泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年11月

神功皇后・・三韓を征伐し給う・・・

日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ)ご征伐後、百年経過した仲哀天皇の御世に、再び熊襲が叛いたので、天皇は神功皇后(じんぐうこうごう)をお連れになり、熊襲征伐に九州へ向かわれたが、天皇は筑紫の香椎に於いて病気のためご崩御(ほうぎょ・逝去)されました。
 神功皇后は、熊襲の反乱の黒幕は新羅の後押しがあるものと判断されたので、大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)とご協議の上、西暦201年、天皇の崩御を隠し、当時ご妊娠にもかかわらず、雄々しくも武将の姿を装い、多くの軍船を率いられ、筑紫の松浦より玄海の荒波を乗り越え新羅(しらぎ・朝鮮)へ向かわれました。
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         神功皇后のもとに、新羅王を悔い改めさせた

 堂々たる皇軍集団を見た新羅王は大いに驚き、一戦も交えずして降参して・・・
『たとえ太陽が西より出て、川の水さかさまに流るるとも叛くまじく、毎年貢物を献上つかまつるべし』と申し出で、皇軍の八十艘に金銀財宝を積み献上したので、皇后はこれをお許しになり、以来毎年貢物は献上されるに至った。
 かくて高麗、百済も日本に下り、遂に三韓降伏となり、その翌年仲哀天皇の崩御を発表せられたのである。
 当時の朝鮮は新羅、高麗、百済の三国に分かれていたが、その昔馬韓、弁韓、辰韓に分かれていた頃の名称を取って、三韓と称えるに至った。
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                半島に上陸された神功皇后
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仲哀天皇妃の神功皇后 ↓















日本武尊(やまとたけるのみこと)宝剣を以って危難を免れ給う・・・

 御年30歳を一期として、遂に帝位にも即位給うことなく、世を去り給うた景行天皇の皇太子、日本武尊は九州の反賊・川上梟師(かわかみたける)をご征伐せられて、南国平定の大偉業を建てられたが、その後東国の蝦夷が反乱して皇威になびかず、国を乱すに至ったので、天皇は再び日本武尊に命ぜられ東国を平定せしめられた。

武尊は大和より、途中伊勢の大神宮にご参拝になり戦勝を祈願あそばされたが、その際叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)は、かしこくも神器たる 天叢雲の剣  (あめのむらくものつるぎ)を尊の護身用として授けられたのである。
既にして武尊は東国に進み給い駿河にお着きになった。

ところが土地の悪者どもは、武尊のお人なりが尋常ならざるを見て取り、武尊をあざむき、野にお誘いし不意に四方より草に火を放って武尊を焼き殺そうとしました。

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この時、武尊は直ちに神剣天叢雲の剣を以って草をなぎ払い、燧石(ひうち石)をもって火をつけ給うたところ、風はたちまち賊らの方向に吹き、尊は難を免れ給い賊は却って焼き殺されたのである。
その時以来、三種の神器の一つ天叢雲の剣を「草薙の剣」と称し奉り降魔の御剣として熱田神宮に奉安されている。

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