神功皇后・・三韓を征伐し給う・・・
日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ)ご征伐後、百年経過した仲哀天皇の御世に、再び熊襲が叛いたので、天皇は神功皇后(じんぐうこうごう)をお連れになり、熊襲征伐に九州へ向かわれたが、天皇は筑紫の香椎に於いて病気のためご崩御(ほうぎょ・逝去)されました。
神功皇后は、熊襲の反乱の黒幕は新羅の後押しがあるものと判断されたので、大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)とご協議の上、西暦201年、天皇の崩御を隠し、当時ご妊娠にもかかわらず、雄々しくも武将の姿を装い、多くの軍船を率いられ、筑紫の松浦より玄海の荒波を乗り越え新羅(しらぎ・朝鮮)へ向かわれました。

神功皇后のもとに、新羅王を悔い改めさせた
堂々たる皇軍集団を見た新羅王は大いに驚き、一戦も交えずして降参して・・・
『たとえ太陽が西より出て、川の水さかさまに流るるとも叛くまじく、毎年貢物を献上つかまつるべし』と申し出で、皇軍の八十艘に金銀財宝を積み献上したので、皇后はこれをお許しになり、以来毎年貢物は献上されるに至った。
かくて高麗、百済も日本に下り、遂に三韓降伏となり、その翌年仲哀天皇の崩御を発表せられたのである。
当時の朝鮮は新羅、高麗、百済の三国に分かれていたが、その昔馬韓、弁韓、辰韓に分かれていた頃の名称を取って、三韓と称えるに至った。

半島に上陸された神功皇后
仲哀天皇妃の神功皇后 ↓