泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年09月

 9月27日になって、文部省によるセシウム調査結果が公表されました。
航空機による調査らしいですが、福島県は言うに及ばず宮城県南部、栃木県北部、群馬県、茨城県に及んでいます。
相当な広域にわたる拡がりにびっくりです。
もう、そろそろ収穫の時期でしょうが、発表をこの時期に合わせたのはなぜでしょうか?
収穫時期での公表は、文部科学省も、やること、成すことが遅すぎですよ。

 せめて、作付け前にでも発表しておけば、農家の判断は出来たのでしょうが、この半年の農家のご苦労な努力は報われない事でしょう。

● セシウム134、137の飛散範囲と蓄積量

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【参考】放射能飛散地図

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小碓尊(こうすのみこと・後の日本武尊)、女装して川上梟師を誅さる・・

小碓尊(こうすのみこと)は景行天皇の皇子で、ご幼少より武勇に優れ、
更に眉目秀麗にましまし、ご在世中幾多の武功を挙げさせられ、後に日本武尊
(やまとたける)と申し上げたが、まだ御歳十六歳の時、天皇の命を受け熊襲
(くまそ)を平定されたのである。

 当時、熊襲はその勢い侮りがたく、賊魁・川上梟師(かわかみたける)は力あくまで強く、武力を持ってこれを征伐することは困難と悟られた尊は、ある日梟師が一族を集めて大酒宴を開くとの情報で、恐れ多くも女装に御身をやつし、他の女性らに混じって酒宴の席に参じられた。
梟師は見なれぬ尊のお姿を見て、別に怪しむどころか、かえって自分のそばに呼び、人を遠ざけ得意げに酒を飲んで前後も知らずに酔いつぶれた。
時こそ良しと尊は、隠し持った懐剣を抜き川上梟師(かわかみたける)の胸元に突き刺し給えば、梟師は苦しき息を吐きながら名前を尋ねてきた。

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『我は景行天皇の皇子、小碓尊(こうすのみこと)なるぞ』とお答えになれば、川上梟師はいよいよ恐れ入って『大和には西国一の勇者たる自分に勝る方が居られたか・・・これぞ日本一の勇者に相違ない。今日から後は日本武尊(やまとたけるのみこと)とお名乗りください』と申し上げて死亡した。
川上梟師(かわかみたける)は征伐され熊襲(くまそ)は遂に皇威になびき、日本武尊として凱旋なされたのである。


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すさのをの尊・出雲の簸の川に八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治し給う・・

天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟、素戔鳴尊(すさのをのみこと)は高天原をくだり、出雲の簸(ひ)の川の上流に差しかかれたところ、一軒の家に老夫婦が一人の少女を中に置いて、泣き悲しんでいた。
尊は怪しみ事情をお尋ねになると、老人は『もと八人の娘がありましたが、毎年八岐の大蛇とて八つの頭のある大蛇が現われて、一人づつ呑み、早七人の娘を失いました。それに残りの娘もまた呑まれる時が迫って来ました、それで悲しんでいるのです』と答えた。
尊は荒々しいご性質であったが、同情心の強いお方だったので『それではその大蛇を退治して遣わす』と言われ、
詳しく大蛇の来る有様をお聞きになり、老夫婦に命じて八つの酒桶に強い酒を盛らせ、お待ちになった。


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    すさのをの尊、出雲の簸の川の上流で八頭蛇を退治し給うの図

すると俄かに空がかき曇り、なま臭い風が吹き、大きな音を立てて大蛇は恐ろしい姿を現し、八つの酒桶に頭を一つづつ入れて、したたかに飲んで酔いつぶれた。
尊はお腰の十握剣(とつかのつるぎ)を抜き、ずたずたにお切りになると、尾の方でカチッという音がして剣の刃がこぼれたので、尾を裂いてご覧になると、一振りの剣が現われ、その上には常に雲気が漂っていたので、尊は天照大神に献じ
天叢雲剣あめのむらくもの剣)と称し三種の神器の一つとされたのである。

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① 汚染マップ最新版(9/11)    

 群馬大学・早川由紀夫先生の汚染マップ9月11日版です。
この地図は、2011年3月に地表に落ちた放射性物質が、そのままの状態で保存されている場所の現在の放射線量を示しています。
芝生などの草地で測定される数値に相当します。
アスファルト道路は、放射性物質が雨で流されたため、この地図に示した数値の4割程度が測られるのが普通です。
一方、流された放射性物質が集積している雨どい・軒下・側溝などではこの地図より何倍も高い数値が観測されます。


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② 2011年・コメのセシウム検出地 

黄風船セシウム検出。
青風船セシウム検出なし。栃木県・茨城県・千葉県にはセシウム検出なし
(青風船)の報告が多数あるがいくつかを除いて省略した。


http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-419.html より引用・・

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あの保安院が、メルトダウンを震災当日に予測していた・・だと?

 福島原発1~3号機は、最悪の場合3月12日未明に炉心溶融(メルトダウン)が始まるとしていた内容の報告書を作成し、官邸の窓口に保安院職員を通じて渡したが、説明はしておらず、どう活用されたかは不明との事で無責任極まりない。

半年もたって急に「保安院」が公表した理由は明らかにしなかった。
保安院によると解析は独立行政法人原子力安全基盤機構に依頼。
同機構は原子炉への注水が止まり冷却できなくなった場合、炉内の状態がどう変わるかを「緊急時対策支援システム(ERSS)」で計算した。
保安院は資料を3月11日午後10時に作成した・・・とのことだ。

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 同資料によると、11日午後10時50分に燃料棒が冷却水から露出すると予測。
同11時50分に燃料の被覆管が破損し始め、12日午前0時50分に溶融が始まるとした。

同3時20分に原子炉格納容器が設計上の限界圧力に達してベント(排気)が必要になり、放射性物質が外部に出ると予測した。
 保安院によると資料は3月11日午後10時44分、12日午前0時17分の2回、官邸危機管理センターからアクセスできる電子フォルダーに入れた。
 官邸にいた保安院職員が印刷して担当者に渡したが、内容の重要性を説明した形跡はないという。

 最悪の場合、3月12日未明に炉心溶融(メルトダウン)が起きうるとしていた。
官邸の窓口に保安院職員を通じて渡したが説明はしておらず、どう活用されたかは不明という。
 事故調査・検証委員会の調査で焦点の一つとなりそうですね。
今になって「言い訳の小細工を始めたな・・・」という感じがしてなりません。

当初、あれだけのご託を並べて、水素爆発3発後でさえ「チェルノブイリはレベル⑦ですが、福島第1ではレベル④と判断しています。今後安定冷却へ向かうよう努力してもらっています」と「メルトダウン必至」を知っていた連中が、のうのうと会見で喋っているのは許されないことです。

 それにしてもこの時期マスコミは何をしていたのでしょう?
誰かが言ってました・・・
 マスコミっていうのはね、記者クラブで発表モノを書いておしまいなの。
 最近は調査報道もぬるいしな・・・ていうか、できない記者が多いし、あとテレビに言えることだが、「金と時間がかかるワリには、視聴率が取れない」という話がある。
 だから、そんな連中に期待しても無駄なんだよ。

(1号機メルトダウンの報道は、2ヶ月後の5月12日が初日)


日経の報道↓
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819481E2E0E2E7918DE2E0E2EBE0E2E3E39797E0E2E2E2
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大和地方御平定の神武天皇

 祖父ちゃんが残してくれた、昭和10年5月発行の「国史画帖・大和桜」です。
 表紙は緞子張りで、新品の時の美しい輝きを今も醸し出しております。

 内容は・・・
 「大和地方ご平定の神武天皇」「神功皇后三韓を征し給う」から「白雪血に染める桜田門外の変」までの合計62編の歴史画が編入されております。


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           神武天皇東征の図


 人皇第一代、神武天皇は(うがやふきあえずの尊)の御子にて(神日本盤余彦尊・かんやまといわれひこの尊)と申し、頗る英邁なお方で、お兄皇子がおわすにも拘わらず皇太子に立たせられた。
 その頃、九州地方は天孫(ににぎの尊)より三代日向に都せられし為、皇恩あまねきわたったが、大和地方はご威光が及ばぬため、悪者がはびこって悪事を働いていた。
 尊は神勅に答えて天慶を邂逅し、草民を安撫しようと皇兄(五瀬命・いつせのみこと)と共に、海路数年を経て浪速に上陸遊ばされ、大和に向かってご進軍なったが、賊の頭目(長髄彦・ながすねひこ)の頑強に抗するに遭い(五瀬命)は賊の流れ矢に当たり戦死された。

 そこで尊は止む無く御舟にて紀伊の熊野にご上陸、千古の老樹生い茂る中を八咫烏(やたからす)がお導き申して吉野の川筋に無事着き給うた。
ここで
幾多の賊共を降して、大挙(長髄命)を征伐に進まれ、この激戦の最中、一天俄かにかき曇り、黒雲天を覆い、風荒れたおりから、一羽の金色の鳶が飛び来たり御弓の上に止まった。
その燦燦たる光に賊どもはたちまち目がくらみ、戦う力を失い降伏した。
ここにおいて大和地方は、ことごとく平定せられ、尊は橿原の新宮で(天津日嗣・あまつひつぎ)の御位につき給うたのである。イメージ 3




























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 ↓ 国史画帖「大和桜」の序文と内容目次
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