
 そして地震当日の11日夜から12日にかけて、1号機はメルトダウンし、メルトスルーに至ったのです。

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地盤の崩壊により倒壊した・・外部電源鉄塔

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予備電源を原子炉周辺に設備することに加えて、外部電源の多重化を考えておくことは必須条件ではなかったのでしょうか?
津波対策にも予備電源室などの設計段階からの万全さは無く、充分な検討は為されていませんね。

東電は、それはそれは対策が甘かったのです。

② 非常用復水器(IC)の構造的機能を理解していなかった・・

非常用復水器(IC)は、原子炉内の高圧水蒸気を常時回収して水に変換し原子炉に補給する機能を備えた緊急時の原子炉の空焚き防止装置であるが、非常時にはバルブが自動遮断し循環機能を停止してしまうので、手動で「バルブを開示」する必要がある・・・(マニュアルにあるらしい)

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 非常用復水器は津波のあと、一時的にバッテリー電源が回復したため、稼動状態になったが復水器タンクの強度を心配してか弁を閉じたらしい。(11日18時25分)

 唯一、非常用復水器さえ機能していれば、原子炉内の水の循環により、空焚きも、水素発生も、爆発も無かったことになります。
 あの、はらはらどきどきしながら、全国民が見守っていた3月11日から12日にかけて原子炉は空焚き状態となり、同時にメルトスルー・・以後1号~4号機の水素爆発に至っていったのです。
 12日15時36分には1号機の水素爆発が発生するのですが、この時点であの衝撃波を伴った大爆発の原因が水素漏れであることの認識が、学者でさえ出来ていなかったのです。

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 この非常用復水器(IC)の構造的冷却機能を、現場担当者は全く理解していなかったのです。
 マニュアルには「非常時には自動停止するので、手動で開ける必要がある」とあるが、現場では「非常時に止まるという認識が無かった。循環しているという認識だった」というのである。

 現場では非常用復水器の仕組みを理解していなかった。
 つまり、復水器は動いているという認識で、非常時に止まるという認識を持っていなかったのです。
 早い機会に非常用復水器を循環稼動させていれば、少なくとも水素爆発は免れていたことでしょう。
少なくとも東京電力には・・・
『神の領域の原子力』を人間が取り扱っている・・というおおそれた意識が微塵も無かったのです。
 重大事のマニュアルが徹底されてなく、勿論「訓練」にも想定されることは無かったのです。

↓●参照・・
②蒸気冷却装置を破棄していた・・
  (これは「非常用復水器」のことですが、東電ではこれが実在することを、6月時点把握していない)
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/archive/2011/06/19

②「福島第一原発の安全装置は8年前に外されていた」(原口一博氏の報告)↓

http://news.livedoor.com/article/detail/5605632/ より

【原口一博氏】
これまで当局の発表は「どんなことがあっても原発は安全です」というものでした。
原発の冷却システムを作ってきた、佐賀大学元学長の上原先生が指摘しているように、蒸発系の冷却システムがあれば、電源喪失しても蒸気が出ている限り循環するので安全だったんです。

なのに、事故が起きている。おかしい、「作ったはずの冷却システムはどこにいったんだ!?」となった。
そこで4月3日、私が東電に直接行って、「冷却系の蒸気系のシステムがどこにあるか?」と聞くと、担当者は「ないんです」と言うんです。
ないわけない。作ったんだから。という押し問答の末、原子力安全委員会の議事録を読むと、平成15年の自民党政権の時代に、ECCS(非常用炉心冷却装置)の中の冷却系の蒸発システムが取り外されていたのです。

なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
「ベントするから大丈夫」というんです。
皆さんご存知のように、ベントは放射能を原子炉から出すことですが、「放射能を出すから、安全冷却システムがいらないんだ」という理屈だったようです。これは全く理解できません。
安全装置を取り外さなかったら、このような大災害は起きなかったのではないでしょうか。
少なくとも福島第一原発の「冷却システム」は全て取り外していることが分かりました。

なぜ原子力安全委員会は「最後の砦」を取ったのか、他の原発はどうなっているのかを今、調査しているところです。 
誰かが「取れ!」と進言しているのです・・・

これを見ると・・・・・
水素爆発4発、メルトスルー3発は、起こるべきして起きたのですねぇ・・・】
役立たずの安全委員会と保安院!、その上腰抜け学者は貝の様に、口をつぐんだままですね】


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③ 原子力安全委員長の体たらくと、音無しの学者連中・・

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 ● 斑目委員長は日テレの報道番組で次のように自戒しています・・

「事故を防ぐことに自分自身、全く役に立たなかったと恥じている」

②電源が喪失したときの安全指針について・・・
 「電源が喪失することは無いと書かれている項目を飛ばし読みしたので、書かれていたような気がするが・・・電源があることを前提とした対策しか、指針に書かれていなかったことについては、対策の甘さを露呈している」

③翌日、首相に同行視察したが・・・
  「突然連れて行かれた、事故についての情報も乏しくアドバイスどころではなかった。
事故による4日ほど不眠で、何を喋ったか記憶が飛んでしまっている」
と話した。
官邸で情報が乏しければ「事故対策室へ東電、保安院、安全委員会を集結させて、情報を集約させろ」くらいのことは言えないのでしょうか?

④水素爆発の連続発生については・・・

 「3号機の爆発はテレビで見た。水素爆発だと思った。高温、高圧の状態で時間が経てば、
水素が漏れることを想定できなければいけなかったが、事前にそこまで想い至らなかった」
との事。(知らなかったのです・・・)
 東大教授といえども、この程度の能力ですか?
 意見も言えず、指導も判断も出来ないはずですね・・・

⑤事故後早い段階で燃料棒が溶け落ちメルトダウンが発生し、メルトスルーも起きたと見られている。政府がそのメルトスルーの可能性を公式に認めたのは月(報道は5月)だった。
  内部資料 によると4月12日には可能性が指摘されていた。遅れたことについては・・・
  「4月12日付メルトスルー報告の内部資料は見ている、私も混乱していた。確実なデータにこだわり、遅れたと思われる」と答えた。

 ⑥スリーマイル時の米科学者は、「日本では、NRCのような組織が成り立ちうるのかはわからない。NRCのように原子力規制のプロをもっと育てないと安全は守れない」と話していたが・・・
「私自身、規制のプロではないし、とても判断できない。規制のプロを育てないといけない」
(規制のプロだから「安全委員会」であり「保安院」の役職にあるのではないのか?)

 この国家存亡の時に判断力、実行力のない人間を、この「原子力安全委員長」に選んでいたことは、人災としか言いようが無いですね。

 このような危機管理に対しては、冷静にその対処策を判断できる人が、指示しなければならない筈です。
 原子力安全委員長として「当事者意識が全く無し・・」
の無責任ぶりです。


↓●
 頼りない! 原子力安全委員長に喝!! 

http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/24745610.html

③ 日本の学者は、大人しいのか、自信が無いのか、無関心なのか、勇気がないのか・・・?
ズバリと言える学者が、国内に居ないので、敢えて書きます。

国内の情報では、全く信頼に値しないのです・・・実に情けない!

③    これが【世界に冠たる日本の原子力研究者】の実態でしょう。



  気に成るサイトがあります・・・ 週刊朝日2002年9月20日号配信     ●「福島原発は欠陥工事だらけ」・担当施工管理者の告白

http://www.wa-dan.com/article/2011/03/post-84.php

 ●「東電の対応は適切だったのか?」・・・仏ルモンド紙 水素発生の見落とし・・放水の遅れ・・

http://ameblo.jp/louis323/archive1-201104.html


⑦ 天慶の乱・・大逆臣・平将門の最期・・・


 『一州を取るも処刑され、八州を取るも処刑される、命は一つのみ、何故天下を取らざるや』と、武蔵権守興世王(むさしごんのかみただよおう)の妄言に惑わされて、遂に関八州を侵略し、そればかりか臣下でありながら、下総の石井郷に偽宮を建て、自ら新皇と称し左右大臣を定め、文武百官の制度を設けた平将門(たいらまさかど)は、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の孫として下総の国に生まれ武勇ことのほか優れていた。

若い時から京都に上って摂政・藤原忠平(ふじわらただひら)に仕えていた時、性来の野望を現わし検非違使(けんびいし・裁判所)の役を望んだが、聞き入れられず逆に諭されたので、大いに怒って国に帰り、近隣の国々を攻め、不人情にも常陸の伯父・平国香(たいらのくにか)を攻め殺し、権力は益々盛んになったが、坂東の領主連中は皆反感を抱きながらも、その勢いに圧倒され敢えて抵抗する者は居なかった。

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これを聞いた朝廷は非常に驚き天慶3年(940)、藤原忠文を征伐に差し向けることにしたが、忠文が到着前に既に、反将門の従兄・平貞盛(たいらさだもり)と下野の押領使(おうりょうし・警察任務)藤原秀郷(ふじわらひでさと)等と力を合わせて兵を挙げ、自ら陣頭に立って力戦奮闘して将門を窮地に追い込んだが、勇猛豪胆な将門少しもひるまず駿馬に鞭打ち、六角の大鉄棒を振り回し、当たるを幸い縦横無尽に暴れ回るさまは、さながら夜叉王の再来かと思われ、近寄って組み討ちする者もない有様を見た平貞盛は『おのれ大逆臣将門、父の仇、天誅の一矢受けてみよ・・・』と満月の如く弓を引きしぼりヒョーと放てば、狙い違わず眉間に当たり、さすがの将門も急所を射抜かれどっと落馬して、遂に貞盛に首をはねられた。

ああ、天に二日無しとは真なるかな、彼が大野望も一夜の夢と化し、其の末路は哀れむべきである。

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将門の首塚
・・・東京駅前 丸の内に在る。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/machi/masakado/masakado.html

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【桓武平氏
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悪逆無道の蘇我入鹿(そがのいるか)、遂に抹殺される・・・


蘇我氏は武内宿禰(たけのうちすくね)の子孫で、代々大臣の金職に就いて、皇室の大きな恩恵を受けながら、その権力政治にあるに任せて増長し、入鹿の代に至って凶悪はなはだしく、聖徳太子の御子・山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ)のご人望高いのを妬み、軍を起して大兄皇子のお屋敷へ差し向け、皇子はご自害なされるという、恐れ多い結果となってしまった。

こうして非理非道をも憚からざるのみか、自分の家を宮門(みかど)と呼び、其の子を王子と称させるまでになったが、その厚かましさに誰一人として、手を下して敵対し悟らせる事が出来なかった。

この時、一身を忘れて国家の害毒を除こうと、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は心中かたく誓って、仮病を装い朝廷に出仕せず秘かに策謀をめぐらせて居たが、当時ご聡明の聞こえ高かった中大兄皇子(なかのおうえのおおじ)を中心に宿望を達成しようと、ある日、法興寺の庭で「蹴鞠の会」が開催された機会に皇子に申し上げ、蘇我入鹿を抹殺する・・・ことの賛同を得ることができた。

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機は遂に来た。
皇極天皇の4(645)、三韓進貢式を大極殿に於いて行わせられる際に、蘇我入鹿の座する前に突如、中大兄皇子自ら長槍を持ちたまい、中臣鎌足は弓矢を持ってこれを助け、佐伯子麿(さえきこまろ)は剣を持って立ちはだかり、遂に入鹿は殺害された。

その後、入鹿の父、蝦夷(えみし)も自害し蘇我氏は滅亡して、政権は再び朝廷の元に戻った。
後に、中大兄皇子は、公地公民制、班田収受の法、租庸調の税制などを築いて『大化の改新』としての行政改革をなされた。

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