泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2011年01月

 陸軍徴用船「龍興丸」(2,692総トン、大阪商船)は、昭和19年1月14日、護衛艦1隻とともに、シンガポールを出港し、アンダマン島ポートブレアーに向かった。
 
 之字運動を実施して航行中、翌日15日3時29分、北緯10度50分、東経93度00分(小アンダマン島東方約26マイル)の地点で、船尾第4番艪左舷側に、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
 爆発と共に浸水はなはだしく、沈没は免れない状況となったため、直ちに総員退船、3時34分、同船は船尾より沈下、船体を直立させながら沈没した。戦死者計9名
 
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 雷撃により、火柱を上げる本船

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大阪商船・・龍興丸



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機密書類を守る「龍興丸」の吉田事務長。
書類を抱えたまま船体と共に沈んだ同事務長は、その後奇跡的に浮上し救助された。
 

 海軍徴用船「護国丸」(10,439総トン)は、 昭和19年(1944)9月16日海南島を出帆、他の輸送船2隻と共に門司に帰る途中の20日、馬公付近で中国内陸基地発進の米機B-25の空襲を受け、4番艙左舷と左舷プロペラを損傷、右舷機のみの11ノットで高雄、基隆に寄港、基隆で仮修理の後、駆逐艦「響」に伴われて11月7日出航して11ノットで北上しました。

 そのうち「響」に赤痢患者が多数発生して護衛任務が遂行不能となり、佐世保に先航したため護国丸のみの航海となり、古志岐島灯台沖を航行中の11月10日3時40分、魚雷2本が機関室と2~3番艙に命中、大音響で炸裂しました。
本船は忽ち30度左傾、発電機、無線機が破壊されて船内は暗黒、遭難信号も打てない状態になりました。

立ち往生する護国丸の孤影を見て、大胆になった米潜水艦「ハーブ」が、3時55分、突然、右舷前方に司令塔を現しました。
船砲隊が傾いたデッキから射撃に移ると、潜水艦は直ちに姿を消したが、数分後、深手を負った船に真横から狙いを定めた魚雷1本が4番艙に打ち込まれました。

輸送指揮官・水野孝吉大佐は全員に「天皇陛下万歳」を奉唱させて退船を命じ、
乗組員は舷側より暗夜の海中へ飛び込んだ。
 4時06分、護国丸は船首を直立させて暁闇の東シナ海(北緯33度31分、東経129度19分)に海没しました。
輸送指揮官以下の兵
員47名、台湾からの特別志願兵など217名、及び乗組員60名が戦死しました。
 
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魚雷攻撃を受け水柱をあげる「護国丸」
 
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 前後部に銃座が増設されている。               迷彩色を施された護国丸の遠望。
 
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  在りし日の護国丸
 

つい10日前、HONDAの開発したジェット機が、初飛行したという記事が新聞を賑わしましたね。

その原点は、本田宗一郎氏が50年前に飛行機用
HONDA倒立V型8シリンダーエンジン』を開発した・・に端を発しているのです。

先日1222日の新聞に「宗一郎氏の夢のせて・・ホンダジェット初飛行。創業者本田宗一郎氏が航空機事業に参入を表明した1962年から約50年を経てようやく実現への道を踏み出した・・・」とあります。

 
 特徴は、主翼から後ろ上部に突出したウイングにエンジンが装着されている・・・(B-52爆撃機などは主翼から吊り下げ式)
 
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 【you tubeで見る↓】


 
当時HONDAは宗一郎氏の指揮のもと、飛行機用HONDA倒立空冷V型8シリンダーエンジン」を開発したことで、運輸省、通産省、朝日新聞社の協力を得るべく奔走したのでしょう。

昭和37年(1962)1月の年頭早々、朝日新聞紙上に『ホンダエンジンを載せた軽飛行機の設計募集』を打ち出したのです。

(主催)朝日新聞社 (後援)通商産業省、運輸省 (協賛)本田技術研究所
一席(1名)【賞状】通産大臣杯、運輸大臣杯、村山杯、【副賞200万円】
次席(4名)【賞状】  【副賞5万円】
佳作(10名)【賞状】【副賞1万円】

・・(新入社員就業6年目、未婚の私、給料が18,000/月の時代でしたよ)
 
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  小学2年生の頃、グラマン、カーチス等の艦載機や、B24B29の空襲に苛まれ、松山城北練兵場で身近に眺めた海軍戦闘機等の影響か、飛行機に興味を持っていたものですから「チャンス到来!応募するぞ!」とばかり、5月〆切までの間、情熱を注ぎ込んだのです。
 
当時は週休1日の時代、遊び盛りのこの時期に、友人そっちのけで日曜も春爛漫も返上で、「航空力学教程」の参考書を片手に設計に没頭したのです。

それほど迄に集中して情熱を注ぎ込んだのは、学生時代を含め始めてのことでした。

 藁半紙に下書きして構想を練り、仕上げてゆく作業の連続でした。
雲形定規や線引き用烏口を片手に、トレーシング・ペーパーに3面図と仕様書を書き写して仕上げ、〆切に間に合うよう応募しました。


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応募した作品には参加賞として「記念メタル」が送付されて来ました。
ずっしりと重い直径80mm、厚さ3mm、ビロード化粧箱入りの「燻し銀メタル」です。


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枚の写真に「メタル」の表と裏の写真・・・そうです、参加作品1点ごとに1枚届いたのです。
  「単発低翼機」「単発高翼機」「双発高翼機」「双発低翼機」の4機の図面を応募したのです。
 
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メタルの・・・
●表面には・・[DESIGN COMPETITION  LIGHT PLANE  1962]とあり「ライトの複葉機とコンパス」の絵。
 ●裏面には・・「軽飛行機設計募集 参加記念」  (主催)朝日新聞社 (後援)通商産業省・運輸省 (協賛)本田技術研究所
 
主催者側で、応募予想は450件くらいと見ていたようですが、思いのほか応募があり、用意していた参加賞を急遽追加発注しなければならなくなったと新聞報道されたりしていました。
最終応募総数は[2,289件]であったと7月14日の新聞に「入選発表記事」と共に掲載されました。
私の傑作は、佳作にも入選せず!・・・の結果でしたが、なんと多くの日本の若者達が、私と同様にこの期間、情熱の火を燃やし続けたことか・・・が伺える次第だったのです。
 

ただ、残念なことには、入選作品が何処ででも見られるようなオーソドックス過ぎる機体に終始していることと、この入選作品の試作機は作られたのでしょうが「ホンダエンジン」を搭載して空を飛んだというニュースが今日まで報道されていないことなのです。

 そういう意味で「ホンダ・ジェット機の初飛行」は50年振りの、執念の成果だと言えるでしょう。

50年も前に、この壮大な計画の一端に協力した者の一人として、感慨深いものを感じております。

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【参考】↓
 
 
 
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