昭和8年か9年か、父が内子警察署に赴任した頃は、祖母タキノの話しによりますと、前述した「五要旅館」(写真は前記事)に下宿していたようです。
北予中学校(現・松山北高)を卒業して、警察官としての教練を受けての配属ですから、若気の至り・・・の浮名を流したことでしょう。
【参考】父は北予中学校を卒業して警察官に・・・
数年のうちに内子勤務にも慣れてきて、 内子町 郷の谷の下駄屋の大将、森並忠兵衛(祖父)と酒好きの二人、意気投合したのです。
酒の席で「わしの娘をどうじゃ・・・」とすすめたとか、お見合いをさせたとか・・・
結婚式は昭和11年7月16日、これは父泰山の母親・浦子が、私の誕生日をいつも間違えて教えてくれていたので記憶に残っているのです。
多分「五要旅館」で挙式したのでしょう。
祖母タキノも「結婚式は、そりゃ~暑い日じゃったぜ~。夏なんかに、挙式するもんじゃないわい・・・」と口癖のように言っていました。
身を固める少し前、内子警察署を拠点とした駐在所勤務が始まったようです。
結婚前は、鹿野川や卯之町駐在所にも勤務していたと、祖父ちゃんが言っていたことがあります。
昭和12年には大瀬村駐在所、昭和14年には天神村駐在所勤務でした。
昭和28年頃、天神村の映画館「天神館」の若社長・宮崎さんが、 内子町 に映画館「本町劇場」を作られてから、私は高校時代にアルバイト先「辻ビラ書き」として勤めたのですが、宮崎さんは「天神駐在所におった、男前の福島はんの息子かぁ~」と父のことを覚えていました。
(バイト料¥1,000/月、高校授業料¥750/月でした)
人の出入りの多い芝居小屋巡回は、警官の立ち入りも頻繁だったのだと思えます。
また、高校の宇都宮正弘先生の姉さんが、その本町劇場の木戸番をされていたので「福島さんの息子かえ~、うちとこ警察の隣じゃけん、よぅ知っとらい・・・」と、結構大事にしてもらいました。
内子町の奥、大瀬村駐在所から母の郷里、祖父ちゃんの元へ出した「暑中見舞い状」が残っております。
私が生まれて3日目に出した葉書・・・「母子共に元気」の添え書きがしてあります。
そうなのです、私7月28日に産婆さんの介添えのもと、大瀬駐在所で誕生したのです。
ただ、葉書だけで記事にも出来ず、せめて駐在所の写真でもあれば・・・と思案していたのですが、大瀬村の古い写真帳は手元に有っても、駐在所の場所が判明せず、建物の特定に悩んでいました。
悩んだあげく「まっしゃんブログ、谷間の村」の大瀬のまっしゃんに「駐在所の写真を写して記事にしてほしい」旨の無茶なお願いをしたところ、その日に記事が掲載され、やっとのことで場所の確認をすることができました。 親切な内子の御仁の心が伝わってまいります。


本郡 内子町 森並 忠兵衛
暑中御見舞い申し上げ候 盛夏
喜多郡 大瀬村 福島 泰山
喜多郡 大瀬村 福島 泰山
「母子共に元気ですから御安心下さい」
祖母タキノは「手伝いに行ったんぜ・・・」と言っていましたので、留守を預かる忠兵衛に伝えたものでしょう。


誕生7~8ケ月目くらいでしょうか・・・
・ 父(28歳時)と私
親戚の人でもなく、大瀬の産婆さん?に私が抱かれて、
横には駐在所の近所の懇意な親子さんでしょうか?
大瀬の人に聞くしか術は無いのです。(女の子の後ろに「もろぶた」が干してある)

この平屋建て駐在所で、不肖私は生まれました。
大江健三郎はこの学校に学び、芥川賞の『飼育』の舞台もこの周辺となります。

昭和41年頃(1966)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印寄棟平屋)

昭和46年頃(1971)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印切り妻平家)

昭和60年頃(1985)の大瀬小学校と大瀬駐在所(○印切り妻平屋)
現在の大瀬小学校と大瀬駐在所 (○印切り妻2階建て)

現在の写真は「まっしゃんのブログ・・谷間の村の駐在所」からご提供戴いたものですが、内子町大瀬は大江健三郎さんの育った郷里なのです。
谷間の村、大瀬の美しい風光と生活風景は下記をご覧ください・・・
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