泰弘さんの【追憶の記】です・・・

大東亜戦争前後の遥かに遠い遠い・・子供の頃を思い出して書いております・・

2010年12月

 昭和8年か9年か、父が内子警察署に赴任した頃は、祖母タキノの話しによりますと、前述した「五要旅館」(写真は前記事)に下宿していたようです。
 北予中学校(現・松山北高)を卒業して、警察官としての教練を受けての配属ですから、若気の至り・・・の浮名を流したことでしょう。
 【参考】父は北予中学校を卒業して警察官に・・・
 
 数年のうちに内子勤務にも慣れてきて、 内子町 郷の谷の下駄屋の大将、森並忠兵衛(祖父)と酒好きの二人、意気投合したのです。
 酒の席で「わしの娘をどうじゃ・・・」とすすめたとか、お見合いをさせたとか・・・
 結婚式は昭和11716日、これは父泰山の母親・浦子が、私の誕生日をいつも間違えて教えてくれていたので記憶に残っているのです。
 多分「五要旅館」で挙式したのでしょう。
 祖母タキノも「結婚式は、そりゃ~暑い日じゃったぜ~。夏なんかに、挙式するもんじゃないわい・・・」と口癖のように言っていました。
 
 身を固める少し前、内子警察署を拠点とした駐在所勤務が始まったようです。
 結婚前は、鹿野川や卯之町駐在所にも勤務していたと、祖父ちゃんが言っていたことがあります。
 昭和12年には大瀬村駐在所、昭和14年には天神村駐在所勤務でした。
 
 昭和28年頃、天神村の映画館「天神館」の若社長・宮崎さんが、 内子町 に映画館「本町劇場」を作られてから、私は高校時代にアルバイト先「辻ビラ書き」として勤めたのですが、宮崎さんは「天神駐在所におった、男前の福島はんの息子かぁ~」と父のことを覚えていました。 
(バイト料¥1,000/月、高校授業料¥750/月でした)
 人の出入りの多い芝居小屋巡回は、警官の立ち入りも頻繁だったのだと思えます。
 また、高校の宇都宮正弘先生の姉さんが、その本町劇場の木戸番をされていたので「福島さんの息子かえ~、うちとこ警察の隣じゃけん、よぅ知っとらい・・・」と、結構大事にしてもらいました。
 
 内子町、大瀬村駐在所から母の郷里、祖父ちゃんの元へ出した「暑中見舞い状」が残っております。
 私が生まれて3日目に出した葉書・・・「母子共に元気」の添え書きがしてあります。
 そうなのです、私728日に産婆さんの介添えのもと、大瀬駐在所で誕生したのです。
 
 ただ、葉書だけで記事にも出来ず、せめて駐在所の写真でもあれば・・・と思案していたのですが、大瀬村の古い写真帳は手元に有っても、駐在所の場所が判明せず、建物の特定に悩んでいました。
 悩んだあげく「まっしゃんブログ、谷間の村」の大瀬のまっしゃんに「駐在所の写真を写して記事にしてほしい」旨の無茶なお願いをしたところ、その日に記事が掲載され、やっとのことで場所の確認をすることができました。 親切な内子の御仁の心が伝わってまいります。
 
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 本郡  内子町   森並 忠兵衛 
                     暑中御見舞い申し上げ候   盛夏 
                      喜多郡 大瀬村  福島 泰山
                     「母子共に元気ですから御安心下さい」
 
祖母タキノは「手伝いに行ったんぜ・・・」と言っていましたので、留守を預かる忠兵衛に伝えたものでしょう。
 
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    誕生7~8ケ月目くらいでしょうか・・・       
                             父(28歳時)と私

親戚の人でもなく、大瀬の産婆さん?に私が抱かれて、
横には駐在所の近所の懇意な親子さんでしょうか?
大瀬の人に聞くしか術は無いのです。(女の子の後ろに「もろぶた」が干してある)
 
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  昭和37年(1962)までの大瀬小学校と大瀬駐在所(○印寄棟平屋)
  この平屋建て駐在所で、不肖私は生まれました。
 
  大江健三郎はこの学校に学び、芥川賞の『飼育』の舞台もこの周辺となります。


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      昭和41年頃(1966)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印寄棟平屋)

 
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   昭和46年頃(1971)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印切り妻平家)

 
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   昭和60年頃(1985)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印切り妻平屋)
 
 
 
  現在の大瀬小学校と大瀬駐在所 (○印切り妻2階建て)
 
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      現在の大瀬駐在所 (旧国道よりの眺め)

 現在の写真は「まっしゃんのブログ・・谷間の村の駐在所」からご提供戴いたものですが、内子町大瀬は大江健三郎さんの育った郷里なのです。
 谷間の村、大瀬の美しい風光と生活風景は下記をご覧ください・・・
        ↓




保存保存保存保存

天上に38センチ砲弾を頂いた、内子町竜王城址にあった忠魂碑。

 高さ10数メートル、鈴木荘六陸軍大将の揮毫による「忠魂」の文字の入った石盤が埋め込まれておりました。
昭和10年3月に「日露戦役三十周年」を記念して、周辺町村で建立されたものです。

忠魂碑の立つ丘は、内子町内から近くに見える丘に在り、忠魂碑の白い塔も町内から容易に眺められておりましたが、登山口が町外れの斎場周辺を通る道だったので、参詣者も限られておりました。

私が小学上級生の頃、内子小学校から引率されて「忠魂碑」周辺の清掃をするため、数回参詣したことがありました。
町内から遠目に見えていた、白い忠魂碑を初めて間近に見て、私はその雄大さに圧倒されたのでした。


  初めて見る大砲の砲弾が天を仰いでいるのです。
 人々が崇め奉ったこのような記念碑は、いくら時代が変わろうとも、永遠に残されるものと思っていました。
 
 江戸末期から明治初期にかけての、白壁の町並みを残す内子町が、国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されたのが、昭和57年(1982)でした。

 内子町内ではそれまでに、古い由緒ある建造物が次々と解体されていました。
 五要旅館、平常旅館、二宮病院、乾繭倉庫などでしょうか。(一部写真掲載)
泰平旅館(3階建)も内子小学校も昭和40年頃まで残されていたでしょう。
 「忠魂碑」が改築されたのが昭和47年(1972)だったそうですから、10年早かったのですね。
 それと「大砲の砲弾が、天上に崇められている」と云うのも、問題にする人が一部有ったのかも知れません。

 町民が「古い建造物の歴史的重要性」に目覚める10年前のことだったのですね。

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      昭和47年(1952)まで竜王城址に残っていた内子の「忠魂碑」


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 正に、この姿が昭和47年まで残っていた内子の「忠魂碑」です。


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       「忠魂碑」の正面に掲げられていた碑銘石盤」
        陸軍大将 鈴木荘六の揮毫です。
 
 ②の記述にあるように、今年(平成22年)10月に同窓会が有ったものですから、参加の傍ら、調査して参りました。
白い「忠魂碑」の碑銘が、新しい「慰霊塔」の横にひっそりと残されていました。


寸法を記入しておりますが、それはそれは巨大な石盤です。
○印が私の帽子です。

横100cm、高さ250cmの石盤に、鈴木荘六 陸軍大将書の「忠魂」の文字と、帝国陸海軍の章が彫り込まれております。

  碑銘は「白御影石」、額石は「赤御影石」ですが、額石の上部以外は解体時に粉砕破棄されたものと思われます。
「忠魂」の文字も、解体時に荒っぽく扱われたものと思われます。
「忠」の字の中の部分、「魂」の字の田の部分、「鈴木」の木の部分が欠損しておりました。
 丁寧に、丁寧に取り外されたものならば、ここまでの破損はなかったであろうと思えます。
 破壊してみて瓦礫の中から、かき集めたように見えてきました。

 でも「38センチ砲弾」こそ残っておりませんが、この「忠魂」の碑銘だけでも残されたことは、有り難いと思わなければならないと感じております。
 多くの先人たちや、町民の親族が祈り・・・念じた「碑銘」なのです。

 白い「
忠魂碑」の塔は②で前述した通り、「内子の小僧さん」の調査によりましたら、昭和47年12月に立て直されたようです。

 内子町に在住の母の妹(叔母)登志姉ちゃんに問うてみると・・・
 「忠魂碑の扉の中に、ウチの勇雄さんや貴方らのお父さんの写真も全員祀ってあるよ。
 雨が染み込んで濡れとるそうじゃから、だいぶ前に造り直したのよ・・毎年、遺族は周辺の草引きや掃除に行っとるけんな」とのことでした。


 あれだけ頑丈なコンクリート造りの、永久に奉られるべき建造物・・・
 鉄扉で密閉された英霊写真・名簿収納室は、雨漏れではなく・・・ただの「結露」ではなかったのでしょうか?

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グーグルの航空写真で前回判断した内容では、在るべき所に「白い忠魂碑」が建っていると見たのですが、今回の10月の確認作業では、そこにあったのは下の写真の「休憩棟」でした。
 正に、この石垣の上に「白い忠魂碑」が建っていたのです。

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         昭和47年に建立された現在の「慰霊塔」


これも忠魂碑と同様、コンクリート造りの建造物、鉄扉で密閉ですので、中は「結露」による雨漏れ状態だろうと思います。
素人目にも、水浸しは見え見えです。
この塔の右後方に「忠魂」の石盤がひっそりと残されております。


●この「慰霊塔」内部の「英霊写真」サイトが有ります・・・
まっしゃんブログの「谷間の村」です。
http://blogs.yahoo.co.jp/stockcrusaders/archive/2012/03/26


「まっしゃん」(大瀬本町の島崎さん)は2012年9月、八幡浜港に於いて不慮の事故に遭われ、亡くなられました。心からご冥福をお祈り申し上げます
you tube・・・忠魂碑内部の様子です。 ↓ 

最終画像に・・私の父と叔父の写真も写っていました・・)
        戦場に散った英霊に捧ぐ(2)↓


戦場に散った英霊に捧ぐ(1)↓


↓ 在りし日の五要旅館
イメージ 5江戸末期から明治初期にかけての、白壁の町並みを残す内子町が、国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されたのが、昭和57年(1982)でした。
 
内子町内ではそれまでに、古い由緒ある建造物が次々と解体されていました。
 
五要旅館、泰平旅館、平常旅館、二宮病院、内子小学校、乾繭倉庫などでしょうか。
「忠魂碑」が改築されたのが昭和47年(1972)だったそうですから、10年早かったのですね。
 町民が「古い建造物の歴史的重要性」に目覚める10年前のことだったのですね。
↓ 在りし日の平常(ひらつね)旅館(3階建て) 
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  ↓内子7区にあった二宮病院
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「内子にあった忠魂碑は今・・②」で写真等の取材に、快くご協力戴いた「内子の小僧さん」(村前在住?)に心よりお礼申し上げる次第です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 陸軍徴用船「ありぞな丸」ソロモン海での最期・・・
 
 陸軍徴用船「ありぞな丸」(9,684総トン)は、昭和17年11月12日兵員、弾薬、糧秣などを積み、輸送船11隻、護衛艦11隻と船団を組んで、ショートランド泊地からカダルカナル島のエスペランス泊地に向かった。
 翌13日護衛艦の指示により、いったんショートランド泊地に戻り、翌日再び同地を出発、目的地へ向かった。
 
 しかし翌14日午前5時40分頃、敵機に発見され、空爆を巧みに回避しながら航行を続けていたが、同日午後1時44分、ラッセル島の北北西22マイル、南緯8度45分、東経159度0分の地点で、右舷右手から敵戦闘機4機の急降下爆撃を受け、右舷機関室に致命的な損傷を受けた。
 間もなく浸水の為、主機運転不能におちいり、沈没の恐れが出てきたため、船長は同2時52分、総員退船を命じた。
 同船はその後、積載爆薬や高射砲弾に誘爆、全船猛火に包まれ炎上した。
 
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大破した本船より脱出する「ありぞな丸」乗組員
 
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OSK Line [ありぞな丸]
 
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[ありぞな丸]
 
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ニューギニア東方海上、ソロモン諸島
 

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